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2015年7月の4件の記事

2015年7月23日 (木)

【時習26回3-7の会0558】~「今夏【2637の会】クラス会について《第7報》」「『奥の細道』第10回‥【出羽三山〔①羽黒山 ②月山 ③湯殿山〕】~②月山 ③湯殿山」「07月15日:東京藝術大学大学美術館『ヘレン・シャルフべック』展を見て」「07月19日:『時習26回生 祝還暦 打上花火&二次会』に参加して」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 さぁ、今日も【2637の会 0558】号をお送りします。
  今回、何故こんなに早く《会報》を配信するかと申しますと、明日24日(金)は、夜、旧銀行時代の同期の仲間達との「暑気払い」が名古屋であり、明後日25日は中嶋君【3-2】等と久し振りにgolf。そして、26日(日)は、これも中嶋君他「お城の会」の日帰りbus tour『琵琶湖湖西の朽木氏の関係史跡の巡る』旅に参加することとなっており、明日からの三日間はとても《会報》を作成&配信する時間がない為です。

■では早速、今日最初の話題です。
 先ずは、「今夏【2637の会】クラス会について」の《7回目の報告》です。
 07月20日付の前《会報》【0557】号にてご案内してからの今日迄まだ3日しか経っていませんので流石に新たに連絡してくれたclassmateはいません。(^^;

 ※ ※ ※ ※ ※

【2637の会】クラス会出欠表明状況
〔mail到着順、敬称略〕

「参加」石田(義)・千賀・今泉‥3人
「欠席」竹内‥1人
「考慮中」彦坂、山中、林(恭)‥3人

 毎度繰返しの掲載になりますが、クラス会開催要領は以下の通りです。

             記

1.開催日時:2015年08月15日(土) 18時00分~
 2.開催場所:トライアゲイン〔開発ビル 地下1階 ☎ 0532-55-0255〕
 3.会  費:実費〔4,000円程度〕

 「クラス会」の出欠案内用mailは、前々回の《会報》配信時に《会報》mailとは別にclassmatesの皆さん宛に配信させて頂いております。
 毎度のことで恐縮ですが、皆さんの奮ってのご参加を心よりお待ちしています。!(^-')b♪

■さて、今日続いての話題は、「松尾芭蕉 作『奥の細道』の今日はその第10回目。

 芭蕉と曽良が、六月三日(新暦07月19日) 新庄の渋谷風流宅を後にして最上川を下り、同日から五日(新暦07月21日)迄、羽黒山の南谷別院に3泊したのが、前回9回でお伝えした【出羽三山‥①羽黒山】である。
 今日は、【出羽三山‥②月山と③湯殿山】

 ※ ※ ※ ※ ※

【出羽三山(①羽黒山 ②月山 ③湯殿山)】
《原文》
〔②月山〕
 八日、月山にのぼる。
 木綿(ゆふ)しめ(注1)身に引(ひき)かけ、宝冠(ほうくわん)(注2)に頭(かしら)を包(つつみ)、強力(がうりき)(注3)と云(いふ)ものに道びかれて、雲霧(うんむ)(注4)山気(さんき)(注5)の中に氷雪(注6)を踏(ふみ)てのぼる事八里(注7)、更に日月(にちぐわつ=じつげつ)行道(ぎやうだう)の雲関(うんくわん)に入(いる)(注8)かとあやしまれ、息絶(たえ)身こゞえて頂上に臻(いた)れば、日没(ぼつし)て月顕(あらは)る。
 笹を鋪(しき)、篠(しの)を枕として、臥(ふし)て明(あく)るを待(まつ)。
 日出(いで)て雲消(きゆ)れば湯殿に下(くだ)る(注9)。

《現代語訳》
〔②月山〕
 八日、月山に登る。
 木綿注連(ゆふしめ)(注1)を首に掛け、宝冠(注2)に頭を包み、強力(注3)という者に先導されて、雲や霧(注4)立ち込めて冷え冷えとした(注5)中を、氷雪(注6)を踏んで八里(注7)ばかり登れば、まさに日月の通り道にある雲間の関所に入って仕舞うかと思う程の山の中に分け入り、息絶え絶えに、身体も冷え切って頂上に到着すると、丁度日も暮れ、月が現れた。
 笹を敷き、篠竹を枕にして、横になって夜が明けるのを待った。
 朝日が出て雲が消えたので、湯殿山の方へ下った(注9)。

 (注1)木綿注連(ゆうしめ):「注連(しめ)」は不浄を祓う意味のもの/羽黒山では、コヨリか白布で編んだ紐で輪状の注連を作り首にかける
    月山に登る者は、登山前の潔斎(けつさい(後述))中から下山迄、「木綿注連」を修験袈裟(けさ)として掛けるのが習わしであった
 (注2)宝冠(ほうかん):頭を包んで巻く白木綿、山伏頭巾の一種
 (注3)強力(ごうりき):修験者の弟子で、登拝者の案内や荷物運びをする男
 (注4)雲霧(うんむ):山中に発生する靄(もや)・濃霧
 (注5)山気(さんき):山中に籠る冷気
 (注6)氷雪:氷の様に硬くなった雪
 (注7)のぼる事八里:実際は5里20町(=21.8km)程の距離(因みに、1里=3,927.3m/1町(丁)=109.09m)
 (注8)日月行道(じつげつ(=にちがつ)ぎょうどう)に入(いる):「日月行道」は太陽や月の通い路にある雲間の関所のこと、雲が掛る高い山に登る様をいう
 (注9)湯殿に下(くだ)る:月山山頂より湯殿山神社迄、徒歩約2時間程(約8.5km)かかる

《原文》
〔③湯殿山〕
 谷の傍(かたはら)に鍛治(かぢ)小屋(注1)と云(いふ)有(あり)。
 此国の鍛治、霊水(れいすゐ)を撰(えらび)て爰(ここ)に潔斎(けつさい)(注2)して劔(=剣)を打(うち)、終(つひに)「月山」と銘を切(きつ)て(注3)世に賞せらる。
 彼(かの)龍泉(りようせん)(注4)に剣を淬(にらぐ)(注5)とかや。
 干将(かんしゃやう)・莫耶(ばくや)のむかし(注6)をしたふ。
 道に堪能(かんのう)の執(しふ)(注7)あさからぬ事しられたり。
 岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。
 ふり積(つむ)雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくら(注8)の花の心わりなし(注9)。
 炎天の梅花(注10)爰(ここ)にかほるがごとし。
 行尊僧正の哥(=歌)の哀(あはれ)(注11)も爰(ここ)に思ひ出(いで)て、猶まさりて覚ゆ(注12)。
 惣而(そうじて)此(この)山中の微細(みさい)、行者(ぎやうじや)の法式として他言する事を禁ず。
 仍(よつ)て筆をとゞめて記さず。
 坊に帰れば、阿闍利の需(もとめ)に依(より)て、三山順礼の句々短冊に書(かく)。

  涼しさやほの三か月の羽黒山

  雲の峯幾つ崩(くずれ)て月の山

  語られぬ湯殿にぬらす袂(たもと)かな

  湯殿山銭ふむ道の泪かな  曽良

《現代語訳》
〔③湯殿山〕
 湯殿山に下る谷の片隅に鍛冶小屋(注1)というのがある。
 出羽国の刀鍛冶(=月山)が、霊験灼(あら)たかな水を探し出して此処で身を清め穢れを祓い(注2)剣を打ち、ついに「月山」と銘を刻み(注3)世の中で高く評価された。
 これは、中国のかの龍泉の水(注4)で鍛錬した(注5)という謂れに通じるものだろうか。
 その昔、名剣を作り上げた「干将と妻の莫耶の故事(注6)」を慕うものである。
 その道に熟達した技を身につけた(注7)者の、その道への執心が一通りでないことがよく解るのであった。
 岩に腰かけて暫く休んでいると、三尺ばかりの桜が、蕾(つぼみ)を半分程開きかけているのを見つけた。
 降り積もった雪の下に埋まり乍らも、春の到来を忘れずに花を開こうとする遅ざくら(注8)の花の心は実に殊勝である(注9)。
 所謂「炎天の梅花(注10)」が、此処に花の香を放っている様である。
 行尊僧正の「もろともにあはれと思へ山桜‥」と詠んだ趣深い歌(注11)も思い出され、一層沁み々々と情緒深く感じられた(注12)。
 一般に、湯殿山中の細かいことは、修行者の決まりとして、他人に話すことが禁じられている。
 従って、これ以上は筆を止めて記さないことにする。
 南谷の宿坊に帰ると、阿闍梨の求めに応じて、出羽三山順礼の発句を短冊に書いた。

 【意】[説①] 如何にも涼しく快いことだ‥ 仄かな三日月に照らし出された羽黒山の姿を(‥南谷の坊から‥)見ていると
    [説②]      〃      ‥ 三日月が鬱蒼とした木立の隙間から仄かに見える(‥この羽黒山の山中に‥)居ると
    季語「涼しさ」夏六月

 【意】昼間猛々しく屹立していた雲の峰(=入道雲)はいつしか崩れ、今は、月明かりに照らされた月山が眼前にその姿見せてくれている
    季語「雲の峰」夏六月

 【意】湯殿山の神秘は昔から他人に語ることが許されないからこそ、この霊場から受けた感動も一入(ひとしお)で、感涙に袂(たもと)を濡らして仕舞った
    季語「湯殿行」夏

 【意】湯殿山の霊域では、落ちたものを拾い上げることが禁じられている
    だからであろう、参道には賽銭が沢山散らばっている
    その賽銭を踏みつつお参りに上がると、思わず有難い気持ちで涙が零(こぼ)れるのである
    季語「湯殿行」夏

 (注1)鍛治(かぢ)小屋:月山山頂から300m程下った所にあった行者小屋
    此処で刀鍛冶「月山」が名剣『月山』を鍛え造ったと伝えられる
    芭蕉が訪ねた時、其処は修験者の宿泊小屋になっていた
 (注2)潔斎(けつさい):水浴に拠り穢れをとる神事
 (注3)銘を切る:刀剣の製作者の名を刀身の柄に刻み込むこと
 (注4)彼(かの)龍泉(りようせん):「彼の」=世間によく知られているの意
    「龍泉」=中国湖南省汝南郡西平県にあったという、刀剣を鍛えるに適した水の出る泉
 (注5)淬(にらぐ):刀剣を鍛える時、刀身を焼いて水に入れ、鋼(はがね)の質を硬くすること
 (注6)干将(かんしゃやう)・莫耶(ばくや)のむかし:古代中国「周」の時代の刀鍛冶「干将」とその妻「莫耶」の故事
    『太平記』巻13「兵部卿(ノ)宮(=護良(もりよしorもりなが)親王(1308-35))薨御(ノ)事(ニ)付(キ)干将莫耶(ガ)事」に由来する
    護良親王は、1334年冬、父 後醍醐天皇の意を受けた名和長年、結城親光らに捕えられ、身柄を鎌倉将軍府にあった足利直義の監視下に置かれた
    翌1335年 北条時行の中先代の乱が起きると、時行に奉じられると懸念した直義の命を受けた淵辺(ふちべ)義博(?-1335)により殺害された
    (尚、北条時行(?-1352)は鎌倉第14代執権北条高時の次男)
    義博は牢の中で護良親王を殺害する際に、刀の鋒(ほこさき)を噛み折られる等苦戦する
    牢外へ出て首をみると、生きた様に両眼を見開き睨みつけるので、義博は「中国の干将・莫耶の故事」を踏まえ、近くの藪の中に首を打ち捨てた
   【干将・莫耶の故事】
    例え話が長くなるので要点を以下に記すと‥
     楚王は、夫人が産んだ鉄丸を「金鉄の精霊」と思い、刀鍛冶「干将」にこの鉄で宝剣の作成を命じた
     干将は、妻の莫耶と共に呉山に行き「龍泉の水」に入れ鍛えて、3年の内に雌雄2振りの剣を完成
     完成した剣を見た莫耶は干将に
    「これは怨敵を滅ぼす聖霊が宿る剣の様だ
     丁度いま私は妊娠したが、生まれる子供はきっと激しく勇敢な男に違いない
     故に、2振りの剣のうち1振りは隠し置いて我子に与えて欲しい」と頼み、干将も莫耶の願いを聞き入れ1振りを隠し置いた
     後日、もう1振りの剣が隠されていることを知った楚王は激怒し、干将を出頭させ、彼の首を刎ねた
     莫耶が出産した子は、その名を眉間尺という
     眉間尺は居丈高に育ち、15歳の時父が隠し置いた剣を手にすると、楚王を討ち取ることを誓い、紆余曲折を経て果たした
 (注7)堪能(かんのう)の執(しふ):「堪能」=深く物事に達して上手なこと、又、その人/「執」=物事を遣り遂げようとする心
 (注8)遅ざくら:月山の桜は、高山植物タカネザクラ(俗称:タケザクラ)/芭蕉が見た時は丁度その開花時期であった
 (注9)わりなし:殊勝である/健気(けなげ)である
 (注10)炎天の梅花:『禅林句集』所載の「雪裏(せつり)(ノ)芭蕉摩詰(まきつ)(ガ)画/炎天(ノ)梅蕊(ばいずい)簡斎詩」に拠る
    「摩詰」=唐の官僚・詩人・南画の祖と言われるの王維(699-759)/「簡斎」=南宋代の官僚・詩人、陳与義(1091-1139)
    「雪裏ノ芭蕉」「炎天ノ梅蕊(=梅花のこと)」共に現実には有り得ない情景で、「実際に有り得ない」→「季節に囚われない」ことを述べている
 (注11)行尊僧正の哥(=歌)の哀(あはれ):「行尊(1055-1135)」=天台宗寺門派の僧・歌人/平等院大僧正/三条天皇の僧孫/1123年 天台座主/1125大僧正
    「哥の哀」は、『金曜和歌集』(1124年頃)雑 556〔小倉百人一首66番〕
    【詞書】大峰(おおみね)にて思ひかけず桜の花を見て詠める
     もろともに あはれと思へ 山桜 花より外(ほか)に 知る人もなし 前大僧正行尊
    【意】私がお前を愛しく思う様に一緒に愛しいと思っておくれ、山桜ヨ
       この山中では山桜花のお前以外に知る人(=心の通い合う人)もいないのだから
 (注12)猶まさりて覚ゆ:眼前に見える遅桜から受ける感銘が、行尊の歌を思い重ねることで一層優って感じられる、の意

 【小生comment】南谷の坊で詠んだ4句は、「南谷別院」で「羽黒山」を望んで読んだとすれば、第一句の「羽黒山」の解釈は[説①]となる。
 一方、「羽黒山」「月山」「湯殿山」と登山した順に時系列に詠んだとすれば、第一句「羽黒山」は[説②]となる。
 [説①]と[説②]のいずれにしても不自然ではないが、小生は時系列に詠んだ「説②」を支持したい。

■続いての話題は、前《会報》【0557】号にて予告した07月15日に上京した折立ち寄った東京藝術大学大学美術館『ヘレン・シャルフべック』展の模様についてである。

【東京藝術大学大学美術館『ヘレン・シャルフべック』展】
 ヘレン・シャルフべック(1862.07.10-1946..)は、FinlandのHelsinkiに鉄道機関工場の事務局長ステヴァン・シャルフべックの三女として生まれた。
 3歳の時階段から落下して左腰に傷を負い、一生杖を放せなくなった
 歩行困難から教育は小学校に通えず、家庭教師から家庭教育を受けて育った
 家庭教師がシャルフべックの素描の才能に気付き、画家アドルフ・フォン・ベッカーに見せると、Finland芸術協会素描学校に11歳という異例の若さで入学が許可された
 4年間の素描学校で才能を開花させたヘレンは、1876年(14歳)父を亡くす
 1877年(15歳) ベッカーの画塾で油彩を学ぶ
 1880年(18歳) 「雪の中の負傷兵」がFinland芸術協会買上げになった上に奨学金1,500マルッカを手に入れた
 そして、当該資金を元に、同年秋、ヘレンは憧れのParisへの留学を果たす。
 以後、1890年(28歳)に帰国する迄、ParisとHelsinkiを何度も往復、婚約者との破談
 1889年(27歳)「快復期」がパリ万博で銅賞受賞(Finland芸術協会買上げ)。
 1915年(53歳) 森林保護官で画家でもあったエイナル・ロイター(1881-1968)がヘレンに会いに来る
 ‥→二人の間に生涯に亘る友情が生まれ文通する様になる
 1919年(57歳) ロイターが婚約し、ヘレンは衝撃を受ける
 1920年(58歳) Finland政府から白薔薇勲章を受ける
 1922年(59歳) 芸術家や作家に贈られる年金と助成金を授与される
 1923年(60歳) 母を亡くす
 1946年(83歳) 01月23日没

[01]本展leaflet
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[02]Helene Schjerfbeck『洗濯干し(Clothes Drying)』1883年
 02helene_schjerfbeckclothes_drying1

[03] 同『子供を抱く女性(Woman with child)』1887年
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[04] 同『日本の花瓶に入った菫(Violets in a Japanese Vase)』1890年頃
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[05] 同『少女の頭部(Head of a Girl)』1886年
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[06] 同『快復期(The Convalescent)』1888年
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[07] 同『ラ―セボリの風景(真夏の夜(Raseborg Landscape(Midsummer Nitght)))』1890年
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[08] 同『堅信式の前(Befor Confirmation)』1891年
 08_befor_confirmation1891

[09] 同『赤いりんご(Red Apples)』1915年
 09_red_apples1915

[10] 同『自画像(Self-portrait)』1884-85年
 10_selfportrait188485

[11] 同『自画像(Self-portrait)』1895年
 11_selfportrait1895

[12] 同『二人の横顔(手前はマリアンネ・プラインドルスベルガ―(Two Profiles(Marianne Preindlsberger in
front)))』1881年
 12_two_profilesmarianne_preindlsber

[13] 同『黒い背景の自画像(Self-Portrait, Black Background)』1915年
 13_selfportrait_black_background191

[14] 同『アイトク―ネから来た少女(Girl from Eydtkuhne ll)』1927年
 14_girl_from_eydtkuhne_ll1927

[15] 同『諸島から来た女性(Girl from the island)』1929年
 15_girl_from_the_island1929

[16] 同『岸壁に落ちる影(ブルターニュの風景(Shadow on the Wall(Breton Landscape)))』1883年
 16_shadow_on_the_wallbreton_landsca

[17] 同『パン屋(The Bakery)』1887年
 17_the_bakery1887

[18] 同『自画像(Self-portrait)』1913-26年
 18_selfportrait191326

[19] 同『パレットを持つ自画像(Self-portrait with Palette ll)』1937-45年
 19_selfportrait_with_palette_ll1937

[20] 同『正面を向いた自画像(Self-portrait, en face l)』1945年
 20_selfportrait_en_face_l1945

[21] 同『自画像、光と影(Self-portrait, Light & Shadow)』1945年
 21_selfportrait_light_shadow1945

[22] 同『黒とピンクの自画像(Self-portrait in Black & Pink)』1945年
 22_selfportrait_in_black_pink1945

[23] 同『緑の静物(Still life in Green)』1930年
 23_still_life_in_green1930

[24] 同『かぼちゃ(Pumpkins)』1937年
 24_pumpkins1937

[25] 同『黒いりんごのある静物(Still life with Blackening Apples)』1944年
 25_still_life_with_blackening_apple

【小生comment】
 ご覧戴いて如何でしたか?
 ヘレン・シャルフべックの画業70年という長い年月が語る様に、彼女の画風は大きく変貌している。
 写実的な1880年代迄、平面的で抽象化していく20世紀初頭、そして死への恐怖を連想させる様な、最晩年期の自画像群‥。
 小生、彼女の作品を初めて見たが、初対面で彼女の作風に魅せられて仕舞った。
 とても気に入ったので、今回ご紹介する絵も多くなった。
 これからも、きっとヘレン・シャルフべックの作品は、図録やpost cardを繰返し見ることになるだろう。
 大変気に入った展覧会巡りとなった。

■続いての話題である。
 小生、3日前の07月18日、豊川堤にて開催された『時習26回生 祝還暦 打上花火』桟敷席での模様とボレロでの二次会の模様についてである。
 時習26回生の桟敷席は、湊町の豊川沿い(南岸)で、実行委員長の杉浦君の説明では80人座れるとのことだった。
 参加者は、『打上花火』が55人、『二次会』が46人、『打上花火』or『二次会』いずれかへの参加者は61人と盛況であった。
 【2637の会】からは、『打上花火』のみが菰田君、『二次会』のみが林さん、そして『打上花火』&『二次会』両方に竹内君、平井君、そして小生が参加した。
 小生は、拙宅を04時半に出て、市電で豊橋市役所前迄行き、其処から徒歩で数分の会場へ向かった。
 下車したら、公会堂前で警備に当たる多くの警察官が整列していた。

[26]豊橋市公会堂前で整列する警察官の皆さん
 26

[27]公会堂南西端にある、旧吉田藩 藩校 時習館の所在を記した石碑
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 開場の05時00分丁度にBgate直ぐ北にある桟敷席に到着。
 開場と同時に実行委員長の杉浦君【3-8】以下、井垣君【3-3】、平井君【3-7】、安井君【3-8】が、大きなice boxに缶ビール、缶チューハイ、缶ハイボール、ペットボトルのお茶等を入れる作業を手際よく遣っていた。小生も少しだけ手伝った。
 参加者には、以上の他、折詰弁当と助六寿司、赤い「時習」のロゴの入ったhandy towelが配布された。
 
[28]打上花火の打ち上げを待つ桟敷席の時習26回生の面々 01
 2826_01

[29]同上 02
 29_02

[30]同上 03〔写真中央から右にかけて‥菰田君、竹内君、平井君が見える〕
 30_03

 打上花火は19時00分からだったが、まだ日没時間が丁度19時頃だったので辺りはまだ全く暗くない。
 時習26回生の打上花火は、「プログラム№24=20時11分」頃からの「スターマイン(=速射連続花火)」の2分間であった。
 添付写真は19時20分頃から最終の20時59分迄の中で綺麗な幾つかの作品をご紹介します。

[31]美しい『打上花火』の傑作選
 ・01/19時27分
  3101_1927
 ・02/19時27分
 3102_1927
 ・03/19時29分
 3103_1929
 ・04/19時30分
 3104_1930
 ・05/19時30分
 3105_1930
 ・06/19時34分
 3106_1934
 ・07/19時59分
 3107_1959
 ・08/19時59分
 3108_1959
 ・09/19時59分
 3109_1959
 ・10/19時59分
 3110_1959
 ・11/19時59分
 3111_1959
 ・12/20時00分
 3112_2000
 ・13/20時00分
 3113_2000 
 ・14/20時15分
 3114_2015
 ・15/20時17分
 3115_2017
 ・16/20時17分
 3116_2017
 ・17/20時48分
 3117_2048
 ・18/20時48分
 3118_2048
 ・19/20時48分
 3119_2048
 ・20/20時48分
 3120_2048
 ・21/21時01分
 3121_2101_2
 ・22/21時01分
 3122_2101

 続いては、21時半過ぎから、「ボレロ」で開催された『時習26回生 祝還暦 打上花火』二次会の模様です。
 大変盛り上がって、お開きは23時10分過ぎであった。

[53]黒柳君・榊原君・岩井君
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[54]安井君と杉浦実行委員長
 54_2

[55]丸山君・夏目君
 55

[56]鈴木君・今泉さん・田中さん
 56

[57]中島さん・林さん
 57

[58]竹中さん・小椋君
 58

[59]中嶋君・市原君
 59

[60]小林さん・本多君・鈴木さん
 60

[61]伊藤君・野末君・山本君
 61

[62]安井君・竹内君
 62_2

[63]卒業45周年 代表幹事 黒柳君
 6345

[64]大町さん・鈴木さん・杉浦君
 64

[65]杉原さん・大谷さん
 65

[66]長谷川君・杉浦君
 66

[67]丸山君・福井君・夏目君
67

[68]武野君・堀君・水藤君・前田さん・槇田さん
 68

[69]前田さん・伊藤君・武野君
 69

[70]水藤君・前田さん・今泉・伊藤君
 70

[71]中島さん・林さん・安田さん・鈴木君・今泉さん・田中さん
 71

[72]鈴木さん・小林さん・吉福さん・福井君・中嶋君
 72

[73]織田さん・竹中さん・杉原さん・堀君・大谷さん
 73

[74]黒柳君・前田さん・槇田さん
 74

[75]井垣君・杉浦君・黒柳君・織田さん
 75

[76]伊藤君・武野君・北川君・水藤君・黒柳君
 76

[77]前田さん・槇田さん・小椋君
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[78]今泉・菰田さん
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[79]全体写真01
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[80]全体写真02
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[81]全体写真03
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【後記】
 【2637の会】membersの皆さんへは、添付写真が沢山になったので、《会報》mailを2本に分けてお送りしました。

 では、また‥。

2015年7月20日 (月)

【時習26回3-7の会0557】~「今夏【2637の会】クラス会について《第6報》」「『奥の細道』第9回【出羽三山〔①羽黒山 ②月山 ③湯殿山〕】~①『羽黒山』」「07月15日:東京藝術大学大学美術館『ヘレン・シャルフべック』展《予告編》&山種美術館『前田青邨』展&東京station gallery『鴨居玲』展を見て」「07月19日:『時習26回生 祝還暦 打上花火』に参加して《予告編》」「エマニュエル・トッド&ハジュン・チャン&柴山桂太&中野剛志&藤井聡 対談集『グローバリズムが世界を滅ぼす』を読ん で

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 さぁ、今日も【2637の会 0557】号をお送りします。

■先ず最初の話題は、「今夏【2637の会】クラス会について」の《6回目の報告》です。
 前《会報》にてご案内してからの今日迄の間に更に山中K子さんから「ギリギリまで判らない」旨のmailを頂戴しました。
 そして、昨日の『時習26回生 祝還暦 打上花火』で会ったclassmatesから、林K子さんからは「ギリギリ迄判らない」、竹内哲也君からは「残念だけど「欠席」で‥」と伺いました。
 以下に、山中さんのmailをpasteします。

 ③.今、考慮中にて後日連絡します

 いつも出欠がギリギリになって幹事さんにはご迷惑かけますがよろしくお願いします。
〔←息子さんの帰省の日程が決まったら又連絡しますとのことです〕

 ※ ※ ※ ※ ※

 山中さんへ
 息子さんが帰省される日が固まったら連絡をお待ちしています。
 朗報を期待しています。

 林さんへ
 今年も是非参加を期待しています。宜しく!

 ※ ※ ※ ※ ※

【2637の会】クラス会出欠表明状況
〔mail到着順、敬称略〕

「参加」石田(義)・千賀・今泉‥3人
「欠席」竹内‥1人
「考慮中」彦坂、山中、林‥2人

 毎度繰返しの掲載になりますが、クラス会開催要領は以下の通りです。

             記

1.開催日時:2015年08月15日(土) 18時00分~
 2.開催場所:トライアゲイン〔開発ビル 地下1階 ☎ 0532-55-0255〕
 3.会  費:実費〔4,000円程度〕

 「クラス会」の出欠案内用mailは、前々回の《会報》配信時に《会報》mailとは別にclassmatesの皆さん宛に配信させて頂いております。
 皆さんの奮ってのご参加を心よりお待ちしています。

■さて、今日続いての話題は、「松尾芭蕉 作『奥の細道』の今日はその第9回目。

 元禄二(1689)年 五月二十七日( 同 07月13日)立石寺の宿坊にて1泊した芭蕉一行は、翌28日大石田へ
 以下の行程は、前回〔第8回〕に記したものを再掲し、一部補足する
  同 二十八~三十日( 同 07月14~16日) 大石田〔高野一栄宅〕に3泊す
 〔‥【曽良旅日記】 13~14両日 共に危うくして雨降らず/15日 夜に入り小雨す/16日 朝曇、辰刻(午前08時頃)晴‥〕
 →・芭蕉は、大石田滞在中に地元俳人達から所望され「五月雨『歌仙』」を興行、その模様を前回ご紹介した『最上川』の前半で記している

 六月一~二日(新暦07月17~18日)新庄の富商〔渋谷風流宅〕に2泊す
 〔‥【曽良旅日記】 17~18両日 共に天候記載なし‥〕
 →・2泊した新庄〔渋谷風流宅での句会等〕の模様は『奥の細道』では一言も触れられてない
   が、芭蕉一行は、18日には渋谷風流の兄 渋谷九郎兵衛(盛信)に招かれ、九兵衛宅で歌仙を巻き歓待されている
   因みに、風流宅の斜向いが九兵衛の屋敷で、彼は問屋業を営む出羽国新庄藩6万石の城下一の富商と伝えられる
   当時の新庄藩主は2代戸沢正誠((まさのぶ)1640-1722)の時代で、同藩の治世中最も政治が安定して興隆した時代であった
   渋谷風流宅での模様が語られなかった理由は、『最上川』の前半で大石田 高野一栄宅での句会の模様と重複することを避けた為だと言われる
 →・芭蕉と曽良は、渋谷風流等の配慮で舟に乗ることが出来、新庄から1里半程の所にある本会海(もとあいかい)から最上川を下った
   だから、前回ご紹介した『最上川』の文中に出て来た急流の難所「碁点」「隼」は、大石田より上流にあり、芭蕉一行は実際には見ていない
 →・新暦07月19日に渋田風流宅を出発して、一里半

 此処からの『出羽三山』が今回〔第9回〕でご紹介する処である。
 が、『出羽三山』に滞在したのは、新暦07月19日~25日迄の計7泊になる。
 本《会報》の配信日である本日07月19日は、芭蕉一行が『出羽三山』の一つ羽黒山の南谷別院に泊った初日に当たる。
 其処で、今回〔第9回〕は、『出羽三山』を執筆順に〔①羽黒山〕〔②月山、③湯殿山〕に二分割して〔①羽黒山(新暦07月19~21日)〕についてご紹介する。

 参考の為に、『出羽三山』7日間の行程について記すと以下の通りとなる。

 同 三~五日/七~九日( 同 07月19~21日・23~25日)羽黒山 南谷〔南谷別院〕に計6泊す
 〔‥【曽良旅日記】 19~20両日 共に天気吉(よし)/21日 朝の間小雨す、昼より晴れる/23日 天候記載なし/24日 朝の間小雨す、昼時より晴/25日 天気吉、折々曇‥〕
 同 六日( 同 07月22日)月山〔角兵衛小屋〕に1泊す
 〔‥【曽良旅日記】 22日 天気吉(よし)‥〕
 →・芭蕉と曽良は、新暦07月19日 新庄の渋谷風流宅を後にして最上川を下り羽黒山の南谷別院に中一日月山角兵衛小屋に1泊を挟み6泊、同地に計7泊

 ※ ※ ※ ※ ※

【出羽三山(①羽黒山 ②月山 ③湯殿山)】
〔①羽黒山〕
《原文》
 六月三日、羽黒山(はぐろさん)(注1)に登る。
 図司(ずし)左吉(さきち)(注2)と云(いふ)者を尋(たずね)て、別当代(べつたうだい)(注3)会覚(えがく)(注4)阿闍利(注5)に謁(えつ)す。
 南谷(みなみだに)の別院(注6)に舎(やどり)して憐愍(れんみん)の情(注7)こまやかにあるじせ(注8)らる。

 四日、本坊(注9)にをゐて誹諧興行(こうぎやう)。

  有難や雪をかほらす南谷

 五日、権現(注10)に詣。
 当山開闢(かいびやく)(注11)能除大師(注12)はいづれの代(よ)の人と云(いふ)事をしらず。

 延喜式(注13)に「羽州里山の神社(注14)」と有(あり)。
 書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。
 「羽州黒山」を中略して「羽黒山」と云にや。
 「出羽(では)」といへるは、「鳥の毛羽(まうう)(注15)を此国の貢(みつぎもの)に献(たてまつ)る」と風土記(注16)に侍(はべる)とやらん。

 月山(注17)・湯殿(注18)を合(あはせ)て三山(さんざん)とす。

 当寺武江東叡(ぶかうとうえい)(注19)に属(しょく)して天台止観(てんだいしくわん)(注20)の月明らかに、円頓融通(ゑんどんゆづう)(注21)の法(のり)の灯(ともしび)かゝげそひて(注22)、僧坊棟(むね)をならべ、修験行法(しゅげんぎゃうほふ)を励し(注23)、霊山霊地(注24)の験効(けんかう)(注25)、人貴(たふとび)且恐る。
 繁栄長(とこしなへ)にして、めで度(たき)御山(おやま)と謂(いひ)つべし。
 
《現代語訳》
〔①羽黒山〕
六月三日、羽黒山(注1)に登った。
 山麓で図司左吉(注2)という者を訪ね、その案内で羽黒山の別当代(注3) 会覚(えがく)(注4) 阿闍梨(注5)にお目にかかった。
 そして南谷(みなみだに)の別院(注6)に宿泊したが、阿闍梨は、思い遣りの心(注7)で、手厚いもてなしを受けた(注8)。

 四日、本坊(注9)において俳諧(の連句の会)が催された。

 【意】あぁ、この上なく尊く有難いことだ
    此処南谷には、この霊山の谷あいから爽やかな薫風が、残雪の香りを漂わせ乍ら吹き寄せている

 五日、羽黒権現(注10)に参詣した。
 羽黒山を開山(注11)した能除大師(注12)は、いつの時代の人かは知らない。

延喜式(注13)に「羽州里山の神社(注14)」とある。
 書写した時に、「黒」の字を「里山」と間違えたのだろうか。
 それとも、「羽州黒山」の「州」を省いて「羽黒山」と言うのだろうか。
 この国を出羽と言うのは、鳥の羽(注15)を国の貢物として朝廷に献上したから、と風土記(注16)に書いてあるということである。

羽黒山に、月山(注17)と湯殿山(注18)を合わせて三山と言う。

 この寺は、武蔵国江戸の東叡山寛永寺(注19)に属して、天台宗の止観の教え(注20)が月の光の様に明るく輝き、円頓融通の教え(注21)の法灯を掲げて(注22)、僧坊が幾棟も建ち並び、修験者は修行に励み(注23)、人は、こうした霊山霊地(注24)の御利益(ごりやく)(注25)を貴び乍らも恐れ謹んでいる。
 この繁栄は永久に続くと思われ、実に立派なお山と言うことが出来るだろう。

 (注1)羽黒山:紀州の熊野に対して東国に於ける修験の中心 羽黒派の本山/山形県東田川郡羽黒町にある
 (注2)図司左吉:図司呂丸(露丸)の本名は近藤左吉/呂丸は鶴岡藩士 図司家に生まれた/のち羽黒山手向山村にて修験者の摺衣を染める染谷を業とした
    呂丸は、羽黒俳壇の中心人物で、大石田の高野一栄と同様、旅中、芭蕉直伝を受け門弟となった
    芭蕉は、その高野一栄から会覚への紹介状を書いて貰い、羽黒へ行ったら呂丸を先ず訪ねる様勧められ訪ねている
    呂丸は、芭蕉と初対面だったが、江戸の俳諧の巨匠芭蕉との邂逅を喜び、7日間に亘る羽黒山滞在中懇切・誠実な対応に終始し芭蕉を喜ばせている
    芭蕉と呂丸の親交はこの後も続き、呂丸が元禄05年08月江戸に赴き3年振りに芭蕉に再会を果たしている
    呂丸は、その後、美濃・伊勢と旅を続け、翌元禄06年01月向井去来を訪ねたが、病に倒れ02月02日京都に客死した(享年40歳未満)
 (注3)別当代:一山の寺務を統括する別当は、東叡山の僧が任ぜられ、羽黒にはその代理(=別当代)が置かれた
 (注4)会覚:京都の人/和合院/貞享04(1687)年~元禄04(1691)年迄別当代を務めた
 (注5)阿闍利:天台宗・真言宗の僧官の名称/真言密教に通じ、後進の僧を教授するのに相応しい人に与えられる称号/此処では会覚への敬称
 (注6)別院:羽黒山参道三の坂下附近にあった別当寺の別院高陽院紫苑寺(じおんじ)
 (注7)憐愍の情:憐みの気持ち、思い遣りの心
 (注8)あるじす:ご馳走する、饗応するの意
 (注9)本坊:一山の支配者としての別当の住む坊舎で、寺領の支配や宗務を司る事務局を兼ねる
    若王寺(じゃっこうじ)寶前院(当時)のこと羽黒山中腹のニの坂と三の坂の間の西側にあった
 (注10)権現:「権現」とは、仏が衆生済度(しゅじょうさいど)の為化身して現世に神として出現すること、又は、その出現した神のこと
    元は式内の伊で(=氏の下に一)波(いでは)神社/神仏混淆に拠り、本地(ほんじ)仏は正(しょう)観音/「羽黒権現」と呼ばれた
 (注11)開闢:山を初めて開くこと、又は開いた人
 (注12)能除大師:正しくは「能除太子」/崇峻天皇(553-592)の第三皇子の蜂子(はちこ)皇子
 (注13)延喜式:宮中の年中儀式・百官の儀・臨時の作法・国々の恒式等を漢文で記述した書物、50巻
     醍醐天皇の延喜05(905)年に藤原時平・紀長谷雄(きのはせお)・三善清行等が勅命に拠り、時平没後は弟藤原忠平が引継ぎ、延長05(927)年撰進した
     但し、「延喜式」には羽黒山の記載はない/尚、『東鑑』に「出羽国里山ノ衆徒群参ス(承元03(1209)年)」とある
 (注14)羽州里山の神社:「『東鑑』に出羽国里山の衆徒とあり。里は黒の誤にして、羽黒は出羽黒山の略にや」(出羽国風土略記)
 (注15)鳥の毛羽:不玉編『継尾(つぎお)集』(元禄05(1692)年刊)の呂丸序に、「昔より風土記には、この鳥の毛羽、この国の貢物と記したれば‥」とある
 (注16)風土記:元明天皇の和銅06(713)年に歴史編纂資料として各国に命じて朝廷に提出させた地誌
     国の地名の由来、土地の肥痩・産物・古老の伝承等が記述されている
 (注17)月山:出羽三山の最高峰(海抜1980m)/頂上に「月読命(つきよみのみこと)」を祭神とする月山権現が鎮座/本尊は阿弥陀如来/暮礼山月山寺と号した
 (注18)湯殿:湯殿山(海抜1504m)/山全体が神体
     湯殿山中腹に大山祇命(おおやまつみのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなびこなのみこと)を祀る湯殿山権現がある
     本尊は大日如来/湯殿山日月寺と号した
 (注19)武江東叡:現・東京上野の寛永寺のこと/天海大僧正が寛永年間の創建/天台宗の関東に於ける総本山/徳川家の菩提寺
     羽黒山が東叡山の支配下に入ったのは、第50代別当宥誉が寛永18(1641)年天海大僧正の弟子となり天宥と改号してからで、真言宗から天台宗に改宗
 (注20)天台止観:天台宗の根本教義である「止観」の行法
     「止観」は、散乱する妄念を制止し、心を静寂にし、明智を以て諸仏の実相を観照識別すること
 (注21)円頓融通:「円頓」は天台宗の用語で、「円満頓足〔=今此処に持ち合わせている心に、全ての物事を欠けることなく円満に備え、即、悟り成仏する〕」の意
     「融通(ゆづう)」は、異なった別々のものが融け合って障りのないこと、諸法を観ずるに滞らないこと
     「円頓融通」は、円満な心をもって速やかに悟りの境地に入り、滞りなく諸法を観ずること
 (注22)法の灯かゝげそひて:「法の灯」は、仏法を闇夜を照らす灯に例えて言う語/仏法相伝の命脈・法統
 (注23)修験行法を励し:修験者の仏道修行に励むこと/「励(はげま)し」と他動詞表現にしたのは、「僧坊棟を並べ」と対句表現にした為
 (注24)霊山霊地:神聖な山と土地/神社仏閣のある山や土地に言う語
 (注25)験効:有難い御利益(ごりやく)の現れ

 【解説】芭蕉一行の『奥の細道』の旅は、出羽越えする迄は、「歌枕」と「義経主従」の足跡を辿ることが中心であった。
 が、出羽国に入った途端「歌仙」「連句」の会へと様相が一変する。〔以下の暦は新暦〕
 ・07月03~12日『尾花沢』の鈴木清風宅
〔・07月13日‥立石寺の宿坊に1泊す‥〕
 ・07月14~16日『最上川』の前段「大石田」の高野一栄宅〔芭蕉の門人になる〕
 ・07月17~18日『最上川』下りをclause upさせる為に割愛されたのであろう渋田風流宅
 ・07月19~25日『出羽三山』〔南谷別院3泊×2回と月山角兵衛小屋1泊〕の7日間は、羽黒俳諧の宗匠図司呂丸(近藤左吉)が世話をし芭蕉の門人となる
 以上の様に、清風宅に着いた07月03日からの全23日間のうち、07月13日の一日(←「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と絶唱した句を作った場所)を除いて残り22日は、「連句の会」が絡んだ宿泊となっている。
 即ち、江戸から上方にかけて人気が浸透して居た「蕉風俳諧」を北国の出羽国に伝えて行こうという芭蕉の意欲が伺える。
 又、清風・一栄・風流・呂丸の当地の俳人達も、「貞門」「談林」の旧来の俳諧からの脱皮を模索していたらしく、芭蕉と曽良の心から歓待している。

【小生comment】
 芭蕉は、現役時代から「超」がつく売れっ子の俳人だったことが、『奥の細道』を読んでいく程に実感される。
 それにしても、「羽黒山」の文は僅か260字余りに対して、脚注が25もある。
 即ち、何の歴史や文化の知識なしに『奥の細道』を読んでみても、作者松尾芭蕉の真意を読みとることは出来ない。
 読み始める前は、松尾芭蕉は元禄時代の人なので、古文と言っても近世であり、きっと読み易いだろうと思っていた。
 実際、「源氏物語」や「枕草子」の様な平安時代の作品よりはずっと読み易い筈である。
 しかし、芭蕉は当時かなりhigh-levelの知識人・教養人であることが解った。
 この為、『奥の細道』を作者の真意迄読み取ろうとすると、読み手も相応に知識と教養が必要になるのである。
 通訳を例にすれば、Native English を話す通訳でも、専門用語が頻出する学会で通訳が全く役に立たないのと同じである。

■続いての話題は、07月15日に勤務先決算報告の為、取引銀行がある東京出張した帰途に東京藝術大学大学美術館『ヘレン・シャウフべック』展と、山種美術館『前田青邨』展、そして東京駅丸の内側にある東京station gallery『鴨居玲』展を見て来たので、都合に拠り『ヘレン・シャウフべック』展は次回【0558】号に譲り、『前田青邨』展と『鴨居玲』展の模様をご報告したい。

[01]東京大手町にある勤務先の取引銀行のビル
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[02]同じく東京大手町にあるもう一つの勤務先の銀行32階からの皇居の杜越しに新宿高層ビル群遠望‥左手の高層ビルは箱根駅伝でも有名な読売新聞本社ビル
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[03]同上 新宿高層ビル群の拡大写真
 03

【小生comment】
 東京の丸の内と大手町の超高層ビル群を見ると、世界に冠たる「大都会東京の凄さ」を実感する。日本国も大したもんだ。添付写真のビルは、小生が昭和61年~平成03年に大手町2丁目のビルに勤務していた頃は、富士銀行本店という立派な建物が建っていた。これも『今は昔』の話‥。(^^;

【東京藝術大学大学美術館『ヘレン・シャウフべック』展】
 詳細は、次号【0558】でお伝えしますので、それ迄お楽しみに!

[04]東京藝術大学旧正門脇に掲示されていた『ヘレン・シャウフべック』展の案内看板
 04

 東京藝術大学大学美術館の次に訪れたのが広尾にある山種美術館である。大学美術館から西へ10分程歩き、千代田線『根津』駅から『日比谷』で日比谷線に乗り換えて『恵比寿』へ。其処から12~3分歩くと山種美術館だ。

【山種美術館『前田青邨』展】
 本展では、前田青邨の生誕130周年を記念して、山種美術館所蔵の青邨の作品全13点が一挙公開された。
 併せて、横山大観・菱田春草・下村観山等美本美術院の開拓者、同門の小林古径・奥村土牛、紅児会で切磋琢磨した安田靫彦・速水御舟、そして門下生の守屋多々志・平山郁夫等、青邨と関係深い日本画家の作品も同時展示されている。
 いずれも、日本画の巨匠たちの傑作揃いで、品格のある作品ばかりの58点‥。
 本当に素晴らしく、満足出来る企画展であった。

[05]山種美術館入口にある本企画展案内看板/上図:前田青邨『蓮台寺の松陰』1967年/左下図:横山大観『作右衛門の家』(部分)1916年
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[06]小堀鞆音(ともと)(1864-1931)『那須宗隆射扇図』1890年
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[07]橋本雅邦(1835-1908)『日本武尊像』1893年
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[08]菱田春草(1874-1911)『釣帰』1874年
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[09]下村観山(1873-1930)『不動明王』1904年
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[10]小林古径(1882\3^1957)『闘草』1907年
 101882319571907

[11]速水御舟(1894-1935)『炎舞』【重要文化財】1935年
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[12]小林古径『弥勒』1933年
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[13]奥村土牛『城』1955年
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[14]前田青邨(1885-1977)『大物浦』1968年
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[15]前田青邨『異装行列の信長』1969年
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[16]安田靫彦『出陣の舞』1970年
 161970

[17]平山郁夫(1930-2009)『阿育王石柱』1976年
 17193020091976

[18]守屋多々志(1912-2003)『平家厳島納経』1978年
 18191220031978

【東京station gallery『鴨居玲』展】
 57年の生涯を自ら絶った鴨居玲の作品は、leafletにも記してあったが、「不安」「孤独」「悲哀」「絶望」「醜悪」を鋭く抉っている。
 彼の作品を見ていると、フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828)晩年の「黒い絵」の作品群を思い浮かべる。
 鴨居玲の作品は、見る者に「自己の存在」を見る者に強く問いかけて来る。
 一度見たら、ずっと記憶に残る存在感のある画家である。

[19]本店leaflet/絵は鴨居玲『酔って候(I am drunk)』1984年
 19leafleti_am_drunk1984

[20]鴨居玲(1928.02.03-1985.09.07)
 20

[21]鴨居玲『Paris郊外の教会』1960年
 21paris1960

[22]同『赤い老人(Red old man)』1963年
 22red_old_man1963

[23]同『静物 ブラジルにて(Still life in Brazil)』1965年
 23_still_life_in_brazil1965

[24]同『群がる(Mobbing)』1966年
 24mobbing1966

[25]同『静止した刻(Time standing still)』1968年
 25time_standing_still1968

[26]同『教会(Church)』1971年
 26church1971

[27]同『教会(Church)』1976年
 27church1976

[28]同『望郷を歌う(故高英洋に(Singing nostalgia (for the late Ko Eiyo)))』1981年
 28singing_nostalgia_for_the_late_ko

[29]同『ミスターXが来た日1982.02.17(The day Mr. X came (17th February 1982))』
 2919820217the_day_mr_x_came_17th_fe

[30]同『勲章(Medals)』1985年
 30medals1985

■続いての話題である。
 小生、昨日07月19日:豊川堤にて開催された『時習26回生 祝還暦 打上花火』桟敷席での模様とボレロでの二次会の模様についてである。
 詳細は、本稿も次号《会報》で紹介することとしたい。
 添付写真は、桟敷席から見た花火を1点と、二次会の最後に撮影した二次会参加者全員の記念写真である。

[31]打上花火
 3126

[32] 時習26回生 祝還暦 打上花火 修了後の二次会 at ボレロ
 32_26_at

■今日最後の話題は、最近読んだ本、エマニュエル・トッド&ハジュン・チャン&柴山桂太&中野剛志&藤井聡 対談集『グローバリズムが世界を滅ぼす』を読んだのでご紹介したい。

[33]エマニュエル・トッド&ハジュン・チャン&柴山桂太&中野剛志&藤井聡 対談集『グローバリズムが世界を滅ぼす』
 33

【小生comment】
 本書は、前回の《会報》でもご紹介したエマニュエル・トッド(1951-)が、ソウル大学→Cambridge大学博士号取得し、現・Cambridge大学経済学部 准教授のハジュン・チャン(1963-)、京都大学大学院 人間・環境学研究科 准教授の柴山桂太(1974-)、エディンバラ大学社会科学博士取得、元京都大学大学院 准教授で評論家の中野剛志(たけし)(1971-)、京都大学大学院教授(1968-)の内外の若手教授との対談を纏めたものである。

 中野剛志氏が、本書の「はじめに」で、「エリートの甚だしい劣化。これこそが、現在の世界を取り巻く危機的状況の根本原因について、我々5人が一致して到達した結論である」と喝破してる。

 本書は、確り説明すると、それだけで相当なvolumeになるので、興味のある方は直接読んで戴くとして、小生なりにごく簡単に纏めると次の様になる。

 現在の先進国のエリート達が主張している新自由主義は、globalに自由主義を推進していくことに拠り、国全体が富むと主張する。
 乃ち、自由主義を徹底すると、経済競争が活発になり、当該競争の勝利者が齎す「富」に拠り国全体が富む。
 社会階層は、格差拡大という問題も齎すが、トリクルダウンにより、低所得者層も富の恩恵を得る。
 ところが、この論理を、全くのデタラメがであると、本書の5人は論証している。
 何となれば、自由主義を徹底すると「優勝劣敗」が繰り返され、富む者が一層富み、上位1%の高所得者層と99%のその他という階層の格差が一段と拡大する。
 TPPも然り、強者の論理を弱者の国々に押し付けるだけだ。
 米英仏を始めとする現在の先進国も、そして日独も、嘗ては国内の基幹産業を発展させる為に高関税をかけて育てて来た。
 現在の発展途上国の場合は、そういった国内産業を保護育成する時間も与えられない儘、自由主義を押し付けられている。

 一国が、確りと昨日するには、自由主義に制限を与え、部分的にでも保護主義を適用するしか方法がない。
 ギリシャ問題がその最たるものであり、ユーロ圏は、ユーロという単一通貨を続ける限り、ドイツ一国に富が集中するschemeは変わらず、劣敗の弱小国は将来的に破綻するしかない。

【後記】07月14日豊橋駅前のHotelのラウンジにて、時習26回【3-4】の伊藤K祐君と‥

[34]豊橋駅前のHotelのラウンジにて、時習26回【3-4】の伊藤K祐君と
 34hotel26

 彼は、先月に地元のthink tankの事務局topに就任した。
 小生が務めている勤務先もその団体のmemberになっている。
 伊藤君とは、此処1月余りで数回顔を合わせる様になった。
 其処で、一寸空いた時間を使って軽く一献傾けたという次第。
 その伊藤君とは、昨日の『時習26回生 祝還暦 打上花火』の二次会でも一緒になった。
 因みに、彼とは、八町小学校・豊城中学校・時習館高校と同騒同期の仲間である。

 では、また‥。

2015年7月12日 (日)

【時習26回3-7の会0556】~「今夏【2637の会】クラス会について《第5報》」「『奥の細道』第8回‥『立石寺』『最上川』‥」「07月04日:松坂屋美術館『円空・木喰』展&名都美術館『名都美術館collection‥日本画っていいね』展を見て」「07月10日:愛知県芸術劇場concert hall『レオシュ・スワロフスキー指揮/スロヴァキアPO演奏会』を聴いて」「エマニュエル・トッド著 堀茂樹[訳]『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる‥日本人への警告』を読んで」「大学弓道部時代のミニ同窓会」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 さぁ、今日も【2637の会 0556】号をお送りします。

■先ず最初の話題は、「今夏【2637の会】クラス会について」の《五回目の報告》です。
 前《会報》にてご案内してからの今日迄の間に石田義博君と千賀省始君から「出席」表明のmailを頂戴しました。
 石田君、千賀君「出席」表明をありがとう!
 以下に、お二人からのmailを到着順にpasteします。

Sent: Monday, July 06, 2015 9:23 AM

今泉君

いつもご連絡を有難うございます。
8/15のクラス会にはできるだけ参加したいと思っています。
少し心配なのは6/28の2回目と7/5のメールが文字化けして全く読めません。
こちらの設定の問題ならいいのですが、他の方はどうなのでしょう?

※ 8月15日(土)の【2637の会】クラス会に‥

  1.参加します

    石田Y博
             以上

 ※ ※ ※ ※ ※

  石田君へ、「参加」表明有難うございます。
  Mailが2週間連続で文字化けしているとのこと、大変申し訳ございません。
  他の【2637の会】membersの皆さんも同じ様な不具合が生じておりますでしょうか?
  もし、そうであるならば、再度送信させて頂く所存ですので気軽にご連絡下さい。

 ※ ※ ※ ※ ※

 Sent: Wednesday, July 08, 2015 7:09 PM
 Subject: クラス会

 今泉君

 お知らせありがとうございます。
 8月15日のクラス会、なんとか都合をつけて参加したいと思っております。
 よろしくお願いします。

          千賀S始

 ※ ※ ※ ※ ※

 千賀君へ、クラス会「参加」表明を有難うございます。
 昨年会えていないので2年振りですね。
 再会を楽しみにしています。

 ※ ※ ※ ※ ※

【2637の会】クラス会出欠表明状況
〔mail到着順、敬称略〕

「参加」石田(義)・千賀・今泉‥3人
「欠席」‥0人
「考慮中」彦坂‥1人

 繰返しの掲載になりますが、クラス会開催要領は以下の通りです。

             記

  1.開催日時:2015年08月15日(土) 18時00分~
 2.開催場所:トライアゲイン〔開発ビル 地下1階 ☎ 0532-55-0255〕
 3.会  費:実費〔4,000円程度〕

 「クラス会」の出欠案内用mailは、前々回の《会報》配信時に《会報》mailとは別にclassmatesの皆さん宛に配信させて頂いております。
 一年に一度のクラス会です。
 皆さんの奮ってのご参加を心よりお待ちしています。

■さて、今日続いての話題は、「松尾芭蕉 作『奥の細道』の今日はその第8回目。

 元禄二(1689)年 五月十三日(新暦06月29日/「一関」発)~五月十九日(新暦07月05日/「尾花沢」滞在三日目(注)) にかけて七日間の芭蕉一行の話である。
 因みに、芭蕉一行は、五月十七日~二十六日(新暦07月03日~12日)迄の10泊を「尾花沢」の豪商鈴木清風から歓待されている。
 以下に「一関」から「尾花沢」での芭蕉一行の行程を以下に記す。

 五月二十七日( 同 07月13日) (尾花沢 鈴木清風宅を出発して) 立石寺へ向かう
 〔‥【曽良旅日記】天気能(よし)‥〕
  同 二十八~三十日( 同 07月14~16日) 大石田〔高野一栄宅〕に3泊す
 〔‥【曽良旅日記】 13~14両日 共に危うくして雨降らず/15日 夜に入り小雨す/16日 朝曇、辰刻(午前08時頃)晴‥〕
 六月一~二日(新暦07月17~18日)新庄〔渋谷風流宅〕に2泊す
 〔‥【曽良旅日記】 17~18両日 共に天候記載なし‥〕
  同 三~五日・七~九日( 同 07月19~21日・23~25日)羽黒山 南谷〔南谷別院〕に計6泊す
 〔‥【曽良旅日記】 19~20両日 共に天気吉(よし)/21日 朝の間小雨す、昼より晴れる/23日 天候記載なし/24日 朝の間小雨す、昼時より晴/25日 天気吉、折々曇‥〕
  同 六日( 同 07月22日)月山〔角兵衛小屋〕に1泊す
 〔‥【曽良旅日記】 22日 天気吉(よし)‥〕

 芭蕉の『奥の細道』も前回の『尿前の関〔=出羽越え〕』から後半に入った。
 『尿前の関』から険しい山路の旅を続けて来た芭蕉にとって、尾花沢の豪商鈴木清風宅での歓待は大変嬉しいものであった。
 五月十七日(新暦07月03日)の昼過ぎに清風宅に到着した芭蕉一行は、翌十八日に近くの養和泉寺に移り、以後、二十三日の清風宅泊を除き同寺に泊した。
 連日尾花沢の俳人達との交歓会が催され、二十七日(新暦07月13日←‥即ち、326年前の明日‥)に『立石寺』へ出発している。

 尾花沢の人々に奨められての立石寺参詣であった。
 「一見すべきよし、人々のすゝむるに依りて」と明記して、尾花沢の人々への謝意を表している。

【立石寺】
《原文》
 山形領に立石寺(りふしやくじ)(注1)と云(いふ)山寺あり。
 慈覚大師(注2)の開基にして、殊(ことに)清閑の地なり。
 一見すべきよし、人々のすゝむるに依(より)て、尾花沢よりとつて返し(注3)、その間七里ばかりなり。

 日いまだ暮れず。
 麓(ふもと)の坊に宿借り置(おき)て、山上の堂(注4)に登る。
 岩に巌(いはほ)を重(かさね)て山とし、松柏(しようはく)年旧(としふり)、土石老(おい)て苔滑(なめらか)に、岩上(がんしやう)の院々(注5)扉(とびら)を閉(とぢ)て、物の音きこえず。
 岸(注6)を巡り岩をはひて、仏閣を拝し、佳景寂寞(注7)として心澄みゆくのみおぼゆ。

  閑かさや岩にしみ入(いる)蝉の声

《現代語訳》
 山形領内に、立石寺(注1)という山寺がある。
 慈覚大師(注2)が開いた寺で、とりわけ清らかで静かな土地である。
 「一度は見てみたほうが良い」と人々に奨められたので、尾花沢から引き返して(注3)立石寺へ行ったが、その間の距離は七里程である。

 日はまだ暮れていない。
 山の麓の宿坊に宿を借りて置いて、山上にあるお堂(注4)に登ってみた。
 岩に巌が重なって山となり、松や柏は年を経た老木で、土や石も古びて苔が滑らかに覆い、岩の上に建てられたお堂(注5)のどれも扉は閉じられていて、物音一つ聞こえない。
 崖(注6)を廻り、岩を這う様にして登って仏殿を参詣したが、素晴らしい景色は静寂(注7)に包まれ、自分の心が澄切っていく様な感じがするばかりだった。

 【意】立石寺は全山ひっそりと静まり返っている
    その静寂の中で蝉の鳴き声だけが岩に沁み入るように透き通って聞こえて来る

 【解説】 季語は「蝉の声」で夏六月。
 この句は、「山寺や石にしみつく蝉の声」(曽良旅日記)が初案、次いで「さびしさや岩ににしみ込む蝉の声」(『初蝉』『泊船集』)を経て「閑さや岩に沁み入る蝉の声」となった。
 「佳景寂莫」たる立石寺境内に蝉の声を聞き、一層の静寂を実感した様(さま)が、本文の「清閑」の言葉が詞書のkeywordの様に効果的に詠まれている。
 写実的な句というよりも、ずっと精神的に高みにある。
『奥の細道』で歌われる俳句の中でも絶唱と言っていい傑作である。

 (注1)立石寺:正しい読み方は「りふしやくじ(りゅうしゃくじ)」。「りっしゃくじ」は土地の呼び方であったが、現在では此方の呼称が一般的
    山形市山寺にあり、俗称「山寺」/貞観02(860)年 清和天皇の勅願に拠り慈覚大師が創建/寶珠山立石寺と称する天台宗寺院
 (注2)慈覚大師:円仁(えんにん(794-864))/下野国(現・栃木県)都賀郡出身/承和05(838)年入唐、同14(847)年帰朝/仁寿04(854)年 第3世天台座主
 (注3)とつて返し:「あとへ引き返す」の意/しかし、此処では尾花沢から予定進行方向の大石田へ直行せず、南下して立石寺に廻り道したことをいう
 (注4)山上の堂:如法堂、釈迦堂、開山堂、五大堂等
 (注5)岩上の院々:観明院、性相院等、山上の十二院
 (注6)岸:崖(がけ)のこと
 (注7)寂寞(じゃくまく):ひっそりと静まり返っている様(さま)

【小生comment】
 「閑さや岩に沁み入る【蝉】の声」の「蝉」は、斎藤茂吉(1882-1953)「アブラゼミ」v.s.小宮豊隆(1884-1966)「ニイニイゼミ」論争が有名である。
 本論争では、この句が詠まれた時期(=旧暦五月二十七日(新暦07月13日)の立石寺ではアブラゼミが鳴く時期としては尚早であることが判明した。
 後に斎藤茂吉が現地調査して「芭蕉がこの句を詠んだ新暦07月13日にはアブラゼミもいるがニイニイゼミが多いことを発見」して自説の誤りを認めている。
 因みに、小宮豊隆は、夏目漱石の門人。日本学士院会員。
 最近、豊橋周辺で聞く蝉の声と言えば、あのうるさい「シャ―シャ―」と鳴く「クマゼミ」と、そのクマゼミが鳴き止(や)んだ後に遠慮がちに「ジジジ‥‥」と鳴いている「アブラゼミ」位である。
 ニイニイゼミも、ツクツクボウシも殆ど聞かなくなって久しい。

【最上川】
《原文》
 最上川(注1)のらんと、大石田(おほいしだ)(注2)と云所に日和(ひより)(注3)を待(まつ)。
 爰(ここ)に古き誹諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、
 芦角一声(ろかくいっせい)の心(注4)をやはらげ、此(この)道にさぐりあしゝて(注5)、新古ふた道にふみまよふといへども(注6)、
 みちしるべする人(注7)しなければとわりなき一巻(注8)残しぬ。
 このたびの風流爰(ここ)に至れり(注9)。

 最上川はみちのくより出(いで)て(注10)、山形を水上とす。
 ごてん(注11)・はやぶさ(注12)など云(いふ)おそろしき難所(なんじょ)有(あり)。
 板敷山(いたじきやま)(注13)の北を流て、果は酒田の海に入(いる)。
 左右山覆ひ(注14)、茂みの中に船を下す。
 是に稲つみたるをや、いな船といふならし(注15)。
 白糸の瀧(注16)は青葉の隙隙に落て仙人堂(注17)岸に臨て立。
 水みなぎつて舟あやうし。

  五月雨をあつめて早し最上川

《現代語訳》
 最上川(注1)を舟に乗って下ろうと、大石田(注2)というところで晴天(注3)になるのを待っていた。
かつて、この土地には古くから俳諧文化が伝えられ、今も忘れずに昔の盛んだった頃の風流を懐かしみ、葦笛の響きのような田舎沁みみた心(注4)を、俳諧が慰めてくれるのだが、これから先の(俳諧の)進路について(新・古のいずれへ進むべきか)決め兼ね(注5)、古風俳諧を継承していくか、或は新風の蕉風俳諧を会得すべきか、迷っていて(注6)、 指導・舵取りしてくれる人(注7)がいないのでと頼まれたので、止むを得ず歌仙(=俳句の連句)一巻を巻いて(注8)残した。
今回の『奥の細道』での風流は、此処大石田にて「蕉風俳諧の種をこぼす(=指導を乞われて歌仙一巻を残す)」迄になったのである(注9)。

 最上川は、みちのくから流れ出て(注10)、山形辺(あた)りを上流としている。
 途中、碁点(注11)、隼(注12)等という恐ろしい難所がある。
 この先で、板敷山(注13)の北を流れ、果ては酒田の海に流れ込んでいる。
 川の両岸は山が覆い被さる様に迫り(注14)、草木の茂っている中に船を漕ぎ出す。
 この船に稲を積んだのを、稲船というのだろう(注15)。
 白糸の滝(注16)は、青葉の隙間から流れ落ちるのが見え、この上流にあるある仙人堂(注17)は、川に面して建っている。
 水流が満ち溢れ、舟は危険を感じる程だ。

 【意】数々の山野から降り注ぐ五月雨を一つに集めてきた様に漫々と水の漲っている最上川‥
    この最上川は、急流となって凄まじい勢いで流れていく

 (注1)最上川:球磨川、富士川と並ぶ日本三大急流の一つ
 (注2)大石田:現・山形県北村山郡大石田町(人口7,386人:2015.05.01現在)/尾花沢の南西約4km
    俳人として、尾花沢の鈴木清風の連衆、高野一栄、高桑川水がいた
 (注3)日和(ひより):単に天気でなく、海上の天気を特に「日和」という/此処では最上川であるが、川に舟を出す為に風や流れの様子を見た
 (注4)芦角一声の心:「芦角」とは「芦笛(あしぶえ)」(←芭蕉の造語と思われる)/(芦笛を一吹き吹き鳴らして楽しむ様な)片田舎の人々の風流心
 (注5)さぐりあしゝて:「探り足」とは、闇夜等に足で行く先を探り乍ら進むこと
 (注6)新古ふた道にふみまよふといふ:新風・古風の、とちらの俳風を選んで進むべきかに迷っている
    当時、貞門・談林の古風から蕉門の新風への移行期の渦中にあり、俳人達が自らの進むべき方向を模索し悩んでいた
   【貞門】江戸前期の俳諧流派・俳風/松永貞徳(ていとく(1571-1653))の俳門の意から【貞門(ていもん)】と言う
   【談林】伝統的な貞門俳諧に対抗し延宝期(1670年代)に流行した俳諧の流派/解放的・遊戯的な趣を特徴とする
     大坂天満宮の連歌所宗匠西山宗因が盟主/宗因流、梅翁(ばいおう)流と称した/【談林】は僧侶の学寮のこと
 (注7)みちしるべする人:道案内する人=俳諧の道の指導者
 (注8)わりなき一巻:「わりなし」は、道理をこえた切実な心情を表す場合、芭蕉がよく用いた慣用語
 (注9)このたびの風流爰(ここ)に至れり:「爰(ここ)」は、「わりなき一巻を残した」ことをいう
 (注10)みちのくより出て:最上川の水源は、実際には、出羽と陸奥の国境の吾妻山、出羽と越後の国境の飯豊(いいで)山に源を発する
 (注11)ごてん(碁点):大石田の上流、楯岡の西4km程の所で、河中に碁石の様に岩が点在していた最上川三難所の一
 (注12)はやぶさ(隼):大石田の上流で「碁点」より下流、富並川が最上川と合流する辺りの急流で「早房の瀬」とも言い、最上川三難所の一
 (注13)板敷山(いたじきやま):「歌枕」‥「陸奥(みちのく)にちかき出羽(いでは)のいたじきの山に年ふる我ぞ侘しき(夫木抄)」
    陸羽西線高屋駅の南西に聳える山(海抜630m)
 (注14)山覆ひ:左右の山が最上川を下る自分が乗っている船に覆い被さって来る様な感じがすることをいう
 (注15)いな船といふならし:「稲船」は、刈り取った稲を積んで運ぶ船
    「ならし」は「なるらし」が約(つづま)った形で「‥であるらしい」の意
 (注16)白糸の瀧:最上四十八滝の中で最も有名な滝
    「最上川落(おち)まふ滝の白糸のまゆよりくるにぞ有りける/源重之(源重之集)」
 (注17)仙人堂:源義経の臣、常陸坊海尊(かいそん)を祀る小社(『義経記(巻七)』)
    陸羽西線高屋駅より約1km上流、最上川北岸にある

■続いての話題は、07月04日に松坂屋美術館にて開催中の『円空・木喰』展と、名都美術館での同美術館collection展『日本画っていいね』展についてである。
 この日は、小生が名古屋の東区にある旧銀行時代の社宅住まいだった平成05年来の掛りつけの歯科医院に行く日。
 そのついでに、美術館を2つ巡ることにした。
 最初に訪れたのが、松坂屋美術館である。

【松坂屋美術館『円空・木喰』展】
 円空は、寛永09(1632)年に美濃国(岐阜県)に生まれたが、その場所を特定することは出来ない。
 円空の出家の動機は、「子(わが)母の 命に代る 袈裟なれや 法(のり)の形(みかげ)は 万代(よろずよを)へん」という円空の歌から、母親の死であったことが想定される。
 しかし、いつ、何処で出家したかを確定出来る資料はない。
 円空の前半生は不明と言わざるを得ない。〔中略〕
 (そして、)元禄08(1695)年、岐阜県関市の自坊弥勒寺で入定したと伝える。時に円空64歳であった。〔以上、本展図録(P.30~31)より引用〕

[01]本展leaflet
 01leaflet

[02]円空『柿野本人麻呂』1676年〔願成寺(愛知県名古屋市)〕
 021676

[03]同『観音菩薩』1682年以降〔板葺町 阿弥陀堂(一宮市博物館寄託)〕
 031682

[04]同『毘沙門天』1686年以降〔岐阜県関市〕
 041686

 木喰は、享保03(1718)年、甲斐国(山梨県)丸畑で伊藤六兵衛の次男として出生、22歳で出家し、45歳の時に木喰戒を受けている。
 安永02(1773)年56歳の時に、廻国の旅に出立する。
 木喰の巡暦は広く北海道から九州迄(沖縄を除く)全国に及ぶ。〔中略〕
 木喰は61歳で像を彫り始め、80歳を過ぎてから独特の微笑みを生み、90歳で心底からの笑いを表わした多くの像を彫っている。
 文化07(1810)年入寂。享年93歳。〔以上、同上(P.118~119,247)より引用〕

[05]木喰『自身像』1807年〔蔭凉寺(京都府南丹市)〕
 051807

[06]同『白衣観音菩薩』1897年〔新潟県長岡市〕
 061897
071807

[07]同『柿本人麻呂』1807年〔日本民藝館(東京都目黒区)〕
 
 続いて訪れたのが長久手市杁ヶ池にある名都美術館である。

【名都美術館collection展『日本画っていいね』展】
 本展は、日本画の巨匠達、具体的には、美人画の上村松園、鏑木清方、伊東深水、菊池契月の作品6点、川合玉堂、竹内栖鳳の風景画や動物画の作品5点。
 この他、堂本印象と堀文子の作品が併せて4点、徳岡神泉『鯉』、小山硬『印度孔雀』、大橋翠石『獅子虎』、安田育代『天与』等々。
 更には、下村寒山、大智勝観、富岡鐵斎全の作品迄、全部で22点の検索がズラリと展示してあった。
 又、併設企画として、愛知県立芸術大学日本画研究室「はやぶさの会2015」展の作品も、教授陣6点、大学院生の作品9点も展示されていた。

[08]川合玉堂『澗底』1951年
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[09]徳岡神泉『鯉』
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[10]上村松園『男舞之図』1938年
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[11]鏑木清方『螢』1940年
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[12]菊池契月『薫風』
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[13]安田育代『天与』
 13

【小生comment】
 名都美術館が所蔵する日本画の巨匠達の傑作選である。
 矢張り一流作品は、迫力であったり、美しさであったり、見る者に訴えかけて来るものが違う。

■続いての話題である。
 小生、一昨日07月10日、愛知県芸術劇場concert hallにて開催された『レオシュ・スワロフスキー指揮/スロヴァキアPO演奏会』を聴いて来た。
 曲目等は以下の通り‥

 1. Dvořák/Violoncello Concerto in b minor Op.104
   Vc独奏:宮田大(Dai Miyata)
〔Encore曲〕J. S. Bach/無伴奏Violoncello Sonata No.1より
 2. Mahler/Symphony No.1 in D Major "Titan〔巨人〕"
   尚、Mahlerの作品は、セントラル愛知交響楽団が共演している

 スロバキア・フィル(Slovak Philharmonic Orchestra)は、1949年 チェコスロヴァキア(当時)の東部、スロヴァキア地方の首都ブラティスラヴァに創立された、スロヴァキア最初の国立orchestra。
 指揮者のレオシュ・スワロフスキー(Leos Svarovsky)は、現代チェコを代表する名指揮者。
 プラハ芸術アカデミーでバーツラフ・ノイマンに学び、プラハ国民歌劇場にてコシュラーの下で副指揮者を務めた。
 現在、スロヴァキア・フィルの常任客任指揮者、ブルノ・フィルハーモニー協会名誉会長、プラハ芸術アカデミー准教授を務める。
 2014年04月からは、本concertでスロヴァキアPOとマーラーの交響曲で共演したセントラル愛知郷音楽監督に就任。

[14]本演奏会program
 14program

[15]演奏会修了後、愛知県藝術文化センター2Fを出た処から見た名古屋テレビ塔
 152f

【小生comment】
 ドボルザークのチェロ協奏曲では、宮田大の演奏が秀逸であったし、マーラーの巨人交響曲は中々の熱演で良かった。

■今日最後の話題は、最近読んだ本、エマニュエル・トッド著 堀茂樹[訳]『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる‥日本人への警告』についてである。

 本書は、2011年11月から2014年08月にかけてFranceの人類学者で現代最高の知識人と言われるエマニュエル・トッド氏へのinterviewを日本人向きに書き下ろしの本にしたものである。

 トッド氏が、本書で述べていることを一言で表すとすれば、「ユーロが齎したのは『ドイツ帝国の復活』である」。
 第二次世界大戦後の「戦後」は、「ベルリンの壁の崩壊」、「欧州単一通貨『ユーロ』圏の発足」で終焉を迎えた。
 そして、ユーロという単一通貨は、「技術力に優る」「東欧の優秀で安価な人件費を確保」したドイツがユーロ圏の他国に対して相対的に優位となり、一人勝ちとなっているのが今日の欧州である。
 第四帝国と揶揄される程の「ドイツの擡頭」と共に、世界に於ける米国のHegemonieの後退もハッキリして来ている。
 そして、ユーロという単一通貨がある限り、現状のドイツの優位性は揺らがない。
 対抗馬としてのFranceは、自主的にドイツに隷属し、ユーロ圏の現状維持を支持している。
 この先も、ドイツの優位性はユーロという単一通貨がある限り揺らぎ様がない。

 本書を読んで、ふと頭に浮かんだのは「麻雀」である。
 技術力の優るドイツが、力の弱い南欧諸国とずっと勝負をしている光景である。
 ドイツは強いのでいつも儲けている。
 一方、腕の弱い〔産業力が劣位にある〕南欧諸国は、連戦連敗を続けている。
 こういう「麻雀」だと、弱者は直ぐ「箱テン」になって負けが確定するだけではない。
 軍資金という手持ち資金も底を尽き、いつかは「麻雀」のplay自体を放棄せざるを得なくなる。
 現代のユーロ圏で言えば、この麻雀の負け組常連の筆頭がギリシャということになる。
 つまり、この先、ギリシャは‥
 ①欧州中央銀行から更なる融資を得て暫時延命する
 ②デフォルトを宣言して借金を棒引きする挙に出てユーロ圏から離脱、自らの手で為替操作が出来る(ユーロ以外の)自国通貨に戻る
 以上のいずれかしか選択肢はない。
 近時、ギリシャで行われた国民投票で、上記①の融資金を引き出す為の緊縮政策を拒絶した訳であるから、②になる可能性が高い
 が、常勝ドイツにとっても「お客さんの『ギリシャ』」がユーロを離脱すると儲からなくなるので、直ぐに「ユーロ圏から出て行け!」とは言わないだろう。
 政治は、中々難しいものである‥。

 本書は、色々と考えさせてくれる好書である。
 一読をお薦めしたい。

[16]エマニュエル・トッド著 堀茂樹[訳]『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる‥日本人への警告』
 16

【後記】先日もお話したが、松尾芭蕉の『奥の細道』を読んでいると、旧銀行時代に仙台支店で勤務していた頃のことが懐かしく思い出される。
 昭和57年05月17日付の辞令で、05月23日に当時小牧市内にあった名古屋空港から全日空で岩沼市にある仙台空港へ飛んだ。
 其日は出発地の名古屋も目的地の仙台市も晴天。
 でも流石に仙台市は、北国で名古屋に比べて涼しかったことをよく覚えている。
 赴任期間は昭和61年04月迄の03年11箇月と一般営業店の勤務期間としては長かった。
 が、その分休日は東北6県を色々旅した。
 その中に、前《会報》でご紹介した『出羽越え』=【尿前の関】近くの鳴子温泉もある。
 当地のお土産品としては、「鳴子こけし」が大変有名。
 「こけし」の首を回すと「キュッ、キュッ」と音がなる。
 茶箪笥に飾ってある添付写真は、向かって一番右の(‥これも宮城県産だが‥)「青根温泉こけし」1つを除いて仙台時代に買い求めた「こけし」たちである。
 そして、もう一つの添付写真は、『奥の細道』のrouteではないが、山形県米沢の民芸品「おだかぽっぽ」。なかなか恰好いいでしょ!^-^b
 「おだかぽっぽ」と言うと、これも旧銀行時代、東海市の市長室に伺った折、大きな「おだかぽっぽ」が置いてあった。
 伺うと、東海市(=尾張国知多郡平島村)出身の著名な歴史上の人物に、山形米沢藩主で名君の誉れ高い上杉鷹山(1751-1822)の師「細井平州(1728-1801)」がいた。
 その関係から米沢市から贈られたものだそうだ。
 以上は余談‥。^^;

[17]拙宅茶箪笥に飾ってある宮城県の「こけし」
 17

[18]米沢の「おだかぽっぽ」
 18

 更に余談。
 今日は、もう盛りを過ぎ枯れ出して仕舞ったが、拙宅で咲いた大きな紫陽花をご紹介する。
 添付写真[20]のcaptionにある様にCDと比べても如何に花が大輪である納得戴けよう。

[19]拙宅の庭で咲いた紫陽花を切り花として室内へ
19
 
[20]同上‥花の大きさを実感して頂く為にCDと比較した写真
 20

 そして、最後の最後‥。
 昨日、豊橋市内で、此処数年、07月と年末年始の年2回定例開催している、大学弓道部時代のミニ同窓会を開催した。
 これも毎回小生が万年幹事であるが、何やかんやと言って12人も集まってくれる。
 気心知れた旧知の学生時代の仲間っていいものである。
 弓道部時代の仲間として、時習26回【3-2】の飯田H祥君も同じ弓道部員だったので参加してくれている。

[21]大学弓道部時代のミニ同窓会にて
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 では、また‥。

2015年7月 5日 (日)

【時習26回3-7の会0555】~「今夏【2637の会】クラス会について《続々々報》」「『奥の細道』第7回‥『尿前の関』『尾花沢』‥」「06月27日:浜松市美術館『マリ―・ローランサン』展を見て」「磯田道史著『武士の家計簿』を読み、DVD『同左』を見て」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 さぁ、今日も【2637の会 0555】号をお送りします。

■先ず最初の話題は、「今夏【2637の会】クラス会について」の《続々々報》です。
 前《会報》にてご案内してからの今日迄の間に彦坂君からresponseがありました。
 彦坂君、ありがとう!
 以下に、彼からのmailをpasteします。

 今泉悟様
                   千葉県 彦坂

 ご無沙汰しております。日頃クラス会報を見ておりますが,
 健康でご活躍のようで,なによりです。
 暑さに負けず頑張りましょう。
 ※ 8月15日(土)の【2637の会】クラス会ですが,

   ③.今、考慮中にて後日連絡します

 それでは御元気で。

 ※ ※ ※ ※ ※

 Classmateから便りを貰うととても嬉しく思います。
 繰返しの掲載になりますが、クラス会開催要領は以下の通りです。

             記

 1.開催日時:2015年08月15日(土) 18時00分~
 2.開催場所:トライアゲイン〔開発ビル 地下1階 ☎ 0532-55-0255〕
 3.会  費:実費〔4,000円程度〕

 「クラス会」の出欠案内用mailは、前《会報》配信時に《会報》mailとは別にclassmatesの皆さん宛に配信させて頂いております。
 一年に一度のクラス会で、懐かしくも楽しいひとときを過ごしましょう!
 皆さんの奮ってのご参加を期待し、一人でも多くの朗報をお待ちしています。

■さて、今日続いての話題は、「松尾芭蕉 作『奥の細道』の今日はその第7回目。
 元禄二(1689)年 五月十三日(新暦06月29日/「一関」発)~五月十九日(新暦07月05日/「尾花沢」滞在三日目(注)) にかけて七日間の芭蕉一行の話である。
 因みに、芭蕉と曽良は、五月十七日~二十六日(新暦07月03日~12日)迄の10泊を「尾花沢」の豪商鈴木清風宅にて歓待を受けている。
 以下に「一関」から「尾花沢」での芭蕉一行の行程を以下に記す。

 五月十三日(新暦06月29日) 前日の十ニ日より宿した 一関〔宿記載なし〕を十三日に平泉向けて出発し日帰りで又一関に宿し2泊す
  〔‥「平泉」を訪れた日の天候は、【曽良旅日記】では「天記明」とあり、晴天であった‥〕
  同 十四日( 同 06月30日) 岩手山〔宿記載なし〕に泊す
  〔‥【曽良旅日記】朝天気吉、雷雨ののち晴、又曇って折々小雨する‥〕
  同 十五~十六日( 同 07月01~02日) 堺田〔和泉庄屋新右衛門兄宅か?〕に2泊す
  〔‥【曽良旅日記】07月01日 小雨/02日 大雨‥〕
  同 十七~二十六日( 同 07月03~12日) 尾花沢〔10泊のうち17・21・23日の3泊を鈴木清風宅に、残りの7泊は養和泉寺〕に10泊す
  〔‥【曽良旅日記】03日 快晴、大夕立に逢う/04日 小雨す/05日 朝晴る、夕方小雨す/06日 小雨/07~09日 天候の記載なし/10日 十七日(=尾花沢到着の日)より終日晴明の日なし/11日 折々小雨す/12日 小雨す‥〕
  同 二十七日( 同 07月13) 立石寺へ向かう〔‥【曽良旅日記】天気能(よし)‥〕

【小生comment】
 芭蕉一行が「平泉」を訪れた日から最上の「立石寺」を訪れた五月十三日~二十七日(新暦06月29日~07月13日)の15日間。
 この間、「平泉」と「立石寺」を訪れた二日こそ晴天だったが、残りの13日間は一日のうちに必ず雨が降ったと、【曽良旅日記】は記している。
 326年前も、現代と同様に雨が降り続く梅雨の季節真っ只中であったのである。

【尿前(しとまえ)の関】
《原文》
 南部道(注1)遙にみやりて、岩手の里(注2)に泊る。
 小黒崎・みづの小島(注3)を過て、なるご(注4)の湯より尿前の関(注5)にかゝりて、出羽(では)の国(注6)に越んとす。
 此路(このみち)旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。
 大山(おほやま)(注7)をのぼつて日既暮ければ、封人(ほうじん)(注8)の家を見かけて舎を求む。
 三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。

 蚤虱馬の尿(しと)する枕もと

 あるじの云(いふ)、是より出羽の国に、大山を隔(へだて)て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼(たのみ)て越べきよしを申(もうす)。
 さらばと云(いひ)て、人を頼(たのみ)侍れば、究竟(くっきょう)(注9)の若者、反脇指(注10)をよこたえ(=へ)、樫の杖を携(たずさへ)て、我々が先に立て行(ゆく)。
 けふこそ必(かならず)あやうきめにもあふべき日なれと、辛(から)き思ひ(注11)をなして後(あと)について行(ゆく)。
 あるじ の云(いふ)にたがはず、高山(かうざん)森々(しんしん)(注12)として一鳥(いつてう)声きかず、木(こ)の下闇(やみ)茂りあひて、夜る行(ゆく)がごとし。
 雲端(うんたん)につちふる(注13)心地して、篠(しの)(注14)の中踏分(ふみわけ)踏分、水をわたり岩に蹶(つまづい)て、肌につめたき汗を流して、最上の庄(注15)に出づ。
 かの案内せしおのこの云(いふ)やう、「此(この)みち必不用(ぶよう)の事有(あり)。恙(つつが)なうを(=お)くりまいらせて仕合(しあはせ)したり」と、よろこびてわかれぬ。
 跡(=後)に聞(きき)てさへ胸とヾろくのみ也。

《現代語訳》
 南部道(注1)を遥かに見って、道を引き返し、岩出山の里(注2)に泊まる。
 此処から、小黒ヶ崎や美豆の小島(注3)を過ぎ、鳴子温泉(注4)から尿前の関(注5)を越え、出羽の国(注6)へ行こうというのである。
 処が、この道は滅多に旅人の通らない道である為、関守に怪しまれて中々通してくれない。
 漸く通行許可が下りて、中山峠(注7)を越えた頃にはもうすっかり日が暮れて仕舞った。
 国境の番人(注8)の家を見つけたので其処に泊めて貰うことにした。
 処が、三日の間雨風荒れて、余儀なくこの山中に逗留することになって仕舞った。

【意】蚤や虱に悩まされる旅夜ではあるが、人と住まいを共にする習いの中、馬が枕もとで小便をするというのも心安く趣があるものだ

 この家の主の言うには、此処から出羽の国へは、大山を越えていかなければならないが、その為には誰か道案内をつけなければ無理だという。
 其処で人を頼むことにした処、屈強(注9)な若者が来てくれた。見れば、反り脇差し(注10)を腰につけ、樫の杖を持って、我々の前を歩いて行く。この物々しい出で立ちを見て、今日こそは間違いなく辛い目にも遭うのであろうと、内心びくびくし(注11)ながらついて行く。
 有路家の主の言ったように、高山は深々(注12)として、鳥の声一つしない。木々が生い茂って、その下はまるで夜のように真っ暗だ。
 強風も吹いてきて、砂つぶてが空から降ってくる感じ。
 篠の藪(注14)を踏み分けふみわけ、沢をまたぎ、岩につまづき、肌に冷たい汗を流しながら、ようように最上の庄に着く。

 かの案内の若者、「この道さ、何時もだら、山賊など出てくるだっども、今日は無事に送ることがでけて、運さ良かっただっちゃ」と言いながら、喜んで帰っていった。終わってから聞いてさえ、どきどきする話である。

 (注1)南部道:盛岡へ通じる南部街道
 (注2)岩手(いわで)の里:「岩手」=「歌枕」/
   【詞書】前大僧正慈円、ふみにては思ふほどのことも申しつくしがたきよし、申しつかはして侍りける返事に
    みちのくの いはでしのぶは ゑぞ知らぬ 書き尽くしてよ 壺の石碑  前右大将(源)頼朝(1147-99)〔新古今集‥巻第18‥雑歌下‥1785〕
    【意】陸奥の歌枕「岩手」や「信夫」、或いは「蝦夷」ではないが、言わずに我慢しているのだと仰るのではお心の程が解りません
       すっかり書き尽くして下さい、壺の碑ならぬ文に託して

    思へども いはでの山に 年をへて 朽ちやはてなむ 谷のむもれ木  左京大夫(藤原)顕輔(1090-1155)〔千載集 巻第11 恋歌一 651〕
    【意】貴女のことを思っても、それを告げることなしに年月を経て、わが恋は谷の埋れ木の様になって仕舞うのだろうか

 (注3) 小黒ヶ崎や美豆の小島:「歌枕」
     小黒崎(をぐろざき) 美津(みつ)の小島の 人ならば 都の苞(つと)に いざと言はましを 〔巻第20‥大歌所御歌‥東歌‥陸奥‥1090〕
    【意】小黒崎の美津(みつ)小島は実に美しい
       もしそれが人であるのならば、京(みやこ)に帰るのに「さぁ、一緒に行こうよ!」と誘って行きたい処だ

 (注4)なるご:現在の鳴子温泉
   【鳴子の名の由来】一説には、源義経が北行(源頼朝に追われて平泉へ落ちのびる途中)した際の故事に由来する
    それは、出羽の国で夫人(=静御前)が子供(亀若丸)を産み、この地に来て産湯をつかわせた
    そうした処、呱々の声をあげたこと(=誕生した時の産声)から来る「啼子」説
    もう一説は、承和04(837)年に潟山が大爆発し、熱湯が轟音をあげて噴出したことから、村人が「鳴郷の湯」と名付けたとする
    〔以上、鳴子温泉旅館組合 Homepage より引用〕
 (注5)尿前の関:鳴子温泉より西へ2kmにある/仙台領(陸奥)から出羽領へ越す仙台藩の重要な関所
   【尿前の由来】については、アイヌ語説を始め諸説あるので此処では触れない
 (注6)出羽の国:大体現在の秋田県と山形県に相当する
 (注7)大山:鳴子から羽前に出る中山越えの山道
 (注8)封人:関守(=国境を守る役人)〔←「三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す」とあるが実際は二泊である〕
    堺田(さかいだ)は海抜354mの山中にある小集落/芭蕉一行が泊めて貰ったのは和泉屋という庄屋の家で、関守と農業を兼務
    現在、同所は和泉屋氏の有路氏の住居となっている
    芭蕉は、随分むさくるしい所に宿した様に書いているが、庄屋の家であり集落一の大きな家だったと思われる
    同地は、小国郷(おぐにごう)と言い、小柄で精悍な小国駒(おぐにこま)の産地
    南部の曲屋(まがりや)は、母屋(おもや)と馬小屋が接続してる建築形式で、同地では一般的な家屋である
    『奥の細道』では、「歌枕」や名所旧跡・古戦場ばかり詠み込んでいた芭蕉が、此処では「蚤/虱/馬の尿(しと)」と是迄とは趣が全く違う俳句を詠んだ
    山本健吉氏は次の様に解説している。
    【‥「蚤虱」の句の、はじめの形は、第二句が「馬の尿(=ばり)こく」であった。恐らく、和泉屋の家の人が言ったひなびた言葉を面白がって、その儘、句の中に取り入れたのだろう。「ばりこく」は凄まじい迄の音の感じと、作者の笑いとがある。あと「尿(=しと)しる」と言い和らげたが、さっき越えたばかりの「尿前(しとまえ)」の地名も、幾らか響いいているのであろう‥】
    そう言う全く異なった観点から詠んだ俳句であり、これも矢張り印象に残る名句(笑)と言っていいのではなかろうか
 (注9)究竟(=屈強):非常に力が強いこと
 (注10)反脇指:刀身にそりのある脇差/脇差は一般に大刀に対して小刀を指し、刃渡り30cm以上60cm未満の物とされる
 (注11)辛(から)き思ひ:内心ビクビクすること
 (注12)森々:木の茂っている様を言う
 (注13)雲端(うんたん)につちふる:杜甫の七言律詩「鄭駙馬宅宴洞中」の頸聯第六句‥→
    →‥【已入風磴霾雲端 己(すで)に風磴(ふうとう)に入れば 雲端に霾(つちふる)】が原典
    本作品は、745年 杜甫34歳の作/杜甫は仕官活動の一環として鮒馬都尉鄭潜曜の宅にて、夏の暑さを避ける為に洞穴の中で宴をしたことを述べた詩
    鄭潜曜は、時の皇帝玄宗と皇甫淑妃との間に生まれた臨晋公主という姫宮を妻とした/潜曜は杜甫の親友鄭処の甥

※ 鄭駙馬宅宴洞中 ※ 鄭鮒馬が宅にて洞中に宴をする 杜甫

 主家陰洞細煙霧 主家の陰洞(いんどう) 煙霧 細やかなり
 留客夏簟青瑯玕 客を留める夏簟(かてん)は青瑯玕(せいろうかん)‥玕=(王偏に干)
 春酒杯濃琥珀薄 春酒 盃 濃(こまやか)にして 琥珀 薄く
 冰漿碗碧瑪瑙寒 冰漿(ひょうしょう) 碗 碧にして 瑪瑙(めのう)寒し
 悞疑茅屋過江麓 悞=(立心偏に呉)誤って疑う 茅堂(ぼうどう) 江麓に過ぎたかと
【已入風磴霾雲端 己に風磴(ふうとう)に入れば 雲端に霾(つちふる)】
 自是秦樓壓鄭穀 自ら是 秦楼(しんろう) 鄭谷(ていこく)を圧す
 時聞雜佩聲珊珊 時に聞く 雑佩(ぞうはい)の声 珊珊(さんさん)たるを

【意】公主のお宅には日陰の洞穴に靄や霧の冷気が細かに湧き出ている
 其処へ賓客を夏の竹で編んだ筵を敷いてくれていた
  留客=客は杜甫自身/簟=竹で編んだ筵(むしろ)/青瑯玕=青い管(←筵を編んだ竹の色を例える)
 濃い春酒が薄い琥珀の盃に注がれ
 冰漿(=氷の飲料)は瑪瑙の椀の中で冷たく碧玉の様に見える
 洞辺の茅堂を過ぎたら、恰も江辺の山麓を通っている様な涼しさがある
  悞=誤
【已に風通しの良い石段の路(みち)では雲の端から土粉が降りかかってきた】
 【霾=土ふる(=灰の様に細かい土粉が風に煽られ雨の如く降り注ぐ)/雲端=高所を表象している】
 元来此処には(‥洞穴の邸宅といえば漢代の鄭谷宅であるが‥)それを圧倒するように秦楼(‥という高楼‥)が高く聳えていたのだ
  自是=元より/秦楼=秦の穆公の女(弄玉)が住んだ楼/鄭谷=漢の鄭撲(字は子兵←賢人として知られた)
 時々仙女の雜佩の音が珊々とに聞こえて来た。
  雑佩=様々の飾玉/珊珊=飾玉の鳴る様を表す擬音語

 (注14)篠:熊笹(クマザサ)等の背丈の低い竹
 (注15)最上の庄:現在の山形県北村山郡一帯/中世の最上氏の所領

【小生comment】
 芭蕉の文章には、調べれば調べる程に、「歌枕」や中国の古典となる「漢詩文」に典拠した言葉が随所に出て来る。
 脚注でご紹介した杜甫『鄭駙馬宅宴洞中』は、今回調べてみて初めて小生お目にかかった作品である。
 如何に芭蕉の古典に対する造詣が深いかを実感し、逆に、小生の浅学さを痛感させられる。
 が、毎週こうやって新しい発見があることは、あと2ヶ月余りで還暦を迎える歳になるのにワクワクしてとても愉快になる。
 小生まだまだ「幼稚だ」ってことかもネッ!(^-';b♪

【尾花沢】
《原文》
 尾花沢(おはなざは)(注1)にて清風(せいふう)(注2)と云者(いふもの)を尋(たづ)ぬ。
 かれは富(とめ)るもの(注3)なれども志(こころざし)いやしからず。
 都(注4)にも折々かよひて、さすがに旅の情(なさけ)をも知たれば、日比(ひごろ)とヾめて、長途(ちやうど)のいたはり、さまざまにもてなし侍る。

  涼しさを 我宿(わがやど)にして ねまる(注5)也

  這出(はひいで)よ かひや(注6)が下の ひき(注7)の声

  まゆはき(注8)を 俤(おもかげ)にして 紅粉(べに)の花

  蚕飼(こがひ)する人は 古代のすがた哉(かな)  曾良

《現代語訳》
 尾花沢(注1)では紅花問屋 島田屋の鈴木清風(注2)を訪ねた。
 清風は、金持ち(注3)だが、その心持ちの清々しい男である。
 都(注4)にも屡々行き、それ故に旅の情をも良く心得ている。
 数日間泊めて長旅の疲れを労ってくれ、また様々に供応してくれた。

【意】この涼しい宿にいると、まるで自分の家にいるように寛(くつろ)げる(注5)のだ
    ‥→他人の家であることを忘れ、涼しさを一人占めして、のんびりと寛ぐことであるの意
      この句は清風への挨拶の句である

【意】飼屋(かひや(=蚕室))(注6)の下で蟇蛙(ヒキガエル)(注7)の声がしている
    どうか蟇蛙よ、出て来て手持ち無沙汰な私の相手をしておくれ
    ‥→蚕室の床下で蟇蛙の低い鳴き声が聞こえるを踏まえ詠んだ句
    芭蕉が訪れた時の清風邸では、丁度養蚕と紅花摘みで超多忙だった
    この繁忙期にノンビリ訪れた自分を顧みて、同じくノッソリとした蟇蛙に向かって、自分の話相手に出て来いよ、と呼びかけたのである

【意】尾花沢の名産である紅の花を見ていると、女性が化粧につかう眉掃き(注8)を想像させる艷(あで)やかさを感じる
    ‥→紅花は花も葉も薊(アザミ)に似て、半夏生(ハンゲショウズ(例年07月02日))の頃から咲き始める
      芭蕉はこの尾花沢に新暦07月03日に着いて、07月12日迄滞在した
      滞在中は、紅花盛りで、花の色は黄金色だが、それが赤みを帯びた頃、まだ露のある日の出前に摘み取る
      古名は(‥【小生補足】源氏物語第六帖の巻名にもある‥)「末摘花(すえつむはな)」
      この花の様から、芭蕉は化粧用の眉掃きを連想した
      更に又、紅の原料ということが女性への連想を誘うのだ
      〔以上、山本健吉ビジュアル版 日本の古典に親しむ‥『奥の細道』‥尾花沢 より引用」〕

[01]紅花
 01

[02]半夏生
 02_2

【意】養蚕する人たちのもんぺ姿は、神代の昔もこうだったろうと思わせる素朴なものだ
    ‥→養蚕する人々の清浄を旨とした素朴な服装に古代人の姿を感じ取った吟
      蚕飼は春の季語だが此処は夏蚕とみる

 (注1)尾花沢:山形県尾花沢市
 (注2)鈴木清風:鈴木道祐/紅花問屋 島田屋/金融業を経営した豪商/芭蕉・曽良とは貞享02(1685)年以来江戸で交渉があった/当時39歳
 (注3)富めるもの:「昔より、賢き人は富めるは稀なり」〔徒然草18〕を踏まえた文
 (注4)都:「心の花の都にも二年三年とせすみなれ、古今俳諧の道に踏迷ふ」〔おくれ双六、清風自序〕
 (注5)ねまる:同地の方言で、「寛いで座る」の意
 (注6)かひや:飼屋=蚕室
 (注7)ひき:蟇蛙(ヒキガエル)
 (注8)眉掃(まゆはき):「五寸許竹管両頭挟白兎毛」/白粉を付けた後 眉を払うのに用いる

【小生comment】
 山本健吉氏が氏の著書『奥の細道』序説三で、「芭蕉の句境を高みに押し上げた種は、この『奥の細道』の旅に於ける深い人生的、又、文学的経験にあった」と述べている。
 小生もその通りだと思う。
 芭蕉のこの『奥の細道』は、読み込めば読み込む程、芭蕉の文学的senseの奥深さ、高尚さを実感する。
 芭蕉の俳人としての人生に大きく影響した『奥の細道』の位置付けについて山本氏が解り易く端的に述べているのでご紹介したい。

 ※ ※ ※ ※ ※

 細道の旅を思い立った同期に、西行・能因のあとを追って、みちのくの歌枕を訪ねるということがあった。
 その為に曽良は名勝備忘録を用意したし、途中では少しの廻り道など厭わないで、さして見所もない様な歌枕を丹念に見て廻っている。
 だが白河を過ぎた奥州路に入って、みちのくでは、義経伝説が強く庶民の間に浸透しているのを知った。
 そしてその頂点が平泉高館での、夏草を藉(し)いての歴史回顧だった。

 歌枕を巡ることから言えば、松嶋と象潟とが一応の目標地点だった。
 だが日本海側に廻ると、彼の歌枕熱は漸く冷めて、風土風景に触れての感動を直接言い取ろうとする傾向が出て来ている。
 歌枕を介しての間接的な表現では、物足りなくなった様だ。
 この旅の途中、恐らく陸奥から出羽への山越えを境に、芭蕉の心中に徐々に俳諧観の変革が萌していた。
 それは恐らく、芭蕉が知悉した上方・江戸・東海道筋の人情風俗とは違った。
 東北の素朴な風土色に触れたことがきっかけになっていよう。
 句の風体が「かるみ」を帯びる様になった。
 芭蕉の晩年の句境を、あれほどの高みに押し上げた種は、細道の旅に於ける深い人生的又文学的経験にあったのである。
 一人の詩人にどの様にして見事な灯が燈ったか、それを知る為にも、気候『奥の細道』は大事な作品であった。〔『太陽』昭和53年1月 より〕

■続いての話題は、06月27日に浜松市美術館にて開催中の『マリ―ローランサン(Marie Laurencin (1883-1956))』展についてである。
 1883年10月31日 マリー・ローランサンはParisに生まれた。
 母親のポーリーヌ=メラニー・ローランサンは、未婚で彼女を生む。
 父親は後に代議士にもなった高級官僚だったが、ローランサンは母が亡くなる迄父の名前すら知らなかったと言う。
 だが、本人や身近な人の証言等を見る限り、不遇な少女時代だった訳でもなく、お針子をする母親と二人で穏やかな生活お送っていた様だ。
 〔以上、図録より引用〕
 彼女が本格的に絵を学び始めたのは20歳を過ぎた頃。

[03]浜松市美術館入口にて
 03

[04]本展leaflet
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[05] Marie Laurencin 1902年(20歳)
 05_marie_laurencin_190220

 国立美術学校で教鞭を取っていたフェルナン・アンベールの画塾に通い始めた。
 其処で彼女は、cubismeの旗手の一人ジョルジュ・ブラックを知り、Picassoとも親しくなり、cubismeの影響を受ける様になる。

[06]Marie Laurencin『自画像(Autoportrait)』1908年
 06marie_laurencinautoportrait1908

[07]同『扇(L'eventail)』1911年頃
 07leventail1911

 Cubismeの影響を受けつつも、彼女自身の世界を築いていくこととなる

[08]同『優雅な舞踏会 或は 田舎での舞踊』1913年
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[09]同『読書する女(La liseuse)』1913年
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 1910年代後半以降、甘美さ、軽やかさ等、彼女自身のstyleを確立していく。

[10]同『鏡を持つ裸婦(Nu au miroir)』1916年
 10nu_au_miroir1916

[11]同『接吻(Le baiser)』1927年頃
 11le_baiser1927

[12]同『プリンセス達(Les Princesses)』1928年
 12les_princesses1928

 1930年代以降になると、是迄の画法からみると後退した様な保守的な描き方になっていく。
 換言すると、軽い灰色とpastel colorの従来からの色彩をbaseに、より安心感ある落ち着いた色調で、且つ美しい絵が描かれる様になった

[13]同『バラの女(Femme a la rose)』1930年
 13femme_a_la_rose1930

[14]同『音楽(Musique)』1944年
 14musique1944

[15]同『二人の若い女たち(Les deux jeunes amies)』1942年
 15les_deux_jeunes_amies1942

[16]同『シュザンヌ・モロー(青い服)(Suzanne Moreau (en bleu))』1940年
 16suzanne_moreau_en_bleu1940

[17]同『シャルリ―・デルマス夫人(Mme Charlie Delmas)』1938年
 17mme_charlie_delmas1938

■今日最後の話題は、最近読んだ本と見たDVDから、磯田道史著『武士の家計簿‥「加賀藩御算用者(ごさんようもの)」の幕末維新‥』についてである。
 本作品は、原作に注目してはいたものの是迄読まずにいた。
 が、ふとしたきっかけで、原作と堺雅人主演で映画化されたDVDを極めて安価で手に入れることが出来、(原作を)読み、そして(DVDを)見た。
 原作は2003年刊行、映画は2010年制作上映されている。
 題材が、天保13(1842)年~明治12(1879)年迄の37年間(36年分)の記録なので、今(原作を)読み、(DVDを)見ても全く古臭さは感じなかった。
 本作品について、概要を原作から引用してご紹介する。

 ※ ※ ※ ※ ※

【はしがき/「金沢藩士 猪山家文書」の発見】
 〔前略〕それはまさしく「武士の家計簿」であった。
 しかもただの家計簿ではない。
 驚くべきことに、天保13年07月~明治12年05月迄、約37年間に亘って残されていた。
 幕末武士が明治士族になる迄の完璧な記録であった。〔中略〕
 驚いたこと、に猪山家は、既に幕末から明治・大正の時点で、金融破綻、地価下落、リストラ、教育問題、利権と収賄、報道被害‥等、現在の我々が直面している様な問題を全て経験していた。
 古書店で購入した古文書には、凄まじい社会経済変動を生き抜いた「ある家族の生活の歴史」が缶詰の様に封じ込められていたのである。

第一章/加賀百万石の算盤掛かり
【算術から崩れた身分制度】
 〔前略〕最初に、この変化が起きたのは、欧州・日本共に「算術」が関わる職種であった。
 18世紀には、数学が、国家と軍隊を管理統御する為の技術として、嘗てなく重要な意味を持つ様になっており、先ずから「貴族の世襲」が崩れた。
 軍隊で言えば、「大砲と地図」が関わる部署である。
 仏独でも、軍の将校と言えば貴族出身と相場が決まっていたが、砲兵将校や工兵、地図作成の幕僚に関してはそうではなかったという。
 弾道計算や測量で数学的能力が必要なこれ等の部署は身分に拘らず、平民出身者も登用されたのである。〔中略〕
 余談であるが、ナポレオンが砲兵将校であったことは興味深い。
 貴族と言え、コルシカ(Corsica)島出身で差別を受ける彼が砲兵将校の道を選んだのは、将来の出世を考えれば当然であった。
 そして結局、平民出身者の多い砲兵を引き連れて革命側につき、政権を奪って仏の身分制に止(とどめ)を刺し、近代国家の道を拓いたのである。
 日本でも、同じことが言える。〔中略〕
 猪山家の様な陪臣身分や上層農民が実務能力を武器にして藩の行政機構に入り込み、間接的乍ら、次第に政策決定迄影響を及ぼす様になるのである。
 猪山家は、その典型例と行って良い。
 更に言えば、明治国家になってからも、この様な実務系の下士が、官僚・軍人として重要な役割を果たすことになるのである。〔P.21-23〕

 加賀前田家は、「算術」を非常に大切にした家である。
 前田家は利家・利長の時代から算勘に長けた家風であり、加賀の和算と言えば有名であった。

 江戸時代の金沢は、まぎれもなく数学研究の一大拠点であった。〔P.27〕

 映画「武士の家計簿」で主人公堺雅人扮する猪山直之(?-1878)の父、中村雅俊扮する猪山の信之(1775-1849)は、文政10(1827)年03月、二度目の江戸出府を命じられた。
【赤門を建てて領地を賜る】
 〔前略〕東京大学に赤門がある。
 赤門と言うのは俗称であり、正式には「御守殿門」という。
 朱で真っ赤に塗られた立派な大名屋敷の門である。〔中略〕
 東大本郷キャンパスは旧加賀藩前田家の上屋敷であって、赤門はその遺構〔中略〕‥
 が、何故、この赤門は赤いのであろうか。
 それは藩主の婚礼に際して建てられたお祝いの門だからである。
 藩主前田斉泰が将軍家斉の娘溶姫を妻に迎える時に造られた。〔中略〕
 信之が仰せつかった役目というのは、本郷に赤門を出現させたこの世紀の婚礼の準備係であった。
 婚儀に関わる物品購入を一手に引き受ける仕事である。〔中略〕
 婚礼御用に於ける信之の働きは余程目覚しいものであったらしく〔中略〕「新知七拾石」という沙汰が下った。
 この事例はこれ迄の加増や褒美とは訳が違う。
 領地を分け与えるという沙汰であり、滅多にあることではない。〔中略〕
 猪山家は新知70石となった。
 つまり、領地を持った知行取になったのである。

第二章/猪山家の経済状態
【猪山家の年収】→【を現在の価値に直すと】〔天保14(1843)年〕
 信之70石=530万円+直之米40俵=700万円=猪山家の年収1,230万円〔P.49-56〕

【借金暮らし】
 処が、猪山家では当時、年収の二倍近くの借金を抱えていた。〔P.56-57〕

【借金整理の開始】
 天保13(1842)年夏、「借金整理」を決意した。
 猪山家の家計簿が作られ、今日に残されることになったのも、実はこの決意がきっかけであった。
 猪山家の人々、特に直之が「二度と借金をしない様に計画的に家計を管理しよう」と考え、完璧な家計簿をつけ始めたのである。
 本書の様な研究が出来るのは、彼の決意のお陰である。〔後略〕

第三章/武士の子供時代
【猪山成之(1844-1920)の誕生】〔P.107〕
【満七歳で手習い】
 猪山直之大変な教育パパであった。
 理由がある。
 猪山家の子供は誰よりも達筆でなければならなかった。
 御算用者が出世するには藩主の「執筆役」になるしかなく、字が下手では話にならない。
 猪山家が借金を返済出来ているのも、執筆役に抜擢されて拝領金を貰い、加増を受けているからである。
 猪山家の生活は「筆一本、算盤一挺」にかかっていたから、子供の習字に熱心なのは当たり前であった。〔後略〕

 以下、第四章から終章の第六章までを逐一紹介すると大変長くなるので纏めをごく簡単に後述する。

第四章/葬儀、結婚、そして幕末の動乱へ
第五章/文明開化のなかの「士族」
第六章/猪山家の経済的選択

 直之の嫡子 成之は、親の期待に確りと応えた。
 のちに前田侯爵家の会計をしていた井上如苞という人物は直之・成之(なりゆき)父子について次の様に述べている。

  成之君の父は名を直之君といふて、非常に物が善く出来て、出世をした人であったが、これが藩内響き渡った有名な正直な人であった。
  成之君は全く父の性質を受け継がれたのであらう。
  (「加越能育英事業の先駆者 猪山成之氏の追憶」加越能時報 342号より引用)〔P.141〕

 当時の(明治維新)新政府には困った問題があった。
 実務の出来る人材が不足していたのである。〔P.151〕

  其比(ころ)の政府の顕官は大きな議論を立てることは上手だが、理財会計等の緻密な事柄に事務的才幹を持って居るものがなかったので、乃(すなわ)ち君(=成之)を抜擢して其局に当たらしめたものと察せられる。(前出、井上) 〔P.152〕

 成之は、大村益次郎の信任が厚く、明治02年03月17日に、一旦は新政府軍務官「会計頭取」に任命されている。〔後略〕〔P.156〕

【その後の猪山家】〔第六章 P.213~〕
 1878(明治11)年04月 直之が金沢にて病死
 1879(明治12)年05月 金沢の一家は、成之が単身で居る東京に転居
 その後、成之は海軍主計大監に就任
 1893(明治26)年 呉鎮守府会計監督部長を最後に退役

 成之の長男・次男の綱太郎と鉄太郎はいずれも海軍に入った。
 綱太郎は、海軍兵学校に入学(第17期/明治23年卒)、のち大佐迄いっている。
 司馬遼太郎『坂の上の雲』で有名な秋山真之と同期。
 鉄次郎は海軍省へ入省。
 末子の兵助も海軍兵学校に入学(第30期)。

 しかし、成之の晩年は痛ましい。
 日露戦争で、最愛の末子をなくし、シーメンス事件では彼の後継者の甥(沢崎寛猛)が弾劾を受けて官界を追放された。
 明治国家の海軍は、猪山家に大きな恩恵を齎したが、代償も又大きかった。
 成之はそれ等全てを見届け、大正09(1920)年07月06日にこの世を去っている。

【小生comment】
 明日07日06日は、その猪山成之の命日に当たる。
 本書『武士の家計簿』で、著者磯田道史氏が紹介してくれたお陰で、猪山家の人々の日常と、江戸末期から明治初頭に於ける激動の時代を生きた士族の暮らしぶりがよく解った。

 本書は、「父 信之→直之→子 成之」と三代に亘る猪山家の、才能に恵まれ真摯な生き様が彷彿として好感の持てる一大叙事詩である。
 莫大な借金を完済すべく不退転の決意をして『家計簿』を付出し、自身が亡くなる迄の三十有余年継続し続けた実行力。
 その結果、明治維新を迎え、加賀百万石の多くの同僚の士族が没落していく中で、時に愚痴は零すも悠々自適な日々を送ることが出来た直之。
 そして、薩長藩閥でない乍らも、海軍主計大監(=海軍大佐)に迄昇進した成之。
 そもそも猪山家の初代 清左衛門(?-1605)は、加賀120万石の上士で知行1,000石取りの菊池右衛門に使えた陪臣であった。
 そして、初代から数えて5代目(=玄孫)市進(いちのしん)の時、「御算用者」として採用され、享保16(1731)年 初めて前田家の直参となった。
 市進は、「筆算(筆と算盤)」の才能で「御算用者」になり栄転を果たし、直之&成之の幕末維新を迎えたのである。
 御算用者となった猪山家は、「市進→綏之(やすゆき)→信之(=婿養子)→直之→成之」迄5代、約1世紀半近くに亘って前田家に使えた。
 猪山家5代に亘る刻苦勉励が、幕末維新を経た後の成之の海軍主計大監迄の栄進に繋がるのである。
 しかし、「人間塞翁が馬」である。
 先述した様に成之は、末子の自殺や、海軍の於ける自身の後継者とみなしていた甥の官界追放を見て障害を閉じる。
 波乱万丈と言えばそれ迄だが、人の一生というものは、何が幸せで何が不幸か解らない、そういうものなんだなぁ‥と、つくづく思う。

[18]磯田道史著『武士の家計簿』&同名のDVD
 18_2
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【後記】今日のお別れは、浜松市美術館を訪れた後、直ぐ近くにある浜松城を訪れた、其時、天守閣をbackに撮影したsnap shotをご紹介してお別れする。
 同天守閣は、07月31日迄改修工事中であったが、天守閣内部には入ることが出来た。
 天正18(1590)年 小田原城攻めに勝利した豊臣秀吉が天下統一を果たし、是迄浜松城主であった徳川家康が江戸に移封になった。
 その後、浜松城主となった堀尾義晴(1544-1611)が天守閣を建築。因みに、石垣は野面積みである。
 その堀尾義晴は、1601年 関ヶ原の戦の功績で出雲国富田へ移封となり、松江城を1607年から建築開始。
 天守閣は、先日国の重要文化財から国宝の指定を受けた。
 因みに、松江城主堀尾氏は、三代藩主忠晴に嗣子なく1633年改易となった。

[19]浜松城天守閣前にて
 19

 では、また‥。

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