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2015年12月の4件の記事

2015年12月25日 (金)

【時習26回3−7の会0580】〜「松尾芭蕉『笈の小文』第4回【熱田】「12月12日(土):浜松市美術館『曾宮一念と山本丘人』展/京都市美術館『Vermeer & Rembrandt』展/細見美術館『麗しき日本の美―雪・月花・―』展を見て」「12月13日(日):ライフポートとよはし『創立50周年記念‥第117回 豊橋交響楽団定期演奏会』を聴いて」「12月15日(火):電気文化会館 ザ・コンサートホール『Paul Lewis Piano Recital』を聴いて」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 さぁ、今日は2015年としては最後となる【2637の会 0580】号をお送りします。

■先ず最初は、前《会報》【0578】号に引き続き、松尾芭蕉の『笈の小文』第4回【熱田】をお届けします。
 十一月二十一日(1687年12月25日) 熱田、林桐葉 訪問
 十二月十日(1688年01月12日)過ぎ 名古屋 発→伊賀上野へ〔伊賀上野にて越年〕
 即ち、328年前の今日、芭蕉は【熱田】に居たという訳である。
 では、『笈の小文』【熱田】をどうぞ!

【熱田】
《原文》
 熱田(あつた)御修復(みしゆふく)

  磨(とぎ)なをす鏡も清し雪の花

 蓬左(ほうさ)(注1)の人々にむかひとられてしばらく休息する程、

  箱根こす人も有(ある)らし今朝の雪

 有人(あるひと)(注2)の会

  ためつけて(注3)雪見にまかるかみこ哉

  いざ行む雪見にころぶ所まで

 ある人興行(注4)

  香(か)を探る梅に蔵見る軒端(のきば)哉(かな)

 此間(このかん)美濃・大垣・岐阜のすきものとぶらひ来(きた)りて、歌仙あるは一折(ひとをり)(注5)など度々に及(およぶ)。

《現代語訳》
 熱田神宮は修復中だった。

 【意】研ぎ直した鏡も一層清らかに、折から花のような雪が降っている
  季語:「雪」‥冬

 熱田神宮西側に住んでいる人々に迎えられて暫く休息していた時、

 【意】今朝の雪はたいへんな降り方だが、こんな雪の中、箱根越えをしている人もいるのだろうなあ
    一方私はあたたかな土地の人の歓迎を受けている。ありがたいことだ
  季語:「雪」‥冬

 ある人の会で、

 【意】紙子の皺を伸ばして綺麗な装いにしてから、雪見に出かけよう
  季語:「雪見」「かみこ(=紙衣)」‥冬

 【意】さあ雪見に行こう
    転んで動けなくなって仕舞う所迄
  季語:「雪見:‥冬

 ある人の俳諧興行の席上で、

 【意】梅の香りがするのでそれを探していたら、(大きな立派な※)蔵の軒端に梅が咲いているのを見つけたよ
  季語:「探梅(たんばい)」‥冬
  ※ 名古屋の富者「防川(=如何なる人物かは不詳)」の防川(ぼうせん)亭で詠んだ
   「探梅」が主題だが、亭主の富裕と風雅を讚えて詠んだ挨拶の発句である
  ※ 新築の蔵を見に行って祝う「蔵見」の習慣を踏まえ「蔵見る」と詠み、亭主に配慮している

 この間、美濃・大垣・岐阜の風流を愛する仲間達が遣って来て、俳諧の席を設けた。
 其処で、「歌仙」をしたりまたは半歌仙(=「一折」)をしたり数度に及んだ。

《語句/解説》
 (注1) 蓬左(ほうさ):蓬莱宮(ほうらいぎゅう)=熱田神宮の左(=西側)、即ち、名古屋のこと
 (注2) 有人:或人(あるひと)/十一月二十八日名古屋昌碧亭に於ける句会のこと
 (注3) 「ためつけて~」:「ためつける」は紙子の皺をのばすこと、即ち、皺を伸ばし綺麗に整えること
 (注4) ある人興行:防川(ぼうせん)亭にて/「興行」は連句の会を催すこと
 (注5) 歌仙あるは一折:「歌仙」は三十六句、「一折」はその半分の十八句を続けて詠む句会/懐紙二枚に記録する

【小生comment】
 本文に「有人の会」「ある人興行」「歌仙あるは一折など度々に及」とある様に、芭蕉は、【熱田】に着いてから句会がかなりの回数催されている。
 旧里伊賀上野に出発する迄、実に18日間も名古屋に留まっていた。
 芭蕉は近江を始め各地に俳諧の同好の士を数多く抱えていたが、名古屋に於ける彼の存在感もかなりなものであることがこれで解る。
 次回の『笈の小文』は、【旧里】をお届けする。
 ただその時期は、十二月十日(1688年01月12日)過ぎに名古屋を出発して伊賀上野へ向かった‥とあるので、来月01月12日前後にお送りする予定である。

■続いて、お伝えするのは、掲題副題にある通り、12月12日(土):浜松市美術館『曾宮一念と山本丘人』展/京都市美術館『Vermeer & Rembrandt』展/細見美術館『麗しき日本の美―雪・月花・―』展にの3つの美術展覧会ついてである。
 順次お伝えする。
 その日は、08時30分 自宅を出発。
 自家用車で国道一号線浜名bypass経由で、浜松市元城町の浜松城公園内にある浜松市美術館へ。

【浜松市美術館『曾宮一念と山本丘人』展】
 09時30分 美術館の開館と同時に入館して、『曾宮一念(そみやいちねん)と山本丘人(きゅうじん)』展を見た。

[01]浜松市美術館入口
 01

[02]本展leaflet
 02leaflet

 小生、日本画家 山本丘人(1900-85)の作品は従前より幾つも見たことがあった。
 しかし、恥ずかし乍ら洋画家 曾宮一念(1893-1994)の作品は今回初めて見た。
 本展の副題が「海山を描く、その動と静」。
 先ずは、二人の主な展示作品をご覧下さい。

[03]富士宮の atelier の曾宮一念 1953年頃
 03atelier1953

[04]曾宮一念『荒園』1931年
 041931

[05]同『かれはなばたけ』1932年〔東京国立近代美術館〕
 051932

[06]同『裏磐梯の秋』1941年
 061941

[07]同『麦』1946年
 071946

[08]同『すすきと海』1948年
 081948

[09]同『波太岩礁』1954年
 091954

[10]同『不尽』1954年
 101954

[11]同『開聞岳遠望』1960年
 111960

[12]同『裾野と愛鷹』1964年
 121964

[13]同『Spainの野』1969年
 13spain1969


[14]自宅での山本丘人 1972年
 14_1972

[15]山本丘人『婦人座像(青梅)』1922年
 151922

[16]同『切り通し』1935年
 161935

[17]同『青い海』1932年
 171932

[18]同『北濤』1955年
 181955

[19]同『流水のうた』1973年
 191973

[20]同『雪月夜』1981年
 201981

 「曾宮一念と山本丘人」、二人の作品をご覧戴いて如何でしたか?
 「油彩画と日本画」、「動と静」の際立った違いを実感されたのではありませんか?
 洋画家 須田国太郎(1891-1961)が「曾宮一念は、カラリスト(色彩家)である」で言っている。
 確かに須田国太郎の言う通りである。
 ご覧の様に、一つひとつの作品は大胆な筆遣いで、風景画なのに抽象画の趣があるって、その色彩感覚の妙が素晴らしい。
 『荒園』1931年は、抽象画に以降する頃のKandinski(1866-1944)の色遣いを彷彿とさせる。
 枯れた芥子の花束を描いた『かれはなばたけ』1932年も、一見地味に見える色調なのだが、見ているとグ―ッと見る者を惹き付ける不思議な aura を放っている。
 『麦』1946年の「青空と白雲」、「豊穣な麦の茶色と緑の穂」が織成す絶妙なcontrast。
 『すすきと海』1948年・『波太岩礁』1954年・『不尽』1954年・『開聞岳遠望』1960年・『裾野と愛鷹』1964年・『Spainの野』1969年‥
 ‥いずれも、大胆な筆遣いと絶妙な色彩が、見る者を虜にして離さない。
 
 一方の山本丘人。
 何れの絵も、落ち着いた雰囲気と気品ある作品。
 ‥と思ったが、『北濤』1955年の様に躍動感溢れる作品も幾つかあり、氏の作風の懐の深さ・capacity の大きさを実感した。

【小生comment】
 山本丘人の作品は、従前から認識していた通りの展示作品が並んでいたので落ち着いて見る事が出来た。
 本展は、矢張りカラリスト曾宮一念の作品に魅せられたことが、一番の収穫であった。

 『曾宮一念と山本丘人』展を見た小生、同じ公園内にある浜松城天守閣を一目見たくなって天主閣入口近く迄数分歩き写真に収めた。

 10時10分 美術館を出て、徒歩2~3分の所にある浜松城天守閣を訪れた。

[21]浜松城天守閣
 21

 10時20分 浜松市美術館を出発して豊橋駅へ
 11時57分 JR豊橋駅発 ひかり509号 →
 12時23分 JR名古屋発 のぞみ165号 →
 13時13分 JR京都駅着 →
 13時23分 京都 →〔京都市営地下鉄烏丸線〕→ 烏丸御池 → 東山 → 〔徒歩08分〕→
 13時45分 京都市美術館着

【京都市美術館『Vermeer & Rembrandt』展】

[22]京都市美術館の案内看板
 22

[23]京都市美術館をbackに
 23back

[24]京都市美術館入口
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 本展の目玉は、leaflet に掲載されている通り、Vermeer『水差しを持つ女』である。
 本展主催者の「ご挨拶」から一部引用してご紹介する

 本展は、Metropolitan美術館(New York)、Amsterdam国立美術館、London National gallery を中心に個人蔵の作品を加えた約60点で構成されます。
 とりわけMetropolitan美術館を代表する作品である Vermeerの《水差しを持つ女》と Rembrandtの《ベローナ》は日本初公開作品となります。

[25]ヨハネス・フェルメール(蘭:Johannes Vermeer 1632.10.31?-1675.12.15?)『水指しを持つ女(Young Woman with a Water Pitcher)』1662年頃
 25johannes_vermeer_1632103116751215

[26]レンブラント・ハルメンス・ファン・レイン (Rembrandt Harmensz van Rijn 1606.07.15-1669.10.04)『ベローナ(Bellona)』1633年
 26_rembrandt_harmensz_van_rijn_1606

【小生comment】
 本展の作品は、17世紀の作品の多くがそうである様に、全体に黒ずんでいる為に小生正直あまり美しいとは感じなかった。
 その中にあって、Vermeer『水差しを持つ女』は流石に白眉であった。
 これで小生、Vermeerの作品は全世界に30数点しかないと言われているが、2007年12月に国立新美術館にて『ミルクを注ぐ女』を見て以来、僅か 8年間で累計 15作品16点を見たことになる。
 日本の国力≒おカネの力は凄いと思うと共に、日本に居乍らにしてみることが出来る幸せを実感している。
 ただ、その見た15作品のうち豊田市美術館で見た『地理学者』を除くと、全て東京と京都の美術館だけで見ているのである。
 このことは、換言すると愛知県はまだまだ文化の level が京都より低いということなのか‥ナ?
 尚、余談であるが、一人旅であり乍らどうして小生が写真に写っているのか不思議に思われる方がいるかもしれないので種明かしをしよう。
 今流行の「自撮り」のcameraで撮影しようとしているpairがいると、声を掛けて、写真を撮影してあげて、その御礼に撮って貰うという次第である。
 今回もそのpatternで撮影して貰った。(^^;

 14時30分 京都市美術館発 →〔徒歩07分〕→
 14時37分 細見美術館着

 続いて向かったのが、京都市美術館から西へ徒歩07分程の所にある細見美術館である。

【細見美術館『麗しき日本の美―雪・月花・―』展】
 当美術館は、大阪の実業家、故 細見良(初代古香庵)に始まる細見家三代の蒐集を基に、平成10年03月京都岡崎に開館。
 Collection、日本の美術工芸の中でも「平安・鎌倉時代の仏教・神道美術」、「室町の水墨」、「根来(=中世、根来寺で日用の為に作られた漆器)や茶の湯釜」、「桃山の茶陶や七宝工芸」、そして「琳派や若冲など江戸時代の絵画」に優品が多い。
 〔以上、細見美術館Homepage拠り一部引用〕

[27]細見美術館入口
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 訪れた時開催されていた企画『麗しき日本の美―雪・月花・―』展は、日本の四季の情緒を象徴する雪・月・花をthemeに日本の美術工芸品を紹介していた。
 以下、渡辺始興、伊藤若冲、酒井抱一、鈴木其一の作品4点をご紹介する。

[28]渡辺始興((しこう)1683-1755)『簾に秋月図』(江戸中期)
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[29]伊藤若冲(1716-1800)『雪中雄鶏図』(江戸中期)
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[30]酒井抱一((ほういつ)1761-1828)『桜に小禽図』(江戸後期)
 3017611828

[31]鈴木其一((きいつ)1796-1858)『雪中竹梅小禽図』(江戸後期)
 3117961858

【小生comment】
 関白二条綱平の御伽衆を務めた尾形光琳(1658-1716)の画風は、一言すれば「大胆・華麗」。
 『渡辺始興』は光琳没後の京都で活躍。
 後水尾天皇の孫で、関白、摂政、太政大臣を歴任した近衛家熙(いえひろ(=予楽院(1667-1736)))に仕えた。
 琳派・狩野派等様々な絵画様式に通じた。
 本展展示作品[26]『簾に秋月図』は、「秋草に月」を愛でる作品。
 このstyleは江戸琳派に多く、本図はその先駆けと言われている。
 『伊藤若冲』は、初め狩野派を学び、のち宋・元・明の古画を、そして光琳風を研究、動植物画に写生的な装飾画体を創案。
 本展展示作品[27]『雪中雄鶏図』の様に「鶏」を描いた絵が特に優れている。
 『酒井抱一』は、雅楽頭酒井家姫路藩15万石第2代藩主忠以(ただざね(1756-90))の実弟。
 文豪夏目漱石は、抱一の絵を『虞美人草』や『門』に登場させている。
 明治維新後の急激な近代化に拠って失われつつある江戸の美意識を、漱石は抱一の作品の中に見出している。
 本展で展示されていた[28]『桜に小禽図』は、抱一最晩年の傑作として知られている。
 垂直な桜の幹からS字状に降りている細枝に、大瑠璃がとまっている。
 大瑠璃の青と、桜花の淡い薄紅色の対比が鮮やかである。
 『鈴木其一』は、抱一の弟子の中では、傑出した画才を誇っている。
 17歳(1813年)から抱一の内弟子ちなり、抱一の信頼を篤くした。 
 本展展示作品[29]『雪中竹梅小禽図』は、雪化粧した「紅梅(左)=(赤)」と「竹(右)=(緑)」に「雀」が「止まり(左)=(静)」「戯れる(右)=(動)」図。
 左右の図の対比の妙が施されていて面白い。

 以上の4作品をご紹介させて戴きました。
 皆さんはどの様な感想をお持ちになられたでしょうか?
 小生は、酒井抱一の『桜に小禽図』はとくに出色と見ました。
 江戸時代に描かれた日本画もなかなか立派な作品があるのだな、と改めて感心した細見美術館の企画展であった。

■続いては、12月13日(日)ライフポートとよはし concert hall にて開催された第117回豊橋交響楽団定期演奏会の模様をお伝えする。
 本concert は、時習26回【3-1】の安形S二君からいつもお誘いを受けて鑑賞させて戴いているものである。
 因みに、安形君とは【1-4】のclassmateである。
 この日は、小生の他、中嶋Y行君【3-2】を誘って一緒に聴いた。
 今回の第117回豊響定期演奏会は、本年06月14日に開催された第116回で秋山和義指揮/Brucknerの交響曲第7番に続く『創立50周年記念』行事の第二弾!
 「名曲とお話で振り返る豊響50年~そして未来へ~」という副題の通り、豊響の50年活動を演奏中やその合間にslide映像と司会者の話で綴った。
 従って、演奏曲目は、最後に演奏されたダンディ『France山人の歌による交響曲』以外は、いずれも豊響の十八番の曲であった。

<1>O. Respighi(1879-1936)/『リュ―トの為の古風な舞曲とアリア第三組曲』より「イタリア―ナ」
<2>G. Rossini(1792-1868)/歌劇『アルジェのイタリア女』序曲
<3>C. M. von Weber(1786-1826)/歌劇『オベロン』序曲
<4>M. Ravel(1875-1937)/『亡き王女の為のパヴァ―ヌ』
<5>J. Sibelius(1865-1957)/交響詩『フィンランディア』
<6>冨田 勲(1932- )/『新日本紀行』のtheme
<7>V. d'Indy (ダンディ(1851-1931))『France山人の歌による交響曲』Op.25 ※
 ※ Piano Solo/三木諭(さとる)

[32]本演奏会program
 32program

[33]昭和52年03月安形君(右)と雲仙ferryにて
 335203ferry

 因みに、[33]の写真は、大学4年になる直前の春休みに時習26回【1-4】の仲間5人でワイド周遊券を使った九州一周旅行に行った時の一コマ
 小生の画像に黒い紐の様なモノが写っているが、これはcameraのstrap

【小生comment】
 安形君は豊響では horn 奏者で、horn のpart leader兼 金管楽器(brass instrument)のsection leader である。
 当演奏会では、Weberの歌劇『オベロン』序曲で horn 独奏の場面があり、名演奏を披露してくれていた。
 還暦を迎えて、amateurの楽器奏者としてこうした大きな演奏会で好きな楽器を思いっ切り演奏出来るなんてきっと気持ち良いだろうナ‥。
 懐かしさも手伝って、38年9箇月前という大昔に撮影した安形君との two-shots をご紹介する。

■続いて今日最後の話題は、12月15日(火)に電気文化会館 ザ・コンサートホールにて開催された『Paul Lewis Piano Recital』についてである。
 小生、Paul Lewis(1972.05.20- )の演奏を聴いたのは今回初めてであった。
 又、小生、Beethovenの最後のPiano Sonata No.30~32の3曲は大好きなのだが、まだその生演奏を聴いたことがなかったのである。
 因みに、CDでは、BeethovenのPiano Sonata全集を、シュナ―ベル(但しmonaural)、バックハウス、バレンボイム(第1回目の録音)、ポリーニの4人。
 後期のNo.30~32の演奏としては、上記の他、ケンプの演奏によるCDもある。
 Paul Lewisの演奏は、確りとした技量と表現力で聴く者を魅了した。
 これからも聴く機会があったら是非聞いてみたい魅力ある pianist である。

[34]本演奏会leaflet
 34leaflet

【後記】小生は12月14日、仕事で名古屋駅前へ行った時のこと‥
 写真[35][36]は、その時見た、大きく変貌する名駅周辺のビル群です。
 名古屋駅前だけみると、東京の大手町や丸の内に全然負けてないって感じでスゴイ!

 写真[35]は「大名古屋ビルヂング(34F/ H.174.7m)」2015年10月竣工。
 もう一枚の写真[36]‥JRセントラルタワーズ(51F/ H.245.1m)の西隣り(向かって右側)に建設中のビルは、同じJRに拠る「JRゲートタワー(46F/ H.約220m)」2017年04月竣工予定
 因みに、名駅地区では現在もミッドランドスクエア(47F/ H.247m)が一番高いビルの様である。

[35]名駅scene1〔新 大名古屋ビルヂング〕 20151214
 35scene1_20151214

[36]名駅scene2 20151214
 36scene1_20151214

 【2637の会】《会報》も、2015年は本【0580】号が最後です。
 来年も《会報》頑張りますので、応援お願いします!
 それでは皆さん、良い新年をお迎え下さい
 ではまた‥。(了)

2015年12月20日 (日)

【時習26回3-7の会0579】~「松尾芭蕉『笈の小文』第3回【吉田・保見】【伊良古崎】「12月05~06日:賢人会旅行『【初日】日光‥【輪王寺】‥【東照宮】‥【二荒山神社】→川越市【庄や 南大塚店】→本川越【若竹旅館】(泊)/【二日目】川越の街逍遥‥【喜多院】→【仙波東照宮】→【南院遺跡】→【中院】→【川越本丸御「殿】→【川越市立博物館】』→【川越市立美術館】→【蔵のまち/逍遥‥小江戸横丁・菓子屋横丁‥『時の鐘』】」「12月09日:名古屋ボストン美術館『ヴェネツィア』展を見て」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 さぁ、今日も【2637の会 0579】号をお送りします。

■先ず最初は、前《会報》【0578】号に引き続き、松尾芭蕉の『笈の小文』第3回【吉田・保見】&【伊良古崎】をお届けします。
 その前に、嵐山光三郎著『芭蕉紀行』の「笈の小文は禁断の書である」の中から一部ご紹介したい。
 杜國は、元禄03年03月20日に死んだ。享年34~35歳。その時、芭蕉は47歳であった。

 杜國が空米売買の罪で、御領分追放の刑に処せられたのは(‥芭蕉が保美で再会した2年前の‥)貞享02(1685)年のことであった。〔中略〕
 伊良湖岬に近い保美の里へ流刑された。〔中略〕
 芭蕉が杜國と初めて会ったのは、貞享元(1684)年(芭蕉41歳)の名古屋句会であった。
 杜國は女にしたい程の美貌の若衆で、芭蕉はたちまち杜國に心を奪われた。〔中略〕
 芭蕉の衆道(しゅどう(=男色の道))は研究家の間では一種の禁句になっている。
〔中略〕
 しかし、芭蕉の時代にあっては衆道は恥じる行為ではなく、むしろ精神的絆を高める関係であった。

 『笈の小文』の旅は場法の亡父三十三回忌の法要に列する為が表向きの理由だが、芭蕉の本心は、杜國に会うことにあったのだろう。
 相手は罪人であるから許されざる密会で、芭蕉も又それを咎められれば罪人となる。
 芭蕉と杜國との密会は用意周到であった。
 先ず、越人を介して三人で愛、杜國の実情を探る。
 そのうえで、三ヶ月後に二人だけで旅をする密約をした。
 『笈の小文』にはこうある。
 まず、保美という処に杜國がいることを知り、越人と一緒に保美に向かう。
 行く途中で、芭蕉は、杜國を幻視して、

  冬の日や馬上に凍る影法師

 と詠んだ。
 吉田という処で一泊し、保美村より伊良湖岬へ向かい、西行が当地を詠んだ
 「巣鷹わたる伊良胡が崎を疑ひてなほ木に帰る山帰りかな」
 (『山家集』)の歌枕であることを思いつつ、空飛ぶ鷹を見つけ、

  鷹一つ見附けてうれしいらこ崎

 と詠む。
 鷹とは杜國のことである。
 『笈の小文』では、此処で、杜國との邂逅はあっけなく終って、すぐ熱田神宮へ移る。
 この辺りの繋がりのちぐはぐさが、『笈の小文』の謎の部分であり、芭蕉が生前に発表しなかった一因でもある。

【吉田・保見】
《原文》
 三川(=三河)の國保美(ほび)(注1)といふ處(ところ)に、杜國(とこく)(注2)がしのびて有(あり)けるをとぶらはむと、まづ越人(ゑつじん)(注3)に消息して、鳴海より跡(あと)ざまに二十五里尋(たづね)かへりて、其夜(そのよ)吉田(注4)に泊まる。

  寒けれど二人寐(ね)る夜ぞ頼もしき

 あま津(注5)縄手(なはて)、田の中に細道ありて、海より吹(ふき)上(あぐ)る風いと寒き所也(なり)。

  冬の日(ひ)や馬上(ばしやう)に氷(こほ)る影法師

《現代語訳》
 三河の国 保美と言う所に杜国が忍んで暮らしているのを訪ねようと、先ず越智越人に手紙を送り同行を頼んで鳴海から道筋を東へ後戻りすること二十五里、その夜は吉田に泊まった。

 【意】寒い夜だ
    でも、越人と二人で旅寝する夜は一人寝するよりずっと心強く感じられることだ
    季語:」「寒し」‥冬
    寒けれど二人旅ねのたのもしき『昿野』
    寒けれど二人旅ねはおもしろき『笈日記』

 あま津縄手は田の中に道があって、海より吹き上げて来る風の為とても寒い所だ。

 【意】寒さを実感するしかない寒々とした冬の太陽
    そんな陽射しの中を、馬に揺られ乍ら進んで行く
    ふと道辺の下の方目をに遣ると、馬上の私の姿が凍りついた影法師の様に見える
    季語:「冬の日」‥冬

《語句/解説》
 (注1)保美(ほび):愛知県田原市保美町/渥美半島の先端伊良湖岬に8.9kmと程近くに位置する
 (注2)杜国:坪井杜国(つぼいとこく(?-1690))/名は庄兵衛/芭蕉の愛弟子で名古屋の人
    米穀商で、貞享02(1685)年 禁制の空米相場で追放となり、三河畠村、そして保美に隠棲する
 (注3)越人:越智越人(1656-1739)/名古屋の蕉門俳人で蕉門十哲の一人/『更級紀行』の旅に同行した/『奥の細道』の【大垣】にも登場
 (注4)吉田:愛知県豊橋市/東海道の宿駅
 (注5)天津縄手:豊橋市天津/豊橋鉄道渥美線「老津」と「杉山」の中間地点の三河湾沿いにある
    縄手(=畷)=田の中の道、畦(あぜ)道

【伊良古崎】
《原文》
 保美村より伊良古崎(注1)へ壱里斗(ばかり)も有(ある)べし。
 三河(みかは)の國の地つゞきにて、伊勢とは海へだてたる所なれども、いかなる故(ゆゑ)にか『万葉集(まんえふしふ)』には伊勢の名所の内に撰(えらび)入(いれ)られたり。
 此(この)淵崎(=洲崎(すざき))(注2)にて碁石を拾ふ。
 世にいらご白(じろ)(注3)といふとかや。
 骨山(こつやま)(注4)と伝(いふ)は鷹を打(うつ)處(=処)なり。
 南の海のはてにて、鷹のはじめて渡る所といへり。
 いらご鷹(注5)など哥(=歌(うた))にもよめりけりとおもへば、猶あはれなる折ふし、

  鷹一つ見付(つけ)てうれしいらご崎

《現代語訳》
 保美村から伊良古崎迄は一里程もあろうか。
 三河の国からは地続きで、伊勢の国とは海を隔てているが、如何なる訳か、『万葉集』には伊勢国の名所として取り扱われている。
 この岬の浜で碁石を拾う。
 世に「いらご白(じろ)」とか言われるものだ。
 骨山という丘は鷹を捕る場所だ。
 南の海の果てから鷹が日本に渡って来て初めて止まる所という。
 「いらご鷹」などと和歌にも詠まれていると思うと、一層情緒深く思っていると、その時、

 【意】此処伊良古崎に一羽の鷹が飛んでいるのを見つけた
    悠然と空中を舞う姿を見ていると、何故か心が惹かれ嬉しい心地がする
    季語:「鷹」‥冬

《語句/解説》
 (注1)伊良古崎:渥美半島西端の伊良湖(いらご)岬/『万葉集』巻一には「伊勢の国」の「伊良虞の島」と呼ばれている
 (注2)洲崎:岬
 (注3)いらご白:伊良湖岬の浜でとれる殻の厚い貝から作る白い碁石/「伊良期ノ碁石貝(『毛吹草』)」と紹介されている
 (注4)骨山:伊良湖岬の小丘陵/現在「こやま」という
 (注5)いらご鷹:「二つありける鷹の、伊良胡渡りすると申けるが、
    一つの鷹は留まりて、木の末に掛りて侍ると申しけるをきゝて
    巣鷹渡る伊良湖が崎を疑ひてなを木に帰る山帰りかな」
    (『山家集』)‥とある

【小生comment】
 先日訪れた【金沢】にある『奥の細道』芭蕉の三つの句碑の様に、吉田の「寒けれど二人寐(ね)る夜ぞ頼もしき」の句碑を探したが見つからなかった。
 この句に良く似た「寒けれど二人旅ねのたのもしき『昿野』」の方は、豊橋市湊町にある様だが‥。

 芭蕉の『笈の小文』に於ける【吉田・保美】【伊良古崎】【熱田】の日程は以下の通りであった。
 十一月十日(1687年12月14日) 越智越人(1656-?)と吉田に一泊して渥美半島の保見へ
 十一月十二日(1687年12月16日) 伊良古崎(=伊良湖岬)
 十一月二十一日(1687年12月25日) 熱田、林桐葉 訪問

 芭蕉が、杜國のいる保美を訪れた時節は丁度今時分の12月中旬は、当地豊橋&渥美半島は実際寒い日が多い。
 『常春』という枕のつく温暖な渥美半島も、冬は『伊吹降ろし』が伊勢湾を渡ってこの地迄吹き付ける為、体感温度はかなり寒い。
 とは言え、今年は12月16日迄11月上~中旬の暖かさであったが‥。(^^;

■続いて、お伝えするのは、掲題副題にある通り、12月05(土)~06(日)の両日、時習26回の同期生中嶋Y行君【3-2】、谷山K君【3-3】等との一泊二日旅行の件についてである。
 この旅行は、此処数年は、中嶋&谷山両君と、「城の会」でお世話になっている青木K夫さんの4人で毎年春と秋の年2回実施している。
 ただ、昨年の秋だけは、小生が大腸癌手術の為中止され、今春に順延されたが‥。
 以下に、二日間の行程を記す。

【初日〔12月05日(土)〕】
 05時00分 今泉宅発
 05時05分 青木宅発
 05時30分 中嶋宅発
 05時50分 谷山宅発〔豊川市〕
 06時15分 東名高速道路 豊川IC
       途中、トイレ休憩は「駒門(こまかど)SA」で1回のみ
       今回の旅行は小生が、一昨年2013年12月07(土)~08(日)に『山の辺の道/長谷寺・室生寺・聖林寺』旅行以来の運転手を担当
       http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/26-047812212640.html  ←(ご参照)
       今回は、貫通に近い「首都圏中央連絡自動車道(略称「圏央道」)」を利用した際、ナビの情報が古い為機能しなくなって困った
       その為車は、圏央道から東北自動車道への連結に気付かず茨城県境近く迄行き過ぎて仕舞った
       又、その後、無事に東北自動車道入れたと思ったら、程なく羽生IC~館林ICの事故渋滞に遭遇
       当該区間を渋滞を避けるべく一般道を走った後、今度は宇都宮ICで日光宇都宮道路へ入るのを失念
       東北自動車道をその儘北上し、次の上河内SA/SICで降りて、これ又一般道で日光東照宮へ
       そんなこんなの幾多の失敗が結果的に大正解だった
       宇都宮市在住のお嬢さんがいる中嶋君が、その御嬢さんと電話で連絡をとってくれて、そう教えてくれた
      
 13時05分 日光東照宮 大駐車場〔拙宅~走行距離:約450km/高速道路料金10,770円/所要時間8時間05分〕
      【輪王寺】
       創建:天平神護02(766)年/開基:勝道(735-817)
       「輪王寺」「東照宮」「二荒山(ふたら)神社」を一緒にして『二社一寺』と称される
       近世迄は、これ等『ニ社一寺』を総称して「日光山」と呼んでいた
       因みに、「輪王寺」は天台宗の門跡寺院だが、個別の寺院の名ではなく、「日光山」中にある寺院群の総称
       今回見たかった【国宝】「三仏堂」は添付写真[02]の様に工事中で見ることは出来ず残念だった
       『ニ社一寺』の境内は、「日光山内」として「国の『史跡』」に指定、「日光の社寺」として『世界遺産』に登録されている

[01]輪王寺 黒門
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[02]輪王寺 三仏堂
 02

      【東照宮】
       《歴史》元和02(1616)年 徳川家康は駿府で死去
       遺命に拠り遺骸は駿河国「久能山」埋葬、同年中に「久能山東照宮」が竣工
       元和03(1617)年 下野国「日光」に改葬、同年04月に社殿竣工
       正保02(1645)年 朝廷から宮号が授与/東照社→「東照宮」に改称
     
[03]日光東照宮入口にて
 03

[04]日光東照宮 【重文】五重塔
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[05]日光東照宮 【重文】神厩舎(しんきゅうしゃ) 【重文】三猿(さんざる)
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[06]日光東照宮 坂下門(表) 【国宝】眠り猫
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       眠り猫は眼を瞑っているが足を踏ん張っている
       これは、家康を護る為、寝ているフリをして、何時でも飛び掛かれる姿勢をしていると言う
       一方、「眠り猫」の丁度門の反対側(=裏側)で「雀」が舞っている
       これをして、「猫も寝る程の平和」を表現しているとも‥

[07]日光東照宮 坂下門(裏) 雀
 07

[08]日光東照宮 奥宮宝塔
 08

【ニ荒山(ふたらさん)神社】
 創建は「輪王寺」創建の翌年、神護景雲元(767)年/開基は、「輪王寺」と同じ勝道(735-817)
 宇都宮市にも同名の「(宇都宮)二荒山神社」がある為、「日光二荒山神社」と呼ばれる

[09]二荒山神社 【重文】銅鳥居
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[10]二荒山神社 【重文】拝殿
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 15時20分 日光発〔137km 2時間15分〕
      →〔日光宇都宮道路〕→宇都宮IC→〔東北自動車道〕→久喜白岡JCT→〔圏央道〕→川島IC→〔国道253号線→本川越〕
 17時35分 川越市「西武新宿線『本川越』駅西側すぐ/『若竹旅館』」着
 当旅館は、一泊朝食付で@6.900円/夕食はないので、当初から外食を予定
 一週間前に『本川越』駅周辺の居酒屋のアポ取りをしたが、この時期が忘年会seasonであることを忘れていた
 同駅周辺は全て予約が一杯/そんな中、『本川越』駅拠り一駅手前の『南大塚駅』前「庄や 南大塚店」の予約が取れ一安心
 18時15分 若竹旅館発→徒歩3分→『本川越』駅→〔西武新宿線(所要時間3分)/急行以下全駅停車〕→『南大塚』→徒歩2分→
 18時30分 庄や 南大塚店 着‥鍋courseを注文〔夕食:生麦酒付のfree drink @3,500円←美味しいと4人全員満足!^-^〕

[11]庄や 南大塚店にて 中嶋君と
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[12]庄屋 南大塚店前にて 青木さん・中嶋君と
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【二日目〔12月06日(日)〕】
 08時05分 若竹旅館発‥皆で話し合い、取り敢えずは徒歩で巡ることになった‥
 08時40分 喜多院 着 →〔徒歩〕→ 仙波東照宮 →〔徒歩〕→ 中院 →〔徒歩〕→ 南院遺跡 →〔徒歩〕
 「喜多院」川越大師として親しまれている
 「喜多院」は、創建当時の鎌倉時代から「中ノ院」を中心に「北ノ院(=喜多院)」と「南ノ院」から成っていた
 江戸時代に入り、北ノ院を任された天海(のちの大僧正)が、徳川幕府の信を得て発展させた

[13]喜多院 案内看板
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[14]喜多院 慈恵(じえ)堂
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[15]喜多院 多宝塔
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[16]喜多院 慈恵堂をbackに 中嶋君(中)&谷山君(右)と
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[17]仙波東照宮
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[18]仙波東照宮 本殿 前の案内看板
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[19]仙波東照宮 本殿&本店前の石灯籠群
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[20]南院 遺跡
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[21]天台宗 星野山 中院 門前にて
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[22]中院 境内の紅葉
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[23]中院 境内一画にあった「狭山茶 発祥の地」石碑
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 10時20分 川越城 本丸御殿 着
 10時50分 川越城 本丸御殿 発 →〔徒歩1分〕→ 川越市立博物館 → 〔建物が隣接〕→ 川越市立美術館 →

[24]川越本丸御殿前にて
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[25]川越本丸御殿 中庭
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[26]川越市立博物館 前
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 大変luckyなことに、この日は年一回の「川越城本丸御殿」「川越市立博物館」「川越市立美術館」の3館全てが入館料無料であった
 毎年12月01日が市民の日で、その日以降の最初の日曜日が今年は12月06日だったという訳だ
 宝くじに当たった様な気持ちになった
 市立博物館も美術館も覗いてみたのは勿論である(^-^b

[27]埼玉県立川越高校と動向卒業生 ノーベル賞受賞者 梶田隆章氏 顕彰横断幕
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 蔵づくりの街へ歩いていく途中に、埼玉県で浦和高校に次ぐ進学高校 川越高校の前を通り掛かったら、今秋、ノーベル物理学賞を受賞された梶田隆章東大教授の受賞を祝う横断幕が飾られていた
 梶田教授は、この川越高校の卒業生だった訳だ

 市立美術館を出てユックリ歩くこと30分程で、蔵づくりの街の通りに到着した

 11時35分 蔵造りの町並み〔川越市幸町周辺〕着

 時計は11時半を少し回った処である
 先ずは「腹ごしらえ」皆の意見は一致した
 其処で入ることにしたのが、「翠扇亭」
 川越は、江戸時代に鹿児島からさつまいもが伝えられ、特産品になる迄に生産量が拡大した
 川越「蔵づくりの街」逍遥は13時前に終わった
 車を置かせて貰っている若竹旅館に戻る途中、お土産を買う為に「小江戸蔵里」に立ち寄った
 そして若竹旅館駐車場に着いたのは13時30分
 この日は、車をずっと若竹旅館に無料で駐車させて貰って徒歩で「喜多院→川越城本丸御殿→蔵づくりの街」と逍遥
 前述の通り、市立3館の拝観料も無料だったので、昼食代とお土産代以外は無料で済んだ非常に割安な旅行となった

[28]川越蔵の街 小江戸横丁「翠扇亭」入口
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[29]翠扇亭のlunch「いも釜めし」@1,365円(限定40食)
 29lunch136540

[30]川越蔵づくりの街 菓子屋横丁入口にて (左)青木さん&中嶋君(右)
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[31]蔵づくりの街 菓子屋横丁にて
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[32]蔵づくりの街 菓子屋横丁 時の鐘 前にて
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[33]蔵づくりの街 時の鐘 周辺
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[34]蔵づくりの街 一情景
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[35]若竹旅館前にて
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[36]日光&川越市立博物館&川越蔵の街 で買い求めたお土産
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 13時30分 本川越「若竹旅館」発
 17時30分 東名高速道路 豊川IC
 17時45分 国道沿線の食事処にて夕食
 18時10分 谷山宅着
 18時30分 中嶋宅着
 19時00分 青木宅着
 19時05分 今泉宅着

【小生comment】
 日光は、小生昭和40年に今は亡き母と妹と3人で、鬼怒川温泉に一泊して日光東照宮と華厳の滝を見て以来だから今年で丁度50年ぶりとなる。
 東照宮は、【国宝】「陽明門」が修理中で見られなかったことが残念であるが、「眠り猫」「三猿」も見れたので良かった。

 又、川越の街は、事前にInternetで情報を集めた時点で、街を上げて観光客誘致に力を入れていることが伝わって来た。
 小生の長男が幼稚園年中組から小学校1年生(昭和63年~平成03年)迄、隣町狭山市の住人だったので、川越の町はよく訪れた。
 喜多院には、長男の写生大会や家族の休日散策等で3~4回訪れたことがあるので懐かしかった。
 でも、あれから四半世紀が経ち、喜多院も周りの史跡もよく整備されているのに感心した。
 今回、喜多院を訪れた時間は午前09時頃だったが、近隣市民の人達が、境内の清掃に精を出していたり、volunteerの人達が境内施設を無料で説明してくれたりした。
 川越の街が歴史にその名を残す様になったのは、鎌倉時代以降のことである。
 そう考えれば、三河も、尾張と合わせれば、信長・秀吉・家康の戦国の三大英傑発祥の国であり、もっと観光面で有名になったっていい。
 姫路城主となった池田輝政がその直前は吉田(現・豊橋)の城主だった。
 又、川越城主であった松平信綱の玄孫(第5代) 信復(のぶなお(1719-68))が浜松から当地吉田(=現・豊橋)藩主となった。
 以後、大河内松平家は、明治維新迄7代(信古(のぶひさ))歴代吉田藩主を務めた。
 因みに、この信復が1749年に大河内松平家初代吉田藩主。
 1752年 この信復が、我等が母校の名前のrootsである藩校『時習館』を興した藩主である。

 信復の孫で第3代藩主が 松平信明(のぶあきら(1763-1817))である。
 1788年(25歳)から老中となり、老中首座の松平定信と共に寛政の改革に携わった。
 信明の事跡を少し追ってみたい。
 信明は、松平定信辞任後、老中首座となり、幕政を主導。
 1803年、第11代将軍家斉との軋轢が生じて老中を一旦は辞職。
 その信明の後任の老中首座は、大垣藩主中興の祖と言われた戸田氏教(1756-1806)。
 しかし、戸田氏教は3年後、在任中の1806年04月死去。
 その戸田氏教の後任は、越後長岡藩第9代藩主 牧野忠精(ただきよ(1760-1831))が就任。
 ※ 此処で【余談】‥戸田氏は、初代大垣藩主戸田氏鉄(1576-1655)は、三河国仁連木(現・豊橋市仁連木町「仁連木城」)に生まれた。
 島原の乱(1637年12月~1638年04月)では、総大将松平信綱を補佐し、乱平定の戦功を上げた。
 因みに、戸田氏鉄の父 戸田一西(かずあき(1543-1604))は、三河国吉田に生まれ、家康に臣従し、渥美群多米(現・豊橋市多米町)を領有。
 小田原征伐に従軍し、1590年 武蔵国鯨井(現・川越市鯨井)5,000石→1601年 近江国膳所の築城。初代膳所藩3万石藩主となった。
 ※ 更に【余談】‥長岡藩初代藩主 牧野忠成(1581-1655)は、三河(現・豊川市)牛久保城主 牧野康成(1555-1609)の嫡子。
 牧野康成は、1590年 三河国牛久保から上野国大胡(おおご)藩2万石初代藩主に移封。

 話は、大河内松平信明に戻る。
 1806(文化03)年05月 外交問題に明るい信明が老中首座に復職。
 1808(文化05)年08月 英国船フェートン号事件が発生
 1811(文化08)年 蛮書和解御用を設置/同年にはゴローニン事件(‥本件は高田屋嘉兵衛が活躍‥)も起きている

 戸田氏(豊橋市多米町)・牧野氏(豊川市牛久保町)・大河内松平家(川越→浜松→豊橋)。
 これ等3氏が、戦国末期から江戸時代という時間軸の中で関係し合っていた‥なんて‥。
 歴史は実に面白い。

■続いて今日最後の話題は、12月09日(水)に「名古屋ボストン美術館『ヴェネツィア』展」についてである。
 本展については、主催者「ごあいさつ」から一部引用してご紹介する。

 本展覧会では、Tiziano(Titian)、Tintoretto、Veronese等16世紀 Venezia Renaissance を代表する画家達をはじめ、その豊かな色彩表現に影響を受けた Boudin(ブーダン)、Monet等19世紀の印象派の画家達、そして現代に至る迄の約500年に及ぶ Venezia の美の highlight を、ボストン美術館所蔵約130点の作品で辿る。
 一部宗教画を除くと、アドリア海(Adriatic Sea)の海の青さが目に眩しい名画が[39][40][41][43][44][45]の6点。
 ジックリとその「美」を堪能頂きたい。

[37]名古屋ボストン美術館入口『ヴェネツィア展』案内看板
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[38]フランチェスコ・カペッラ『聖家族とパオラの聖フランチェスコ、聖ルイージ(アロイシス)、ゴンザーガ』1760年代初期
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[39]カナレット『サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂:サン・マルコ沖に望む』1726-30年頃
 39172630

[40]フランチェスコ・グアルディ『サン・マルコ沖を行くゴンドラの列』1780-93年頃
 40178093

[41]ウジェーヌ・ルイ・ブーダン『サン・マリア・デッラ・サルーテ聖堂:サン・ジョルジョ島から望む』1895年
 411895

[42]エットレ・ティート『陽気な日のヴェネツィアの街角』1891-99年
 42189199

[43]クロード・モネ『ヴェネツィアの大運河』1908年
 431908

[44]エドワード・ダーリー・ボイト『大運河の午後』1911年
 441911

[45]エドワード・ダーリー・ボイト『サン・バルナバ小運河』1911年
 451911

【後記】川越で宿泊した「若竹旅館」の廊下には、多くの洋画と日本画が飾ってあった。
 女将に確認すると、先代のownerが趣味で買い揃えたもので、これでもかなり処分したんだそうである。
 この中から、美しい女性を描いた絵が2点あったのでご紹介してお別れしたい。

[46]若竹旅館にあった日本画の日本髪を結った女性像
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[47]同じく洋画の少女像
 47

 ※ ※ ※ ※ ※

‥次回《会報》の予告‥
 前《会報》にて、12月12日(土)「京都市美術館『フェルメールとレンブラント』展」「細見美術館『麗しき日本の美-雪・月・花-』展、そして、12月15日(火)に名古屋・電気文化会館 ザ・コンサートホール『ポール・ルイス Piano Recital』の模様をお届けするとお伝えしましたが、これ等を加えると、volume が嵩んで仕舞うので次回《会報》に carry します。
 次回では、上記のほか、12月13日(土)「ライフポートとよはし『豊橋交響楽団 第117回 定期演奏会』を聴いて」も合わせてお届けするつもりです。
 お楽しみに!

 12月15日「Paul Lewis Piano Recital」を聴いた帰り、ふと拙句が浮かんだ。

  師走の夜(夜) 心に沁みる ピアノの音(ね)  悟空

 ではまた‥。(了)

2015年12月12日 (土)

【時習26回3-7の会0578】~「松尾芭蕉『笈の小文』第2回【道の記論】【鳴海・知立亭】」「11月28~29日:社員旅行『【初日】能登半島/羽咋市【千里浜】→【宇宙科学博物館】→【気太大社】』→金沢市駅前〔泊〕【二日目(=自由行動)】→※金沢市内 松尾芭蕉『奥の細道』《金沢》での【三句碑】を訪ねて/石川県立美術館【常設展】を見て/【ひがし茶屋】を訪れて』

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 さぁ、今日も【2637の会 0578】号をお送りします。

■先ず最初は、前《会報》【0577】号に引き続き、松尾芭蕉の『笈の小文』についてご紹介して参ります。
 今回は、その第2回として【道の記論】&【鳴海・知立亭】をお届けします。

【道の日記】
《原文》
 仰、道の日記(にき)(注1)といふものは、紀氏(きし)(注2)・長明(ちやうめい)(注3)・阿仏(あぶつ)の尼(注4)の、文をふるひ、情(じやう)を尽(つく)してより、餘(よ)は皆(みな)俤(おもかげ)似かよひて、其(その)糟粕(さうはく)を改(あらたむ)る事あたはず。
 まして浅智(せんち)短才(たんさい)の筆(ふで)に及(およぶ)べくもあらず。
 其日は雨降(ふり)、昼より晴(はれ)て、そこに松有(あり)、かしこに何と伝(いふ)川(かは)流れたりなどいふ事、たれゝゝもいふべく覚侍(おぼえはべ)れども、黄奇(くわうき)蘇新(そしん)(注5)のたぐひにあらずは伝(いふ)事なかれ。

 されども其所ゝ(ところどころ)の風景心に残り、山館(さんくわん)・野亭(やてい)(注6)のくるしき愁(うれへ)も且(かつ)は、はなしの種となり、風雲の便り(注7)ともおもひなして、わすれぬ所ゝ跡や先やと書(かき)集(あつめ)侍るぞ、猶(なほ)、酔(よへ)る者の妄語にひとしく、いねる人の譫言(せんげん)するたぐひに見なして人又亡(=妄)聴(ちゃう)(注8)せよ。

《現代語訳》
 そもそも紀行文というものは、紀貫之・鴨長明・阿仏尼が文筆を揮(ふる)い旅の思いを表現し尽くしているので、その後のものは皆内容は似た様なものとなって仕舞い、その真似事以上のことが出来ずにいる。
 まして(私の様な)浅い知恵しかなく才能に乏しいものの筆では(先人の名文筆家に)叶う筈もない。
 「其日は雨が降り、昼から晴れた。其処に松があり、彼処に何々川が流れている」等と言った具合の描き方は、誰もこういう描き方になるものだが、表現の斬新さと奇抜さを以て知られた黄山谷(庭堅)や蘇東坡のlevelに達した者達でなければ、言うべきではない。

 そうは言っても、行く先々の美しい風景が心に残り、山や野で泊すことの苦しい愁いも又話の種となり、風雅文芸の情を形作る為の便(よすが)にもなるだろう。そう思い、忘れられない所々のことを後先も整えず書き集めるのだが、それは酔漢の取りとめのない言葉に等しく、寝ている人のうわ言の類と考えて、読者も又、適当に聞き流して戴きたい。

《語句/解説》
 (注1)道の日記:紀行文
 (注2)紀氏:紀貫之(868頃-945頃)『土佐日記』の作者
 (注3)長明:鴨長明(1155-1216)/『方丈記』の作者/近世には鎌倉時代の代表的紀行文『東関紀行』『海道記』の著者と考えられていた
 (注4)阿仏の尼:阿仏尼(1222-1283)/鎌倉時代中期の女流歌人/『十六夜日記』の作者/京都から鎌倉までの道中を綴る
 (注5)黄奇蘇新:「黄」=黄山谷((庭堅)1045-1105)/「蘇」=蘇東坡((蘇軾)1036-1101)
    /共に中国宋代の詩人/両者は「蘇黄」と称された/「蘇子瞻以新/黄魯直以奇」〔詩人玉屑〕
 (注6)山館野亭:山に泊まり野に伏す旅寝のこと
 (注7)風雲のたより(=便・縁・因):自然に親しみ、身を任せる「よすが」
 (注8)亡聴:「妄聴」の誤記か?/「聞き流す」。

【鳴海】
《原文》
 鳴海(なるみ)(注1)にとまりて

  星崎(注2)の闇を見よとや啼(なく)千鳥

 飛鳥井(あすかゐ)雅章公(注3)の此宿(このしゆく)にとまらせ給ひて、
 「都も遠くなるみがたはるけき海を中にへだてゝ」と詠じ給ひけるを、自(ら)かゝせたまひてたまはりけるよしをかたるに、

  京(きやう)まではまだ半空(なかぞら)や雪の雲

《現代語訳》
 歌枕の「鳴海」に泊まって、

 【意】「星崎」という名に相応しく、闇夜の中で千鳥が啼いている
  寒々とした雰囲気が漂っている
  季語:「千鳥」‥冬

 飛鳥井戸雅章公がこの宿にお泊りになって「この鳴海潟まできて、いよいよ都も遠くなった。
 もう都とははるかな海を間にへだてているのだ。
 はるばる旅をしてきたわが身を実感することよ」と詠じられたのを、自ら書にお書きになってこの宿に賜わられたことなどを聞かせてくれたので、

 【意】京登りの道中はまだ道半ばである
  遥かに遠い都を想い西空を見上げると、雪を降らせそうな雲が漂っていて、一層心細い気持にさせる冬の旅であるよ
  季語:雪‥冬

《語句/解説》
 (注1)鳴海:名古屋市緑区鳴海町/「歌枕」として千鳥の名所/東海道の宿駅
    芭蕉は下里知足(しもさと ちそく(1640-1704)=蕉門の一人)の家に泊した
 (注2)星崎:「歌枕」で千鳥の名所/鳴海の北西2kmにある
 (注3)飛鳥井雅章(1611-1679):京都の公卿で歌人/従一位権大納言
    堂上(=二条家の歌学派中、細川幽斎以来の古今伝授を受け継いだ公家歌人の系統)歌人の代表格
 (注4)「都も遠くなるみがた…」:この歌の初句は「けふは猶」とも「うちひさす」とも伝えられる
    「なるみ」には「遠くなる」と「鳴海」の両方に掛かる

【小生comment】
 芭蕉が『笈の小文』で旅した日程を西暦換算すると以下の通りである。
 即ち、今日12月12日は、鳴海の知立亭に到着して4日後で、名古屋へ出立する日であった。
 貞享四年十一月四日(1687年12月8日) 鳴海、知立亭 着
 十一月八日(1687年12月12日) 名古屋に行く
 十一月九日(1687年12月13日) 再び鳴海に戻る
 十一月十日(1687年12月14日) 越智越人(1656-?)と渥美・保見へ
 十一月十二日(1687年12月16日) 伊良古崎

■続いて、お伝えするのは、掲題副題にある通り、11月28(土)~29(日)の両日、小生の勤務先の社員旅行があったので、その模様についてご報告する。
 日程は、以下の通りである。
【初日〔11月28日(土)〕】
 06時45分 JR豊橋発〔新幹線こだま693号〕
 07時10分 JR名古屋着
 07時40分 JR同上集合
 07時50分 JR同上発〔しらさぎ1号〕
[01]金沢駅に到着したしらさぎ1号
 011

 10時49分 JR金沢駅着
 11時00分 同上発 貸切bus →
 12時00分 【千里浜(ちりはま)】レストハウス〔昼食〕

[02]国定公園 能登半島【千里浜】なぎさドライブウェイの石碑と海岸に押し寄せる日本海の荒波
 02

 13時00分 同上発 貸切bus →
 13時30分 【宇宙科学博物館】見学
[03]博物館屋外展示の『マーキュリー・レッドストーン・ロケット』(米国)
 03

[04]マーキュリー(Mercury)宇宙船(米国)‥再現機〔米国初の有人飛行用宇宙船〕
 04mercury

[05]ヴォストーク(Vostok)宇宙船(旧ソ連)‥実物〔地上6,000mでcapsuleと宇宙飛行士は夫々 parachute で地上に帰還した〕
 05vostok

[06]アポロ(Apollo)司令船(米国)‥再現機
 06apollo

[07]アポロ月面着陸船(米国)‥月面に送り込んだ最後のアポロ17号をmodelに組み立てられたもの
 07

[08]ルナ24号 月面着陸船(旧ソ連)1976年08月‥旧ソ連に拠って行われた最後の月面探査‥本機は実物の back up機
 0824

 15時00分 同上発 貸切bus →
 15時15分 【気多(けた)大社】‥能登国一宮
[09]気多大社 案内板
 09

[10]同上 由緒書き
 10

[11]同上 鳥居
 11

[12]同上 大拝殿
 12

[13]同上 境内にある苔むした朽ちた木株
 13

 16時00分 堂上発 貸切bus →
 17時00分 金沢マンテンホテル着
 18時00分 「波の花」にて夜宴
 20時30分 light upされた【兼六園】
[14]【兼六園】scene 01‥light upされた『徽珍(=琴似(ことじ))灯篭』
 14scene_01light_up

[15]【兼六園】scene 02
 15scene_02

【二日目〔11月29日(日)〕】
 06時30分 朝食
 07時20分 Hotel発→TAXI
 07時40分 願念寺〔金沢市野町1丁目3-83〕‥松尾芭蕉・小杉一笑ゆかりの寺
[16]願念寺 案内看板と芭蕉の「つかもうごけ‥」の句碑
 16

       塚も動け 我が泣く声は 秋の風  芭蕉

[17]一笑塚〔松尾芭蕉『奥の細道』【金沢】で紹介されている小杉一笑〕
 小杉一笑の辞世の句‥
 17

  心から 雪うつくしや 西の雲

 08時10分 にし茶屋街
[18]にしの茶屋街 を記した石碑
 18

[19]にしの茶屋街 の情景
 19

[20]長久寺に至る途上の犀川河畔の桜の老木並木
 20

 08時35分 長久寺〔金沢市寺町5丁目2-20〕
[21]長久寺 入口の門
 21

[22]長久寺 境内の松尾芭蕉の「秋涼し」の句碑
 22

       秋涼し 手ごとにむけや 瓜茄(うりなすび)  芭蕉

 09時10分 芭蕉の辻〔金沢市片町交差点北 北國銀行片町支店前〕
[23]芭蕉の辻 石碑
 23

 09時24分 香林坊地蔵尊〔金沢市香林坊交差点〕
[24]香林坊地蔵尊
 24

[25]同上解説石碑
 25

 09時30分 石川四高記念館〔金沢市広坂〕
[26]石川四高記念館入口
 26

[27]旧制第四高等学校校舎
 27

 09時40分 石川県立美術館〔金沢市出羽町〕
[28]石川県立美術館 案内看板
 28

[29]同美術館 入口
 29

[30]「志賀町を描く美術展」leaflet/写真の絵は第27回大賞 平登紀夫『幻想福浦湊』
 30leaflet27

[31]【国宝】野々村仁清『色絵 雉 香炉』17世紀
 31_17

[32]同上(【国宝】『色絵雉香炉』)と【重文】野々村仁清『色絵 雌雉 香炉』17世紀
 32_17

[33]古九谷『青手桜花散文平鉢』17世紀
 3317

[34]古九谷『青手樹木図平鉢』17世紀
 3417

[35]野々村仁清『色絵梅花図平水指』17世紀
 3517

[36]高光一也『フードの女I』1972年
 36i1972

 10時50分 兼六園〔金沢市兼六町〕
 11時03分 芭蕉の句碑
[37]兼六園 公園内の松尾芭蕉の「あかあかと‥」の句碑
 37

[38]兼六園 芭蕉の「あかあかと‥」の句碑の前にて
 38

       あかあかと 日は難面(つれなく)も 秋の風  芭蕉

[39]兼六園の秋の情景01
 3901

[40]同上02
 4002

[41]同上〔徽珍灯篭〕03
 4103

[42]同上〔同上〕04
 4204

 11時20分 金沢城 石川門〔金沢市兼六町〕
[43]金沢城 石川門01
 43_01

[44]同上02
 4402

[45]同上03
 4503

[46]金沢城公園 案内
 46

 12時45分 東山 ひがし茶屋
[47]ひがし茶屋 情景01
 47_01

[48]同上 情景 02
 48_02

[49]ひがし茶屋 にて勤務先の若手社員達と‥
 49

 13時48分 JR金沢発〔しらさぎ10号〕
 16時49分 JR名古屋駅着
 17時56分 同上発〔こだま670号〕
 17時20分 JR豊橋

【小生comment】
 慌ただしい二日間の社員旅行であったが、「松尾芭蕉が【金沢】で詠んだ三句を石碑」と「芭蕉の辻」・「兼六園の紅葉と金沢城」・「にしの茶屋&ひがしの茶屋」を踏破出来、充実した二日間であった。

【後記】
 次号は、12月(土)~06(日)の両日、小生の運転する車で、時習26回生の同期、中嶋Y行君【3-2】&谷山K君【3-3】、城めぐりの会で一緒している青木さんの4人は、【日光東照宮】【城下町『川越』逍遥】の旅に行って来たので、その模様をお伝えします。
 更に、12月09日(水)に「名古屋ボストン美術館『ヴェネツィア』展」、12月12日(土)「京都市美術館『フェルメールとレンブラント』展」「細見美術館『麗しき日本の美-雪・月・花-』展」や、12月15日(火)に名古屋・電気文化会館 ザ・コンサートホール『ポール・ルイス Piano Recital』の模様をお届けする予定です。
 お楽しみに!

 ※ ※ ※ ※ ※

 一般的にっても「師走」は忙しい月だ。
 なかでも今年は公私共にとくに忙(せわ)しい。
 が、仕事に遣り甲斐を感じているし、private も東奔西走しつつもいずれも充実していて愉快な気分である。

  落ち付かぬ 還暦の冬 でも楽し  悟空

 ではまた‥。(了)

2015年12月 3日 (木)

【時習26回3-7の会0577】~「松尾芭蕉『笈の小文』第1回【自号記】【旅立ちの興】」「11月20-22日:富山新港視察旅行〔富山城/瑞龍寺/兼六園 他〕」「11月23日:『湖東三山=西明寺&金剛輪寺/彦根城 玄宮園/佐川美『古田織部』展」「11月25日:東京都美『マルモッタン=モネ美術館 モネ』展/東京国立博『始皇帝と兵馬俑』展/銀座ナカジマアート『堀文子』展/三菱一号館美『プラド美術館』展」「11月26日:愛知県芸術劇場CH『辻井伸之(Pf)&ゲルギエフCoミュンヘンPO演奏会』」を見聴きして

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 さぁ、今日も【2637の会 0577】号をお送りします。
 前《会報》【0576】号にてお伝えした通り、本《会報》では、掲題「副題」について時系列にお伝えします。

■先ず最初は、従前(注1)お約束した様に、本《会報》から、松尾芭蕉の『笈の小文』についてご紹介して参ります。
 (注1)《会報》【0570】号:
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/2605701005galle.html を参照下さい

 【0570】号でお示しした様に、芭蕉は貞享04(=新暦1687)年10月25日(=新暦11月29日)に江戸を出立して、11月04日(=新暦12月08日)鳴海・知立亭 に到着している。
 だから今日12月03日は、まだ駿河国辺りだろうか?
 『笈の小文』第1回目の今日は、その第1回として【自号の記】&【旅立ちの興】をお届けします。

【自号の記】
《原文》
 百骸(ひやくがい)九竅(きうけう(=きゅうきょう))(注1)の中に物有(あり)。
 かりに名付て風羅坊(ふうらばう)(注2)といふ。
 誠にうすものゝかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。
 かれ狂句(きゃうく)(注3)を好(このむ)こと久し。
 終(つひ)に生涯のはかりごとゝなす。
 ある時は倦(うん)で放擲(はうてき)せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたゝかふ(=う)て、是が為に身安からず。
 しばらく身を立(たて)む事をねがへども、これが為にさへられ(注4)、暫ク学で愚を暁(さとらン)事をおもへども、是が為に破られ、つゐ(=ひ)に無能無藝にして只(ただ)此(この)一筋(ひとすぢ)に繋(つなが)る。
 西行(1118-1190)の和歌における、宗祇(そうぎ(1421-1502))の連歌における、雪舟(1420-1506)の絵における、利休(1522-91)が茶における、其(その)貫道(くわんだう)(注5)する物は一(いつ)なり。

 しかも風雅におけるもの、造化(ざうくわ)(注6)にしたがひて四時(しいじ)(注7)を友とす。
 見る処花にあらずといふ事なし。
 おもふ所月にあらずといふ事なし。
 像(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。
 心花にあらざる時は鳥獣(てうじう)に類(るゐ or たぐひ))ス。
 夷狄を出(いで)、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。

《現代語訳》
 百骸九竅の我が「身」の中に、「心」とは別の、言葉で表現し難い「モノ」がある。
 その「モノ」に仮の名前を与え「風羅坊」と呼ぶ。
 実際、この「モノ」は、薄絹の様に風に吹かれると直ぐに破れ易く、感じ易く傷付き易い危い処がある。
 彼の男は、長年俳諧を好んで来た。
 終には生涯取り組む仕儀となった次第である。
 ある時は飽きて仕舞い投げ出そうと思い、又ある時は進んで人に勝って誇ろうとして、どちらとも気持ちを決めかね、この為心が休まることがないのだった。
 一度は立身出世を願ったこともあったが、この俳諧の為にその思いも遮られ、又暫くは学問をして自分の愚かさを悟ろうともしたが、矢張り俳諧の為に破られ、終には無能無芸の儘、只この一筋〔=俳諧の道〕を行くことになった次第である。
 西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その道を貫く「モノ」は一つである。

 しかも、風雅の道のおける「俳諧」は、天地自然に従い、四季折々の移り変わりを友とするのである。
 見るもの全てが花であり、思う処全てが月の様に美しい、そういう「モノ」である。
 だから見るものに花を感じないなら野蛮人であり、心に花を思わないなら鳥や獣と同類なのである。
 野蛮人や鳥獣の未開野蛮な境地を離れ、天然自然に従い、天然自然に帰れというのだ。

《語句/解説》
 (注1) 百骸九竅:「百骸九竅六臓(りくぞう)貝+亥(そなわ)りて存す(荘子 斉物論篇)
    「百骸」は百骨、即ち沢山の骨/「九竅」は身体にある9つ(=眼・耳・鼻・便 各2つ&口1つ)の穴/「百骸九竅」で人間の肉体という意
 (注2) 風羅坊:芭蕉の別号/「風羅」は風に翻るうすもの、意
 (注3) 狂句:「俳諧」を卑下して表現したもの
 (注4) さへられ:「遮られ」
 (注5) 貫道:「風雅」の道を貫くこと
 (注6) 造化:天地万物を創造すること/天地自然
 (注7) 四時(しいじ):四季
 (注8) 夷狄:野蛮人

【旅立ちの興】
《原文》
 神無月(注1)の初(はじめ)、空定めなきけしき、身は風葉(ふうえふ)(注2)の行末(ゆくすゑ)なき心地して、

  旅人と我名よばれん初しぐれ

 又山茶花(さざんくわ)を宿ゝ(やどやど)にして

 岩城(いはき)(注3)の住(ぢゆう)、長太郎(注4)と伝もの、此(この)脇を付て其角(きかく)(注5)亭におゐて関(せき)送(おくり)(注6)せんともてなす。

  時は冬よし野をこめん旅のつと(注7)

 此句は露沾(ろせん)公(注8)より下し給はらせ侍りけるを、はなむけの初(はじめ)として、旧友、親疎、門人等、あるは詩歌文章をもて訪(とぶら)ひ、或(ある)は草鞋の料(れう)(注9)を包(つつみ)て志を見(あらは)す。
 かの三月(さんげつ)の糧(かて)(注10)を集(あつむる)に力を入ず。
 紙布(かみこ)(注11)・綿小(わたこ)(注12)などいふもの、帽子(まうす or ばうし)・したうづ(注13)やうのもの、心ゝ(こころごころ)に送りつどひて、霜雪(さうせつ)の寒苦(かんく)をいとふに心なし(注14)。
 あるは小舟をうかべ、別墅(べつしよ)(注15)にまうけし、草庵(さうあん)に酒肴(さけさかな)携(たずさへ)來りて行衛(ゆくへ)を祝し、名残(なごり)をおしみなどするこそ、ゆへ(=ゑ)ある人(注16)の首途(かどで or かどいで)するにも似たりと、いと物めかしく覚えられけれ。

《現代語訳》
 神無月のはじめ(貞享4年10月)空模様は晴れるとも雨ともつかない様子な中、わが身は風に吹かれる木の葉のように行先がわからない気持ちがして、

 【意】初しぐれが近づくこの時期、私は旅に出発する
    行く先々で旅人とよばれようよ

 そして、山茶花の咲く各地の宿に、泊まりを重ねましょう。

 岩城の住人、長太郎というものがこのような脇句をつけて、其角亭で見送りの宴を開いてくれた。

  今は冬ですが、吉野につく頃にはすっかり花の季節でしょう
  吉野ですばらしい句を詠んで、ぜひおみやげに持って帰ってくださいね

 この句は岩城の城主内藤家の次男露沾公からたまわったものだが、これを餞別のはじめとして、旧友、親類、門人らが集まり、ある者は詩歌や文章をもってきて訪ねてくれ、あるいは道中の草鞋代を包んで志をあらわしてくれる。
 『荘子』には千里先に旅立つには三カ月かかって食料を用意せよとあるが、私は周りの人々のおかげで、そこまで力を入れることもいらなかった。
 紙衣・綿子などというもの、帽子、足袋といったものが心ゝの贈り物として集まり、霜や雪の寒さにふるえる心配も無い。
 ある者は隅田川に小舟を浮かべ、別荘で送別の宴会を開き、私の草の庵に酒と肴を持ってきて道中を祝してくれ、名残を惜しんだりするのは、それなりに立派な人が出発するようでもあると、たいそう物々しく思われたことだなぁ。

《語句/解説》
 (注1) 神無月:陰暦十月/貞享04(1687)年10月
 (注2) 風葉:風に吹かれる葉
 (注3) 岩城:岩城国/現・福島県いわき市
 (注4) 長太郎:井出氏/俳号由之/岩城国小名浜の人/内藤家の家臣とも‥
 (注5) 其角:宝井其角(1661-1707)/蕉門十哲の第一の門弟/「其角亭」は深川木場にあった
 (注6) 関送り:元は京都から東国へ旅立つ人を逢坂関まで送ることを言った/転じて一般に送別の会
 (注7) 「時は冬~」:祇徳『句餞別』(寛保04年刊)に「旅泊に年を越て、よしのゝ花にこゝろせん事を申す/ 時は秋吉野をこめし旅のつと /露沾」の句形で出、脇句は「雁をともねに雲風の月 /芭蕉」とある/「つと」は土産
 (注8) 露沾公:岩城国 平の城主 内藤義泰(俳号 風虎)の次男 義英/天和02(1682)年 若くして隠棲、俳諧に親しむ/西山宗因の門人
 (注9) 草鞋の料:草鞋の代金
 (注10)三月の糧:「百里に適(ゆ)く者は、宿(しゅく)に糧を春((=臼づ)うすづ)く/千里に適(ゆ)く者は、三月糧を聚(あつ)む」
 【意】百里の旅に出る者は、一晩掛けて食糧の米をつき、千里の旅に出る者は、三か月かけて食糧を集めて準備をするのだ
    千里先に旅立つ者は三箇月掛かけて食料を集めなければならない)」(『荘子/逍遥遊篇〔第一〕』)とある
 (注11)紙衣:紙に渋を塗り揉み和らげ、露に晒して作った衣/防寒や風雨をしのぐ為の旅の必需品
 (注12)綿子:真綿で作った防寒着
 (注13)したうず:「したぐつ」/転じて「足袋」のこと
 (注14)いとふに心なし:厭う心配が無い
 (注15)別墅:別荘
 (注16)ゆへある人:立派な人/特別な人

【小生comment】
 松尾芭蕉が、貞享04(1687)年10月25日に江戸を出発して西へ向かった理由について、に上野洋三編「現代語訳付/笈の小文・更科紀行・嵯峨日記」の『概説』は以下の様に説明している。

 この旅の直接の契機は、郷里伊賀藤堂藩が、この歳三月に発した帰国命令にあった。
 藩は、他国に出て生活をしている領民に対して、「今明年中に故郷へ帰り、役人共へつらみせ可仕候」と命じたのである。
 芭蕉は、その条例に従うべく帰国した。
 藤堂藩は、以前より、他国に出ている領民に対して、「五年目には故郷へ帰り」出頭する様命じていた。〔中略〕
 芭蕉は、こと年のうちに何とか伊賀上野に到着している。
 前回『野ざらし紀行』の旅の折の帰国からは、四年目にあたる。
 芭蕉が、実際にこの旅の理由を、江戸の人々に対してどの様に説明したかは、知られない。
 岩城平の城主一族である内藤露沾邸で催された送別の会では、
    旅泊に年を越して吉野の花に心せんと事を申す
  時は秋 吉野をこめし 旅のつと  露沾
   雁をとも寝に 雲風の月     芭蕉
 以下七吟歌仙・十一吟世吉(よよし)等が巻かれたという。〔中略〕
 ‥芭蕉は、露沾主催の俳諧一座で送別の会を開いてくれた同志の人々に、感謝と惜別の情を告げたのであった。

 こうして、芭蕉は十月二十五日、尾張国の鳴海へ向かったのである。

■続いて、お伝えするのは、11月20(金)~22(日):富山新港視察旅行→富山城(址公園)→岩瀬『森家』→高岡市『瑞龍寺』→金沢市『「長町武家屋敷〔野村家〕」「兼六園」「金沢21世紀美術館」「近江町市場」』」を巡って来たので、その模様を添付写真をご覧に入れ乍らお伝えしたい。

 11月20日(金) 小生の勤務先が関係する三河港 産業基地の自治会に拠る同業の港湾施設視察での2 scene である。
 日没間近の富山新港はとても美しかった。

[01]富山新港の Gantry crane
 01_gantry_crane

[02]日没前の富山新港
 02

 視察の翌日からは懇親旅行である。
 21日(土)の朝、最初に訪れたのが、富山城&郷土博物館である。
 郷土博物館では、戦国の強者「津田遠江守重久」展が開催されていた。
 自身の実力を戦国の有力大名にappealして生涯を全うした山城国伏見生まれの武将、津田重久(1549-1634)。
 三好三人衆→足利義昭→明智光秀→豊臣秀吉→秀次→前田利長→前田利次、と多くの主君に仕えた。

[03]富山城天守閣
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[04]郷土博物館〔富山城内〕特別展『戦国の強者/津田遠江守重久』展図録
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[05]富山前田家系譜
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[06]富山城にて20151121
 0620151121

[07]巨石が石垣に数多く組み込まれている富山城
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 国の重要文化財として指定されている「北前船回船問屋 森家」は立派な建物であった。

[08]岩瀬「北前船回船問屋 森家」入口 
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[09]北前船回船問屋 森家の内部
 09

 昼食処として訪れた「糸庄」の「もつ煮込みうどん」は想像していた通りの味でとても美味しかった。

[10]もつ煮込みうどん「糸庄」にて昼食
 10

 高岡市にある、加賀藩第3代藩主前田利常が、実兄で加賀藩第2代藩主前田利長の菩提を弔う為に建立した寺である。
 瑞龍寺の「法堂」は、映画「蜩ノ記」の撮影に使われた。

[11]瑞龍寺のleaflet
 11leaflet

[12]瑞龍寺‥重文「総門」にて国宝「山門」をbackに‥
 12back

[13]瑞龍寺‥国宝「仏殿」脇から国宝「山門」を望む
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[14]瑞龍寺‥国宝「法堂」から「大茶堂」手前の中庭の眺め
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[15]瑞龍寺‥国宝「法堂」内の廊下にて
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[16]瑞龍寺‥国宝「法堂」廊下に掲示されていた「映画『蜩ノ記』poster‥「法堂上段の間で、この映画が撮影された」とある
 16poster_2

[17]瑞龍寺‥国宝「法堂」から眺めた庭の情景
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 高岡名産「かぶら寿し」は、蕪の粕漬けの中に「ブリ」「鮭」「鱒」「鯖」を入れた漬物である。
 この日は「鯖」しかなかったのでそれを購入した。@1,300円。結構美味であった。

[18]高岡名産「かぶら寿し」
 18

[19]高岡の大仏‥日本三代露座の大仏‥と言われる
 19

 21日(土)最後に訪れた観光地は、金沢 長町武家屋敷である。
 此処は、2011年06月05付《会報》【0344】号にてお伝えした様に、一度訪れている。
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/26-034405282905.html ←此処をclickして下さい

[20]「長町武家屋敷」を流れる「大野庄用水」
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[21]長町武家屋敷「野村家」入口付近の案内看板
 21

[22]~[28]同「野村家」‥[22]玄関
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[23]中庭01
 2301

[24]中庭02
 2402

[25]中庭03
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[26]中庭をbackに
 26back

[27]邸内の茶室
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[28]玄関脇の小庭
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[29]~[33]兼六園‥[29]徽軫(=琴柱(ことじ))燈籠
 29

[30]園内にて01
 3001

[31]園内にて02
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[32]情景01
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[33]情景02
 3302

 22日(日) 最初に訪れたのが「金沢二十一世紀美術館」である。
 「ザ・コンテンポラリー2/誰が世界を翻訳するのか」「ザ・コンテンポラリー3/Ghost in the Cell:細胞の中の幽霊」他 が開催されていた

[34]金沢二十一世紀美術館にて
 34

 視察旅行最後の訪問地は「近江市場」であった。

[35]~[37]近江町市場‥[35]パーキング口/情景01/情景02
 35

[36]情景01
 3601

[37]情景02
 3702

■富山新港視察旅行を終えた翌日11月23日(祝月)は、湖東三山「西明寺」「金剛輪寺」→「彦根城 玄宮園」→「佐川美術館」を訪ねた。
 金剛輪寺の紅葉が特に美しかった。
 湖東三山は、2007年12月01~02日に中嶋Y行君【3-2】と訪れている。
 その時の紅葉はこの世のものと思えぬ程美しかった。
 以下にその時の blog を以下に示す。
 2007年12月05日付【時習26回3-7の会 0139(3-1)(3-2)(3-3(完))】
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/26_0139_dbf3.html ←此処をclickして下さい
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/9_1b5a.html ←此処をclickして下さい
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/33_ebe9.html ←此処をclickして下さい

 2007年当時と比べると、今年が暖冬であった所為か、今一つであった。
 とは言え、金剛輪寺の紅葉は流石に素晴らしかった。
 添付写真をご覧頂きたい。

[38]西明寺「蓬莱庭」情景01
 3801

[39]同「蓬莱庭」情景02
 3902

[40]~[42]同 境内 [40]情景01
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[41]情景02
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[42]情景03
 42_03

[43]同 ニ天門
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[44]同 境内 情景04
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[45]同 掲題 情景05
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[46]金剛輪寺 総門
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[47]~[49]同 [47]明壽園01
 47_01

[48]明壽園02
 48_02

[49]明壽園03
 49_03

[50]同 本堂に至る参道にて
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[51]同 国宝「三重塔」
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[52]~[57]金剛輪寺 境内 [52]情景01
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[53]情景02
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[54]情景03
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[55]情景04
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[56]情景05
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[57]情景06
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[58]彦根城玄宮園にて
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[59]彦根城天守閣遠望
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[60]佐川美術館 外観01
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[61]佐川美術館内から水庭(人工池)越しに見える茶室を備えた「新館(樂吉左衞門館)」
 61

 次に訪れたのが、滋賀県守山市にある佐川美術館である。
 当美術館には、佐藤忠良と平山郁夫、楽吉左衛門の常設展 corner がある。
 又、特設展示場では、『古田織部』展が開催されていた。
 以下にその代表的作品を記す。

[62]佐川美術館『古田織部』展leaflet
 62leaflet

[63]織部檜垣文茶碗 美濃(桃山時代 17世紀初期)
 63_17

[64]鼠志野茶碗 美濃(桃山時代 16世紀末~17世紀初期)
 64_1617

[65]黒織部格子目文茶碗 美濃(桃山時代 17世紀初期)
 65_17

[66]織部手付四方形鉢 美濃(桃山時代 16世紀初期)
 66_16

[67]佐藤忠良『帽子・夏』1972年
 671972

[68]佐藤忠良『夏』1976年
 681976

[69]平山郁夫『blue mosque Istanbul Turkey』1989年
 69blue_mosque_istanbul_turkey1989

[70]平山郁夫『ギリシャ人の町遺跡/シルカップ タキシラ Pakistan』1991年
 70_pakistan1991

[71]平山郁夫『タージ・マハル』1998年
 711998

[72]楽吉左衛門『焼貫黒樂茶碗 銘 江上阻風雨』2003年
 72_2003

[73]楽吉左衛門『焼貫黒樂茶碗 銘 幾条もの洸の道を雲根に刻む』2004年
 73_2004

■滋賀県を訪れた翌々日の11月25日は、仕事で上京した帰り、東京都美術館・東京国立博物館・銀座ナカジマアート・三菱一号館美術館を訪れた。
 夫々企画展の『マルモッタン・モネ美術館/Monet』展・=平成館=『始皇帝と兵馬俑』展・『堀文子』展・『プラド(PRADO)』展が開催されていた。
 以下のその代表作品を記す。

[74]東京都美術館『マルモッタン・モネ美術館/Monet』展 案内看板〔上野公園内〕
 74monet

[75]東京都美術館『マルモッタン美術館・Monet』展leaflet
 75monetleaflet

[76]Monet『雪の効果、日没』1875年
 76monet1875

[77]Monet『ヨーロッパ橋、サン=ラザール駅』1877年
 77monet1877

[78]Monet『睡蓮』1903年
 78monet1903

[79]Monet『睡蓮』1916-19年
 79monet191619

【小生comment】
 モネは、晩年の「睡蓮」の絵が多かったが、個人的には、初期の風景画や静物画が好きである。
 本展の絵で言えば[76]『雪の効果、日没』1875年や、[77]『ヨーロッパ橋、サン=ラザール駅』1877年である。

[80]東京国立博物館=平成館=『始皇帝と兵馬俑』展20151125
 8020151125

[81]東京国立博物館『始皇帝と兵馬俑』展leaflet
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[82]企画展会場の一角に設けられた兵馬俑(複製)撮影corner
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【小生comment】
 企画展会場の一角に設けられた兵馬俑(複製)撮影corner で小生の snap-shotが欲しかったナ‥。!(^^;
 実物の兵馬俑を見て、実に精緻に real に作られていることに驚嘆した。
 作成年代は、始皇帝の治世だから、紀元前3世紀。
 欧州では、ヘレニズムの時代である。
 因みに、ミロのヴィーナスは紀元前2世紀の作品。

[83]画廊「ナカジマアート」入口の『堀文子』展 案内看板
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[84]堀文子『海辺』1956年
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[85]堀文子『水仙』2013年
 852013

[86]堀文子『白』2014年
 862014

[87]堀文子『雑草たち』2015年
 872015

[88]堀文子『どくだみの盛りを見に来た庭の花達(梅雨の頃)』2015年
 882015

[89]堀文子『桔梗』2015年
 892015

【小生comment】
 本展では、『雑草たち』のlithographe の販売予約が行われていた。
 堀文子氏は、1918年生まれの満97歳。
 ナカジマアートの中島社長が言っていた。
 「堀先生は凄いです。97歳でも筆使いが確りされているのには驚嘆します。片岡球子先生は流石にこの年頃には手先が震えてられました」
 「堀先生の作品は、昔は女性のfanが大半でしたが、最近は男性のfanの方も増えて来ました」とも‥

[90]三菱一号館美術館入口の『プラド美術館』展
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[91]三菱一号館美術館 中庭から美術館入口を望む
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[92]三菱一号館美術館『プラド(PRADO)』展leaflet/絵は Anton Rafael Mengs『Maria Luisa de Parma, Princess of Spain』1765年
 92pradoleaflet_anton_rafael_mengsma

[93]Diego Velazquez(ヴェラスケス)『Francisco Pacheco(パチェーコ)』1619-22年
 93diego_velazquezfrancisco_pacheco1

[94]Domenico Tintoretto『胸をはだける婦人(Woman baring her Breasts)』1580-90年
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[95]Guido Reni(レーニ)『薔薇花を持つ若い女(Girl with a Rose)』1630-31年
 95guido_renigirl_with_a_rose163031

[96]Juan van der Hamen(ファン・ヴァン・デル・アメン)『スモモとサワーチェリーの載った皿(Plate with Plums and Morello Cherries)』1631年頃
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[97]Bartolome Esteban Murillo『The Vitgin of the Rosary(ロザリオの聖母)』1650-55年頃
 97bartolome_esteban_murillothe_vitg

[98]Francisco de Goya y Lucientes『Tobias and the Angel』1787年頃
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[99]Raimund de Madrazo y Garreta(ガレータ)『The Patio de San Miguel in Seville Cathedral(セビーリャ大聖堂のサン・ミゲルの中庭)』1868年
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[100]Raimund de Madrazo y Garreta(ガレータ)『The Garden of the Fortuny Residence(フォルトゥーニ邸の庭)』1872-77年頃
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【小生comment】
 本展の白眉は、何といっても、[97]ムリリョ『The Vitgin of the Rosary(ロザリオの聖母)』1650-55年頃 だろう。
 記念にと「ロザリオの聖母」の postcard を探したが見つからない。
 係の人に訪ねたら、本作品は、出品が決まったのが日本に来る直前で postcard の作成する時間がなかったとのことだそうだ。
 Postcard がなくても、こうして実物を見ることが出来て幸甚である。

■今日最後にお届けするのは、東京出張の翌日11月26日 名古屋の愛知県芸術劇場concert hall にて開催されたワレリー・ゲルギエフ指揮ミュンヘン・フィル&辻井伸行(Pf)の演奏会についてである。

 演奏曲目は以下の通り

1. ベートーベン/ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 作品73「皇帝」
Encore(1) リスト/ラ・カンパネラ
Encore(2) ベートーベン/ピアノ・ソナタ第14番「月光」~第1楽章
2. ブルックナー/交響曲第4番 変ホ長調 WAB104「ロマンティック」

[101]ワレリー・ゲルギエフ(Valery Gergiev)
 101valery_gergiev

[102]辻井伸行
 102_2

[103]ミュンヘン・フィル
 103

【小生comment】
 辻井伸行君のベートーベンの「皇帝」は圧巻であった。
 完璧な演奏で、且つ、情感が聞き手に確り伝わって来る説得力のある演奏。
 演奏終了後、Blabo!の連呼が飛び、拍手が鳴り止まなかった。
 聴衆の歓喜に応えて、辻井君は2曲もencore曲を弾いてくれた。
 Encoreの最初の曲は、彼が「バン・クライバーン国際コンクール」で弾いた、超難曲の名曲。
 実に素晴らしい演奏であった。
 又、ブルックナーの「ロマンティック」交響曲の確りした演奏で感動した。
 名曲って、ホントいいですネッ!(^-^)b♪

【後記】
 今日は、blogへの添付写真総数が何と103枚。
 《会報》に mail 2本で10枚しか送ってません。
 是非、blog をご覧になって見て下さい。
 添付写真の絵等をご覧頂ければ、「芸術の秋」「自然の美しさ」が実感頂けると思います。

 ではまた‥。(了)

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