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2015年8月の5件の記事

2015年8月28日 (金)

【時習26回3-7の会0563】~「『奥の細道』第14回‥【市振】【那古(=有磯海)】」「08月23日:秋野不矩美術館『秋野不矩 創作の旅路Ⅲ~子どもたちを見つめて~』展を見て」「08月24日:『二俣城址』を訪れて」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 さぁ、今日も【2637の会 0563】号をお送りします。

■さて、【2637の会】「クラス会」関連では、前《会報》にて今夏08月15日開催の「クラス会」実施報告をさせて頂きました。
 今夏の【2637の会】関連NEWSは、これで一応お仕舞いです。
 ただ、前《会報》で提案した通り、来年の「クラス会」開催日をいつにするか、今もず~っと悩んでいます。(^^;;
 何となれば、繰り返しのお話になりますが、以下の様に「お盆開催」か「お盆以外の日開催」の大変難しい alternative にならざるを得ないからです。
 即ち開催日を‥
 ①【お盆08月13日(土)】にした場合、自宅がお子さん達の実家となる【女性陣は参加が難しい】
 ②【お盆以外(=前後)08月06日(土)or20日(土)】にした場合、盆と正月位にしか里帰り出来ない【男性陣は参加が難しい】

 其処で次回は、「クラス会」に参加頂けそうな皆さんに予めアンケートを取り開催日を決めたいと考えています。
 開催予定日は、08月06(土)・13(土)・20(土)の3候補日とし、参加希望人数が最も多い日〔=majority rule〕にしようと思います。
 これが現状考え得る「最適『解』」だと思いますが、もし、この方法以外に良案があったら是非共ご意見をお聞かせ下さい。

■さて今日最初の話題は、「松尾芭蕉『奥の細道』の第14回目である。
 前《会報》【0562】を配信した七月九日(新暦08月23日)現在では、【越後路】の道中の「高田」の池田六左衛門宅に居て、【市振】に到着する3日前であった。
 その為、前《会報》では一回お休みさせて頂いた。

 《会報》【0561】号にてお伝えした、前回の第13回では【越後路(えちごじ)】をお伝えした。
 乃ち、六月二十五日(新暦08月10日)、【酒田】の淵庵不玉の許を発ち、加賀国・金沢を目指し北陸道を南進。
 そして、二週間程かけて七月十二日(新暦08月26日) 越中国に程近い越後最西端の街 【市振】〔午後4時頃〕に到着した此処迄である。
 前《会報》【0562】号を配信した08月23日(旧暦七月九日)は、越後国・高田の池田六左衛門宅に3泊した2泊目に相当する。
 因みに、今日08月28日(旧暦七月十四日)は、越中国・高岡(=但し、宿記載なし)に泊しており、丁度【那古(=有磯海)】に符合する。
 従って、今回の『奥の細道』第14回は、【市振(新暦08月26日)】から【那古(=有磯海(08月28日))】の三日間で起きたことをお伝えする。
 参考迄に、旧暦七月八日(新暦08月22日)~旧暦七月十四日迄の「芭蕉宿泊地と天候」を曽良旅日記から拾ってみると以下の通りである。
  七月八日(新暦08月22日):高田・池田六左衛門宅に3泊す、雨止む
  同月九日( 〃 同月23日):同左、折々小雨す
  同月十日( 〃 同月24日):折々小雨、夕方より晴れ
  同月十一日(〃 同月25日):能生・玉屋五郎兵衛宅泊、快晴、暑甚だし、月晴
  同月十二日(〃 同月26日):市振・宿記載なし、快晴
  同月十三日(〃 同月27日):滑河・宿記載なし、雨降らんとして晴、暑気甚だし
  同月十四日(〃 同月28日):高岡・宿記載なし、快晴、暑極めて甚だし

 ※ ※ ※ ※ ※

【市振】
《原文》
 今日(けふ)は親しらず・子しらず(注1)・犬もどり(注2)・駒返(こまがへ)し(注3)など云(いふ)北国(ほつこく)一の難所を越(こえ)て、つかれ侍れば、枕引(ひき)よせて寐(ね)たるに、一間(ひとま)隔(へだて)て(注4)面(おもて)の方(かた)に、若き女の声二人斗(=計(ばかり))ときこゆ。
 年老(おい)たるお(=を)のこの声も交(まじり)て物語するをきけば、越後(ゑちご)の国新潟(にひがた)(注5)と云(いふ)所の遊女成(なり)し。
 伊勢参宮するとて、此関(このせき)までお(=を)のこの送りて、あすは古郷(ふるさと)にかへす文(ふみ)(注6)したゝめて、はかなき言伝(ことづて)などしやる也(なり)。
 白浪(しらなみ)のよする汀(みぎは)(注7)に身をはふらかし(注8)、あまのこの世(注9)をあさましう下(くだ)り(注10)て、定めなき契(ちぎり)(注11)、日々の業因(ごふいん)(注12)、いかにつたなしと、物云(ものいふ)をきくきく寐入(ねいり)て、あした旅立(たびだつ)に、我々にむかひて、「行衛(ゆくゑ)しらぬ旅路のうさ、あまり覚束(おぼつか)なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡(おんあと)をしたひ侍(はべら)ん。
 衣の上の御情(おんなさけ)に大慈(だいじ)のめぐみ(注13)をたれて(注14)結縁(けちえん)(注15)せさせ給へ」と、泪(なみだ)を落(おと)す。
 不便(ふびん)の事(注16)には侍れども、「我ゝは所々にてとゞまる方(かた)おほし。
 只(ただ)人の行(ゆく)にまかせて行(ゆく)べし。
 神明(しんめい)の加護、かならず恙(つつが)なかるべし」と、云(いひ)捨て出(いで)つゝ、哀(あはれ)さしばらくやまざりけらし(注17)。

  一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月

 曾良にかたれば、書(かき)とヾめ侍る。
 
《現代語訳》
 今日は「親不知(しらず)」「子不知」(注1)「犬もどり」(注2)「駒返し」(注3)などという北国一の難所を超えて体が疲れたので、枕を引き寄せて寝ていた処、襖(ふすま)一枚隔(へだ)てて道に面した表側の部屋から、若い女の声が聞こえて来て、二人ばかりいる様だ。
 それに年老いた男の声も交じっていて、話をしているのを聞いていると、この二人の女は越後国新潟(注5)という所の遊女なのだ。
 伊勢参宮するというので、この市振の関まで男が送ってきたのだが、明日は男をを故郷新潟帰らせる(注6)につき手紙を書きその男に託し、一寸した伝言等をしている様だった。

 「白波の寄せる浜辺に(注7)身を落と(注8)し、住まいも定まらぬ漁師(注9)の様に落ちぶれ(注9)、客と夜毎に代わる客と契りを交わして(注11)、日々重ねていく…前世での所業(注12)が如何に罪深いものだったのだろうか」と、そんな話しているのを聞き乍ら寝入ったのであるが、翌朝旅立つ時に、その二人の遊女が私達に向かって、「行き先も解らない旅の心細さ、あまりにも不安で悲しくありますので、見え隠れにも貴方がたの御跡をついて参ろうと思います。
 法衣をお召しの御坊様のお情けとして、仏様の恵み(注13)を注いで(注14)下さって、仏道に入る機縁(注15)を結ばせて下さいませ」と言って、涙を流すのだ。
 不憫ではある(注16)が、「私達は途中あちこちに立ち寄り長期滞在することが多い(‥だから一緒に旅は出来ない)。
 ただ人が進む方向に跡をついて行きなさい。
 そうすれば神様がお守り下さって、きっと無事に伊勢に到着出来るでしょう」と、言い捨てて宿を出たが、矢張り哀れさの気持ちが暫く止まなかったのであった。

【意】私と同じ宿屋に、偶々遊女も泊り合わせた
    その宿の庭には萩の花が咲き、秋の夜空に眼を遣ると月が明るく輝いている
    何となく、「萩と月」が「自分と遊女」の様に思えて来る

 と詠んで、曾良に話すと、この句を書きとめた。

  季語「萩」で秋七月
  「一家(ひとつや)」は、ただ一軒だけポツンと離れて建っている家を言うが、此処では、「同じ一軒の家」の意

[01]守屋多々志『萩の宿〔芭蕉/奥の細道より〕』1993年
 011993

 (注1)親しらず・子しらず:現・新潟県西頸城(くびき)郡青海(おうみ)町風波から市振に至る間の、北陸道第一の難所
    山が海に迫って断崖絶壁を成し、その下の波打ち際を通行した
 (注2)犬もどり:親不知の北東50数kmの地/直江津から国道8号線を西進、国分寺より1km余りの屏風谷の真下にある
    赤岩の難所と言った
 (注3)駒返し:青海町より約1km東にあった難所
 (注4)一間隔てて:「一間」は、襖一重、つまり隣の部屋
 (注5)新潟:当時は港町として栄え、その遊女町は有名であった
 (注6)故郷にかへす文:「故郷」は新潟を指す
   「かへす」は、送って来た男を新潟に帰らせる意と、男に持って帰らせる文という風な、掛詞的用法
 (注7)白波のよする汀:『和漢朗詠集』遊女の項に
   「しらなみのよするなぎさに世をすぐるあまのこなればやどもさだめず/海人詠」
    とあるのに拠った表現
   「汀」は当時の『節用集』ではナギサ・ミギハ両様の読みを示すが、用例としてはミギハが圧倒的に多い
    又、シラナ[ミ]・[ミ]ギハ・[ミ]ホ‥という風に、[ミ]を重ねる方が文調が良い
    以上を踏まえ、芭蕉が、本歌の渚(ナギサ)を汀(ミギハ)に変えて用いたと解したい
 (注8)身をはふらかし:「はふらかす」は捨てる、彷徨(さまよ)わす、落ちぶれさす等の意
 (注9)あまのこの世:前掲の和歌を受けて、「蜑(あま)の子」即ち、漁師の子の意に、「此の世」を言い掛けたもの
 (注10)あさましう下りて:「下る」は、落ちぶれる・低級になる
    あきれる程酷い境遇に落ちぶれて仕舞って、の意
 (注11)定めなき契り:定まった夫を持たず、夜毎に代わる男を相手として身を任せること
    「契」は、男女の交わり
 (注12)日々の業因:夜毎の「定めなき契」を交わすべく定められた前世の因縁
    「業因」は、人のする善悪一切の所業が、未来に善悪夫々の果を生じる因になること
    多くの前世の悪業の報いの意にいう
 (注13)大慈のめぐみ:民衆を憐み、慈(いつく)しみ、その苦しみを救う、仏・菩薩の大きな慈悲
    特に観世音菩薩の慈悲にいう
 (注14)たれて:「垂れる」は、示し施すの意
 (注15)結縁:仏道修行の縁を結ぶこと/仏道に入る機縁を得ること
 (注16)不便の事:可哀想なこと(「不憫」「不愍」は後の時代での当て字)
 (注17)やまざりけらし:「けらし」は「けるらし」の約
    芭蕉の用法としては、いずれの場合も、詠嘆の「けり」の意に用いている

【解説】
 芭蕉が訪れた市振を訪れた元禄2(1689)年は、伊勢の神宮の式年遷宮の年。
 当時は父母や主人に内緒で抜け出して伊勢参宮する「抜け参り」という風習があり幕府は黙認した。
 戻ってからも主人に怒られることはなかった。
 当時の風習として、「一生に一度は伊勢参宮は遣るもの」だった。
 因みに、『奥の細道』の結びの【大垣】でも、「伊勢の遷宮おがまんと‥」と詠み、締め括っている。
 【市振】は、『西行と江口の遊女』〔撰集抄(せんじゅうしょう)〕の故事が下敷きになっている
 具体的には、西行が大阪の江口で雨にあった時、雨宿りをさせてもらおうと遊女の家の戸を叩くが断られた時の、西行と遊女の問答歌。
 この問答の後、遊女は西行を家に招き入れ、一晩中語り合ったという。

  天王寺へ詣で侍りけるに にわかに雨の降りければ 江口に宿を借りけるに貸し侍らざりければよみ侍りける                              

     世の中を いとふまでこそ かたからめ 仮の宿をも 惜しむ君かな  西行
    【意】出家隠遁せよと言うなら難しいけれど、一夜の宿を貸すことも惜しむ貴女なのですね
  返し
     世をいとふ 人とし聞けば 仮の宿に 心とむなと 思ふばかりぞ  遊女妙
    【意】貴方は出家隠遁した世を捨てた人とお聞きしています
       ですから、仮の宿(=一夜の宿)に拘るなんてことなさらないで‥と思うばかりですワ
                                (「新古今和歌集」巻第十 羈旅歌)

【那古(=有磯海)】
《原文》
 くろべ四十八(しじゅうはち)が瀬(注1)とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云(いふ)浦(注2)に出(いづ)。
 担籠(たこ)の藤浪(ふじなみ)(注3)は、春ならずとも、初秋の哀(あはれ)と(=訪)ふべきものをと、人に尋(たずね)れば、「是(これ)より五里、いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、蜑(あま)の苫(とま)ぶきかすかなれば、蘆(あし)の一夜(ひとよ)の宿(注4)かすものあるまじ」といひをどされて(注5)、かヾの国に入(いる)。

  わせの香(か)や分入(わけいる)右は有磯海(ありそうみ)

《現代語訳》
 「黒部四十八が瀬」(注1)というが、その名の通り数も解らない程多くの川を渡って、那古という浦(注2)に出た。
 「担籠の藤浪(注3)」と詠まれる歌枕の地が近いので、春ではないとしても、初秋の風情も訪れる価値があるだろうと土地の人に道を訪ねた処、
 「此処から五里、磯伝いに進み、向こうの山陰に入った所で、漁師の貧弱な苫屋が僅かにあるだけなので、『葦のかりねの一夜ゆえ』と古歌にある様な、一夜の宿(注4)を貸す者もいないだろう」と脅かされて(注5)、加賀の国に入った。

【意】道の両側の田んぼから早稲の香りが漂って来る
   この稲穂の波の右手遥かには、歌枕として名高い【有磯海】が望み見られることであろうヨ

    季語「早稲」で秋七月

  『萬葉集』編者で歌人の大伴家持が、弟の書持(ふみもち(?-746))が亡くなった時に詠んだ歌に次の様な作品がある。

  かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の波も見せましものを
 【意味】前からこの様なことになる(=弟の死)と解っていれば、「越の海」の荒磯に寄せる波を見せて遣ったのになぁ

 この歌は、大伴家持(717-85)の弟の死を追悼して詠んだ歌である。
 家持がこの歌を詠んだ段階では、「荒磯海」は単なる荒波の打ち寄せる磯のことであった。
 大伴家持のこの歌が有名になった為、爾来、この辺りの海を「荒磯海」「有磯海」と言う様になったという。
 最初に家持の歌があって、それが「歌枕」となったという通常の「歌枕」が出来る経緯と逆さまの珍しい例である。
 因みに、「有礒海(=有磯海)」の面影を残していると言われるのが、高岡市の岩崎鼻(渋谷(しぶたに)の崎)や雨晴(あまはらし)海岸である。

 (注1)くろべ四十八が瀬:「くろべ」は黒部川/【市振】の南西約24kmに黒部川はある
    「くろべ四十八が瀬」とは、黒部川の河口近くで、川筋が無数に分岐した所
 (注2)那古と云ふ浦:現・新湊市の海岸一帯の称/『万葉集』以来の「歌枕」
     東風(あゆのかぜ)いたく吹くらし奈呉(なご)の海士(あま)の 釣する小舟こぎ隠る見ゆ  大伴家持〔萬葉集 巻17〕
 (注3)担籠の藤浪:現・富山県氷見市下田子付近で、昔は湖であったが、当時は既に田になっていた様である
    『萬葉集』以来の「歌枕」
     多胡の浦の底さへにほふ藤浪をかざして行かむ見ぬ人のため 内蔵忌寸(うちのくらのいみき)縄麻呂〔万葉集 巻19〕
 (注4)蘆の一夜の宿:「芦の一節(ひとよ)」に「一夜」を言い掛けたもの
    「芦(あし)」と「節(よ)」は縁語だから、「一夜」は「イチヤ」ではなく「ヒトヨ」と読む
    難波江の芦のかりねのひとよゆゑみをつくしてや恋ひわたるべき  皇嘉門院別当〔千載集&百人一首88〕
   【意】難波江の葦の刈根の一節の様な、短い旅の一夜を貴方と過ごしただけなのに
      それが故、あの澪標(みおつくし)の様に身を尽くして貴方を恋い続けなければいけないのでしょうか
    「仮寝」と「刈根」を掛け、「葦」と来ると「一夜の宿」等が連想される
 (注5)いひをどされて:「をどす」は「おどす」が正しい表記/脅かす、恐れさす、の意

【小生comment】
 この【市振】の場面には、新潟の「遊女」が出て来る。
 僧衣姿の芭蕉と曽良との対比が鮮やかに感じるが、【市振】の場面は、芭蕉の「創作」というのが通説である。
 その理由は、『奥の細道』紀行に同行した曽良は詳細な旅日記を記しているのだが、【市振】の締め括りの処で
 「一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月/曾良にかたれば、書(かき)とヾめ侍る」
 と記しているが、「書き留めた」筈の肝心要の曽良は【市振】の場面を「曽良旅日記」をはじめ何処にも書き留めていないのである。
 『奥の細道』紀行が、北陸道に入ってからは{これはっ!」という芸術的・文化的事象に乏しかった為、芭蕉一流の脚色がなされた様だ。
 「(新潟の)遊女」→訪れた年が「伊勢遷宮」の年→「伊勢参宮」→「抜け参り」→「遊女」という一つの流れが匠に出来上がっている処が面白い。
 この【市振】の場面も、『奥の細道』の名場面の一つである。
 『奥の細道』を読み進めていくに連れ、芭蕉の芸術的senseの高さを何度となく感じている。
 小生この松尾芭蕉『奥の細道』を、本会で連載が始まってから「言の葉book」というCDで聞き続けている。
 ほぼ毎朝05時~07時にかけて「腹筋30分」と「木刀の素振り60分」を遣り乍ら聞いている。
 【序章】の「月日は百代の過客にして‥」で始まり、【旅立(=出立)】三月二十七日(新暦05月15日)~最後の【大垣】九月六日(新暦10月18日)で終わる。
 最初から最後迄全て聞いて67分なので、1回と半分程を繰り返している。
 丁度いい長さである。

■続いての話題は、「秋野不矩美術館『秋野不矩 創作の旅路Ⅲ~子どもたちを見つめて~』展を見て」である。
 08月23日(日)、亡父の初盆にお参り来てくれた親戚へ「初盆志」を手配すべく、ほの国百貨店へ行った。
 その際、「そう言えば次回《会報》にupする芸術関係のネタがないナ」と思った小生、秋野不矩美術館へ行くことにした。
 同美術館には、今年04月29日に『加山又造《伝統と革新の日本画》』展を見て以来行っていないので丁度いい頃会いと思い付いたのである。
 《会報》【0546】http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/2605460427-0429.html ←此処をclickして下さい

 本展は、6人の子どもを生み育てながら絵を描いて来た秋野不矩が描いた子どもたちの絵に焦点を当てた所蔵品展。
 秋野作品は、彼女独特の筆遣いで描かれおり、彼女独特の日本画の世界を繰り広げていて興味深い。
 原色は余り使わない淡い色彩の使い方が巧い。
 作品は、まだ仕掛り中の絵にも見えるが、それが作品の奥行き感を醸し出している、とでも表現したらいいのか‥、兎に角不思議な魅力がある。
 彼女がよく訪れたインドでも、厳しい環境下で懸命に生きる子どもたちを温かく見つめ描いた大変魅力的な作品が多い。

 此処で、秋野不矩(1908.07.25-2001.10.11)の略歴に着いてご紹介してみたい。
 1908年 07月25日 静岡県磐田郡二俣町城山(現・浜松市天竜区二俣町)の神主(父:惣吉)の家に生まれる
 1925年 03月(17歳) 静岡県立二俣高等女学校卒業
 1926年 03月(18歳) 静岡県女子師範学校二部卒業/04月 静岡県磐田郡横山尋常小学校教師就任
 1927年 07月(19歳) 07月 横山尋常小学校辞職/09月 父の紹介で、千葉県大網町の石井林響に入門
 1929年 03月(21歳) 03月 師、石井林響脳溢血症で倒れる/11月 定展作家 福田恵一の紹介で西山翠嶂塾「青甲社」に入塾
 1930年 10月(22歳) 第11回定展に『野を帰る』を出品、初入選
 1932年 (24歳) 塾の先輩 澤 宏靭と結婚、京都市左京区田中樋ノ口町に住む
 1933年 01月(25歳) 秋野不矩講演会が発足
 1941年 05月(33歳) 文展新無鑑査に決定/以後、各年出品
 1943年 06月(35歳) 第8回京都市美術展覧会に『童女』出品/同展参与となる
 1948年 01月(40歳) 上村松篁・広田多津・澤宏靭・山本丘人・吉岡堅ニ・福田豊四郎らと共に日展を離れて『創造美術』を結成
 1949年 09月(41歳) 京都市立美術専門学校 助教授に就任
 1950年 04月(42歳) 京都市立美術大学 助教授に就任
 1954年 01月(46歳) 第1回女流3人展<秋野不矩(1908-2001)・小倉遊亀(1895-2000)・三岸節子(1905-99)>(銀座松坂屋)開催/以後5回開催
 1958年 10月(50歳) 澤宏靭と離婚
 1962年 07月(54歳) Indiaのシャンチニケータンのビスバーバラティ大学(現・タゴール国際大学)に客員教授に招聘され1年間滞在
 1966年 05月(58歳) 京都市立美術大学 教授就任〔1969年 芸術大学に名称変更〕
 1974年 03月(66歳) 京都市立芸術大学 退職
 1991年 11月(83歳) 文化功労者に顕彰
 1999年 11月(91歳) 文化勲章 受賞
 2001年 10月(93歳) 心不全にて逝去

[02]秋野不矩美術館 外観01
 03_02

[03]同上 02
 02_01

[04]秋野不矩美術館の前にて
 04

[05]秋野不矩(1908.07.25-2001.10.11)
 051908072520011011

[06]秋野不矩『童女』1946年頃
 061946

[07]同『少年群像』1950年
 071950

[08]同『五月』1953年
 081953

[09]同『裸童』1956年
 091956

[10]同『青年立像』1956年
 101956

[11]同『インド女性』1964年
 111964

[12]同『糸[』1982年
 121982

[13]同『村童』1987年
 131987

[14]同『朝の祈り』1988年
 141988

[15]同『女人群像』1988年
 151988

[16]同『沼』1991年
 161991

[17]同『帰牛』1995年
 171995

■続いては、秋野不矩美術館を発って、車で2~3分と程近くにある『二俣城址』を訪れた。

[18]二俣城址「本丸」〔左手奥の石垣が天主台〕
 18

[19]二俣城址天主台のbackに
 19back

[20]二俣城址「天主台」への石段にて01
 2001

[21]同上02
 2102

[22]二俣城址「天主台」から天竜川を望む
 22

【小生comment】
 今回の二俣城址訪問は、秋野不矩美術館を訪れたオマケみないな恰好になった。
 同美術館から車なら3~4分の至近に位置する二俣城址を訪れない訳にはいかない。

 二俣城址は、徳川家康の長男 信康が、織田信長から、武田方へ内通しているとして切腹を命じられ、切腹した場所として有名。
 この城は、戦国時代は、武田と徳川が攻防を繰り広げられた城である。
 戦国時代以降の流れを掻い摘んで記してみると‥
 天正03(1575)年05月21日 長篠の合戦で武田軍が大敗後も、武田方の城代依田信蕃がよく持ち堪えた
 同年12月24日 依田信蕃は駿河田中城へ撤退
 徳川家康は、武勇で名高い大久保忠世を二俣城に置き、城の万全な改修工事を実施
 以後、武田方は攻撃を繰り返すも終に奪うことは叶わなかった
 天正07(1579)年09月15日 徳川信康(1559-79)が切腹、享年21歳
 天正10(1582)年03月11日(新暦04月03日) 武田勝頼(1546-82)敗死により武田氏滅亡
 天正18(1590)年 堀尾吉晴(1544-1611)が浜松城に入城し、二俣城はその支城となった
 その後、堀尾氏が出雲へ移封となった際廃城になり、以後、城として復活することはなかった

【後記】今日、本《会報》【0563】号を配信することにした。
 理由は、明日&明後日、東京に行って《会報》を書いている時間がないからである。
 明日は、夕方、東京の港区麻布で「東京ふろう会/暑気払い」が開催されるのに出席する予定である。
 【2637の会】members では、渡辺S子さんが参加される予定という。
 渡辺さんとは、昨年06月「卒業40周年記念懇親会in 京都 2014」以来の再会となる。
 勿論、ただ「『ふろう会暑気払い』だけの為に上京するのは勿体ない」と考え、一泊二日のミニ一人旅を計画した。
 【1日目〔08月29日(土)〕】
 明朝06時40分豊橋発の新幹線ひかり号で品川へ。
 品川→押上「東京スカイツリ―」→浅草「浅草寺」→上野「国立西洋美術館『ボルドー展』」→六本木「サントリー美術館『藤田美術館/国宝・曜変天目茶碗と日本の美』展」→西麻布「権八/東京ふろう会・暑気払い」→亀戸泊
 【2日目〔08月30日(日)〕】
 08月30日(日)亀戸発→柴又「柴又帝釈天」→自由が丘「世田谷美術館分館・宮本三郎 記念美術館『写真家との対話』展」
 以上を見て来る予定である。
 その模様は、次回の《会報》【0564】号にてご報告する予定ですのでお楽しみに!
 では、また‥。(了)

2015年8月23日 (日)

【時習26回3-7の会 0562】~「08月15日:【2637の会】クラス会開催報告」「08月14日:『仁連木城址』を訪れて」「『奥の細道』第14回 次回《会報》へ順延のお知らせ」「08月22日:三重県立美術館『戦後70年記念/20世紀日本美術再見 1940年代』を見て」「ハンナ・アーレント著『イェルサレムのアイヒマン‥悪の陳腐さについての報告』を読んで」

■皆さん、いかがお過ごしですか? 今泉悟です。
 今日08月23日は、二十四節気でいう『処暑』。
 正に暑さが留まる処ですが、朝夕は秋らしさが感じられ若干涼しくなって来ましたネ。
 今日も【2637の会 0562】号をお送りします。

■先ず最初の話題は、前《会報》【0561】号を配信した翌日08月15日18時00分より、豊橋駅前近くの Try Again にて開催された【2637の会】クラス会の模様からご報告致します。
 前《会報》では、6人の参加予定でご報告申し上げましたが、当該《会報》を配信した日の夜、参加予定だった菰田君からmailを頂戴し、「熱が出た」とのことで欠席となり、5人での開催となりました。

 ※ ※ ※ ※ ※

 2015年8月14日 21:51:51
 今泉君。菰田です。
 体調がすぐれないので明日のクラス会、出席できなくなりました。
 多分夏風邪と思います。
 熱が出てしまいました。
 誠に申し訳ありません。

 菰田君へ
 クラス会開催前日午後10時前という直前に「欠席」の連絡を頂き吃驚しました。
 夏風邪を罹患された由、急なことなので相当高熱を出されたのではないかと心配しています。
 クラス会開催日朝のmail以来、連絡を頂戴していませんが、お身体の方は大丈夫ですか?
 酷暑が続き、体力的にも不調に陥り易い時期だったので心配しています。
 Try Again のママも心配していましたヨ!
 元気を取り戻されたら、確認したいこともありますので是非ご一報下さい。

 ※ ※ ※ ※ ※

 08月15日(土)の【2637の会】「クラス会」は、定刻18時過ぎには、出席予定者5人全てが集合。
 和気藹々の大変楽しいひとときを過ごすことが出来ました。
 林さんは、予定があるということで19時過ぎに中座されました。
 が、残りの4人は当初予定を1時間程過ぎた21時迄あっという間の3時間を過ごしました。
 添付写真[01][02]は、林さんが中座される直前での参加者全5人の全体写真です。
 みんなまだまだとっても若々しいでしょ!^-^/

[01]クラス会全体写真01
 012637_at_try_again_20150815_01

[02]同上02
 022637_at_try_again_20150815_02

 千賀君は、今年11月拠り「シルバー向け介護付きマンション」の事業を開始されるとの由。
 これから高齢化が進む我国で重要な役割を先頭に立って担ってくれる千賀君、身体に気をつけて頑張って下さい!
 又、彦坂君は、昨年12月名古屋高等裁判所金沢支部長を退官され、現在は東京都港区に3つある公証人役場の1つ浜松町公証人役場の公証人を務められている。
 東京及びその近隣にお住まいで遺言等が必要な方は、浜松町で彦坂君がきっと待っていてくれますヨ!^-^

 参加して下さった、伊東君、千賀君、林K子さん、彦坂君、楽しいひとときをどうもありがとう!
 来年は、お盆を外せば伊庭さんが参加してくれますし、山中さんも可能性が高いです。
 一方、男性陣は矢張りお盆でないと参加しにくいでしょう。
 其処で来年は、予め皆さんからクラス会の参加可能日をお聞きして、最も希望者が多い日を開催日(=majority rule)にしようと思います。
 因みにクラス会候補日の曜日は、翌日が休みである土曜日としたいと思います。
 そうすると、来年08月のお盆とお盆前後の土曜日は、08月06日(土)/13(土)/20(土)のいずれかとなります。
 人生は、元気なうちが華ですヨ!
 小生、癌を患いましたから、再発しないとも限りません。
 クラス会もいつまで続くか解りませんヨ!^-'/
 元気な今この時を大切に有意義に生きて行きたいと思っています。
 来年も、皆さんと楽しいひとときを過ごしたいと思います。
 故郷の豊橋の宵を、気の置けない懐かしくも楽しいclassmatesと共に語らい乍ら過ごしませんか?

■さて、今日続いての話題は、『仁連木城址』についてである。
 拙宅からほぼ真北へ2km行った所、東田小学校から北東100m程の所に「大口公園」がある。
 この公園が、1493年当時、田原城主であった戸田宗光が築城した『仁連木城址』(→1590年廃城)である。
 実は、前《会報》を配信した08月14日(金)の昼過ぎ、拙宅での亡父の初盆法要を済ませた後、菩提寺である曹洞宗寺院全久院に亡き父の「塔婆」を貰いに行ったのである。
 この『仁連木城址』が、同院から程近い所にあることは以前から知っていたが、まだ一度も訪れたことがなかったので立ち寄ってみた。
 因みに、当城を築城したは戸田宗光は戸田宗家である。
 戸田宗家は、徳川家康の異父妹・松姫と婚姻して松平姓を許された(戸田松平の祖)康長(1562-1633)が信濃国松本藩7万石藩主に。
 又、宗家支流に、戸田一西(かずあき(1543-1604)→膳所藩(初代)3万石)、その嫡子氏鉄(1576-1655)→美濃国大垣藩10万石藩主に。
 事程左様に、戸田氏は江戸時代、有力譜代大名・旗本・大藩の重臣を輩出した。

[03]「仁連木城址」入口
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[04]「仁連木城址」のある『大口公園』案内石碑
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[05]「仁連木城址」石碑
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[06]仁連木城址 風景1
 06_1

■続いては、「松尾芭蕉 作『奥の細道』第14回を次回へ順延するお知らせです。
 前回の第13回は、【越後路(えちごじ)】の処をお伝えしました。
 乃ち、六月二十五日(新暦08月10日)、【酒田】の淵庵不玉の許を発ち、加賀国・金沢を目指し北陸道を南進。
 そして、二週間程かけて六月十二日(新暦08月26日) 越中国に程近い越後最西端の街 【市振】〔午後4時頃〕に到着。
 此処迄お伝えしました。
 今日は、08月23日なので、326年前の今日は、越後国・高田の池田六左衛門宅に3泊した2泊目の処である。
 従って、『奥の細道』第13回は、来週予定の次回【0563】号にて【市振(新暦08月26日)】【那古(=有磯海(08月28日))】をお伝えする予定である。
 お楽しみに!(^-')b♪

■続いては、昨日08月22日に三重県立美術館にて開催中の『戦後70年記念/20世紀日本美術再見 1940年代』を見て来たのでその模様について簡単にご報告する。
 本展は、主催者「あいさつ」で以下の様に開催の趣旨を述べている。

 「本展覧会では、1940年代に制作された絵画、彫刻、工芸、写真、建築など各分野の作品と資料とを通じて、戦争の大きな影響を受けて揺れ動いた1940年代の日本美術の諸相と特質を検証します。
 戦後70年という10年間の美術史を今此処で再考し、20世紀の日本美術を見直す契機としたいと思います」
 前々回の《会報》【0560】号にて、名古屋市美術館で開催中の『画家たちと戦争』展とほぼ同じ趣旨の展覧会である。
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/26-056026379120.html ←此処を click して下さい

 終戦(=日本の敗戦)の1945年を挟んだ前後5年間の日本美術の変遷を、絵画、彫刻、工芸、写真、建築の各分野の作品と資料とを通じて検証するという切口は、正直大き過ぎて、矢張り雑駁なものになって仕舞い易いだろうと思って入館した。
 が、「矢張りさも有りなむ」と思った処も少なくなかったが、それなりに大変興味深く拝見出来て良かったと思う。
 特に個人的には、松本竣介(1912-48)の作品に注目した。
 本《会報》でも、彼の作品を一番多く掲載したので是非注意深くご覧頂きたい。
 マチエールとか細かな色彩の機微は、是非直接展覧会に行ってご覧頂かなければ解らないが、30歳を過ぎたばかりの若き松本竣介という画家の力量の確かさは、この写真の絵をご覧頂ければその一端は納得頂けるものと確信する。
 小生、松本竣介という画家のfanになって仕舞った様である。
 以下に末尾[30][31][32]に掲げた常設展の3点を含めて24点の作品中5点をupさせて頂いたが、如何でしょうか?
 ご覧になって感想をお聞かせ頂ければ幸甚である。

[07]三重県立美術館入口と本企画展 案内看板
 07

【企画展】
[08]本展leaflet/左写真は「小石清 写真集『半世界』4.舞踏・インフレーション 1940年」
 08leaflet_4_1940

[09]鳥海青児『万里の長城』1941年
 091941

[10]梅原龍三郎『北京秋天』1942年
 101942

[11]横山大観『秋之霊峰』1941年頃
 111941

[12]新海覚雄『貯蓄報国』1943年
 121943

[13]北脇昇『抛物線』1949年
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[14]恩地孝四郎『アレゴリー(allegory=寓話)№2 廃墟』1948年(1988年再刷)
 14allegory2_19481988

[15]松本竣介『焼跡風景』1946年頃
 151946

[16]松本竣介『自画像』1941年
 161941

[17]松本竣介『少女』1947年
 171947

[18]麻生三郎『母子』1948年
 181948

[19]靉蜜光『梢のある自画像』1943年
 191943

[20]靉蜜光『海』1943年
 201943

[21]松本竣介『駅の裏』1942年
 211942

[22]松本竣介『建物』1947年頃
 221947

[23]森芳雄『大根など』1942年
 231942

[24]山口薫『水』1941年
 241941

[25]山口薫『葬送』1944年
 251944

[26]藤田嗣治『嵐1943年
 261943

[27]河井寛次郎『白掛打薬包瓶』1939年頃
 271939

[28]林康夫『雲』1948年
 281948

[29]福田勝治『光の貝殻「ヌード」より』
 291949

【常設展】
[30]ムリリョ(B. E. Murillo(1617-82)『アレクサンドリアの聖カタリナ』1645-50年)
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[31]藤島武二『大王岬に打ち寄せる怒涛』1932年
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[32]シャガール(Marc Chagall(1887-1985))『枝』1956-62年
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【小生comment】
 本展は、本項冒頭で述べた通り、名古屋市美術館で開催中の『画家たちと戦争』展とほぼ同じ趣旨の展覧会である。
 名古屋市美術館の看板に「松本竣介『立てる像』1942年」という作品が掲示されてあり、『街にて』1940年他2~3点の作品を初めて見て中々いい作品だと思っていた処であるが、本展で多くの彼の作品を見て、スッカリ気に入って仕舞った。
 展覧会は、新たな発見が出来て本当に素晴らしい。

■今日最後の話題は、前号で予告した通り、最近見た映画のDVD『ハンナ・アーレント』の主人公であるハンナ・アーレント(1906.10.14-75.12.04)の著書『イェルサレムのアイヒマン‥悪の陳腐さについての報告』についてである。
 このお盆休みの一週間の空いた時間を使って一冊を読了した。
 久し振りに重苦しくなる力作を読ませて貰ったというのが正直な感想である。
 本書を半分位を読みかけた時の感想は大凡以下の通りであった。

「法治国家」とは何ぞや?‥という疑問と官僚組織に於ける「責任の所在」の不確かさ〔←「国家行為」という概念と「上からの命令に拠る」行為という概念〕が巨悪の事象を具現化するという恐ろしさ。
 これが「イェルサレムのアイヒマン」を読んでいる途中での小生の率直な感想である
 アーレントはこの本の「エピローグ」の中で、イスラエルは裁判権を持っているのか、アルゼンチンの国家主権を無視してアイヒマンを連行したのは正しかったのか、裁判そのものに正当性はあったのかなどの疑問を投げ掛けたことをはじめ、アイヒマンは決して狂人的な極悪人ではなく、Nazis政権下の官僚機構の平凡な小心者の中間管理職〔=小役人〕に過ぎなかったが故にユダヤ人の移送担当として、大量殺戮に〔積極的とは言わない迄も少なくとも、消極的でなく〕荷担したという巨悪をある意味淡々と執行したのだと述べている。
 まだ本書を半分しか読めていないのでハッキリした結論めいたこと迄は言えないが、アイヒマンの様な小役人が執り行った「惡の凡庸さ」は、現代社会でも日々十分起こり得る恐ろしさを感じる
 ニュルンベルクに国際軍事裁判所を設ける為制定された憲章で3種類の裁判権を認めた
 ハンナ・アーレントは、その一つである処の国際法上に於ける「平和に対する罪」に明確な定義がないことを指摘し、ソ連によるカティンの森事件〔←=ソ連に拠る15千人のポーランド将校の殺害〕や、米国による広島・長崎への原爆投下が裁かれないことを批判している
 所詮、戦勝国が敗戦国を裁く「勝利者が絶対的正義」という国際法上の歴史的な定めは言う迄もないではある
 が、先述した憲章の残り二つの犯罪「戦争犯罪」と「人道に対する罪」のうちの後者 については、広島・長崎への原爆投下した米国に責任があるとアーレントが明言していることは溜飲が下がる思いがする

 そして、読了した後の感想が以下の通りである。

 本書が、上梓され始めた(‥最初は「ザ・ニューヨーカー」に連載された始めた‥)時から、ユダヤ人から強いブーイングが起こったのである。
 何となれば、ユダヤ人の有力者達がユダヤ人評議会をしてナチSSに協力して、少数の(資産家である)ユダヤ人をナチス・ドイツの占領区域外への脱出を認めさせる代わりに、その他の数多くのユダヤ人を「最終的解決=殺戮」に効率良く移送することに荷担したと、アーレントが述べたからである。

 これについては、本書の訳者である大久保和郎(1923-75)氏も以下の様に述べている。
 ライトリンガーの『最終的解決』にも例えば「ユダヤ人評議会」の役割はかなりはっきりと述べられている。〔中略〕
 (色々な関連書籍を読んだ)私(=大久保)にはどうしても、アーレントが述べている「ユダヤ人の協力」の個々の事実は信じられるものの様に思える。
 問題は恐らく、ユダヤ人のこの協力がなかったとすれば如何にも混乱や悲惨はあっただろうが、600万のユダヤ人の惨死などという事態には至らなかっただろうという、アーレントの条件法的推断にあるのだろう。
 この客観的可能性について判断を下す資格は私にはない。
 ただこの批判の論点に関連して私としては二つのことを付け加えて置きたい。
 一つは、「ユダヤ人の協力」の事実を挙げることでアーレントは決してアイヒマンの罪責を緩和していないということである。
 彼女は彼女の理由からこの犯罪者に極刑を要求するのだ。
 その理由とは‥「『人道に対する罪』は昔からあるが、『(或る人種、或る民族、或る人間集団の存在を全体として否定すること、その存在を否定する権利が自分にあると思い上がること‥という)人類に対する罪』という全く新しい範疇の罪悪をアイヒマンは犯しているのであり、この様な犯罪者と「倶(とも)に天を戴くことは出来ない」と彼女は断定している。〔中略〕
 次に指摘して置きたいのは「彼女がユダヤ人だ」ということである。〔中略〕
 只管真実へ向かう彼女の冷徹で執拗な情熱、党派性もなく妥協もない知性の情熱であると私には思われる、と訳者は述べている。

【小生comment】
 彼女は一般大衆たるユダヤ人ではなかった。
 彼女の大著『全体主義の起源』の第1部「反ユダヤ主義」に於いて、何故、欧州で「反ユダヤ主義」が醸成されていったのかを検証しているが、彼女は、その「反ユダヤ主義」の延長線上に「ナチに拠るユダヤ人の最終的解決〔=殺戮〕」あることを、冷徹に述べている。
 ドイツの実存哲学の創始者で、彼女の師でもあるカール・ヤスパース(1883-1969)が彼女についてこう述べている。
「自分は哲学者ではないと彼女(=アーレント)は言明している。
 哲学者であることはもうとっくの昔に諦めていると言うのです。
 それでは一体何なのか?
 専門は全然ない。
 何かに彼女を組み入れることは不可能だ!
 どんな団体にも、どんなクラブにも所属していない。
 完全に彼女自身であり、何事も自分の責任で行う。
 そしてこの全面的な独立性は多くの著述家にはとても不気味なものに見える様に私(=Karl Jaspers)には見える。
 彼女は本来彼等の仲間ではない。
 実際彼女は、何かを思い着く、そしていつも何か新しいことを思い着かねば生きていけない、そういうtypeの人間ではない。
 欲しい儘に漂う知性とは又違った種類のあの独立性に拠って彼女は生きている。
 私の推測では、幾人かの著述家に見られる彼女への秘められた反感はそれに由来するのです。〔中略〕
 この独立性には根無草の空しさもない。〔中略〕
 彼女がそれに拠って生きる根本のものは、真理への意志、真の意味に於ける人間的存在、幼年時代に迄見られる限りない誠実、そして又、逮捕(1933年)と旅券なしの国外移住の時に味わった極度の孤独の経験です。〔後略〕」
 〔‥バーゼル放送局より1965年02月24日放送の対談から‥〕

 アーレントの師 ヤスパースの言葉から、彼女の人柄が目に浮かんで来る。
 そして、今度は、数日前に手に入れた、アーレント著『全体主義の起源』第1部「反ユダヤ主義」を読むこととする。

[33]本書執筆当時のハンナ・アーレント
 33

[34]ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン』
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[35]Karl Adolf Otto Eichmann SS中佐(1906.03.19-1962.05.31)
 35karl_adolf_otto_eichmann_ss

[36]イスラエルに逮捕された後の Eichmann
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【後記】
 暫く、ハンナ・アーレントの作品に嵌って仕舞いそう。
 その感想は、随時これからご報告していく予定です。
 乞うご期待!^-^/
 では、また‥(了)

2015年8月14日 (金)

【時習26回3-7の会 0561】~「今夏【2637の会】クラス会について《第10(事前最終)報》」「『奥の細道』第13回‥【越後路】」「08月08日:豊橋市美術博物館『岡本太郎と中村正義「東京展」』を見て」「DVD『ハンナ・アーレント(Hannah Arendt)』を見て」

■只今お盆休みの真っ最中ですが、皆さん、いかがお過ごしですか?
 さぁ、今日も暑さに負けず【2637の会 0561】号をお送りします。

■先ず最初の話題は、明日を開催日となった「今夏【2637の会】クラス会について」の《10回目の(‥事前最終‥)報告》です。
 前《会報》にてご案内してからの今日迄の間に更に菰田君と、伊庭さん、山中さん、林さん、石田君、牧野君、峯田君、彦坂君の8人の皆さんからmailや電話を頂戴しました。
 早速ご紹介致します。

 まず、菰田君からは「出席」表明を頂戴しました。
 Sent: Monday, August 10, 2015 10:01 PM

 今泉君
 菰田です。
 15日のクラス会出席します。宜しくお願いします。

 ※ ※ ※ ※ ※

 菰田君へ
 明日は【2637の会】「クラス会」で楽しいひとときを過ごしましょう!
 楽しみにしています。

 ※ ※ ※ ※ ※

 続いては、伊庭さんからのmailです。
 今回は残念乍ら欠席です。
 Sent: Sunday, August 09, 2015 8:47 AM

 今泉様

 いつもメールをありがとうございます。
 楽しく拝読させていただいております。
 さて、返事が遅くなりましたが、15日はやはり送り盆で、夜まで落ち着かず時間的にも都合がつかないと思われますので残念ですが欠席とさせていただきます。
 参加される皆さんによろしくお伝えください。
 来年お盆と重ならなければ参加できると思います。
             伊庭R子

 伊庭の近況
 早期退職し、家業の果樹園の手伝いをし始めて三年目となりました。
 長男夫婦は農業は継がない予定なので、元々少ない農地ですが、今年減反して、今は主人と二人で気ままにのんびりと作物を作っています。

 ※ ※ ※ ※ ※

 伊庭さんへ
 返信mailを有難う!
 今年もクラス会「欠席」との由残念です。
 が、来年は、「来年お盆と重ならなければ参加できると思います」との由。
 来年は是非久し振りに再会しましょう!

 ※ ※ ※ ※ ※

 続いては、山中さんからのmailです。
 山中さんも今回は欠席です。
 2015/08/10 12:47

 連絡が遅くなりごめんなさい。
 残念ですが今年のクラス会は欠席します。
 やっぱりお盆は難しいですね。
 都合がつけば参加したかったのですが。
 来年に期待します。
          山中

 ※ ※ ※ ※ ※

 山中さんへ
 返信mailありがとう。
 クラス会「欠席」の件、了解しました。
 来年は是非参加して下さい。

 ※ ※ ※ ※ ※

 続いて、昨日、「出席」2名、「欠席」2名、「出席→欠席」への変更1名のmailと電話がありました。

 先ずは、林恭子さんから昨日08月13日正午過ぎに電話で‥

 連絡が遅くなってごめんなさい。
「翌日の16日が(pianoの)発表会なので、遅刻&早退になって仕舞いますが、30~1時間はご一緒出来ると思います」
 とのことでした。

 ※ ※ ※ ※ ※

 林さん、ホントどうも有難う!

 ※ ※ ※ ※ ※

そして、同日20時過ぎに彦坂君からも「出席」のmailを頂戴しました。

2015/08/13 20:19

 今泉悟様
                千葉県柏市 彦坂
 連絡が遅れてすみません。クラス会には出席する予定です。
 当日はよろしくお願いします。

 ※ ※ ※ ※ ※

 彦坂君へ
 返信mailを、そして出席表明を有難う御座いました
 石田君が体調不良で「出席→欠席」へになりましたが、林恭子さんと貴兄が加わり6人でのクラス会になりました
 楽しいクラス会にしましょう!

 ※ ※ ※ ※ ※

 それから、石田義博君から「出席」→「欠席」への変更のmailが届きました。
 Sent: Thursday, August 13, 2015 6:33 AM

 今泉君

 おはようございます。
 明後日のクラス会の件ですが、体調不良により欠席とさせていただけないでしょうか。
 実は、8/9から〔中略〕この3日ほどは非常に強い痛みのため殆ど眠れないほどでした。〔中略〕
 今朝になり、頸部から頭部に発疹が現れ、□□□□であることが分かりました。
 これで治療は開始できますが、発疹もあり、皆さんと親しくお会いするのは控えたいと思います。
 突然で申し訳ありませんが、よろしくお願い申し上げます。

          石田Y博

 ※ ※ ※ ※ ※

 石田君へ
 クラス会「欠席」される由、大変残念ですが、体調不良では仕方ないですね。
 ご自愛下さい。
 我々は、決して老け込む歳ではないですが、若くないことも確かです。
 命あっての、そして健康あっての人生ですから、一日も早い全快をお祈りしています。

 ※ ※ ※ ※ ※

 そして、牧野全孝君からは、昨日から今朝にかけて何度も頂戴して‥

 「出席で考えていたんだけど、35年ぶり会う旧友との日程調整があって、結局その日程が(【2637の会】の)クラス会と同じ時間になって仕舞ったので、今回は、欠席させて下さい」とのことでした。

 牧野君へ
 毎年クラス会に参加してくれて有難う。
 今年は大変残念だけれど、又、来年会いましょう!
 再会を楽しみにしています。

 ※ ※ ※ ※ ※

 更に、峯田君からもmailを頂戴しました。
 2015.08.13.18:27

 大変申し訳ありません。
 別の会があり、出席できません。
 来年は必ずでます。

     峯田

 ※ ※ ※ ※ ※

 峯田君へ
 了解しました。
 来年は是非参加して下さい。!^-^b

※ ※ ※ ※ ※

 これで、明日08月15日(土)の【2637の会】クラス会の出席予定者は6人になりました。
 伊東君、菰田君、千賀君、林さん、彦坂君、明晩は楽しいひとときを過ごしましょう!

【2637の会】クラス会出欠表明状況
〔mail到着順、敬称略〕

「参加」千賀、伊東、菰田、林(恭)、彦坂、今泉‥6人
「欠席」竹内、渡辺、井上、伊庭、山中、石田(義)、牧野、峯田‥7人

 明日のクラス会開催要領は以下の通りです。

             記

 1.開催日時:2015年08月15日(土) 18時00分~
 2.開催場所:トライアゲイン〔開発ビル 地下1階 ☎ 0532-55-0255〕
 3.会  費:実費〔4,000円程度〕

 参加を表明して下さった小生を除く5人の皆さん、明日の再会を心よりお待ちしています。

■さて、今日続いての話題は、「松尾芭蕉 作『奥の細道』の今日はその第13回目である。

  〔 北陸道:元禄二年六月二十五日から七月十二日 〕
 前回の第11回は、象潟から帰って来た芭蕉と曽良が元禄二年六月十八~二十四日(新暦08月03~09日)にかけて、玄順亭(=伊東玄庵=淵庵不玉)(推定)に7泊した処迄お伝えした。
 今回は、元禄二年六月二十五日から七月十二日(新暦08月10日~08月26日)の処迄ご紹介したい。
 六月二十五日(新暦08月10日)、芭蕉と曾良は酒田・淵庵不玉の許を発って北陸道を南進、加賀国・金沢を目指した。

 六月二十五日(新暦08月10日) 大山/丸屋義左衛門宅泊/天気吉(よし)、夜雨降る
 同 二十六日(新暦08月11日) 温海(あつみ)/鈴木所左衛門宅泊/晴、未刻少し前(午後一時頃)より少雨す、暮に及び大雨、夜中(じゅう)止まず
 同 二十七日(新暦08月12日) 中村(現・北中)/宿記載なし/雨止む、のち折々小雨す
 同 二十八~二十九日(新暦08月13~14日) 村上/大和屋久左衛門宅泊/〔13日:朝晴、のち甚だ雨降る、追付止む/14日:天気吉(よし)〕
 七月一日(新暦08月15日) 築地(ついじ)村/次市郎宅泊/折々小雨降る、昼過ぎ大雨、即刻止む、申上刻(午後三時半頃)雨降り出す、夜甚だ強雨す
 同 二日(新暦08月16二) 新潟/大工源七宅泊/朝雨止み曇、昼時分より晴、アイ風出る
 同 三日(新暦08月17日) 弥彦/宿記載なし/快晴、風
 同 四日(新暦08月18日) 出雲崎/宿記載なし/快晴、風、夜中雨強く降る
 同 五日(新暦08月19日) 鉢崎/俵屋六郎兵衛宅泊/朝迄雨降る、辰上刻(午前七時半頃)止む、間もなく雨降る、のち小雨折々降る
 同 六日(新暦08月20日) 今町(直江津)/古川市左衛門宅泊/雨晴る、午後雨降り出す
 同 七日(新暦08月21日) 今町(直江津)/佐藤元仙(右雪)宅泊/雨やまず、昼暫くの内雨止む、夜中風雨甚だし
 同 八~十日(新暦08月22~24日) 高田/池田六左衛門宅泊
〔新暦22日:雨止む/新暦23日:折々少雨す/新暦24日:折々少雨、夕方より晴〕
 同 十一日(新暦08月25日) 能生(のう)/玉屋五郎兵衛宅泊/快晴、暑甚だし、月晴
 同 十二日(新暦08月26日) 市振〔午後4時頃到着〕/宿記載なし/雨降らんとして晴れ、暑気甚だし

【越後路(えちごじ)】
《原文》
 酒田の余波(なごり)(注1)日をか重(かさね)て、北陸道(ほくろくだう)(注2)の雲に望(のぞむ)(注3)。
 遥々(えうえう)のおもひ(注4)胸をいたましめて、加賀の府(注5)まで百卅(=三十)里(注6)と聞(きく)。
 鼠(ねず)の関(注7)をこゆれば、越後(ゑちご)の地に歩行(あゆみ)を改(あらため)て、越中の国一ぶり(=市振:いちぶり)の関(注8)に到る。
 此間(このかん)九日(注9)、暑湿(しよしつ)の労(注10)に神(しん)をなやまし(注11)、病(やまひ)おこりて(注12)事をしるさず。

  文月(ふみづき)や六日(むいか)も常の夜(よ)には似ず

  荒海や佐渡によこ(=横)たふ天河(あまのがは)

《現代語訳》
 酒田の人々と名残り(注1)を惜しんで、滞在の日数(ひかず)を重ねていたが、愈々是から発つべき北陸道(注2)の空を多く眺めやる(注3)。
 前途遥かな道程(みちのり)を思う(注4)と心が痛み、聞けば加賀の国府(注5)金沢迄は百三十里(注6)という。
 奥羽三関の一つ「鼠の関(注7)」を越えると、越後の地に歩みを進め、更に越中の国「市振の関」(注8)に到った。
 その所要日数は九日(注9)で、暑さと雨降りの辛労(注10)で気分が優れず(注11)、病に悩まされた(注12)為、道中の事は書き記さなかった。

 【意】今宵七月六日の夜は、普段の夜とは違い、何となく華やいだ気持ちになるヨ
    何故なら、今宵は、牽牛と織女の二星が天の川を渡って年に一回の逢瀬を楽しむ七夕の前夜であるから

 【意】荒波が立ち騒ぐ日本海を眺めやると、天の川が遥か彼方にある佐渡島迄横たえる様に架かっている
    正に雄大な景色だ

 【解説】
 「荒海や佐渡によこたふ天河」の句について、山本健吉氏は次の様に述べている。

 「荒海や」の有名な句は何処で詠まれたのか、いまでも出雲崎と直江津とで争っている。〔中略〕
 芭蕉が書いた「銀河の序」には、はっきり出雲崎と書いてある。
 出雲崎に泊まったのは七月四日。
 翌日は、柏崎で断られて鉢崎に泊まった。
 六日は今町(=直江津)の聴信寺で宿を断られたので、憤然として行きかけると、石井善次郎という男が芭蕉の名を知っていたのか、再三人を遣って、戻るよう懇願したので、折節雨も降って来たし、これ幸いと立てた腹を収めて引き返した。
 雨の為八日迄居たが、不快の気持ちが消えた訳ではない。
 六日の夜徘席が開かれ、「文月や 六日も常の 夜には似ず」の句を披露したが、この日「七夕」と題して、「荒海や」の句も発表したらしい。
 出雲崎で作って直江津で披露したと言えば、一応理屈に合う。
 だが、私(=山本)は、出雲崎で想を得、直江津に着く迄に形が纏まったのだと考えるのが、一層合理的だと思う。〔中略〕
 芭蕉が佐渡と言った時、それはただの島ではなく、古来の有名無名の流された人たちのことが頭にあった。
 その歴史的回想のかなしさが、冒頭に「荒海や」と強く置いた芭蕉の主題の色でもあった。〔後略〕
 〔‥山本健吉『奥の細道』【越後路】拠り引用‥〕

 (注1)酒田の余波(なごり):余波=名残/芭蕉と曾良は、象潟へ向かう前2日と戻ってからの7日間、酒田(不玉の許(推定))滞在
 (注2)北陸道(ほくろくどう):七道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海)の一つ
    日本海沿岸の中部地方の七ヶ国(若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡)/又、これ等の諸国を通過する街道のこと
 (注3)雲に望む:是から向かう北陸道の旅路の空を遠く眺め、旅路の辛さを思う心境を述べている
 (注4)遥々(えうえう)のおもひ:「はるばる」と同じ
    曾良本に「遙-ゝ」と朱筆の符号入りで見えることから「えうえう=ようよう」と読むのが通説
 (注5)加賀の国府:「府」は都/加賀藩の城下町・金沢を指す
 (注6)百卅(=三十)里:『奥の細道』の【出立=旅立ち】の章の「前途三千里のおもひ‥」に対応した叙述
    《会報》【0550】http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/26055020528conc.html 参照
    乃ち、芭蕉は、この【越後路】から『奥の細道』の後編が始まる‥と捉えている
 (注7)鼠の関:「念珠が関」とも言う/出羽国から越後国へ越える国境の、海岸近くにあった関所
    現・山形県西田川郡温海町に属し、羽後線「鼠が関」駅の北1kmの所に関跡の碑がある
 (注8)越中の国一ぶり(=市振:いちぶり)の関:「市振」と書く/あと1里足らずで越中だが、正確にはまだ越後国
 (注9)此間(このかん)九日:「此間」とは「鼠が関」と「市振関」、乃ち「越後路」を指している
    芭蕉と曾良は、六月二十七日(新暦08月12日)に「鼠が関」を越え、7月十二日(新暦08月26日) 市振に到着している
    従って、実際の所要日数は14日間であったが、当時、同区間は九日で踏破可能だったのであろう
 (注10)暑湿(しよしつ)の労:「暑湿」=暑さと湿気(=雨)に拠る疲労
 (注11)神(しん)をなやまし:「神」は心・魂
 (注12)病(やまひ)おこりて:【飯塚(=飯塚温泉)】の章でも述べたが、芭蕉には、疝気(さんき(胆石症が‥))と痔疾の持病があった/「癪」即ち、胃痙攣という説もある
    《会報》【0553】http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/260553263750613.html 参照

【小生comment】
 芭蕉の『奥の細道』も、【酒田】【象潟1&2】【越後路】と来て、文脈に何処かうら寂しさを感じるのは小生だけだろうか?
 出羽・越後・佐渡という旧国名から「裏日本」→「うら寂しさ」が伝わって来るのは、日本人の文化なのかもしれない。
 象潟から帰って7日間酒田に滞在し、その後更に14日間かけて「市振」に至る迄の行程350km(≒九十里)。
 この間で『奥の細道』に収録されている俳句は【越後路】の章にある「文月や」と「荒海や」に二句だけである。
 この道中に歌枕や史跡・名勝が少ないことも、「うら寂しさ」に繋がっているものとみられる。

■続いては、豊橋市美術博物館『岡本太郎と中村正義「東京展」』についてお伝えする。
 1975年、日本画家 中村正義(1924-1977)が自らの人生の全てを賭けて、全く新しい美術の共同体・組織を、日本の閉鎖的な美術界に誕生させようと、病身を押して作ったのが『東京展』であった。
 一方、岡本太郎(1911-96)は、1941年に10年居たParisから帰国し、46年復員後はアヴァンギャルド(Avant-garde(=芸術革新運動、前衛派))の旗手として活躍。
 本展は、中村正義、岡本太郎、夫々の生誕の地にある豊橋美術博物館と川崎市岡本太郎美術館が、岡本・中村の接点である「東京展」の出品作品を核にし乍ら、両者の代表作品を対峙的に展示し、二人の共通点と違いを感じた貰おうという企画である。
 〔‥以上、本展「ごあいさつ」拠り引用‥〕

[01]本展leaflet
 01leaflet

[02]岡本太郎『青空』1954年
 021954

[03]中村正義『男と女』1963年
 031963

[04]中村正義『自画像』1962年
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[05]岡本太郎『若い太陽の塔』1969年
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[06]岡本太郎『太陽の塔』1970年
 061970

[07]星野眞吾『終局』1975年
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[08]中村正義『おそれA』1974年
 081974

[09]岡本太郎『祭り』1985年
 091985

[10]中村正義『自画像』1966年
 101966

[11]岡本太郎『顔・顔・顔』1980年
 111980

【小生comment】
 岡本太郎と中村正義の共通点と言えば、何といっても日本の洋画・日本画の枠に囚われない芸術全般に於ける「Avant-garde」的活動と言える。
 ただ、両者の抽象的な、前衛的な絵をずっと見ていたら、小生、ワイルド(wild(=野性的))且つデカダン(decadent(=退廃的))の鮮烈さが究極的には、破滅的、醜悪的、反社会的な方向に流れていく気持ちに襲われた。
 基本的に、「理性的」で「美しい」ものが好きな小生にとって、岡本&中村の革新活動はどうしても馴染み難いgenreに思う。
 但し、一見の価値は間違いなくあると思う。
 豊橋市とその近郊にお住まいの皆さんは是非一度豊橋市美術博物館に足を運んでご自分の目で確かめてみて下さい。

■今日最後の話題は、最近みた映画のDVD『ハンナ・アーレント』についてである。

 ハンナ・アーレント(Hannah Arendt)は、1906年10月14日 ハノーファーに生まれた
 社会民主主義者のユダヤ人家庭に育つ
 14歳の時に読んでいたカントとヤスパースをきっかけに、哲学を学ぶことを決意
 マールブルク(Marburg)大学でハイデガーに哲学を師事するが、一時期は既婚者のハイデガーと不倫関係にあった
 その後、フライブルグ(Freiburg)大学でフッサールに、ハイデルベルク(Heidelberg)大学でヤスパースに夫々哲学を師事
 博士論文は、ヤスパースの指導に拠る「アウグスティヌスの愛の概念」(1928年)
 1929年 ギュンター・シュテルンと結婚
 1933年 ゲシュタポに短期間拘束された後、Parisに亡命
 ユダヤ人青少年のPalestina移住を支援する組織「ユース・アーリヤー(Youth Aliyah)」の資金調達活動に携わる
 1937年 マルクス主義者ハインリッヒ・ブリュッヒャーと出会い、シュテルンと離婚後、1940年ブリュッヒャーと再婚
 同年 Franceのギュルス(グール)強制収容所に連行されるが脱出
 1941年 母マルタと夫を連れ米国へ亡命、
 その後、ユダヤ系ドイツ語新聞「アウフバウ(Aufbau)」にcolumnを執筆し乍ら生計を立てる
 1944年 欧州ユダヤ文化復興機関で働き始める(‥のち、専任秘書)
 1951年 米国国籍を取得、同年に英語に拠る「全体主義の起源」を出版、
 プリンストン(Princeton)大学、ハーヴァード(Harvard)大学の客員教授を経て‥
 1959年 プリンストン大学初の女性専任教授に就任
 1961年 カール・アドルフ・アイヒマン裁判を傍聴する為イスラエルに渡航
 1963年 アイヒマン裁判のreportをザ・ニューヨーカー誌に連載し、全米で激しい論争を巻き起こす
 同年「イェルサレムのアイヒマン‥悪の陳腐さについての報告」を単行本として出版
 同書はホロコースト(=holocaust)研究の最重要文献の一つとなった
 1963年 シカゴ(Chicago)大学教授に就任
 1968年 New School for Social Research 教授に就任
 1975年12月04日 心臓麻痺に拠りNew Yorkにて死去(享年69歳)

[12]映画DVD『ハンナ・アーレント』
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[13]若き日のハンナ・アーレント
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【小生comment】
 本映画は、ユダヤ系ドイツ人の女性哲学者ハンナ・アーレントの半生を、アイヒマン裁判を中心に描いた作品である。
 アーレントが、映画のclimaxに於いて「『考えないことが一番の悪』だ。
 その悪は、小役人的に命令を忠実に履行したアイヒマンの中にも居るし、吾々一人ひとりの中にも居る。
 それこそが、『悪の凡庸さ』なのだ」と壇上から語りかける。
 今の時代、物事を難しく考え過ぎると確かにstressが貯まる。
 が、一方、何も考えないで流れに流されていると、全体主義の様な巨悪に足を踏み入れて仕舞う危険が待ち構えている。
 一市民である小生、近未来さえ予測不可能なこの世の中を、これからどの様に生きていったら良いのか?
 何かHamletみたいになって来たようだ‥(^^;

【後記】小生、映画DVD『ハンナ・アーレント』を見たら彼女のアイヒマン裁判のreport「イェルサレムのアイヒマン‥悪の陳腐さについての報告」を読んでみたくなり早速手に入れた。
 このお盆に読んでみることにする。

 【2637の会】クラス会の模様は、次回《会報》にてお伝えする予定です。
 お楽しみに!
 では、また‥(了)

2015年8月 8日 (土)

【時習26回3-7の会 0560】~「今夏【2637の会】クラス会について《第9(最終)報》」「『奥の細道』第12回‥【象潟2】」「08月01日:名古屋市美術館『画家と戦争‥彼等はいかにして生き抜いたか?』展を見て」「曽野綾子『人間の分際』を読んで」

■今日08月08日は、二十四節気でいう『立秋』。
 昨日迄『大暑』だったのだから、急に「秋」が来たと言われても、茹だる様なこの暑さでは実感が全く湧かない。
 しかし、朝晩が『夏至』の頃と比べると確かに短くなったのは確かだ。
 実際にどの位日照時間が短くなったのか、調べてみた。
 
 今年の『夏至』06月22日は‥
 日出:04時36分22秒/日入:19時07分41秒/日照時間:14時間31分19秒‥①
 今日、今年の『立秋』08月08日〔『夏至』から数えて47日目〕は‥
 日出:05時03分48秒/日入:18時47分30秒/日照時間:13時間43分42秒‥②
 ①-②=47分37秒〔日の出:27分26秒/日の入:20分11秒〕

 ご覧の通りだ。
 『夏至』から47日(‥約01箇月半‥)で、日の出が27分余り遅くなり、日の入が20分余り早くなって、日照時間は47分余り短くなっている。

 『立秋』と言えば、現代人でも意味が読み取れる平易な藤原敏行の名歌がある‥

   秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる  藤原敏行朝臣(?-907?)
           (古今和歌集 秋歌上 169)

 暦でこそ「秋」とは言え、まだまだ猛暑が続きます。皆さんも充分ご自愛下さい。(^^;
 さぁ、今日も暑さに負けず【2637の会 0560】号をお送りします。

■先ず最初の話題は、開催日迄あと1週間に迫って来ました「今夏【2637の会】クラス会について」の《9回目の報告》です。
 前《会報》にてご案内してからの今日迄の間に更に菰田君と井上君からmailを頂戴しました。
 そして菰田君からは「出席」の方向で考慮中との由、井上君からは今回は「欠席」の旨のmailを頂戴しました。
 以下に、菰田君と井上君からのmailをpasteします。

 Sent: Monday, August 03, 2015 2:06 PM

 菰田です。
 なかなか連絡できず申し訳ありません。
 出席の方向で調整しています。
 確定したら連絡します。

 ※ ※ ※ ※ ※

 菰田君へ
 返信mailを有難う!
 07月18日の「時習26回生 還暦祝 打上花火大会」では、貴兄は一次会(‥桟敷席での花火観賞‥)のみの参加だったので確りお話出来ず残念でした。
 【2637の会】クラス会は、参加されれば、一昨年以来の2年振りになりますね。
 今年は、是非楽しいひとときを過ごしましょう!
 朗報をお待ちしています。

 ※ ※ ※ ※ ※

 Sent: Friday, August 07, 2015 12:07 PM

 今泉さま
 いつもいつもありがとうございます。
 ざんねんながら今年は参加できません。
 皆さまによろしくおつたえしてください。
                   井上N生

 ※ ※ ※ ※ ※

 井上君へ
 返信mailありがとう。
 クラス会「欠席」の件、了解しました。
 来年は是非参加して下さい。

 ※ ※ ※ ※ ※

 それから、前《会報》【0559】号にて渡辺S子さん宛にご案内した08月29日開催予定の「東京ふろう会『暑気払い』」について当番幹事の渡辺H司君【3-9】から経過報告等の連絡を頂戴しました。
 それに拠ると、参加表明者は、現状、ご覧の10人です〔08月01日現在〕。
 鈴木さん【3-1】/織田さん、鈴木君【3-2】/中島さん、前田さん【3-4】/吉福さん【3-6】/今泉【3-7】/本多君、渡辺君【3-9】/黒柳君【3-10】
 小生、今回初めて、東京ふろう会の「暑気払い」に参加します。
 何となれば、会場近くのサントリー美術館にて、世界&日本に3つ(‥4つという場合もある‥)しかない、藤田美術館所蔵の【国宝】曜変天目茶碗をどうしても見たかったのです。
 因みにあと2つは、三菱・静嘉堂文庫所蔵のモノ(‥これは見ています)。もう一つは、大徳寺龍光院所蔵ですが、これは非公開の為見ることが出来ません。
 勿論、それだけで上京するのも勿体ないナということで、一泊二日にして‥
 【初日】06時40分豊橋駅発→「東京スカイツリ―」→「浅草寺」→「国立西洋美術館」→「サントリー美術館」→「東京シティ・ヴュー展望台」→亀戸泊
 【二日目】亀戸→「柴又帝釈天」→「世田谷美術館/宮本三郎記念館」→15時56分豊橋駅着
 という行程を計画しています。

 ※ ※ ※ ※ ※

【2637の会】クラス会出欠表明状況
〔mail到着順、敬称略〕

「参加」石田(義)・千賀・伊東・今泉‥4人
「欠席」竹内、渡辺、井上‥3人
「考慮中」彦坂、山中、林(恭)、菰田‥4人

 毎度繰返しの掲載になりますが、クラス会開催要領は以下の通りです。

             記

1.開催日時:2015年08月15日(土) 18時00分~
 2.開催場所:トライアゲイン〔開発ビル 地下1階 ☎ 0532-55-0255〕
 3.会  費:実費〔4,000円程度〕

 「クラス会」の出欠案内用mailは、前々回の《会報》配信時に《会報》mailとは別にclassmatesの皆さん宛に配信させて頂いております。
 皆さんの奮ってのご参加を心よりお待ちしています。

■さて、今日続いての話題は、「松尾芭蕉 作『奥の細道』の今日はその第12回目。

 先ず、芭蕉と曽良の行程を前回と少し重複させてお示しする。
 六月十三~十四日(新暦07月29~30日)と酒田の淵庵不玉の玄順亭〔=推定〕に連泊した後、象潟を目指して北上、吹浦へ
 〔新暦07月29日:少し雨降りて止む/新暦07月30日:暑甚だし〕
 六月十五日(新暦07月31日) 吹浦(ふく(う)ら)、宿記載なし〔朝より小雨、昼前より雨甚だし〕
 六月十六日(新暦08月01日) 塩越、能登谷佐々木孫左衛門宅に翌十七日(新暦08月02日)迄2泊す
 〔新暦08月01日:雨降り出る、雨強く甚だ濡る/新暦08月02日:朝小雨、昼より止みて日照る〕
 六月十八~二十四日(新暦08月03~09日)【象潟2】から帰って来た‥→玄順亭(=伊東玄庵=淵庵不玉)(推定)に7泊す
 〔新暦08月03日:快晴、アイ風吹く/新暦08月04日&05日:快晴/新暦08月06日:快晴、夕方曇、夜に入り村雨して止む/新暦08月07日:曇、夕方晴/新暦08月08日:晴/新暦08月09日:朝晴、夕より夜半迄雨降る〕

 ※ ※ ※ ※ ※

 前回の【象潟1】では、芭蕉と曽良が六月十五日(新暦07月31日)に「酒田」を出発して象潟へ向かうこと10里。
 具体的な宿泊地名は記していないが、雨が降る中、「酒田」を出発した其日の夕方には象潟近く迄来た様に『奥の細道』では記している。
 そして、その象潟近くの蜑の苫屋に宿泊して翌日、象潟が晴れ上がるのを待った、となっている。
 処が、実際には、「酒田」を出発してその日は「吹浦」に泊し、翌日は更に北上して象潟近く「塩越」の能登谷佐々木孫左衛門宅に泊した。
 その翌日が、今回お届けする【象潟2】である。

 芭蕉にとって「象潟」は、「松嶋」と対極を成す『奥の細道』における待望の目的地。
 文面も、漢詩・和歌・故事等を踏まえ、対句的表現を多用して、かなり力の入ったものとなっている。
 今回は、「象潟」の名場面を名句と共にジックリとお楽しみ下さい。

 ※ ※ ※ ※ ※

【象潟2】
《原文》
 其朝(そのあした)天能(よく)霽(はれ)て、朝日花やかにさし出(いづ)る程に、象潟(注1)に舟をうかぶ。
 先(まづ)能因島(のういんじま)(注2)に舟をよせて、三年幽居(注3)の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ(注4)」とよまれし桜の老木、西行法師の記念(かたみ)をのこす。
 江上(こうしょう)に御陵(みささぎ)あり。
 神功皇宮(じんぐうこうぐう)(注5)の御墓と云(いふ)。
 寺を干満珠寺(かんまんじゅじ)(注6)と云(いふ)。
 此処(このところ)に行幸(みゆき=ぎょうこう)(注7)ありし事いまだ聞(きか)ず。
 いかなる事にや。
 此寺の方丈に座して簾を捲(まけ)ば(注8)、風景一眼の中(うち)に尽(つき)て、南(注9)に鳥海、天をさゝえ、其陰うつりて江(え)にあり。
 西はむやゝゝの関(注10)、路(みち)をかぎり、東に堤を築(きづき)て、秋田(注11)にかよふ道遙(はるか)に、海(うみ)北にかまえて、浪打入(うちい)る所を汐こし(注12)と云(いふ)。
 江の縦横一里ばかり(注13)、俤(おもかげ)(注14)松島にかよひて、又異(こと)なり。
 松島は笑ふが如く(注15)、象潟はうらむがごとし(注16)。
 寂しさに悲しみをくはえて、地勢(ちせい)魂をなやます(注17)に似たり。

  象潟や雨に西施(注18)がねぶの花(注19)

[01]県道58号線からみた『象潟』
 0158

[02]象潟‥九十九島
 02

[03]合歓木(ネムノキ)
 03

[04]合歓の花を連想させる‥ホオジロカンムリヅルとその冠
 04

  汐越や鶴はぎぬれて海涼し

 祭礼(注20)

  象潟や料理なにくふ神祭り 曾良

  蜑(あま)の家(や)や戸板(といた)を敷(しき)て夕涼(ゆふすずみ) みのの国の商人 低耳(ていじ)(注21)

  岩上に雎鳩(みさご)(注22)の巣を見る

  波こえぬ契(ちぎり)(注23)ありてやみさごの巣 曾良

[05]ミサゴ
 05

[06]獲物の魚を目掛けて水の中に飛び込む瞬間のミサゴ
 06

[07]獲物の魚を捕まえた直後のミサゴ
 07
 
《現代語訳》
 次の朝、空が晴れ渡り、朝日がはなやかに輝いていたので、象潟(注1)に舟に乗って出た。
 まず能因法師縁(ゆかり)の能因島(注2)に舟を寄せ、法師が三年間静かに隠れ住んだという庵(注3)の跡を訪ねた。
 それからその向こう岸に舟をつけて島に上がり、「花の上こぐ(注4)」と詠まれた桜の老木が西行法師の記念を残している。
 水辺に御陵がある。
 神功后宮(注5)の墓ということだ。
 寺の名前を干満珠寺(注6)という。
 しかし神功后宮がこの地に行幸(注7)したという話は今迄聞いたことがない。
 どういうことだろうか?
 この寺にて表座敷に座り、簾(すだれ)を巻き上げて(注8)眺めると、風景が一眼の許に見渡せ、南(注9)には鳥海山が天を支える様に聳(そび)えており、その影を象潟の入江に映している。
 西に見えるはむやむやの関(注10)があり道を遮っており、東には堤防が築かれていて、秋田(注11)迄続く道が遥かに続き、海が北に構え、波が入江に入り込む辺りを汐越(注12)と言う。
 入江の広さは縦横夫々一里程(注13)で、その景色(注14)は松島に似ているが、又全く違う処もある。
 例えるならば、「松島」は美人が微笑んでいる様である(注15)し、「象潟」は(美人が)深く憂いて沈んでいる様(注16)である。
 寂しさの上に悲しみ迄加わり、その土地の様子は、深い憂いを湛えた美人の面影に何処か似ている(注17)。

 【意】雨に煙る「象潟」は、悩める美女「西施」を想わせる「合歓の花(注19)」の風情と通い合い、美しくも寂しさ深めている
    季語:「ねぶの花」‥夏
    合歓木(ネムノキ)は、落葉高木/葉は羽状複葉で、夜になると閉じて垂れることからこの名がある
    /7月頃より開花する
    芭蕉は、象潟の雨に煙る景色の中に濡れそぼつ「合歓花」を見て、眉を顰め目を閉じて憂い沈んでいる「西施」を連想した
    「西施」が「ねぶ(=眠(ねむ))」る‥「ねぶ(=合歓(ねむ))」の花‥が掛け言葉であることは言う迄もない
    因みに、この句の初案は、「象潟の雨や西施がねむの花」であった
    芭蕉も、名歌だからこそか、色々推敲していると見え、「象潟や雨に西施がねぶの花」が最終形になった

 【意】汐越の浅瀬に舞い降りて餌をあさる鶴の長い脚(=脛(すね))が海水に濡れて、如何にも涼しげだ
    衣が短く脛(すね)が長く見えているのを「鶴はぎ」と言うが、当に本家本元の「鶴はぎ」だヨと感心した
    季語:「涼し」‥夏六月
    本句は、本文の「海北にかまえて浪(なみ)打ち入る所を汐こしと云(いふ)」を受けたもの
    初案は「腰長汐(こしたけしほ)/ 腰たけや鶴脛(はぎ)ぬれて海涼し」であった
    恐らく『奥の細道』執筆時に、本文との関連性を高めるべく「汐越や‥」に改めたとみられる

 丁度、熊野権現のお祭り(注20)に出くわした。

 【意】汐越の熊野権現の祭には魚を食べぬそうだ
    折角の祭に一体何を食べるのだろうか   曽良
    季語:「神祭」で夏四月
    芭蕉と曽良は、丁度汐越村の鎮守熊野神社の「祭礼」の日に来合わせ、本句を残した
    淵庵不玉『継尾集』に「神事の日まいりあひけれバ/
    虷(きさ)潟や幾世になりぬ神祭り 曽良」とあるので、これが初案の様である
    この初案は、能因法師の「あめにます『豊をか姫』にこととハむ いく世になりぬ きさかたの神
    『歌枕名寄』『松葉集』」を本歌としている
    そして、本歌が「いく世となりぬ」と「『豊岡姫』に『こととふ(=尋ねる)』」=質問していることを踏まえ、
    芭蕉が次の様に改めたものとみられる
    即ち、初案の中七が「いく世になりぬ」が本歌と全く同じであったので、
    『料理何(なに)くふ』と質問した形に改作した
    更に云えば、『豊岡(=をか)姫』は「食物を司る神」である為『料理何喰う』と
    「食物に関する質問」に言い換えたとみたい
    芭蕉という一流の俳人としての腕前の凄さは、
    極めて高い教養に裏打ちされた事柄が幾重にも僅か十七文字に摺り込む様に詠み込まれている奥深さにある

 【意】象潟の漁村(=漁師達の家々)では、海辺に戸板を敷き並べて夕涼みをしている
    これも風流なことだ  低耳(注21)
    季語:「有涼」‥夏六月
    「象潟や 蜑(あま)の戸を敷(しく) 礒涼(いそすずみ) 美濃岐阜弥三郎 低耳」が初案
    下五を「夕すゞミ」『継尾集』とする句形が再案
    「戸板」は雨戸のこと/素朴な、夏の夕暮れ時の漁村の情景に興趣を覚えての作品

 岩の上に雎鳩(ミサゴ)(注22)が巣を作っているのを見て‥

 【意】ミサゴは雌雄仲睦まじい水鳥と言われている
    だから、「末の松山 波こさじ」と清原元輔が詠んだ古歌の通り、
    波が越えないとの約束(注23)でもあって夫婦はそれを信じ合っているのだろうか?
    今にも波が飛びかかってきそうな岩の上にミサゴの巣がある‥  曽良
    季語:「みさごの巣」‥夏五月
    ミサゴは、添付写真[05][06][07]にある通りだが、大きさ・色彩は鳶に似ているが頭は白色、急降下して魚を捉える
    魚鷹(ウオタカ)の別名を持つ
    雌雄仲睦まじい鳥として知られる
    「波こえぬ契」の本歌は、(注22)ご参照
    本句の初案は「雎鳩巌/ 波こさぬ契(ちぎり)やかけし雎鳩(みさご)の巣 曽良『継尾集』」
    「波こさぬちぎりありてや鵃(みさご)の巣 楚良『一字幽蘭集(元禄05年刊)』」が再案と言われる

 (注1)象潟:『奥の細道』の旅のうち、最北の地/現秋田県由利郡象潟町
    酒田の東北約50kmに位置する/歌枕
    松島、平泉と並んで『奥の細道』の旅の主要な目的地の一つ
    鳥海山の北西に広がっていた入江状の多島潟であったが1804(文化元)年 地震で湖底が隆起して陸地となった
    現在は畑の中に転々と地面が隆起し、当時の面影を残している
 (注2)能因島:能因法師が三年間隠栖したという潟中の島/蚶満寺の南約500mにある
    『奥の細道』では「白河の関」で能因の歌が引用され、「武隈の松」で能因の陸奥に旅した時のepisodeが語られている
 (注3)三年幽居:能因法師が象潟に隠棲したことは事実とみていいが、3年幽居したという確証はない
 (注4)花の上こぐ:「象潟の桜は波に埋(うずも)れて花の上漕ぐ蜑(あま)のつり舟」(伝 西行歌/淵庵不玉『継尾集』)
    しかし、西行が象潟を訪れたことも、この歌が西行のものであるかも、確証がない
    又、越前丸岡 蓑笠庵梨一撰『奥細道菅菰抄』に拠ると、
    「花のうへこぐと詠まれし桜は、干満寺の境内、地蔵堂の前の汀(みぎわ=水際)に、水面へさし出てあり
    古木は枯て、今は若木なり/西行の歌に、きさがたの桜は波にうづもれてはなの上こぐあまのつり舟/(後略)」とある
 (注5)神功后宮:神功皇后。第14代仲哀天皇の皇后/息長帯比売(おきながたらしひめ/古事記)
    伝説的な人物で実在は定かではない
    淵庵不玉著『継尾集』に神宮皇后と干満珠寺の関係についての云い伝えを次の様に記している
    「抑ゝ(そもそも)神宮皇后百済国(くだらのくに)の夷(ゑびす)をしがたへ、
    日の本(もと)に軍(いくさ)をかへしおはしますとき、
    波風にはなたれたまひ、此(この)島に暫くうつろひたまひぬとかや
    其後(そののち)、其処には八幡宮を安置し、今に神ゝし奉りけるなり
    然るに、皇后尋常御肌にいだかせ給ふ干満(かんまん)のニ珠によそへ、皇后山干満珠寺とはつたへ侍るとかや
    いつのころよりかの虷の字になし侍りけむ、いといぶかし
    しかし、此潟に虷(キサ)といふ貝あまた侍れば、かくいえりけるにや」
    この伝説では、「御陵=御墓」ではなく、「八幡宮」(‥を安置し‥)とある
    芭蕉は、この後『奥の細道』では「敦賀」の章で仲哀天皇を祭る気比明神を訪ねている
 (注6)干満珠寺(かんまんじゅじ):現・秋田県由利郡蚶満寺(かんまんじ)/現・羽越線「象潟」駅の北方1,5kmに位置する
    前掲『継尾集』に次の様に記されている
    「水に臨(のぞめ)る一宇(いちう)の禅刹は皇后山虷満種寺と額(がく)し侍るなり」
    象潟島にあった皇宮山虷満寺/仁寿03(853)年 慈覚大師の再興
    はじめ天台宗/後、北条時頼の時、曹洞宗の寺となった
 (注7)行幸(みゆき=ぎょうこう):天皇の外出されること/皇后の場合、正しくは「御幸(みゆき)」
 (注8)簾を捲(まけ)ば:「垂れ下げてある簾を巻き上げる」意
    淵庵不玉『継尾集』の不玉の文中に「月のあかき夜方丈に簾をあぐれば、巫山(ふざん)の十二峯底に望み‥」とある
    芭蕉は、この『継尾集』から引用したという説
    又、初唐の詩人 王勃『滕王閣』の頷聯第二句「【珠簾暮捲西山雨】珠簾(しゅれん)暮に捲く 西山の雨」に拠ると言う説
    更に、枕草子にも引用されている白居易の著名な七言律詩『香炉峯下新卜山居草堂初成偶題東壁』の頷聯第二句「【香炉峰雪撥簾看】香炉峰の雪は簾を撥(かか)げて看る」に拠ると言う説、等がある

  滕王閣     王勃(おうぼつ)(649?-676?)
 滕王高閣臨江渚 滕王の高閣 江渚(こうしょ)に臨み
 佩玉鳴鸞罷歌舞 佩玉鳴鸞(はいぎょくめいらん)歌舞(かぶ)罷(や)む
 畫棟朝飛南浦雲 画棟(がとう)朝(あした)に飛ぶ 南浦(なんぽ)の雲
【珠簾暮捲西山雨】珠簾(しゅれん)暮に捲く 西山の雨
 閑雲潭影日悠悠 閑雲潭影(かんうんたんえい)日に悠悠
 物換星移幾度秋 物換(かわ)り星移りて 幾度(いくたび)の秋ぞ
 閣中帝子今何在 閣中の帝子 今何(いず)くにか在る
 檻外長江空自流 檻外(かんがい)の長江 空しく自ら流る

【意】滕王の楼閣は渚の辺(ほとり)に建てられ
 其処で佩玉(=腰に下げる玉)や鸞(=車につける鈴)を鳴らして貴族たちが歌い踊ったのも今は昔のこととなった
 毎朝美しく色づけられた柱の間から南浦の雲が浮かぶのが見え
【夕方には朱色の簾(すだれ)を巻き上げて西山に降る雨を眺めることが出来た】
 静かに流れる雲や、悠久の水を湛えた深い淵に映える光は日々ゆっくりと流れてゆき
 万物は移ろい幾多の星霜を経て何度の秋が過ぎていったことだろうか
 この楼閣にいた滕王は今は何処へ逝って仕舞ったのか?
 ただ手摺りの向こうに見える長江だけが空しく流れる続けるばかりである

 ※ ※ ※ ※ ※

  香炉峯下新卜山居草堂初成偶題東壁  白居易(772-846)
   香炉峯下 新に卜して山居の草堂初めて成り 偶(たまたま)東壁に題す

 日高睡足猶慵起 日高く睡り足りて猶お起くるに慵(ものう)し
 小閣重衾不怕寒 小閣に衾(しとね=きん=ふすま)を重ねて寒さを怕(おそ)れず
 遺愛寺鐘欹枕聴 遺愛寺の鐘は枕を欹(そばだ)てて聴き
【香炉峰雪撥簾看】香炉峰の雪は簾を撥(かか)げて看る
 匡廬便是逃名地 匡廬(きょうろ)は便ち是れ名を逃のがるるの地
 司馬仍為送老官 司馬は仍(な)お老を送るの官たり
 心泰身寧是帰処 心泰く身寧きは是れ帰する処
 故郷可獨在長安 故郷 何ぞ独り長安にのみ在らんや

【意】日が高く上る迄十分眠ったというのに、それでも起きるのがけだるい
 小さな部屋ではあるが、掛け布団(=衾)を重ねているので寒さは大したことはない
 遺愛寺の鐘の音を、聞くともなく聞いている
【香炉峰に降る雪は、簾(すだれ)を一寸上げて見てみる
 思えは、廬山は煩わしい俗世間の名声・名誉から逃れるには持って来いの地だ
 現在の司馬という官職は、老後を送るには相応しい職である
 心が落ち着き、体も安らかになる、それこそ自分が落ち着くべき土地なのでる
 故郷というものは、何も長安だけにあるのではない

 (注9)南:南→実際の方角は東南/以下、西→南西、東→北東、北→西に当たる
 (注10)むやゝゝ(=むやむや=うやむや)の関:歌枕/「むやむやの関」は有耶無耶(うやむや)の関ともいう
    一般には、福島・米沢間の笹谷峠にあった関をいう
    しかし、此処では『曽良旅日記』六月十六日の条に、小砂川・塩越間に「関ト云(いふ)村有(あり)
    ウヤムヤノ関成(なり)ト云(いふ)」にある
    即ち、象潟の南約4kmにあった現・象潟町字関を指している
 (注11)秋田:現・秋田市/久保田藩(=秋田藩)
    初代:佐竹義宣(1570-1633)→2代:義隆(1609-72)→3代:義処(よしずみ)(1637-1703)
    新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の嫡流/武田氏に代表される甲斐源氏と同族
    関ヶ原の戦では中立/戦後、常陸国54万石→1602年 出羽国(秋田・仙北)へ移封(=当初は石高を未明示の儘)
    寛文4(1664)年4月2日付で20万5,800石(→後、実高40万石へ)と決定
    芭蕉が当地を訪れた時は、久保田藩第3代藩主佐竹義処の時代
 (注12)汐こし:象潟の西、日本海の海水が象潟の入江に流れ込んでいた所で、当時の村名
 (注13)江の縦横一里ばかり:入江は東西20余町(2㎞強)、南北30余町(3km強)の広さだったという
    松島の章の「江の内三里」に対応する
 (注14)俤(おもかげ):象潟の風景を擬人法で記している
 (注15)松嶋は笑ふが如く:太平洋岸の風景の明るい感じの擬人法的叙述
 (注16)象潟はうらむがごとし:「うらむ」は、悲しむ、憂える、裏日本一帯の一種沈鬱な趣ある風景の擬人法的叙述
 (注17)地勢(ちせい)魂をなやますに似たり:「地勢(=土地の様子)」を「人」に例え、
    その「人」が「魂をなやますに似たり」と御述べたもの
    此処でいう「人」とは「松島」の章の「其気色、窅然(えうぜん)として美人の顔(かんばせ)を粧(よそほ)ふ」に対応する
    http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/260554263760613.html〔←《会報》【0554】〕ご参照
 (注18)西施:中国春秋時代の越国の伝説的な美女
    越王勾践(?-465B.C.)が呉王夫差(?-473B.C.)に敗れた時、呉王夫差の許に送られた
    呉王夫差は西施の美しさに国政が疎かとなり、国が弱体化し滅亡へ向かった
    心に病み、顔を顰めた様が美しかった為国中の女達がそれに倣い「西施の顰(ひそみ)」という言葉故事が生まれた
 (注19)合歓(ネム)の花:合歓木(ネムノキ)/淡紅色の花をつける(添付写真[03]参照)
    美女西施が「ねむる」に掛けて、悩ましい感じを出している
 (注20)祭礼:芭蕉が象潟を訪れた6月17日は当地熊野権現の夏祭りだった
 (注21)低耳:本名宮部弥三郎/美濃国長良の商人/池西言水系の俳人
    芭蕉は、以後の北陸道の宿泊先を低耳の紹介状に拠って続けた模様
 (注22)みさご:海辺に住み魚を捕食する/『詩経』以来夫婦仲がよい鳥とされる
 (注23)波こえぬ契り‥:
     契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波こさじとは  清原元輔『後拾遺集』〔恋四 770〕
    【意】互いに袖の涙を絞り乍ら約束しましたね
       末の松山に浪を越させまい、決して心変わりはするまい、と

     君をおきてあだし心をわが持たば 末の松山波も越えなむ  東歌『古今集』巻第二十 1093
    【意】あなたを差し置いて、他の人に心を移す様なことがもしあったとしたら
       末の松山をさえ波が越すでしょう
       〔←決して波は末の松山を越えません だから私の心も決して変わりません〕
       (注)あだし心=異心、浮気心

【小生comment】
 西行法師の作と伝えられる「象潟の桜は波に埋もれて花の上こぐ蜑の釣舟」の作者について、山本健吉は「宗祇(1421-1502)(名所方角抄)」の作で「芭蕉は西行法師の歌と思いこんでいた」と紹介しているが、今の処、他に山本氏と同じ説は見当たらない。

■続いては、前《会報》にて《予告》した通り、08月01日に巡った3つの美術館のうちまだご紹介していなかった名古屋市美術館『画家と戦争‥彼等はいかにして生き抜いたか?』展についてお伝えする。
 
【名古屋市美術館『画家と戦争‥彼等はいかにして生き抜いたか?』】
 本展は、前《会報》【0559】号にて予告した通り、日本を代表する著名画家14人‥横山大観・藤田嗣治・恩地孝四郎・北河民次・岡鹿之助・福沢一郎・北脇昇・福田豊四郎・吉原治良・宮本三郎・吉岡堅二・山口薫・香月泰男・松本竣介‥の戦前・戦中・戦後の作品を紹介している。
 本《会報》でのご紹介は、Volumeが嵩むので14人の画家の作品は原則各1点とした。
 但し、本展leafletで紹介されている松本竣介と、戦争画そのものをupした宮本三郎、藤田嗣治、吉岡堅ニについては、戦争画以外の作品を加え2点とした。

[08]本展leaflet/絵は、松本竣介『立てる像』1942年
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[09]横山大観(1868-1958)『霊峰春色』1943年頃
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[10]藤田嗣治(1886-1968)『血戦ガダルカナル』1944年
 10188619681944

[11]同『私の夢』1947年
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[12]恩地孝四郎(1891-1955)『ダイビング(diving)』1936年
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[13]北川民次(1894-1989)『雑草の如くⅢ』1949年
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[14]岡 鹿之助(1898-1978)『白鷺城 [城]』1942年
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[15]福沢一郎(18998-1992)『他人の恋』1930年
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[16]北脇 昇(1901-1951)『クォ・ヴァディス』1949年
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[17]福田豊四郎(1904-1970)『踊る娘達』1949年
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[18]吉原治良(1905-1972)『涙を流す顔』1949年
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[19]宮本三郎(1906-1974)『山下、パーシバル両司令官会見図』1942年
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[20]同『マライの娘』1943年
 201943

[21]吉岡堅ニ(1906-1990)『雨中急追』1941年
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[22]同『鶴』1959年
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[23]山口 薫(1907-1968)『緑衣の女』1931年頃
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[24]香月泰男(1911-1974)『石と壺』1940年
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[25]松本竣介(1912-1948)『街にて』1940年
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【小生comment】
 14人の画家の戦前・戦中・戦後の作品を展示したものである為、夫々の画家についていつの時代の作品を1点撰ぶのにかなり悩んだ。
 第二次世界大戦開戦時に70歳を越えていた所謂国粋主義者と評される横山大観は、流石に戦前・戦中・戦後の富士を見ていて特段大きな変化は見られなかった。
 しかし、横山大観以外の画家達は、「戦争」時代を挟んで、流石に画風が大きく変化している。
 勿論、「戦争」とは関係なく、時代の変遷に従い、「具象」→「抽象」へという大きな流れは共通している。
 が、戦前にシュルレアリスム運動の中心人物であった福沢一郎は、1941年05月、治安維持法違反の嫌疑で検挙・拘束されてからは、同運動の活動を中止した。
 時の特別高等警察が、Franceのsurrealism運動と共産主義運動との密接な関係から、福沢が指導的立場にあった「美術文化協会」が「要注意文化団体」として監視していた為である。
 一方、藤田嗣治は、戦争画については、添付写真[06]『血戦ガダルカナル』(1944年)の様にある意味熱狂的に描いた作品が少なくない。
 又、宮本三郎も、添付写真[15]『山下、パーシバル両司令官会見図』(1942年)の様に報道写真を参考にしたとみられる記録的な作品が有名である。
 14人の画家一人ひとりについて、「戦前→戦中→戦後」の夫々の作品をご紹介したかった
 が、そうすると、作品ばかりでなく comment もかなりの volume になるのでこの辺りで止めて置く。
 中々興味深い企画の絵画展であった。

■今日最後の話題は、最近読んだ、曽野綾子(1931.09.17- )著『人間の分際』についてである。
 曽野綾子氏は、亡母と同じ昭和06年生まれ。
 だからと言う訳ではないが、氏の『箴言(しんげん)』は何処か親が子供に言い聞かせている様に聞こえる。
 その彼女の『箴言』が、少なくとも小生にはいつも強い説得力を持って迫って来る。
 本著は、「人間の『生き方』」について、これ迄に氏が述べた来た数多くの所謂『箴言』集である。
 含蓄ある名言が多く感心させられたが、中でも、「第五章/幸せは凡庸の中にある」&「第六章/一度きりの人生をおもしろく生きる」に名言が多かった。
 今日は、其処から幾つかご紹介したい。

【「人並み」を追い求めると不幸になる】〔P.185〕
 人並みなことをしていては、人並みかそれ以下しかならない。
 勿論、それで良ければ、努力などという野暮なこともしない自由も残されている。
 しかしその場合には運命に不平を言わないことだ。
 それだけの努力をしなかったのだから、それだけの結果しか貰えなかったのだ。
 日本は公平な国なのである。‥『ただ一人の個性を創るために』

【話の面白い人は、他人(ひと)より多くの苦労をしている】〔P.190〕
 困難の中に楽しさも面白さもあるという単純なことさえ、平凡な暮らしを望み続けてれば理解することが出来ない。
 用心深いという拠り、小心な人の生涯は、穏やかだという特徴はあるが、それ以上に語る世界を持たないことになる。
 だから多分、そういう人は、他人と会話をしていてもつまらないだろう。
 語るべき失敗も、人並み以上の面白い体験もないからである。
 話の面白い人というのは、誰もがその分だけ、経済的、時間的に、苦労や危険負担をしている。
 人生というのは、正直なものだ。‥『人生にとって成熟とは何か』

【他人のことが気にならなくなる唯一の方法】〔P.177〕
 勝気で、他人が少しでも自分より秀でていることが許せない人は、自分の足場を持たない人である。
 だからいちいち自分と他人を比べて、少しでも相手の優位を認めない、という頑なな姿勢を取ることになる。
 人間は誰でも、自分の専門分野を持つことである。
 小さなことでもいい。
 自分はそれに拠って、社会に貢献出来るという実感と自信と楽しさを持つことだ。
 そうすれば、不正確でも取るに足らない人間社会の順位など、気にならなくなる。
 威張ることもなくなるし、完全な平等などという幼稚な要求を本気になって口にすることもなくなる。‥『二十一世紀への手紙』

【感謝することが多い人程幸せになる】〔P.171〕
 感謝は現実問題として、若い世代では余り身につかないものなのである。
 若い時には、自分に与えられた行為や幸運を、中々正当に評価することが出来ない。
 良い結果が出たのは自分の素質や努力の結果だと思いがちなのである。
 それでいいのであろう。
 その様な気負いがなければ、人間の才能は伸びないのかもしれない。
 しかし次第に人生が見えて来ると、人間が自分で為し得るのは、多くの場合与えられた偶然に乗っかっての結果だということが解って来る。
 すると、「溢れる程の感謝」というものが、ごく自然に出来る様になる。
 老年ばかりでなく、人間の一生が幸せかどうかを決められる最大のものは、感謝が出来るかどうかだと思うことはある。
 不幸な人は、その人の周囲の状況が悪いから不幸になっているのではない。
 自分が現在程度にでも生かして貰っているのは、誰のお陰か考えられなくなっているから、不満の塊になって不幸になっているのである。‥『心に迫るパウロの言葉』

 感謝こそは、最後に残された高貴な人間の魂の表現である。
 そして感謝すべきことの一つもない人生はない。
 誰の力でも此処迄生かされて来たかを思えば、誰かに何かを感謝出来ると思う。‥『完本 戒老録』

 さぞかし昔美人だっただろうと思われる人でも、年を取れば外見は醜くもなる。
 しかし年を超えて見事だと思う人がいるが、それは与えられているものに対して感謝出来る人である。
 その才能は、その人の受けた教育とも、もって生まれた頭脳とも関係ない。
 ましてや、その人の運とか経済的な豊かさとも全く無関係である。」
 それはただ、その人の「心ののびやかさ」とだけ関係があるのである。〔中略〕
 考えてみると、「感謝の人」というのは、最高の姿である。
 「感謝」の中にはあるゆる芳しい要素が込められている。
 謙虚さ、寛大さ、明るさ、優しさ、楽しさ、のびやかさ。
 だから「感謝の人」の周りには、又人が集まる。
 「文句の人」からは自然に人が遠のくのと対照的である。‥『心に迫るパウロの言葉』

【成功のたった一つのカギは『忍耐』である】〔P.182〕
 世の中で、それさえ持っていれば好きなものが手に入るというのが「打出の小槌」だというのだが、その魔法の小槌を私達は買うことが出来ない。
 何かそれに代わる確実なものはないか、と探した場合、誰にでも手に入るものがある。
 それが「忍耐」なのである。
 考えてみれば、「忍耐」というのは、真(まこと)に奥の深い言葉だ。
 人間は直ぐには希望するものが手に入らないことが多い。
 機運が来ないことも、自分自身が病気に見舞われることもある。
 自分自身は健康でも、家族が倒れてその面倒を見なければならない時もある。
 しかし「忍耐」さえ続けば、人は必ずそれなりの成功を収める。
 金は幸せの全てではないが、財産も又大きな投機や投資で出来るものではないということを、私は長い間人生を眺めさせて貰って知った。
 その代わり、成功のたった一つのカギは、「忍耐」なのである。
 犯罪を犯す人たちに欠けるているのは、才能でも学歴でもなく、「忍耐」なのだということは、最近の事件の度によく解る。
 つまり仕事が長続きしない人たちが、世間を騒がす様な事件を起こすのである。
 小説家の仕事も「忍耐」そのものである。
 数千枚の作品でも、一字一字、毎日書いて行く。〔中略〕
 (様々な仕事)に従事する人も、全てが「忍耐」を基本にしている。
 しかし「忍耐」が一番必要なのは、人を愛する心を示す時だ。
 相手を大切に思うなら、その人の行動にじっと耐えて、決して見捨てないことなのである。
 実に「忍耐」は、人間の最高の「徳」を裏から支える強さである。
 だから兎に角「忍耐」の出来る子供を育てた親や教師は、間違いなく教育に成功したのである。‥『幸せの才能』

[26]曽野綾子『人間の分在』
 26

【小生comment】
 上記にお示しした曽野綾子氏の種々の「箴言」の中でも、最後にご紹介した【成功のたった一つのカギは『忍耐』である】という言葉は、正に『至言』である。
 「『忍耐』が一番必要なのは、人を愛する心を示す時だ」と言っているが、正にその通りである。
 更に、「『忍耐』は、人間の最高の「徳」を裏から支える強さ」‥これもしたりである。
 小生も、かく確信し、須らく「忍耐」を実践して参りたい。

【後記】さて、これで今日もお別れである。
  昨日08月07日19時00分より、吾妻屋ボレロにて07月18日に開催した時習26回生還暦祝打上花火project実行委員会membersに拠る「御苦労さん会」が開催された。
 小生は、実行委員会のmemberではないが、当日の二次会の写真班を勝手に担当して写真の提供をしたこともあり、参加させて貰った。
 参加者は、杉浦委員長【3-8】、井垣副委員長【3-3】以下、鈴木、平田【3-5】、今泉、大谷【3-6】、平井【3-7】、長坂、安井【3-9】、杉原【3-9】に小生を加えた11人。
 委員長の杉浦君【3-8】が制作した記念の「DVD」の試写会も兼ねた慰労会であった。
 暫しの今第の後、杉浦君政策のDVDを鑑賞した。
 収録時間は30分弱。
 杉浦君のproduceの力は素晴らしいものである。
 週明けには、07月18日の「打上花火大会と二次会」への参加者と「寄付金提供者」の皆さん宛に、記念DVDが届く予定である。
 該当者の皆さんはお楽しみに!
 因みに、寄付金総計は、138人から171万円、桟敷席64人、二次会56人の申込があった。
 我等が【2637の会】membersからは、男子10人、女子03人、計13人の皆さんから寄付金があった。
 寄付金にご協力頂いた13人の方々に杉浦実行委員長から御礼の言葉がありました。

[27]ボレロにて「時習26回生還暦祝打上花火大会実行委員会」と有志の皆さん01
 272601

[28]同上02
 2802

[29]「時習26回生還暦祝打上花火大会」記念DVD
 2926dvd

 【2637の会】クラス会も、愈々あと一週間です。
 皆さんからの朗報を心よりお待ちしています。!(^-')b♪
 では、また‥(了)

2015年8月 2日 (日)

【時習26回3-7の会0559】~「今夏【2637の会】クラス会について《第8報》」「『奥の細道』第11回‥【酒田】【象潟1】」「07月26日:「琵琶湖湖西‥朽木氏の史跡探訪の旅』に参加して」「08月01日:一宮市三岸節子記念美術館『伊藤秀男』展&名古屋市美術館『画家と戦争‥彼等はいかにして生き抜いたか?』《予告編》&トヨタ記念館 鞍ヶ池Art Salon『夏色・いろ・イロ』展を見て」「施 光恒『英語化は愚民化‥日本の国力が地に落ちる‥』を読んで」

■今の時節は、二十四節気でいう『大暑』(今年は07月23日~)。
 ホント、無茶苦茶暑い毎日が続きますが、皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 小生、今日ご報告する07月26日(日)「琵琶湖湖西‥朽木氏の史跡探訪の旅』日帰りbus tour」に参加した翌日、右側背筋が硬直。
 「ギックリ腰もどき」の様になり苦しみました。
 家族が通院したことのある岡崎市本宿にある鍼灸院で治療を受け、今は殆ど回復したので一安心。
 東洋医学は、西洋医学と異なるので、鍼灸師の先生から、「右側背筋硬直の原因が『胃の疲れ』にあり、その「胃の疲れ」の原因が『目の疲労』から来ている」と説明を聞いた時は吃驚! 正に青天の霹靂でした。
 小生、最近、仕事と読書とblog作成等で、毎日12~14時間程PCに向かっていたので「目の疲労」に納得。
 それと、暴飲暴食はしていないが、最近猛暑の為、水分を多く取り過ぎていたことも間違いないので『胃の疲労』の指摘にも頷ける。
 先生の解説は、「毎日、腹筋1,200回、木刀の素振り1時間という筋トレを遣って来ているのに何故背筋が硬直したのだろう?」という小生が抱く疑問を明快に解決してくれました。
 皆さんも、猛暑が続きます。ご自愛下さい。(^^;
 さぁ、今日も【2637の会 0559】号をお送りします。

■先ず最初の話題は、開催日迄あと二週間に迫って来ました「今夏【2637の会】クラス会について」の《8回目の報告》です。
 前《会報》にてご案内してからの今日迄の間に更に伊東君から「出席」表明のmailを頂戴しました。
 以下に、伊東君のmailをpasteします。

 From: 伊東元弘(鍋屋商店)
 Sent: Friday, July 24, 2015 10:10 AM

 今泉様

 いつも会報をありがとうございます。
 今年は今年はお盆の送り火の日ですね。
 時間的に遅れて出席させて頂くかか、
 早めに失礼するか、という展開になるかも知れませんが、
 出席させて頂きます。
                   伊東 M弘

 ※ ※ ※ ※ ※

 伊東君へ
 いつもクラス会へ「参加」して頂き有難う!
 今年も【2637の会】クラス会で楽しいひとときを過ごしましょう!

 ※ ※ ※ ※ ※

 それから、渡辺S○子さんから「欠席」の連絡を頂戴しました。
 「皆さんによろしくお伝えください」とのことです。

 渡辺さんへ
 今夏のクラス会での再会叶わず残念です。
 次回は、是非参加してください。
 08月29日開催の東京ふろう会の暑気払いに小生も参加させて戴くことにしました。
 渡辺さんは、参加されますか?
 出来れば、其処でお会い出来れば‥と思っています。

 ※ ※ ※ ※ ※

【2637の会】クラス会出欠表明状況
〔mail到着順、敬称略〕

「参加」石田(義)・千賀・伊東・今泉‥4人
「欠席」竹内、渡辺‥2人
「考慮中」彦坂、山中、林(恭)‥3人

 毎度繰返しの掲載になりますが、クラス会開催要領は以下の通りです。

             記

1.開催日時:2015年08月15日(土) 18時00分~
 2.開催場所:トライアゲイン〔開発ビル 地下1階 ☎ 0532-55-0255〕
 3.会  費:実費〔4,000円程度〕

 「クラス会」の出欠案内用mailは、前々回の《会報》配信時に《会報》mailとは別にclassmatesの皆さん宛に配信させて頂いております。
 皆さんの奮ってのご参加を心よりお待ちしています。

■さて、今日続いての話題は、「松尾芭蕉 作『奥の細道』の今日はその第11回目。

 芭蕉と曽良が、六月十日(新暦07月26日) 羽黒山の南谷別院を発って、同日午後04時頃、鶴岡、長山五郎右衛門宅到着
 同日夜、「みづらしや山をいではの初茄子(はつなすび)/翁」の句を発句とする歌仙を表四句迄興行した
 翌六月十一日(新暦07月27日)は「翁、持病不快故」、俳諧は「昼程中絶」
 三日目の六月十二日(新暦07月28日)に「元禄02年06月10日/七日羽黒に参籠して」と題する「歌仙」が完成〔=本文中の「俳諧一巻有」のこと〕
 〔新暦07月26日:曇りのち小雨(ヌルヽに不及(およばず))/07月27日:折々村雨す/07月28日:朝の間村雨す〕
 〔村雨(=叢雨(むらさめ)):群になって降る雨の意‥一しきり強く降って来る雨/にわか雨、驟雨(しゅうう)、白雨(はくう)、繁雨(しばあめ)〕
 六月十三日(新暦07月29日) 川舟で酒田へ行き、不玉亭(伊東玄順亭)に翌十四日(新暦07月30日)迄2泊す
 翌六月十四日(新暦07月30日) 寺島彦助亭へ招かれ「涼しさや海に入りたる最上川/翁」(本文末の「暑き日を‥」の句の初案形)を発句とする歌仙を巻いた
 〔新暦07月29日:少し雨降りて止む、申刻(午後04時頃)より曇り/07月30日:暑甚だし〕
 六月十五日(新暦07月31日) 吹浦、宿記載なし〔朝より小雨、昼前より雨甚だし〕
 六月十六日(新暦08月01日) 塩越、能登谷佐々木孫左衛門宅に翌十七日(新暦08月02日)迄2泊す
 そして、次号《会報》で詳細をお届けする予定の【象潟2】から帰って来たのが六月十八日
 その翌十九日(新暦08月04日)「あつみ山や‥」の歌仙を始め、二十・ニ十一と3日かけて完成させている
 したがって、【酒田】本文末の二句は、実際の制作順が逆様になっている
 が、これは、前文が「淵庵不玉と云ふ医師のもとを宿とす」で終わっているので、その不玉への挨拶を先にしたと考えられる

 ※ ※ ※ ※ ※

 芭蕉と曽良が江戸を出立して2箇月半。芭蕉が「松嶋」と共に『奥の細道』の二大目的地としていた残り一つの名勝「象潟」に到着した
 今回は【酒田】と【象潟1】をお伝えする。

 ※ ※ ※ ※ ※

【酒田】
《原文》
 羽黒を立(たち)て、鶴が岡(注1)の城下、長山(ながやま)氏(うぢ)重行(しげゆき)(注2)と云(いふ)物のふの(=武士)家にむかへられて、俳諧一巻(ひとまき)(注3)有(あり)。
 左吉も共に送りぬ。
 川舟(注4)に乗(のり)て、酒田の湊に下る。
 淵庵不玉(ゑんあんふぎょく)(注5)と云(いふ)医師(くすし)の許(もと)を宿とす。

  あつみ山(注6)や 吹浦(ふくうら)(注7)かけて 夕すヾみ

  暑き日を 海にいれたり 最上川
 
《現代語訳》
 羽黒を発って、鶴が岡(注1)の城下で長山氏重行(注2)という武士の家に迎えられて、俳諧を開催し、連句一巻(=歌仙)(注3)を作った。
 図司左吉も此処迄送ってくれる。
 川舟(注4)に乗って酒田の港へ下る。
 その日は淵庵不玉(注5)という医者のもとに泊めて貰う。

  【意】此処あつみ山(注6)から吹浦(海)(注7)を見下ろす
     折からの「暑さ」に縁のある「温海(あつみ)山」が彼方(かなた)に見え、涼しい風が「吹いている」「吹浦」を此方(こなた)に見渡せる
     この素晴らしい景観を一望に収めるのは実に洒落た夕涼みだ
     「あつ(暑)」と「ふく(吹)」は共に「涼み」の縁語
     「縁語」=和歌や俳句に多用される表現で、ある言葉に、それと関係ある言葉を加えることで印象を深める手法
     季語「夕すヾみ」で夏六月

  【意】太陽が滔々と流れる最上川の沖合いの海にゆっくりと沈んで行った
     恰も今日一日の暑さを全て海に流し込んだ様で涼しさを感じる夕方になった
     季語「暑き日」で夏六月

 (注1)鶴が岡:現在の山形県鶴岡市/江戸時代には酒井氏鶴岡藩(通称:庄内藩)13万8千石の城下町として盛えた庄内南部の街
    徳川四天王の筆頭格 酒井忠次(1527-96)(→家次(1561-1618)→)の嫡孫 忠勝(1594-1647)を藩祖(1622年~)とする
    領国内の出羽三山神社には東北地方で唯一、皇族(蜂子皇子(?-641)(←崇峻天皇(553?-592)の皇子))の墓がある
 (注2)長山(ながやま)氏(うぢ)重行(しげゆき):酒井家鶴岡藩士 長山五郎右衛門重行(生没年不詳)/禄高150石
    鶴岡の荒町裏、大昌寺脇小路(現・鶴岡市山王町13)在住/図司佐吉の縁者/江戸在勤中に芭蕉庵を訪ね入門したものみられる
 (注3)俳諧一巻(ひとまき):この時の連句は『曽良旅日記』俳諧書留所載‥芭蕉・重行・曽良・露丸の「四吟歌仙」で次の様に始まっている
    「元禄02年06月10日/七日羽黒に参籠して
     発句  めづらしや山をいで羽(は)の初茄子(はつなすび) 翁(=芭蕉)
     脇   蝉に車の音添る井戸 重行
     第三句 絹機の暮鬧しう梭打て 曽良
     四句目 閏弥生もすゑの三ヶ月 露丸
    〔後略〕
 (注4)川舟:鶴岡を貫流する内川(=当時の絵図には「三日町川」とある)から本流の赤川→最上川を経て船上七里で酒田に到る
 (注5)淵庵不玉(ゑんあんふぎょく):本名 伊東玄順/庵号を潜淵庵・淵庵と称し、俳号を不玉と言った/酒井藩の医師
    酒田地方の俳壇の中心人物/初めは大淀三千風や岸本調和等、談林系の俳風に属していたが芭蕉来遊を機に、芭門に転じた
    元禄10年05月03日没(享年40歳前後)
 (注6)あつみ山:温海岳ともいう/酒田の南西40㎞/海抜736m
 (注7)吹浦(ふくうら):酒田の北18kmに当たる海岸

【象潟1】
《原文》
 江山(こうざん)水陸(すゐりく)の風光(ふうくわう)数を尽して、今象潟に(注1)方寸(ほうすん) 数を尽して、今象潟に方寸を責(せむ)(注2)。
 酒田の湊より東北の方(かた)、山を越(こえ)、礒(いそ)を伝ひ、いさご(注3)をふみて其(その)際(きは)十里、日影やゝかたぶく比(ころ)、汐風(しほかぜ)真砂(まさご)を吹上(ふきあげ)、雨朦朧(もうろう)として(注4)鳥海(ちょうかい)の山(注5)かくる。
 闇中(あんちゅう)に莫作(=模索(もさく))して(注6)「雨も又奇(き)也(なり)」とせば(注7)、雨後の晴色(せいしょく)又頼母敷(たのもしき)(注8)と、蜑(あま)の苫屋(とまや)(注9)に膝をいれて、雨の晴(はるる)を待(まつ)。

《現代語訳》
 海や山、河川など景色のいい所を是迄見て来て、愈々旅の当初の目的の一つである象潟(注1)に向けて、心を急き立てられる(注2)のだった。
 象潟は酒田の港から東北の方角にある。山を越え、磯を伝い、砂浜(注3)を歩いて十里ほど進む。太陽が少し傾く頃だ。汐風が浜辺の砂を吹き上げており、雨も降っているので景色がぼんやり雲って(注4)、鳥海山(注5)の姿も隠れて仕舞った。
 暗闇の中をあてずっぽうに進む(注6)。「雨もまた趣深いものだ」と中国の詩の文句を意識して(注7)、雨が上がったらさぞ晴れ渡って綺麗だろうと期待をかけ(注8)、漁師の仮屋(注9)に入れさせて貰い、雨が晴れるのを待った。

 (注1)数を尽して、今象潟に:「数を尽くして(=数えきれない位多くあって)」/
    「数を尽くして今象潟にあり」と「今象潟に方寸を責む」とが「今象潟に」という箇所を掛詞的接点として結合したもの
 (注2)方寸を責(せむ):「方寸(ほうすん)」=心/「方寸を責む」は「心を凝らす/一心不乱になる/心を研ぎ澄ます」の意
    象潟の美の極致を感得すべく心を研ぎ澄ましている‥の意
 (注3)いさご:「砂子/砂/沙」=小さい石、砂、真砂(まさご)、砂浜‥の意
 (注4)雨朦朧(もうろう) (注4)として:降る雨の為に辺りが煙る様をいう
 (注5)鳥海の山:鳥海山(ちょうかいざん)(標高2,236m)/山形・秋田の県境付近に位置する
 (注6)闇中(あんちゅう)に莫作(=模索(もさく))して:通説は、蘇東坡(=蘇軾(1036-1101))「西湖」の詩を踏まえ、室町時代末期の五山僧 策彦 が詠んだ「晩西湖過」拠ったものとして、「莫作」は「模索(もさく)」の誤記とする

      飲湖上初晴後雨  湖上に飲み 初め晴れ後(のち)に雨ふる  蘇東坡
     水光瀲艶晴方好  水光瀲艶(れんえん)として晴れて方(まさ)に好く
     山色空濛雨亦奇  山色空濛(くうもう)として雨も亦(また)奇なり
     欲把西湖比西子  西湖を把(もつ)て西子に比せんと欲すれば
     淡粧濃抹總相宜  淡粧濃抹総(すべ)て相宜(よろ)し

   【意】水面がキラキラ輝き、漣(さざなみ)が揺れ、晴れた日の西湖はとてもいい
      また霧雨で山の色が朦朧として見える雨の日の西湖も味わい深いものだ
      西湖の様子を伝説的な美女「西施」に比べようとすると
      薄化粧も厚化粧(=晴れでも雨で)も、どちらも中々いいものだ

     ※ ※ ※ ※ ※

      晩西湖過     晩に西湖を過ぐ  策彦
     余杭門外日将晡  余杭門外日将(まさ)に晡((=日偏に甫)ゆふべ)ならんとす 
     多景朦朧一景無  多景朦朧として一景無し
     雨奇晴好句暗得  雨奇晴好の句を暗(そらん)じ得て
     暗中模索西湖識  暗中模索して西湖を識(し)る
   
    一方、仏家でいう『七仏通戒偈(げ)』の中の「諸悪莫作(しょあくまくさ)」借用したものとする説では、「莫作」は「作(な)す莫(な)し」の意となる
    即ち、芭蕉は、「暗闇の中で何等為すすべきこともなくぼんやりと時を過ごし‥」と、漢詩とは違った雰囲気を主張している‥と解する
    真偽は一体どちらだと皆さんは思われますか?
 (注7)「雨も又奇(き)也(なり)」とせば:上掲の蘇東坡「西湖」と策彦「晩西湖過」の2つの漢詩に出て来る表現の引用
 (注8)雨後の晴色(せいしょく)又頼母敷(たのもしき):これも上掲の蘇東坡「西湖」と策彦「晩西湖過」の詩文の引用
 (注9)蜑(あま)の苫屋(とまや):「蜑(あま)」は漁夫・漁師/「苫屋(とまや)」は苫葺(とまぶ)きの小屋
    苫葺:菅(すげ)や茅(かや)を菰(こも)の様に編み、小屋根を覆う「苫」で屋根を葺くこと
    このphraseは、能因法師や藤原顕仲朝臣の次の歌が下敷きになっていると思われる

   【詞書】出羽(いでは)の国にまかりて、象潟といふ所にてよめる
    世の中は かくても経(へ)けり 象潟の 【海士(あま)の苫屋】を我が宿にして  能因法師【後拾遺集 巻九〔羇旅〕519】
   【意】この世はこんな状態でも過ごせるのだな、この象潟の海人の苫葺の粗末な小屋を自分の宿りとして

   【詞書】堀河院御時百首歌たてまつりける時、旅の歌
    さすらふる 我が身にしあれば 象潟や 【あまのとま屋】に あまたたび寝ぬ  藤原顕仲朝臣【新古今集〔羇旅〕972】
   【意】私は流浪する身だから、象潟の海人(あま)の苫葺の小屋に数多く旅寝したことだよ

【小生comment】
 森羅万象全てのことに当て嵌るが、特に文学・絵画・音楽という藝術と名のつくものは、陰陽の両極があって輝きを放つ。
 詳細のcommentは、次回に譲るが、「松島は笑ふが如く、象潟は恨むが如し」と芭蕉が「雨の象潟」を close-up して、「松嶋」→「平泉」→「立石寺」→「象潟」という一連の流れをつくり、『奥の細道』の雰囲気を最高潮に盛り上げている。
 中国・宋の詩人 蘇東坡 の漢詩を出して、中国戦国時代の悲哀の美女「西施」の史実と象潟を重ね合わせ表現するという芭蕉の芸術的感性に脱帽する。
 「松尾芭蕉 作『奥の細道』次号の第12回をお楽しみに!^-^b

■続いての話題である。
 小生、一週間前の07月26日、「史跡見学会」という親睦団体の『近江国湖西の史跡を訪ねて〔朽木陣屋他 朽木氏の史跡探訪〕』の日帰りbus tourに参加して来た。
 昭和59年07月を第1回として今回が103回目で、小生は初参加である。
 本回は、中嶋良行君【3-2】から強い誘いがあり参加した。
 その中嶋君も、今から十数年前に谷山健君【3-3】に誘われての参加である。
 毎年春と秋に中嶋・谷山両氏&小生の3人と同道される青木喜久夫さんは、この「史跡見学会」最古参組の一人である。
 今回の「史跡見学会」について、行程順に写真を交え乍らご紹介したいと思う。
 この日帰り bus tour で、久し振りに時習26回生の同期、岩手清君【3-4】も参加していることが解り、何年ぶりかの再会を果たした。
 岩手君とは、深い付き合いはないが、時習館から、大学の学部学科、旧銀行への入行2年目迄は、学歴&職歴が全く同じである。
 ただ、彼は思う所があって、銀行を2年で依願退職し、県庁に入り直したという気骨を持った人物である。
 以下、その日一日の行程を以下に添付写真と共に記す。

 ※ ※ ※ ※ ※

 06時15分 拙宅に青木さんが奥様の運転する車で迎えに来て下さった
 06時25分 青木さんの親友の佐藤さん宅に立ち寄りpick-up
 06時40分 集合場所の豊橋市営球場に到着
 07時00分 豊鉄の貸切バスで出発〔団長は高橋先生、参加者総数33人〕
 〔東名豊川IC→名神米原IC→北陸道木之本IC→高島市〕

[01]朽木(くつき)陣屋跡 案内看板
 01

[02]朽木資料館入口より朽木陣屋跡 眺望
 02

[03]朽木陣屋跡 外周に在る 朽木陣屋古図(江戸時代末期)
 03

 11時15分 「朽木陣屋跡」〔高島市朽木野尻478〕
 11時25分 「朽木資料館」〔朽木陣屋跡と同一敷地内〕見学

[04]貸切バス内にて左より中嶋君【3-2】・小生・岩手【3-4】君
 04

 12時00分  昼食‥朽木里山Restaurant『てんくう』〔高島市朽木柏341-3〕

[05]邇々杵(ニニギ)神社01
 0501

[06]邇々杵神社の多宝塔前にて中嶋君&岩手君と
 06

 12時55分 「邇々杵神社・多宝塔」〔高島市朽木宮前坊289〕
 神社ではあるが、同地には嘗ては神宮寺があり、天保(1830-44)年間に造られた多宝塔(添付写真[06])が現存している

[07]興聖寺 本堂〔高島市朽木岩瀬374〕
 07

[08]興聖寺 山水庭園
 08

[09]興聖寺 境内の一角にて中嶋君(中)&岩手君(右)と
 09

 13時35分 「興聖寺」朽木の名刹 〔高島市朽木岩瀬〕
 開基:近江源氏(=宇多源氏)近江守護佐々木信綱(1181-1242)
 嘉禎3(1237)年)信綱は、道元禅師を朽木に招き、承久の乱(1221年)で戦死した一族の供養を執り行った
 道元の薦めに拠り、山号を高巌山興聖寺とし、仁治元(1240)年 創建

 14時20分 「高島歴史民俗資料館」〔高島氏鴨〕

[10]藤樹書院 正面
 10

[11]藤樹書院に掛る扁額
 14時50分 「藤樹書院」〔高島市安曇川町上小川〕
 〔北陸道木之本IC→名神米原IC→東名豊川IC→豊橋〕
 11

 15時45分 車窓から竹生島が見えた‥
[12]帰路 マキノ辺り 貸切バス車窓から竹生島(ちくぶじま) 遠望
 12

 その時、今から5年近く前の2010年12月04日(土) 中嶋君と竹生島へ渡った時に詠んだ拙歌が浮かんだ‥

  竹生島 寄せ来る波に 誘はれて 想ひ起こすは 君の御(み)姿  悟空

 19時45分 豊橋市営球場前着
 20時10分 帰宅

【小生comment】
 兎に角、滅茶苦茶暑い一日だった。
 朽木氏が、鎌倉時代から明治維新迄の約650年間の長期に亘り、単一領主支配を成したことは注目に値する。
 江戸時代は、1万石に充たなかった為、大名にこそなれなかったが、交代寄合として大名に準じた処遇を受け、参勤交代も行ったという。
 由緒ある歴史にはロマンを感じさせる魅力があって実にいいものである。

■続いては、08月01日、私用で名古屋へ行った折、一宮市三岸節子記念美術館『伊藤秀男』展、名古屋市美術館『画家と戦争‥彼等はいかにして生き抜いたか?』、そして豊田市鞍が池公園の一角にあるトヨタ記念館 鞍ヶ池Art Salon『夏色・いろ・イロ』展と、3つの美術館を巡って来たのでその模様についてお伝えする。
 但し、volumeが嵩むので、2つ目の名古屋市美術館『画家と戦争‥彼等はいかにして生き抜いたか?』展は、美術館入口の写真だけ添付することとし、詳細は次号《会報》【0560】にてご報告することとしたい。

【一宮市三岸節子記念美術館『伊藤秀男』展】
 先ず、伊藤秀男氏の略歴をご紹介する。
 1950年 愛知県津島市生まれ
 名古屋市立工芸高等学校デザイン科卒
 名古屋造形芸術短期大学造形芸術科洋画コース卒
 1976年 発の個展開催以来、東京はじめ各地にて個展開催
 1992年「海の夏」(ほるぷ出版)で第41回小学館絵画賞受賞
 2002年「けんかのきもち」(ポプラ社)で第7回日本絵本賞大賞受賞
 2010年「うしお」(ビリケン出版)で第2回JBBY賞(IBBYオナーリスト)受賞
 本展開催市の一宮市にも20年程住んでいた時期があり、「三八市場」「七夕の夜店」等の風景は一宮市で描かれた
 本展では、(2011年03月11日14時46分に発生した)東日本大震災での実話から生まれた「つなみてんでんこ はしれ、上へ!」
 宮沢賢治の短編童話「虔十公園林(けんじゅうこうえんりん)」
 最新作「タケノコごはん」等絵本作品の原画を中心に、近年の作品迄の35年に亘る画業を紹介
 力強い色彩や本を飛び出して語りかけて来るかの様な生き生きとした人物の表現等、パワー漲る作品をご覧下さい
 〔以上、本展leaflet拠り引用〕

[13]一宮市三岸節子美術館 入口に掛かる企画展『伊藤秀男』展 看板
 13

[14]本企画展leaflet
 14leaflet

[15]伊藤秀男
 15

[16]伊藤秀男展紹介冊子/左絵:『じぞうぼん』(原画)1982年
 161982

[17]伊藤秀男作品/左頁:上&中段『おうしげきだん』(原画)2012年/右頁:上段2枚『タケノコごはん』2015年:中断『虔十公園林』(原画)2014年/左右頁:下段『はしれ、上へ!つなみてんでんこ』(原画)2013年
 1720122201520142013

【小生comment】
 絵本作家である作品は、見る者を癒しの世界へ連れ立ってくれる。
 一見稚拙に見える‥が、だからこそだろうか、絵本独特のnostalgie(=郷愁)に惹かれて仕舞う。
 本展の作品群を見ていると、その郷愁の魅力が、暫しの間せち辛い日常の諸事から来るstressを消し去ってくれる。

 三岸節子の傑作の幾つかを常設展cornerで見ることが出来るのが、当三岸節子記念美術館を訪れる度に感じる喜びでもある。
 添付写真[18][19]の絵は、今回展示作品。
 因みに、添付写真[20]の絵『赤い地図』は、この次に紹介する鞍ヶ池Art Salonに展示されていた彼女の傑作『プチカナルの家』1976年作と感じがよく似ていたので展示作品ではないがupさせて頂いた。
 「骨太で大胆な構図」と「迫力あるとても魅力的な色彩感覚」が彼女の真骨頂であり、小生、大好きな画家の一人である。

[18]三岸節子『Spainの白い町』1972年
 18spain1972

[19]三岸節子『アルカディアの赤い屋根』1989年
 191989

[20]三岸節子『赤い地図』1980年
 201980

【名古屋市美術館『画家と戦争‥彼等はいかにして生き抜いたか?』】
 本展は、偶然であるが今日の日本経済新聞朝刊『美の美』(16~17面)にて『画家たちの出発‥戦後70年⑤』でも紹介されていた。
 横山大観・藤田嗣治・恩地孝四郎・北河民次・岡鹿之助・福沢一郎・北脇昇・福田豊四郎・吉原治良・宮本三郎・吉岡堅二・山口薫・香月泰男・松本竣介の以上14人の日本の近代美術を代表する画家達の戦前・戦中・戦後の作品を紹介する。
 次号《会報》【0560】をお楽しみに!

[21]名古屋市美術館 entrance
 21_entrance

[22]名古屋市美術館入口に掛かる企画展『画家たちと戦争』展 看板
 22

【鞍ヶ池Art Salon『夏色・いろ・イロ』展】
 3つ目に訪れたのは、豊田市鞍ヶ池公園の畔にあるトヨタ記念館「鞍ヶ池Art Salon」である。
 本企画展は、「夏らしさを感じさせる作品を選び、それ等を二つのtypeに分けて並べてみました。
 何が描かれているのか解り易い具象画と、モノをその儘描きうつさずimageの世界で遊ぶ抽象画。
 色調の違いでいうなら、強い日差しが当たっている様なハッキリとした色使いの作品と、水に溶かした様な色は淡くかたちも揺らいでいる作品。
 夫々を見比べて、展示室を行ったり来たりしてみて下さい。
 きっと皆さんの今年の夏には、新しい色彩が加わっていることでしょう」。
 〔以上、本企画展leaflet拠り引用〕
 展示作品は、以下の全24点

[23]鞍ヶ池 Art Salon 本展leaflet
 23_art_salon_leaflet

[24]【01】和田英作(1874-1959)『静物』1936年
 241936

【02】梅原龍三郎(1888-1986)『ナポリ風景』1956年作品
【03】三岸節子(1905-1999)『赤い地図』1976年
[25]【04】モーリス・ドニ (Maurice Denis)(1870-1943)『Venezia サンジョルジュ・マジョーレの前のオレンジ売り』1908年
 25_maurice_denis18701943venezia_190

【05】林武(1896-1975)『リボンの少女』1963年
【06】ベルナール・カトラン(1919-2004)『セイロン』1972年
【07】中川一政(1893-1991)『ひまわり』1958年

[26]【08】和田英作『夏雲』1950年
 261950

【09】小林和作(888-1974)『海』1960年遺作
【10】牛島憲之(1900-97)『天草』1968年
【11】糸園和三郎(1911-2001)『少女像』1943年
【12】梅原龍三郎『静物<pineapple>』1960年代
【13】島田鮎子(1934- )『夏を想う日』2002年
【14】同『土用のこころ』2002年
【15】ジョルジュ・ブラック(1882-1963)『飛翔する三羽の鳥』1962年
【16】同『飛翔する鳥』1961年
【17】ジョアン・ミロ(1893-1983)『海の前の少女』1967年
【18】同『composition<少女>』1974年
【19】クリスト(Bulgaria 1935- )『アンブレラ(California)』1990年
【20】同『アンブレラ(日本)』1990年
【21】堀 浩哉(こうせい)(1947- )『池へ - 81・2 』1981年
【22】同『池へ - 81・3 』1981年
【23】あい(雲偏に愛)嘔(あいおう(1935- ))『Rainbow Hair』1973年
【24】同『Summer Ocean』1980年

【小生comment】
 「本展で好きなbest3を選べ」と言われたら、今回は文句なく次の3作を選ぶ!!^-')b♪
 1.【03】三岸節子(1905-1999)『赤い地図』1976年
 2.[24]【01】和田英作(1874-1959)『静物』1936年
 3.【06】ベルナール・カトラン(1919-2004)『セイロン』1972年

【小生comment】
 三岸節子とカトランの絵をご紹介出来ないのは残念であるが、三岸節子の作品は前掲の添付写真[20]『赤い地図』1980年に雰囲気が似ている作品。
 カトランの作品は、淡く薄暗い黄緑色とblueを中心とした涼やかな夏の風景を表現している。
 いずれも素晴らしい作品群である。
 今月中に是非もう一度見に行きたいと思っている。

■今日最後の話題は、最近読んだ、施 光恒著『英語化は愚民化‥日本の国力が地に落ちる‥』についてである。
 本書の著者 施 光恒(せ てるひさ(1971- ))九州大学大学院 比較社会文化研究院准教授は、慶應義塾大学法学部政治学科卒。英国シェフィールド大学大学院政治学研究科哲学修士課程(M. Phil)修了、慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了、博士(法学)、専攻は政治理論、政治哲学というcareerの持ち主。
 本書上梓(2015年07月22日初版刊行)の趣旨を、施氏が「おわりに‥「エリートの反逆」の時代に」で次の様に説明している。
 本書の趣旨の核心を述べているので、一寸長文になるが当該文をほぼ全文引用する。

『英語化は愚民化』などという、少々、刺激的な本書の書名が一人歩き始めると、誤解を含んだ幾つかの反応が届くであろうことが今から想像出来る。英語教育を否定するのかというお叱りが来るだろう。Bilingualを馬鹿にするのか、と感情的な反応もあるだろう。時代錯誤の言語鎖国を主張する学者がいると批判する可能性もある。
 しかし、私(=施)の主張はその様なものではない。日本社会を英語化する政策を批判しても英語教育を軽視している訳ではない。語学が堪能な人々の活躍を軽視するものでもない。
 最後迄お付き合い頂いた方には申し上げる必要もないが、本書は、外国語の能力に優れた者が外来の「知」を積極的に学び、「翻訳」することの重要性を繰り返し強調している。
 中世から近代に向かう過程の欧州では、Latin語から「土着語」への知識の摂取が行われたことで、各国民の自尊心と政治・文化への参加が育まれ、それが近代化の原動力となった。
 明治時代の日本に於いては、世界の最先端の「知」が日本語に「翻訳」され、庶民がaccessし易い形で広められ、そのお陰で近代化は成功をおさめた。専門的な外国の用語が優れた翻訳家達の手で日本語化された為に、「国民一人ひとりが『知的に成長』」し、高度な政治や経済の場にも参画することが可能となった。その結果、日本語を母語とする人々の間に強い連帯意識が生まれ、日本は近代的な国民国家の精神を存立させることが出来たのである。そうした日本語に拠る国づくりを明治のエリート達は自覚的に選択した。
 エリート達のこの選択と翻訳者達の努力がなければ、エリート言語としての英語の使用者と、つまらない卑近なものと低く見られる日本語の使用者とに社会は分断された儘だっただろう。日本の国力は低い儘で、西欧列強に飲み込まれていたかもしれない。
 明治の近代化の始まりから150年が経とうとしている今、英語化を推進するのは、先人の努力への冒涜である。英語化に拠って社会が分断化すれば、急拡大する格差への不満が社会に渦巻き、ともすれば暴力的な行為を伴った混乱が訪れれる可能性さえある。
 高度で複雑なbusinessや技術開発や学術研究の場の言語が英語に独占される様になれば、日本の優秀な中間層と言えども、英語が得意でないというだけで、その様な場から締め出される。仮にその場に留まることが出来たとしても、母語たる日本語に拠る思考のlevelに比べ、英語を無理強いされた上で行う思考levelは格段に低い。大多数の日本人は現在の知的水準を維持することが出来なくなる。
 日本語そのものも、最先端の用語を持たない発展の遅れた「現地語」と化し、日本語を話す階層の人々の知的劣化に拍車をかけるだろう。
 英語化が日本人の愚民化を半ば招くと解ってい乍ら、エリート達は、日本の社会の英語化に躍起になっている。本書の批判は、英語が得意な人々へのものではなく、国民の知的成長の機会を奪い、国力を低下させようとする人々に向けたものである。(P.238-240)〔後略〕

[27]施 光恒『英語化は愚民化‥日本の国力が地に落ちる』
 27

【小生comment】
 本書は、global言語英語への偏重の風潮に強く警鐘を鳴らしている。
 中世の欧州が近代化したのは、Latin語という欧州世界共通語(=global言語)を操る中世のローマカトリック教会のエリート層が独占していたキリスト教の聖書を、16世紀にルター(1483-1546)がドイツ語という「土着語」に翻訳し、庶民層を啓蒙した『宗教改革』から始まったのである。
 Franceの哲学者デカルト(1596-1650)が、土着語である母国語France語で『方法序説』を著したのが1637年。
 人類の進歩は、宗教に留まらず、哲学・自然科学・社会科学を含む全学術分野に於いて、global化とは真逆の言語の「土着化」に拠って発展して行ったのである。
 現在のglobal化=英語化は、英語を母語で自在に操る英米国人の優位性を齎すだけである。

【学生の英語力低下を社会の進歩と見た漱石】
 文豪・夏目漱石が1911(明治44)年に書いた「語学養成法」の冒頭で‥
「一般に学生の語学の力が減じたと云ふことは、余程久しい前から聞いているが、私も亦実際教へて見て爾(さ)う感じた事がある」と記している。その後、続けて次の様に書いているのだ。
「私の思ふ所に由ると、英語の力の衰へた一原因は、日本の教育が正当な順序で発達した結果で、一方から云ふと当然の事である。何故かと云ふに、吾々の学問をした時代は、全ての普通学は皆英語で遣らせられ、地理、歴史、数学、動植物、その他如何なる学科も皆外国語の教科書で学んだが、吾々より少し以前の人になると、答案迄英語で書いたものが多い。吾々の時代になっても、日本人の教師が英語で数学を教えた例がある」
 漱石は、学生の英語力低下は、「日本の教育が正当な順序で発達した結果」で「当然の事」だと断言している。現在の教育改革に於ける英語教育重視論では、global化・ボーダーレス化は「時代の不可避の流れ」、つまり進歩だから、大学教育の英語化を進めることこそ重要だという風潮が強いが、漱石の認識は、正にそれと正反対なのだ。(P.95)

【創造性を失う外国語での思考】(P.176-77)
 日本人の創造性の高さやその理由は、外国人の方がよく理解しているかもしれない。
 韓国の新聞「韓国日報」が、自然科学分野で日本人ノーベル賞受賞者は続出する一方で韓国人受賞者がいないのは何故か、というThemaの論評を載せ、次の様に論じていた。
 日本では、明治以来、西洋の自然科学概念を日本語に訳して来た。
「そのお陰で、日本人にとって世界的水準で思考するということは世界で一番深く思考するということであり、英語で思考するということではなくなった」。他方、韓国では「名門大学であればある程、理学部、工学部、医学部の物理、科学、生物学等の基礎分野に英語教材が使われる。内容理解だけでも不足な時間に外国語の負担迄重なっては、韓国語で学ぶ場合に比べると半分も学べない。(中略)教授達は、基礎科学分野の名著が真艫に翻訳されていないからだと言うが、この様に原書で教えていては翻訳する意味がなくなる。韓国語なら10冊読めるであろう専攻書籍を、1冊把握することも手に負えないから、基本の面で韓国の大学生達が日本の大学生達より遅れるのは当然だ
 ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英氏も、中国と韓国を訪問した歳、何故Asiaで日本だけが次々と受賞者を輩出しているかという彼等の問いにぶつかり、母国語で専門書を読むことが出来る日本の優位性を染み々々と感じたという。そして、英語偏重教育に疑問を投げかけ、「専門分野の力が疎かになったら元も子もない」と懸念を呈している。(中略)

 皆さんは、「英語化」についてどうお考えですか?

【後記】さて、これで今日もお別れである。これも先週の話である。
 去る07月24日(金)18時半から名古屋市中区金山駅前の居酒屋で旧銀行時代の同期会「暑気払い」があった。
 旧銀行時代の同期31人が名古屋金山駅至近の居酒屋に集合。
 楽しいひとときを過ごした。
 添付写真は、その時撮影した全体写真と、参加者一人ひとりのsnap shots 31枚を、添付写真[29]の様に4枚1組にして8組set(←便宜上、幹事長だけ2枚写して全32枚‥)にして作成。
 そして、週明けの07月27日、全体写真2枚と共に、幹事経由にて参加者全員に配信した。

[28]53の会 暑気払い in名古屋金山
 2853_in

[29]53の会暑気払い参加者snap shot~小生(右上)
 2953snap_shot

 では、また‥(了)

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