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2015年9月の4件の記事

2015年9月27日 (日)

【時習26回3-7の会0567】~「『奥の細道』第18回‥【全昌寺】【汐越の松】【天龍寺(=丸岡)】【永平寺】【等栽(=福井)】」「09月18日:峯田君からの mail 」「09月19~22日:四国旅行『4つの重文天主閣を含む6つの城〔高知城・宇和島城・大洲城〕と4つの美術館他を巡って〔その1〕』」「09月26日:美術館『えき』KYOTO『ユトリロとヴァラドン』展を見て」「瀧靖之著『生涯健康脳』を読んで」「09月24日:『時習26回ミニミニ同窓会』開催報告」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 さぁ、今日も【2637の会 0567】号をお送りします。

■さて今日最初の話題は、「松尾芭蕉『奥の細道』の第18回目である。
 前《会報》【0566】では【那谷寺】と【山中】をお届けした。
 当該時期は、七月二十七日~八月四日(新暦09月10~17日)迄の8日間である。
 そして今回は、八月五~十四日(新暦09月18~27日)迄の九日間の【全昌寺】【汐越の松】【天龍寺(=丸岡)】【永平寺】【等栽(=福井)】についてである。
 曽良が伊勢長島へ旅立った為、正確な行程が判らなくなっている。
 以下、通説に従い進めて行く。
 萩原恭男校注の芭蕉『奥の細道』に記されている「芭蕉宿泊地及び天候一覧」には以下の様に記されている。

 八月五日(新暦09月18日)「小松/宿不明」
 八月六日(新暦09月19日)「小松/宿不明」
 八月上旬「大聖寺、全昌寺」
 八月上・中旬「松岡、天龍寺」
 八月 同 「福井、神戸洞哉宅」‥八月十~十二日(新暦09月23~25日)
 八月十四日(新暦09月27日)「敦賀、出雲屋」

 ※ ※ ※ ※ ※

【全昌寺】
《原文》
 大聖持(だいしやうぢ)(注1)の城外、全昌寺(ぜんしやうじ)(注2)といふ寺にとまる。
 猶(なお)加賀の地也(なり)。
 曾良も前の夜(よ)、此(この)寺に泊(とまり)て、

  終宵(よもすがら)秋風聞(きく)やうらの山

 と残す。
 一夜の隔(へだて)千里に同じ。
 吾も秋風を聞て衆寮(しゆれう)に臥(ふせ)ば、明(あけ)ぼのゝ空近う読経(どきやう)声すむまゝに、鐘板(しようばん)(注3)鳴て食堂(じきどう)に入(いる)。
 けふは越前(ゑちぜん)の国へと、心早卒(さうそつ)(注4)にして堂下(だうか)に下るを、若き僧ども紙・硯(すずり)をかゝえ、階(きざはし)のもとまで追来(おひきた)る。
 折節(おりふし)(注5)庭中(ていちゆう)の柳散れば、

  庭掃(はき)て出(いで)ばや寺に散(ちる)柳

 とりあへぬさま(注6)して、草鞋(わらぢ)ながら書捨(かきす)つ。

《現代語訳》
 「大聖寺(注1)」という城下町の郊外、全昌寺(注2)という寺に泊まった。
 此処はまだ加賀の国である。
 先に旅立って行った曾良も前の晩この寺に泊まり、

 【意】裏山に吹き渡る秋風の音を一晩中聞き、心寂しい気持ちになって仕舞い、眠れない夜であったよ

  季語「秋風」=秋

 【解説】この「秋風」は、一人旅の物悲しさ、心寂しさを表象している
    曾良が全昌寺に泊まった前夜とは、八月五~六日(新暦09月18~19日)

 と一句残していた。
 思えば、曽良と一晩隔てているだけなのに、千里も遠く隔って仕舞った様な気がする。
 私も秋風を聞き乍ら修行僧の寮舎に泊めて貰った処、夜明け近くなって、僧達の読経の声が澄み渡り、合図の鐘板(注3)が鳴ったので食堂(じきどう)に入った。
 今日は越前の国に越えるつもりだと、心あわただしく(注4)食堂から出ると、若い僧達が紙や硯を抱えて寺の石段の所迄追い掛けて来た。
 丁度その時(注5)、庭に柳の葉が散っていたので、

 【意】寺の境内に柳の葉が散り落ちている
    だから、箒で掃き清めてからお暇(いとま)するとしようか

  季語「柳散る」=秋七月

 【解説】禅寺に宿泊すると、翌朝、「作務(さむ)」と言って、自分の寝所や庭等を掃除して発つ「常礼」があったことを踏まえて詠んだ

 と、即興で、草鞋(わらじ)をはいた儘急いで(注6)句を作り書き与えた。

 (注1)大聖持:前田飛騨守利明七万石の城下町大聖寺(=大正持=大聖持)
    山中温泉の北西約8キロにある/現・石川県加賀市大聖寺
 (注2)全昌寺:現石川県加賀市大聖寺神明町の熊谷山(ゆうこくさん)大聖寺
    大聖寺城主、山口玄蕃頭(げんばのかみ)宗永の菩提寺/曹洞宗の寺
    【山中】で世話になった泉屋の菩提寺でもあった
    住職(=当時)の月印和尚は久米之助の伯父
 (注3)鐘板:寺で合図の為に叩く道具
 (注4)早卒:正しくは「倉卒・草卒」
    「あわただしい」ことを意味する形容動詞の語幹
 (注5)折節:丁度その時
 (注6)とりあへぬさま:とり急いだ即興の様

【汐越の松】
《原文》
 越前の境(注1)、吉崎(注2)の入江を舟に棹(さをさ)して(注3)、汐越(しほこし)の松(注4)を尋ぬ。

  終宵(よもすがら)嵐に波をはこばせて
   月をたれたる汐越の松 西行

 此(この)一首にて、数景(すけい)盡(つき)たり(注5)。
 もし一瓣(いちべん)(注6)を加(くはふ)るものは、無用の指を立(たつ)る(注7)がごとし。

《現代語訳》
 加賀と越前との国境(注1)にある吉崎(注2)の入江を舟に乗って渡り(注3)、汐越の松(注4)を訪ねた。

 【意】夜通し嵐に波を打ち寄せさせて、汐を被った松の梢から波の雫が滴っている
    〔説1〕それに月光が当たりキラキラして、恰も月の雫の様だ
    〔説2〕低く垂れた松の枝の彼方の海に月が沈もうとしている

 この一首の中に、汐越の松の全景は詠み込み尽くされている(注5)。
 もし一言(注6)付け加えるものがあれば、五本ある指に不要なもう一本を付け加える(注7)様なものだ。

 (注1)越前の境:加賀と越前の境/現・石川県と福井県の境
 (注2)吉崎:蓮如(1415-99)上人が迫害逃れる為、京都からこの地へ来て坊舎(吉崎御坊)を建立
    現・福井県坂井郡金津町吉崎
 (注3)棹(さをさ)して:棹を水底に突き刺して舟を奨めること
 (注4)汐越の松:吉崎の対岸浜坂岬(現・福井県坂井郡芦原町浜坂)にあった数十本の松
    この歌が西行ではなく蓮如の作とも言われるがいずれも確証はない
    この歌の「月をたれたる」の解釈が上述の通り〔説1〕〔説2〕とある様だが、小生にはどちらが正しいかよく解らない (^^;
 (注5)数景盡きたり:汐越の松の絶景の全てが表現され尽くされているという意味
 (注6)一弁:一言一句
 (注7)無用の指を立つる:五本ある指にもう一本無用な指を加える意
    原典は『荘子』

【天龍寺(=丸岡)】
《原文》
 丸岡天龍寺(てんりゆうじ)(注1)の長老(注2)、古き因(ちなみ)(注3)あれば尋ぬ。
 又、金沢の北枝(ほくし)(注4)といふもの、かりそめに見送りて(注5)此処(このところ)までしたひ来る(注6)。
 所々の風景過さず思ひつヾけて、折節(をりふし)あはれなる作意(注7)など聞(きこ)ゆ。
 今既(すでに)別(わかれ)に望みて、

  物書て扇引さく余波(なごり)哉(かな)

《現代語訳》
 丸岡の天竜寺(注1)の住職(注2)は古い縁故のある人(注3)なので訪ねた。
 また、金沢の北枝(注4)というものが「一寸だけ見送りましょう(注5)」と言いつつ、とうとう此処迄ついてきてくれた(注6)。
 彼(=北枝)は、途中所々の美しい景色を見逃さず句を作り、時折、情緒深い着想の句等(注7)を聞かせてくれた。
 その北枝とも愈々別れの時が来て‥

 【意】道すがら句を書き留めて来た扇を引き裂く様に、貴方との辛い別れの時が遣って来た
    夏から秋になって扇を終う様に、それは心痛む別れなのだ

  季語「扇置く」=秋七月

 【解説】芭蕉が、北枝の誠意ある対応に深く感謝し、俳人としての優れた才能を高く評価していることがこの文面を読むとよく解る。
     曾良と別れ、又此処で北枝との別れる、芭蕉の惜別の情が「物書て扇引さく余波哉」の句によく表象されている。
     又、久富哲雄著『おくのほそ道/全訳注』で久富氏が「伝西行の和歌で『数景尽きたり』としている処に、芭蕉の西行への傾倒ぶりの深さが思われる」と述べているが、全く同感である。

 (注1)丸岡天竜寺:「丸岡」は誤り/天竜寺があるのは松岡町/松岡は丸岡の南東約8km、福井の北東約7km程の所にある
    1645年)、時の福井藩主・松平忠昌(結城秀康の子)が死去/その跡を嫡子(次男)松平光通が継いだ
    光通は、弟の松平昌親に2万5000石を分与(吉江藩を立藩)、庶長子の兄昌勝に5万石を分与(松岡藩を立藩)
    これに拠り、福井藩は52万5千石→45万石となった
    現・福井県吉田郡松岡町/「天竜寺」は松岡町にある曹洞宗寺院/山号は清涼山、松平家の菩提寺/永平寺の末寺
 (注2)長老:禅宗で住職のこと/当時、長老は大夢和尚〔嘗て江戸品川「天龍寺」で住職を務めていた〕
 (注3)古き因(ちなみ):大夢が江戸天龍寺時代に芭蕉と交流があったことを指しているが、詳細不明
 (注4)北枝:通称=源四郎/加賀の人/研刀を業とする/初め談林派の俳人、後に加賀蕉門の中心人物となる
    この『奥の細道』の旅で芭蕉の訪問を受け、兄の牧童と共に入門/芭門十哲の一
    北枝は「山中温泉」滞在中に芭蕉から聞いた言説を書き留め『山中問答』を表す
 (注5)かりそめに見送りて:「つい一寸その辺り迄見送りましょう」と見送って来て
 (注6)したひ来る:お供をして遣って来た/「したふ」は、あとを追っていく、の意
 (注7)あはれなる作意:情緒深い着想を持った句、という意

【永平寺】
《原文》
 五十丁山に入(いり)て、永平寺(注1)を礼(らい)す。
 道元禅師(注2)の御寺(みてら)也(なり)。
 邦機(ほうき)千里(注3)を避(さけ)て、かゝる山陰(やまかげ)に跡(注4)をのこし給ふも、貴きゆへ(注4)有(あり)とかや。

《現代語訳》
 五十丁程山に入って、永平寺(注1)を礼拝した。
 道元禅師(注2)が開山の寺だ。
 都から近い所(注3)を避けてわざとこんな山奥に立派な跡〔=修行の場〕を残されたのも、道元禅師の尊い理由(注4)があってのことだという。

 (注1)永平寺:曹洞宗の総本山/現福井県吉田郡永平寺町/山号は吉祥山/開山:道元禅師
 (注2)道元禅師(1200-53):鎌倉時代初期の禅僧/曹洞宗の開祖/内大臣久我通親(こがのみちちか)の子
     13歳で比叡山に入山/1223年 入宋(にっそう)/1227年帰朝/著書『正法眼蔵』等
 (注3)邦機(ほうき)千里:機は「畿」/「邦畿」は、帝都に近い天子直轄の地、の意
     中国周時代に、王城を中心に千里四方以内の地を称した
 (注4)尊きゆへ:「ゆへ」は「ゆゑ」が正しい/重大な深い理由の意

【等哉(=福井)】
《原文》
 福井(注1)は三里計(ばかり)なれば、夕飯(ゆふげ)したゝめて出(いづ)るに、たそかれの路(みち)たどゝし。
 爰(ここ)に等栽(とうさい)(注2)と云(いふ)古き隠士(いんし)有(あり)。
 いづれの年にか、江戸に来(きた)りて予(よ)を尋(たづぬ)。
 遙(はるか)十(と)とせ余り也。
 いかに老さらぼひて有(ある)にや、将(はた)死(しに)けるにやと人に尋(たずね)侍(はべ)れば、いまだ存命して、そこゝと教ゆ。
 市中ひそかに引入(ひきいり)て、あやしの小家(こいへ)(注3)に、夕貌(ゆふがほ)・へちまのはえ(=へ)かゝりて、鶏頭(けいとう)・はゝ木ヾ(ははきぎ)(注4)とぼそをかくす。
 さては、此(この)うちにこそと門(かど)を扣(たたけ)ば、侘しげなる女の出て、
「いづくよりわたり給ふ道心(だうしん)の御坊(ごぼう)にや。あるじは此(この)あたり何がしと云(いふ)ものゝ(=の)方に行(ゆき)ぬ。
 もし用あらば尋給(たづねたま)へ」といふ。
 かれが妻なるべしとしらる。
 むかし物がたりにこそ、かゝる風情は侍れと、やがて尋(たづね)あひて、その家に二夜(ふたよ)とまりて、名月はつるが(注6)のみなとにとたび立(だつ)。
 等栽も共に送らんと、裾(すそ)おかしうからげて、路の枝折(しをり)(注7)とうかれ立(たつ)。

《現代語訳》
 福井までは三里ほどなので、夕飯をすませてから出かけた処、夕暮れの道なので足元が危なっかしく思う様に進めなかった。
 この地には等栽(注2)という旧知の隠者がいる。
 いつの年だったか、江戸に来て私を訪ねてくれた。
 もう十年以上も昔のことだ。
 どんなに年取ってしまったか、もしかしたらもう亡くなっているかもしれないな、と人に尋ねたら、まだ存命で、「何処其処に住んでいる」と教えてくれた。
 行ってみると、町中(まちなか)の一寸引き籠った所にみすぼらしい小家(注3)があり、夕顔や糸瓜(ヘチマ)が弦を延ばしていて、鶏頭や箒草(注4)が戸口を隠す程生い茂っている。
 「きっとこの家だな」と門を叩けば、みすぼらしいなりの女が出てきて、「何処からいらっしゃったお坊さんですか?
 主人はこの近くの某さんの所に行っています。
 もし用があるのなら、そちらをお訪ねください」と言う。
 等栽の妻に違いない。
 昔物語の中にこんな風情ある場面があったなぁ‥と思いつつ、直ぐに訪ねて行って等栽に会い、彼の家に二晩泊まり、名月で知られる敦賀(注6)の港へ旅立った。
 等栽が見送りに来てくれて、裾(すそ)をおどけた感じに捲り上げて、楽しそうにウキウキと道案内(注7)に立ってくれた。

 (注1)福井:松平兵部大輔昌親(→正明(まさあき)→吉品(よしのり)(1640-1711))二十五万石の城下町/現福井市
 (注2)等栽:福井の俳人/神戸洞哉(かんべとうさい)/貞室の門人/越前俳壇の長老/元は連歌師
    「猿蓑」に江戸に芭蕉を訪ねた様子が書かれ、又、元禄3年秋には幻住庵に居た芭蕉を訪ねている
    「等栽」の字が「洞哉・等哉」と違うのは芭蕉の作為とみられる
 (注3)あやしの小家:「『源氏物語』‥夕顔」の以下の場面を下敷きにしている
    「かの白く咲けるをなむ、夕顔と申し侍る
    花の名は人めきて、かうあやしき垣根になん咲きはべりけると申す
    げにいと小家がちに、むつかしげなるわたりの、この面(も)かの面、
    あやしくうちよろぼひて、むねむねしからぬ軒のつまごとに這ひまつはれたるを…」
 (注4)はゝ木ヾ:帚木/アカザ科の植物/茎は干して箒にする/ホウキグサ
 (注5)昔物がたりにこそ:これも「『源氏物語』夕顔」を念頭に置いている
    光源氏が夕顔の住むあばら家を訪ねていく場面
    「昔物がたりなどにこそかかることは聞け、といとめづらかにむくつけゝれど‥」
    (昔物語の中になら、この様な変わった趣はあるかもしれない
    (が、現実にはとてもこの様な趣向にはお目にかかれるものではない)、の意
 (注6)つるが:「歌枕」/敦賀湾に面する北陸第一の港町/現・福井県敦賀市
 (注7)路の枝折:道案内

【小生comment】
 曾良が伊勢長島へ旅立ってからは芭蕉の行動が正確には解らなくなったが、「松岡→永平寺→福井」の順。
 「夕飯したためて出づる」所は、永平寺より松岡「天龍寺」の方が現実的。
 そして、326年前の八月十四日(乃ち、今日新暦09月27日)に敦賀の港に到着。
 翌日の八月十五日が「中秋の名月」であった。
 因みに、2015年は今日09月27日が「中秋の名月」である。
 添付写真[01]は拙宅から今日19時過ぎに撮影した「中秋の名月 in 豊橋」である。

[01]中秋の名月20150927
 0120150927

■続いての話題は、【2637の会】members峯田君から09月18日(金)に頂戴したmailをご紹介する。
 峯田君には事前の了解を頂戴していないが、とっても良い内容の mail なので小生の判断でほぼ全文をご紹介して《会報》に記録して置きたい。

Sent: Friday, September 18, 2015 10:11 PM

今泉 悟 君

 一気に涼しくなってきました。お元気ですか?
 今日、「江戸300藩物語藩史(東海篇)」洋泉社新書本 を買ってきました。
 その中で、吉田藩の章で時習館のことが書いてありました。
 その中から、
 豊橋公園に隣接してあるのが豊橋市役所と豊橋公会堂だ。この区画は吉田城三の丸の跡地。
 その近くにひっそりと”藩校時習館址”と刻まれた石碑が建つ(豊橋市八町通)。
 時習館は宝暦二年(1752)、藩主大河内松平信復(のぶなお)が設立した藩校で、藩士子弟の学び舎だった。
 有為の人材がここから育っていく。
 廃藩後、廃止されるが、その名は受け継がれ、現在、愛知県立時習館高等学校として名を残す。〔中略〕

 1752年設立とすると263年ですか。
 今度豊橋にいったら公会堂横の石碑をみてこようと思います。いい写真がとれたらアップします。

 ちょっとうれしくなって返信します。

           峯田

 ※ ※ ※ ※ ※

 峯田君へ
 Mailをホント有難う!
 そうなんですネ~!
 我等が母校時習館高校の由来になる吉田藩七萬石の藩校「時習館」は、豊橋公会堂の場所にあったのですね。
 貴兄が藩校時習館の石碑を up したら、是非 mail で送信して下さい。
 そうしたら、その写真は必ずこの《会報》に up させて頂きます。
 因みに、当該石碑は、公会堂の南西端に立っています。
 小生は見たことがあります。
 何の変哲もない石碑ですが、「我等が母校由来の石碑」を見るだけでどういう訳か解らないがジーンと感慨が湧いて来ますヨ。
 丁度、貴兄がmail文面で感動した様に‥。

 ※ ※ ※ ※ ※

 以下は余談‥
 吉田藩は、知恵伊豆の子孫大河内松平家(松平伊豆守系)が藩主を務めた。
 大河内松平家は、摂津源氏源頼政の孫、源顕綱に始まる一族。
 室町時代には三河吉良氏に家老として仕え、江戸時代の正綱の代に徳川氏一族の長沢松平家の養子となり以後は大河内松平を名乗った。
 正綱の養子となり、のち知恵伊豆と称されたのが老中松平信綱(1596-1662)。
 信綱【1】は、島原の乱を平定した翌1639年、武蔵忍藩3万石→
 →川越藩6万石(→7万5千石へ加増)藩主へ加増移封となった。
 信綱の嫡子輝綱(1620-72)【2】が第2代藩主、輝綱の四男・嫡子信輝(1660-1725)【3】が第3代川越藩主。
 1671年 父信輝死去に際し5千石を弟に分与し川越藩7万石藩主→1694年 信輝は古河藩7万石へ移封
 1709年 長男信祝(のぶとき(1683-1744))【4】古河藩第2代藩主→1712年 吉田藩7万石へ移封。
 1729年 2月2日 大坂城代→2月15日 浜松藩7万石に移封→
 1730年 8月 老中就任→1744年 老中在任中に死去。
 信祝の庶長子信復(のぶなお(1719-1770))【5】は、浜松藩7万石→1749年吉田藩に7万石で転封。
【1752(宝暦02)年】藩校【時習館】を設立。
 信復の嫡子(次男)信礼(のぶうや/のぶいや(1737-70))【6】
 信礼の嫡子(長男)信明(のぶあきら(1763-1817))【7】は、将軍吉宗の孫でもある松平定信が寛政の改革に主要memberとして参画。
 1793(寛政05)年 定信が老中辞職を受け、老中首座として幕政を主導、「寛政の遺老」と呼ばれた。
 蝦夷地開拓などの北方問題を積極的に対処した
 又、信明は学問を好み、大田錦城を招聘して藩校【時習館】の拡張に努めた
 以上から松平信綱の玄孫、信復が藩校時習館を創設し、信復の孫の信明が時習館の拡張に務めたそうである。

■続いての話題は、09月19~22日:四国旅行『4つの重文天主閣を含む6つの城と4つの美術館他を巡って〔その1〕』についてである。
 Volumeが嵩むので、今日はその第1回目、09月19日~20日のお昼頃迄の模様を概略だけお届けする。

《09月19日(土)》

 01時05分 拙宅を車で発つ
 07時20分 南国SA休憩
 07時53分 高知/桂浜 着
[02]桂浜・坂本龍馬像の前にて
 02

 09時20分 高知城 着
 高知城は、全国に12ある現存重文天守閣の一つ
 四国には、高知城の他、宇和島城、伊予松山城、丸亀城の4城あり、今回の旅行の主目的地である
[03]高知城天守閣前にて
 03

 12時30分頃 四万十川中流域
[04]四万十川 沈下橋の近くにて
 04_2

 15時10分 宇和島・天赦園
 本庭園は、当日本庭園は国の名勝
 宇和島藩第2代藩主伊達宗利造の一部が始まり
 のち7代藩主伊達宗紀(むねただ)が慶応3(1868)年に築庭
 鬼ヶ城連峰を借景とした池泉回遊式の大名庭園で、品格ある名園である
 この庭園の名、天赦園は、宗紀(1792-1889←寛政生まれで明治没(享年98歳))が詠んだ句‥元は先祖の伊達政宗が詠んだ有名な漢詩‥

 馬上少年過
 世平白髪多
 残躯天所赦
 不楽是如何

 馬上に少年過ぎ
 世は平にして白髪多し
 残躯は天の赦す所
 楽しまずして是を如何せん

 に拠る
 因みに、第一句の「馬上少年過ぐ」は、司馬遼太郎が伊達政宗を描いた作品名に取り上げている
 宇和島藩は、伊達政宗の庶長子秀宗が仙台藩とは独立した形で10万石で立藩
 又、宗紀の婿養子で第8代藩主となったのが、島津斉彬(1809-58)、山内容堂(1828-72)、松平春嶽(1828-90)と共に幕末の四賢侯と謳われた伊達宗城(むねなり(1818-92))

[05]天赦園 庭園にて
 05

 16時20分 宇和島城 天守閣 着
[06]宇和島城天守閣前にて
 06

 18時20分 小薮温泉 着→泊

《09月20日(日)》

 08時00分 小薮温泉 発
 08時55分 臥龍山荘 着
[07]臥龍山荘の庭園1
 071

[08]臥龍山荘の庭園2
 082

 09時20分 大洲城 着
[09]大洲城天守閣前にて
 09

 10時30分 大洲城 発 → 松山市へ向かった

■続いての話題は、昨日09月26日に京都駅伊勢丹7階にある美術館『えき』KYOTOにて開催中の『ユトリロとヴァラドン』展を見て来たのでその模様をお伝えする。

 モーリス・ユトリロ(1883-1955)の母、スュザンヌ・ヴァラドンこと、マリー=クレマンティーヌ・ヴァラドン(1865-1938)は、マドレーヌ・セリーナ・ヴァラドンの私生児としてオート=ヴィエンヌ県に生まれた。
 ヴァラドンは、画家のmodelを初めてから、生来の美貌と人懐っこさから人気者となり、巨匠のルノワール(1841-19191)の作品としては、「ダンス三部作」のうちの2点、ボストン美術館所蔵「ブージヴァルのダンス」1883年、オルセー美術館所蔵「都会のダンス」1883年のmodelを務めている。
 ユトリロは、母ヴァラドンと同じく、私生児として、モンマルトルの北部ポトー通りに生まれた。
 モンマルトルが愈々一大歓楽街としての様相を形成していった時代に当たる。
 モンマルトルは、1889年にムーランルージュが開業してその絶頂期を迎えた。
 ユトリロを産んで間もなくヴァラドンは、壁画の巨匠として著名なビュヴィス・シャヴァンヌ(1828-98)がパリ大学行動に描くことになった『聖なる森』のmodelになった。
 時を同じくして、ロートレック(1864-1901)とも出逢い、『二日酔い』1888年(フォッグ美術館所蔵)のmodelになっている。
 ヴァラドンの通称「スュザンヌ」は、ロートレックが「シャヴァンヌやルノワールらの老大家のmodelとして人気のあった彼女を旧約聖書外典にある「スザンナと老人たち」の話に例えて」つけた渾名である。
 ヴァラドンは、こうした巨匠たちのmodelを務めている傍ら、dessin の力をつけていった。
 1891年には、同じくヴァラドンの愛人で彫刻家であったバルトロメの紹介でドガに会っている。
 そのドガをして、「これはちゃんと描けている。貴女は我々の仲間だ‥」と言わしめ、彼女はドガに絵画を習い更に腕を上げていった。
 画家としての成長ぶりと、巨匠たちの間で上手く立ち回る彼女を、ドガは「恐るべきマリア」と評している。
 そして、1895年、ヴァラドンは国民美術協会のサロンに出品し、女性初の同会会員となったのである。
 一方、息子のユトリロは、8歳迄モーリス・ヴァラドンであった。
 1891年、Spainのエンジニアで画家&美術評論家のミゲル・ウトリーリョ(ユトリロ(1862-1934))が父親である旨認知したのである。
 彼は、バルセロナの前衛的芸術家Groupの溜まり場「四匹の猫」の経営者でもあった。
 ところが、多感な母親ヴァラドンは、1893年、今度はエリック・サティ(1866-1925)と恋に落ちて仕舞った。
 ウトリーリョが去り、サティとも別れたヴァラドンは、1895年商社マンのポール・ムジスと同棲を始め、96年に正式に結婚。
 母ヴァラドンは、羽振り良かった為、ユトリロは学校教育を受けるには困らなかったが、気難しく育ち、1900年の16~17歳の多感な頃、alcoholを覚えた。
 1900年にユトリロ最初の入院をしている。
 ユトリロは、生涯リットル単位で赤ワインを飲む生活をしていたが、赤ワインparadoxの所為でアル中にはなったが、71歳という比較的長寿を全う出来ている。
 以下に、ヴァラドンとユトリロの作品の幾つかを紹介する。

[10]本展leaflet/右表紙左絵:Utrillo『コルト通り/モンマルトル』1916-18年頃
 10leafletutrillo191618

[11]Valadonと関係図
 11valadon

[12]Utrillo『水飲み場の前の家』1910-12年頃
 12utrillo191012

[13]Utrillo『ノルヴァン通り/Montmartre』1912-14年頃
 13utrillomontmartre191214

[14]Valadon『Portrail de Mauricia Coquiot』1915年
 14valadonportrail_de_mauricia_coqui

[15]Utrillo『Cabaret du Lapin Agile a Montmartre』1916-18年頃
 15utrillocabaret_du_lapin_agile_a_m

[16]Valadon『裸婦の立像と猫(Nue Debout et chat)』1919年
 16valadonnue_debout_et_chat1919

[17]Valadon『コルト通り12番地/Montmartre』1919年
 17valadon12montmartre1919

[18]Valadon『France帝政時代風caffee potに挿された花(Fleurs dans une cafetiere Empire)』1920年
 18valadonfrancecaffee_potfleurs_dan

[18]Valadon『France帝政時代風caffee potに挿された花(Fleurs dans une cafetiere Empire)』1920年
 19valadonnu_assis_sur_un_divan1922

[20]Valadon『窓辺のジェルメーヌ・ユッテル(Germaine Utter devant sa fenetre)』1926年
 20valadongermaine_utter_devant_sa_f

[21]Valadon『サン=ベルナールの城のテラス(アン県)(La terrasse du chateau de Saint=Bernard (Ain))』1927年
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[22]Valadon『花瓶の中のリラの花束(Bouquet de Lilas dans un vase)』1930年
 22valadonbouquet_de_lilas_dans_un_v

[23]Valadon『小さなtableに置かれた花束(Bouquet de fleurs sur une petite table)』1932年
 23valadontablebouquet_de_fleurs_sur

[24]Utrillo『奥殿側から見た教会/サモア=スュル=セーヌのフーケ通り』1932年
 24utrillo1932

[25]Utrillo『青い花瓶の中の花束(Bouquet de fleurs dans un vase bleu)』1936年
 25utrillobouquet_de_fleurs_dans_un_

[26]Valadon『花(Fleurs)』1932年
 26valadonfleurs1932

[27]Utrillo『サン=リュスティック通り/Montmartre』1938-40年頃
 27utrillomontmartre193840

【小生comment】
 小生は、学生時代から、ユトリロとモジリアーニが好きだったが、今回の展覧会で、ユトリロよりもヴァラドンの作品が好きになった。
 ヴァラドンは、はっきりとした色使いがbalanceよくなされており、見る者を魅了する。

■続いて話題である。最近読んだ瀧靖之著『生涯健康脳』を読んだのでご紹介する。
 本書で、著者の瀧氏が最も言いたかったことを「あとがき」で以下の通り述べている。

 「いつからでも、簡単なことから脳を健康にすることができる」ということです。
 「生涯健康脳」のつくり方は、日常の生活の中にあり、何歳からでも一歩を踏み出すことができます。
 今日から少しずつ、できる範囲で簡単なことから始めてください。

 以下に本書の特徴的な処の index を記す。

 4章/脳に良いこと、悪いこと
 ・「有酸素運動」が脳を活性化させる
 ・十分な時間と質の良い「睡眠」が脳を守る
 ・飲酒は脳を萎縮させる
 ・内臓脂肪型の肥満は脳に大敵」
 ・糖尿病、動脈硬化、高血圧が認知症のriskを挙げる
 ・stressは海馬を萎縮させる

 5章/脳の最高の栄養素は、知的好奇心!
 ・脳の最高の栄養素は「知的好奇心」
 ・楽しい! 嬉しい! が脳を元気にする
 ・知的好奇心を刺激する「趣味」を持つ
 ・「音楽」は脳に百利あって一害なし

[28]滝 靖之『生涯健康脳』
 28

【小生comment】
 みんな解り易い説明であった
 「生涯健康脳」をつくるには、脳に良いと思ったら直ぐに遣れる範囲内で始め、続けるってことみたいである。

■今日最後の話題は、一昨々日09月24日は、不肖小生の誕生日。
 朋友中嶋Y行君【3ー2】が、小生の還暦の誕生日祝いを set してくれた。
 もう少し事情を詳しくお話すると、中嶋君の時習26回生の親友に、現在、CanadaのVancouver在住でブリティッシュコロンビア大学(The University of British Columbia (略称:UBC))教授の松井S記君【3-3】がいる。
 その中嶋君と松井君が昨夏、何十年ぶりかに再会し、年に一回会おうということになり、今夏も会ったそうだ。
 そして、その席に松井君の朋友の宮下K一君【3-4】も同席。
 中嶋君曰く、「其席上で宮下君から「今泉に一度会ってみたいなぁ」という言葉があったので、09月24日の今泉の還暦の誕生日祝いを彼と一緒に遣ろう!」とお誘いがあった。
 更に、中嶋君は「宮下君と同じ中部中学の同窓同期で、時習26回【1-4】の classmate である林(K子)さんも誘ってみるよ」と言ってくれ、誘ってくれた。
 因みに中嶋君は、林K子さんの妹さんと同じ職場で薬剤師をされているというご縁があるのだ。
 世の中はホント狭い。(笑)
 ‥ということで、09月24日18時半から豊橋駅前で中嶋君が全てsetしてくれた4人に拠る『時習26回ミニミニ同窓会』が開催された。
 楽しい3時間はあっと言う間に過ぎ去った。
 以下に、宮下君からの「ミニミニ同期会」開催の御礼 mail を頂戴したので、その一部をご紹介する。

 ※ ※ ※ ※ ※

Sent: Saturday, September 26, 2015 10:29 AM

 〔前略〕今泉さん、還暦おめでとう御座います。
 高校時代と雰囲気は変わっていませんでした。
 林さんの色白のイメージもそのままでした。
 自分を含め、皆様60歳と云う事で懐かしさと共に特別の感慨を覚えます。

 会をアレンジしてくれた中嶋さんに改めて感謝致します。〔後略〕

         宮下

 ※ ※ ※ ※ ※

[29]時習館26回生ミニミニ同期会20150924
 292620150924

【後記】皆さんは silver week をどの様に過ごされましたか?
 観光地は何処も凄い人出だった様ですね。
 小生も還暦を迎え、新たな人生を start したいと思っています。
 癌も患いました。
 人生は一度しかないので、精一杯、悔いなく生きて行きたい。
 だから、三泊四日の四国旅行から帰った三日後に京都で3つの美術館を見ました。
 身体を鍛えて、「ピン・ピン・コロリ」で健康寿命を全うしましょう!

 残された小生の人生を全うする為に決心したこと‥

【目的】全人格の成長
【目標】「ピン・ピン・コロリ」の健康寿命で満107歳〔←百八煩悩の前〕での人生全う!

 では、また‥。(了)

2015年9月18日 (金)

【時習26回3-7の会0566】~「『奥の細道』第17回‥【那谷(寺)】【山中】」「09月05日:名都美術館『名都美術館collection‥日本の原風景~富士をめぐる旅~』展を見て」「ハンナ・アーレント著『全体主義の起源Ⅱ【帝国主義】』を読んで」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 さぁ、今日も【2637の会 0566】号をお送りします。

■さて今日最初の話題は、「松尾芭蕉『奥の細道』の第17回目である。
 前《会報》【0565】でお届けした【小松】は七月ニ十四~六日(新暦09月07~09日)「近江屋」に3泊した処をお届けした。
 前回にも説明したが、その後【小松】には、再び八月五~六日(新暦09月18~19日)に戻って来ている。
 今回は、【小松】に戻って来る間の七月二十七日~八月四日(新暦09月10~17日)迄の8日間巡った【那谷寺】と温泉地【山中】についてお届けする。
 七月二十七日~八月四日(新暦09月10~17日):「山中/泉屋久米之助宅に8泊す」
 〔新暦09月10日:快晴、夕方山の方を夕立通る/11日:快晴、夜に入り雨降る/12~15日:快晴/16日:雨折々降る、暮に及び晴、夜中降る/17日:朝雨止む、巳の刻(午前十時頃)又降りて止む、夜ひ入り降る〕

 ※ ※ ※ ※ ※

【那谷(寺)】
《原文》
 山中(注1)の温泉(いでゆ)に行(ゆく)ほど、白根(しらね)が嶽(だけ)(注2)跡にみなして(注3)あゆむ。

[01]那谷寺から吉崎御坊跡.へ向かう途上で見た白山20050424
 0120050424

 左の山際に観音堂(注4)あり。
 花山(かざん)の法皇(ほふわう)(注5)、三十三所の順礼(注6)とげさせ給ひて後(のち)、大慈大悲(だいじだいひ)の像(注7)を安置し給ひて、那谷と名付給ふと也(なり)。
 那智(注8)、谷汲(たにぐみ)(注9)の二字をわかち侍(はべり)しとぞ。
 奇石(きせき)さまざまに、古松(こしょう)植(うゑ)ならべて、萱(かや)ぶきの小堂(せうだう)、岩の上に造りかけて、殊勝の土地(注10)也(なり)。

  石山の石より白し秋の風

[02]那谷寺掲題の奇岩の前にて20050423
 0220050423

[03]石山寺 多宝塔前にて20070430
 03_20070430

[04]石山寺 多宝塔前にて〔社員旅行〕20131130
 04_20131130

《現代語訳》
 山中温泉(注1)に行く道すがら、白根が嶽(注2)を背にして(注3)歩んでいく。
 左の山際に観音堂(注4)がある。
 花山法皇(注5)が西国三十三か所の巡礼(注6)をおとげになって後、人々を救う大きな心(大慈大悲)を持った観世音菩薩の像(注7)を安置されて、「那谷」と名付けられたということだ。
 三十三か所の最初の札所である那智(注8)と最期の札所である谷汲(注9)から、それぞれ一時ずつ取ったということだ。
 珍しい形の石がさまざまに立ち並び、古松が植え並べられている。萱ぶきの小さなお堂が岩の上に建ててあり、景色のよい場所(注10)である。

  石山の石より白し秋の風
 【意】〔説1〕この那谷寺境内には多く奇石の白い石山があるが、近江の石光山石山寺の石よりも白く曝(さらさ)れている
       だが、其処へ吹き渡る秋風は、山(=境内)全体の白さが一層引き立たせて、厳かな雰囲気を醸成していることだ

    〔説2〕この那谷寺掲題は、様々な奇石がある石山で、白く曝れている
       だが、この(=那谷寺の)石山の石よりも、其処へ吹き寄せる秋風は一層白く感じられ、厳かな雰囲気を醸し出している

  季語「秋の風」で秋

 【解説】本文では、「小松」→「那谷寺」→「山中温泉」の順路になっている。
     しかし『曽良旅日記』に拠ると、実際には七月二十二日(新暦09月10日)小松を発ち、夕刻、山中温泉に到着。
     同地の「泉屋久米之助」宅に八月四日(同09月17日)迄8泊滞在。
     八月五日(同09月18日)那谷寺に赴いている。
     即ち、「山中温泉」⇔「那谷寺」が、実際の行程と本文の掲載順が逆になっている。

 (注1)山中の温泉(いでゆ):加賀国江沼郡黒笠庄山中村(現・石川県江沼郡山中町)の温泉/小松の南西約24kmの地
 (注2)白根が嶽:加賀と飛騨の国境に聳える白山(はくさん(標高2,702m))のこと
    富士山・立山と共に「日本三名山」の一つ/歌枕「白山(しらやま)」
 (注3)跡にみなして:後方に見る様にして/ただ実際は、小松→那谷→山中へ行く芭蕉一行には東南に見え、後方には見えない
 (注4)観音堂:此処では那谷寺(=真言宗 別格本山)を指す
    岩窟内部に千手観音を安置し、その前に「大悲閣」という御堂がある
    養老元(717)年、泰澄大師が開山/自生山 岩屋寺と号した
    寛和(かんな)年間(985-87)に花山法皇が当地に行幸され「那谷寺」と改称
    寛永年間(1624-44)に藩主前田利常(1594-1658)が再建
    境内の岩山の形状が奇観で景勝の地として知られる
 (注5)花山法皇(968-1008):第65代天皇(在位984-86)
    村上天皇(926-67)の第二皇子の冷泉天皇(950-1011)の第一皇子
    寛和の変:寛和02(986)年06月23日、藤原兼家(929-90)の画策に拠り天皇を退位させられた事件
    花山法皇は、この事件以後、観音菩薩を祀る寺院三十三ヵ所を巡拝されと伝えられる
    この伝承が「西国三十三ヵ所」順礼の起源となったという俗説があるが、確証はない
 (注6)三十三所の順礼:西国三十三ヵ所の順礼のこと
    第1番札所「紀伊国 那智山青岸渡寺」~第33番札所「美濃国谷汲山華厳寺」に終わる
 (注7)大慈大悲の像:「大慈大悲」=広大無辺の慈悲、特に観世音菩薩の慈悲を言うことが多い
    観世音菩薩の像
 (注8)那智:第1番札所「紀伊国 那智山青岸渡寺」
 (注9)谷汲:第33番札所「美濃国谷汲山華厳寺」
 (注10)殊勝の土地:神聖で厳かな気持ちになる様な土地

【山中】
《原文》
 温泉(いでゆ)に浴す。其功(=効)有明(注1)に次(つぐ)と云(いふ)。

  山中(注2)や菊はたおらぬ湯の匂

[05]山中温泉 山中座 菊之湯 の前にて中嶋君と20050424
 05_20050424

 あるじとする物は、久米之助(注3)とて、いまだ小童(せうどう)也(なり)。
 かれが父俳諧を好み、洛(らく)の貞室(ていしつ(注4)、若輩のむかし、爰(ここ)に来りし比(ころ)、風雅に辱しめられて、洛に帰て貞徳(ていとく)(注5)の門人となつて世にしらる。
 功名の後、此一村(このいっそん)判詞(はんじ)の料(れう)(注6)を請(うけ)ずと云(いふ)。
 今更(いまさら)むかし語とはなりぬ。

 曾良は腹を病(やみ)て、伊勢の国長島(注7)と云(いふ)所にゆかりあれば、先立(さきだち)て行(ゆく)に、
 
  行(ゆき)ゝてたふれ伏(ふす)とも萩の原  曾良

 と書置(かきおき)たり。
 行(ゆく)ものゝ悲しみ、残るものゝうらみ、隻鳧(せきふ)(注8)のわかれて雲にまよふがごとし。
 予も又、

  今日(けふ)よりや書付(かきつけ)消さん笠の露

《現代語訳》
 温泉に浴した。この温泉の効用は有馬温泉(注1)に次ぐ程だという。

 【意】山中温泉(注2)は素晴らしい
    湧き出る湯の匂いは、あの菊慈童の伝説の菊を手折る必要もない立ち込めている
    十分に長寿の効き目がありそうだヨ

  季語「菊」で秋九月
 【解説】「山中や」は、山中温泉を讃える言葉
    「たおら」は「たをら」が正しく、「たをる(=手で折る)」の未然形
    この句は、中国の故事(注)を踏まえている
    我国でも、『太平記』巻十三「龍馬進奏事(りうめ しんそうのこと)」、謡曲『菊慈童』で知られる
    (注)周の穆王(ぼくおう)の寵童 慈童が、罪に拠りテツ(麗+おおざと)県という深山に流された
     が、其地で菊の下露を吸い、800年(←謡曲では700年)の長寿を保ったという故事
    又、謡曲『菊慈童』は、菊の露の力で700年の長寿を保つ童を、魏の文帝(曹丕)の勅命で探索しに行く話
    「菊の香も馥郁((ふくいく)=良い香の漂う様)と漂っているが、延命の花「菊」を手折る必要もない程、山中温泉の効能は凄い」と讃えている
    即ちこの句は、芭蕉が山中温泉滞在の記念に懐紙に認(したた)めたもの
    時は正に「菊」の時節で、謡曲『菊慈童』の故事を引用し、温泉の効用を讃え、「菊の香」と「湯の匂い」を対比させた芭蕉の久米之助への挨拶吟である

 宿の主人は久米之助(注3)といって、いまだ少年である。
 その父は俳諧を好み、京都の安原貞室(注4)がまだ若輩であった昔、此処に来た頃、俳諧の席で久米之助の父から恥(はずかしめ)を受けたことがあり、京都に帰って松永貞徳(注5)の門人になって励み、世間に知られる立派な俳諧師となった。
 そういう訳で、功成り名遂げた後も、貞室はこの山中の地の人々からは俳諧の添削料(注6)を受けなかったという。
 この話ももう昔話になって仕舞った。

 曾良は腹を患い、伊勢の長島(注7)という所に親戚縁者がいるので、其処を頼り一足先に行くことになり、その際に

 【意】自分は師翁に別れ先立って行くが、病身なので歩いた末に行き倒れになるかもしれない
    でもいい、後悔しない
    それが、今が盛りの萩の原であったなら本望である

  季語「萩」で秋七月
 【解説】この曽良の句の〔初案〕は「跡あらむたふれ臥(ふす)とも花野原」→〔再案〕「いづくにかたふれ伏(ふす)共萩の原」
     この〔再案〕に芭蕉の推敲が加わったものと思われる

 という句を書き置いて行った。
 先立って行く者の悲しみ、残る者の無念さ、それは恰も二羽で一緒に飛んでいた鳧(けり)が離れ離れになって(注8)、雲の間に迷う様なものである。
 其処で私も又、

 【意】今日からは、私も一人旅を続けることになる
    これ迄笠に書き付けて来た「乾坤無住、同行二人」の文字を笠にかかる露で消して仕舞おう
    寂しいことだ

  季語「露」で秋七月
 【解説】〔初案〕「さびしげに書付消さんかさの露/はせを」を、『奥の細道』執筆時に改めたものとみられる
    「書付」は、巡礼者が笠に書き付ける「乾坤無住同行二人」の文字
    「同行二人」の書付を「笠の露」で消して仕舞おう、という訳だが、「露」は季語であると共に別離の「涙」の意をも表している

 (注1)有明:曽良本・柿衛本に「有馬」とあり正しくは「有馬」/有馬温泉は兵庫県神戸市北区にある日本三古湯の一つ
 (注2)山中:山中温泉/現・石川県加賀市
 (注3)久米之助:山中の温泉宿「泉屋甚左衛門」の幼名(芭蕉来訪時14歳)
    この時入門、桃夭(とうよう)の俳号を与えられ、宝暦元(1751)年没(享年76歳)
 (注4)洛の貞室:安原貞室(1610-73)/名は正明(まさあきら)/通称:鎰屋(かぎ
や)彦左衛門/寛永02(1625)年 松永貞徳に俳諧を学ぶ/後に二代目貞徳を名乗る
 (注5)貞徳:松永貞徳(1571-1654)/京都の人/俳人・歌人・歌学者/貞門派俳諧の祖
 (注6)判詞の料:「判詞」は、歌・句などの優劣の判定を述べた言葉/「料」は、料金
 (注7)伊勢の国長島:現・三重県桑名郡長島町/当時、松平佐渡守忠充1万石の城下町
 (注8)隻鳧:「隻」は、対になって居る一方
    即ち二羽いた鳧が別れて一羽になった状況を言う/「鳧」」

[06]鳧(けり)
 06

【小生comment】
 「石山の石より白し‥」の「石山」は、果たして「近江石山寺」か「那谷寺」なのか?
 因みに、近江「石山寺」境内にある硅灰石を含んだ結晶質石灰岩の奇岩は、「石山寺硅灰石」として天然記念物に指定されている。
 「硅灰石」は本来「白亜」の輝きがあるという。
 一方、「那谷寺」の奇岩は、石英粗面(そめん)岩質の凝灰岩から成っている「灰白色」である。
 実際、小生は両所共訪れたことがある。
 撮影時年(2005年と2007年&20013年)が異なるので何とも言えない。
 が、添付写真[02]の「那谷寺」の奇岩と、[03][04]の「石山寺」の奇岩をご覧になって如何でしょうか?

 山本健吉氏は、著書「日本の古典に親しむ7~『奥の細道』」【那谷寺】で次の様に述べている。

 寺には石英粗面岩質の凝灰岩からなる灰白色の岩山があり、岩窟に観音を祭っている。
 その白く曝された石拠りも吹き過ぎる秋風は更に白い感じがする、といったのである。
 四季を色に見立てた時、秋に白色(=無色)を配する中国の考え方に基づき、秋風を「色無き風」とも言っている。
 それにこの時、芭蕉が秋風を白いと感じたのは、気持ちの底に長い道中を連れ立ってきた曾良と別れたという悲しみがあって、索漠とした思いを深くしていたのであろう。
 多くの注釈がこの石山を近江の石山ととり、石山寺の石より那谷寺の石が更に白い、という意味にとっているが、そういう比較は詩としてつまらない。

 山本氏の感想は、小生強く共感出来るものがある。
 確かに、芭蕉は大津〔石山・膳所・儀仲寺〕と大変深い縁があるが、この句の「石山」即、「石山寺」というのは穿ち過ぎだと思う。
 此処では、「那谷寺の石山より白い、秋の風」だと解釈した方が自然な様な感じがする。

■続いての話題は、ニ週間近く前の09月05日(土)に私用で名古屋へ行った折、名都美術館にて開催中の名都美術館collection‥日本の原風景~富士をめぐる旅~』展を見て来たのでその模様をお伝えする。

 本展は、「川合玉堂や冨田渓仙らによる情緒溢れる風景画を紹介すると共に、2013年世界文化遺産に登録された富士の姿を横山大観や前田青邨、片岡球子などの優品でご覧頂きます〔本展leafletより引用〕」とある様に、富士山の姿を中心に据えた『日本の原風景』展である。
 日本画の泰斗22人に拠る傑作46選で、その一覧は以下の通りである〔五十音順〕。

[07]本展leaflet
 07leaflet

 (01)上村敦之『春禽』1990年代
[08](02)上村松園『わか葉』1940年
 081940

 (03)同『花の旅』大正初期
 (04)奥田元宋『月山の湖』1977年
 (05)奥村土牛『夏富士』1963年
 (06)小山硬『駿河富士』1993年頃
[09](07)片岡球子『めでたき富士』
 09

 (08)同『富士』
[10](09)堅山南風『富士玲瓏』
 10

 (10)鏑木清方『春雨』/(11)同『雪見舟』/(12)同『初茸』
 (13)川合玉堂『鮎釣』/(14)同『鵜飼』/(15)『梅咲く渓村』
[11](16)川合玉堂『橋畔雪後』1955年
 111955

 (17)同『秋山雨之』/(18)同『水聲鳥語』

[12](19)児玉希望『海中清泉』
 12

 (20)酒井三良『湖畔の雪』/(21)同『水郷閑日』
 (22)嶋谷自然『雪山(原題:雪の阿曽)』1980年
[13](23)田渕俊夫『京洛心象/淡雪』1997年
 131997

 (24)同『大和秋景』1980年/(25)『越中冬景』1980年
 (26)冨田渓仙『月下紅白梅』/(27)同『月瀬梅渓図』
 (28)仲村 進『雪山』
 (29)東山魁夷『秋映』1957-62年/(30)同『潮風』1976年
[14](31)平山郁夫『永平寺の森』1972年
 141972
 
[15](32)堀文子『萩』2012年
 152012

[16](33)同『檜扇水仙』2013年
 162013

[17](34)同『どうだんつつじと雪の下』2014年
 172014

[18](35)同『紫陽花』2014年
 182014_2

[19](36)前田青邨『紅白倍』1972年頃
 191972

[20](37)同『富士』1964年頃
 201964

[21](38)牧進『朝涼』1982年
 211982

 (39)同『朝靄』1985年/(40)同『秋草』/(41)同『水温む』/(42)同『八ツ橋』
 (43)横山大観『天長地久』1940年
[22](44)横山大観『正気放光』1942年
 221942

 (45)同『霊峰富士』1952年
 (46)横山操『朱富士』1965年頃

【小生comment】
 添付写真の絵は、本展leafletを除いて全15枚。
 如何です? 何れも postcardですが、素晴らしい傑作ばかりですね。
 上記以外でも、素晴らしい作品ばかりでした。
 日本画は洋画と違った美しさがあり、とても魅力的ですね。
 本展は、名都美術館の所蔵作品点ですが、いずれも品格ある粒揃いであり、至福のひとときを過ごすことが出来た。
 皆さんも、是非一度本展に足を運ばれることをお薦めします。

■今日最後の話題は、前《会報》の続編に当たる、ハンナ・アーレント著『全体主義の起源Ⅱ/帝国主義』についてである。
 本書は、以下の構成になっている。

[23]ハンナ・アーレント著『全体主義の起源/Ⅱ帝国主義』
 23

[24]ハンナ・アーレント
 24

※ 緒言〔1968年の英語分冊版より/ハンナ・アーレント(1967年07月)〕
第一章/ブルジョアジー(bourgeoisie)の政治的解放
 1.膨張と国民国家
 2.Bourgeoisieの政治的世界観
 3.資本とモッブ(mob)の同盟
第二章/帝国主義時代以前における人種思想の発展
 1.貴族の「人種」対 市民の「ネイション(Nation)」
 2.国民解放の代替物としての種族的(フェルキッシュ)一体感
 3.ゴノビー
 4.「イギリス人の権利」と人権との抗争
第三章/人種と官僚制
 1.暗黒大陸の幻影世界
 2.黄金と血
 3.帝国主義的伝説と帝国主義的性格
第四章/大陸帝国主義と汎民族運動
 1.種族的(フェルキッシュ)Nationalism
 2.官僚制――専制の遺産
 3.政党と運動
第五章/国民国家の没落と人権の終焉
 1.少数民族と無国籍の人々
 2.人種のアポリア

 本書は、ハンナ・アーレントの代表作『全体主義の起源』三部作〔Ⅰ反ユダヤ主義/Ⅱ帝国主義/Ⅲ全体主義〕の第ニ作。

 本書は、「全体主義の起源Ⅰ/反ユダヤ主義」の続編。

 「反ユダヤ主義」の萌芽→伸張と保護時を同じくた19世紀末から今世紀初頭にかけて「帝国主義」が台頭した。
 アーレントは、当該「帝国主義」体制の下で、『人種主義』が擡頭した経緯を詳しく論じている。
 彼女の主張している処を纏めると‥

 「帝国主義」が拡大したのは、欧州資本主義諸国の工業化が自国の国境ぎりぎり迄拡大し、国境がそれ以上の膨張の障害となるばかりか、工業化課程全体にとって最も深刻な驚異となり得ることが明らかになった時だった。
 経済自体に強いられて bourgeoisie は政治化した。
 工業生産の不断の成長に立脚する資本主義制度を存続させる為には、経済に必要な膨張を「国民国家」の対外政策の基本とさせるほかなかったのである。
 「大企業と超国家組織との精神が政治を捉えて仕舞った〔フリードリッヒ・ナウマン〕」(P.7「第一章/bourgeoisieの政治的解放~1.膨張と国民国家」より)
 「帝国主義」が、国境を越えた膨張主義、換言すれば「反国民国家」的動機を有していたこと、これが『人種主義』に於いても、その起源に於いて『反国民国家』的であったと言う論点に注目したい。
 19世紀末から第一次世界大戦にかけて成長した「帝国主義」一方、「国民国家」の衰退は不可避なものとなっていった。
 それは、第一次世界大戦終結後のヴェルサイユ条約で明らかになった。
 それは、西欧の「国民国家」は全欧州に拡大し得ないものであるということであった。
 つまり、欧州は150年以上にも亘って、全人口の殆ど四分の一については適用不可能な国家形態の中で生きて来た訳である。
 「国民国家」の原理の全欧州での実現は、「国民国家」の信用を更に落とすという結果を齎したに過ぎなかった。
 (P.244「第五章/国民国家の没落と人権の終焉」)

 そして、「国民国家」の衰退は、当該「国民国家」内の少数他民族への人権抑圧へと進んでいく。
 これが同時期、国家を持たないユダヤ人への「反ユダヤ主義」へと繋がっていく。

【後記】明日からの silver weak 皆さんはどの様に過ごされる予定ですか?
 小生は、今晩いっても今晩の深夜01時00分出発の話ですが、一年前から宿を予約してあった『四国の国宝4天主閣と3美術館他を巡る旅』に行って来ます。
 その模様は、次回《会報》から順次ご報告する予定でいますのでお楽しみに!

 では、また‥。(了)

2015年9月13日 (日)

【時習26回3-7の会0565】~「『奥の細道』第16回‥【小松】」「08月30日:葛飾『柴又帝釈天』→自由が丘『世田谷美術館分館/宮本三郎記念美術館「写真との対話」展』を巡り見て」「09月02日:古川美術館『四季暦~白秋の章』展を見て」「09月03日:愛知県芸術劇場大hall『メルビッシュ湖上音楽祭日本公演/J. StraussⅡ「こうもり(全3幕)」』を見て」「ハンナ・アーレント著『全体主義の起源Ⅰ【反ユダヤ主義】』を読んで」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 さぁ、今日も【2637の会 0565】号をお送りします。

■さて今日最初の話題は、「松尾芭蕉『奥の細道』の第16回目である。
 前《会報》【0564】でお届けした【金澤】は七月十五日(新暦08月29日)→七月ニ十四日(新暦09月07)朝出立迄お届けした。
 今回お届けする【小松】は、七月ニ十四~六日(新暦09月07~09日)「近江屋」に3泊した処である。
 その後【小松】には、八月五~六日(新暦09月18~19日)に戻って来ている。
 その間の七月二十七日~八月四日(新暦09月10~17日)迄の8日間は、【那谷寺】と温泉地【山中】を巡って来ている。

 ※ ※ ※ ※ ※

【小松】
《原文》
 小松(注1)と云(いふ)所にて

  しほらしき(注2)名や小松吹(ふく)萩すゝき

 此(この)所、太田(ただ)の神社(注3)に詣(まうづ)。
 実盛(さねもり)(注4)が甲(かぶと)・錦の切(きれ)(注5)あり。
 往(その)昔(かみ)、源氏に属(ぞく・しょく)せし時、義朝公(注6)より給はらせ給(たまふ)とかや。
 げにも(注7)平士(ひらざぶらひ)(注8)のものにあらず。
 目庇(まびさし)(注9)より吹返(ふきがえ)(注10)しまで、菊から草(注11)のほりもの金(こがね)をちりばめ(注12)、竜頭(たつがしら)(注13)に鍬形(くわがた)(注14)打(うつ)たり(注15)。
 真盛討死の後、木曾義仲(注16)願状(がんじょう)(注17)にそへて、此(この)社(やしろ)にこめられ侍(はべる)よし(注18)、樋口の次郎(注19)が使(つかひ)せし事共(ことども)、まのあたり(注20)縁起(注21)にみえたり。

  むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす(注22)

《現代語訳》
 【意】「小松」という可愛らしい名前のこの地に、萩やススキをゆらして秋の風が吹いている

  季語「萩すゝき」で秋

 小松の地にある多太神社に参詣した。
 此処には斉藤別当実盛の兜と錦の鎧(よろい)直垂(ひたたれ)の切れ端があるのだ。
 その昔、実盛がまだ源氏に属していた時、源義朝公から下賜なされたものだという。
 成程、普通の武士が着用するものではない。
 目庇から吹返しまで菊唐草の模様を彫り、其処に金を散りばめ、鉢には龍頭を飾り鍬形が打ってある。
 実盛が討ち死にした後、木曽義仲が戦勝祈願の願状に添えてこの社に奉納した次第や、樋口次郎兼光がその使いをしたこと等、当時のことが恰も眼前に浮かぶ様に神社の縁起に書かれている。

 【意】痛ましいことだナ
    白髪染めの頭に被って奮戦して散った実盛の兜を見ると往時が偲ばれる
    今はその兜の下には実盛の化身だと言われている蟋蟀(コオロギ)が寂しげに鳴き秋の哀れを誘っている

  季語「きりぎりす」で秋七月
 【解説】「むざん」=痛ましいこと/「や」「な」はいずれも詠嘆の終助詞
  「むざんやな」は、謡曲『実盛』の一節「樋口まいり、唯(ただ)一目(ひとめ)みて、涙はらゝとながいて、【あなむざんやな】、斎藤別当にて候けるぞや」拠り、芭蕉はこの句にその儘借用した
  但し、初案は「あなむざんや(な)甲(かぶと)の下のきりゞす」を推敲して「あな」を削った

 (注1)小松:石川県小松市
    奥細道菅菰抄「小松は、金澤より八里、むかし小松中納言君の在居の地にして、
    今も金澤の出城あり、繁花な所にて、絹を織出す/加賀絹と云て、世人名産とす」
 (注2)しほらしき:可愛らしい
 (注3)太田(ただ):現石川県小松市上本折町。多太八幡宮神社。衝桙等乎而留比古命(つきほことおてるひこのみこと)を祭る
 (注4)実盛(さねもり):斉藤別当実盛(1111-83)/初め源義朝に仕える/平治の乱にて義朝が討死後、平宗盛に仕える
    源平合戦では平維盛に従う/北陸で木曽義仲軍と戦い「篠原の合戦」にて手塚太郎光盛に討たれた/享年73歳という
    其時実盛は、高齢を隠す為、白髪を黒く染めていた/平家物語「実盛」や、謡曲「実盛」で知られる
    木曾義仲は、2歳の時、父義賢(よしかた)が討たれた
    その時、実盛の許に世話になり木曽に送られた恩を偲び、討ち死にした実盛を手厚く回向をした伝えられる
 (注5)錦の切(きれ):「錦」は五色の糸で様々な模様を織り出した、厚く美しい織物
    此処では、錦の鎧直垂(よろいひたたれ)のこと/大将が鎧の下に着る衣装/「切」は、その切れ端のこと
   「この錦の切」については、『平家物語〔巻七〕』と『源平盛衰記〔巻三十〕』に次の様に記されているが、その内容が若干違う
   『平家物語』:実盛が平宗盛の所へ「最後の暇申(いとままを)し」に参った時、
    実盛「故郷へは錦を著(き)て帰れといふ事の候/錦の直垂御許し候へ」と頼んだ処、
    宗盛「やさしうも申したる者哉(かな)」とて、錦の直垂御免(ゆるし)ありけるとぞ聞(きこ)えし
    ‥〔と、宗盛が「錦の切」の着用を許可した〕
   『源平盛衰記』:「内大臣のわが料(れう)とて秘蔵せられたりけるを、取り出(いだ)して下し給へり」
    ‥〔と、宗盛が「錦の切れ」を下賜した〕
 (注6)義朝公:源義朝(1123-1160)/為義(1096-1156)の長男
    頼朝(1147-99)や義経(1159-89)の父/尾張国野間にて長田荘司忠致に謀殺された
 (注7)げにも:前文の「‥とかや」を受け、「本当に、成程‥」の意
 (注8)平士(ひらざぶらひ):「大将」ではないが、「雑兵」より上格の普通の身分の武士をいう
 (注9)目庇(まびさし):兜の鉢の前方から庇の様に出て、深く額を覆う武具/「眉庇」とも書く
 (注10)吹返(ふきかえし):兜の眼庇の左右に耳の様に出て、後方に反り返っている部分
 (注11)菊から草:「唐草」とは、絵・織物・彫刻等の模様で、蔓(つる)草が巻き乍ら伸びる形を表したもの
    菊の花や葉を唐草の様に図案化した模様のこと
 (注12)ちりばめ:「ちりばむ」は、刻みをつける・彫って金銀珠玉等を嵌め込む
 (注13)竜頭(たつがしら):兜の前面中央の前立物(装飾の金具)で龍の形をしたもの
 (注14)鍬形(くわがた):兜の前面左右に、慈姑(くわい)の葉を側面から見た様な形で、二本出ている飾り金具
 (注15)打(うつ)たり:「打つ」は、打ちつける・掲げるの意
 (注16)木曾義仲:源義仲/源義賢(よしかた(1126?-55))の次男/父 義賢は源為義の次男で、義朝の異母弟
    2歳の時に父 義賢が兄義朝の長男の源義平(よしひら(1140-60))に討たれる
    乳母の夫、中原兼遠(なかはらかねとお)を頼り信濃国へ赴き、同国・木曾の山中で成長した為「木曾義仲」と呼ばれる
    寿永02(1182)年、平維盛軍を倶利伽羅峠に夜襲して破り、平家を西海へ走らせ、自らは入京
    寿永03年征夷大将軍就任し朝日将軍と称したが、同年源範頼・義経軍に破れ、近江国粟津にて戦死(享年31歳)
    頼朝・義経等に先駆けて反平家の旗を上げるが京都粟田口にて討たれる/平家物語『木曽最期』に詳しい
    芭蕉は木曾義仲への思い入れが強く、義仲と同じ大津膳所の義仲寺に芭蕉の墓もある
    2015年05月01日付
    http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/26_0086mail_36a4.html ←【2617の会 0086】ご参照

[01]義仲寺 入口にて中嶋君【3-2】と20070430
 0120070430_2

 (注17)願状:神仏に誓約して願を立てる時、祈願の趣旨を記した文/此処では「戦勝祈願」
 (注18)こめられ侍(はべる)よし:「こむ」=収める/「侍る」=芭蕉が多用する雅語的表現/「よし」=趣旨
 (注19)樋口の次郎(?-1184):木曾義仲の愛妾「巴御前」の兄/木曾四天王と呼ばれた家臣の一人/斎藤別当実盛の首実検をした
 (注20)まのあたり:眼前に(見ている様に)/まざまざと
 (注21)縁起:社寺等の由来・歴史又は霊験等の伝説、又はそれが書いてある文書
 (注22)きりぎりす:蟋蟀(コオロギ=ツヅレサセコオロギ)/江戸時代に現在のコオロギとキリギリスの名称が入れ替わった

[02]ツヅレサセコオロギ
 02

【小生comment】
 『平家物語』『源平盛衰記』や、謡曲『実盛』に出て来る、木曾義仲関連の史実として大変有名な場面である。
 芭蕉も、齢73歳という当時としてはかなり高齢の武者「実盛」の壮烈な最後を偲んで詠んでいる。
 七月二十七日(新暦09月10日)「あなむざんや 甲の下のきりゝす」の形で多田神社に奉納している。
 「むざんやな」という『言葉』
 「古びたる兜」という『視覚』
 「きりゝす〔=蟋蟀〕の「リリり‥」という寂しげな鳴き声」=『聴覚』
 という三面から「実盛の最期」を、この句を詠む者にこの十七文字が強く訴えかけて来る
 山本健吉が、「こういう句を見ると、芭蕉の句の発想の厚みを、ことによく感じ取ることができる」と述べている。
 正に正鵠を射(=得)た指摘であると思う。

■続いての話題は、一週間前の08月29日(土)~30日(日)の両日、上京して来た模様の後半〔=二日目/30日〕の模様についてである。

 08時05分 Hotelマイステイズ亀戸 発
[03]Hotelマイステイズ亀戸
 03hotel

 06時21分 JR亀戸 発→〔総武線〕
[04]JR亀戸駅
 04jr

 08時29分 JR小岩 着→〔徒歩02分〕
 08時33分 京成小岩(Bus停)発→〔京成bus〕
 08時47分 柴又帝釈天(Bus停)着→〔徒歩03分〕
[05]帝釈天参道 入口
 05

[06]とらや
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[07]とらや店先に掲示されていた此処が寅さんロケ地である旨の案内
 07

[08]開店後の「とらや」
 08

 「とらや」は、明治20年「柴又屋」として創業
 昭和44年、第1作「男はつらいよ」の映画に使用され、第4作目迄「寅さん」の実家として撮影が行われた。平成元年、残念乍ら老朽化の為現在の建物に建て替えられた〔以上、「柴又帝釈天前 とらや 柴又散策マップ」より引用〕

【柴又帝釈天】
 08時50分 柴又帝釈天 着
 当院は、寛永06(1629)年、禅那院日忠及び題経院日栄という2名の僧によって開創された日蓮宗寺院
 正式名称は「経栄(きょうえい)山 題経(だいきょう)寺」という
[09]柴又帝釈天 仁王門
 09

[10]柴又帝釈天 仁王門から帝釈堂を望む
 10

[11]帝釈堂を支える龍頭の肘木
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 帝釈天の「仁王門」を潜り抜けたら、気持ちはすっかり「男はつらいよ」の世界だ‥
 御前様の「おい、コラッ寅!」という声が聞こえて来る様な‥

 09時40分 帝釈天参道を出て、京成柴又駅を目指して歩く
      『柴又帝釈天~京成柴又駅 周辺のmap掲示板』や『寅さんふるさと名言集』が目に入ると、映画「男はつらいよ」の virtual real な世界が、「ふっ」と頭の中に浮かんで来た
[12]柴又帝釈天~京成柴又駅 周辺 map
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[13]柴又帝釈天参道から京成柴又駅への途上にあった『寅さんふるさと名言集』〔第11作 寅次郎忘れな草〕
 1311

 09時50分 京成柴又駅 着 →寅さんの銅像
[14]京成柴又駅と駅前広場に龍『寅さん》像
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[15]京成柴又駅前に立つ『寅さん』銅像
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[16]京成柴又駅 正面
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 09時54分 京成柴又 発→〔京成金町線〕
 10時01分 京成高砂 発→〔京成本線〕
 10時13分 押上 発→〔半蔵門線〕
 10時50分 渋谷 発→〔東急東横線〕
 10時01分 自由が丘 着→〔徒歩〕
 11時29分 世田谷美術館分館 宮本三郎記念美術館 着

【世田谷美術館分館 宮本三郎記念美術館】
 当美術館は、1998年、世田谷区は洋画家・宮本三郎(1905-75)の遺族より、油彩、水彩・素描合わせて4千点近くの膨大な作品群、1万冊を超える旧蔵書をはじめとする資料、居住していた土地の寄贈を受けた/又当美術館は、宮本三郎が1935年から1974年に亡くなる迄制作拠点とした、その世田谷区奥沢の地に、世田谷区が新たに建設し、2004年4月に開館した美術館である(宮本三郎記念美術館Homepage拠り引用)
 訪れた時は、『宮本三郎/写真家との対話』展という企画展が開催されていた。
 宮本三郎の略歴は以下の通り
《略歴》
1905年 05月23日 石川県能美郡末佐美村(現・小松市)に生まれた
1922年 上京/川端画学校洋画部に通う/藤島武二に師事
1927年 『白き壺の花』二科展に初入選
1936年 二科会会員に推挙
1938年 渡欧/翌年第二次世界大戦の勃発に拠り帰国
1940年 陸軍省嘱託/小磯良平等と中国へ従軍
1943年 『山下、パーシバル両司令官会見図』で帝国美術院賞受賞
1946年 金沢美術工芸専門学校講師就任
1947年 熊谷守一、栗原信、黒田重太郎等と「第二紀会」結成
1955年 東京教育大学非常勤講師就任
1966年 芸術院会員就任
1971年 金沢美術工芸大学名誉教授就任
1974年 死去

 以下に、宮本三郎の作品から本展の展示作品をお示ししたい
 
[17]世田谷美術館分館 宮本三郎記念美術館 外観
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[18]世田谷美術館分館 宮本三郎記念美術館 入口の企画展poster
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[19]本展leaflet
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[20]宮本三郎『トレドの道』1952-53年
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[21]同『演奏者』1956年
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[22]同『乳牛』1958年
 221958

【小生comment】
 宮本三郎は、戦争画の中でも最も有名な絵として知られる『山下、パーシバル両司令官会見図』の作者である。
 山下奉文(ともゆき(1885-1946))大将の自信に満ちた表情が強く印象に残る作品で、小生、作者の名は知らなかったが、この絵自体は小学生の頃から知っていた。
 前からの、当美術館は一度訪ねて見たかったので、実現出来たことを嬉しく思っている。

■続いては、09月02日、名古屋へ仕事で出張した帰りに池下にある古川美術館にて開催中であった企画展『四季暦~白秋の章』を見て来た。
 其処で、今回はその展示作品の中からpost cardで販売されていた3点をご紹介する。

[23]本展leaflet
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[24]竹内栖鳳『秋雨』1912年
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[25]上村松園『初秋』1943年頃
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[.26]上村松篁『野月』
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【小生comment】
 京都画壇の第一人者で、日本画家として横山大観と共に第1回文化勲章を受章した竹内栖鳳の作品はいずれも気品がある。
 彼の弟子で、女流画家で最初に文化勲章を受章した上村松園の美人画は、いつみても飛び抜けた気品と美しさを漂わせている。
 そして彼女の息子で、親子二代に亘って文化勲章受章者となった上村松篁の花鳥風月画も品格があって良い。
 名画って、何の解説も要らない。ただ見ているだけで、見ている者を感動と癒しの世界に誘(いざな)ってくれる。

■続いては、09月03日、愛知県芸術劇場大hallで開催された『メルビッシュ湖上音楽祭日本公演/J. StraussⅡ(1825-99)「こうもり(全3幕)」』についてである。
『メルビッシュ湖上音楽祭(Seefestspiele Morbisch)』は、Austriaの東、Hungaryとの国境に位置するノイジードル(Hungary語でフェルテ―)湖で毎夏開催される野外operetta festivalである。
 1957年にJ. StraussⅡ『ジプシー男爵』が演奏されたのが始まり。
 毎夏、約1ヵ月間同演目を上演し、Austria、Hungaryをはじめ、欧州全土、米国、Asiaから20万人以上の観客を集める世界最大の野外operetta festivalになった。
 今回の日本公演は、60年近く続く「メルビッシュ湖上音楽祭」の歴史の中で、初めての『引越し公演』である。

[27]本演奏会leaflet
 27leaflet

[28]本演奏会program
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【小生comment】
 今回の公演は、演技も巧く、歌唱力も良かった。
 18時半の開演、第1幕と第2幕の幕間に20分間の休憩を挟み、第3幕の終演を迎えたのは09時20分であった。
 J. StraussⅡ作曲の『こうもり』の中に、男女4組のBallet dancersの演技に拠る同じくJ. StraussⅡ作曲の『美しく青きドナウ』も良かった。
 Operettaと言えば、このJ. StraussⅡ『こうもり』と、Franz Lehar(1870-1948)『メリー・ウィドウ』の2曲が人気operettaの双壁と言われる位、抜群の人気を誇っている。
 今回の公演は、日頃のstress発散・気分転換には持って来いの演奏会であった。

■今日最後の話題は、ハンナ・アーレント著『全体主義の起源Ⅰ/反ユダヤ主義』についてである。
 本書は、以下の構成になっている。

※ 緒言〔1968年の英語分冊版より/ハンナ・アーレント(1967年07月)〕
※ 序文/カール・ヤスパース〔ドイツ語版より(1955年)
※ まえがき〔ドイツ語版より(1955年)〕
第一章/反ユダヤ主義と常識
第二章/ユダヤ人と国民国家
 1.解放の曖昧さとユダヤ人の御用銀行家
 2.プロイセンの反ユダヤ主義からドイツにおける最初の反ユダヤ主義政党まで
 3.左翼の反ユダヤ主義
 4.黄金の安定期
第三章/ユダヤ人と社会
 1.例外ユダヤ人
 2.ベンジャミン・ディズレイリの政治的生涯
 3.フォブール・サン=ジェルマン
第四章/ドレフュス事件
 1.ユダヤ人と第三帝国
 2.軍・聖職者 対 共和国
 3.民衆とモッブ
 4.大いなる和解

 本書は、ハンナ・アーレントの代表作『全体主義の起源』三部作〔Ⅰ反ユダヤ主義/Ⅱ帝国主義/Ⅲ全体主義〕の第一作。
 ナチス・ドイツに代表される『全体主義』が「歴史的必然」として、どの様な経緯で現れたのかを、19世紀の欧州に於ける「反ユダヤ主義」に焦点を当てて論じたのが本作である。
 アーレント自身の言葉を借りて言えば、「この本は宮廷ユダヤ人からドレフュス事件に至る迄の中欧に於けるユダヤ人の歴史を、それが反ユダヤ主義の誕生と関連し、又反ユダヤ主義の影響を受けた範囲内に於いて分析(「緒言」1967年07月‥P.x(=10))」している。

 『反ユダヤ主義』が、近世以降顕在化したのは、「フランス革命」であると、アーレントは指摘する。以下、「第一章/反ユダヤ主義と常識」拠り引用する。

 国民国家の没落と反ユダヤ主義運動の伸張が時を同じくするという事実を、一つだけの原因に帰することは難しい。
 この様な同時現象は常に複雑なものであって、こうした現象に対した場合歴史家はいつも、どの様な要素を〈原因〉として取出し、時代のどの様な特徴に〈時代精神(ツァイトガイスト)〉を見ようとするかは自分の自由に任されているといった状況に陥って仕舞う。
 〔中略〕此処で我々役に立ちそうなその様な経験の一つは、(アレクシ・ド・)トクヴィル(Tocqueville(1805-59))がFranceで大革命の初めに突然堰を切った貴族階級に対する一般の憎悪の理由と動機とを探った時に行ったあの大きな発見である(『アンシャン・レジウムと革命/第2巻第1章』)。〔中略〕トクヴィルの説明はこうである。
 France貴族階級の権力喪失は資力の減少を伴わなかった。その為民衆は権力を持たぬ過大な富と支配機能を持たない決定的な社会的特典とに突然対面したのである。民衆の憤激を掻き立てたものは、全く文字通りの意味で余計である余計であった。処が権力というものは決して余計ではあり得ない。何故なら、厳密に考えれば権力というものは一人の人物の所有になるものではなく、他の人々との関係に於いてある以上、人間間(かん)にのみ存在するものだからである。〔中略〕抑圧の下にあっても尚被支配者は、権力が共同社会の中で或る機能を持っていることを感じている。だからこそ貴族階級は司法の権力を専有している限り、専横な振舞をしその権力を濫用する場合でも許容されるばかりか尊敬されたのである。貴族階級が絶対君主制の下に於けるその特権を失い、それと共に搾取し抑圧する特権をも失った時初めて、民衆はこの階級を寄生的なものと感じたのだ。貴族階級はもはや何の役にも立たず、支配することなどは全然出来なかった。換言すれば、堪え難く感じられたのは抑圧そのもの、搾取そのものではまずなかった。それより遥かに人々の怒りを唆(そそ)るのは、明確な機能を全く持たない「富」だった。〔中略〕
 この原則の事例としては反ユダヤ主義に優るものはまずあるまい。反ユダヤ主義は、ユダヤ人が社会生活の中でのその機能とその影響力を失い、「富」の他にはもはや何ものも所有しなかった時にその絶頂に達したのである。

 以下、本書の要点を纏めてみると‥
 ユダヤ人は、「離散(Diaspora)」に拠り、欧州各国に分散したが、キリスト教が禁止した金融業で「富」を形成した。
 ロスチャイルド家に象徴される様なユダヤ人大富豪達である。
 大富豪となったユダヤ人は、絶対王政の下で、国王と蜜月関係を構築して来た。
 ゾンバルト『恋愛と贅沢と資本主義』でも指摘していたが、「富」を蓄積したユダヤ人は、娘を貴族に嫁がせ、貴族の姻戚となっていった。
 しかし、France革命以降、国民国家が成立すると、貴族階級の没落と共に、権力を持たず「富」だけ有するユダヤ人に国民国家の大衆はユダヤ人への嫌悪感を顕(あらわ)にする。
 その表象的な事件が18世紀末にFranceで起きたドレフュス事件である。
 身分制度が崩壊して、国民がみな平等となると、差別の対象は人種問題になる。
 米国の黒人問題、ユダヤ人問題がその典型と言える。
 さて、「全体主義の起源」の第2弾は「Ⅱ帝国主義」である。
 次回《会報》でお届けしたいと考えている。次号をお楽しみに!(^-')b♪

[29]ハンナ・アーレント著『全体主義の起源Ⅰ/反ユダヤ主義』
 29

[30]ハンナ・アーレント
 30

【後記】台風18号は愛知県知多半島に上陸後、先週半ばに本州の縦断した後も東日本に大雨に拠る大きな災害を齎した。
 皆さんのお宅は大丈夫でしたか?
 幸い当地豊橋は、09月10日は台風一過の、久し振りの好天でした。
 日暮れ近く、会社からの東進しての帰り道に、西陽が背中に当たったので西の空を振り返った。
 すると、明るい青色の空が、西の空から徐々にgradationの様に茜色に染まりつつあった。
 その西の空に真っ白な入道雲が、青と茜色の空を背景にくっきりと浮かび筆舌に尽くし難い美しさだった。
 ‥と、若山牧水の名歌が浮かんだ

 白鳥(しらとり)は かなしからずや 空の青 海のあをにも染まずただよふ  若山牧水

 すると、ふっと virtual real な拙歌が続いて浮かんだ

 茜さす 愛しき君を 想ひ出す 嵐の後の 夕焼けの空  悟空

 では、また‥。(了)

2015年9月 6日 (日)

【時習26回3-7の会0564】~「『奥の細道』第15回‥【金澤】」「08月29日:東京・押上『東京スカイツリ―』→浅草『浅草寺』を巡って」「同左:国立西洋美術館『ボルドー』展&『常設』展を見て」「同左:サントリー美術館『〔藤田美術館の至宝〕国宝 曜変天目茶碗 と日本の美』展を見て」「同左:『東京ふろう会/暑気払い』に参加して」「同左:六本木ヒルズ『東京City View』を訪れて」「ハンナ・アーレント著『アウグスティヌスの愛の概念』を読んで」

■皆さん、今日は当地豊橋は生憎の雨天ですが、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 さぁ、今日も【2637の会 0564】号をお送りします。

■さて今日最初の話題は、「松尾芭蕉『奥の細道』の第15回目である。
 前《会報》【0563】でお届けした【市振(一振)】→【那古(の浦)(=有磯海)】が元禄02(1689)年七月十二日(新暦08月26日)→七月十五日(新暦08月29)朝「高岡」出立迄の処であった。
 今日お届けするのが、その次の行程で、「高岡」を出立した七月十五日に【金澤】である。
 【金澤】の本文冒頭に「(‥前略‥)金澤(かなざは)は七月中の五日也(なり)」と日付を明記している。
 芭蕉と曽良は、その「金澤」に七月二十四日(新暦09月07日)の朝迄なんと九泊もしている。
 居心地が良かったことは確かだが、可愛がっていた愛弟子「一笑」が前年に死んだことを知らずに再会を楽しみに訪れた芭蕉‥。
 一笑の兄の計らいで、追悼の句会を催したり、一笑の墓参りをしたり、この九日間は芭蕉にとってあっという間だったことだろう。

 ※ ※ ※ ※ ※

【金澤】
《原文》
 卯の花山(注1)・くりからが谷(注2)をこえて、金沢(注3)は七月中(なか)の五日(注4)也(なり)。
 爰(ここ)に大坂(おおざか)よりかよふ商人何處(かしょ)(注5)と云(いふ)者有(あり)。
 それが旅宿(りょしゅく)をともにす。
 一笑(注6)と云(いふ)ものは、此道(このみち)にすける名(注7)のほのゞ聞えて(注8)、世に知人(しるひと)(注9)も侍しに(注10)、去年(こぞ)の冬、早世(注11)したりとて、其兄(そのあに)(注12)追善(ついぜん)を催すに、

  塚(つか)も動け我(わが)泣(なく)聲(こゑ)は秋の風

 ある草庵(さうあん)(注13)にいざなはれて

  秋涼し手毎(てごと)にむけや瓜(うり)茄子(なすび)

 途中(とちゅう)唫((=口偏に金)ぎん=吟)

  あかゝ(=あか)と日は難面(つれなく)もあきの風
 
《現代語訳》
 卯の花山(注1)・俱利伽羅(くりから)が谷(注2)を越えて、金沢(注3)に到着したのは七月十五日(注4)であった。
 金沢には大阪から行き来している何処(かしょ)(注5)という商人がいた。
 そして、彼の常宿に同宿することとなった。
 一笑(注6)というものは俳諧の道に熱心であるとの評判(注7)がいつとはなく次第に聞こえて来て(注8)、世間では知る人(注9)もあったのだが(注10)、去年の冬、若死に(注11)したということで、その兄(注12)が追善の句会を催した。
 
 【意】塚(=墓)よ、我が深い哀悼の心に感じて動いてくれ
    一笑の死を悼(いた)む私の慟哭は塚を吹き巡る秋風そのものだ

  季語「秋の風」で秋

 ある草庵(注13)に招かれて

 【意】秋だ、涼しい風が吹いて来る
    さて、このもぎたての瓜や茄子を各自で皮をむいてご馳走になろうか

  季語「秋涼し」で秋七月

 (‥金澤から小松へ向かう‥)道すがら吟じたもの句‥

 【意】もう季節は秋になった筈なのに、まだ残暑厳しく、太陽は容赦なくあかあかと照らしている
    しかし流石に吹いて来る風には秋の涼しさが感じられることだ

  季語「あきの風」で秋

 (注1)卯の花山:「歌枕」
    蓑笠庵梨一『奥細道菅菰抄』に「卯の花山は、くりから山の続きにて、越中礪波郡、となみ山の東に見えたり
    源氏が峰と云あり
    木曾義仲の妾 巴(ともへ)、葵(あおひ)(俗に山吹女と云)二人が塚も、此の辺りに有/卯の花山は名所なり」とある
 (注2)くりからが谷:木曾義仲が牛の角に松明(たいまつ)をつけた「火牛の計」で平家の大軍を敗走させた古戦場
    同じく『奥細道菅菰抄』に「くりからが谷は、くりから山の谷を云
    くりから山は、越中今石動(ゆするぎ)の駅と、加賀竹の橋の宿との境にありて、嶺に俱利迦羅不動の堂あり
    故に山の名とす/今或は栗柄山共書く/平家と木曾義仲の合戦の地
    〔中略〕木曾義仲、大夫房覚明をして、平家追討の願書を書しめ、奉納ありし神社にて、其願書、今に存す」とある
 (注3)金沢:現・石川県金沢市
    芭蕉が訪れた元禄02年は、加賀藩主第5代藩主前田加賀守綱紀(つなのり(1643-1724))102万5千石余の治世
    加賀藩第3代藩主前田利常(1594-1658)→長男第4代光孝(1616-45)→長男第5代綱紀(1643-1724)
    因みに、綱紀の母は、将軍家光養女(=水戸徳川頼房四女)
    綱紀2歳の砌、父 光孝が31歳で亡くなり、幕命に拠り隠居していた利常が後見人となる
    利常の斡旋で保科正之(1611-73)の娘摩須姫(松嶺院)と1658年07月結婚
    同年11月利常没後は、岳父 保科正之の薫陶を受け成長
    芭蕉が金澤を訪れた元禄02(1689)年 藩主綱紀は、将軍綱吉から「御三家に準ずる待遇(注)」を与えられた
    荻生徂徠も綱紀の統治を高く評価している
    曰く「加賀侯非人小屋(御小屋)を設けしを以て、加賀に乞食なし。真に仁政と云ふべし」
    (注)江戸城『伺候席』で、御三家に注ぐ処遇を将軍綱吉拠り賜った
    乃ち、最上位が将軍御三家の「大廊下・上之部屋」、これに次ぐ「大廊下・下之部屋」詰めを賜った
    外様大名では、前田家が一家だけ許された
    (注*)伺候席(しこうせき):江戸城に登城した大名や旗本が、将軍に拝謁する順番を待っていた控えの詰所
    延宝04(1676)年、綱紀が「蓮池亭(れんちてい)」を造営、其の庭「蓮池庭(れんちてい)」が【兼六園】の起源
 (注4)七月十五日:七月十五日(新暦08月29日)のこと
    盂蘭盆会(うらぼんえ)の日/文脈上は、後段の「一笑」追善会の伏線を成す
 (注5)何処(=何處(かしょ)):「大坂人/享保十六庚亥六月十一日卒/光明山念仏寺葬」とある
    以上、遠藤曰人(わつじん)編『蕉門諸生全伝』(1818/1830成)に拠る
 (注6)一笑:小杉氏/通称:茶屋新七/寛文以来貞門(注)俳人として活躍、後に蕉門
    加賀俳壇の有力者だったが元禄元年11月(一節12月)06日没/享年36歳
    「一笑」追善の句が『西の雲』に見え、『猿蓑』『卯辰集』にも発句が入集されている
    (注)貞門(ていもん):松永貞徳(ていとく)(1571-1654)が唱えた俳風/談林・蕉門に対して「古風」
    寛永(1624~44)年間初め~正保・慶安・承応・明暦・万治~寛文((61~73)年間迄が最盛期
    延宝(73~81)以降は「談林」に押され衰微した
 (注7)すける名:「好く」は、風流の道に趣味があるの意/「名」は、評判・うわさ
 (注8)ほのゞ(=ほのぼの)聞(きこ)えて:うすうす、いつとはなく次第に
    「聞ゆ」は、噂に上る、知れ渡る、評判になる
 (注9)知(しる)人:知人、俳諧友達
 (注10)侍りしに:「ありしに」を、芭蕉が拘って雅語的表現をとった
    「に」は逆接の接続助詞
 (注11)去年(こぞ)の冬、早世(さうせい):「去年の冬」は元禄元年の冬
    「早世」は、早く世を去ること
    曽良旅日記「一笑、去十二月六日死去の由」
    『西の雲』水傍蓮子序文「元禄初辰霜月六日、かじけたる沙草の塚に身は先立(ち)て消えぬ」とある
 (注12)其(その)兄:一笑の兄/俳号「ノ松(べつしょう)」
    芭蕉を迎えて「一笑」の追善会(ついぜんえ)を催し、追善周集『西の雲』(元禄04年刊)を編集
 (注13)ある草庵:金澤の俳人、斎藤一泉の末玄庵

【小生comment】
 芭蕉が【金澤】で詠んだ「塚も動け我泣聲は秋の風」「秋涼し手毎にむけや瓜茄子」「あかゝと日は難面もあきの風」を詠むと、【象潟】迄の『奥の細道』前半とガラリ雰囲気が変わっているのを感じる。
 前半は【平泉】「夏草や兵どもが夢のあと」や【立石寺】「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の様に、「歌枕」「名所・旧跡」を対象物にして『歴史絵巻』をbaseに詠んだ歌が中心であった。
 一方、北陸道を金澤に向かう後半は、芭蕉が生きている現在を詠んでいる。
 蕉風の最終型「軽(かろ)み」への境地へ移っていった
 換言すれば「力みのない詠み方」「ごく自然に日常的な言葉使った詠み方」に大きく近づいた俳句になって来ている。
 この『奥の細道』は【大垣】で、「長月六日になれば、伊勢の遷宮拝まんと、また舟に乗りて
 ‥ 蛤のふたみに別れ行く秋ぞ ‥」で終わる。
 実際に、芭蕉がこの『奥の細道』の紀行を終えたのは【伊賀上野】である。
 乃ち、【大垣】→【伊勢長島・長松山 大智院】→【桑名】→【久居・長禅寺】→【伊勢】と経由して【伊賀上野】である。
 恐らく、『奥の細道』の構想を練ったのは、【大垣】に到着した八月二十一日~九月六日【伊勢長島】へ出立する日迄の様だ。
 そして、実際の紀行を終えた【伊賀上野】で、【大垣】を『奥の細道』紀行の終点と決めた様だ。
 『伊勢参宮』の《予告》を話の仕上げとする【大垣】を最終章にする方が座りが良いと、芭蕉は思ったに違いない。
 実際、芭蕉は、【伊勢】に趣いたが、式年遷宮は内宮は間に合わず、外宮だけ見ることが出来ただけだった。
 因みに、芭蕉は【伊賀上野】を発ち【奈良】を経由した12月に【京都】にて著名な『不易流行(注)』を説いている。
 (注)不易流行:芭蕉が創った俳諧用語
   「不易」は詩の基本である永遠性
   「流行」はその時々の新風の体
   共に「風雅」の誠から出るものであるから、根元に於いては一つである、という(広辞苑)
 以下に、芭蕉が『奥の細道』紀行を終えてからの一年間について年譜を記す。

 元禄02年末は、膳所「義仲寺」の草庵にて越年
 元禄03年01月03日 義仲寺→伊賀上野へ
   同  年03月 伊賀上野→義仲寺
   同  年04月06日 義仲寺→「幻住庵(現・大津市国分)」に入る
   同  年07月23日 幻住庵を引き払い大津へ
   同  年08月 義仲寺の草庵にて「幻住庵」成る
   同  年09月末 伊賀上野へ
   同  年11月上旬 京都へ
   同  年12月 京都→大津→義仲寺へ
 元禄03年01月 新年を義仲寺にて迎える
 〔以下略〕

■続いての話題は、一週間前の08月29日(土)~30日(日)の両日、上京して来た模様についてである。
 但し、内容が豊富なので、今《会報》では、前半の初日29日(土)の模様を先ずお伝えする。
 以下、08月29日(土)の行程を記し乍らご報告する。

 06時10分 拙宅 発
 06時40分 豊橋駅発 東海道新幹線 ひかり517号
 08時06分 JR品川駅 着
 08時18分 京成品川駅 発
 08時43分 京成押上液 着
 08時45分 東京スカイツリ―タウン
[01] Ticket Center へ向かう道すがら、雨雲に展望台が隠れている『東京スカイツリ―』を見上げる
 01_ticket_center

 09時00分 東京スカイツリ― 展望デッキに到着

【東京・押上『東京スカイツリ―』】

[02]東京スカイツリ― 展望デッキ内部
 02

[03]展望デッキから景色を見ようとするが雨雲で全く見えない
 03

[04]展望デッキで買った絵葉書より01
 0401

[05]同上02
 0502

 帰りに下りの elevator の中で3人組の高校生と一緒になった
 小生「今日は展望台から外何も見えなくて残念だったネ
 修学旅行かな?
 オジさん愛知県は豊橋って所から来たけど、君達は何処から来たの?」
 高校生「ハイ、青森からです」
 小生「修学旅行かぁ‥二泊三日? それとも三泊四日?
 これから何処へ行くの?」
 高校生「三泊四日です/今日が最終日です
 これから湯島へ行きます」
 小生「湯島って、湯島天神さんダネ
 学業の神様だ/感心! 感心!/確り勉強頑張れヨ!
 東京スカイツリ―は又いつか来れるから/元気でネ!」
 と言って別れた。
 感じの良い学生達だった
 (遠く青森からの修学旅行か、そう簡単には上京出来ないだろうに‥
 スカイツリ―から外の景色が見られずにさぞ残念だったろうなぁ‥)
 と、可哀想な気がした

【浅草『浅草寺』】
 09時35分 東京スカイツリ―発
 09時50分 東武伊勢崎線(東京スカイツリ―ライン) とうきょうスカイツリ―駅着
 09時58分 とうきょうスカイツリ―発
 10時01分 浅草駅着
 10時05分 雷門近くの牛丼まつやで簡単なブランチ
 10時20分 雷門から宝蔵門→本堂に向かって浅草寺の表参道「仲見世商店街」を歩く

[06]浅草寺「雷門」
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[07]仲見世商店街〔表参道〕から「宝蔵門」を望む
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[08]浅草寺「本堂(観音堂)」
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[09]浅草寺「本堂」前にて
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 〔寺院〕
 推古天皇36(628)年 創建と伝わる。
 大化元(645)年 勝海上人が寺を整備
 観音の夢のお告げにより本尊を秘仏と定めた
 天安元年(857)年〔天長05(828)年説あり〕延暦寺の僧 円仁(慈覚大師)が来寺
 「お前立ち」の観音像を造立と伝えられる。
 以後、勝海を開基、円仁を中興開山と称している。
 天慶05(942)年 安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際、七堂伽藍を整備〔雷門、仁王門(現・宝蔵門)等創建〕と伝わる。
 天正18(1590)年 徳川家康が江戸入府、浅草寺を祈願所と定めた
 貞享02(1685)年 表参道に「仲見世」の前身である商店設置

 小雨が降る中でも、「雷門」→「仲見世街〔表参道〕」→「宝蔵門」→「本堂〔観音堂〕」は大変な賑わいであった
 本堂前での小生のsnap shotは、20歳位の若くて優しそうなお兄さんに撮影をお願いした
 撮影後に「どうも有難う!」と御礼を言ったら、「ド―イタシマシテ―ッ」と片言の日本語が返って来た
 彼も外国人だったのだ
 そう思ったら、境内を見渡すと半数近くが外国人の様な感じに見えて来た
 最近の inbound の数の多さには本当に驚かされる
 これは、東京だけに限らない
 当地、豊橋のbusiness hotel も、昨日の晩なんかは中国人でごった返していた

 10時55分「浅草寺」を発ち、「浅草」駅→〔銀座線〕→「上野」駅
 11時30分「国立西洋美術館」着

【国立西洋美術館『ボルドー』展&『常設』展】
 本展は、福岡市と姉妹都市32年となるFrance Bordeaux市の全面的な協力に拠り、福岡市と東京にて開催される企画展である。
 展示作品は、『角を持つヴィーナス』等の考古資料から、絵画・工芸・家具等と多方面に及ぶ。

[10]国立西洋美術館入口
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[11]同美術館入口に掲示されていた《常設展》の今回初公開/Vermeerに帰属『聖プラクセディス』1655年
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[12]『角を持つヴィーナス(ローセルのヴィーナス)』25,000年前頃
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[13]ジャン=マルク・ナティエ『マリー・ジョゼフ・ド・サクスの肖像の為の習作』1750年
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[14]ウジェーヌ・ドラクロア(Eugene Delacroix)『ライオン狩り』1854-55年
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[15]Odilon Redon『ライオン狩り(ドラクロワ作品に基づく模写)』1860-70年
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[16]アルベール・マルケ(Pierre-Albert Marquet)『ボルドーの港』1924年
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《常設展》
[17]ギュスターヴ・クールベ(Gustave Courbet)『波』1870年頃
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[18]Claude Monet『雪のアルジャントゥイユ』1875年
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[19]Vincent van Gogh『ばら』1889年
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[20]Henri-Jean-Guillaume Martin(1860-1943)『花と泉水』制作年不詳
 20henrijeanguillaume_martin18601943

[21]Kees van Dongen『カジノのHall』1920年
 21kees_van_dongenhall1920

[22]Pierre-Albert Marquet『レ・サーブル・ドロンヌ』1921年
 22pierrealbert_marquet1921

【小生comment】
 正直今回の企画展は、「これは素晴らしい!」と感嘆する作品には巡り逢えなかった。
 一方、常設展はVermeerに帰属『』(添付写真[11])や、[18]~[22]の様に名品が沢山掲示されていて楽しませてくれた。

 13時00分 国立西洋美術館 発→〔徒歩〕→地下鉄「湯島」駅→〔千代田線〕→「乃木坂」駅→〔徒歩〕
 14時00分「サントリー美術館」着

【サントリー美術館『〔藤田美術館の至宝〕国宝 曜変天目茶碗 と日本の美』展】
 本展は、世界で三椀しか現存しないとされる【国宝】曜変天目茶碗 をはじめ、日本屈指の東洋・日本美術 collection を誇る藤田美術館の四方を初めて一堂に公開する待望の企画展である(本店「ごあんさつ」より引用)
 藤田美術館は、明治時代に活躍した藤田傅三郎(1841-1912)と、長男平太郎、次男徳次郎、の2代3氏に拠って収集された東洋・日本美術を所蔵する我国 top class の美術館である
 藤田美術館が所蔵する曜変天目茶碗は、徳川家康→水戸徳川家→藤田傅三郎→藤田美術館 所蔵となった
 因みに、あと2つの曜変天目茶碗は、徳川家光→春日局→淀藩稲葉家→三菱 岩崎小弥太→三菱 静嘉堂文庫 所蔵
 そして、今井宗久→京都 大徳寺塔頭 龍光院 所蔵〔←現在・非公開〕
 小生は、三菱 静嘉堂文庫所蔵の曜変天目茶碗を、今から丁度5年前(2012年09月02日)、三菱一号館美術館『三菱が夢見た美術館~岩崎家と三菱ゆかりのコレクション』展にて見たことがあるが大変素晴らしかった
 【2637の会 0306】http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/26-0306372mahle.html ←ご参照

[23]本展leaflet
 23leaflet

[24]サントリー美術館入口にて
 24

[25]【国宝】『曜変天目茶碗』〔上から撮影〕
 25

[26]同上〔横から撮影〕
 26

[27]【国宝】『紫式部日記絵詞』一巻(部分)鎌倉時代
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【小生comment】
 本展mainの展示作品【国宝】『曜変天目茶碗』を見るのが、東京ほろう会へ参加する動機となった一番の目的物であった。
 期待に違わぬ名品で、実際に目にした時は矢張り感動した。
 実に素晴らしい名品である。
 これで丁度5年前に三菱一号館美術館で見た、静嘉堂文庫所蔵の【国宝】『曜変天目茶碗』に続いて2個目だ。
 世界に3個しかないうちの『曜変天目茶碗』を2個迄見ることが出来たことは本当に嬉しい。

 15時35分「サントリー美術館」発→〔徒歩〕→
 16時03分「権八/西麻布店」着

【権八 西麻布店『東京ふろう会/暑気払い』】
 「東京ふろう会 暑気払い」は、渡辺博司君【3-9】が当番幹事
 彼の企画である
 粋な感じがする和風建築で、料理も美味しかった
 当初予定の終了時間を若干過ぎた、18時半近く迄談笑が続いた

[28]権八内部の1scene
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[29]全体写真01
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[30]全体写真02
 3002

[31]六本木ヒルズの下から上を見上げる
 31

 18時30分「権八 西麻布店」発→〔徒歩〕
 18時45分「六本木ヒルズ」着
 18時55分「東京City View (六本木ヒルズ52階)」

【六本木ヒルズ『東京City View』】
 朝の東京スカイツリ―とは違って、夜景が確り見えた。
[32]東京City Viewから浜松町・東京タワー方面遠望
 32city_view

[33]東京City Viewにおけるsnap shot
 33city_viewsnap_shot

[34]東京City Viewから東京ミッドタウン方面遠望
 34city_view

 19時半程迄夜景を楽しんだ面々は、下に降りてスタバのopen terraceで暫しcoffee breakを楽しみ、20時半過ぎに解散した
 21時50分「六本木」発→〔大江戸線〕→「大門」→〔浅草線〕→「浅草橋」→〔JR総武線〕→
 21時32分「亀戸」着→〔徒歩〕→
 21時45分 Hotelマイステイズ亀戸着〔泊〕

■今日最後の話題は、ハンナ・アーレント著『アウグスティヌスの愛の概念』についてである。
 本文は単行本sizeで「はじめに」「第一章/「欲求としての愛」「第二章/「創造者」と「被造者」」「第三章/「社会生活」」から成る。
 第一章は、1節「欲求」の基本構造/ 2節「愛」と「欲望」/ 3節「秩序づけられた愛」
 第二章は、1節「被造者」の起源としての創造者/ 2節「愛」と「欲望」/ 3節「隣人愛」/第二章の付論
 第三章は、細節なし
 多分、キリスト教の「隣人愛」かなんかについての論文だろう、と読み出した
 が、キリスト教について相応の基礎知識がないと極めて解り難い。
 其処で、本書の訳者千葉眞氏の「訳者解説」の力と借りた。
 氏が言及している本書が書かれたアーレントの動機・背景が大変興味深い。
 以下、小生なりに出来るだけ解り易く記してみたい。

[35]ハンナ・アーレント著『アウグスティヌスの愛の概念』
 35

 ※ ※ ※ ※ ※

【1 本書の概要】
 「第一章」の主題は、プラトン(427B.C.-347B.C.)の「愛(エロース)」の教説やアリストテレス(384B.C.-322B.C.)の「欲望(オレクシス)」の概念に起源を有し、アウグスティヌス(354-430)の幸福論的人間論にも根強い影響を与えた「欲求としての愛(アモール)」である。
 アーレントの指摘に拠れば、愛の問題は、此処では「善きもの」への絶えざる「欲求」の連鎖、並びに一旦所有したものを喪失することへの不断の恐れという形で表れる。〔中略〕(P.230)
 又アーレントは、絶対的未来(=永遠)に於いて「生」がそれ自身、追求されるべき「善きもの」になり、全ての恐れが取り除かれて、「至福の生」に固有の「安らぎ」が与えられる。〔中略〕
「その場合、「善きもの」とは、真なる「生」として、乃ち「存在」と同一である「生」として、つまり、永続性を持つ「生」として、永遠の内に投影される(P.20-21)。」(P.231)
 此処から二つの「愛」が導き出される。一つは、その追求を絶えず欺く、誤った対象に向けられる「愛」である。
 それは消えゆくものとしての現世に固執する誤った「愛(アモール)」としての「欲望(クビディタス)」であり、いま一つは、神と永遠を追求する正しい「愛(アモール)」としての「愛(カリタス)」である。(P.24)
 アウグスティヌスは、〔中略〕本来の自己の喪失の中に生きざるを得ない現世に執着する「生」に対して、「自己探求」〔中略〕を対峙させた。
 この「自己探求」の過程で、人間は「自己発見」が「神発見」と同一であることを理解する様になる。〔中略〕(P.232)
 「人間は、絶対的未来から到来して、世界の外に自らを位置づけ、そして世界を秩序づける。
 人間は、世界の中に生きる者として、「秩序づけられた愛(ディレクティオ)」を有する。要するに人間は、恰も世界に存在しないかの如くに、世界に秩序を与える者の如くに、世界を愛するのである(P.54)」(P.233)
 「第二章」は、「創造者」と「被造者」の関係の中で愛の問題を考察し直そうとする試みである。(P.234)〔中略〕
 「第三章」の「社会生活」の議論は、結局の処二つのテーゼ(These)の並置で終わっていると見ることもできよう。
 第一のTheseは、Adamを共通の始祖として持つ人類の共同性は、共通の運命である「出生によって」歴史的にのみ基礎づけられるというものである。
 人々は運命共同体に帰属する存在者として、生と死、愛と危険を共有し、実際的な相互の遣り取りを通じて、相互に愛すること、相互に助け合うことを学ぶのである。
 第二のTheseは、しかしそれにも拘らず、この相互愛に於いてすら、人々の間には距離と間接性とが依然として残るのだと主張する。
 〔中略〕各人は、決定的な場面ではいつも全き単独性のうちに自らの「生」の態度を厳粛に決めていかねばならない。
 その意味で「隣人愛」にはある種の距離感と間接性が最後迄ついて回り、其処には「隣人愛」の無世界的(=超越的)な次元が示唆されている。
 乃ち、人間とは誰しも、「世界への愛」に生き乍らも、世界の中に存在するが、全面的に世界に帰属することはない存在者ということになろう。(P.240)

【2 本書の主題】
 若きアーレントの博士論文は、形式的には「アウグスティヌスの愛の概念」に関する多面的な考察と評価を目的としている。
 しかし、我々は、本書が、彼女の後の政治哲学の展開に於いてどの様な役割を果たし、どの様な位置づけを有するかを問いたいと思う。(P.240)〔中略〕
 自己にとっての隣人の有意性及び自己の世界との関連性を探ろうとする本書は、社会に於ける共同生活、世界への適切な参与を可能にする自己と隣人の存在論的論拠を探求する試みである。
 本書に於いて繰り返し立ち戻ることになる「私が私自身にとって問題となった(Quaestio mihi factus sum)」というアウグスティヌスの一節こそ、こうした彼女の実存主義的な哲学的求道の合言葉となっている。
 この問題的存在としての自己の吟味と探求は、古代世界と中世世界との境目の多難な時代に生きたアウグスティヌスと20世紀最大の政治的苦境に立ち会った政治哲学者アーレントとをきり結ぶ一本の赤い糸である。(P.241)

【小生comment】
 読むのに無茶苦茶難しい本であった。(^^;;
 「訳者解説」では、上記に続き【3 世界への愛‥世界への弁証法的姿勢】【4 英語版の出版(1996年)とその意義】もあったが、volumeが嵩むので割愛する。
 訳者千葉氏が、【2 本書の主題】の中で、アーレントが何故博士論文の Theme としてアウグスティヌスを取り上げたのかについて、二つの理由を上げている。

 ※ ※ ※ ※ ※

 第一は、ユダヤ人としての identity の在り方を、隣人若しくは世界との関連でどの様に構成していくべきかという問題。
 彼女の共同性の存在論の探求の背後には、故郷喪失のユダヤ人としての原体験が伏在していると見るべき。
 アーレントは、一面、ユダヤ人の出自から来る無世界と世界疎外の危機の中で、共同性の存在論を探求することに拠って、世界への基本的姿勢並びに世界に於ける自己と隣人との共同性の在り方を模索したと推察出来よう。
 第二は、Marburg大学でのM. ハイデガーとの出逢いである。〔中略〕
 アーレントは、Marburg時代にM. ハイデガーを学問上の師としただけでなく、彼と恋仲の関係にもあったことが、明らかにされている。
 一つの憶測でしかないが、アーレントがアウグスティヌスを媒介にして、隣人の有意性、「欲求としての愛(アモール)」、愛と孤独、欲求と不安、無世界性と「世界への愛」といった問題に関心を寄せたのは、彼女自身がこれ等の問題を、ハイデガーとの恋愛関係を通じて、実存的に感得し経験していたからではなかっただろうか。
 アーレントは1924年の晩秋にMarburg大学に入学したが、直ぐにハイデガー哲学の「情熱的思考」に魅了されて仕舞った。それは彼女が18歳の時であった。
 ハイデガーとの秘密裏の恋愛関係は、1924年末から翌年の25年に至る迄が peak であったとされる。
 ハイデガーは、1928年の早い時期に、自分の地位や名声を傷つけかねないこの risk を伴った逢引に終止符を打とうと決意した。
 これに対してアーレントは、別離の要求を超然として受け容れようとしつつも、揺れ続け、絶望の淵から、「もしも貴方への愛を失うなら、私は権利を失うでしょう」と、愛の継続を求める懇願の手紙を書いている。
 アーレントは、1925年にはFreiburgでE.フッサールに、そして後にはHeidelbergでK.ヤスパースに就いている。
 そしてアーレントはギュンター・シュテルンと1929年に結婚している。
 いずれにせよ、18~19歳という多感な年代に、アーレントはハイデガーとの熱烈な恋愛関係の中に、束の間の幸運感と高揚感、魅惑と興奮を覚え乍らも、幸福な実りを期待し得ない恋愛、成就し得ない愛を経験した。
 これは、彼女にとって一種の「疎外」の体験でもあった。
 アーレントは、Marburgでの一年の学びの過程で、人目を忍ぶ逢瀬に纏わる体験を幾つかの詩や「影」という題名の作品に書き留めている。〔中略〕
 異なった視点からみれば、アーレントはこうしたハイデガーとの恋愛関係を、アウグスティヌスの言語世界の用語を使用することに拠って、「欲求(appetitus)」としての「愛(amor)」、「欲望(cupiditas)」として把握し、「欲望」の一時性と自己中心性、無際限性と空虚性、又それにも拘らず現世に生きる人間にとってのその切実さと魅惑について、内省的に確認しようとしているかの如くである。

 「所有し保持したいという「欲求」から、失うことへの恐れが生じる。所有した瞬間、欲求は恐れへと転換する。欲求が「善きもの」の」を渇望すればする程、恐れは益々「悪しきもの」を恐るのである。‥「欲望」は「私の外に」あるものを追求するが故に、その「権能」の及ぶ範囲にはない。‥人間が自分の支配下にないもの、つまり、「自らの意志に反して失う可能性のある」ものを追求する場合、「生」はそれに従属することになり、その結果、「自立性」が奪われることになる」(P.15/P.26-27)

 これは恰も「アウグスティヌスの愛の概念」を梃子として、それを一種の哲学的物語として語ることに拠って、砂漠の体験、悲しみの体験を耐えられる経験へと作り変え様とする試みではなかっただろうか。
 過度の主観的解釈は断じて避けねばならないが、この様な解釈に引き寄せられる何者かが此処にある様に思われてならない。〔後略〕

 ※ ※ ※ ※ ※

 上記※印で挟まれた処が、「訳者解説」からの引用である。
 訳者が上記で述べた comment は含蓄あるものとして共感出来る。
 「愛」には、「愛(=アモール(amor))=「自己愛」と「愛(=カリタス(caritas))」=「隣人愛」がある。
 しかも通常は「ある=存在」だけでなく、同時に所有しているのが一般的である。
 処が、人間厄介なのは、「欲求としての愛(Amor qua appetitus)」に転化した「愛(=アモール(amor))と「愛(=カリタス(caritas))」とが ambivalent(アンビヴァレント(=相反する感情を同時に持つ))になることが少なくないのである。
 アーレントの様な超弩級の秀才を彼女に持つ男は、ハイデガーの様にこちらも知の巨人でないと務まらない‥なんだろうナ‥。

【後記】昨夜遅くに小生の一番下の息子(次男)が、大学の1年と時から現3年次迄ずっと一緒のclassmatesの3人を連れて拙宅に泊まりに来た。
 昨日~今日にかけて、ラグーナ蒲郡で開催中の音楽フェス「TREASURE05X -rising force!-」の第2弾の初日を聞き、今日の二日目を見る為に立ち寄ったという。
 昨日23時過ぎに、愚息が連れて来た旧友3人を玄関で迎えたが、その3人が皆んなイケメンなのには吃驚した。
 3人は、名古屋市出身 旭丘高、群馬県高崎市 高崎高校、岐阜県 加納高、各出身の若者達である。
 機械工学科なので、【2637の会】では、中山君の後輩になる。
 拙宅に就いて、風呂で汗を流した後、愚息を含めて4人での記念撮影をしたのが添付写真である。
 高崎市出身の子が、「豊橋の雰囲気が高崎市内と何処となく似ていて気に入りました」と言ってくれた。
 こう言う一言を聞くだけでも気分が明るくなっていい。

[36]愚息(向かって左端)と彼のclassmates 3人
 36classmates_3

 では、また‥。(了)

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