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2015年6月の4件の記事

2015年6月28日 (日)

【時習26回3-7の会0554】~「今夏【2637の会】クラス会について《続々報》」「『奥の細道』第6回‥『末の松山』『鹽竈(しおがま)』『松島』『石巻』『平泉』‥」「06月13日:愛知県美術館『片岡球子』展を見て」「06月13日:愛知県芸術劇場concert hall『ロッシーニ作曲/歌劇 セビリアの理髪師』を見て聴いて」「06月14日:ライフポートとよはしconcert hall『秋山和義指揮/豊橋交響楽団 第116回 定期演奏会』を聴いて」「06月26日:ミニミ【1-4】クラス会開催報告」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 さぁ、今日も【2637の会 0554】号をお送りします。

■先ず最初の話題は、「今夏【2637の会】クラス会について」の《続々報》です。
 06月11日付の前《会報》にてご案内してからのresponseは前《会報》と同様ありません。
 特段ご意見を頂戴していないので、クラス会開催要領は、以下の通りにさせて頂きます。

             記
 1.開催日時:2015年08月15日(土) 18時00分~
 2.開催場所:トライアゲイン〔開発ビル 地下1階 ☎ 0532-55-0255〕
 3.会  費:実費〔4,000円程度〕

 「クラス会」の出欠案内用mailは、別途classmatesの皆さん宛に配信させて頂きます。
 奮ってご参加下さい。
 皆さんからの朗報をお待ちしています。

■さて続いての話題は、「松尾芭蕉 作『奥の細道』の今日はその第6回目。
 元禄二(1689)年 五月八日(新暦06月24日/「仙台」発)~五月十三日(新暦06月29日/「一関(06/28)」→「平泉(06/29)」→「一関(06/29)」)にかけて六日間の芭蕉一行の話である。

 五月八日(新暦06月24日) 仙台 国分町 大崎庄左衛門宅を出発して東北東へ14km程の所にある多賀城の『壺碑(つぼのいしぶみ)』を見た
              其処から、南南東へ4km余りの『沖の石』、そして其処から北へ数百mの所にある『末の松山』を訪れた
              ついで、芭蕉一行は、更に東北東へ6km余りの所にある鹽竈(塩竈)の塩竈浦へ
              その日は塩竈の〔治兵衛宅〕に泊す
 五月九日( 同 06月25日) 松島〔久之助宅〕に泊す
  同 十日( 同 06月26日) 石巻〔四兵衛宅〕に泊す
  同 十一日( 同 06月27日) 登米(とよま)〔検断庄左衛門宅か?〕に泊す
  同 十二~十三日( 同 06月28~29日) 一関〔宿記載なし〕に2泊す

 前《会報》の『奥の細道』第5回にて『壺碑(つぼのいしぶみ)』迄お伝えした。
 従って、今回の第6回は『末の松山』からお伝えするが、本紀行文の流れとしては、『壺碑』から『末の松山』にかけては一緒にお話すべきだった。両所とも多賀城市内の近くにあるからだ。

[01]壺碑
 01

[02]沖の石(おきのいし)〔興井(おきのい)〕
 02

[03]「末の松山」のある寶國寺
 03

[04]末の松山
 04

【末の松山(すえのまつやま)】(注1)
《原文》
 それより野田の玉川(注2)・沖の石(注3)を尋ぬ。
 末の松山は寺を造(つくり)て末松山(まつしょうざん)といふ。
 松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契(注4)の末も、終(つひに)はかくのごときと、悲しさも増(まさ)りて、塩がまの浦に入相(いりあひ)のかね(注5)を聞(きく)。

《現代語訳》
 それから野田の玉川(注2)・沖の石(注3)など「歌枕」の地を訪ねた。
 末の松山には寺が造られていて、末松山というのだった。
 松の合間合間はみな墓の並ぶ原で、(白居易(772-846)の)長恨歌(注4)に翅を交し枝を連ねと詠んだ男女の契りの末もこの様になるのかと、悲しさがこみ上げて来た。
 塩竈の浦では入相の鐘(注5)が聞こえた。

 (注1)末の松山:「歌枕」/「沖の石」のある場所から北へ数百mの所にある寶國寺の境内にある

    君を置きて 仇(あだ)し心を 我が持たば 末の松山 波も越えなむ (古今集 大歌所御歌(おおうたどころおんうた))
   【意】あなたを指し置いて他の人に心を移すようなことがあったとしたら、末の松山を波も越えてしまうことでしょう

    契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波こさじとは  清原元輔(-)(後拾遺集)〔小倉百人一首42〕
   【意】約束したことだったよ。互いに涙を濡らした袖を絞っては、末の松山を波が越さない様に二人の心が変わらないということを

【小生comment】
 この元輔の歌で思い出すのは「【千年に一度大津波の‥】東日本大震災」である
 この歌が詠まれる前の貞観11(869)年 陸奧国で大地震が発生、多賀城国府近く迄大津波が襲って来た
 日本三代実録(10世紀初刊行)によると、当時、多賀城国府の建物や街は地震と津波にの為に1千人以上が犠牲になった
 が、『末の松山』は、標高10m程の小山乍ら、津波に飲み込まれなかった
 これが都人に伝わり、『末の松山』は、「波が越さない場所=破ることのない堅い約束‥→男女の契り」を表す『歌枕』になった
 事程左用に、故事は教訓を正しく伝えてくれていることも多いと痛感する

 (注2)野田の玉川:「歌枕」/壺碑より東へ2km、多賀城市と塩竈市の境を流れる小川

    夕されば 汐風こして みちのくの 野田の玉川 千鳥鳴くなり  能因法師 (新古今集)
    【意】夕方になって潮風が越してくると、千鳥が鳴くという、みちのくの野田の玉川だ

 (注3)沖の石:「歌枕」/多賀城市八幡にある/野田の玉川と共に仙台藩第4代藩主 伊達綱村 時代に整備された

     我が袖は 汐干(しほひ)に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし  二条院讃岐(千載集)〔小倉百人一首92〕
    【意】私の袖は、引き潮の時にも海中に隠れて見えない沖の石の様に、人は知らないでしょうが、涙に濡れて乾く間もないのですよ

 (注4)長恨歌:前漢の武帝の名を借りた唐の玄宗皇帝の治世後半に起きた安史の乱等の一連の事件を描いている
    楊貴妃とのラブロマンスを主題に描いた120句840字に及ぶ七言古詩
    芭蕉が引用したのは、長恨歌の117句と118句

     在天願作比翼鳥 天に在りては願わくは比翼の鳥となり
     在地願為連理枝 地に在りては願わくは連理の枝とならんと

    【意】大空にあっては、翼(つばさ)を並べた比翼の鳥となろう
       地上にあっては、木目の続いた連理の枝となろう

     ※比翼の鳥:雌雄が共に一目一翼で、恒に一体になって飛ぶ空想上の鳥
     ※連理の枝:左右の木の枝が合して、理(=木目)が連結した木
      「比翼鳥」「連理枝」共に、愛情深い夫婦に例えている

 (注5)入相の鐘:日没時に寺々で慣らす時の鐘

[05]籬が島
 05

【鹽竈(しおがま)】
《原文》
〔鹽竈(しほがま)〕
 五月雨の空聊(いささか)はれて、夕月夜(ゆふづくよ)幽(かすか)に、籬(まがき)が嶋(注1)もほど近し。
 蜑(あま)の小舟(をぶね)こぎつれて、肴(さかな)わかつ声々に、つなでかなしもとよみけん心もしられて、いとゞ哀(あはれ)也(なり)。
 其夜(そのよ)、目盲(めくら)法師の琵琶をならして奥上(=浄)るり(注2)と云(いふ)ものをかたる。
 平家にもあらず、舞(注3)にもあらず。
 ひなびたる調子うち上(あげ)て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土(へんど)の遺風(ゐふう)忘れざるものから、殊勝に覚(おぼえ)らる。

〔鹽竈明神〕
 早朝(そうてう)鹽がまの明神(注4)に詣(まうづ)。
 国守(こくしゅ)再興せられて、宮柱(みやばしら)ふとしく彩椽(さいてん)きらびやかに、石の階(きざはし)九仞(きうじん)(注5)に重(かさな)り、朝日あけの玉がきをかゝやかす。
 かゝる道の果(はて)、塵土(ぢんど)の境(さかひ)まで、神霊あらたにましますこそ、吾(わが)国の風俗なれと、いと貴(たふと)けれ。
 神前に古き宝燈(ほうとう)有(あり)。
 かねの戸びらの面(おもて)に文治三年和泉三郎奇(=寄)進と有(あり)。
 五百年来の俤(おもかげ)、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。
 渠(かれ)は勇義忠孝の士也。
 佳命(=名)今に至りてしたはずといふ事なし。
 誠(まことに)「人能(よく)道を勤(つとめ)、義を守(まもる)べし。
 名もまた是にしたがふ(注7)」と云り。
 日既(すでに)午(ご)にちかし。
 船をかりて松嶋にわたる。
 其間(そのかん)二里餘(あまり)、雄嶋(を)の磯につく。

《現代語訳》
〔塩竈〕
 五月雨の空も少しは晴れて来て、夕月が微かに見えており、籬(まがき)が島(注1)も湾内のほど近い所に見える。
 漁師の小舟が沖から漕ぎ連れて帰って来て、魚を分ける声を聞いていると、古人が「綱手哀しも」と詠んだ哀切の心も推し量られて、実に感慨深い。
 その夜、盲目の法師が琵琶を鳴らして、奥浄瑠璃(注2)というものを語るのを聞いた。
 平家琵琶とも幸若舞(こうわかまい)(注3)とも違う。
 本土から遠く離れたひなびた感じだ。
 鄙びた調子を張り上げ語るから、枕許では一寸喧(やかま)しかったが、流石に奥州辺土に残る遺風を忘れず伝えていると、殊勝なことに思われて来た。

〔塩竈明神〕
 早朝、塩竃神社(注4)に参詣した。
 領主(伊達政宗)が(慶長12(1607)年に)再建した寺で、柱が堂々と立ち並び、彩色した垂木(=屋根を支える木材)が煌びやかに光り、石段は遥か(注5)に連なり、朝日が差して朱にそめた玉垣(=かきね)を輝かせていた。
 この様な奥州という辺境の地の果て迄、神の恵みが行き渡り崇められていることこそ我国の美風だと、大変尊く感じ入った。
 神殿の前に古い宝燈があった。
 金属製の扉の表面に、「文治三(1187)年和泉三郎寄進(注6)」と刻んである。
 奥州藤原秀衡の次男で、父の遺言に従い最後まで義経を守って戦った藤原忠衡(ただひら)である。
 義経や奥州藤原氏の時代からはもう五百年が経っているが、その文面を見ていると目の前にそういった過去の出来事がうかぶようで、たいへん有難く思った。
 俗に「和泉三郎」といわれる藤原忠衡は、勇義忠孝すべてに長けた、武士の鑑のような男だった。
 その名声は今に至るまで聞こえ、誰もが慕っている。
 「人は何をおいても正しい道に励み、義を守るべきだ。そうすれば名声も後からついてくる(注7)」というが、本当にその通りだ。
 もう正午に近づいたので、船を借りて松島に渡る。二里ほど船で進み、雄島の磯についた。

 (注1)籬が島:塩竈の浦の海中〔現・塩竈町1丁目/仙石線 東塩釜駅より南東300m〕にある/古来より古歌に詠まれる

     我(わが)背子を みやこにやりて 塩がまの籬(まがき)の島に まつぞわびしき 〔大歌所御歌(古今集)〕
    【意味】愛する夫を都に遣って、此処塩竈の籬の島で帰りを待つ身の私は辛く哀しい

 (注2)奥浄瑠璃:古浄瑠璃やそれを模して作った浄瑠璃を仙台特有の曲節で語ったもの/御国浄瑠璃、仙台浄瑠璃ともいう
 (注3)舞=幸若舞:室町時代後期に桃井直詮(幼名:幸若丸)の始めた舞/曲舞(くせまい)とも呼ばれる
 (注4)鹽竈明神:塩竈神社/祭神は鹽土老翁(しおつちのおじ)
 (注5)九仞:長さの単位で、一仞は周代の七尺(22.5cm×7=157.5cm)/従って九仞は頗る高い様をいう
 (注6)文治三年和泉三郎寄進:銘には「奉寄進 文治三年七月十日 和泉三郎忠衡敬白」とある
 (注7)「人能道を勤務‥したがふ」:出典は、中唐詩人 韓愈(768-824)「動而得謗/名亦随之」に拠る

【松島】
《原文》
〔松島湾〕
 抑(そもそも)ことふりにたれど(注1)、松嶋は扶桑(ふさう)(注2)第一の好風にして、凡(およそ)洞庭・西湖(せいこ)(注2)を恥(はぢ)ず。
 東南より海を入て、江の中(うち)三里、浙江(せっかう)の潮(うしほ)(注3)をたゝふ。
 島々の数を尽(つく)して、欹(そばだつ)ものは天を指(ゆびさし)、ふすものは波に匍匐(はらばふ)。
 あるは二重(ふたへ)にかさなり、三重(みへ)に畳みて、左にわかれ右につらなる。
 負(おへ)るあり抱(いだけ)るあり、児孫(じそん)愛すがごとし(注4)。
 松の緑こまやかに、枝葉(しえふ)汐風に吹(ふき)たは(=わ)めて、屈曲を(=お)のづからためたるがごとし。
 其気色、窅然(えうぜん)(注5)として美人の顔(かんばせ)を粧(よそほ)ふ。
 ちはや振(ぶる)(注6)神のむかし、大山ず(=づ)みのなせるわざにや。
 造化(ざうくわ)の天工(てんこう)、いづれの人か筆をふるひ、詞を尽さむ。

〔雄島が磯〕
 雄島(をじま)が磯は地つゞきて海に出たる島也。
 雲居(うんご)禅師の別室の跡、坐禅石など有(あり)。
 将(はた)、松の木陰(こかげ)に世をいとふ人も稀々(まれまれ)見え侍りて、落穂・松笠など打(うち)けふりたる草の菴(いほり)閑に住(すみ)なし。
 いかなる人とはしられずながら、先(まづ)なつかしく立寄(たちよる)ほどに、月海(つきうみ)にうつりて、昼のながめ又あらたむ。
 江上(かうしゃう)に帰りて宿を求(もとむ)れば、窓をひらき二階を作(つくり)て、風雲の中に旅寐するこそ、あやしきまで、妙なる心地はせらるれ。

  松島や鶴に身をかれほとゝぎす 曽良

 予は口をとぢて眠らんとしていねられず(注7)。
 旧庵をわかるゝ時、素堂(注8)松嶋の詩あり。
 原安適(はら あんてき)(注9)松がうらしま(注10)の和歌を贈らる。
 袋(注11)を解(とき)て、こよひの友とす。
 且、杉風(注12)・濁子(ぢょくし)(注13)が発句あり。

〔瑞巌寺〕
 十一日、瑞岩(=巌)寺(注14)に詣(まうづ)。
 当寺(たうじ)三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐(につたう)(注15)、帰朝(きてう)の後(のち)開山す。
 其後に雲居禅師(注16)の徳化(とくげ)に依(より)て、七堂甍(いらか)改(あらたま)りて、金壁(こんぺき)荘厳(しょうごん)光を輝(かがやかし)、仏土成就の大伽藍とはなれりける。
 彼(かの)見仏聖(けんぶつひじり)(注17)の寺はいづくにやとしたはる。

《現代語訳》
〔松島湾〕
 まあ古くから言われていて今さら言うことでもないのだが(注1)、松島は日本一景色のよい所だ。
 中国で絶景として名高い洞庭・西湖(注2)と比べても見劣りがしないだろう。
 湾内に東南の方角から海が流れ込んでいて、その周囲は三里、中国の浙江(注3)を思わせる景色をつくり、潮が満ちている。
 湾内には無数の島々があり、そそり立つ島は天を指差す様で、臥すものは波に腹這う様に見える。
 あるものは二重・三重に重なり、左に分かれ右に連なっている。
 小島を背負っている様に見えるものや、抱いている様な島もあり、恰も親が子や孫を抱き愛撫している様だ(注4)。
 松の緑はビッシリと濃く、枝葉は汐風に吹き撓(たわ)められて、その曲がった枝ぶりは、人が見栄え良い様に矯(た)めた様に見える。
 (‥蘇東坡の詩の中で、西湖の景色を絶世の美人、西施が美しく化粧した様子に例えているが‥)松嶋の風情も深い憂いを湛え(注5)、美人が化粧した様に美しい。
 神代(注6)の昔、山の神「大山祇(おおやまつみ)」の仕業だろうか。
 自然の手による芸術品であるこの景色は、誰か筆をふるい言葉を尽くしても、上手く語れるものではない。

[06]雄島が磯の「雄島」
 06

〔雄島が磯〕
 雄島の磯は陸から地続きで、海に突き出している島である。
 (‥瑞巌寺中興の祖である‥)雲居禅師の別室の跡や、座禅石などがある。
 又、松の木蔭に出家隠生している人の姿も稀に見え、落穂や松笠を焼く煙が見える草庵の静かな暮らしぶりである。
 どういう来歴の人かは解らない乍ら、先ず懐かしく思われて立ち寄ると、月は海に映り、昼の眺めとは又違う趣であった。
 入江畔に帰って宿を借りると、窓を開くと二階作りになっていて、自然の風景の中に旅寝することで、表現し難い程霊妙な気持ちになって来るのだった。

【意味】此処【松】島ではその絶景に相応しく白い【鶴】の姿に身を借りて鳴いて渡ってくれ、杜鵑よ

 私は句が浮かばず、眠ろうとしても寝られない(注7)。
 深川の旧庵を出る時、山口素堂(1642-1716)(注8)が松嶋の詩を、原安適(生没年不詳)(注9)が松が浦島(注10)を詠んだ和歌を餞別してくれた。
 それらを頭陀(ずだ)袋(注11)から取り出し、今夜一晩を楽しむよすがとする。
 また、杉風(注12)・濁子(注13)の発句もあった。

〔瑞巌寺〕
 十一日、瑞巌寺(注14)に参詣する。
 この寺は創始者の慈覚大師から数えて三十二代目にあたる昔、真壁平四郎という人が出家して入唐(←正しくは入宋(注15))して、帰朝の後開山した。
 その後、雲居禅師(注16)が立派な徳によって多くの人々を仏の道に導いた、これによって七堂すべて改築され、金色の壁はおごそかな光を放ち、極楽浄土が地上にあらわれたかと思える立派な伽藍が完成した。
 かの名僧見仏聖(注17)の寺はどこだろうと慕わしく思われた。
  
 (注1)抑ことふりにたれど:抑(=其も其も)=元来、ことふりたれど(=事旧りたれど)=古くから云われて来たこと(で言うまでもないこと)だが
 (注2)洞庭・西湖:洞庭湖=中国湖南省にある中国第2位の広さを持つ湖で、「瀟湘八景」の景勝地は、琵琶湖周辺の「近江八景」のmodel
    西湖=中国浙江省杭州市にある湖「西湖十景」、いずれも古来より知られる中国の景勝地
 (注3)折江:銭塘江(せんとうこう)/中国浙江省を流れる河川で杭州湾に注ぐ/別名も浙江、折江、曲江、之江、羅刹江と多数
    満潮時に海水が河口より逆流して奇観を呈する「海嘯(かいしょう)」という現象が有名
 (注4)児孫愛すがごとし:盛唐の詩人 杜甫の七言律詩「望嶽(嶽に望む)」(758年秋、華州に赴任する時、途中華山を望み詠んだ作品)が原典
    首聯第二句「諸峰羅立似兒孫」からの引用

     西嶽崚嶒竦處尊 西岳崚嶒(りょうそう)として竦處(しょうしょ)すること尊し
     諸峰羅立似兒孫 諸峰羅立して児孫(じそん)に似たり
     安得仙人九節杖 安んぞ仙人の九節の杖を得て
     拄到玉女洗頭盆 拄((←手偏 に 圭 )ささ)えられて到らん玉女の洗頭盆
     車箱入谷無歸路 車箱(しゃそう)谷に入れば帰路無く
     箭栝通天有一門 箭栝((←木偏 舌 )せんかつ)天に通ずる一門有り
     稍待秋風涼冷後 稍(ようや)く秋風の涼冷なる後を待ちて
     高尋白帝問真源 高く白帝(はくてい)を尋ねて真源を問わん

    【意】五岳の西岳である華山は高く険しく、その聳えて居座っている様は尊い
     それに比して他の諸峰は連なっているが華山の児供か孫達の様である
     崋山は仙人の山なので、私は何とか仙人が持つ九節の竹杖を得て
     その杖に身体を支え貰い頂上の玉女の洗頭盆の辺り迄行ってみたい
     この山はその重箱形をした谷へ入ると戻る道はなく
     矢筈(=矢の先端)の様な狭く細い天へ通じる路が一門あるだけだ
     漸く秋風が涼冷になるのを待って
     白帝の鎮座するこの山を訪ねて仙道の本源を問い糺してみたい

 (注5)窅(←穴冠 に 目)然(ようぜん):奥深く物静かな美しさ/cf.「窅」は、陰があって暗いさま
 (注6)ちはや振(=千早振る(ちはやぶる)):「神」に掛かる「枕詞」
 (注7)予は口をとぢて眠らんとしていねられず:服部土芳(1657-1730)編『蕉翁文集』には「島々や 千々にくだけて 夏の海」が収められている
    しかし、芭蕉はこの句に満足出来ず捨てたものとみられる/服部土芳は、伊賀上野の藤堂藩士、蕉門と同郷の後輩、蕉門十哲に数えられることもある
 (注8)素堂(=山口素堂):甲州の人/山口信章/江戸に出て芭蕉と親交を重ねる/葛飾派の祖/目には青葉山ほととぎす初鰹 の作者として有名
 (注9)原安適:深川在住の医者/歌人で芭蕉の友人
 (注10)松がうらしま:「歌枕」/現在の宮城県宮城郡七ヶ浜町
 (注11)袋(=頭陀袋):仏教の僧侶が行う修行「頭陀行・乞食の行」が携行した袋が語源
 (注12)杉風(=杉山杉風(1647-1732)):家業は幕府に魚を納める御納屋/芭蕉の弟子で支援者でもある/蕉門十哲の一人
 (注13)濁子(=中村甚五兵衛):大垣藩士で江戸勤番
 (注14)瑞巌寺:天長05(828)年 慈覚大師(圓仁(794-864))に拠り天台宗 青龍山延福寺として創建
    鎌倉時代に法心((=真壁平四郎(1189-1273))寺伝に法身)を開山として臨済宗となる/伊達政宗が堂宇を造営し松嶋青龍山瑞巌円福禅寺と改称
 (注15)入唐:法身(俗名 真壁平四郎)の存命時代、中国は南宋(1127-1279)の時代/従って、正しくは「入宋」
 (注16)雲居(うんご)禅師(1582-1659):土佐出身/伊達政宗・忠宗に瑞巌寺に招かれ、七堂伽藍を整えた
 (注17)見仏聖:松嶋の雄島の妙覚寺(見仏堂)に住した僧/法華経6千巻を読破し神通力を持ったという/西行法師が彼を慕い、当地を訪れたと伝わる

【石巻(いしのまき)】
《原文》
 十二日、平和泉(ひらいづみ)と心ざし、あねはの松(注1)・緒(を)だえの橋(注2)など聞伝て、人跡(じんせき)稀に雉兎蒭蕘(ちとすうぜう)(注3)の往(ゆき)かふ道そこともわかず、終(つひ)に路(みち)ふみたがえて、石の巻(注4)といふ湊に出(いづ)。
 「こがね花咲(さく)(注5)」とよみて奉たる金花山(きんくわざん)(注6)、海上(かいしやう)に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈(かもど)の煙立(た)つゞけたり。
 思ひがけず斯(かか)る所にも来(きた)れる哉(かな)と、宿からんとすれど、更宿かす人なし。
 漸(やうやう)まどしき小家に一夜をあかして、明(あく)れば又しらぬ道まよひ行(ゆく)。
 袖のわたり(注7)・尾ぶちの牧(注8)・まのゝ萱はら(注9)などよそめにみて、遥(はるか)なる堤(つつみ)を行(ゆく)。
 心細き長沼にそふて、戸伊摩(といま)(注10)と云(いふ)所に一宿して、平泉に到る。
 其間廿余里ほどゝ(=と)おぼゆ。

《現代語訳》
 十二日、平泉へと志し、姉歯(あねは)の松(注1)・緒絶(おだえ)の橋(注2)など「歌枕」の地があると聞いていたので、人通りも乏しい獣道を、不案内な中進んでいくが、終に道を間違い、石巻という港に出て仕舞った。
 大伴家持が「こがね花咲く(注5)」と詠んで聖武天皇に献上した金花山(注6)を海上に見渡し、数百の廻船(=人や荷物を運ぶ商業船)が入江に集まり、人家が犇(ひしめ)く様に建ち並び、(炊事する)竈の煙が盛んに立ち上っている。
 思いがけずこんな所に来たものだと、宿を借りようとしたが、全く借りられない。
 漸く貧しげな小家に一夜を明かして、翌朝又知らない道を迷い乍ら進んだ。
 袖の渡り(注7)・尾駁(おぶち)の牧(注8)・真野の萱原(注9)など歌枕の地が近くにあるらしいのを、よそ目に見て、遥かに続く川の堤を歩いて行った。
 どこまで続くのか心細くなる様な長沼という沼沿いに進み、戸伊摩(注10)というところで一泊して、平泉に到着した。
 その間の距離は二十里ちょっとだったと思う。

 (注1)姉歯(あねは)の松:宮城県栗原郡金成(かんなり)町姉歯にある/「歌枕」

     栗原の 姉歯の松の 人ならば 都のつとに いざといはましを〔伊勢物語 第十四段〕
    【意】(貴女が)栗原にある姉歯の松の様に人並み以上に美しい人だったら、都の土産に「さぁ、一緒に行こうよ」と誘うのだけど‥

 (注2)緒絶(おだえ)の橋:宮城県古川市にある/「歌枕」

     みちのくの 緒絶の橋や これならむ 踏みみ踏まずみ 心惑わす  左京大夫(藤原)道雅(992-1054)〔後拾遺集〕
    【意】陸奥にある緒絶の橋とはこれのことだったのか/手紙(=文(ふみ))を貰えたり貰えなかったり、その度に心を惑わせることよ
       ‥←貴女との関係が途絶えて仕舞わないかな、と/恰も今にも崩れ落ちそうな橋を、踏んだり踏まなかったり、恐る恐る渡る様なものだ

     白玉の 緒絶の橋の 名も辛し 砕けて落つる 袖の涙に  藤原定家〔続後撰集〕
    【意】悲しさに袖を涙に濡らしているとき、緒絶の橋という名を聞くのは辛くて悲しい

 (注3)雉兎蒭蕘(ちとすうじょう):樵(木こり)、猟人等のこと
 (注4)石の巻:宮城県石巻市
 (注5)こがね花咲:聖武天皇天平21年、金華山の磯辺で砂金が算出され朝廷に献上された
    是を東大寺大仏建立の金箔代に使用されたと「続日本記」にある
    しかし、金を産出した「陸奥山」は金華山ではない/実際に金を産出したのは遠田郡涌谷町字金箔である

     天皇(すめろぎ)の 御代(みよ)榮へむ と東(あづま)なる 陸奥(みちのく)の山に 黄金(こがね)花咲く  大伴家持〔萬葉集18巻4097〕
    【意】天皇の御代が栄えるだろうと、東国の陸奥の山に黄金の花が咲くよ

 (注6)金花山(=金華山):牡鹿半島の先端にある島/実際には、石巻から金華山は見えない
 (注7)袖の渡り:「歌枕」/石巻市住吉町にある「北上川の渡し」

     みちのくの 袖のわたりの 涙がは 心のうちに 流れてぞすむ  相模(生没年不詳)〔新後拾遺集〕

 (注8)尾駁(おぶち)の牧:「歌枕」/石巻市の東、北上川の対岸にある牧山

    【詞書】「男の、はじめ如何に思へるさまに有りけむ、
       女の気色(けしき)も心解けぬを見て、「あやしく思はぬさまなること」と言ひ侍ければ

     陸奥の をぶちの駒も 野飼(のが)ふには 荒(あ)れこそ勝(まさ)れ なつくものかは  読人知らず〔後撰集〕
    【意】陸奥の尾駁の駒(=若い馬)も、野で飼う場合には荒れることが一段とあるものです
       でも、私たちの場合もあまり嫌がられると、親しく出来なくなって仕舞いますよ

 (注9)真野の萱原:「歌枕」/石巻市の東北にある稲井町真野

    【笠女郎が大伴宿禰家持に贈る三首の第二首】
     みちのくの 真野の萱原(=草原) 遠けども おもかげにして 見ゆとふものを  笠女郎(かさのいらつめ(生没年不明))〔萬葉集〕
     陸奥之 真野乃草原 雖遠(とほけども) 面影為而(おもかげにして) 所見云物乎(みゆといふものを)〔←萬葉仮名〕
    【意】陸奥の国の 真野の萱原は 遠くても 面影として 見えると言いますのに

     まだ見ねば おもかげもなし なにしかも 真野の萱原 露乱るらむ  権大納言顕朝〔続古今集〕

 (注10)戸伊摩:宮城県登米(とめ)郡登米(とよま)町

 芭蕉は、『奥の細道』「序章」で「『白川(=白河)の関』こえんと」「『松島の月』先(まづ)心にかかりて」と、又「日光」で(曾良と)「『松しま』・『象潟』の眺(ながめ)共にせん事を悦び」と書いているが、『平泉』については書いていない。
 陸奥の「歌枕」を巡っているうちに、陸奥の人々が源義経に強い敬慕の念を持ち続けていることに心を打たれ、『平泉』の訪問思い立ったのかもしれない。
 山本健吉は、著書『奥の細道を読む』の「人生の旅を見つめる〔三〕」で次の様に書いている。

 簱宿の宿はずれにある「庄司もどし」の遺跡については、奥の細道には記されていないが、曾良の随行日記に「【小生補足】簱ノ宿ハヅレニ庄司モドシト云テ、畑ノ中桜木有。判官ヲ送リテ、是ヨリモドリシ酒盛ノ跡也」(と)書きとめておいてくれた。
 これは奥州路へ入るや否や、芭蕉主従は義経伝説の一こまに触れたことを物語る。
 奥の細道の前半の頂点は、平泉の高館(たかだち)の件(くだり)である。
 それは義経主従最期の地であり、同時に平泉藤原氏の三代の栄華の終焉でもあった。
 芭蕉の筆は、平泉の地を踏んで、高館の悲史を回顧する件で、異様な高まりを見せている。
 そして其処に到達する迄の間に、彼の義経伝説への関心は、徐々に高まって行ったことが、奥の細道の本文を読んでも納得出来るのである。

[07]高館より北上川を望む
 07

【平泉】
《原文》
 三代(注1)の栄耀(えいえう)一睡(注2)の中(うち)にして、大門(だいもん)の跡は一里こなたに有(あり)。
 秀衡が跡(注3)は田野に成(なり)(注4)て、金鶏山(注5)のみ形を残す。
 先(まづ)、高館(たかだち)(注6)にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。
 衣川(注7)は、和泉が城(注8)をめぐりて、高館の下にて大河に落入(おちいる)。
 泰衡(注9)等が舊跡(きゅうせき)は、衣が関(注10)を隔て、南部口をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。
 偖(さて)も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。
 国破れて(注11)山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷(うちしき)て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。

 夏草や兵どもが夢の跡

 卯の花に兼房(かねふさ)みゆる白毛(しらが)かな 曽良

 兼(かね)て耳驚(おどろか)したる二堂開帳す。
 経堂(きゃうだう)(注12)は三将(注13)の像をのこし、光堂(注14)は三代の棺(ひつぎ)を納め、三尊の仏を安置す。
 七寶(注15)散(ちり)うせて、珠の扉(とびら)風にやぶれ、金(こがね)の柱霜雪(そうせつ)に朽(くち)て、既(すでに)頽廃空虚の叢と成(なる)べきを、四面(注16)新に圍(かこみ)て、甍(いらか)を覆(おほひ)て雨風を凌(しのぐ)。
 暫時(しばらく)千歳の記念(かたみ)とはなれり。

  五月雨(さみだれ)の降(ふり)のこしてや光堂

《現代語訳》
 藤原清衡・基衡・秀衡と続いた奥州藤原氏三代(注1)の栄華も、邯鄲一炊の夢の故事(注2)のように儚く消え、廃墟と化した南大門の跡は此処から直ぐ一里のばかりの距離にある。
 秀衡の館(注3)の跡は田野となり(注4)、その名残すら無く、ただ、秀衡が山頂に金の鶏を埋めて平泉の守りとしたという金鶏山(注5)だけが、形を残している。
 まず義経の館のあった高台、高舘(注6)に登ると、眼下に北上川が一望される。南部地方から流れる、大河である。
 衣川(注7)は秀衡の三男和泉三郎の居城跡(注8)をめぐって、高舘の下で北上川と合流している。
 嫡男泰衡(注9)の居城跡は、衣が関(注10)を境として平泉と南部地方を分かち、蝦夷の攻撃を防いでいたのだと見える。
 それにしてもまあ、義経の忠臣たちがこの高舘にこもった、その巧名も一時のことで今は草むらとなっているのだ。
 国は滅びて(注11)跡形もなくなり、山河だけが昔のままの姿で流れている、繁栄していた都の名残もなく、春の草が青々と繁っている。
 杜甫の『春望』を思い出し感慨にふけった。笠を脱ぎ地面に敷いて、時の過ぎるのを忘れて涙を落とした。

  夏草や 兵どもが 夢の跡

【意】奥州藤原氏や義経主従の功名も、今は一炊の夢と消え、夏草が茫々と繁っている。

  卯の花に 兼房みゆる 白髪かな 曾良

【意】白い卯の花を見ていると、勇猛に戦った義経の家臣、兼房の白髪が髣髴される)

 かねてその評判をきいていた、中尊寺光堂と経堂の扉を開く。経堂(注12)には三将(注13)の像、光堂(注14)にはその棺と、阿弥陀三尊像が安置してある。
 奥州藤原氏の所有していた宝物の数々(注15)は散りうせ、玉を散りばめた扉は風に吹きさらされボロボロに破れ、黄金の柱は霜や雪にさらされ朽ち果ててしまった。
 今は荒れ果てた草むらとなっていても無理は無いのだが、金色堂の四面(注16)に覆いをして、屋根を覆い風雨を防ぎ、永劫の時の中ではわずかな時間だがせめて千年くらいはその姿を保ってくれるだろう。

  五月雨の 降りのこしてや 光堂

 【意味】全てを洗い流してしまう五月雨も、光堂だけはその気高さに遠慮して濡らさず残しているようだ

 (注1)奥州藤原氏三代:清衡(藤原氏→清原氏→奥州藤原氏(1056-1128))・基衡(1105?-1157)・秀衡(1122?-1187)
 (注2)一睡:中国の故事「邯鄲の夢」‥中国 趙 の都 邯鄲 で、盧生(ろせい)という貧しい青年が、茶店で呂翁(りょおう)という道士から不思議な枕を借りて寝た処、立身出世して50余年の栄華を極め、一生を終わる夢を見た/処が、目覚めてみると、茶店の主人が焼いていた黄梁(こうりょう=大粟(おおあわ))がまだ煮え切らない、ごく短い間のことだった‥という故事から「人の世や人の一生の栄枯盛衰が夢の様に儚いことの例え」
 (注3)秀衡の跡:居館「伽羅御所」
 (注4)田野に成(なり)て:中国「文選」の古詩に「古墓は犂(す)かれて田と為し/松栢は催(くだかれ)て薪と為す」
    中国 初唐 の詩人 劉希夷(651-679)の「代悲白頭翁(白頭を悲しむ翁に代る)」の中第七句と八句に「已(すで)に見る松柏の催かれて薪となるを/更に聞く桑田(そうでん)の変じて海と成るを」の様に、世の変転の激しさ を言う
 (注5)金鶏山:秀衡が平泉鎮護の為富士山に擬して築いた小山で、金鶏を山頂に埋めた
 (注6)高館:源義経の居館
 (注7)衣川:「歌枕」/平泉の北を東流し、北上川に合流
 (注8)和泉三郎の居城跡:秀衡の三男 忠衡 の居城/忠衡は、秀衡の遺命で義経に従い討死する
 (注9)泰衡:秀衡の嫡子((=次男)1155(or65?)-89)/泰衡には庶子の兄(国衡(長男)(?-1189))がいたが、国衡は奥州合戦で頼朝軍に破れ討死
    泰衡は、同合戦後逃亡するも郎党河田次郎に裏切られ討たれた/
    河田次郎は泰衡の首を頼朝に献上/頼朝は泰衡の首実検の後不忠を理由に河田次郎を斬罪に処した
 (注10)衣が関:「歌枕」/中尊寺表参道入口の北の田圃の辺り
 (注11)国破れて山河あり、城春にして:杜甫(712-70)の代表的な五言律詩『春望』

 春望  杜甫

     國破山河在 国破れて山河在り、
     城春草木深 城春にして草木深し
     感時花濺涙 時に感じては花にも涙を沃ぐ濺(そそ)ぎ
     恨別鳥驚心 別れを恨みては鳥にも心を驚かす
     烽火連三月 烽火(ほうか) 三月(さんげつ)に連なり
     家書抵萬金 家書 万金に抵(あた)る
     白頭掻更短 白頭掻けば更に短く
     渾欲不勝簪 渾(すべ)て簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す

    【意】国都長安の街は、安禄山の賊軍(=安史の乱(755-63))にすっかり破壊されて、あとには山河が昔の儘変わらずにある
     荒れ果てた街にも春が遣って来て、草木が青々と茂っている
     この戦乱の嘆かわしい時節を思うと、咲いている花を見ても涙を溢れ
     家族との別れを悲しんでは、鳥が鳴声にも心が痛む想いがする
     戦いの狼煙(のろし)何箇月も続き
     家族からの手紙は中々来ないので、万金にも値する程貴重だ
     度重なる心労の為、白髪の頭を掻けば、髪は抜け落ち
     全く冠をとめるピン(=簪(かんざし))も挿せなくなって仕舞った様だ

 (注12)経堂:清衡が伽藍として創建/建武04(1337)年 上層を消失/現在、2,724巻の一切経を蔵す
 (注13)三将:清平・基衡・秀衡の像はなく、文殊菩薩・優填(うでん)王・善財童子の像
 (注14)光堂:金色堂/堂内外に金箔を押す/光堂は近世以降の俗称
 (注15)七寶:1.金輪宝 2.白象宝 3.紺馬宝 4.神珠宝 5.玉女宝 6.居士宝 7.主兵宝
       又或る説には 1.瑠璃 2.玻璃(はり=水晶) 3. 硨磲(しやこ=貝) 4.瑪瑙(めのう) 5.珊瑚 6.琥珀 7.真珠
       更に、上記 7.真珠に代えて 金銀とする説もある
 (注16)四面:覆(さや)堂は金色堂建立後間もなく設けられた/芭蕉当時のものは南北朝末の建設

【小生comment】
 既にお話した通り、小生の旧銀行時代の昭和57年05月~61年04月の4年間に、仙台を訪れた両親・友人達に案内した観光名所に、松島と平泉は欠かさなかった。
 それ程、日本三景の筆頭と言っても良い「松島」と、中尊寺金色堂に代表される「平泉」は人気が高かった。
 それは、326年前も一緒だっただろう。
 芭蕉と曾良は、326年前の今日五月十二日(新暦06月28日)夕刻一関に着き、翌日13日(同06月29日)に平泉を訪れている。
 芭蕉が、義経の居所があった高館で詠んだ「夏草や‥」と曾良の「卯の花に‥」を山本健吉の著書「ビジュアル版 日本の古典に親しむ 奥の細道」で次の様に述べている。
 これで、本号の「奥の細道」の締め括りとしたい。」

 ※ ※ ※ ※ ※

 義経主従の伝説は東北の庶民達の間に続いて来た心の伝承だから、芭蕉は自分を東北の庶民と同じ場に立たせて、(「夏草や」という)追懐と慰霊の一句を作った。
 細道の前文と合わせてこの一句はこの紀行の頂点であった。
 「卯の花」の句は同じ時の咲くである。
 兼房は義経の北の方の乳人(ちちうど)増尾(ますお)十郎権頭(ごんのかみ)兼房で、白い直垂(ひたたれ)に褐染(かちんぞめ)の袴を着、白髪交じりの髻(もとどり)を引き見出し、兜巾(ときん)をうち着て、義経の北国落ちに従い、高館では義経夫妻の最期を見届けた後、館に火を放ち、火中に入って、壮烈な戦死を遂げた。
 この句は、折から白く咲いている卯の花を取り合わせて兼房の最期の奮戦の様を思い描き、その乱れた白髪を瞼に浮かべているのである。
 卯の花の白を白髪に思い寄せたのは昔から卯の花を白髪に例えた和歌の伝統があるからであろう。
 
「兼房みゆる」と言ったのは曾良も芭蕉の義経熱が感染して『義経記』や幸若舞の高館最期の情景を必死に思い浮かべているのである。〔後略〕

■続いては、前《会報》にてご報告した桑山美術館の後訪れた06月13日、「愛知県美術館『片岡球子』展と愛知県芸術劇場concert hallにて開催された ハンガリー国立歌劇場に拠る歌劇『セビリアの理髪師』を見て聴いて来たので時系列順にご報告したい。

【愛知県美術館『片岡球子』展】
 小生が個人的に思っているのは、日本版「ピカソ」はこの片岡球子かなってこと!^-^
 1942(昭和17)年05月 日本美術院絵画部研究会・課題「雄渾」で《祈祷の僧》を発表し、大観賞を受賞。
 その時、小林古径(1883-1957)から励ましの言葉を貰う。
 これが、片岡球子の将来を予言していたと言えよう。
 球子自身が回想しているのでご紹介する。

 「あなたは、まだ初歩で、写生が足りない。ものをよく見なければ‥‥。
 そして、その何処を持って来るかを考えなければ‥‥。(中略)
 あなたは、みなから、ゲテモノの絵を描く、と、ずいぶん言われています。
 今のあなたの絵は、ゲテモノに違いありません。
 しかし、ゲテモノと本物は、紙一重の差です。
 あなたは、そのゲテモノを捨ててはいけない、自分で自分の絵にゲロが出る程描き続けなさい。
 そのうちに、はっと嫌になって来る。
 いつか必ず自分の絵に、飽きてしまう時が来ます。
 その時から、あなたの絵は変わるでしょう。
 薄紙を剥ぐように変わって来ます。
 それ迄に、何年掛かるか解りませんが、あなたの絵を絶対に変えてはなりません。(中略)
 手法も考え方も、その儘で宜しいから、自分のやりたい方法で、自分の考える通りに、何処迄も描いてゆきなさい」

 ※ ※ ※ ※ ※

 片岡球子の絵は、この小林古径の話に表象されていると思う。
 ホント、一流のゲテモノが昇華した絵が彼女の絵だと思う。
 本物を眼前に見て、幾つかの作品の前で身体中に震えが走った。
 それ程感動して仕舞った。
 素晴らしいの一言である。

[08]本企画展leaflet
 08leaflet

[09]片岡球子『枇杷』1930年
 091930

[10]同『カンナ』1953年
 101953

[11]同『初夏』1956年
 111956

[12]同『伊豆風景』1964年
 121964

[13]同『山(富士山)』1964年
 131964

[14]同『火山(浅間山)』1965年
 141965

[15]同『富士』1980年
 151980

[16]同『春の富士(梅)』1988年
 161988

[17]同『富士に献花』1990年
 171990

[18]同『渇仰』1960年
 181960

[19]同『面構 足利尊氏』1966年
 19_1966

[20]同『八仙』1967年
 201967

[21]同『面構 葛飾北斎』1971年
 21_1971

【愛知県芸術劇場concert hall/ハンガリー国立歌劇場に拠る歌劇『セビリアの理髪師』】
 このOperaは、何度見ても聞いても楽しいOpera Buffaである。
 あとから知ったが、このOperaは、中嶋良行君も見ていたという。

[22]本演奏会program
 22program

[23]ロジ―ナを演ずる ダニエラ・バルチェッローナ
 23

■次の話題である。翌日06月14日(日)ライフポートとよはしconcert hallにて開催された 豊橋今日今日楽団の「創立50周年記念」と銘打った第116回定期演奏会の模様についてである。

 日本を代表する秋山和慶氏指揮に拠るブルックナーの交響曲第7番が本concertのmain。
 時習26回生で旧【1-4】のclassmateの安形S二君から誘われたので、同じく旧【1-4】【2-8】のclassmateの水藤T詳君と一緒に聞いた。安形君は、本演奏会では、ホルンを演奏して、金管のsection leaderを担って演奏していた。
 なかなかの演奏であった。

[24]本演奏会leflet
 24leflet

【後記】今日のお別れは、添付写真にある様に、一昨日の06月26日夜、豊橋市内の居酒屋にて時習26回生【1-4】ミニミニクラス会を開催した。中嶋Y行君と林K子さんと3人で開催した。
 18時半から22時近く迄の3時間余りの時間があっという間に過ぎて仕舞った楽しいひとときであった。

[25]時習26回【1-4】の会 ミニミニクラス会
 252614

 では、また‥。

2015年6月19日 (金)

【時習26回3-7の会0553】~「今夏【2637の会】クラス会について《続報》」「『奥の細道』第5回‥『浅香(安積)山』『信夫の里』『佐藤庄司が旧跡』『飯塚』『笠島』『武隈』『宮城野』『壺碑』‥」「06月13日:桑山美術館『<院展の画家たち>-近代日本画の開拓と創造-』展を見て」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 さぁ、今日も【2637の会 0553】号をお送りします。

■先ず最初の話題は、「今夏【2637の会】クラス会について」の《続報》です。
 06月11日付の前《会報》にてご案内してからのresponseは現状ありません。

 2006年08月から始まった【2637の会】クラス会も、今年で10周年を迎えることになりました。
 特段ご意見を頂戴していないので、幹事特権で日取りを決めたいと思います。
 其処で今年は、クラス会開催要領は、現状以下の方向で進めさせて頂きたく、今日は【 案 】を提示します。
 まだ【 案 】ですので、開催日も開催場所も変更可能です。
 忌憚ないご意見を頂戴出来れば幸いです。

             記
1.開催日時:2015年08月15日(土) 18時00分~
2.開催場所:トライアゲイン〔開発ビル 地下1階 ☎ 0532-55-0255〕
3.会  費:実費〔4,000円程度〕

 「クラス会」の出欠案内用mailは、別途classmatesの皆さん宛に配信させて頂きます。
 奮ってご参加下さい。
 皆さんからの朗報をお待ちしています。

■さて続いての話題は、「松尾芭蕉 作『奥の細道』の今日はその第5回目。
 元禄二(1689)年 卯月二十九日(新暦06月16日/須賀川 発)~五月七日(新暦06月23日/仙台 国分町)にかけて八日間の芭蕉一行の話である。
 一寸volumeが多いですが、最後迄お付き合い下さい。(^^;

 四月二十九日(新暦06月16日) 須賀川 相楽等窮宅を出発して20km程北方にある檜皮(ひわだ=日和田〔現・郡山市日和田町〕)の宿〔宿記載なし〕に泊す
 五月一日( 同 06月17日) 福島〔宿記載なし〕に泊す
  同 二日( 同 06月18日) 飯坂〔宿記載なし〕に泊す
  同 三日( 同 06月19日) 白石〔宿記載なし〕に泊す
  同 四~七日( 同 06月20~23日) 仙台 国分町、大崎庄左衛門宅に4泊す

【浅香(=安積(あさか))山】
《原文》
 等窮が宅を出(いで)て五里計(ばかり)、桧皮(ひはだ)の宿(しゅく)を離れてあさか山有(あり)。
 路(みち)より近し。
 此(この)あたり沼多し。
 かつみ刈比(かるころ)もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみ(注1)とは云(いふ)ぞと、人々に尋(たずね)侍れども、更(さらに)知(しる)人なし。
 沼を尋(たづね)、人にとひ、かつみかつみと尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。
 二本松(注2)より右にきれて、黒塚(くろづか)の岩屋(注3)一見(いっけん)し、福島(注4)に宿る。

《現代語訳》
 (五月一日) 等窮の家を出て五里ほど進み、檜肌(=日和田)の宿を離れるとあさか山(浅香山=安積山)がある。路(みち)から直ぐ近い。
 この辺りは(‥「陸奥の安積の沼の花かつみ(注1)」と古今集の歌にある様に‥)沼が多い。
 「どの草をかつみ草と言うのですか?」と人々に尋ねたが、誰も知る人はない。
 浅香沼の畔迄行って人にも問い、「かつみ、かつみ」と探し歩き、日が山際に傾いた。
 二本松(注2)より右に曲がり、謡曲「安達原」で知られる鬼婆がいたという黒塚の岩屋(注3)を見て、福島(注4)で一泊した。

 (注1)「花かつみ」については、古今和歌集(巻14)に次の様な有名な歌(詠み人知らず)がある

     みちのくの あさかのぬまの 花かつみ かつ見る人に 恋ひや渡らん
     【意】陸奥の浅香沼に咲く「花かつみ」の様な美人に「やっと(←かつ見=かつがつ)」逢えた
        その彼女に私の恋心は届くだろうか‥

    又、藤原(=藤中将)実方(さねかた(?~998))が陸奥国守となって下向した際、菖蒲(←端午の節句で軒に挿した)がこの地にないことを知った
    其処で彼は、安積沼の「かつみ」で代用するように命じたという有名な故事がある(鴨長明『無名抄』)
    明治9年6月17日(←季節は丁度今頃‥)、明治天皇の東北巡幸の折、日和田の安積山の麓、横森新田のご休息所での話‥
    「菖蒲に似て最(いと)些小(ちいさ)き花」なる『ヒメシャガ(添付写真[01])』を「花かつみ」として天覧に供した
    爾来、『ヒメシャガ』が「花かつみ」とされて、1974年、郡山市の花に制定された
    因みに、藤原実方は、一条天皇(980-1011(在位986-1011))の御前にて、藤原行成(972-1028)と口論となった
    その際、怒った実方は持っていた笏で行成の冠を打ち捨てた
    実方は、一条天皇から「『歌枕』を見て参れ」と勅勘を蒙り陸奥守として左遷された

[01]ヒメシャガ1
 011

[02]ヒメシャガ2
 022

 (注2)二本松:戦国の武将 丹羽長秀の直孫光重(1622-1701)が白河より転封(10万700石)。明治維新迄続く
 (注3)黒塚の岩屋:謡曲『安達原』に出て来る。色々な筋書のものがあるので此処での紹介は省略する
 (注4)福島:福島藩。1679年 大和郡山藩より本多忠国(15万石)で立藩
    1682年播磨姫路藩へ転封。1686年 堀田正仲が出和山形藩より〔1682-86年の間は天領〕
    芭蕉が福島を訪れた元禄二(1689)年は、堀田氏が藩主の時代
    1702年板倉重寛(3万石)が信濃国坂木藩より〔1700-02年の間は天領〕

【信夫(しのぶ)の里】
《原文》
 あくれば、しのぶもぢ摺(ずり)(注1)の石を尋(たずね)て、忍ぶのさとに行(ゆく)。
 遥(はるか)山陰(やまかげ)の小里(こざと)に石半(なかば)土に埋(うずもれ)てあり。
 里の童べの来りて教(おしへ)ける。
 昔は此(この)山の上に侍(はべり)しを、往来(ゆきき)の人の麦草(むぎくさ)をあらして、此(この)石を試(こころみ)侍(はべる)をにくみて、此(この)谷につき落(おと)せば、石の面(おもて)下ざまにふしたりと云(いう)。
 さもあるべき事にや。

  早苗(さなえ)とる 手もとや昔(むかし) しのぶ摺(ずり)

《現代語訳》
 (五月二日) 夜が明けると、しのぶ文字摺り(注1)の石を訪ねて、信夫(しのぶ)の里へ行った。
 遥かな山陰の小さな里に、もじ摺りの石は半は土に埋もれていた。
 其処へ来た里の子供が教えてくれた。
 文字摺り石は昔はこの山の上にあったのを、往来の旅人が麦の葉をこの石に摺り試みたりするので、是を憎んで谷に突き落としたので、石の表が下向きになっていると言う。
 そういうこともありそうだなと思った。

【意味】早苗を摘み取る早乙女たちの手つきを見ていると、昔 しのぶ摺をした優雅な手つきが偲ばれる

 (注1)しのぶ文字摺(もぢずり):「モヂ」という薄布に、シノブの葉を叩きつけて、その形を模様にしたもの。
    河原の左大臣 源融の歌「みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし 我ならなくに(古今和歌集/百人一首14)」の歌枕※にも使われている
    因みに「歌枕」とは、和歌に詠み込まれる名所・旧跡のこと

    【意味】陸奥のしのぶもじずりの乱れ模様の様に、他の誰の所為で乱れて仕舞ったのか、私の所為ではないのに‥
        ほかならぬ、あなたの所為ですよ

【佐藤庄司が旧跡】
《原文》
 月の輪のわたしを越(こえ)て、瀬の上と云(いう)宿(しゅく)に出(い)づ。
 佐藤庄司(注1)が旧跡は、左の山際一里半斗(ばかり)に有(あり)。
 飯塚の里鯖野(さばの)と聞(きき)て尋ね尋ね行(ゆく)に、丸山と云(いう)に尋(たずね)あたる。
 是(これ)、庄司が旧館也(なり)。
 梺(ふもと)に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落(おと)し、又かたはらの古寺(ふるでら)に一家(いっけ)の石碑を残す。
 中にも、二人の嫁がしるし、先(まず)哀(あわれ)也(なり)。
 女なれどもかひがひしき名の世に聞(きこ)えつる物(もの)かなと、袂(たもと)をぬらしぬ。
 堕涙(だるい)の石碑(注2)も遠きにあらず。
 寺に入(いり)て茶を乞へば、爰(ここ)に義経の太刀、弁慶が笈(おい)をとゞめて什物(じゅうもつ)とす。

  笈(おい)も太刀(たち)も五月(さつき)にかざれ帋幟(かみのぼり)

 五月(さつき)朔日(ついたち)の事也(なり)。

《現代語訳》
 (阿武隈川の渡し場である)「月の輪の渡し」を舟で越えて、瀬の上という宿場町に出た。
 源平合戦で義経の下で活躍した佐藤庄司(注1)の旧跡は、左の山の傍(そば)一里半程の所にあった。
 飯塚の里、鯖野という所と聞き、人に尋ね尋ね行くと、丸山という所で漸く尋ね当てることが出来た。
 「これが佐藤庄司の館跡です。山麓に正門跡があります」など、人に教えられる儘に涙が溢(こぼ)れ落ちた。
 又、傍(かたわ)らの古寺(=医王寺)に佐藤一家のことを記した石碑が残っていた。
 中でも佐藤継信(次信)・忠信兄弟の嫁(‥名を楓と初音という‥)の石碑の文字が格別に哀れを誘う。
 女の身であり乍ら甲斐甲斐しく(=心がけ良く)佐藤兄弟に尽くし、評判を世間に残したものだと、涙に袂を濡した。
 中国三国時代、峴山(ケンザン)にあったという「堕涙の石碑(注2)」を目の前にした様な気持ちだ。
 寺に入って茶を所望すると、此処は義経の太刀・弁慶の笈(おい(=背中に背負う箱))が保管され宝物としていた。

【意味】今、丁度端午の節句だから、弁慶の笈も義経の太刀も、紙幟を立てて飾ればいいじゃないか

 五月一日のことである。

 (注1)佐藤庄司:藤原秀衡の家臣にて、信夫(しのぶ)郡を領し、信夫ノ庄司佐藤元治と言う。継信(次信)・忠信兄弟の父
 (注2)堕涙の石碑:三国時代の魏の大将軍 晋の羊祜(ようこ)の徳を慕い,その碑を見る者は皆感泣した
    このことから、碑文を見たものは皆涙を流すといわれる碑

【飯塚(=飯塚温泉)】
《原文》
 其夜(そのよ)飯塚にとまる。
 温泉(いでゆ)あれば湯に入(いり)て宿をかるに、土坐(どざ)に筵(むしろ)を敷(しき)て、あやしき貧家也(なり)。
 灯(ともしび)もなければ、ゐろりの火(ほ)かげに寝所(ねどころ)をまうけて臥す。
 夜(よる)に入(いり)て雷鳴(かみなり)、雨しきりに降(ふり)て、臥(ふせ)る上よりもり、蚤・蚊にせゝられて(注1)眠らず。
 持病(注2)さへおこりて、消入(きえいる)斗(ばかり)になん。
 短夜(みじかよ)の空もやうやう明(あく)れば、又旅立ぬ。
 猶、夜の余波(なごり)心すゝまず、馬かりて桑折(こおり)の駅に出(いず)る。
 遥なる行末をかゝえて、斯(かか)る病(やまい)覚束なしといへど、羇旅(きりょ)辺土(へんど)の行脚(あんぎゃ)、捨身(しゃしん)無常の観念、道路にしなん、是(これ)天の命(めい)なりと、気力聊(いささか)とり直し、路(みち)縦横に踏(ふん)で伊達の大木戸をこす。

《現代語訳》
 その夜は飯塚に泊まった。
 温泉があったので湯に入ってから宿に泊まったが、土坐に莚を敷いて客を寝かせる様な、身窄(みすぼ)らしい宿だった。
 灯火もないので、囲炉裏の火影(ほかげ)の届く近くに寝所を取って寝た。
 夜中、雷鳴が轟き、雨が頻(しき)りに降って寝床の上から漏れて来て、更には蚤や蚊に体中を刺されて(注1)、眠れない。
 持病(注2)迄起こって、身も心も消え入りそうになる程苦しんだ。
 短夜が漸く明けて来たので、又旅立った。
 まだ昨夜の身体の痛みが残っていて、心が晴れない儘、馬を借りて桑折の宿場に出た。
 遥かな道程があるのにこの様な病に罹り先が思い遣られるも、片田舎への旅行脚だから、即ち俗界の身を捨て、無常の観念を以て路上にて死んでも、これも天命だと考えているうち、気力を少し取り戻し、元気よく道を縦横に踏んで、その名も「伊達の大木戸」を越えた。

 (注1)せゝる(弄る):小さな虫等が喰いつく。刺す
 (注2)持病:芭蕉には、疝気(さんき(胆石症が‥))と痔疾の持病があった/「癪」即ち、胃痙攣という説もある

【笠島(かさしま)】
《原文》
 鐙摺(あぶみずり)(注1)・白石(しろいし)(注2)の城を過(すぎ)、笠島の郡(こおり)(注3)に入(い)れば、藤中将実方(とうのちゅうじょうさねかた)の塚はいづくのほどならんと人にとへば、是(これ)より遥(はるか)右(注4)に見ゆる山際の里をみのわ(注5)・笠島と云(いい)、道祖神の社・かた見の薄(注6)今にありと教ゆ。
 此比(このごろ)の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺(ながめ)やりて過(すぐ)るに、蓑輪・笠嶋も五月雨の折にふれたりと、

  笠嶋は いづこさ月の ぬかり道

 岩沼(注7)に宿る。

《現代語訳》
 鐙摺(注1)、白石(注2)の城を過ぎて、笠島(注3)郡に入り、「藤中将実方の墓はどの辺りだろうか?」と人に問えば、「此処から遙か左(注4)に見える山際の里を、箕輪(注5)・笠島と言い、(‥藤中将が落馬して落命したという‥)道祖神の社や、西行が詠んだ薄(注6)が今も残っています」と教えてくれた。
 この処の五月雨で道は大変悪く、(私の)身体も疲れていたので遠くから眺めやって立ち去ったが‥、
 【蓑】輪、【笠】島という名も五月【雨】に縁があるので一句詠んでみた。

【意味】実方中将の塚のあるという笠島はどの辺りだろう
    行ってはみたいが、五月雨降り頻(しき)るこのぬかり道ではそれも叶わず、振り返り乍ら私は立ち去っていく

 その夜は岩沼(注7)に泊まった。

 (注1)鐙摺:現在の宮城県白石市越河(こすごう)と斎川の間にあった険路
    馬で通る時鐙が岩肌に摺れる程の細道
 (注2)白石:伊達政宗(1567-1636)の臣 片倉小十郎(1557-1615)を祖とする片倉氏1万7,350石の居城
 (注3)笠島の郡:正しくは 名取郡笠島/現在の名取市愛(めで)島笠島
 (注4)右:正しくは 左
 (注5)箕輪:笠島の北方4km/現在の名取市内
 (注6)道祖神の社・かた見の薄:実方は驕慢な人物だった様だ
    長徳04(998)年 彼は笠島の道祖神の前を下馬せず通り過ぎようとした処、神前で馬が倒れ、それが因で死んだ
    道祖神の後ろに彼と馬との名前のみの塚があり、西行もこと塚前で一首詠んでいる

    朽ちもせぬ その名ばかりを とどめ置きて 枯野のすゝき 形見にぞみる

 (注7)岩沼:現在の宮城県岩沼市/奥州街道の宿駅/古くは武隈(=竹駒)と称した
    曾良本、柿衛本は「岩沼宿」と章題の様に記してあるが、実際には宿泊していない

【小生comment】
 小生、昭和57年05月~61年04月迄の4年弱、旧銀行時代仙台支店に勤務し、最初の1年半余りを得意先回りという外交折衝を担当した。
 そして、その担当地区が、仙台市南部から宮城県境迄で、毎日80~100㎞車で走った。
 白石→岩沼→名取→青葉城址は、自分の担当territoryだ。
 今から30年余り昔の事だが、奥の細道を読み返していたら無性に懐かしさが込み上げて来た。
 尚、「笠島」は名取市、「武隈」は名取市の南隣の岩沼市にあり、叙述からすると行程順序が逆で間違いという指摘もある。
 が、白石から北上して笠島を左手にみつつほぼ東進(正確には東南東)すれば岩沼に到るので一概に間違いとは言えない、と小生は思う。

【武隈(たけくま)】
《原文》
 武隈の松にこそ、め覚(さむ)る心地はすれ。
 根は土際(つちぎわ)より二木(ふたき)にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。
 先(まず)能因法師(注1) 思ひ出(いず)。
 往(その)昔 むつのかみにて下りし人、此(この)木を伐(きり)て、名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、「松は此(この)たび跡もなし」とは詠(よみ)たり。
 代々(よよ)、あるは伐(きり)、あるひは植継(うえつぎ)などせしと聞(きく)に、今将(いまはた)、千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍し。
 「武隈の松(注3)みせ申せ遅桜」と挙白(きょはく)(注2)と云(いう)ものゝ餞別したりければ、

  桜より 松は二木(ふたき)を 三月(みつき)越(ご)し

《現代語訳》
 武隈の松を前にして、目が覚める心地がした。
 根は地面から出た生え際で二つに別れ、昔の姿が失われていないことが解る。
 まず思い出すのは能因法師(注1)のことだ。
 昔、陸奥守として赴任してきた人がこの木を伐って名取川の橋杭にした所為だろうか。
 能因は、「松は今はもう跡形もない」と詠んだ。
 代々、或は伐り、或は植継いだりしたと聞いていたが、今又「千歳=千年」の樹齢に相応しく形が整っていて、素晴らしい松の姿であった。
 門人の挙白(注2)が旅立前に「遅桜よ、芭蕉翁が来たら武隈の松(注3)を見せてあげて下さい」と餞別の句をくれたので、それに答える様な形で一句詠んだ。

【意味】弥生三月、江戸旅立ちの桜咲く頃からこの武隈の二木の松を見ようとして、三箇月越しに漸くその願いが叶い見ることが出来た

 (注1)能因法師(988-1050):俗名 橘永愷(ながやす)/甲斐国や陸奥国などを旅し、後拾遺集以降の勅撰和歌集67首入集される等、多くの和歌作品を残した
 (注2)挙白:奥羽出身の商人か。江戸在住。草壁氏。
 (注3)武隈の松:「武隈の 松は二木を 都人 いかゞと問はゞ みきとこたへむ/橘季通(後拾遺集)」の古歌を本歌として詠んでいる
    橘季通(すえみち(生没年不詳))は、清少納言の夫であった橘則光(965-?)の子(季通の母は 橘行平の娘)

【小生comment】
 小生、前述した様に昭和57年05月~58年11月迄、仙台市南部・名取市・岩沼市等の宮城県南部担当の外交担当だった。
 岩沼市の竹駒神社は取引先でもあった。
 その竹駒神社から北方へ200m程の道路沿いに「武隈の松」はある。
 いつも車で其前を通り過ぎたが、当時は、『奥の細道』に強い関心がなかったので特段感傷的な気分も生じなかった。
 今から思えば一寸残念!

[03]武隈の松の二木
 03

【宮城野(=仙台)】
《原文》
 名取川を渡て仙台に入(いる)。
 あやめふく日(注1)也(なり)。
 旅宿(りょしゅく)をもとめて四五日逗留す。
 爰(ここ)に画工加右衛門(がこうかえもん)と云(いう)ものあり。
 聊(いささか)心ある者と聞(きき)て知る人になる。
 この者、年比(としごろ)さだかならぬ名どころを考(かんがえ)置(おき)侍れば(注2)とて、一日(ひとひ)案内す。
 宮城野の萩 茂りあひて、秋の景色思ひやらるゝ。
 玉田(たまだ)・よこ野・つゝじが岡はあせび咲(さく)ころ也(なり)(注3)。
 日影ももらぬ松の林に入(いり)て、爰(ここ)を木の下(注4)と云(いう)とぞ。
 昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」(注5)とはよみたれ。
 薬師堂(注6)・天神(注7)の御社(みやしろ)など拝(おがみ)て、其日はくれぬ。
 猶、松嶋・塩がまの所々、画(え)に書(かき)て送る。
 且、紺の染緒(そめお)つけたる草鞋(わらじ)二足餞(はなむけ)す。
 さればこそ風流のしれもの、爰(ここ)に至りて其実(じつ)を顕(あらわ)す。

  あやめ草 (ぐさ)足に結(むすば)ん 草鞋(わらじ)の緒(お)

《現代語訳》
 名取川を渡って仙台に入った。
 丁度、家々で菖蒲を葺く日【菖蒲(=端午)の節句(注1)】である。
 宿を求めて、四五日(国分町、大崎庄左衛門宅に)逗留した。
 仙台には画工を業とする北野屋加衛門(きたのや かえもん)という者がいた。
 聊(いささ)か風雅に志ある者だと聞いていたので会って親しくなった。
 この加衛門は、「所在が解らない名所・歌枕を調べておきました‥(注2)」と言って、その場所を一日案内して貰った。
 「宮城野の萩」は繁り合っていて、秋の盛りの頃はさぞ見事だろうと思われた。
 玉田・横野という地を過ぎて、躑躅(つつじ)ヶ岡に来ると丁度馬酔木(アセビ)咲く頃であった(注3)。
 日影も洩れない松林に入ったが、此処を「木の下(注4)」という所だそうだ。
 昔もこの様に露が深かったから、「みさぶらいみかさ」の歌(注5)にある様に「主人に笠をかぶるよう申し上げて下さい」と土地の人が詠んだろう。
 薬師堂(注6)・天神(注7)の社等を拝んで、その日は暮れた。
 それから加衛門は松島・塩竈の所々を絵に描いて、贈ってくれた。
 また紺色の染緒のついた草鞋二足を餞別としてくれた。
 成程、風流人と聞いていたが、正にその通りの人物だ。
 こう言う処に人の本質が表れることだ。

【意味】(‥加右衛門のくれた紺色の草鞋を、折しも家々の軒先に挿してある端午の節句に飾る(紫色の)菖蒲(アヤメ)にみたてて‥)
    頂いた草履の紺の染緒にも、菖蒲を結んで邪気を祓い健脚を祈ろう
    但し、此処でいう菖蒲は、花菖蒲やアヤメの様に紫色の花は咲かない
   「菖蒲(アヤメ)の紫色」と「草履の染緒の紺色」をかけた芭蕉一流の機智・洒落である

 (注1)あやめふく日:アヤメ即ち、菖蒲や蓬を軒先に葺い(=さし)て邪気を祓う風習/これが端午の節句、男子の健やかな成長を祈願する日となった
 (注2)年比さだかならぬ名どころを考置侍れば:当時仙台領では、第4代藩主伊達綱村の歌枕再整備、民間では大淀三千風を中心に調査設定が行われていた
    大淀三千風(おおよど みちかぜ(1639-1707))は伊勢松坂出身、本名三井友翰(ともふみ)/ 北野屋加右衛門は、大淀三千風の高弟
 (注3)玉田・よこ野・つゝじが岡はあせび咲ころ也:この件は、源俊頼(1055-1129)の次の歌を踏まえている
    源俊頼は、宇多源氏/宇多天皇の第八皇子 敦実親王(→源重信→源道方→源経信→源俊頼)の玄孫

     とりつなげ 玉田横野の はなれ駒 つつじの岡に あせみ咲くなり(『散木奇謌(さんぎきか)集』源俊頼(1055-1129)

 (注4)木の下(きのした・このした):歌枕/現在の仙台市木の下
    東北三駒「八幡馬・木(ノ)下駒・三春駒」の一つ「木ノ下駒」は仙台の玩具

[04]我家にある東北三駒とチャグチャグ馬コ「左より八幡馬・木(ノ)下駒・三春駒・チャグチャグ馬コ」
 04

 (注5)「みさぶらひみかさ」:古今和歌集「大歌所御歌(よみ人しらず)巻20/東歌にある歌(1091)」の歌を踏まえた文言

     みさぶらひみかさと申せ宮城野の木の下露は雨にまされり

    【意】お付きの人よ、(ご主人様に)「笠をどうぞ」と申し上げよ
       この宮城野の木の下に落ちる露は雨以上に沢山濡れるので‥
       みさぶらひ=御侍〔主人の付き人〕

 (注6)薬師堂:陸奥国 国分寺跡にある/慶長12(1607)年 伊達政宗(1567-1636)に拠って修造された
 (注7)天神:元来は宇田郡にあったが、寛文07(1667)年 伊達綱村が躑躅ヶ岡に移し新造した

【壺碑(つぼのいしぶみ)】
《原文》
 かの画図(ゑず)にまかせてたどり行(ゆけ)ば、おくの細道の山際(やまぎは)に十符(とふ)の菅(すげ)有(あり)。
 今も年々十符の菅菰(すがごも)を調(ととのへ)て国守(こくしゅ)(注2)に献ずと云(いへ)り。
  壷碑 市川村 多賀城に有(あり)。
 つぼの石ぶみは高さ六尺餘(あまり)、横 三尺斗(ばかり)歟(か)。
 苔を穿(うがち)て文字幽(かすか)也(なり)。
 四維(しゆい)国界(こくかい)之(の)数里(すうり)をしるす。
 此城(このしろ)、神亀元年、按察使(あぜち)鎮守符(=府)将軍 大野朝臣東人(あずまひと)之(の)処里(=所置(おくところ))也(なり)。
 天平宝字六年 参議 東海 東山(とうさんの)節度使 同(おなじく)将軍 恵美(ゑみの)朝臣朝獦(あさかり)修造(をさめつくる)而(なり)。
 十二月朔日(ついたち)と有(あり)。
 聖武皇帝の御時(おんとき)に当(あた)れり。
 むかしよりよみ置(おけ)る哥枕(うたまくら)、おほく語(かたり)傳(つた)ふといへども、山崩(くずれ)川流(ながれ)て道あらたまり、石は埋(うずもれ)て土にかくれ、木は老(おい)て若木にかはれば、時移り代(よ)変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰(ここ)に至りて疑(うたがひ)なき千歳(せんざい)の記念(かたみ)、今眼前に古人(こじん)の心を閲(けみ)す。
 行脚の一徳、存命の悦び、羈旅(きりょ)の労(つかれ)をわすれて、泪も落(おつ)るばかり也(なり)。

《現代語訳》
 加衛門が画(か)いてくれた絵地図に従って進んで行くと、奥の細道と呼ばれる塩釜街道の山際に十符の菅菰(注1)の材料となる菅が生えていた。
 今も毎年十符の菅菰を作って藩主(注2)に献上していると言うことだった。
 壷の碑は市川村多賀城にあった。
 壷の碑は高さ六尺、横三尺位だろうか。
 文字は苔を抉(えぐ)って幽かに刻んで見える。
 四方の国境からの里数(=距離)が記してある。
 「この砦【多賀城】は、神亀元年(724年)、按察使鎮守府将軍 大野朝臣東人が築いた。
 天平宝字六(762)年 参議 東海東山節度使の恵美朝臣朝獦が修造した。12月1日」と書かれている。
 聖武天皇の時代のことだ。
 昔から詠み置かれた歌枕が多く語り伝えられているが、山は崩れ川は流れ、道は変わり、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に替わった為、時代の変遷に拠って、その跡の不確かなことばかりだった。
 だがこの壺碑に到っては紛うことない千年来の姿を留めている記念物であり、今これを眼の前にして古人の心を見る心境だ。
 これこそ行脚の一徳・利点であり、生き長らえばこそ味わえる喜びであって、私は旅の疲れも忘れ、涙も落ちるばかりに感動した。

 (注1)十符の菅菰:網目が10ある菅菰(=菅薦(すがこも)=スゲで編んだ筵(むしろ))
 (注2)国守:仙台藩主 伊達氏

 「歌枕」とは、古来歌に詠み込まれた古典的な地名であった。
 それは数多い日本の地名の中で、とくに王朝の歌人達の美意識に拠って選び出された言葉であった。
 歌人達はその土地に行ったことがなくても、歌枕には特殊な感じを抱いていて、その言葉にはそれを詠み込んだ歌の全体の気分が被(かぶ)さっていた。
 その中でも東(あづま)や陸奥(みちのく)の歌枕には、exoticな趣味を掻き立てられたから、しきりに空想を掻き立てて歌を詠んだ。
 芭蕉は平安期の歌人達が、京にあって空想を欲しい儘にして詠んだ歌枕を、実際に眼で確かめ句に詠み込もうとしたのである。
 ‥以上、山本健吉「奥の細道を読む」(P.213)より引用‥

【小生comment】
 今日は、『奥の細道』第5回で、『浅香(安積)山』『信夫の里』『佐藤庄司が旧跡』『飯塚』『笠島』『武隈』『宮城野』『壺碑』の8箇所の模様をお伝えした。
 これだけ多くの情報量をお届けするのは躊躇したが、芭蕉が古人の歌人が訪れた陸奥の歌枕・名所をかくも積極的に訪れていることに改めて驚いた。
 「奥の細道」を詠み込んで行く程に、芭蕉が如何に多くの名歌や史実を理解していたか、「俳聖 芭蕉」の文化人としてのlevelの高さ・凄さを痛感している。

■続いては、06月13日(土)に私用で名古屋へ行く機会があり、2つの美術館を巡って来た。
 今日は、「奥の細道」のvolumeが予想以上に大きかったので、最初に訪れた桑山美術館『所蔵日本画展<院展の画家たち>-近代日本画の開拓と創造-』展だけご紹介する。
 その後見た「愛知県美術館『片岡球子』展と愛知県芸術劇場concert hallにて開催された ハンガリー国立歌劇場に拠る歌劇『セビリアの理髪師』、そして、愛知県芸術劇場concert hallにて開催された ハンガリー国立歌劇場に拠る歌劇『セビリアの理髪師』と06月14日(日)ライフポートとよはしconcert hallにて開催された 豊橋今日今日楽団の「創立50周年記念」と銘打った第116回定期演奏会の模様については、次号の《会報》での報告に譲りたい。お楽しみに!

[05]桑山美術館 正面入口
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[06]桑山美術館 中庭と石碑
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 桑山美術館は、知多郡八幡町(現・知多市北部)出身の実業家 桑山清一(1902-89)氏が蒐集した美術・工芸品を所蔵している。
 桑山氏所有の当該作品群を 財団法人桑山清山会に寄贈、昭和56(1981)年04月に名古屋市昭和区山中町に開館した私立美術館。
 当美術館の収蔵品は、日本画と茶道具が主。春季に日本画展、秋季に茶道具の展示を開催している。
 今回は、現在開催中の<院展の画家たち>-近代日本画の開拓と創造-と言う題の所蔵日本画展を見て来た。
 1階と2階展示室併せて日本美術院の24人29点が展示されている。
 以下に、受付にて販売されていたpost cardsの中から、本展覧会に展示されていたものから6点ご紹介する。

[07]本企画展leaflet

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[08]速水御舟(1894-1935)『小春』1910年
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 本作品は、速水御舟17歳になる年の03月、巽画会に初出品し入選した画壇debut作。
 早熟の天才ぶりを発揮していて、技量の高さにただただ感心する

[09]奥村土牛(1889-1990)『蓮』1958年頃
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[10]川端龍子(1885-1966)『花王図』制作年不詳
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[11]前田青邨(1885-1977)『被物』1974年
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[12]小倉遊亀(1895-2000)『白い花』1988年
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 個人的にも大好きな小倉遊亀の作品。
 彼女お得意の静物画の花と花瓶を描いているが、本作は彼女の作品にしてはかなり写実的である
 本展には、もう1作『壺の花』(制作年不詳)が展示されていた。
 明るい空色の花菖蒲を描いた静物画である。
 小生、個人的にはこちらの方が好きだ。post cardは販売されてなかったのが残念!

[13]吉田善彦(1912-2001)『講堂跡の春』1968年
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【小生comment】
 流石に院展の(日本)画家達の作品群である。
 珠玉の作品群が展示されていて、見る者の眼を楽しませてくれた。

【後記】前《会報》でご紹介した亀井勝一郎著『青春論』から印象的なphraseをもう一つ紹介したい。

 明治から今日迄、青年に読まれた翻訳小説をあげるなら、恐らくトルストイと並んでドストエフスキーの作品は、隠れた連続best sellerといっていいだろう。〔中略〕
 彼の作品は、人間の実態、あらゆる危機に臨んだ時の人間のエゴの醜さや罪の根源を示してくれた。それは大きな刺激となり、彼の作中人物を模倣した作家も少なくない。処が、唯一つ『カラマーゾフの兄弟』の中のアリョーシャを模倣した作家がいなかった。私はこれを注目したいのである。
 アリョーシャは清純なキリスト教信徒である。ドストエフスキーの描いた奇怪な人物、醜怪な人物の中で、天使の様に純潔で求道的な青年である。ドストエフスキーは決して人間の醜悪や虚無だけを描いたのではない。神との対決に於いて、清純な人間像を創造しようとした。この点に注意を向け、それを模倣しようとした作家がいなかった、ということに私は注目したいのだ。〔中略〕
 兎に角清純な人間像が現代小説の中に、あまりにも少ないのではないか。このことは女性像についても言える。女性の解放が叫ばれて姦通や淫乱の姿が露骨に描かれ始めた。人間は確かにそういう面があり、今迄抑制されていたのは事実だが、それがどぎつく繰り返されると清純な女性や聖母型の女性像が欲しくなる。
 無論戦前のことを考えると一つの危険もある。それは「清純」ということが形式化されて、所謂貞女型の女性像が流布することである。戦時中の女性は、賢く貞女たることを強制されたと言って良い。
 人間性を無視した「純潔」「貞潔」「清純」が、どれ程人間性を歪めるか。形式的な抽象道徳が日本では権威を持ち易い。小説は元来それへの反抗であり、人間性の実態を容赦なく描き出さなければならないものである。〔中略〕
 エロティシズムを求める気持ちは誰にもあるが、これも又人間性の一面に過ぎないことを知っておく必要がある。
 現実の人間を見れば解る。それは矛盾した存在である。青春時代に性への無拘束な夢を抱くのは当然だが、同時に深い友情とか愛について考えるものだ。現代の青年を「アブレ」と称してその無軌道を嘆く人もあるが「アブレ」でない青年だって多い。目立つことなく地道に勤労している青年がいる。
 人間には獣性があるが、同時に神聖な欲求もある。この矛盾の戦いが根底にあって、初めて優れた作品が出来るのは当然だ、ドストエフスキーにしても、トルストイにしても、人間性の大矛盾に立脚した人である。人間の醜悪や性の極限を描き得たからこそ同時に清純な人間像をを創造し得たのである。
 このことを併せて、現代の日本の小説を見て、誰しも気付くのは「永遠の女性像」のないことである。ダンテに於けるベアトリ―チェ、ファウストに於けるグレートヘンなどその原型だが、自分の愛した女性を、例え一時は情欲の底に塗(まみ)れても、やがてそれを聖化して心に永続せしめようという欲求を「女性像」として著した人は実に稀だ。逆に全ての女性は「永遠の女性」か「聖母」を心の底に潜在させている。姦淫の危機の中にすらそれを潜めているのではないか。
 谷崎純一郎の『少将滋幹(しげもと)の母』の「母」などは聖母の一典型であり『春琴抄』の春琴や、或(あるい)は高村光太郎の詩集『智恵子抄』の智恵子など、現代文学では稀な「永遠の女性像」である。それは浄化された愛と言っても良い。
 こんなことを言うと、必ず甘いと言う人があるが、そもそも人間の醜悪さを深く実感しない処に「清純」とか「聖化」という観念は成立しないのである。〔後略〕
〔第四章/モラルを求める心〔神聖と獣性の戦い〕‥P.104-107‥より〕

【小生comment】
 人間は、「神聖」と「獣性」、その両方を持ち合わせている矛盾した生き物である。
 この両者が並存するという矛盾の戦いが根底にあって、初めて優れた作品(=小説)が出来る、と著者は言う。
 換言すれば、人間に「獣性」の発露たる「醜悪さ」があるからこそ、人間の「神聖」「清純さ」が輝き、尊ばれ、そして受容されるのだ。
 程度の差こそあれ、本来、「獣性」と「神聖」とは両極にあるものだ。
 人間は一般に、自らが持つ「獣性」を、同じく自らが持つ「理性」で抑え込んで生きている。
 但し、「獣性」そのものが決して「絶対悪ではない」ことも事実である。
 もし、人間から「獣性」を排除したら、人類の生殖活動がなくなり、人類は滅亡することは避けられないからだ。
 小生の今の立ち位置は何処にあるのだろうか?
 答えに窮してしまった‥。

 お別れは、勤務先のビルの軒先で巣立ち間近の燕子達の様子を添付写真でご紹介してお別れしたい。
 05月10日頃過ぎから、親ツバメは巣から尾羽を出した恰好で卵を温めている様子だった

[14]燕子1:2015年05月25日正午過ぎ現在/巣の中を覗き込む親ツバメ‥雛が誕生したかは不明
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[15]燕子2:2015年06月08日午後05時半現在/餌をねだり大きな口を開ける雛鳥
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[16]燕子3:2015年06月15日午前8時半現在/餌を運んできた親鳥(左)と大きな口を開けた雛鳥
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[17]燕子4:2015年06月17日午後2時半現在/写真[16]と同じsituationだが雛鳥が日に日に成長していることが解る
 17420150617216situation_2

[18]燕子5:2015年06月19日正午過ぎ現在/もう巣立ち間近な雛鳥たち
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 最近TVはNews以外は滅多に見ないが、昨日、帰宅後偶々TVをつけたら「プレバト芸能界」という番組の中で、俳句教室をやっていた。
 上野不忍池の昼間の情景写真を基に俳句をつくるのであるが、女優 三田佳子が素晴らしい俳句を披露していた。
 師匠が絶賛したその俳句とは以下の作品である。

 爪音(つまおと)や 紫陽花火照る 白日夢  三田佳子

 彼女曰く‥、昼間の不忍池に咲く紫陽花の花と静寂を詠んだという。
 俳句の師匠も、紫陽花と白日夢の「紫と白」「陽と日」「花と夢」の連関、爪音と白日夢の関係が絶妙だと絶賛していた。
 師匠が、一つだけ指摘したのは、「紫陽花のあとの「火照る」を平仮名で「ほてる」とすると、「紫陽花と白日夢」が強調されていい」という点だけだった。

[19]上野不忍池の紫陽花1
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[20]上野不忍池の紫陽花2
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 では、また‥。

2015年6月11日 (木)

【時習26回3-7の会0552】~「今夏【2637の会】クラス会について」「『奥の細道』第4回‥『須賀川』‥」「05月30日(土)~31日(日):賢人会旅行『播磨国【国宝】4寺院 & 黒田官兵衛の足跡を中心に4城(跡)他 巡り〔二日日目〕』報告」「06月07日:『豊橋市 賀茂しょうぶ園/花しょうぶまつり』『新城 四谷 千枚田』『岩村城址』を見て」「06月09日:名古屋ボストン美術館『Double Impact 明治ニッポンの美』展 & 古川美術館『四季暦/朱夏の章』展を見て」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 さぁ、今日も【2637の会 0552】号をお送りします。

■先ず最初の話題は、「今夏【2637の会】クラス会について」です。
 2006年08月から始まった【2637の会】クラス会も、今年で10周年を迎えることになりました。
 今年は、08月の旧盆辺りの土曜日となると、08日か15日のいずれかになります。
 予め、この二日のどちらで開催するか、ご希望ある方がございましたら、mail等で連絡頂ければ幸いです。
 今月下旬頃の本《会報》にて開催日を正式決定したいと思います。
 それから、開催場所についても、皆さんからご希望があれば教えて下さい。
 現状、会場も未定です。
 開催日&開催場所について、皆さんのご意見をお待ちしています。

■それから、06月08日(月)に【2637の会】classmateの二橋保彦君から久し振りにmailを頂戴しました。
 文面から推察するに、お元気な様子でした。
 小生からは、返信mailで、今夏08月のクラス会に参加しれくれる様お願いしました。
 参加してくれるといいですね。

■さて続いての話題は、「松尾芭蕉 作『奥の細道』の第4回目。
 元禄二(1689)年 卯月二十日(新暦06月07日)~卯月二十八日(新暦06月15日)にかけての芭蕉一行の話である。

 前回迄と今回の芭蕉一行の行程を、曾良旅日記と照らして記すと以下の通りである。
 三月二十七日(新暦05月16日) 江戸隅田川畔にある芭蕉庵を出立、深川から船で千住迄行き、其処で陸に上がる。草加を過ぎ春日部で一泊
  同 二十八日( 同 05月17日) 間々田、宿の記載なし
  同 二十九日( 同 05月18日) 鹿沼、宿の記載なし
 四月一日( 同 05月19日) 日光、上鉢石町 五左衛門宅に泊す
  同 二日( 同 05月20日) 玉入、名主宅に泊す
  同 三~十五日( 同 05月21日~06月02日) 黒羽&余瀬、黒羽藩城代家老 浄坊寺図書高勝と彼の弟で余瀬在住の岡忠治豊明宅の両家に13泊す
  同 十六~十七日( 同 06月03~04日) 高久、高久角左衛門宅に2泊す
  同 十八~十九日( 同 06月05~06日) 那須湯本、和泉屋五左衛門宅に2泊す
  同 二十日( 同 06月07日) 旗村(簱宿)、宿の記載なし
  同 二十一日( 同 06月08日) 矢吹、宿記載ない
  同 二十二日~二十八日( 同 06月09~15日) 須賀川、相楽等窮(さがらとうきゅう)宅に7泊す

 前回〔第3回〕で紹介足りなかった処を山本健吉著『奥の細道を読む』に拠って若干補足したい。
 白河の関を越えると、愈々陸奥だ。古関と新関があって、道が違うのだが、いにしえの西行・能因たちが越えたのは、古関の方だ。
 中世以来、一里程西に新関が拓けて、古関は廃(すた)れて仕舞った。
 芭蕉も新関の道を辿ったのだが、古心が疼き出すのをどうしもうもなかった。

 四月二十日、芭蕉は新関を越え白坂町に入った。〔中略〕
 此処は、栃木県と福島県の県境、昔は下野国那須郡と陸奥国白河群の国境だ。
 二十間ばかり隔てて、野州側と奥州側に一社ずつ関明神があり、夫々住吉明神と玉津島明神(境神社)と言っている。
 併せて「二所の関明神」と言い、玉錦や大鵬を出して羽振りの良かった相撲部屋の名は、此処から出ているらしい。〔中略〕

 芭蕉と曾良は、白坂町の入口から右へ切れて、簱宿へ行き、此の晩は泊った。
 町の西に小高い丘があって、白川がその下を帯びの様に巡って流れている。
 その丘に白河神社があり、かつて住吉・玉津島を一緒に祀った宮なので、「二所の関」と言った。
 芭蕉は、宿の主に教えられて、この社に参って居る。
 社の周りは、杉の巨樹が鬱蒼と茂った関の森で、此処が古関の址と言われている。
 即ち、歌枕「白河の関」でもあった。

 白河の関を越える時、古人は冠を正し、衣装を変替えたという。
 それは能因法師以来の歌枕であることを意識してのことだった。
 だから、曾良も、その故事に倣って、「卯の花をかざしに関の晴着かな」と詠んだ。〔中略〕

【須賀川】
《原文》
 とかくして越行まゝに、あぶくま川を渡る。
 左に会津根(あひづね)高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる。
 かげ沼と云(いふ)所を行(ゆく)に、今日(けふ)は空曇(くもり)て物影うつらず。
 すか川(がは)の駅に等窮(とうきゆう)(注1)といふものを尋て、四、五日とゞめらる。
 先(まづ)「白河の関いかにこえつるや」と問(とふ)。
 長途(ちやうど)のくるしみ、身心(しんじん)つかれ、且(かつ)は風景に魂うばゝれ、懐旧(くわいきう)に腸(はらわた)を断(たち)て、はかばかしう思ひめぐらさず。

  風流の 初(はじめ)やおくの 田植(たうゑ)うた

 「無下(むげ)にこえんもさすがに」と語れば、脇・第三(注2)とつゞけて、三巻(みまき)となしぬ。

 此宿(このしゅく)の傍(かたはら)に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧(注3)有(あり)。
 橡(とち)ひろふ太山(みやま)もかくや(注4)と閒(しづか)に覚(おぼえ)られてものに書付(かきつけ)侍る。
 其詞(そのことば)、
  栗といふ文字は西の木と書(かき)て西方浄土に便(たより)ありと、
  行基菩薩(注5)の一生杖(つゑ)にも柱にも此(この)木を用(もちひ)給ふとかや。

  世の人の 見付(みつけ)ぬ花や 軒の栗

《現代語訳》
 この様にして白河関を越えて行くうちに、阿武隈川を渡った。
 左に会津の嶺が高く聳え、右に岩城・相馬・三春の庄が広がり、常陸・下野の国境には山々が連なっていた。
 影沼という所に行くが、今日は空が曇っていて水面に物影が映らなかった。
 須賀川の駅で等窮(注2)という者を訪ねて、四五日逗留した。
 彼は先ず「白河関をどんな気持ちで越しましたか(→どんな俳句が出来ましたか?)」と尋ねて来た。
 「長旅の辛労で心身共に疲れ、又風景の良さに魂を奪われて、懐旧の思いに断腸の思いで、確りと句を詠むことが出来なかった」

【意味】今正に田植えの最盛期だ
 白河関を越えて陸奥に足を踏み入れて我々が最初に知った風流‥それは、農民たちが歌う鄙びた「田植え歌」の歌声だった

 「何も詠まずに関を越すのも流石に残念ですから、こんな句を作ったのです」と語れると、その句を発句に、脇・第三(注2)と続けて三巻の連句が出来上がった。
 この宿の傍らに、大きな栗の木陰に庵を建てて隠遁生活をする僧(注3)が居た。
 西行が「橡ひろふ(注4)」と詠んだ深山の生活はこんなであったろうとシミジミ思われて、あり合わせのものに感想を書き記した。
 「栗」という字は「西」の「木」と書いて西方浄土に縁(ゆかり)があるものだと、行基上人(注5)は一生杖にも柱にも栗の木をお使いになったと言う。

  世の人の 見付ぬ花や 軒の栗

【意味】世間の人にも注目されない目立たない栗の花がこの庵の軒端(のきば)に咲いている
 その栗の木陰にある庵主も隠遁生活をしているのだが、趣あって床しく感じられることだ

[00]栗の木に咲く栗の花
 00

 (注1)等窮:相楽等窮。須賀川に住む富裕な大地主。芭蕉の俳友として親交あった
    芭蕉一行が見聴きしたのは、この等窮の所有する広大な田の田植えと田人・早乙女達が唄う田植え歌だった
 (注2)脇・第三:連句の用語。芭蕉が詠んだ「風流の‥」の俳句を「発句(5-7-5)」として、それに続く「脇(7-7)」、「第三(5-7-5)」と続いた
    連句は、36句を詠み、1巻とする。36句目が「挙句(あげく)(7-7)」である
    「挙句」は、「挙句の果て(=終わり、結局)」の語源となった

    発句:風流の初やおくの田植唄  芭蕉
    脇 :覆盆子(いちご=苺)を折て我まうけ草 等窮
    第三:水せきて昼寝の石やなをすらん  曾良

 (注3)大きな栗の木陰に庵を建てて隠遁生活をする僧:等窮の屋敷内に庵を結んでいた可伸(かしん))という名の僧。栗斎(りっさい)とも号した
    この庵の傍らに大きな栗の木があり、その木蔭に起居した庵ということから、栗斎と名付けた
    「斎」は、もの忌みや勉強の為に籠る部屋のこと
 (注4)橡ひろふ:原典は西行(1118-90)の山家集にある次の歌
    山深み 岩にしだるる 水留めん かつがつ落つる 橡(とち)拾ふほど
   【意味】山が深いので、岩に滴り落ちる水を留めよう、ぽつりぽつりと僅かに落ちる橡を拾う間に
   〔別解〕水留めん : 板本「水とめん」とあり、水を求め、流れに従ってついて行こう‥‥、橡を拾う間に、と言う解釈もある
 (注5)行基(668-749):奈良時代の僧、諸国を行脚し、民衆に仏教を広める
    奈良の東大寺大仏造営の為の勧進を行い、大僧正を授けられる

【小生comment】
 大相撲の二所関部屋の「二所の関」が、白河の関の住吉&玉津島神社に由来するとは知らなかった。
 芭蕉は、陸奥を旅した古(いにしえ)の風流人、西行と能因への憧憬はかなりのものであることが、『奥の細道』を此処迄読み進めて来て改めて実感出来た。

■続いては、《会報》前号にてご報告した05月30日(土)~31日(日)、時習26回生の同期 中嶋君と谷山君等との『播磨国の国宝建築物と黒田官兵衛縁の史跡巡り』の旅の二日目の模様についてである。

※ 二日目 ※

[01]やしろ会館での朝食
 01

◆07:35発『やしろ会館』→〔24km 52分〕
     最初の訪問地 一乗寺の拝観時間が08時00分~と早い。
     07時00分に摂った朝食後の手際も良く、予定より25分早く出発。

◆08:55着『一乗寺』は、加西市坂本町にある天台宗の寺院

[02]西国33観音霊場26番札所 法華山 一乗寺 参道石段
 023326

[03]一乗寺【国宝】三重塔(左手奥)&本堂(=金堂)(右手奥) に到る参道石段にて
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[04]一乗寺【国宝】三重塔 前にて
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 白雉元(650)年 法道仙人の開山、孝徳天皇(596-654(在位645-54))の勅願に拠る官刹。
         高徳帝は、皇極天皇の同母弟。我国で初めての元号「大化(645-50)」と「白雉(はくち)(650-654)」を制定。
         仙人は、Indiaより紫雲に乗り中国朝鮮を経て当山に降り立ち、山を法華山(ほっけさん)と名付けた。
 988(永延02)年 花山法皇(968-1008(在位984-988))が御幸。金堂(=本堂)を大悲閣と命名。【西国26番札所】と定む
 1171(承安元)年 【国宝】三重塔 建立。塔身部の逓減(初重→三重になるに従い小さくなる)率が大きいことが特色。

【小生comment】
 花山(かざん)法皇(=天皇)というと、法皇になってから、西国三十三所霊場を巡礼し修行した。
 『大鏡』には、藤原兼家が、自らの外孫 懐仁親王(=一条天皇)を即位させんが為、彼の三男道兼をして、花山天皇に一緒に出家するよう唆(そそのか)したとある。
 愛する女御(藤原忯子)を亡くし悲嘆にくれる天皇と一緒に内裏から元慶寺(=花山寺)に来た道兼本人は逃げ出し花山天皇だけが寺に取り残された。
 17歳で天皇になった花山天皇は、在位2年に満たない19歳で退位を余儀なくされた、悲運の帝であった。

◆09:10発 一乗寺→〔33.9km 42分〕
◆10:05着『書写山rope way (料金:往復900円) 』09時より毎時:00分・15分・30分・45分の15分間隔で、全長781m、高低差211m〔所要時間4分〕
◆10:15発→〔4分〕→
◆10:19着『書写山/山頂』
◆10:22発→〔マイクロバス利用(摩尼殿近く迄):入山料@500円+マイクロバス@500円=1,000円〕〔所要時間5分〕
◆10:28着『圓教寺』

[05]圓教寺 摩尼殿(左上奥)に到る石段前にて
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[06]天を覆う様な威圧感ある摩尼殿
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[07]三つの堂 食堂 前にて 中嶋君と
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[08]三つの堂 大講堂 前にて
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[09]三つの堂 恒行堂 前にて
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 書写山((=書寫山)しょしゃざん)圓教寺(えんぎょうじ)は、天台宗別格本山である。【西国27番札所】。
 「西の比叡山」とも呼ばれ、中世では、比叡山・大山と共に天台の三大道場と並び称された巨刹である。
 西国33所中最大規模の寺院で、境内は、仁王門~十妙院area「東谷」、摩尼殿を中心とした「中谷」、三つの堂のある「西谷」に区分される。
 伽藍がある書寫山は標高371m。
 当寺は、姫路藩本多家の墓所になっている。
 室町時代から明治時代迄は、女人禁制だった。

【小生comment】
 映画のロケ地としても最近頓(とみ)に脚光を浴びている。
 Hollywood映画『ラストサムライ』(2003年公開)
 NHK大河drama『武蔵』(2003年放映)
    同   『軍師官兵衛』(2014年放映)
 今回の旅行は、『播磨国の官兵衛』の足跡を訪ねる‥という目的もあり、当寺は是非訪れてみたかった。
 秀吉が毛利攻めで播磨に進出した際、この圓教寺に布陣した。
 確か、テレビでも、「三つの堂」の広場を使って布陣する場面を放送していたと記憶している。
 圓教寺は、大変立派な伽藍が建ち並んだ大寺院だ。
 尋ねてみて良かった。!(^-')b♪

◆11:30発→〔マイクロバス(毎時:05分・22分・45分)〕

[10]書写山 rope way 山頂駅展望台から姫路市遠望
 10_rope_way

【小生comment】
 展望台から姫路市内が見渡せるので、姫路城が見えると思ったが、山影に隠れて見えなかった。

◆11:45発〔マイクロバス→書写山ropeway山頂駅〕
◆12:00発『書写山ropeway 山頂駅』
◆12:04着『書写山ropeway 山麓駅』
◆12:10発→〔6.4km 15分〕
◆12:30着『姫路城』東側駐車場

 今年03月27日に大天守の大改修が完了して公開されてまだ2箇月一寸だからか、世界遺産だからだろうか、沢山の観光客に改めて吃驚した。
 車で、姫路城に近づいたら、いずれも駐車場が満車状態。
 何処に駐車しようかと思案して、姫路城の次の訪問地「御着城址」が姫路城から南東にあるので、姫路城の東側で駐車場を探してみた。
 Luckyなことに、姫路城東側の駐車場はまだ空車の所があり其処に停めることが出来た。
 時計を見たら、12時半を過ぎた所なので、まず昼食を摂ることにした。
 姫路城南側正面の大手前の海鮮食堂に入った。

[11]巽方面から姫路城遠望を背景に
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[12]姫路城入口にて
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[13]姫路城[乾小天守→西小天守→大天守/手前:りの一渡櫓]
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[14]姫路城をbackに
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【小生comment】
 帰りの時間のこともあり、大天守閣内部へ入るのは今回は取止めた。
 添付写真でご覧の様に、外から見るだけでも美しく、ホント素晴らしいお城である。
 尚、姫路城についての詳細は、今回は敢えて記すことを省略する。
 大改修なって美しくなり過ぎた姫路城を見て、これじゃあ、改修ではなく、まるで新築の様だ。
 改めて「歴史的建造物の『保存』とは、一体何処迄を言うのだろう」と、一寸複雑な気持ちになって仕舞った。

◆14:15発→〔5.5km 13分〕
◆14:35着『御着城址』

 御着城址は、赤松氏の一族である小寺政隆に拠って築かれた城で、小寺氏の居城である。
 黒田官兵衛も、この城で家老として在城していた。
 現在は、御着城跡公園となっており、本丸跡に天守閣を模した姫路市東出張所が建っている。
 写真は、附近にあった「御着城址 案内板」「黒田官兵衛 顕彰碑」「同 碑文」である。

[15]御着城址 案内板
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[16]御着城本丸跡にある黒田官兵衛 顕彰碑
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[17]黒田官兵衛 顕彰碑文
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◆14:50発→〔303km 5:20/累計走行距離744.0km〕‥【12(後掲)】
    (含 トイレ休憩@10分×2回+昼食休憩40分=60分)〕→【花田IC→東名・音羽蒲郡IC】

19:50 谷山宅着/20:10 今泉宅着/20:15 青木宅着/20:45 中嶋宅着

【小生comment】
 あっと言う間の二日間であった。
 【国宝】の、四寺院、浄土寺 阿弥陀三尊像、姫路城「大天守閣・東&西&乾小天主閣」等を見ることが出来嬉しかった。

■続いては、06月07日(日)『豊橋 賀茂菖蒲園/花しょうぶまつり』『新城 四谷 千枚田』『岩村城址』を見て来たので、その模様についてをお伝えする。
【豊橋市 賀茂菖蒲園/花しょうぶまつり〔05/30(土)-06/21(日)〕】
 江戸系・伊勢系・肥後系の花菖蒲 約300種/37,000株が今が盛りと咲いている。
 一見の価値ある美しさですヨ!^o^;b

[18]豊橋市 賀茂菖蒲園/花しょうぶまつり 案内看板
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[19]賀茂菖蒲園 花菖蒲 scene1
 19_scene1

[20]同上 scene2
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【新城 四谷 千枚田】
 田植えも終わった「四谷 千枚田」。
 中々壮観な眺めだった。

[21]新城 四谷 千枚田 scene1
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[22]同上 scene2
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【岩沼城址】
[23]本丸にて
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[24]本丸の石垣前にて
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■今日最後の話題は、一昨日(06月09日) 仕事で名古屋出張した折、名古屋ボストン美術館『Double Impact 明治ニッポンの美』展 & 古川美術館『四季暦/朱夏の章』展を見て来たのでその模様をお伝えする。

【名古屋ボストン美術館『Double Impact 明治ニッポンの美』展】
 本展は、東京藝術大学美術館に続いての巡回開催である。
 今日は、本展から以下の三点の絵をご紹介する。

[25]黒田清輝(1866-1924)『婦人像(厨房)』1892年
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[26]山本芳翠(1850-1906)『西洋婦人像』1882年
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[27]藤島武二(1867-1943)『イタリア婦人像』1908-09年
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【古川美術館『四季暦/朱夏の章』展】
 本展は、古川美術館所蔵作品から『夏』に因んだ名作展示である。
 確かに、珠玉の傑作選であった。

[28]本展leaflet
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[29]東山魁夷『若葉の渓 』1986年
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[30]森田りえ子『紫陽花・宙』1988年
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[31]吉田善彦『鉄線花』制作年不詳
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[32]宇田荻邨『淀の水車』1944年
 321944

[33]上村松篁『立葵』1971年
 331971

[34]鏑木清方『夏の日盛り』制作年不詳
 34

【後記】今読んでいる、亀井勝一郎著『青春論』から印象的なphraseを一つ紹介したい。
 
[35] 亀井勝一郎著『青春論』
 35

 青春時代に最も大切なのは、友情と恋愛であろう。人間は唯一人生きるものではない。自己に目覚め、道を求むるのも、全て先師や同時代人の助けに由る。
 良き読書、良き師は無論大切だが、共に学び共に遊ぶものとして友人の影響は実に大きい。この意味での邂逅こそ人生の一大事である。友情とは、共に道を求むるもの同志が、互に求めあぐんで、その悩める心を打ち明け合う、そういう心と心との結合を謂うのである。〔中略〕
 青春時代の友情の中には、恋愛感情が多分に含まれ、恋愛の中には、友情感が多分に含まれているものだ。恋愛が感覚的な性的な戯れでない限り、其処には求道の心が必ずある筈だ。友情に拠って支えられた恋愛を、私は恋愛の最高形態だと思っている。
 人間である限り、人間としての様々の欲望は無論避けられないが、その中枢を貫くものとして、友情感が欲しい。
 青春の恋愛は全人格的なものでなければならない。という意味は、我如何に生くべきかという、真剣な問いに於いて為されねばならぬというものだ。
 そういう場合は、或いは稀かもしれないが、たといPlatonic loveでもいい、片想いでもいい。世の所謂幸福な映画的恋愛よりは、片思いや失恋の方が余程大切である。〔第一章/青春を生きる心〔青春とは初めて秘密を持つ日〕‥P.13-14〕

【小生comment】
 実年齢は、還暦を迎える齢となっても、心だけは青春時代でありたい。

 そう思って、本書を読んでみた。
 青春時代に最も大切なのは、友情と恋愛であろう。
 恋愛が感覚的な性的な戯れでない限り、其処には求道の心が必ずある筈だ。
 友情に拠って支えられた恋愛を、私は恋愛の最高形態だと思っている。

 気分だけはいつも万年青年であり続けたいと思っている小生には、亀井氏の上記の言葉は強い共感を与えてくれる。

 では、また‥。

2015年6月 6日 (土)

【時習26回3-7の会0551】~「『奥の細道』第3回‥『殺生石・蘆野』→『白川の関』‥」「05月30日(土)~31日(日):賢人会旅行『播磨国【国宝】4寺院*(鶴林寺 浄土寺 朝光寺 一乗寺) & 黒田官兵衛足跡を中心に4城(跡)(明石城 三木城跡 【国宝】姫路城 御着城跡) + 1寺院(圓教寺)+ 1墓(竹中半兵衛) 巡りから〔初日〕報告」「06月05日:愛知県芸術劇場concert hall『森麻季 soprano recital ‥愛を歌う‥』を聴いて」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 さぁ、今日も【2637の会 0551】号をお送りします。

■さて今日最初の話題は、「松尾芭蕉 作『奥の細道』の第3回。
 元禄二(1689)年 卯月十六日(新暦06月03日)~卯月二十日(新暦06月07日)にかけての芭蕉一行の話である。
 今から326年前の、今時分の『奥の細道』の旅模様である。

【殺生石(せっしょうせき)・遊行柳(or蘆野(あしの))】
《原文》
〔殺生石(注1)(注2)〕
 是(これ)より殺生石に行(ゆく)。
 館代(注3)より馬にて送らる。
 此(この)口付(くちつき)のおのこ、短冊 得(え)させよと乞(こう)。
 やさしき事を望(のぞみ)侍(はべ)るものかなと、

  野(の)を横に 馬牽(ひき)むけよ ほとゝぎす

 殺生石は温泉(いでゆ)の出(いず)る山陰(やまかげ)にあり。
 石の毒気(どくけ)いまだほろびず。
 蜂 蝶のたぐひ真砂(まさご)の色の見えぬほどかさなり死す。

〔遊行柳(or蘆野)〕
 又、清水(しみず)ながるゝ(注4)の柳は蘆野の里にありて田の畔(くろ)に残る。
 此(この)所の郡守 戸部(こほう)某(なにがし)(注5)の此(この)柳みせばやなど、折ゝに給ひ聞(きこ)え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此(この)柳のかげにこそ立(たち)より侍(はべり)つれ。

  田(た)一枚 植(うゑ)て立(たち)去る 柳かな

《現代語訳》
〔殺生石(注1) (注2)〕
 (‥四月十六日の朝‥)黒羽を出発して「殺生石」に行った。
 黒羽で接待してくれた留守居役家老、浄法寺図書(ずしょ)高勝(たかかつ)(注3)の計らいで、馬で送ってもらうこととなった。
 すると馬の鼻緒を引く馬子の男が、「短冊に一句書いてくれないか」という。
 馬子にしては風流なことを望むものだと感心して‥

  広い那須野を馬に乗り横切っていると杜鵑(ホトトギス)が一声啼き飛び過ぎて行った
  馬子よ、馬の頭を杜鵑の啼く方へ向けてくれ
  そして、一緒にに聞こうじゃないか

 殺生石は、温泉の湧き出る山陰にあった。
 石の毒気がまだ消えず、蜂や蝶の類(たぐい)が砂の(‥表面の‥)色が見えない程重なり合って死んでいた。

 (注1)殺生石:玉藻前(注2)に化けていたが九尾(び)の狐としての正体を暴かれ、三浦介義明(みうらのすけよしあき)に射殺(いころ)された後、石に変化したと伝わる
    その石が殺生石で、その石のある辺りは有毒ガスが発生している
    其処へ踏み入れた生き物は死ぬことがあると言われ、芭蕉も本項末尾で「蜂や蝶の類が砂の色が見えない程重なり合って死んでいた」と紹介している
 (注2)玉藻前(たまものまえ): 前《会報》【0550】号『奥の細道』第2回‥【黒羽】の脚注(注2)を参照
 (注3)浄坊寺図書高勝:俳号 秋鴉(しゅうあ)。黒羽藩18千石の城代家老
    弟と一緒に芭蕉一行を歓待。芭蕉らは余程満足したのか、浄坊寺・岡兄弟宅に合わせて13泊も逗留した
    因みに、弟の岡忠治豊明(おか ただはる とよあきら(俳号 翠桃(すいとう)))は近くの余瀬(よせ)村に住み、兄弟で俳諧の嗜(たしな)みがあった

〔遊行柳or蘆野〕
 又、西行法師が「道のべに 清水ながるゝ柳かげ しばしとてこそ たちどまりつれ(注4)」と詠んだ柳を訪ねた。
 その柳は蘆野の里にあり、田の畔(=畦道(あぜみち))に残っていた。
 此処の領主 蘆野民部資俊(注5)が、「この柳をお見せしたいものだ」と折々に便りを下さり、何処の辺りにあるのかずっと気になっていた処、今日正にその柳の陰に立ち寄ったのだ。

  西行法師縁(ゆかり)の遊行柳の下で座り込んで感慨に耽(ふけ)っていると、田植えをしているのが見える
  田を一枚植え終える程の長い時間眺めて立ち去るのだった

 (注4)清水ながるる:「道のべに 清水ながるゝ柳かげ しばしとてこそ たちどまりつれ」西行〔新古今和歌集〕
 【意】道の畔に清水が流れている柳の木蔭よ
    少しの間休もうと立ち止まっただけなのに‥((‥涼しくて‥)長居をして仕舞った様だ)
    「こそ‥つれ」:‥だったのに。

   謡曲【遊行柳】観世信光(1435(or1450)-1516)作
   〔あらすじ〕遊行上人(一遍(1234(39?)-1289))が、白河の関を越えて陸奥に入った。
    すると、老人が現れ、「朽木の柳」に案内し、西行が此処で休んで歌を詠んだと教える。
    老人は上人に念仏を授けられて成仏。
    夜に再来したその老人は、成仏出来た御礼と柳に纏わる故事を語り、舞い、そして姿を消した。

 (注5) 郡守 戸部 某:蘆野民部資俊のこと。3,900石。俳号「桃酔」
   「群守(ぐんしゅ)」は「領主」の漢名。「戸部」は「民部」の唐名

【小生comment】
 芭蕉が詠んだ「田一枚」と、この俳句の本歌とでも言うべき西行の「道のべに‥」の歌の「しばしとてこそ」がlinkしている。
 西行や能因(988-1050)が陸奥を行脚したことに憧れた芭蕉だけに、この「田一枚」には感慨が一入(ひとしお)だったことだろう。
 この「遊行柳」の故事を知らないと、芭蕉のこの俳句「田一枚植て立去る 柳かな」の良さが解らない。

【白川(=白河)の関】
《原文》
 心許(もと)なき日かず重(かさな)るまゝに、白川の関にかゝりて、旅心(たびごころ)定(さだま)りぬ。
 いかで都へと便(たより)求(もとめ)しも断(ことわり)也(なり)。
 中にも此(この)関は三関(さんかん(注1))の一(いつ)(注1)にして、風騒(ふうそう)の人、心をとゞむ。
 秋風を耳に残し、紅葉(もみじ)を俤(おもかげ)にして、青葉の梢(こずえ)猶(なお)あはれ也(なり)。
 卯の花の白妙(しろたえ)に、茨(いばら)の花の咲(さき)そひて、雪にもこゆる心地ぞする。
 古人(注2)冠(かんむり)を正し、衣装を改(あらため)し事など、清輔の筆にもとゞめ置(おか)れしとぞ。

  卯の花を かざしに関の 晴着(はれぎ)かな  曽良

《現代語訳》
 最初は「旅」といっても落ち着かない日々を重ねていったが、白河の関にかかる頃になり漸く旅心が定まった。
 昔、平兼盛(?-991)は「便りあらば『いかで都へ』告げやらむ 今日白河の関は越えぬと〔拾遺集〕」と、この関を越えた感動を何とか都に伝えたいものだ、という意味の歌を残しているが、尤もだと思う。
 特にこの白河の関は奥羽三関の一つ(注1)で、昔から風雅の人々が心を留めている。
 能因法師(988-1051)の「都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白川の関〔後拾遺集〕」という歌を耳にし、
 源頼政(1106-80)の「都には まだ青葉にて 見しかども 紅葉散りしく 白河の関〔千載集〕」を面影として眼に浮かべると、今見る青葉の梢も中々風情がある。
 白い卯の花に、茨の(白い)花が咲き添い、雪よりも白い感じがするのだ。
 古人(注2)は冠を正し、(‥能因法師の歌に敬意を払い‥)白河の関を越えるのに衣装を改めたと、藤原清輔が書き残している程だ。

  古人は冠を正して装束を改めて、この白河の関を越えたという
  我等は(‥其処迄は出来ないので‥)卯の花を髪に挿して関を越える晴着としよう

 (注1)奥羽三関:「白河」「勿来(なこそ)」「念珠(=念種)(ねず=ねんず)(=鼠ヶ関(ねずがせき))」
  【参考】三関:天武天皇元年(=672(=壬申)年)か翌673年、伊勢の「鈴鹿」、美濃の「不破」、越前の「愛発(あらち)」が設置された
    789年、桓武天皇の勅により廃止されたが、806年の桓武天皇崩御、810年平城上皇の奈良遷都の策謀に絡み三関固守の命令が出された
    その際、越前の「愛発」関から、山城の「逢坂」関に替わった
 (注2)古人:陸奥守 竹田大夫国行(くにゆき)。藤原清輔(1104-77)の『袋草子』に登場する人物。生没年不詳。

【小生comment】
 芭蕉は、「白河の関」に到り「旅心(たびごころ)」が定まったと心境を述べている。
 「白河の関」を越えると、本作『奥の細道』の題名通りの「陸奥」である。
 西行や能因の故事の縁の土地を訪ね歩く旅‥。
 『奥の細道』は、読む込む程に、昔の由緒や伝説が短い文章の中に織り込めれていることを知る。
 高校時代の古文の授業も、この様にジックリ読んだら、ずっと楽しかっただろうに‥と今更乍らだが思う。
 まぁ、これからの人生、残された時間はまだまだ沢山あると思われるので、確り読んで愉しんでみたい。

■続いては、一週間前の05月30日(土)~31日(日)、時習26回生の同期 中嶋Y行君【3-2】と谷山K君【3-3】、そしてお城巡りの会の仲間で、我等3人の史跡巡りの師匠 青木喜久夫さんの4人で一泊二日の『播磨国の国宝建築物と黒田官兵衛縁の史跡巡り』に行って来たことについてである。
 今日はその旅行の初日の模様をお伝えする。
 先ずは、二日間の参加者4人の為に作成した「全行程表」をお示しする。

※ 脚注:兵庫県では 6箇所 11建築物が国宝に指定されている
     一箇所で複数の建築物が国宝に指定されているのは以下の通り
     姫路城 5(大天守 西天守 乾天守 東天守 イロハニ渡櫓)
     鶴林寺 2(本堂 太子堂)
     浄土寺 1(浄土堂)
    朝光寺 1(本堂)
     一乗寺 1(本堂)
     太山寺 1(本堂)(←但し、今回は時間の都合で行けない)
    〔‥以上 県別国宝建造物表 より‥〕

※ ※ ※ ※ ※

※ ガソリン代は、10㎞/L、@150円/L、にて試算し、総走行距離にて解散前に精算する
※ 高速道路料金も、中嶋君のETC支払いなので、ガソリン代の精算時に往復の料金を一括精算する

※ 1日目 ※
05:45 中嶋宅発
06:05 青木宅〔中岩田〕発
06:10 今泉宅発
06:25 谷山宅発→〔277km 4:25 含 10分×2回トイレ休憩〕【【00(後掲)】東名・音羽蒲郡IC→

10:55着『明石城跡(坤櫓‥国の重要文化財)』:城 入場料 無料
    明石市明石公園駐車場30分まで無料以降5時間まで¥510 以降1時間毎¥100
    【01】:@127.5円(510円÷4人)‥累計:@127.5円
11:50発→〔 100m 5分〕→
12:00着「←予約時間です‥昼食 『すし 道場 (JR山陽本線 明石駅 ロッテリア近く(‥改札口で確認すると良い‥)駅より徒歩 2分
     ☎️050-5797-0666‥席数があまり多くないので少しお待ち頂くことがあるかもしれないそうです(為念)) 45分』」
12:50発→〔21km 38分/累計走行距離298km〕→
13:40着 『鶴林寺(※【国宝】本堂 ※【国宝】太子堂)/加古川市加古川町北在家424【02】:拝観@500円(含 宝物館)‥累計:@627.5円
     駐 鶴林寺公園駐車場 無料 駐☎️079-421-2000』
14:10発→〔21km 50分/累計走行距離319km〕→
15:00着『竹中半兵衛の墓/三木市平井(342 平井公民館 横駐車場から東南東へ200m)』
15:10発→〔3.1km 8分/累計走行距離322.1km〕→
15:20着『三木城跡〔別所長治〕/三木市上の丸町( 三木上の丸 駅より南へ徒歩3分)』
15:30発→〔10.6km 23分/累計走行距離332.7km〕→
15:55着『浄土寺(※浄土堂)/小野市浄谷町2094 【国宝】「阿弥陀如来及び両脇侍立像」
    【03】:拝観@500円‥累計:@1,127.5円
    駐 無料 ☎️歓喜院0794-62-4318』
16:40発→〔(朝光寺吉祥院にナビ‥吉祥院から直ぐ南が朝光寺)18.8km 43分/累計走行距離351.5km〕→
17:25着『朝光寺(※本堂)‥無人の寺/加東郡社町畑609
    拝観 無料 駐 無料 ☎️0795-44-0733』18:00発→〔10.7km 25分/累計走行距離362.2km〕→
18:25着『やしろ会館/加東市上三草1134-21 ☎️0795-44-0031』泊

※ 二日目 ※
    『やしろ会館』〔宿泊料金:【04】@1泊2食付 7,800円(税・サ込)‥累計:8,927.5円〕
08:00発→〔24km 52分/累計走行距離386.2km〕→
08:55着『一乗寺(※三重塔)』加西市坂本町821-17 ☎️0790-48-2006
    拝観08:00〜【05】@400円‥累計:@9,327.5円
    駐【06】@75円(300円÷4人)‥累計:@9,402.5円
09:35発→〔33.9km 42分/累計走行距離429.1km〕→
10:20着『書写山rope way 《山麓》姫路市書写1199-2☎️079-266-2006』
    【07】往復@900円‥累計:@10,302.5円
    駐 無料
10:30発→〔4分〕→
10:35着『書写山/山頂』→〔マイクロバス=入山@500円+マイクロバス@500円=【08】1,000円‥累計:11,302.5円〕→
10:40着『圓教寺』姫路市書写2968 ☎️079-266-3327
11:30発→〔マイクロバス〕→
11:40着『書写山rope way』
11:50発→〔6.4km 15分/累計走行距離435.5km〕→
12:05着『姫路城』
    【09】入場料(姫路城+好古園)@1,040円‥累計:12,342.5円
    【国宝】大天守・東小天主・西小天守・乾小天守・イロハ二の渡櫓4棟の5つ
    尚、大天守は本年03月27日より一般公開
    【10】@150円(600円/3h÷4人)‥累計:@12,492.5円
    大手門駐車場 姫路市本町68 ☎️079-284-1533 駐600円/3h
13:45発→〔5.5km 13分/累計走行距離441.0km〕→
14:00着『御着城址』姫路市御国野町御着1142-8 ☎️079-287-3652』
    駐 不明/入場料 無料
14:30発→〔303km 5:20/累計走行距離744.0km〕‥【12(後掲)】
    含 トイレ休憩@10分×2回+昼食休憩40分=60分)〕→【花田IC→東名・音羽蒲郡IC】

※ 高速道路料金〔往復〕
[往路]【00】東名・音羽蒲郡IC→第二神明道・大蔵谷IC:@1,195円(4,780÷4人)‥累計:@13,687.5円
[復路]【11】播但連絡有料道・花田IC→東名・音羽蒲郡IC:@1,415円(5660円÷4人)‥累計:15,102.5円
[ガソリン代]【12】@2,790円(11,160円(@150円/L×総走行距離@74.4L(744.0㎞÷10km/L))÷4人)‥累計:17,892.5円【最終】

19:30 谷山宅着
19:45 今泉宅着
19:50 青木宅着
20:20 中嶋宅着

 総費用は、17,892.5円+初日昼食代+二日目昼食代+二日目夕食代 の2万円一寸を各自ご用意下さい

 二日間の賢人会旅行の皆さんの役割分担を以下の通りとします〔‥前回と同じ‥〕

 ・総監督:青木さん
 ・会 計:谷山君
 ・運転者:中嶋君
 ・行程管理:今泉

 ※ ※ ※ ※ ※

 それでは、これから今回は旅行『初日』の模様をお伝えする。
 旅行の日の二三日前迄の天気予報では31日(日)が雨天とされていたのであるが、結果的に両日共天候に恵まれた。
 小生は、自分で言うのも何だが『晴れ男』で、今回も面目躍如となった。

 30日(土)午前06時10分、予定時間キッカリに青木さんを乗せた中嶋君の車が拙宅に到着。
◆06時26分 ほぼ予定通りに 谷山君宅に到着し、彼をpick upして、東名・音羽蒲郡ICから、伊勢湾岸→東名阪→新名神 と行程通り走った。
 途中、土山SAにてトイレ休憩。
 再び、新名神→名神高速を進む。
 西宮IC迄は、若干渋滞はあったものの予定時間より50分程早く移動出来ていた。
 処が‥である。名神高速から阪神高速3号神戸線が工事で一部通行止めになっており、仕方なく迂回した処から進行が変になって仕舞った。
 車備付けのナビ情報が一寸古いこともあって、我等の車は明石を目指したのであるが、ポートアイランドに入って仕舞った。^^;
 断続的な渋滞と軌道修正等をしているうちに、当初予定した第三神明道路・大蔵谷ICを降りた時には逆に予定時間を30分程overしていた。
 最初の訪問地、明石城公園駐車場に到着したのが11時37分。
 予定時間(10時55分)を40分余りも超過して仕舞った。
 同公園南にあるJR山陽明石駅すぐの所にある昼食処「すし道場」に予約時間は12時00分。
 当初予定では、先に明石城を見るつもりであったが、急遽昼食を先に摂ることにした。

◆12時02分 公園内の駐車場に車を停め、南進すること10分余りですし道場に到着した。
 何とか、予約時間12時00分の約束を違えずに済みアポをとった小生、正直安堵した。
 添付写真[01]は、昼食で食したlunch menu「お造り‥昼限定にぎり」である。
 10貫とvolumeも確りあって870円。
 ネタが新鮮で〔明石の?〕鯛迄あるので、コレはホントお値打ち。
 参加者4人全員二重マル!^-^‥◎

[01]すし道場のlunch menu「お造り‥昼限定にぎり」
 01lunch_menu

◆12時25分 すし道場を出発して明石城公園へ。
 すし道場や明石駅から道を挟んで北側が明石城公園。
 結構大きな公園だ。
 徒歩で北上すること2~3分で明石城の国の重要文化財の「巽櫓」と「坤櫓」が見えて来た。
 中々壮観な眺めである。

[02]明石城「坤櫓((ひつじさる やぐら)左側)」と「巽櫓(たつみ やぐら)(右側)」の前にて
 02

[03]巽櫓(左)と明石海峡大橋(右手奥)をbackに‥12時39分撮影‥
 03back1239

【明石城が築城される迄】
 慶長20(1615)年05月07日 大坂夏の陣にて豊臣家が滅亡
 慶長20(1615)年 閏06月13日(新暦08月07日)『一国一城令』布告
 慶長20=元和元(1615)年07月13日(新暦09月05日)「元和」に改元

 元和03(1617)年 小笠原忠政(ただまさ(のち忠真(ただざね(1596-1667))))が信州松本から明石に国替えに。
 当初は、現在の明石城より南西へ約1km程の所にあった船上(ふなげ)城に入り「明石藩」が生まれた。

 元和04(1618)年 徳川秀忠が、西国諸藩に対する備えとして、藩主忠真に新城築城を命じたことに明石城の歴史が始まる。
 忠政は、築城に当たり、将軍秀忠より姫路城主本多忠政(1575-1631←本多忠勝(1548-1610)の長男)の指導を受ける様命じられた。
 元和05(1619)年正月 石垣普請開始〔一国一城令 で廃城となった京都 伏見城や、播磨国 三木城等の資材を移築活用した〕
 元和06(1620)年04月 竣工

 『一国一城令』で廃城となった京都 伏見城や、播磨国 三木城等の資材を移築活用された
 本丸には、御殿と四隅に三重の櫓を配したが、天守閣は、天主台の石垣こそ気付かれたが、終に築城されなかった。

◆13時25分 明石城公園を出発して、加古川市にある『鶴林寺』へ向かった。
◆14:08着 当初予定時間より約30分遅れで『鶴林寺』に到着した。
 訪問の目的は、2つの【国宝】建築物「本堂」と「太子堂」を見る為である。

[04]鶴林寺 仁王門 前にて
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[05]鶴林寺【国宝】本堂 前にて
 05

[06]鶴林寺【国宝】太子堂
 06

 当寺の由来は、6世紀中頃、高句麗の僧 恵便法師が、物部氏等 排仏派の迫害を逃れて此の地に身を隠していたことから始まる。
 聖徳太子は、12歳の時、此の地へ来てその恵便から教えを受けた。
 其後、太子は587年、秦川勝(はたのかわかつ)に命じて精舎を建立。
 刀田山(とたさん)四天王寺聖霊院と名付けられたのが当寺の始まりと伝えられる。
 養老02(718)年、武蔵国 大目 身人部(むのべ/みのべ)春則(はるのり)が聖徳太子の遺徳を顕彰する為、七堂伽藍を建立。
 9世紀初めには、慈覚大師 圓仁(794-864)が入唐の際に立ち寄り、薬師如来を刻して国家安泰を祈願。
 以後、天台宗寺院になった。
 天永03(1112)年、鳥羽天皇から勅額を戴き「鶴林寺」と寺号を改め、勅願所に定められた。
 鎌倉~室町時代が当寺の全盛時代。寺領25千石、寺坊30数箇所を数えた。
 しかし、戦国時代に到り、信長・秀吉からの弾圧に拠って寺領2百石迄に衰微した。

【国宝】本堂:室町時代(1397年)建立。
 和様・禅宗様・大仏様の折衷様式の傑作建築として名高い。
 本尊は薬師如来。
 以下、日光菩薩・月光菩薩・持国天・多聞天(←いずれも国の重文で、60年に1度開帳される秘仏)
【国宝】太子堂:平安時代(1112年)建立。
 兵庫県下最古の木造建築物。鎌倉時代に礼堂(外陣)を増築。

【小生comment】
 檜皮(ひわだ)葺の太子堂が大変上品な佇まいなのがいい。

◆14:30発 予定よりまだ20分遅れであるが、次の訪問地「竹中半兵衛重治(1544.09.27-79.07.06)」の墓へ向かった。
◆15:00着『竹中半兵衛の墓/三木市平井(342 平井公民館 横駐車場から東南東へ200m)』。

[07]竹中半兵衛の墓 説明板
 07

[08]竹中半兵衛の墓所 前にて
 08

【小生comment】
 天下の名軍師、竹中半兵衛重治。
 黒田官兵衛孝高(1546.12.22-1604.4.19)と共に「秀吉に二兵衛あり」とか「羽柴の二兵衛(にひょうえ)」と呼ばれ讃えられた。
 三木合戦最中の1579年07月06日に亡くなった。
 34歳09カ月余りの短い生涯であった。
 死因は肺結核と言われている。
 羽柴秀吉(1537(36?)-98)の主君 織田信長(1534-82)は、黒田官兵衛が有岡城の荒木村重説得に単身乗り込み戻らなかったことを裏切りと看做し激怒し、官兵衛の嫡子長政(幼名:松寿丸)の殺害を命じた。
 その際、「官兵衛は裏切る筈はない」と信じ窮地に陥った秀吉を救う為、自らの命を賭して長政を匿い救ったという逸話は大変有名な話である。
 こういう「義」に厚い男の生き様は、後世の人々にも強い感動を与えてくれる。
 その半兵衛の墓参りを是非一度して見たかったので、それが実現出来て良かった。

◆15:22発 此処で、当初予定時間より12分遅れ迄、時間を取り返した。
◆15:32着三木城跡‥三木市上の丸町( 三木上の丸 駅より南へ徒歩3分)。

[09]三木城址 説明板
 09

[10]三木城址 別所長治 辞世歌碑 前にて
 10

 今はたゞ 恨みもあらじ 諸人の 命と代はる わが身と思へば  別所長治

 三木城址は、城主 別所長治(1558?-80.02.02)は享年23歳だと言われる。
 「三木合戦(天正06(1578)年~08年01月17日)」に敗れた際、別所一族の自害と城兵の助命を条件に、羽柴秀吉に降伏、開城した場所である。
 本丸跡地は、現在は、三木市立金物資料館になっている。
 幕藩体制下の三木町は、84年間が幕府領、187年間が大名8家10藩の私領であった。
 幕府領であった期間が長かったこと、領主交代が頻発していたこと、大名の飛び地であった期間が長かったこと、などに特徴がある。
 〔‥以上、三木市発行のleaflet「三木合戦物語」より引用‥〕

◆15:55発 三木城址での滞在は23分だったが、当初予定の15分より時間がかかり、又予定より30分遅れとなって仕舞った。
◆14:25着 浄土寺着。

[11]浄土寺 浄土堂 前の案内板
 11

[12]浄土寺【国宝】浄土堂
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[13]浄土堂内に安置されている【国宝】阿弥陀三尊像
 13

 当寺は、極楽山(ごくらくさん)という。宗派は、真言宗。本尊は、薬師如来と阿弥陀如来。
 鎌倉時代の初め、東大寺の再建工事が始められた際、大勧進職となったのが俊乗房 思源上人。
 上人は、領所として与えられた大部荘に壮大な寺院を起こしたが、その時の儘に残っているのがこの【国宝】浄土堂である。
 創建の建久03(1192)年から昭和32年迄の約770年の風雪に耐え、一度も解体されずに持ち堪えて来ただけでも偉大である。
 造り方が大仏(=天竺)様という特異な様式で、東大寺南大門と共に全国にただ2つしかない点も重要である。
 我国建築史の上から、かけがえのない大切な建物とされているのもその為である。
 偉大な円柱から何本も突き出ている挿肘木、木鼻と、この挿肘木とを結ぶvolumeに富んだ虹梁、天井を張らずに化粧屋根裏を高い所迄見せている雄大さ、重源上人の雄渾な気魂と、大陸風の大まかな雰囲気に、見る者は圧倒されて仕舞う程だ。
 柱に entasis を持っていること、
 斗の下に皿を付けていること、
 棰(=垂木=:棟木から軒の方に斜めにかけわたした、屋根を受ける材のこと‥)の配り方が四隅だけ扇捶としていること、
 棰鼻に鼻隠板を打ち付けていること、等‥
 純粋な天竺様の建築手法は、この浄土堂の建久を俟たねば、到底解明されない。
 又、【国宝】阿弥陀三尊 像は、阿弥陀如来が立像丈 5.30m、脇侍の勢至菩薩(左)と観音菩薩(右)共に3.70mあり、実に神々しく壮大である。
 〔以上、極楽山 浄土寺 leaflet より引用〕

【小生comment】
 同行の谷山君が「今回の旅行で一つだけ選べと言われれば、この『浄土寺』だヨ」と言っていた。
 一級建築士でもある彼が言うだけあって、国宝の「浄土堂」も然り、その浄土内に安置されていた鎌倉時代の名仏師 快慶作と伝えられる「阿弥陀三尊」像共々実に素晴らしかった。

◆16:50発→ 当初予定より10分奥れ迄挽回した
◆17:20着 ‥ 目的地には当初より05分早く到着し行程管理者として安堵した。

[14]朝光寺 本堂 案内板
 14

[15]朝光寺【国宝】本堂
 15

 初日最後の訪問地は、加東市にある鹿野山(ろくやさん)朝光(ちょうこう)寺。
 宗派は、真言宗。【国宝】本堂が訪問の目的である。
 本堂は、寄棟造、本瓦葺。厨子裏板の墨書に拠り、応永20(1413)年に本尊を移し、正長元(1428)年に屋根の瓦葺が完成したことが解る。
 建築年代の明らかな、室町時代密教仏堂の代表作の一つとされる。
 和様に禅宗様を加味した折衷様建築の代表例とされている。

◆17:32発
◆17:52着『やしろ会館』着~宿泊。

[16]宿泊所 やしろ会館 正面玄関前にて
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[17]やしろ会館 での夕食風景
 17

【小生comment】
 初日は、ほぼ予定通り進み、予定の訪問地は全て踏破出来た。
 同行者の、青木さん、谷山君、中嶋君の3氏も満足してくれた様だ。
 行程管理者として初日については合格点を貰ったので安堵して眠りに着くことが出来た。

■今日最後の話題は、昨日06月05日、愛知県芸術劇場concert hall にて開催された『森麻季 soprano recital ‥愛を歌う‥』を中嶋良行君【3-2】と一緒に聴いて来た。今日はその模様をお伝えしたい。
 演奏曲目は以下の通りである。

 01. グノー/歌劇『ロメオとジュリエット』より「私は夢に生きたい」
 02. J. S. Bach/イタリア協奏曲 BWV971より 第2楽章 ( Piano solo )
 03. J. S. Bach=グノー/アヴェ・マリア
 04. マスカーニ/アヴェ・マリア
 05. グルック(ズガンバーティ編)/メロディ ( Piano solo )
 06. ヘンデル/歌劇『リナルド』より「涙の流れるままに」
 07. 同/歌劇『エジプトのジュリアス・シーザー』より「辛い運命に涙は溢れ」
 08.プッチーニ/歌劇『ジャンニ・スキッキ』より「私の愛しいお父さん」
 09. 同/歌劇『ラ・ボエーム』より「私が街を歩くと‥ムゼッタのワルツ」
 10. シューベルト/即興曲 変ト長調 Op.90-3 ( Piano solo )
 11. 越谷 達之助/初恋
 12. 久石 譲/スタンド・アローン~NHK special drama「坂の上の雲」main theme
 13. 菅野 よう子/花は咲く~NHK東日本大震災復興支援song
 14. ショパン/ノクターン第18番 ホ長調 Op.62-2 ( Piano solo )
 15. ヴェルディ/歌劇『椿姫』より「あぁ、そはかの人か~花から花へ」
《encore》
 01. 北原白秋作詞 山田耕筰作曲/からたちの花
 02. グノー/歌劇『ファウスト』より「宝石の歌」

【小生comment】
 声・顔・styleの三拍子揃った、いま日本を代表する名soprano歌手 森麻季である。
 曲目は、プッチーニの歌劇『ジャンニ・-スキッキ~私の愛しいお父さん』、同『ラ・ボエーム~私が街を歩くと‥ムゼッタのワルツ』、久石譲『NHKspecial drama 坂の上の雲~Main Theme』等々、透き通る様な美声と美顔と佇まいが素晴らしかった。
 小生が森麻季を初めて知ったのは、そんなに古い話ではない。
 実は、今から3年前の2012年04月07日、場所も同じ愛知県芸術劇場concert hallで開催された、ロッシーニ作曲/歌劇『セビリアの理髪師』でロジーナを歌ったのが森麻季で、その時初めて知ったのだった。
 その時は中嶋君と一緒だった。
 爾来、二人共 森麻季のfanになって仕舞った様だ。^^;;
 その日の曲目の中では、プッチーニ/歌劇『ラ・ボエーム』より「私が街を歩くと‥ムゼッタのワルツ」とヴェルディ/歌劇『椿姫』より「あぁ、そはかの人か~花から花へ」が出色だった。
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/26-038904060407.html ←此処をclickして下さい

[18]森麻季
 18

[19]森麻季 soprano recital ‥愛を歌う‥』leaflet
 19_soprano_recital_leaflet

【後記】一年前の明日が、「時習26回生卒業40周年記念旅行&懇親会in京都2014」だった。
 光陰矢の如しである。
 一度しかない人生だ。
 残された人生を悔いなく生き抜いて行きたい。
 癌を患ってからは、人生の大切さを実感する毎日である。

  ゆるやかに 人続きゆく 花菖蒲  星野立子

【解説】明治神宮の菖蒲園での一コマ。
 菖蒲園で、来園した人々が其々の想いに浸りつつ歩いてゆく。
 残された人生を噛み締める様に‥
 小生、この句に目が止まり、人生の大切さ、儚さを強く実感した‥

 では、また‥。

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