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2015年10月の4件の記事

2015年10月25日 (日)

【時習26回3-7の会0571】~「10月22日:東愛知サロン会『池上彰講演/国際情勢をどう見るか』を聴講して」「10月24日:名都美術館『伊東深水』展 & 古川美術館『四季暦‥玄冬之章』展 & 鞍ヶ池 Art Salon『油彩と膠彩/日本の画(え)‥洋画と日本画にみる和の心』展を見て」「山﨑拓巳著『見えないチカラを味方につけるコツ』を読んで」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 さぁ、今日も【2637の会 0571】号をお送りします。

■さて今日最初の話題は、10月22日に豊橋市内にて開催された東愛知サロン会『池上彰講演/国際情勢をどう見るか』を聴講して来ましたので、その模様をお伝えします。
 今回の講演は、12時50分から60分の講演と10分間の質疑応答にて構成されていた。
 因みに、池上彰氏の講演会は、今春05月15日に岡崎市民会館にて開催された(題目)『ニュースから未来が見える』以来である。
 2015年05月17日付【時習26回3-7の会 0548】
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/260548-i-was-bo.html ←ご参照

[01]翌日(1015.10.23付)東愛知新聞に掲載された『池上彰講演会』の記事
 0110151023

【国際情勢をどう見るか?】
 国際情勢を世界史的観点から読み解こう、というのが私のstanceである。
 数えてみたら、是迄に73の国と地域を回った。
 多いと思ったのだけど、イモトアヤコが83の国と地域を回っているというので、彼女には負けているが‥。(笑)
 今日お話するのは以下の3点
〔【小生補足】実際は[1]新しい難民問題 & [2]新しい『帝国主義』について の2点が theme であった〕

 [1]増え続ける欧州への難民問題
 [2]新しい『帝国主義』の時代‥プーチン・ロシアがシリアを何故空爆し始めたのか?
 [3]同‥中国の南沙諸島への進出問題

【現代の国際情勢を読み解く上での特徴的事象】
 ‥※ 通信手段の飛躍的向上に拠り、人の移動が大きく変化している ※‥
 今、シリアから欧州(→最終的にドイツ)を目指す難民は、昨年20万人→今年100万人と激増中
 何故、今年になって難民が急増したのかというと、「スマホの普及率向上」の結果だと池上氏は指摘している
 何となれば、難民の大半がスマホを持っている
 「ドイツへ行けば、住む場所、補助金4万円、就職先斡旋等を得られる」という情報が瞬時に所謂難民と言われている人々に行き渡ったからだ
 嘗てのシリア難民は、隣国のレバノン、トルコ、ヨルダン等へ逃げた正に「refugee」であった

 しかし、現在のシリア難民は、「migrant(マイグラント)≒移住者」と欧米の media は呼んでいる
 即ち、「難民」でなく、拠り良い生活が出来る国・areaへの「移住者」だというのである
 今年8月、ドイツに入国したシリア難民と呼ばれた人々のうち4割は、エリトリア(Eritrea)、Afghanistan、Pakistan等の非シリア人という
 Migrantたちは「拠り良い生活を求めて豊かな国を目指している」‥この流れを食い止めることは果たして出来るだろうか?
 この難民問題で、欧州の先進諸国の為政者に、難民受入れに強く影響した「歴史を変えた一枚の写真」がある
 シリア人の3歳の男児の水死体の写真である
 この写真が報道されてから、欧州先進諸国の為政者達は難民受入れに従来以上寛容な姿勢に転じたのである

 池上氏は、この難民達の欧州への移動を、4~5世紀の「ゲルマン民族の大移動」以来の「21世紀の『アラブ民族大移動』」と呼んだ
 「ゲルマン民族の大移動」は、フン族→ゴート族→西ローマ帝国の滅亡 と世界史で習った、あの民族大移動のことだ
 今回の「アラブ民族の大移動」は数百万人に及ぶ大移動で、キリスト教徒が住む欧州に、イスラム教徒のアラブ人が大量に流入することになる
 このことから池上氏は、これから文化的摩擦が欧州で起きるだろう、と予測
 この様に歴史を踏まえた観点からNEWSを見るべきだと指摘していた

【通信手段の発展/第一弾‥※活版印刷(グーテンベルクに拠る)※】の発明
 これに拠り聖書が、ラテン語から独・仏・英他の各国言語に翻訳されて、カトリック教会の免罪符の不当性が明らかにされ、Protestantが拡大していった
 【小生補足】この宗教改革に拠って、西洋の近代化が飛躍的に進んでいくことになる
 そのepoch-making がドイツ30年戦争を終結させた1648年のWestphalia条約である
 同条約では、スイスとオランダの神聖ローマ帝国からの独立、アウグスブルクの和議(1555年:ルター派の承認)の再確認と新たにカルヴァン派が承認された
 所謂、『 ProtestantがRome Catholicに勝利 』したことが確認されたのである〔 以上は、余談 〕

【通信手段の発展/第二弾‥※ラジオ※】の普及
 →・米国Roosevelt大統領が国民向けに語りかけてpropaganda に活用‥第二次世界大戦での国民への戦意高揚を実現させ勝利に結びつけた

【通信手段の発展/第三弾‥※テレビ※】の普及
 →・J.F. Kennedyが大統領選に出場した時、テレビに恰好よく映る為の演出に成功して、対立候補Nixonに圧倒的な優位に立った
 「紺色のスーツ」「白いワイシャツ」「赤いネクタイ」で颯爽とした立ち姿を視聴者に見せた

【通信手段の発展/第四弾‥※Internet※】の普及
 →・東西冷戦の終結に拠り、情報伝達をクモの巣(=web)の様に網の目の様に張り巡らせ、情報伝達の飛躍的拡大と高速化を実現
 (注)東西冷戦時代に軍事用に開発された情報networkは、中央に大型computerを配し情報での伝達をしていた
   有事に敵から中央のhost computerが攻撃された場合でも、その他のnetworkされたcomputerを活用して情報活用を維持出来る仕組みを作った
   このクモの巣(=web)の様に張り巡らせた情報のnetworkを民間転用したのがInternetである

 この internet の拡充が、businessの拡大となって、携帯電話→スマホの飛躍的普及へ繋がり、現在のシリア難民の創出に繋がっているのである

 以下、新しい帝国主義について、「プーチン・ロシアのシリア空爆」と「中国の南沙諸島の埋立」を事例に出して説明してくれた
 プーチン・ロシアは、ロシア帝国が強国だった頃のピョートル大帝やエカテリーナ2世時代の領土が最大に達した時代
 中国も、漢民族の王朝で最大領土を獲得したのが明の時代で、鄭和に拠る大航海時代であった
 ロシアも中国も、この過去の栄光の時代の復活を夢見て、今動いている
 この動きを、池上氏は「新しい帝国主義」と呼んだ
 因みに、トルコのエルドアン大統領が目指しているのも、オスマン帝国の再興の様だ

【小生comment】
 60分という短い講演ではあったが、池上氏の説明は解り易く勉強になった
 氏は、聴衆を惹きつける魅力を持った人物である
 所謂 Aura を持っている人物である

■続いての話題は、10月24日(土)に私用で名古屋へ行ったついでに、3つの美術館を巡って来ましたので、その模様をお伝えします。
 10時00分 名都美術館『伊東深水』展
 11時15分 古川美術館『四季暦‥玄冬之章』展
 15時45分 鞍ヶ池Art Salon『油彩と膠彩(こうさい) 日本の画(え)‥洋画と日本画にみる和の心』展

【名都美術館『伊東深水』展】
 美人画家として今も尚人気を誇る伊東深水の名作、約70点を一堂に展観し、74年に亘る人と芸術を辿ります。
 〔本展leaflet拠り引用〕
 日本近・現代の美人画の巨匠と言えば、「西の(上村)松園、東の(鏑木)清方」と称され、その次に必ずと言っていい程の巨匠として名前が上がるのが伊東深水である。
 勿論、美人画と言えば、以上の3人の他にも、伊藤小波、寺島紫明、梶原緋佐子、等の巨匠がいる。
 しかし、人気という点では、伊東深水は、師匠の鏑木清方をも凌ぎ、西の上村松園、東の伊東深水と言えるのではあるまいか。
 兎に角、展示作品をご高覧頂きたい。
 ホント、素晴らしい美人画を沢山描いた画家である。
 美人画に限らず「精緻で完璧に近い構成力」が魅力の伊東深水である。

[02]本展leaflet
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[03]本展記念の栞〔左:『舞』(部分)1956年頃/右:『初雪』(部分)1945年頃〕
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[04]伊東深水『鏡』1947年
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 本作品は、「品位を損し易い画材を巧みに構図し、能く古典の長所を参酌して、独特の情緒を表現した」という点が高く評価され、日本芸術院賞を受賞した作品

[05]同『緑庭』1955年
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[06]同『清涼』1956年
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[07]同『緑蔭』1957年
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[08]同『銀扇』1960年頃
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[09]同『雪の夕(雪月花三部作の雪)』1961年
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[10]同『月の出(雪月花三部作の月)』1962年
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[11]同『春の宵(雪月花三部作の花)』1962年
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【小生comment】
 伊東深水の作品をご覧になって如何でしたでしょうか?
 見ていて、「美しいもの」を見る喜びというものを感じませんか?
 次にご紹介する古川美術館でも、伊東深水の『春雪』を見ることが出来て嬉しかった。
 古川美術館では更に、伊藤小波『春寒』と梶原緋佐子『清香』という傑作の美人画も見ることが出来て、その日は有意義な一日となった。

【古川美術館『四季暦‥玄冬之章』展】
 本展は、今年の通年四連企画「四季暦『青春』→『朱夏』→『白秋』→『玄冬』」各章の最終章を飾る。
 冬から芽吹きの春へ向かう情景を作品で紹介している。
 伊藤小坡、伊東深水、梶原緋佐子の美人画三作と福田平八郎の二作品、そして山本丘人の作品の全6点をご紹介する。
 前掲の素晴らしい伊東深水の美人画をご覧になった後でも、色褪せて見えない各々の日本画の傑作6点。
 名画の素晴らしさを此処でも確り味わってみて下さい。

[12]本展leaflet
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[13]伊藤小坡『春寒』
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[14]伊東深水『春雪』
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[15]梶原緋佐子『清香』
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[16]福田平八郎『雪中竹』
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[17]同『鴛鴦』
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[18]山本丘人『春庭』
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【鞍ヶ池 Art Salon『油彩と膠彩(こうさい) 日本の画(え)‥洋画と日本画にみる和の心』展】
 明治維新に始まる西洋化の波は、絵画の世界に油彩画を齎しました。
 この油彩画(=西洋画)は旧来の画家達を大いに刺激し、又「日本画」の呼称は洋画と区別する為にこの時出来たものです。

 「現今、洋画と言われている油画も水彩画も
 また現に吾々が描いている日本画なるものも、
 ともに将来においては‥勿論近いことはあるまいが、
 とにかく日本人の頭で構想し、日本人の手で制作したものとして、
 すべて一様に日本画として見らるる時代が確かに来ることを信じている。
 で、この時代に至らば、今日の洋画とか日本画といか言う如く、
 絵そのものが差別的でなくなって、皆一様に統一されて仕舞い
 ただその処に使用さるる材料の差異のみが存することと思う。」
       〔菱田春草 1910年『絵画叢誌』より〕

 日本でしか成し得ぬ「拠り良きもの」をとの信念が今日迄日本の絵画や車を進化させて来た要因の一つと言える。
 本展では、明治から昭和時代に至る「和魂洋才」というべき精神を持った一群の画家達に拠る作品を紹介する。
 ‥以上は、本展leafletからの引用文である。
 以下に展示作品全22点の出品目録を記す。

[01]横山大観(1868-1958)『不二霊峰』1940年頃
[02]福田平八郎(1892-1974)『筍』1952年
[03]‥◆[19]本展leaflet〔絵は 下:◆小林古径(1883-1957)『菊花白猫』1926年〕
 19leaflet_19251926

[04]‥◆[19]本展leaflet〔絵は 上:◆坂本繁二郎(1882-1969)『馬』1925年〕
[05]坂本繁二郎『張り物』1910年
[06]‥◆[20]小林古径『菖蒲』1948年
 201948

[07]前田青邨(1885-1977)『富士』1963年
[08]梅原龍三郎(1888-1986)『Carnationと皿』1941年頃
[09]熊谷守一(1880-1977)『熱海』1948年
[10]奥村土牛(1889-1990)『紅白梅』1980年頃
[11]梅原龍三郎『浅間山黄昏』1953年
[12]徳岡神泉(1896-1972)『玉梅』19年
[13]前田青邨『静物』1961年
[14]奥村土牛『栗』1950年
[15]同『親仔牛』1952-3年頃
[16]川合玉堂(1873-1957)『緑蔭獨釣』1935年
[17]前田青邨『鵜飼』1933年
[18]山本丘人(1900-86)『火山の見ゆる峠』1973年
[19]高山辰雄(1912-2007)『白いトルコ桔梗』2001年
[20]同『春近く』1990年頃
[21]‥◆[21]安井曾太郎(1888-1955)『櫟(クヌギ)と楠(クスノキ)』1954年
 21188819551954

[22]同『白桃』1936年

【小生comment】
 鞍ヶ池 Art Salon に展示される作品群は、天下のトヨタ自動車所有の絵画だけあって「超」がつく masterpieces ばかりである。
 訪れる度に新しい発見と、傑作を身近に感じることが出来る幸福感を実感する。
 此処は、小生にとっての大切な power spot の一つである。

■今日最後の話題は、最近読んだ山﨑拓巳著『見えないチカラを味方につけるコツ』についてである。
 本書は、最近聞いたCD講演録『暦日会』で山﨑氏の話を偶々聴いて興味を持ち購入し読んだ本である。
 全157頁を1時間程で読破出来る、大変平易な、そして心が癒される本である。
 掲載内容の contents を記すと以下の通りである。

 まえがき Prologue /(思考のズレを戻す)α波の話 refresh /【 (感性を磨く)パワースポットの話 power spot 】/(幸運を引き寄せる)おまじないの話 affirmation /(ひらめき力を高める)瞑想の話 meditation /(意思決定に使える)筋反射の話 kinesiology /(不安が和らぐ)輪廻転生の話 reincarnation /(イライラがすーっと消える)幽体離脱の話 out-of-body experience /(リアルに予知出来る)タイムラインの話 timeline /(1の力で100動かす)運勢の話 fortune /(バランスを整える)ツボの話 acupuncture point /(一瞬で自分を変える)パラレルワールドの話 parallel world /(体にいいものを求める)自分に変わる)体質改善の話 condition /(思いもよらない幸運を手に入れる)共時性の話 synchronicity /(自分の波が解る)人生の四季の話 seasons /(脳が目を覚ます)治癒力の話 curative power /(気持ちが高ぶる)気功体操の話 qigong exercise /(自分を成長させる)投影の話 self-projection /(悩みを解決する)睡眠の話 sleep /(会話を明るくする)浄化の話 purification /(幸せを生み出す)体温の話 body temperature /(自分の限界を破る)セルフイメージの話 self-image /(自分が好きになる)香りの話 fragrance /あとがき Epilogue

 今日は、これ等の中から1つご紹介したい。
【 (感性を磨く)パワースポットの話 power spot 】‥ Aura のある場所にいると、Auraが身につく‥
 その場に入って来るだけで、場の空気をガラッと変えてしまう
 そんな Aura を持った人っていますよね
 何もしなくても、仕草、表情、存在感だけで、色んな人の心を動かして仕舞う
 何気ない一言が、人生に迄影響を与える
 どうすれば、そんな Aura を宿すことが出来るのでしょう?

 数多くの " Aura の強い人達 " と出会って来た結果、私にも解ったことがあります

 一つは、「 Aura の強い人達は、" Aura の強い人達 " と過ごしている時間が長い」ということ
 もう一つは、「 Aura の強い人達は、" Aura の強い場所 " にしょっちゅう訪れているということです
 だから私も、古い伝統のある神社やお寺、Hotel、Restaurant、文豪や Artistの生家や Atelier の跡地等、なるべく強い Aura を持っている場所、つまり power spot を訪れる様にしています〔中略〕
 その場に漂っている Aura そのものを、自分の身体に触れさせている、染み込ませている、という感じでしょうか

 解り易い例で言えば、美術館も私にとっては power spot の一つなんです

 世の中には時間が経つにつれて、段々「只のボロ」になっていくものと、「 Antique 」になっていくものってありますよね〔中略〕

 骨董屋の店主は「恒に『本物』だけを見続ける様に」って弟子に教えるそうです
 本物に慣れていけば偽物を見た瞬間、偽物だって解る様になるらしい
 それって、いつも『本物』に触れてさえいれば、本物が何なのか、肌感覚で解って来る様になるということだと思うんです〔中略〕

 美術品って、宇宙から energy を集めて、こちらに向かって放出してくれる、不思議な装置ではないかと思うんです
 あらゆるものと繋がる瞬間というか、image の中で答えを知っている状態、そんな様な感覚を、疑似体験させてくれるものである様な気がします

 そして、そういう時間を沢山持てば持つ程、物事を見定める精度が上がっていくのを、実感しています
 つまり、power spot を訪れることは、人生で拠り良い選択をする為のいい training にもなるんです〔後略〕

【小生comment】
 この power spot の話は、強く共感出来る。
 小生が、今結構精力的に行っている、「美術館巡りしての一流画家の企画展」を見て廻ることや、「一流演奏家に拠る classical concert 演奏会」を聴き続けていること、「国宝・重要文化財の城郭・仏閣・寺院・庭園等」を見て廻ることは、真贋の違いを瞬時に見極める力を身に付けさせてくれた。
 これが、仕事上に於いても役立っていると、最近確信する事象に幾つか出交(くわ)したのである。
 乃ち、物事を判断する際、拠り正しい判断を、「閃き」だけでなく、「直観」でも行える様になった気がするのである。

[22]山﨑拓巳著『見えないチカラを味方につけるコツ』
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【後記】一週間程前の10月17日(土)、豊橋祭り「総おどり」に小生の勤務先も、社長以下十人余りが参加した。
 18時半~20時迄の90分。
 昨年に引き続き、2回目の参加であるが、この「総おどり」も昨年拠り盛況になった様な気がする。
 以下の写真は、「総おどり」開始直前に撮影した集合写真である。

[23]勤務先として豊橋総おどりに参加 20151017
 23_20151017

 豊橋祭りの「総おどり」を踊り乍ら、virtual real な世界が小生の脳裏を横切った。
 以前目にした恋の句が浮かんだのである‥

  恋となる 日数(ひかず)に足らぬ 祭りかな  いのうえ かつこ

 この句を反芻していたら拙句がふっと出来た‥

  恋となる 便り届かぬ 秋祭り  悟空

 では、また‥。(了)

2015年10月16日 (金)

【時習26回3-7の会0570】~「『笈の小文』予告編」「10月05日:名豊gallery『平川敏夫&三木登』展」「10月03日:名古屋市美術館『Liverpool国立美術館所蔵‥英国の夢※ラファエル前派』展を見て」「10月12日:浜名湖CC『時習26会・Golf competition』に参加して」 「ひろさちや著『空海と密教』を読んで〔その2(完)〕」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 さぁ、今日も【2637の会 0570】号をお送りします。

■さて今日最初の話題は、「松尾芭蕉(1644-94)『笈の小文』予告編」をお送りします。
 この『笈の小文』は、貞享04(1687)年十月二十五日江戸を発ち、貞享05(1688)年の正月を芭蕉の故郷、伊賀上野で過ごし、四月二十~ニ十一日頃、播磨国の須磨・明石を訪れ、四月二十三日に京都へ到着迄の半年間の旅行記である。
 この半年の中身をもう少し詳しくお伝えすると‥

貞享四年
 十月二十五日 江戸 発
 十一月四日 鳴海、知立亭 着
 十一月八日 名古屋に行く
 十一月九日 再び鳴海に戻る
 十一月十日 越智越人(1656-?)と渥美・保見へ
 十一月十二日 伊良古崎
 十一月二十一日 熱田、林桐葉 訪問
 十二月十日過ぎ 名古屋 発→伊賀上野へ〔伊賀上野にて越年〕
貞享五年
 二月四日 伊勢神宮参詣
 二月十八日 亡父与左衛門の三十三回忌法要に出席
 三月十一日 服部土芳(1657-1730)の蓑虫菴訪問
 三月中旬迄 新大仏寺、探丸邸等を訪問
 三月十九日 杜国と吉野へ行く
 四月八日  奈良に至る/十一日迄に唐招提寺を訪れる
 四月十三日 大阪に至る/久左衛門宅に6日間逗留
 四月十九日 兵庫夜泊
 四月二十日、二十一日頃 須磨、明石を見物
 四月二十三日 京都へ
 
 更に、芭蕉の主だった著作を編年体にて記してみると‥

 貞享元(1684)年08月『野ざらし紀行』(41歳)「野ざらしを心に風のしむ身かな」〔随伴者:苗村千里(ちり)〕の旅に出る
        〔東海道を西へ‥伊賀・大和・吉野・山城・美濃・尾張を巡り、伊賀上野で越年後、木曾・甲斐を経て江戸へ〕
 貞享02(1685)年04月 江戸に帰着(42歳)
 貞享03(1686)年春『蛙合』(43歳)「古池や蛙飛びこむ水の音」
 貞享04(1687)年08月14日から『鹿島詣』(44歳)〔随伴者:河合曽良・宗波〕
 貞享04(1687)年10月25日から『笈の小文』〔随伴者:越人が杜国(32歳)の処へ案内
         03月19日 杜国は、万菊丸と名を変えて、伊賀上野の芭蕉の許へ来た
         そして、吉野→須磨・明石→京都まで杜国と二人旅をして過ごす〕
 貞享05(1688)年05月04日 芭蕉は杜国の京都にて歌舞伎見物をし、その後二人は別れ、2年後の元禄03(1690)年03月20日に死去(享年34~5歳)
 元禄元(1688)年08月11日 京都発→08月下旬 江戸帰着『更科紀行』(45歳)〔随伴者:越智越人〕
        〔寝覚の床→木曾の桟(かけはし)→立(たち)峠→猿が馬場峠→更科→姨捨(‥名月鑑賞‥)→善光寺→江戸〕
 元禄02(1689)年03月27日 西行500回忌『奥の細道』(46歳)「夏草や兵どもが夢の跡」他〔随伴者:河合曽良〕
         09月06日 大垣発→伊勢へ/09月~伊勢→伊賀上野‥←この道中で見かけた猿を詠んだのが「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり」
         この句に由来するのが『猿蓑』
         伊勢参拝を終え伊賀上野へ→12月京都へ入り、年末大津義仲寺の無名庵にて越年
 元禄03(1690)年 01月 一度伊賀上野へ帰る→03月膳所→
         04月06日以降は近江の膳所藩中老で蕉門の菅沼曲翠(1659-1717)の奨め国分の幻住庵に07月23日迄滞在し『幻住庵記』執筆(47歳)
 元禄04(1691)年 04月向井去来(1651-1704)の別荘「落柿舎」→05月04日京都・野沢凡兆(1640-1714)宅に滞在/凡兆と去来が『猿蓑』を編纂
         去来の落柿舎に滞在した間の句文を収録した『嵯峨日記』成る(48歳)
 元禄06(1693)年『閉関之説』(50歳)
 元禄07(1694)年 10月12日 大阪、南御堂前、花屋仁右衛門方の貸座敷にて申の刻(午後4時頃)死去→10月14日 子の刻(午前零時)、義仲寺境内内に埋葬

 『笈の小文』についても、芭蕉の行程に合わせて、江戸を出立した旧暦十月二十五日〔=新暦11月29日〕辺りの《会報》からお届けしていこうと考えています。

[01]使用する『笈の小文』関連書籍
 01

■続いての話題は、10月05日に名豊gallery『平川敏夫&三木登』展を見て来たので概略をご紹介する。
 尚、展示作品の他は、添付写真の本展案内leafletとprogramがあるだけで、図録や postcard はなかったのは一寸残念であった。
 以下に、二人の略歴を記す。

※ 平川敏夫(1924-2006)
 1924(大正13)年 豊川市小坂井町生まれ/豊橋市八町に転居し新川小学校→小坂井尋常小学校卒業(昭和15年)
 1947(昭和22)年 我妻碧宇主催の新日本画研究会で、中村正義らと共に学ぶ
 1950(昭和25)年 第3回創造美術展に初入選
 1951(昭和26)年 中村正義、星野眞吾、大森運夫、高畑郁子と画塾(中日美術教室)/創造美術が新制作派協会と合併し、新制作協会日本画部となる
 1954(昭和29)年 第18回新制作展にて新作家賞を受賞
 1963(昭和38)年 新制作協会会員に推挙
 1974(昭和49)年 新制作協会日本画部が創画会となり、以後、創画会員として出品

※ 三木登(1946- )
 1946(昭和21)年 長野県須坂市に生まれる
 1984(昭和59)年 平川敏夫に師事
 1985(昭和60)年 春季創画展に初入選/以後、同展に出品
 2000(平成12)年 第26回春季創画展(京都)にて春季展賞を受賞
 2001(平成13)年 第28回創画展にて創画会賞を受賞
 2006(平成18)年 第33回創画展にて創画会賞を受賞し、創画会会員に推挙

[02]本展leaflet/絵は、左側:三木登『静穏』2008年、右側:平川敏夫『樹焔』1964年
 02leaflet20081964

[03]本展programより
 03program

【小生comment】
 小生、従前より平川敏夫の作品は大好きである。
 平川氏の作品は、精緻且つ幽玄な秀逸な日本画で大変気品があるので何度見ても飽きが来ないからだ。
 一方、三木登の作品は、単品で幾度が見たことがあるが、今回の様に纏めて一覧したのは初めてである。
 なかなかいい作品だと思った。
 色彩は一様に白色を基調にした、さっと見ると、抽象画にも見える画風が三木氏の持ち味の様に感じた。
 二人で夫々16点ずつ出典されていた。
 10月25日(日)迄、開催しているので興味のある方は是非ご覧頂きたい。
 入場は無料である。〔為念〕

■続いての話題は、名古屋市美術館にて開催中の『『Liverpool国立美術館所蔵‥英国の夢※ラファエル前派』についてである。
 前《会報》にてご紹介したエッシェンバッハ指揮ウィーン・フィルコンサートの前の16時10分、伏見・白川公園にある名古屋市美術館を訪れた。

 本展は、7館あるLiverpool国立美術館のうち、①Walker Art Gallery(1877年設立)、②Lady Lever Art Gallery(1922年設立)、③Sudley Houseの3施設が収蔵する作品を、Raphael前派に始まる英国美術の歴史を紹介する。
 〔以上、Liverpool美術館館長 Sandra Penketh氏のmessage拠り引用〕
 (注)②William Hesketh Lever(1851-1925)=後のLeverhulme(リーヴァ―ヒューム)子爵に拠って設立/彼はSunlight Soap等で一代で財を成し、彼の起こした会社は現代のユニリーバ(Unilever)となっている/③Sudley Houseは当初、造船業で財をなしたGeorge Holt(1825-96)の自宅であったもの

 19世紀後半の英国美術の歴史は、1848年、Dante Gabriel Rossetti, John Everett Millais, William Holman Huntに拠るRaphael前派の結成から始まる。
 彼等はrenaissanceの巨匠ラファエロ以前の芸術精神に立ち帰ることを理想とし、「自然に忠実に」という標語の下に、反産業主義、復古主義的な創作活動を指向した。〔中略〕
 彼等のgroupとしての活動は数年の短い期間であったが、その精神は多くの追随者たちに引き継がれ、やがて一大芸術運動であった象徴主義の潮流を形成する。
 E.C.Burne-Jones, J.W.Waterhouse and G.F.Watts等は、Raphael前派の影響を受け、英国美術を発展させていった。
 〔以上、主催者「ごあいさつ(Foreword)」拠り引用〕

 The Royal Academy Schools に於いて最も優秀な生徒であった Millais, Hunt, Rossettiと言った若い画家達が不満を感じ、反発していたのはラファエロ・サンツィオ(1483-1520)に範を執る古典主義的な教育法に対してであった。
 この兄弟団が名乗ることとなる「Pre-Raphael(Raphael前←ラファエルはラファエロの英国名)」という言葉の意味する処は其処にあった。
 つまり、当時に於いて古典的絵画の範例と看做されていた「ラファエロの絵画」に対して反旗を翻し、それ「以前」の絵画に回帰すべきであるという主張である。
 「ラファエロ以前」とは、クァトロチェント(1400年代)前半の初期Italy・renaissance絵画のことであり、フラ・アンジェリコ(1395-1455)やボッティチェリ(1445-1510)等といったFirenze派の画家達の作品が想定されていたのである。〔以上は、「地上の楽園」とラファエル前派の夢(木島俊介)拠り引用〕

 本展では、Raphael前派の作品を中心に約70点が展示されている。
 その中から10点をご紹介する。

[04]名古屋市美術館入口近くの案内看板1
 041

[05]同上2
 052

[06]John Everett MILLAIS(1829-96)『ブラック・ブランズウィっカ―ズの兵士(The Black Brunswicker)』1860年
 06john_everett_millais182996the_bla

[07]同『良い決心(The Good Resolve)』1877年
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[08]Dante Gabriel Rossetti(1828-82)『シビラ・パルミフェラ(Sibylla Palmifera)』1865-70年
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[09]Lawrence ALMA-TADEMA(1836-1912)『お気に入りの詩人(A Favourite Poet)』1888年
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[10]Frederic LEIGHTON(1830-96)『書見台での学習(Study At a Reading Desk)』1877年
 10frederic_leighton183096study_at_a

[11]Charles Edward PERUGINE(1839-1918)『シャクナゲの花(Peonies)』1887年に最初の出品
 11charles_edward_perugine18391918pe

[12]Edward John POYNTER(1836-1919)『テラスにて(On the Terrace)』1889年に最初の出品
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[13]Arthur HACKER(1858-1919)『ペラジアとフィラモン(Pelagia and Philammon)』1887年
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[14]William Henry HUNT(1790-1864)『卵のあるツグミの巣とプリムラの籠』1850-60年頃
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[15]Edward Coley BURNE-JONES(1833-98)『フラジオレットを吹く天使(Angel playing a Flageolet)』1878年
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【小生comment】
 MillaisやRossettiを始めとするラファエル前派の作品群は、現代人の感覚から言えば、古典的な絵画の範疇に入って仕舞うのかもしれない。
 形式的なでマンネリ化した19世紀中葉の英国のThe Royal Academy Schoolに学んだMillaisやRossetti等に拠る革新活動の結果描かれたのが上記作品群である。
 彼等は、Millaisが異例の若干11歳で入学を許されている様に同schoolでは抜群の技量を有した俊英達であり、確かに作品のlevelは高い。
 本《会報》にてご紹介した10点も如何でしょうか?
 ジックリ見ていると、見る者をして「流石だな!」と言わしめる程の強い説得力を持って訴え掛けて来ている‥、と小生にはそう見える。 

■続いての話題は、10月12日(祝月)09時03分から浜名湖CCにて開催された「時習26会 ゴルフ・コンペ」開催報告です。
 今回は、以下の総勢12人が参加した。
 当日は、少し風が強かったことを除けば、快晴で気温も丁度良く、再興のcourse conditionで、予定通り09時03分中course→浜名湖courseを廻った

 【2】中嶋Y行/【3】鈴木K/【6】山本Y和/【7】今泉悟/【8】伊藤H之・野末T・波田野K平・矢野S介・安井K二/【9】酒井T夫・鈴木H彦/【10】髙山T彦 〔 以上、クラス順、敬称略 〕

 栄えある優勝は、鈴木K君が前回に引き続き連覇を果たした。因みにbest gloss賞も合わせての受賞であった。
 次回は、来年の秋に又浜名湖CCにて開催することに決まった。
 日程は、後日決定の予定。

[16]Play前の参加者全員の集合写真1
 16play1

[17]同上2
 172

【小生comment】
 小生は、scoreは惨憺たる結果に終わったが、鈴木君、野末君、波多野君と上手なcompetitorsと一緒に廻ることが出来、とても楽しく廻らせて貰った。
 時習26回生の同期の仲間っていいものである。
 その我等時習26回生は、みんな今年度に還暦を迎える。
 だから、play終了後の懇親会の席上等で、同期の何人かは勤め先を定年退職して、中には完全retireしている仲間がいることを知った。
 「愈々我々もsilver時代に順次入っていくのだなぁ‥」と少々感慨深い感傷的な気分にもなった同期会のゴルフ・コンペであった。

■今日最後の話題は、最近読んだひろさちや著『空海と密教』についてである。
 本書は、09月21日に香川県善通寺市の「善通寺」を訪れた時、お土産cornerで購入したものである。
 是迄なかなか理解する機会のなかった弘法大師空海の一生と業績を解り易く非常にcompactに文庫本220頁余りに纏めた好著である。
 「空海(774-835)」について、本書「まえがき」以下、順を追って簡単にご紹介していきたい。
 尚、解説するに volume を要した為、今回(まえがき~遣唐使として入唐)と次回(帰朝~入定迄)の2回に分けてお届けすることとする。

『まえがき』

第一章/大学を去る空海
第二章/彷徨する空海
第三章/海を渡る空海
第四章/密教を完成させる空海
 〔 以上の詳細は前回《会報》にてお届け済 〕

第五章/帰って来た空海
 ※空海の帰国(P.102)
 空海が長安に入ったのが延暦23(804)年12月
 翌年の12月に師の恵果が入寂し、その次の延暦25(806)年にその師の葬儀が終わった
 (空海が帰国を考えたのは彼が)長安に入って僅か1年そこそこ
 空海は20年の滞在義務のある留学僧だが、帰りたくなったらさっさと帰る〔中略〕
 空海が帰国を考えた延暦25年正月には、遣唐判官の高階遠成(たかしな とおなり)が長安に遣って来ていた〔中略〕
 空海は、その高階遠成に帰国の嘆願書を提出〔中略〕
 かくて、空海は延暦25年02月下旬に長安を出発、04月越州着
 空海は既に長安に於いて300巻の経典論書を入手、越州でも更に精力的に文献を蒐集
 空海は、仏教書に加え、工学・医学・論理学等、広範囲に及び、彼の関心の広さと知識が窺える
 その後、空海は明州に移動し、恐らく08月下旬に明州を出帆、10月に日本着〔中略〕

 ※日本に最初に密教を伝えたのは最澄(P.104)
 空海は、明州の寧波で帰国の船に乗る前の3~4箇月間滞在した越州で、恐らく龍興寺の順暁(じゅんぎょう)に会っている筈だ
 順暁は、不空の弟子で〔中略〕恵果とは兄弟弟子〔中略〕
 後に空海のrivalとなる最澄が〔中略〕その順暁から密教の灌頂を受けれいる
 最澄の渡唐の目的は天台教学の完成の為で、天台山に行った
 あくまで密教は付け足しである
 処が、桓武天皇は、天台教学より密教に魅力を感じた
 其頃、桓武天皇は病い重く、早良親王の怨霊に悩まされており、密教の教学拠りも、その呪法に関心を示したのであった〔中略〕
 密教には教相〔=理論〕と事相〔= technic 〕の両面があり、教相を欠いた密教は technic 中心になり、如何わしいものになる
 最澄の密教は、ほんの一寸 technic (事相)だけを学んだ、不完全なものである
 勿論、最澄は、自分の密教が不完全であることを知っていた
 彼は良心的な人である為、決して不完全なものを売り込もうとはしなかった
 だが、不幸なことに、桓武天皇が密教の呪法に関心を寄せ、灌頂を遣れと命じた
 勅命であるから、最澄は従わざるを得ない〔中略〕
 我国に最初に密教を伝えたのは最澄であって、空海ではない〔後略〕

 ※朝廷の処遇が決まらない(P.107)
 空海は時々行方不明になる
 若い頃の空海は、山野を跋渉し、あちこちを放浪したらしいが、日本に帰って来た空海も、又行方が分からなくなった
 帰国した空海は、大同元(806)年10月22日付で、『御請来目録』を朝廷に提出した
 一緒に帰国した遣唐判官の高階遠成が上京するので、彼に届けて貰った〔後略〕

 ※高尾山寺に入る(P.110)
 空海が再び京に入ったのは、大同04(809)年07月
 空海の帰朝は入京に先立つ大同元年10月
 翌大同02年02月頃は、彼はまだ筑紫にいたことが分かっているから、その後の約2年間の消息が不明
 恐らく空海は当該2年間を山野を彷徨していたと想像される〔中略〕
 そして、大同04年、空海は和泉国の槇尾山寺に入った〔中略〕
 空海の入京を許す、大同04年07月16日付の太政官符が現存し、当該官符は和泉国司を通じ槇尾山寺にいる空海に届けられた〔中略〕
 大同04年に漸く、朝廷は空海の処遇を決めたのだ
 空海は勅命に拠って京の高尾山寺に入った
 高尾山寺は和気氏の氏寺で、〔中略〕最澄が此処で日本最初の密教の灌頂を遣った寺で、密教と深い因縁のある寺である〔中略〕
 空海を引き立ててくれた人は嵯峨天皇である
 大同04(809)年04月、平城天皇は病気がちを理由に皇位を弟に譲った
 この時嵯峨天皇は24歳〔中略〕
 翌、弘仁元(810)年に薬子の変が起き〔中略〕空海は嵯峨天皇に、高野山寺に於いて護国の為の護摩を焚きたいと願い出た〔中略〕
 勅許を得て、11月01日から鎮護国家の密教の行法が実修された
 これを契機に空海と嵯峨天皇の親交が始まったのである

 ※嵯峨天皇と空海との親交(P.113)
 天皇親政型の桓武天皇が贔屓にしたのは最澄だが、桓武天皇が亡くなった後、やや落ち目になった
 一方、文化人である嵯峨天皇は、政治は藤原家に任せ、自分は書道等、文化的な面に意欲を注いだ
 嵯峨天皇と空海の年齢差は12歳〔中略〕
 二人は気が合った
 ※空海は非難されるべきか?(P.116)

第六章/傍若無人の空海
 ※最初、空海が最澄を訪ねた(P.120)
 ※経典の借覧(P.123)
 ※空海に指示することになった最澄(P.125)
 ※最澄が受けたのは結縁灌頂(P.128)
 ※曼荼羅大宇宙に飛び込め!(P.130)
 ※空海と最澄は平行線(P.133)
 ※辛辣極まりる空海の断り状(P.135)
 ※最澄よ、法を盗む肴となるな!(P.139)
 ※言葉で伝えることの出来ない真実(P.141)
 ※完成度の高い空海の密教(P.144)
 最澄が、空海が期待する意味での「密教人間」にならなかった(orなれなかった)からこそ、後に最澄の天台宗から、日本の仏教界を担う大starが出現したのである。
 融通念仏宗開祖‥良忍(1072-1132)/浄土宗開祖‥法然(1133-1212)/浄土真宗開祖‥親鸞(1173-1262)/曹洞宗開祖‥道元(1200-53)/日蓮宗開祖‥日蓮(1222-82)/時宗開祖‥一遍(1239-1289)(注)
 一遍を除く5人は一度は比叡山に上って天台教学を学び、その後独自の道を拓いた祖師である
 一遍も天台教学を学んだ後、独自の教学を樹立した
 つまり、最澄の天台宗は、かかる宗教的宗歳を排出したのである
 一方、空海の真言宗からは、独自に一宗を樹立した弟子は出ていない
 それは何故かと言えば、空海の密教があまりにも完成度が高いものであったからである〔後略〕
 (注)ひろ氏は本書に書いていないが、臨済宗開祖‥栄西(1141-1215)も1153年に比叡山延暦寺に登り1154年得度している

 ※訣別の衝撃(P.146)

第七章/任務のない空海
 ※暇で忙しい空海(P.152)
 ※萬濃池の修繕工事(P.155)
 空海は様々な方面に「人脈」を持っていたと思っている
 だから、色んな「俗事」を遣ってのけることが出来たのである。

 ※「自作自演」する空海(P.158)
 ※神泉苑における雨乞い(P.161)
 ※綜芸(しゅげい)種智院の設立(P.163)
 一般庶民が学べる学校はなかったのだ
 其処で空海は、誰でもが入れる学校をつくったのである
 それが綜芸種智院である〔中略〕
 当院では、陰陽道・法律・医学・音楽等々の学芸が教授された
 そして空海は、この学校を完全給付制にした
 貧しくても学びたい気持ちのある者には、奨学資金を出して経済的保証をした〔中略〕
 だが、残念なことに、当院は空海没後18年で潰れて仕舞った
 経済的に破綻した為である
 空海という人物がいたからこそ、運営が出来た学校だったのである

 ※密教の本質は民衆仏教(P.166)

第八章/僧に専念する空海
 ※空海への東寺給預(P.172)
 ※東寺を真言宗の専門道場とする(P.174)
 朝廷が空海に東寺を給預したのは、彼が高野山に隠棲して仕舞うことを嫌った為であったと憶測出来る
 山に籠らず、もっと頻繁に都に出て来いといった命令でもあった
 すると、空海の方は空海で、さっさと東寺を、
 ― 教王護国寺 ―
 と改名し、それを真言宗の寺にして仕舞った


 ※空海の著作(P.177)
 1.『三強指帰』/2.『御請来目録』/3.『弁顕蜜二教論』/4.『即身成仏義』/5.『声字実相義』/6.『吽字義』/7.『般若心経秘鍵』/8.『秘密曼荼羅十住心論』/9.『秘蔵宝鑰(ほうやく)』/10.『文鏡秘府論』/11.『性霊(しょうろう)集』

第九章/山に眠った空海
 ※二重の人格を持つ空海(P.206)
 ※高野山の下賜を願う(P.208)
 ※密教の最高の聖地=高野山(P.212)
 ※高野山に籠居出来なかった空海(P.215)
 ※弟子の智泉の死(P.218)
 ※入定伝説(P.222)

『あとがき』
 21世紀になって、日本は益々格差社会になりました
 世の中全体に閉塞感が漂っています
 競争社会の世の中で、仮に貴方が齷齪努力して、それで競争の勝利者となった処で、大したことはありません
 それ拠り貴方は、もっと人間らしく生きて下さい
 人間らしく生きるということは、のんびり、ゆったりと生きることです
 齷齪しない/ がつがつしない/ いらいらしない/ そういう生き方が人間らしい生き方です
 そして、密教人間=空海は、徹底して人間らしい生き方をしました
 だから、いま、私達は空海に学ぶ必要があります
 私(=ひろ さちや)はそう考えて、本書を書きました〔2015年01月〕

【小生comment】
 「空海と密教」は、前《会報》と2回seriesでご紹介させて頂いた。
 著者のひろ氏は、難しい密教の教理を平易に解説してくれ、且つ、空海の著書と生涯を概括出来る様に表したのは本書である。
 とても読み易く、楽しい本であった。

【後記】秋の夜と言えば、お酒が似合う

 白玉の 歯にしみとほる 秋の夜の 酒はしづかに飲むべかりけり  若山牧水

 若山牧水の歌は書いてある字の通りの意味である
 「白玉の」は、白い歯、白玉=酒に掛かる枕詞的な語

 ※ ※ ※ ※ ※

 憂ひあらば 此酒に酔へ 菊の主  夏目漱石

 漱石の句は、中国の六朝時代の詩人陶淵明の「飲酒二十首」の中の其七が念頭にあるので、以下にご紹介する

 秋菊有佳色 秋菊 佳色あり
 衷露採其英 露を衷みて其の英(はなぶさ)を採り
 汎此忘憂物 此の忘憂の物に汎(うか)ぶれば
 遠我遺世情 我が世を遺(わす)るるの情を遠くす
 一觴雖獨進 一觴(いっしょう)獨り進むと雖ども
 杯盡壺自傾 杯盡きて壺自ら傾く
 日入群動息 日入りて群動息み
 歸鳥趨林鳴 歸鳥林に趨きて鳴く
 嘯傲東軒下 嘯傲す東軒の下
 聊復得此生 聊か復た此の生を得たり

 秋の菊がきれいに色づいているので、露に濡れ乍ら花びらを摘み
 この忘憂の物に汎(うか)べれば、世の中のことなど忘れて仕舞う
 觴(=杯)を重ねるうちに、壺は空になって仕舞った
 日が沈み辺りが静かになり、鳥たちは鳴き乍ら寝座(ねぐら)に向かう
 自分も軒端に立ち放吟すると、生き返った気分になるものだ
 (注)忘憂の物とは酒/杯についだ酒に菊の花を浮かべ飲む風習が中国には古くからあった。

【小生comment】
 気が浮かない時も、酒を飲めば憂さが晴れることが多い‥
 いまの小生の気分‥かな? (^^;;

 では、また‥。(了)

2015年10月11日 (日)

【時習26回3-7の会0569】~「『奥の細道』最終回【大垣】」「09月19~22日:四国旅行『6城〔高松城〕と4美術館〔「金刀比羅宮 高橋由一館」「大塚国際美術館」〕&『栗林公園』他を巡って〔その3(完)〕』」「09月26日:京都市美術館『Magritte』展&『再興 第100回 院展』を見て〔その2(完)〕&『無鄰庵』訪問」「10月03日:愛知県藝術劇場concert hall『 Eschenbach指揮VPO Concert』を聴いて」「ひろさちや著『空海と密教』を読んで〔その1〕」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 さぁ、今日も【2637の会 0569】号をお送りします。

■さて今日最初の話題は、「松尾芭蕉『奥の細道』の第20回目、今回が〔最終回〕である。
 この『奥の細道』は、【大垣】本文末尾をご覧頂ければお解りになる様に、「長月六日になれば伊勢の遷宮拝まんと‥」とある様に新暦10月18日に伊勢長島へ発つ処で終わっている。

 八月ニ十一日(新暦10月04日)「大垣」在
 九月六日(新暦10月18日)「大垣」発

 ※ ※ ※ ※ ※

【大垣】
《原文》
 露通(ろつう)(注1)も此(この)みなとまで出(いで)むかひて、みのゝ国へと伴(ともな)ふ。
 駒にたすけられて大垣(注2)の庄(しやう)に入(いれ)ば、曾良(注3)も伊勢より来(きた)り合(あひ)、越人(ゑつじん)(注4)も馬をとばせて、如行(じよかう)(注5)が家に入(いり)集(あつま)る。
 前川子(ぜんせんし)(注6)・荊口(注7)父子(けいこうふし)、其外(そのほか)したしき人々(注8)日夜とぶらひて、蘇生のもの(注9)にあふがごとく、且(かつ)悦び、且(かつ)いたはる。
 旅の物うさ(注10)もいまだやまざるに、長月六日(注11)になれば、伊勢の遷宮(注12)おがまんと、又舟にのりて(注13)、

  蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ

《現代語訳》
 八十村路通(注1)もこの敦賀の港まで出迎えに出て来て、美濃国へ同行してくれた。
 馬に乗り徒歩の労苦を助けられ大垣(注2)の庄に入ると、曾良(注3)も伊勢から来て合流して、越智越人(注4)も馬を飛ばして来て、近藤如行(注5)の家に集合した。
 津田前川子(注6)や宮崎荊口(注7)父子を始め、その他親しい人々(注8)が日夜訪ねて来て、まるで生き返った人(注9)にでも会うかの様に、私の無事を喜んでくれたり、旅の疲れを労ってくれたりした。
 長旅のから来る億劫な気分(注10)がまだ取れない儘に、九月六日(注11)になったので、伊勢の遷宮(注12)を拝もうと、又舟に乗り(注13)旅立つに際して‥

  蛤のふたみにわかれ行(ゆく)秋ぞ

 【意】離れ難い蛤の蓋(ふた)と身とに別れてられるが如く辛いお別れの時が来た‥
    私は「二見が浦」へ旅立つ
    今はもう晩秋である‥

  季語「行く秋」=秋九月

 【解説】「蛤」は桑名を筆頭に、当時から伊勢湾では名産で知られていた。
     「ふたみ」は、地名の「二見」に、蛤の「蓋(ふた)と身(み)」を掛けて、更に「み」には「見る」の意味も含まれている。
     「行(ゆく)秋」は、冬が近づく『晩秋』を動的に捉え、且つ、「行(ゆく)」は「別れ行く」と「行く秋」と掛け詞になっている。
     即ち、芭蕉を歓待してくれた大垣の親しい人々との別れの辛さを、蛤の「蓋(ふた)と身(み)」の別れに例える一方、
     「行く秋ぞ」で、深まって行く秋の動的な面を芭蕉のこれからの人生に重ね「これから旅立つ『人生』への決意」を表していると言えよう。

 ※ 2013.04.06付【2637の会 0440】~「03月30日:大垣市守屋多々志美術館→『大垣城』→『大垣市郷土館』→『奥の細道むすびの地記念館』を巡って」
  http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/26-04400330-aa7.html ← clickしてご参照下さい

[01]水門川と住吉燈台傍の船町港跡 20130330
 0120130330

 (注1)露通:八十村路通/近江大津の人/貞享02(1685)年頃、大津で芭蕉に認められ入門/当初『奥の細道』同伴者に予定されていた様である
    一時、芭蕉の勘気を蒙るも後に許されている/元文03(1738)年没(享年90歳)
 (注2)大垣:現・岐阜県大垣市/戸田氏定(とだ うじさだ(1657-33))十万石の城下町
    美濃大垣藩の第4代藩主〔戸田家第5代(・初代 一西(1543-1604)→第2代 氏鉄(1576-1655)→第3代 氏信→第4代 氏西(うじあき)→第5代 氏定)〕
    戸田家初代一西は、吉田(現・豊橋)生まれ、渥美郡多米(現・豊橋市多米町)の領主で、吉田城攻めに際して徳川家康の配下となり、以後三河譜代となる
    天正18(1590)年 小田原征伐/伊豆国山中城攻略に参戦/同年、家康の関東入りに従い、武蔵国鯨井(現・埼玉県川越市鯨井)5千石を賜う
    慶長05(1600)年 関ヶ原戦では徳川秀忠軍に従う/信濃上田城の真田昌幸攻めの際、これに唯一人反対/後に家康に賞さる
    慶長06(1601)年 2月、家康の命に拠り近江国膳所の築城を成し遂げ、膳所藩3万石を立藩/藩政安定のため、紅しじみ漁を奨励したという
    慶長09(1604)年 死去(享年62歳)/跡を長男の氏鉄が継ぐ
    慶長19(1614)年~同20(1615)年 大坂の陣では居城の膳所城の守備に徹す
    元和02(1616)年 摂津尼崎5万石へ移封
    寛永12(1635)年 07月28日、美濃大垣10万石へ移封、大垣藩初代藩主となる
    以後、明治維新(第11代 氏共(うじたか(1854-1936)))迄戸田氏が大垣藩10万石の藩主を代々務めた
 (注3)曾良:曾良の大垣到着は九月三日(新暦10月15日)(「曾良旅日記」拠り)
    芭蕉は八月二十一日(新暦10月04日拠り大垣在(「荊口句帳」拠り))
 (注4)越人:越智越人(おちえつじん)/名:十蔵/名古屋の染物問屋/別号に槿花翁(きんかおう)
    貞享年間~元禄初年(1684~88年)にかけて尾張の蕉風を開拓‥→尾張蕉門の重鎮
    蕉門十哲の一人/元禄元(1688)年「更級紀行」の旅に随伴/元文04(1739)年前後没(享年84歳)
 (注5)如行:近藤如行(じょこう)/名:源太夫、如行は俳号/元大垣藩士/禄位を返上し僧侶になった/宝永年間(1704-11年)頃没
 (注6)前川子:津田氏、通称:荘兵衛、前川(ぜんせん)は俳号/「子」は敬称/大垣藩士で詰頭(つめがしら)の職にあった
    大垣蕉門の一人/『奥の細道』旅行前、江戸勤番中、芭蕉、曽良と俳交があった
 (注7)荊口:宮崎氏、通称:太左衛門/荊口は俳号/大垣藩士、御広間番を務めた
    此筋(しきん)・千川(せんきん)・文鳥(ぶんちょう)の三人の子と共に芭門に入る
 (注8)其外したしき人々:谷木因(ぼくいん)・高岡斜嶺・浅井左柳・深田残香・高岡怒風といった大垣蕉門の人々
 (注9)蘇生のもの:「蘇生」は死者が生き返ること
 (注10)旅の物うさ:旅の疲労から来る、物事が億劫に感じられる状態のこと
 (注11)長月六日:陰暦九月六日(新暦10月18日)
 (注12)伊勢の遷宮:21年目毎に行われる伊勢神宮の改築遷座式(=式年遷宮)のことで、元禄02(1689)年がその年に当たった
     内宮は9月10日、外宮が9月13日に行われたが、芭蕉は内宮には間に合わず、外宮だけ間に合ったという
     皇大神宮(こうたい)神宮(=内宮)と豊受大(とようけだい)神宮(=外宮)を中心とした大小の社群の総称
    天武天皇が定め、持統天皇04(690)の第1回が起源
    戦国時代に120年余りの中断期間があったものの、2013(平成25)年〔第62回式年遷宮〕迄、1300年以上続いている
 (注13)舟にのりて:芭蕉は、回船問屋で、芭蕉の俳友の谷木因宅から、水門(すいもん)川を経て、大垣の東を流れる揖斐川、更に長良川を下って行った
    谷木因宅は、現在の大垣市船町「奥の細道むすびの地」公園になっている
    伊勢湾に出た芭蕉は、伊勢の二見が浦に再上陸して伊勢神宮へ向かった
    『奥の細道』【千住】の章/「舟に乗りて送る」「船をあがれば」に対応する言葉

【跋(ばつ)(注1)】
《原文》
 からびたる(注2)も艶(えん)なる(注3)も、たくましきもはかなげなるも、おくの細みちみもて行(ゆく)に、おぼえずたちて手たゝき、伏(ふし)て村肝(むらぎも)を刻む(注4)。
 一般(ひとたび)は蓑をきるゝゝかゝる旅せまほしと思立(おもひたち)、一(ひと)たびは座してまのあたり奇景をあまんず(注5)。
 かくて百般(ひやつぱん)の情(じやう)(注6)に、鮫人(かうじん)が玉(注7)を翰(ふで)にしめしたり。
 旅なる哉(かな)、器(うつはもの)(注8)なるかな。
 只なげかしきは、かうやうの人のいとかよはげにて、眉の霜(注9)のをきそふぞ。

  元禄七年初夏(注10) 素龍(注11)書

《現代語訳》
 枯れて物さびた風情(注2)も、派手である趣(注3)も、力強く雄々しい趣、か細く弱々しい趣も、「奥の細道」を読み進めていくと、思わず立ち上がって手を叩いたり、又臥して五臓六腑を揉まれる様な感動に胸が打たれるのである(注4)。
 私も或る時は蓑を着てこの様な旅をしたいと思い立ったり、また或る時は座った儘その景勝の地を想像して満足したりしているのである(注5)。
 こういった様々な感動(注6)を、まるで人魚の涙が結晶して玉となった(注7)ように、文章の力によって形にしたのだ。
 「奥の細道」の旅の、なんと素晴らしいことか。
 また芭蕉の才能のなんと優れていること(注8)か。
 ただ嘆かわしいことに、このように才能ある芭蕉が健康にはめぐまれず、かよわげなことで、眉毛にはだんだん白いもの(注9)が増えていっている。

  元禄七年初夏(注10) 素龍(注11)しるす

 (注1)跋:書物の「あとがき」
 (注2)からびたる:「からぶ」は、枯淡の趣を呈すること
 (注3)艶(えん)なる:歌論で、派手(はで)であることにいう用語を借りたもの
 (注4)村肝(むらぎも)を刻む:非常に感銘深いことを述べたもの/「村肝」は「群肝」で、五臓六腑を言う
 (注5)奇景をあまんず:「奇景」は素晴らしい風景・珍しい景色
    「あまんず」は、満足する〔文中に書かれた情景を思い浮かべただけで満足する、の意〕
 (注6)百般の情:「百般」は「一般」に対応/様々な感情のこと
 (注7)鮫人が玉:「鮫人」は、中国に於ける想像上の生き物で「人魚」に類する
    南海に棲み、恒に機(はた)を織り、屡々泣き、その涙は零れ落ちて珠玉となると伝える
    その玉が「鮫人の玉」で、『奥の細道』の文章は珠玉の様だと称賛したもの
 (注8)器(うつはもの):事を担当するに足る才能のこと/又、その人物の大きさ
 (注9)眉の霜:眉毛が白いことを指す/「霜」と、「置(をき)そふぞ」の「置く」は縁語
 (注10)元禄七年初夏:『おくのほそ道』の素龍清書本(西村本)の成立が元禄七年四月であることの証左
    芭蕉51歳/この年の10月12日、芭蕉は大阪に客死する
 (注11)素龍:本名は柏木儀左衛門/素龍斎又は全故と号した/大阪在住の阿波藩の浪人/元禄五(1692)年 江戸に下った
    芭蕉からの『奥の細道』書写を依頼され、「柿衛(かきもり)本」「西村本」を書き残した

【小生comment】
 【大垣】は、『奥の細道』の締め括りを飾る最終章である。
 所要日数「5箇月半」、全行程は約600里〔=2,400km〕に及ぶ。
 これだけの大旅行をし乍ら、これから「伊勢神宮」へ出かけて行く処で終えている。
 これは、「旅には終わりがない」「人生は『旅』である」という芭蕉の人生観が込められていると言って良い。
 また最終章【大垣】締め括りの俳句「蛤のふたみにわかれ行【秋】ぞ」と、
 【旅立ち〔出立〕】の章の「行く【春】や鳥啼き魚の目は泪」が対の句になっているのも芭蕉一流の才である。
 皆さん、【2637の会】《会報》5ヶ月間、20回seriesで326年前の芭蕉と同じ日程にてお届けした「松尾芭蕉『奥の細道』」は如何でしたでしょうか?
 実際小生も、【敦賀】での「中秋の名月」をほぼ同時期に見ることが出来たことなんかは、一寸した感動になりました。(^^;

 ※ ※ ※

【次の芭蕉 series の予告】
 このseriesの次は、来月から同じ松尾芭蕉の『笈の小文』を来月11月末頃拠りお届でする予定でいます。
 この作品は、貞享04年10月15日(新暦1687年11月29日)に江戸を出発。
 鳴海→勢田→吉田→保美(ほび)村の門人杜国(とこく)を訪ね、郷里の伊賀上野で越年。
 伊勢詣に杜国を同道し、吉野の花見→高野山→和歌浦→奈良→大坂→須磨→明石(翌年4月20日(新暦1688年05月19日))迄を旅した俳諧紀行。
 豊橋~伊良湖岬にかけて、芭蕉は以下の結構有名な三句詠んでいる

  寒けれど二人寐る夜ぞ頼もしき 〔吉田宿にて〕
  冬の日や馬上に氷る影法師   〔天津にて〕
  鷹一つ見付てうれしいらご崎  〔伊良湖岬〕

 詳細は、来月末以降の《会報》をお楽しみに!^-^!

■続いての話題は、前《会報》に引き続き、「09月19~22日:四国旅行『4つの重文天主閣を含む6つの城〔高松城〕と4つの美術館〔「金刀比羅宮 高橋由一館/常設展」「大塚国際美術館『常設展』展」〕&『栗林公園』他を巡って〔その3(完)〕』」

 〔‥前《会報》09月19~22日:四国旅行〔その2〕拠り続く‥〕

 13時30分 坂出市内の大衆食堂「食事処/こめや」発→〔高松自動車道(坂出IC→善通寺IC)を西南西へ少し戻る‥ 全18km/25分〕→
 14時00分 善通寺 西院西隣の駐車場 着
 善通寺は、創建当時伽藍のあった「東院」と、空海の両親(注)の邸宅があった「西院」とから成る
 〔(注)父:佐伯田公(さえき たぎみ)と母:玉寄御前(たまよりごぜん)〕
 御影堂は「西院」境内、即ち、佐伯家の邸宅地に建ち、弘法大師自作と伝わる本尊・瞬目大師像が秘蔵されている
 現在の建物は、天保02(1831)年建立、昭和11(1936)年修築

[02]善通寺 御影堂前にて
 02

 一方「東院」は、弘法大師自らが建立した、元来の「善通寺」
 大同02(807)年建立が始まり、弘仁04(813)年 金堂、大塔、講堂、法花堂等15宇が落慶
 弘法大師が入唐時代学んだ長安・青龍寺の伽藍を模して建立されたと伝えられている
 永禄元(1558)年 兵火に拠り約750年近く現存していた創建当初の伽藍諸堂は全焼
 その後、江戸時代に入り、漸次再建されて現代に至っている
[03]東院 五重塔と金堂をbackに
 03_back

 15時00分 善通寺 発→〔一般道を南南東へ8km/20分〕→
 15時30分 琴平グランドホテル桜の抄 駐車場 着
 15時40分 金刀比羅宮の参道の階段を登り出す
 16時20分 高橋由一館 着
 ※ 実は、最初は高橋由一館に気付かず、更に上に登り、旭社迄行って、行き過ぎたことが判り、その間の往復で20分程 loss time が生じた
[04]高橋由一館前にて
 04

[05]高橋由一『豆腐』1876-77年
 05187677

[06]同『鎧袖塔(がいしゅうとう)』1877年
 061877

[07]同『牧ヶ原望嶽』1878年
 071878

[08]同『桜花図』1879年
 081879

[09]同『海魚図』1879年
 091879

[10]金刀比羅宮 旭社
 10

 16時50分 金刀比羅宮 本宮 着
[11]金刀比羅宮 本宮前にて
 11

[12]金刀比羅宮本宮より讃岐富士「飯野山」422m遠望
 12422m

 17時40分 宿泊所 紅梅亭 着〔泊〕

 ※ ※ ※ ※ ※

[13]紅梅亭前にて(check out直後)
 13check_out

 08時25分 紅梅亭 発→〔高松自動車道 善通寺IC→高松西IC(22km) 全39km/45分〕
 09時30分 栗林公園 着
 此処で、栗林公園について一言触れて置きたい
 元亀・天正(1570-73-93)年間:現・高松市伏石町在住の豪族佐藤道益に拠り西南地区(小普陀付近)に造営された小別邸が公園の起源と伝わる
 1625年頃:讃岐国国主生駒高俊によって南湖一帯が造営〔‥寛永17(1640)年 生駒騒動に拠り生駒家が改易‥〕
 寛永19(1642)年:新・高松藩12万石藩主(=水戸徳川家連枝)松平頼重(1622-95)に引き継がれ、以後藩主5代100年以上をかけて造営
 延亨02(1745)年:第5代藩主松平頼恭の時代に完成→高松藩別邸「栗林荘」として使われた
 昭和28(1953)年:に国の特別名勝に指定
 【大名庭園の日本三庭園の上に rank される栗林公園】
 「‥水戸ノ偕楽園、金沢ノ兼六園、岡山ノ後楽園ニシテ、之ヲ日本ノ三公園ト称ス。然レドモ高松ノ栗林公園ハ木石ノ雅趣却ツテ批ノ三公園ニ優レリ」とある
 (‥明治43年に文部省から発行された『高等小学読本』巻一(明治43(1910)年‥)

[14]栗林公園にて01
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[15]同02
 1502

[16]同03
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[17]同04
 1704

[18]同05
 1805

 10時50分 高松城 玉藻公園 着
 高松城は、高松藩の居城・藩庁
 生駒氏の代は、生駒親正(1526?-1603)が17万1,800石で讃岐一国を領有するも、生駒騒動で寛永17(1640)年改易
 寛永19(1642)年 松平頼重が12万石で入封
 以後、高松松平家が代々讃岐半国の東讃地域を領有
 松平頼重は、水戸徳川家頼房の長男
 水戸光圀の同母兄に当たる
 光圀は、兄頼重の嫡子を水戸徳川家の養子(水戸徳川家第3代藩主綱條(つなえだ(1656-1718)))にした
 一方、光圀の嫡子を兄頼重の養子(高松松平家第2代藩主頼常(1652-1704))とした

[19]高松城 水手御門【重文】
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[20]高松城 披雲閣〔高松松平家 別邸〕内部
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[21]高松城 艮(うしとら)櫓【重文】をbackに
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 12時00分 高松市丸亀商店街
 高松城を見た後は、高松城がある玉藻公園の直ぐ南にある、丸亀商店街で讃岐うどんを食べることにした
 高松市丸亀商店街は、駅前再開発の成功事例として全国的にも有名な商店街である
 確かになかなかsenseの良いshopが並んでいた

[22]高松市丸亀商店街 入口
 22

 12時50分 高松市丸亀商店街 発→〔高松自動車道 高松中央IC→鳴門IC(55km)全73km/1時間05分〕
 14時25分 大塚国際美術館 着
 当初予定では、鳴門の渦潮を見るべく、「うずの道」を目指したのであるが、鳴門大橋周辺はかなりの渋滞でいつ到着出来るかも判らなかった
 一方、大塚国際美術館の方は、混雑はしていたが、送迎busが出ており、それに載れば直ぐ到着する、ということで急遽目的地を当美術館に変更した

 展示作品は、全て imitation の絵画であるが、なかなか上手に出来ていたので、それなりに楽しく拝観出来た
 ダヴィッド作『ナポレオン一世の戴冠式』(6.29m×9.26m)1805-07年〔Louvre美術館蔵〕が迫力あっていい
 因みに、この作品は作者ダヴィッド本人の手に拠って、Versailles宮殿にも殆ど同じ絵がある
 そして、なんやかんや言っても、印象派・後期印象派の作品が一番華やいでいていい
 Flashを使わなければ撮影はOKということなので、CézanneとGoghの作品群の前にて小生 snap-shots を撮影した

[23]大塚国際美術館1F 庭園
 231f

[24]同館B1 gallery C セザンヌの作品の前にて
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[25]同館B1 近代10 ゴッホの作品の前にて
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【小生comment】
 小生、15時半過ぎに、大塚国際美術館を後にして、大阪府豊中市に住む娘夫婦の家に立ち寄り、夕食を一緒に摂った後、帰途に就いた。

■続いての話題は、これも前《会報》に引き続き、09月26日(土)の京都での京都市美術館での『マグリット』展と『再興 第100回 院展』について〔その2〕である。

 京都市美術館にて『マグリット』展と共に開催中の『再興 第100回 院展』を見た。
 今年、日本美術院は創設から117年、再興から101年、そして「再興 院展」は100回を迎えた。
 日本美術院は、明治31(1898)年に岡倉天心に拠って創設された。
 しかし、明治36(1903)年以降は展覧会を開催されず、岡倉が没した大正02(1913)年には事実上休止状態にあった。
 岡倉の一周忌に当たる大正03(1914)年09月02日、横山大観が中心となって谷中に再建した研究所にて「再興 日本美術院」がstartした。
 本展では、再興第100回院展記念として、第39回(1954年)~第99回(2014年)迄の表紙絵が一覧された。
 同人34人の作品は矢張り素晴らしい。
 以下に、展示作品の幾つかをご紹介する。
 因みに、藁谷実『永遠の彩り』以外の8点はいずれも同人である。

[26]再興 第100回 院展 leaflet/絵は 大矢 紀『赤富士』2015年〔全作品集表紙〕
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[27]下田義寛『雲上朝暘』2015年
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[28]小山硬『長良川 鵜飼』2015年
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[29]清水達三『海霧』2015年
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[30]宮廻正明『行間のよみ』2015年
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[31]松村公嗣『うず潮』2015年
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[32]小田野尚之『渡る風』2015年
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[33]大野逸男『雪代(ゆきしろ)の滝』2015年
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[34]藁谷実『永遠の彩り』2015年:日本美術院賞(大観賞)
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【小生comment】
 再興院展は、同人34人の技量の優れた作品を毎年出品しているが、毎回見る度に勉強になる。
 今年の名古屋展は、松坂屋にて11月28日(土)~12月06日(日)に開催される。
 まだご覧になられていない皆さん、必見の日本画展ですよ!

■折角京都へ来て、「美術館だけでは勿体ない」と思った小生、京都市美術館の近くにあってまだ訪れたことのない『無鄰菴』を訪ねてみた。
 無鄰菴は,明治27~29年(1894~96)年に掛け明治・大正の元老 山県有朋(1838-1922)が京都市左京区南禅寺草川町31番地に造営した別荘である。
 その名の起こりは、有朋が長州に建てた草庵が隣家のない閑静な場所であったことからだという。
 その後、京都市木屋町二条に別荘「無鄰菴」を構えた後、3つ目の別荘として造営したのがこの『無鄰菴』である。
 敷地の大半を庭園(面積約3,135㎡)が占める。これは、有朋自身の設計・監督、造園家 小川治兵衛(おがわ じへえ)作庭に拠る。
 東山を借景、疏水の水を取り入れた池泉廻遊式庭園で、国の名勝に指定されている。

[35]無鄰菴 庭園01
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[36]同 庭園02
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[37]同 内部01
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[38]同 内部02
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【小生comment】
 『無鄰菴』は、庭園が素晴らしかった。
 明治維新政府の元勲・山形有朋は、個人的な好き嫌いは別として、この菴と庭園は素晴らしく、気に入った。

■続いての話題は、10月03日(土)18時00分から愛知県芸術劇場concert hallにて開催された、クリストフ・エッシェンバッハ指揮ウィーンフィル・コンサートについてである。
 10月03日(土)は、小生、privateでも忙しい一日であった。
 因みに、その日の行動を記すと以下の通りとなる。

 11時00分 豊橋市内の寺院で、亡父の直ぐ下の弟となる亡き叔父の三回忌法要
 〔 14時半に一旦帰宅した後、平服に着替えてから名古屋へ 〕
 16時10分 名古屋市美術館を訪れた。『リバプール国立美術館所蔵~ラファエル前派』展
 17時15分 愛知県芸術劇場concert hall/ Christoph Eschenbach指揮Wiener Philharmoniker Concert
 20時45分 銀行時代の同期の友人と一献

 演奏曲目は、W. A. Mozart作曲の最晩年の交響曲第39番・40番・41番「Jupiter」である。
 小生、第40番については、高校三年生になる直前の春休み、即ち1973年03月に名古屋市金山の文化会館(当時)にて、今は亡きクラウディオ・アバド指揮のVPOで聴いた懐かしい思い出がある。
 第39番と第41番「Jupiter」の2曲については、ウィーンフィルの生演奏を聴くのは今回は初めてである。
 第40番と41番の間に20分間の休憩があった。
 3曲共に素晴らしい演奏であった。
 透き通る様に澄み切った音色乍ら温かさも感じさせる完璧な弦楽器群、そしてこれも再興の技量と完璧な演奏の木管&金管楽器群‥。
 もう、この世のものとは思えない至高の芸術音楽であった。

 小生、大作曲家の中では、Mozartが一番好きである。
 小生の結婚披露宴の入場行進曲は、このジュピター交響曲の第四楽章を四分の四拍子ですが使った思い出がある。
 このMozartの最高傑作で最後の交響曲の最終楽章のclimaxは本当に感動的で、演奏の素晴らしさも相俟って暫し陶酔して仕舞った。
 Concertは修了後、encoreは演奏されなくて残念だったが、こんな素晴らしいジュピター交響曲の最終楽章を聴いたら、もうencore曲なんか要らない!
 ホント、そう思えた程の極上の名演奏であった。!(^-')b♪

[39]C. Eschenbach指揮VPO concert leaflet
 39c_eschenbach_vpo_concert

■今日最後の話題は、最近読んだひろさちや著『空海と密教』についてである。
 本書は、09月21日に香川県善通寺市の「善通寺」を訪れた時、お土産cornerで購入したものである。
 是迄なかなか理解する機会のなかった弘法大師空海の一生と業績を解り易く非常にcompactに文庫本220頁余りに纏めた好著である。
 「空海(774-835)」について、本書「まえがき」以下、順を追って簡単にご紹介していきたい。
 尚、解説するに volume を要した為、今回(まえがき~遣唐使として入唐)と次回(帰朝~入定迄)の2回に分けてお届けすることとする。

『まえがき』
 人間、欲があるから悩むんです。
 仏教の教えは、詰まる処それに尽きます。〔中略〕釈迦は、人生は苦であると教えました。〔中略〕老・病・死‥愛する者との別離‥怨み‥〔中略〕求めるものが得られない苦しみ、人生は苦しみに満ち溢れています。
 じゃあ、何故人生は苦しみなのか?
 釈迦は、それは欲望があるからだと教えました。欲があるから人間は苦しみ悩むのです。
 〔中略〕食欲・性欲・睡眠欲は人間の基本的な欲望であって、それをなくせば人間でなくなって仕舞います。〔中略〕
 釈迦の教えをうけた弟子たちは、何とかして欲望を克服することを考え、滅却出来る欲望は滅却しようと努力しました。〔中略〕
 この禁欲主義こそ仏教の本質と考えたのが小乗仏教です。〔中略〕
 処が、それは違う‥と主張する人物が現れた。仏教の本質は禁欲主義ではなしに、逆に、
 ‥「大欲」‥なのだという主張です。その様な主張をした人物が「空海」なのです。〔中略〕
 これは、普通に言われるです。「でっかい欲望」ではありません。〔中略〕
 もっとあっけらかんとした欲望‥「真実の人間らしく行きたい」‥といった欲望です。〔中略〕
 兎も角、現代日本人は悩みだらけです。〔中略〕ちまちました欲望、みみっちい欲望に駆られているからです。
 私たちは空海に教わって、もっと「大欲」を持ちましょうよ。真実の人間らしく生きましょう。〔中略〕
 どうかあなたも空海の様な密教人間になって下さい。
 そうすれば、現代にあってものんびり、ゆったり、のびのびと生きることが出来ますよ。

第一章/大学を去る空海
 ※空海は迷ったか/迷わなかったか?(P.16)
 ※迷いの本質(P.18)
 ※大学に学ぶ空海(P.23)
 ※空海の誕生(P.26)
 ◆空海の父は、名を佐伯直田公(さえきの あたい たきみ)といい、この地方の豪族であった。
 又、母も阿刀(あと)氏の出自で、同じく地方豪族である。
 実は、この母の弟、空海からすれば叔父にあたる人物が阿刀大足(あとのおおたり)である。
 阿刀大足は、のちに桓武天皇の皇子である伊予親王の侍講(じこう(=天皇や皇子に講義する官職))を務めた碩学である。
 たぶん空海は、幼年時代、この阿刀大足の薫陶を受けた筈だ。
 或いは、空海が十八歳で大学に入ったのも、この叔父の推挙に拠るものかもしれない。
 大学に入った空海は刻苦勉励したに違いないが、その前に彼は多くを学んでいたことは否定出来ないであろう。
 その幼年時代の下地があってこそ、のちに大きな花が咲いたのである、わたしはそう思う。(P.28)

 ※大学の勉強は「かす」ばかり(P.29)
 ※無欲で行動する空海(P.32)

第二章/彷徨する空海
 ※『三教指帰』(P.36)
 ※勤操との出会い(P.38)
 ※わたしは風来坊だ!(P.41)
 ※空海は中国に密航していたか?(P.44)
 ※空海の全国行脚?(P.46)
 ※『大日経』の発見(P.48)
 ※密教の基礎理論(P.51)
 ※密教は母国語を学ぶ仏教(P.54)

第三章/海を渡る空海
 ※遣唐使の一員に加わる(P.58)
 ◆縁略23(804(空海31歳))年07月06日、空海を乗せた舟は肥前田浦港より出港した。(P.58)〔中略〕
 空海は、唐に渡って密教を学びたいと思った。
 そうすると、空海が相談出来る人は阿刀大足しかいない。〔中略〕空海は15歳の時から、この叔父に親炙し(=親しくその人に接して感化を受け)ている。〔中略〕資格は留学僧(るがくしょう)である。留学僧は20年間唐に留まって勉学することが義務付けられている。〔中略〕

 ※同じ年に最長も唐に渡った(P.60)
 ※日本と中国の外交関係(P.63)
 ※海賊に間違えられた遣唐使一行(P.66)
 ※長安に入った遣唐使一行(P.69)
 ※天竺行きを考えた空海(P.73)

第四章/密教を完成させる空海
 ※空海は何故恵果を訪ねなかったか?(P.78)
 ※「梵我一如」の哲学(P.81)
 ※大日如来からの加持力(P.84)
 ◆我々は、菩提心、仏に向かって歩もうとする志さえ持っていれば、其処に大日如来の力(=加持力)が加わって来るのだ。
 密教は自力と他力といった考え方をしないで、「三力」を説く。
 三力とは、行者自身の自力の修行である「功徳力(くどくりき)」と、大日如来から加わる「加持力」と、環境の力というべき「法界(ほっかい)力」である。
 我々が功徳を積んでいると、それに大日如来が応じて下さり、更に全世界、全宇宙からの無形の力が加わる。
 密教ではその様に考えている。
 それを知った上で、密教は「他力的」であるというのは正しい。
 自力の仏教ではないのである。(P.86)

 ※身・口・意の三密(P.87)
 ◆あと一つだけ言っておきたい。
 兎も角空海は、彼独自の密教理論を完成させた上で恵果(746-806)に会いに行ったのだから、我々も空海が考えていたことを、あらましは知っておかねばならないからである。(P.87)〔中略〕
 密教が考えるのは、実は、
 ‥入我我入‥
 である。
 これは、「仏入我、我入仏」と読んだ方が良い。
 仏が我れの中に入って来て、そして我、仏の中に入る。
 繰り返し繰り返し、「仏入我、我入仏」を続けていると、終に我々は仏と合一出来る。
 それが理想の境地なのだ。〔中略〕
 (理想の境地に)到達出来ない迄も、少しでも其処に近づくことは出来る。〔中略〕
 それは、仏の真似をすすことだ。
 或いは、仏らしく生きると言っても良い。〔中略〕
 その際、密教では、
 ‥身(しん)・口(く)・意(い)の三密‥
 といって、我々凡夫の身体的行動と言語の行動、そして心の働きの3つを仏のそれと一致させることを考える。〔中略〕
 我々一般人からすれば、
 ・身体的行動としては‥‥仏らしい行動をし、
 ・言語活動としては‥‥慈悲の言葉を口にし、
 ・心においては‥‥小欲知足でいる、
 ことを心がければ良い。
 そうすると、我々に自然と大日如来の力が加わって来る。
 そして、拠り仏らしくなることが出来るのだ。
 この様なことを空海は考えた。
 彼はこれが密教の基礎理論であることを確信した。(P.88-89)

 ※恵果から灌頂を受ける(P.90)
 ◆空海は、青龍寺に恵果大阿闍梨を訪ねて行った。
 遣って来た空海の力量を、恵果は直ぐ様見抜いた。
 空海自身が書いている様に、恵果は一目見た瞬間に、
 「そなたの来るのを待っていた」
 と行ったかどうか、其処は表現の綾である。
 しかし、一両日もすれば、相手の力量がどれ位か、阿闍梨には解る。
 恵果は遣って来た外国人が「只者」ではないと直感し、
 <この人は自分の後継者に相応しい>
 と思ったであろう。
 其処で直ぐ様空海に「灌頂(かんじょう)」を受けさせた。
 灌頂というのは、もとは印度で、王が即位する時に行われた儀礼である。
 頭に水を注ぎかける。
 キリスト教の洗礼の様なものだ。〔中略〕
 処で、密教には二つの系統がある。詳しいことは省略するが、一般にそれを、
 ‥金剛界と胎蔵界‥
 と呼んでいる。〔中略〕
 元々金剛界と胎蔵界は別に伝えられたが、それが恵果に拠って纏められて、両者が統合されたのである。
 さて、空海が青龍寺に恵果を訪ねて行ったのが延暦24(805)年05月の下旬。
 ひょっとすれば06月の上旬であったかもしれない。
 06月13日に‥‥胎蔵界の灌頂を受ける
 07月上旬には‥‥金剛界の灌頂を受けている
 更に驚いたことには、
 08月10日には‥‥阿闍梨位の伝法灌頂を受けた。
 阿闍梨とは師匠になったことだ。
 卒業証書の授与だと思えば良い。
 僅か二か月余りで、空海は恵果から全てを学んだのである。
 超speedである。
 空海の天才を物語っている。〔中略〕

 ※「唯仏与仏」の世界(P.93)
 ※恵果の入寂(P.96)

 〔 以下の詳細は次回《会報》にてお届けする‥お楽しみに! 〕

第五章/帰って来た空海
 ※空海の帰国(P.102)
 ※日本に最初に密教を伝えたのは最澄(P.104)
 ※朝廷の処遇が決まらない(P.107)
 ※高尾山寺に入る(P.110)
 ※嵯峨天皇と空海との親交(P.113)
 ※空海は非難されるべきか?(P.116)

第六章/傍若無人の空海
 ※最初、空海が最澄を訪ねた(P.120)
 ※経典の借覧(P.123)
 ※空海に指示することになった最澄(P.125)
 ※最澄が受けたのは結縁灌頂(P.128)
 ※曼荼羅大宇宙に飛び込め!(P.130)
 ※空海と最澄は平行線(P.133)
 ※辛辣極まりる空海の断り状(P.135)
 ※最澄よ、法を盗む肴となるな!(P.139)
 ※言葉で伝えることの出来ない真実(P.141)
 ※完成度の高い空海の密教(P.144)
 ※訣別の衝撃(P.146)

第七章/任務のない空海
 ※暇で忙しい空海(P.152)
 ※萬濃池の修繕工事(P.155)
 ※「自作自演」する空海(P.158)
 ※神泉苑における雨乞い(P.161)
 ※綜芸(しゅげい)種智院の設立(P.163)
 ※密教の本質は民衆仏教(P.166)

第八章/僧に専念する空海
 ※空海への東寺給預(P.172)
 ※東寺を真言宗の専門道場とする(P.174)
 ※空海の著作(P.177)
 1.『三強指帰』/2.『御請来目録』/3.『弁顕蜜二教論』/4.『即身成仏義』/5.『声字実相義』/6.『吽字義』/7.『般若心経秘鍵』/8.『秘密曼荼羅十住心論』/9.『秘蔵宝鑰(ほうやく)』/10.『文鏡秘府論』/11.『性霊(しょうろう)集』

第九章/山に眠った空海
 ※二重の人格を持つ空海(P.206)
 ※高野山の下賜を願う(P.208)
 ※密教の最高の聖地=高野山(P.212)
 ※高野山に籠居出来なかった空海(P.215)
 ※弟子の智泉の死(P.218)
 ※入定伝説(P.222)

[40] ひろさちや著『空海と密教』
 40

【小生comment】
 「空海と密教」は、volumeが嵩むので今回は〔その1〕として、空海が入唐して恵果から灌頂を受けた処迄お伝えした。
 それにしても、空海は実にscaleの大きい人物である。

【後記】明日10月12日(祝月)「体育の日」は、我等時習26回生のゴルフコンペ「時習26会」が浜名湖CCである。
 その模様は、次回会報にてご報告する予定です。
 お楽しみに!^-^

 では、また‥。(了)

2015年10月 4日 (日)

【時習26回3-7の会0568】~「『奥の細道』第19回‥【敦賀】【色の浜(=種の濱)】」「09月19~22日:四国旅行『4つの重文天主閣を含む6つの城〔松山城&丸亀城〕と4つの美術館〔「丸亀市立猪熊弦一郎現代美術館/常設展」「東山魁夷せとうち美術館『美を求める心/東山魁夷を読む』展」〕他を巡って〔その2〕』」「09月26日:京都市美術館『マグリット』展&『再興 第100回 院展』展を見て〔その1〕」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 さぁ、今日も【2637の会 0568】号をお送りします。

■さて今日最初の話題は、「松尾芭蕉『奥の細道』の第19回目である。
 愈々『奥の細道』も、climaxが近づいて来た。
 今回の【敦賀】【色の浜(=種の濱)】をお届けすると、次回が最終回【大垣】である。
 今から326年前の元禄二年弥生二十七日(新暦05月16日)と正に同じ時期にstart。
 芭蕉の歩調に合わせて一緒に旅をして来たが、早いもので丸4箇月が経過した。

 さて、今回の【敦賀】【色の浜(=種の濱)】の処に於ける芭蕉の足跡を久富哲雄著『おくのほそ道』全訳注 に従い記す。
 「十四日の夕ぐれ」「十五日」と日付を追って、現実的叙述にかわり、敦賀での待宵(まつよい)・雨名月の記事が、宿のあるじを中心に書かれている。
 本文の記述に拠ると、芭蕉と等栽は、福井を朝出発し、その日(十四日)の夕方敦賀に着いた様に思われるが、実は十三日(新暦09月26日)朝の出発で、鯖江・府中を経て湯尾峠を越え、今庄で一泊したと考えられる。「燧(ひうち)が城/義仲の寝覚(ねざめ)の山か月かなし」(『荊口(けいこう)句帳』芭蕉翁月一夜十五句)がその証左である。(前掲『おくのほそ道』P.317-18)
 芭蕉は、八月十六日(新暦09月29日)の夜は【色の浜】の本隆寺に宿泊したものと思われる。
 敦賀に帰着したのが十七日(新暦09月30日)として、路通(ろつう)が出迎えに来たのも同日とすれば、敦賀発は十八日(新暦10月01日)朝と推察される。
 敦賀での宿が「出雲屋弥市良」方であったことは、『曽良旅日記』八月十日の条に、「出船前、出雲や弥市良へ尋。隣也。金子壱両、翁へ可レ渡之旨申頼、預置也」と見えることに拠って判明する。(前掲 同 P.317-18)
 因みに、「『荊口句帳』所収/「芭蕉翁月一夜十五句」の路通序の日付が、「元禄己巳(つちのとみ)中秋廿一日以来大垣庄株瀬川辺」とある。
 故に、芭蕉は八月二十一日(新暦10月04日)には【大垣】に在ったことが分かっている。(前掲 同 P.327-28)

 八月十~十二日(新暦09月23~25日) 「福井/神戸洞哉宅」
 八月十三日(新暦09月26日)「今庄/宿不明」
 八月十四~十五日(新暦09月27~28日)「敦賀/出雲屋」
 八月十六日(新暦09月29日)「色の浜(=種の濱)/本隆寺」
 八月十七日(新暦09月30日)「敦賀/出雲屋」
 八月十八日or十九日(新暦10厚01日or 02日)朝「敦賀/出雲屋」発
 〔八月十八~二十日(新暦10月01~03日)「所在/宿不詳」〕
 八月ニ十一日(新暦10月04日)「大垣」

 ※ ※ ※ ※ ※

【敦賀】
《原文》
 漸(やうやう)白根(しらね)が嶽(だけ)かくれて、比那(ひな)が嵩(だけ)(注1)あらはる。
 あさむづの橋(注2)をわたりて、玉江(たまえ)の蘆(あし)(注3)は穂に出(いで)にけり。
 鶯(うぐひす)の関(注4)を過(すぎ)て、湯尾(ゆのを)峠(注5)を越れば、燧(ひうち)が城(じやう)(注6)、かへるやま(注7)に初雁(はつかり)(注8)を聞(きき)て、十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。
 
 その夜、月殊(ことに)晴(はれ)たり。
 「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「越路(こしぢ)の習ひ、猶(なほ)明夜(めいや)の陰晴(いんせい)(注9)はかりがたし」と、あるじに酒すゝめられて、けいの明神(みやうじん)(注10)に夜参(やさん)す。
 仲哀天皇(注11)の御廟(ごべう)也。
 社頭(しやとう)神(かみ)さびて(注12)、松の木(こ)の間(ま)に月のもり入(いり)たる(注13)、おまへの白砂(はくさ)霜を敷るがごとし。
 往昔(そのかみ)、遊行(ゆぎやう)二世(にせ)の上人(しやうにん)(注14)、大願発起(たいぐわんほつき)(注15)の事ありて、みづから草を刈(かり)、土石(どせき)を荷(にな)ひ、泥渟(でいてい)をかはかせて、参詣往来(わうらい)の煩(わづらひ)なし。
 古例(これい)今にたえず、神前に真砂(まさご)を荷ひ給ふ。
 これを「遊行の砂持(すなもち)(注16)と申(まうし)侍る」と、亭主のかたりける。

  月清し遊行のもてる砂の上

 十五日、亭主の詞(ことば)にたがはず雨降(ふる)。

  名月や北国日和(ほつこくびより)定(さだめ)なき

《現代語訳》
 行く程に漸く白根が嶽が見えなくなり、代わって比那が嶽(注1)が姿を現した。
 浅水(あさむづ)の橋(注2)を渡るり、玉江の畔に来ると、古歌に詠まれた玉江の蘆(注3)は穂を実らせていた。
 鶯の関(注4)を過ぎて湯尾峠(注5)を越えると、木曽義仲所縁の燧が城(注6)・帰山(注7)に初雁の鳴き声(注8)を聞き、十四日の夕暮れ、敦賀の津で宿をとった。

 その夜、月は特に見事だった。
 「明日の夜もこんな素晴らしい名月が見られるだろうか」と言うと、「(天候の変わり易い)越路では明晩の天気が晴れるかどうか(注9)は、予測が出来かねます」と宿の主人に酒を勧められ、気比神社(注10)に夜参した。
 仲哀天皇(注11)の御廟である。
 境内は、社殿の辺りは神々しい雰囲気に包まれ(注12)、松の梢の間から月光が漏れて来て(注13)、神前の白砂は霜を敷いた様である。
 昔、遊行二世 他阿上人(注14)が、大願を思い立ち(注15)、自ら草を刈り、土石を運び入れ、泥沼を乾し整備された為、参詣往来が不便でなくなったのである。
 この先例が今に続き、代々の遊行上人が神前に砂をお運びになっておいでなのである。
 「これを遊行の砂持ち(注16)と申します」と宿の亭主は語った。

 【意】折から待宵(まつよひ(=小望月(こもちづき)))の月が輝いている
    その昔、遊行二世上人が気比明神への参詣を楽にするために運んだという白砂‥
    その白砂の上に月が輝いている
    実に清らかな眺めであることだ

  季語「月」=秋八月

 【解説】「気比のみや/ なみだしくや 遊行のもてる 砂の露」が初案
     「月清し 遊行のもてる 砂の露」が再案

 十五日(=『中秋の名月』の日)は、亭主の言葉に違(たが)わず雨が降った。

 【意】今夜は敦賀の湊の『中秋の名月』を期待していたのに、生憎の雨になって仕舞った
    本当に北国(=北陸地方)の天気は変わり易いものなのだナァ

  季語「明月」=秋八月

 【解説】本文中の宿の主人の「越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたし」という言葉に照応する俳句
    「定めなき」は、空模様が一定していない様をいうが、「体言止め」で「詠嘆」を表現している

 (注1)比那が嵩:現・福井県武生(たけふ)市南東約5kmにある山(海抜795m)/日野山、日永嶽ともいう
 (注2)あつむづの橋:浅水の橋/現・福井市清水町の麻生津川に架かる橋/「歌枕」「橋は、浅むづの橋」(『枕草子』)
    芭蕉は、此処で「あさむづ」を「朝六つ」にかけて、早朝に出発したことも表している
 (注3)玉江の蘆:現・福井市花堂(はなんどう)町虚空蔵川に玉江の橋が架かっている
    その辺りに自生する芦を「玉江の芦」という/「歌枕」
    「夏かりのあしのかりねのあはれなり玉江の月の明け方の空 藤原俊成(新古今集)」
    正しい道順は、「福井→玉江→あさむづの橋」となる
 (注4)鶯の関:現・南条郡南条町関ケ鼻/「歌枕」/「鶯の啼つる声にしきられて行きもやられぬ関の原哉 (方角抄)」
    【歌の意】春先に鶯の啼く声の為に関を越せなかった
    此処では、今季節は秋、だから鶯も啼かないので無事関を越せた、の含意がある‥とするのは深読み過ぎるかナ?(^^; 
 (注5)湯尾峠:現・南条郡今庄町湯尾の南/湯尾tunnelの上/木曽義仲の陣があったことで知られる
 (注6)燧が城:現・南条郡今庄町、藤倉山東端の城/寿永02(1182)年 木曽義仲軍6千余騎が籠った城があった
    平家物語『火打合戦』/「義仲の寝覚めの山か月かなし 芭蕉」
 (注7)かへるやま:「枕詞」/「たちわたる霞へだてて帰山来てもとまらぬ春のかりがね /二品親王性助(続後遺集)」
    木曽義仲は味方の斉明威儀師(さいめい いぎし)の裏切りにより燧が城を落とされる
    「帰山(かへるやま)」は、「裏切る」という意の「かへる」という含意がある
 (注8)初雁:秋に北方から初めて渡って来る雁
 (注9)明夜の陰晴:これは、北宋の孫明復(992-1057)の詩『八月十四夜』第4句からの引用されている

    八月十四夜  孫明復(992~1057)〔宋〕
   銀漢無聲露暗垂 銀漢声無くして露(つゆ)暗(やみ)に垂(た)る
   玉蟾初上欲圓時 玉蟾初めて上げて円(まどか)ならんと欲する時
   清樽素瑟宜先賞 清樽素瑟(せいそんそしつ)宜しく先(ま)づ賞すべし
  【明夜陰晴未可知】【『明夜(めいや)の陰晴(いんせい)』未(いま)だ知る可(べ)からず】
   ※ 銀漢(ぎんかん):天の川、銀河
   ※ 玉蟾(ぎょくせん):月の異称(←「蟾」は蟇蛙/月に蟇蛙が住んでいる言われることから)

   明日の夜の空が曇るか晴れるかは予測し難い、の意
 (注10)けい(気比)の明神:正しくは「けひ」/福井県敦賀市曙町の気比神宮
    祭神は、伊奢沙別命(い(ざ)さわけのみこと(=気比大神))を主祭神
    仲哀天皇・神宮皇后・日本武尊・応神天皇・玉妃命(たまひめのみこと)・武内宿禰命(たけのういちのすくねのみこと)も祭神として合祀されている
    北陸道の総鎮守として著名で、越前国の一宮である
 (注11)仲哀天皇:第14第天皇/日本武尊の第二皇子/皇后は、神功皇后
 (注12)社頭神さびて:「社頭」は社前、社殿の辺り/「神さびて〔→神さぶ〕」は神々しい、荘厳である、の意
 (注13)月のもり入たる:「月の洩り入りたる」で洩れ指し込んでいる、の意
 (注14)遊行二世の上人:「遊行」とは時宗の開祖「一遍上人」/躍り念仏で有名/各地を渡り歩いたので遊行上人とよばれる
    「遊行二世の上人」は、一遍の高弟「他阿(たあ)上人」/諱は真教/出身・家系は不明
    もとは浄土宗の僧であったが建治3(1277)年、九州を遊行中に一遍の教えを受けて感化され、以後一遍とともに遊行した
    正応02(1289)年、一遍が入寂すると時宗は解散の危機に瀕したが人々に推されて他阿が後継者となった
    元応元(1319)年没(享年83歳)
 (注15)大願発起:「大願」は、仏が衆生を救おうとする願い
 (注16)遊行の砂持:遊行二世の事跡を記念する為に、代々の遊行上人が法位を継ぎ敦賀に来ると駿河湾の砂浜から砂を気比明神まで運んだ、その儀式のこと

【色の浜(=種(いろ)の濱)】
《原文》
 十六日、空霽(はれ)たれば、ますほ(=お)の小貝(注1)ひろはんと、種(いろ)の浜(注2)に舟を走す。
 海上(かいしやう)七里(しちり)(注3)あり。
 天屋何某(てんやなにがし)(注4)と云(いふ)もの、破籠(わりご)(注5)・小竹筒(ささえ)(注6)などこまやかにしたゝめさせ、僕(しもべ)あまた舟にとりのせて、追風(おひかぜ)時のまに(注7)吹着(ふきつき)ぬ。
 濱はわづかなる海士(あま)の小家(こいへ)にて、侘しき法花寺(ほつけでら)(注8)あり。
 爰(ここ)に茶を飲(のみ)、酒をあたゝめて(注9)、夕ぐれのさびしさ(注10)、感に堪(たへ)たり(注11)。

  寂しさや須磨にかちたる濱の秋

  波の間(ま)や小貝にまじる萩の塵(ちり)

 其日(そのひ)のあらまし、等栽(とうさい)に筆をとらせて寺に残す。

《現代語訳》
 十六日、空が晴れたので西行法師所縁の歌にある「ますほの小貝(注1)」を拾おうと、色の浜(注2)を目指した。
 (‥色の浜は、敦賀の港から‥)海上七里(注3)の距離にある。
 天屋(てんや)何某(なにがし)(注4)という者がわりごの弁当箱(注5)や酒の入った竹筒(注6)を心細かに用意してくれ、召使いを多く舟に乗せて出発したのだが、 追い風を受けて(注7)、僅かの時間で到着した。
 浜には僅かに漁師の小家があるだけの所で、他に寂れた法華寺(注8)があるだけである。
 その寺で茶を飲み、酒を温め(注9)酌み交わしたりしたが、折から秋の夕暮れ時の寂しさ(注10)は格別心に迫るものがあり感動的(注11)だった。

 【意】〔‥(前行の)「夕ぐれのさびしさ」を受けて‥〕夕暮れ時の何と寂しいことであることか!
    『源氏物語』以来よく語られている「須磨の秋の寂しさ」拠り増して、此の地『色の浜』は遥かに物寂しいことであるヨ

  季語は「秋」

 【解説】「須磨」は現・神戸市須磨区にある海岸/「歌枕」/「かちたる」=勝((まさ)=優)っている、の意
 『源氏物語』「須磨」の巻‥「須磨にはいとゞ心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の関吹き越ゆるといひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは、かゝる所の秋なりけり」を受けて、
 芭蕉は‥『笈(おい)の小文(こぶみ)』の旅で、貞享05(1687)年04月20日兵庫を発ち明石へ向かう途中「須磨」を訪れ、現光寺・風月庵にて一泊して、須磨の感想を次の様に‥
 「かゝる処の秋なりけりとかや。此(この)浦の実(まこと)は秋を宗(むね)とするなるべし。悲しさ淋しさ言はむかたなく、秋なりせばいささか心のはしをも、云出(いひいづ)べき物をと思ふぞ、我心匠(しんしよう)の拙(つたな)きをしらぬに似たり」と述べて、体験的に「秋の悲しさ寂しさ」は「須磨」拠り「色の浜」の方が優っていると言っているのである。

 【意】色の浜に寄せては返す細(さざ)波の絶え間の砂浜をよく見ると、美しい【ますほの小貝】が散らばっている
    その美しい【ますほの小貝】の間には、浜辺に咲いた赤い萩の花が塵の様に交じっている

  季語「萩」=秋七月

 【解説】西行法師は【ますほの小貝】を 「潮(しほ)染むる【ますほの小貝】拾ふとて 色の浜とは言ふにやあるらむ/山家集」と詠んだ。
 この句「小貝」とは【ますほの小貝】のこと、又、「萩の塵」は「散り零れた萩の花」のことである。
 芭蕉が、貝拾いに興じている様が目に浮かぶ。
 本隆寺には、等栽筆の懐紙に載る「小萩散れ【ますほの小貝】小盃(こさかずき)」がある。
 【ますほの小貝】とはどんな貝なのか調べてみた。
 確証は掴めないが、添付写真[01]が【ますほの小貝】の様だ。
 【ますほの小貝】は、確かに「桜貝」に似ている(‥添付写真[02]‥)が、色はずっと地味である。
 この「波の間や‥」の句の本歌とみられる西行の「潮染まる‥」の歌にある様に、その昔、西行も【ますほの小貝】の貝拾いに興じていたのか‥と思うと微笑ましく感じる。
 西行の感性は矢張り凄い!(^^;

[01]色の浜にて採取した【ますほの小貝】
 01

[02]【ますほの小貝】に似ている「桜貝」
 02

 (注1)【ますほの小貝】:色の浜の名物で、淡紅色や茶褐色をした小さな貝/大人の小指程の大きさ
    「ますほ」は「真赭(まそお)」と書く/赤色の意/「ますお」よ読む
 (注2)種の浜(=色の浜):現・福井県敦賀市色ヶ浜/敦賀湾西北部の海岸/西行の詠に拠る「歌枕」
 (注3)海上七里:「曽良旅日記」には「海上四リ」とあるが、実際は二里に満たない距離
 (注4)天屋何某と云もの:天屋五郎右衛門/室氏/敦賀蓬莱町の廻船問屋/俳号「水魚」→のち「玄流(子)」
 (注5)破籠(わりご):破子(わりこ)/薄い檜の白木で作った折箱で、中を幾つかに区切った弁当箱
 (注6)小竹筒:ささえ/携帯用の小さな酒入れ/青竹を切って作り、口に栓をして、紙で頭を包んで携行した
 (注7)追風時のまに:「追風」=順風/「時のまに」=ほんの僅かの間に/
    『源氏物語』「須磨」‥「日長きころなれば、追風さへ添ひて、まだ申(さる)の時ばかりに、かの浦に着きたまひぬ」を下敷きにした叙述
    ・→「寂しさや須磨にかちたる濱の秋」の句の伏線になっている
 (注8)法花寺:法華宗(日蓮宗)の寺/現・法華宗本隆寺/応永33(1426)年、曹洞宗金泉寺から法華宗に改宗し「本隆寺」と改称した
 (注9)酒をあたゝめて:出典は、『和漢朗詠集・秋興/白楽天/林間に酒を煖めて紅葉を焼く』
    その原典は以下の『送王十八帰山寄題仙遊寺〔 白氏文集巻十四 〕』に拠る

  送王十八帰山寄題仙遊寺〔 白氏文集巻十四 〕
  王十八の山に帰るを送り、仙遊寺寄題す  白居易

 曾於太白峯前住  曽(かつ)て太白峰前(たいはくほうぜん)に住まひ
 數到仙遊寺裏來  数(しばし)ば仙遊寺(せんゆうじ)裏(り)に到りて来たる
 黒水澄時潭底出  黒水(こくすい)澄める時 潭底(たんてい)出(い)で
 白雲破處洞門開  白雲(はくうん)破るる処 洞門(どうもん)開く
【林間煖酒燒紅葉】 【林間に『酒を煖(あたた)めて』紅葉(こうえふ)を焼(た)き】
 石上題詩掃緑苔  石上(せきじやう)に詩を題(しる)して緑苔(りよくたい)を掃
(はら)ふ
 惆悵旧遊無復到  惆悵(ちうちやう)す 旧遊(きういう)復(また)到る無きを
 菊花時節羨君廻  菊花(きくか)の時節 君が廻(かへ)るを羨(うらや)む

 【意】
 かつて太白峰の麓に住み
 しばしば仙遊寺迄出掛けて行ったものだった
 黒水が澄んでいる時は潭(ふち)の底まで見え
 白雲の切れ目に洞穴の門が開いていた
【林の中で紅葉を焼いて『酒を暖め』】
 石の上に緑の苔を掃って詩を題(しる)した
 嘆かわしいのは、あの旧遊の地を再び踏めないことだ
 菊の咲くこの時節、山に帰る君が羨ましいヨ

 (注)・王十八:王質夫(おうしつぷ)、白居易の旧友
 ・太白峰:長安西郊の山/・仙遊寺:長安西郊にある寺‥白居易は元和元(806)年地方事務官時代にこの寺でよく遊んだという
 ・黒水:渭水に流れ込む川/洞門:洞窟の入口。
 ※ 故郷へ帰り隠棲する旧友の王質夫見送り、昔一緒に遊んだ仙遊寺に寄せて作った詩
 ※ 翰林学士として長安在住の頃の作と伝わる

 (注10)夕ぐれのさびしさ:『枕草子』に「秋は、夕暮」と書かれて以来の、『秋の夕暮』の情緒を重視する文学的伝統を踏まえた言葉
 因みに『秋の夕暮れ』と言えば、寂蓮・西行・藤原定家に拠る古今集『三夕の歌』が著名
 ※ さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮 / 寂蓮
 ※ 心なき身にもあはれは知られけりしぎたつ澤の秋の夕ぐれ / 西行
 ※ 見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮 / 藤原定家
 (注11)感に堪たり:「感に堪えず」を更に強めた言い方

【小生comment】
 
『名月』や北国日和(ほつこくびより)定めなき  芭蕉
『名月』や池をめぐりて夜もすがら  芭蕉

一週間余り前の09月26日が旧暦八月十四日で、十四夜、これを『待宵(まつよひ)』と言う
翌09月27日が旧暦八月十五日で、十五夜、即ち『(中秋の)名月』
更にその翌日09月28日(=旧暦八月十六日)が『十六夜(いざよひ)』
 ついで言えば、更にその翌日09月29日(=旧暦八月十七日)を『十七夜(じゅうしちや(=『立ち待ち月』))』と呼ぶ
 旧暦八月十八日『居待(いま)ち月』、同八月十九日『寝待(なま)ち月』、同八月二十日『更待(さらま)ち月』
 この次となると、同八月二十三日『二十三夜』=「下弦の月」となる
十四夜、十五夜、十六夜は毎月ある
 が、我国では古来、旧暦八月の十四~十六日の三夜を『待宵(まつよひ)』『名月』『十六夜(いざよひ)』と呼んで来た
 改めて『秋』を愛でる日本人の豊かな感性に感心すると共に強く共感する‥

 『名月』は上掲したので『待宵』と『十六夜』の名句を探してみた‥‥
『待宵』はまだいそがしき月見かな  支考
雲間にも『いざよふ』月となりにけり  稲畑汀子
 『十六夜(いざよひ)』はわづかに闇の初かな  芭蕉

 Virtual realな世界で拙句を一句‥(^^;;

 『十六夜(いざよひ)』に君への想ひいざよひぬ  悟空

■続いての話題は、前《会報》に引き続き、「09月19~22日:四国旅行『4つの重文天主閣を含む6つの城〔松山城&丸亀城〕と4つの美術館〔「丸亀市立猪熊弦一郎現代美術館/常設展」「東山魁夷せとうち美術館『美を求める心/東山魁夷を読む』展」〕他を巡って〔その2〕』」

 〔‥前《会報》09月19~22日:四国旅行〔その1〕拠り続く‥〕

 10時30分 大洲城 発→〔松山自動車道 41km/全55km〕
 11時45分 子規堂〔松山市/正宗禅寺史跡〕
 子規堂は、文学仲間であった正宗寺住職仏海(ぶっかい)禅師が業績を祈念し、子規が17歳で上京する迄のの住居を、寺院内に復元したもの
 この子規堂から程近い所に正岡子規の生家跡がある
 車で向かったが、交通量の多い道路で駐車も儘ならず、今回は見つけることが出来なかったは残念であった
 明治28年、東京時代の学友の夏目漱石が松山中学の教壇に立っていた
 漱石の下宿、愚陀仏(ぐだぶつ)庵に子規が同居し、この時松山の新派俳句は興ったと云われている〔以上、子規堂leaflet拠り引用〕
[03]子規堂前にて
 03

[04]正岡子規の勉強部屋
 04

 12時30分 昼食‥中華 担々麺「一天張」にて「つけ麺」@800円〔松山市二番町〕
[05]松山市内を走る路面電車
 05

 13時15分 坂の上の雲museum 着
 この『坂の上の雲 museum』は安藤忠雄が平成18年に設計した建物で斬新なdesignで気に入った
 又、小生、司馬遼太郎著『坂の上の雲』は、小生が愛読した歴小説の中でも最も好きな小説の一つである
 松山市出身者の3人、秋山好古・真之兄弟と正岡子規がこの小説の主人公
 子規は俳句&文学で、秋山兄弟は軍隊で、近代日本の牽引していった英傑達である
 安藤忠雄の斬新な現代建築美に感心し、秋山兄弟&子規等に思いを遣っていたら拙句が即興で浮かんだ

【詞書】江戸時代、久松松平家15万石の城下町であった伊予松山
 俳句革新運動で活躍した正岡子規と、その弟子高浜虚子&河東碧梧桐、
 又、陸海軍軍人で日露戦争を勝利に導いた二人の秋山好古・真之兄弟らが少年時代を過ごした明治時代の松山
 ‥その歴史ある街に、いま現代建築の最先端を行く安藤忠雄の斬新な『坂の上の雲 museum 』が威容を誇っている‥

 松山や 今昔の妙(みょう) 知る秋ぞ  悟空

[06]坂の上の雲 museum 外観
 06museum

[07]〔坂の上の雲〕『三人の主人公』左から右へ「正岡子規」「秋山真之」「秋山好古」
 07

 14時15分 萬翠荘 着
 坂の上の雲 museum にほぼ隣接する様な形で、立派な西洋館が建っていた
 当館は、久松松平家当主で伯爵の久松定謨(さだこと(1867-1943))が1922年建立

[08]萬翠荘
 08

 14時46分 秋山兄弟誕生地 着
[09]秋山(好古・真之)兄弟誕生地‥復元された生家内部
 09

 15時30分 伊予松山城 着〔本丸近くの城郭迄ropewayを利用〕
[10]松山城をbackに
 10back

[11]松山城天守閣を望む
 11

[12]松山城mascot character「よしあきくん」
 12mascot_character

 松山城というと、久松松平家を連想していたが、当地に来たら現存天主閣を建てた加藤嘉明(1563-1631)の方が有名であった
 加藤清正や福島正則と共に七本槍・七将の一人として活躍した英傑
 Mascot characterも「嘉明君」

 松山や秋より高き天主閣 正岡子規
     〔「寒山落木」巻1/明治24年 秋〕

 17時15分 道後温泉 大和屋本店 着→泊
 20時48分 道後温泉に入ろうとしたが順番待ちの人が多過ぎて断念
[13]20時45分頃の道後温泉と入浴の順番を待つ人達
 132045

[14]道後温泉 入口前にて
 14

 〔3日目〕
 05時40分 早朝での入浴に切り替え、開場06時の20分前に同五温泉前にて順番待ちの為並ぶ
[15]早朝05時40分時点での道後温泉前で入場の順番を待つ人達
 150540

 08時00分 大和屋本店 発→〔松山自動車道(85km)→高松自動車道(36km)/全133km〕
 09時45分 丸亀城 着

[16]丸亀城天守閣と大手ニの門をbackに
 16back

 10時55分 猪熊弦一郎現代美術館 着
【香川県立猪熊弦一郎現代美術館『常設展』】

 猪熊弦一郎(1902.12.14-93.05.17)の略歴を以下に記す
〔略歴〕
1902年 高松市生まれ→丸亀市へ転居/旧制丸亀中学校(現・香川県立丸亀高等学校)卒
1922年 東京美術学校(現・東京芸術大学)洋画科に入学/藤島武二に師事/同期生に小磯良平、荻須高徳らがいる
1926年 『婦人像』(添付写真[17]参照)で帝展初入選/その後『座像』で特選/更にのち帝展無鑑査に
1936年 帝展改組を機に小磯良平・脇田和らと「新制作派協会」創立
1938年 渡仏しアンリ・マティスの(Henri Matisse(1869- 1954)に師事
1940年 帰国
1955年 渡米/拠点をニューヨークに移す/この頃より画風が一挙に「抽象絵画」の世界へ以降
1993年 逝去(享年満89歳)

 上記略歴が示す様に、1920年代の猪熊の画風は、師の藤島武二の影響もあっては、典型的な写実主義者(添付写真[17][18])
 1938年の渡仏後、Henri Matisse に師事してから、猪熊のoriginalな画風を求めて試行錯誤を繰り返していく(同[20]~[24])
 それが、1955年の渡米後、完全抽象へと大きく変貌を遂げる(同[25][26]参照)
 因みに、当美術館内の猪熊弦一郎の作品は、flashがなければ撮影OKだった

[17]猪熊弦一郎現代美術館 前にて
 17
 このModernな建物は、猪熊と個人的な交友があった建築家 谷口吉生(1937- )の設計に拠るものである

[18]猪熊弦一郎『自画像』1925年
 181925

[19]同『婦人像』1926年
 191926

[20]同『海と女』1935年
 201935

[21]同『レゼジ―の駅』1939年
 211939

[22]同『魚と女』1939年
 221939

[23]同『青い服』1949年
 231949

[24]同『バレリーナの夢想』1950年
 241950

[25]同『猫によせる歌』1952年
 251952

[26]同『八木節』1962年
 261962

[27]同『手の残した言葉』1991年
 271991

[28]猪熊弦一郎現代美術館 構内の1scene
 28_1scene

 流石は、大建築家 谷口吉生の設計である
 猪熊弦一郎の抽象画と谷口が設計した建物が installation として見事に融合している
 見ていて気持ちがいい
 前日見た安藤忠雄設計に拠る「坂の上の雲museum」(松山市)の構内構造と比べても遜色ない高いlevelの建物であると感じた

 12時10分 東山魁夷せとうち美術館 着
【香川県立東山魁夷せとうち美術館『東山魁夷せとうち美術館開館10周年記念/美を求める』展】

 当美術館は、東山魁夷の父方の出身地という縁があり、又、夫人より寄贈された版画作品270点余の展示公開を目的に2005年4月に開館
 今年が、開館10周年ということで、上掲の企画展が開催中であった
 東山魁夷の風景画は、いつ見ても静謐で、「癒し」を与えてくれるので大好きな日本画家である

 東山魁夷(1908.07.08-99.05.06)の略歴を以下に記す
〔略歴〕
1908年 横浜市生まれ→神戸市へ転居/旧制第二神戸中学校(現・兵庫高等学校)卒
1926年 東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学
1929年 在学中に『山国の秋』第10回帝展へ初出品&初入選
1931年 研究科に進み結城素明に師事
1933年 研究科修了後、第1回日独文化交換学生に選ばれ、ベルリン大学哲学科(現・フンボルト大学)へ留学、美術史を学ぶ
1940年 日本画家 川崎小虎の娘すみ と結婚
1953年 千葉県市川市へ転居
1669年 文化功労者・文化勲章受章
1999年 逝去(享年満90歳)

[29]東山魁夷せとうち美術館cafeteriaから瀬戸大橋を望む
 29cafeteria

[30]本展 企画展『東山魁夷せとうち美術館開館10周年記念/美を求める』展leaflet
 30_leaflet

[31]東山魁夷『月宵』1948年
 311948

[32]同『ウプサラ風景』1963年
 321963

[33]同『緑のハイデルベルク』1971年
 331971

[34]同『凍池』1977年
 341977

[35]同『秋深』1975年
 351975

[36]同『湖岸〔試作〕』1991年
 361991

[37]同『望郷』1998年
 371998

 13時00分 坂出市内の大衆食堂「食事処/こめや」にて昼食〔開店記念/チキンカツ定食@290円に吃驚!〕
 このあと、この3日目は、善通寺→金刀比羅宮〔高橋由一館〕→琴平温泉へと続く‥次号《会報》をお楽しみに!

■続いての話題は、これも前《会報》に引き続き、09月26日(土)の京都での京都市美術館での『マグリット』展と『再興 第100回 院展』についてである。
 その日は、美術館『えき』KYOTO『ユトリロとヴァラドン』展を見た後、京都市美術館にて開催中の『マグリット』展を見に立ち寄った。

 ルネ・フランソワ・ギスラン・マグリット(René François Ghislain Magritte(1898.11.21-1967.08.15))の略歴を以下に記す
〔略歴〕
1898年 ベルギー(Belgium)西部のレシーヌ生まれ
1899年 ジリへ転居
1904年 シャルルロワ近郊のシャトレに転居、以後1916年迄の少年時代の大半を過ごす
1912年 2月24日 母が原因不明の入水自殺する
1913年 シャルルロワの定期市にて、のちの伴侶となるジョルジェット・べルジェ(1901-86)と出会う
1916年 ブリュッセルの王立美術アカデミーに入学
1922年 ジョルジェット・べルジェと結婚
1923年 ジョルジョ・デ・キリコの作品『愛の歌』の複製を見て、「涙を抑えることができない」ほどの感銘を受けたという
    以後、1925年頃よりsurrealismの方向へと進んでいく
1967年 膵臓癌に拠りBelgium ブリュッセル(Brussels)の自宅にて逝去(享年満68歳)

[38]京都市美術館 外観 20150926
 38_20150926

[38a]ジョルジョ・デ・キリコ『愛の歌』1914年
 38a1914

[39]本展leaflet
 39leaflet

[40]ルネ・マグリットとジョルジェット 1922年
 40_1922

[41]Rene Magritte『女たち(Women)』1922年
 41rene_magrittewomen1922

[42]同『心臓の代わりに薔薇を持つ女』1924年
 421924

[43]同『生命線(The Line of Life)』1936年
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[44]同『空気の平原(The Plain of the Air)』1940年
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[45]同『黒い魔法(Black Magic)』1945年
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[46]同『記憶(Memory )』1948年
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[47]同『会話術(The Art of Coversation )』1950年
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[48]同『傑作或は地平線の神秘(Masterpiece of the Mysteries of the Horizon )』1955年
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[49]同『(The Castle in the Pyrenees )』1959年
 49the_castle_in_the_pyrenees_1959

[50]同『大家族(The Great Family )』1963年
 50the_great_family_1963

[51]同『法律の支持者(The Upholder of the Law )』1964年
 51the_upholder_of_the_law_1964

[52]同『白紙委任状(The Blank Signature)』1966年
 52the_blank_signature1966

[53]同『空の鳥(Sky Bird )』1966年
 53sky_bird_1966

【小生comment】
 シュールの世界は、小生まだ全くの門外漢であるので、絵画的なcommentは差し控えたい。
 ただ本展を見た感想を一言で言えば、「マグリットの絵画は『秩序だったシュール』」である。
 絵画自体の綺麗さで言えば、同じシュールの泰斗である、ダリ(1904-89)やデ・キリコ(1888-1978)よりずっと美しい。
 小生、好きな画家の一人である。

【後記】今日10月04日は、清々しい秋の晴天の一日でした。
 こういう時は、気分凄くよくなります。
 実は小生、昨晩は、名古屋の愛知県芸術劇場concert hallで、Christohp Eschenbach指揮 ウイーンフィルに拠る W. A. Mozartの交響曲第39・40・41番を聴いて来ました。
 天下最高級のモーツァルトの代表作の交響曲第39・40・41(Jupiter)番の三曲を世界最高のorchestra VPOに拠る実に素晴らしい演奏でした。
 この模様の詳細は次号《会報》をご覧戴くとして、その時受けた感銘を拙句にしてみました。
 ご笑覧下さい。

 秋の夜に ウィーンの調べ 美の極致  悟空

 では、また‥。(了)

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