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2016年3月27日 (日)

【時習26回3-7の会 0593】~03月20日:埼玉県立近代美術館『原田直次郎』展を見て

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 今日も【時習26回3-7の会 0593】号をお送りします。

■今日の話題は、前《会報》でお伝えした03月20日の埼玉市と東京にある5つの美術館巡りの中から、前《会報》にてお届けした【4】竹橋/東京国立近代美術館に続いて、その日の最初に訪れたさいたま市(旧浦和市)にある 【1】埼玉県立近代美術館『原田直次郎』展の模様をお伝えする。
 会場の埼玉県立近代美術館は、京浜東北線「北浦和」駅から西へ徒歩3分の至近距離にある北浦和公園内にある。
 豊橋駅を07時00分のひかり号で08時40分に東京駅着。
 京浜東北線に乗換えて、北浦和駅に09時40分に到着。
 北浦和公園内にある埼玉県立近代美術館に09時45分に到着。
 公園内を少し散策して、開館を待ち、10時00分の開館と同時に入館した。

[01]埼玉県立近代美術館『原田直次郎(1863-99)』展leaflet
 01186399leaflet

[02]原田直次郎展図録・新関公子『森鴎外と原田直次郎』・森鴎外『舞姫』『うたかたの記』他三篇
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[03]ドイツ・ミュンヘン留学時代(1884-87)の原田直次郎
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 小生、原田直次郎(1863.10.12-99.12.26)という画家については、是迄恥ずかし乍ら、前《会報》でお伝えした東京国立近代美術館に寄託されている国の【重文】「騎龍観音」(添付写真[20])の作者であること位しか知らなかった。
 しかし、本展覧会を見て、原田直次郎に関する著作物、新関公子『森鴎外と原田直次郎』と『本展図録』を読んで、日本の明治時代に於ける、日本西洋絵画発展に少なからず、いや、大きく貢献した、高橋由一の後継者としての日本人西洋画家であることを教えて貰った。
 原田直次郎自身は、36歳という若さで、正岡子規と同じ病である結核と結核性の脊髄病で早世した。
 が、彼が留学先のドイツ帝国ミュンヘンから1887年07月帰国した(直次郎23歳)以降、当時、岡倉天心(1863-1913)とフェロノサ(1853-1908)に拠る国粋化する日本美術界に敢然と立ち向かったことを我々は理解する必要がある。
 日本人に拠る洋画に多大な貢献をする黒田清輝が留学先のFranceから帰国するのは1893年。
 それ迄の間、日本に於ける西洋絵画興隆に向け心血を注いだ原田直次郎であった。

 直次郎とその一家と生涯の友 森鴎外(1862.02.17-1922.07.09)についての略歴を以下に記す。

[04]直次郎の父 吾一(一道)(1830-1910)
 0418301910

 1830(文政13)年 原田直次郎の父一道(かずみち)は、備中浅口郡大島村(現・岡山県笠岡市西大島)の医者の家に生まれた
         名は、駒之進、敬策、吾一、維新後は一道と称した
 1853年 一道は江戸に出て、蘭学の伊東玄朴に入門する傍ら、高島龍砲術を習った
 1856(安政03年)年 幕府の蕃薯調所教授手伝に就任し、岡山藩支藩鴨方藩の藩士となる
    同時に講武所に出仕、同僚の村田蔵六(のちの大村益次郎)と西洋兵書の翻訳研究に励む
    福沢諭吉が英語習得に大村益次郎を誘うと断られ小石川にいる原田敬策に声をかけると大賛成したと『福翁自伝』にある

[05]直次郎の長兄 豊吉(1861-94)
 05_186194

 1861年01月(万延元年11月) 富塚順作の長女あい との間に長男豊吉が生まれる
 1863年10月(文久03年08月) 次男直次郎が、小石川町の富塚家で生まれる
 1863年暮 一道は、文久遣欧使節団に随行
 1866年 帰国する迄一道は、オランダのハーグにある兵学校に留学
 1869(明治02)年 大村益次郎が暗殺された後、一道が明治政府の陸軍所・兵学校教授となる
     豊吉・直次郎兄弟は、父に従い、共に大阪開成学校でFrance語を学び、保田東潜から漢学を学ぶ
 1871(明治04)年 一道は、岩倉具視を全権にした遣外使節団の一員として随行
     一道帰国と共に、豊吉・直次郎兄弟は、東京外国語学校に入学し、France語を学ぶ
 1874(明治07)年 兄 豊吉は13歳でドイツに留学〔Heidelberg大学で地質学・ミュンヘン大学で古生物学を学ぶ〕
         ミュンヘン大学時代に、直次郎の師となるガブリエル・フォン・マックスと親交を結んだ
         ミュンヘン大学で学位を取得し、ウィーン帝国地質調査所で働く
 ※ 砲兵廠に勤め陸軍大佐となった一道は、西南戦争での勲功が認められ陸軍少将に昇進
 1883(明治16)年 豊吉は、足掛け9年の留学を終え帰国
         帰国後、農商務省に入省

[06]原田直次郎『高橋由一像』1893年
 061893

 同年 直次郎は、日本洋画界の最高峰、高橋由一(1828-94)の門下生となる

[07]同『神父』1885年
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[08]同『ドイツの少女』1886年
 Photo

[09]同『靴屋の親爺』1886年
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[10]ガブリエル・フォン・マックス『煙を出す壺を抱く女性』制作年不詳
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[11]ユリウス・エクステル『ある日本人の肖像』1884-85年
 11188485

[12]原田直次郎『風景』1886年
 121886

 1884(明治17)年04月 直次郎がドイツ・ミュンヘンへ留学(当時)〔留学直前に大久保さだと結婚〕
 同年 長兄 豊吉、日本地質学の父ナウマンの後任として東京帝国大学理科大学教授に就任(23歳)

[13]ミュンヘンにて(左:岩佐新/中:原田直次郎/右:森鴎外)1886年08月27日
 1318860827

[14]ミュンヘンにて友人らと(後列左から2人目:森鴎外/前列中央:原田直次郎)1886年11月(推定)
 142188611

[15]カフェ・ミネルヴァ(正面建物の1階)1895年頃
 1511895

 同年10月 森林太郎(のちの鴎外)が陸軍省派遣留学生としてドイツ・ベルリンへ留学(当時22際)
 1886年03月 森鴎外、ミュンヘンへ〔この頃、直次郎と知り合う〕
 同年06月13日 バイエルン国王ルートヴィヒ二世の謎の溺死事件が起きた

 ※ この謎の事件について、東京藝術大学名誉教授の新関公子氏は著書【森鴎外と原田直次郎】の『うたかたの記』成立の経緯で次の様に述べているので、一部引用してご紹介したい

 『うたかたの記』導入部の、原田(直次郎)がモデルとされている日本人画家巨勢(こせ)とその友人エクステルが、美術学校向かいのカフェ・ミネルワに現れて画学生たちの談笑の輪に入っていく場面には、その様な風俗の現場を小説に書く意図を持って執拗に観察していたに違いないと思わせるリアリティがある。
 恐らく鴎外は(1886年)03月から06月の間に、画学生とモデルの恋愛という比較的ありふれた設定の物語を構想し、原田に美術学校事情などを取材していたのではないだろうか。
 処が、06月13日にバイエルン国王ルートヴィヒ二世の謎の溺死事件が起き、journalismが沸いた。
 この美貌でワグナー狂で精神病的気質の王の死は一方ならず鴎外の関心を引き、この事件も構想中の物語の中に取り込もうと、発想が途中で変化したものと思われる。〔P.16〕〔後略〕

『原田とのミュンヘンでの出会い‥‥森林太郎から鷗外への転身』
〔前略〕森林太郎は立身出世courseを此処迄は何の懐疑もなくひた走ったのだったが〔中略〕、家族を離れて漸く自我に目覚め、苦悩しつつ1886年03月、ライプツィヒからドレスデンを経てミュンヘンに修学の地を移した。
 其処で程なく画学生原田直次郎と出会うのである。
 原田の世界は林太郎には驚くばかりだった様だ。
 原田直次郎の父一道は、岡山の出身で蕃薯調所に学び、幕府の遣仏使節団に随行して明治維新の5年も前に欧州の地を踏み、4年の留学後開成所教授となり、明治に入ると岩倉遣欧使節団に随行したり、要職を歴任し、遂には陸軍少将となり、男爵にも叙せられている。
 そんなエリートの子弟ならば官界を目指すのが当然と思われるのに、彼は実用の役に立たない絵を学びに来ていた。
 将来に出世の保証もないというのに、彼は制服を着ていない。
 上司に行動報告の義務もない。
 あまつさえ、ドイツの少女マリイと同棲迄している。
 そして、France語を流暢に話し、高尚な美や芸術を論じている。
 官費留学生の鷗外には望むべくもない自由の雰囲気が原田の周辺には漂っていた。
 家名を上げるには官職以外にないと思い込んでいた林太郎に、突然「芸術家」という人生のあることが知れたのである。
 読む側から書く側へ。
 林太郎から鷗外への転身は早かった。〔中略〕
 日本人画家巨勢とモデルの少女マリイとルートヴィヒ二世の登場擦る『うたかたの記』の一部は、ミュンヘンで書き始められていたかもしれない。
 しかし、鷗外に作家専業という発想は思い浮かばなかった様だ。
 国費を使って此処迄来た鷗外に軍服を脱ぐことは許されなかったし、鷗外自身、出世の階段を上り権力を持つことを嫌ってはいなかった。
 それ故、軍医と作家の二兎を追う生き方は、既に此処で決断されていたのだろう。
 そして、その決断は原田への羨望がきっかけなのである。〔後略〕〔P.130-131〕

[16]原田直次郎『西洋婦人像(山本芳翠の作品模写)』制作年不詳
 16
 ※ 添付写真[17]の山本芳翠の作品を直次郎が模写したのが本作品

[17]山本芳翠『西洋婦人像』1882年
 171882

[18]原田直次郎『毛利敬親肖像』1890年
 181890

[19]同『三条実美像』1893-98年
 19189398

[20]同【重文】『騎龍観音』1890年
 201890

[21]同『貴顕御肖像』1892年
 211892

[22]同『庭』制作年不詳
 22

 1887(明治20)年 直次郎が帰国/『原田少将(=父 一道)の像』を発表
 同年 東京美術学校の設置が決定される〔但し、洋画科はなし〕
 1888年09月 森鴎外帰国
 同年10月陸軍軍医学校教官に就任
 1889年 東京美術学校開校
 同年 長兄 豊吉、肺結核の為、東京帝国大学教授辞職
 1890年 『舞姫』『うたかたの記』『文つかひ』上梓
 1894年 長兄 豊吉、肺結核で死去(享年33歳)
 1896年 東京美術学校に西洋画科が黒田清輝主導で発足
 1898年 岡倉天心、東京美術学校長(在任1890-98)辞職
 1899年12月26日 原田直次郎没

【小生comment】
 原田直次郎と森林太郎(鴎外)が、ミュンヘンで知り合い生涯の友となったのは1886年
 その時二人は、まだ23歳と24歳の若い青年だった
 又、原田直次郎の長兄、豊吉が東京帝国大学理科大学教授に就任したのが、二人が知り合う2年前の1884年
 この時、豊吉も若干23歳の若さ
 東京美術学校が開校された翌年の1890年、同校々長に就任した岡倉天心も27歳での就任
 又、1896年、東京美術学校が西洋画科が設置された時、教員に採用された黒田清輝(1866-1924)は30歳
 翌々年の1898年、黒田清輝は32歳の時、教授に就任している
 事程左様に、明治時代に、近代日本を背負って立ったのは、20~30代の新進気鋭の俊英達だったのである

 森鴎外が、生涯親友として敬慕した原田直次郎
 途轍も無く優秀な鴎外が、一目置く直次郎とは、矢張りscaleの大きな、魅力ある大人(たいじん)だったのだろう
 今回、原田直次郎と森鴎外のミュンヘン時代のこぼれ話を知ってから、鴎外の『舞姫』『うたかたの記』を読んでみた
 するとどうだろう?
 『舞姫』に出て来る主人公、太田豊太郎が森鴎外をモデルとされていたという単純なものでないことが解った
 部分的には明らかに原田直次郎とマリイとの関係を豊太郎とエリスに置き換えも出来る
 そして、豊太郎の帰国に助言した相沢健吉こそ、直次郎が帰国する際にマリイとの関係清算に尽力した森鴎外だと解釈出来る
 乃ち、部分的に、鴎外は、豊太郎になり、相沢にもなっているのである
 一方、『うたかたの記』は、正に原田直次郎とマリイを、巨勢とマリイに重ね合わせることが出来る
 そして、二人の関係をbaseに、小説としてロマンチックで且つ悲劇的要素を加える為に、ルートヴィヒ二世の事件を関連付けるべく、マリイの素性を宮廷画家の娘としたのだろう
 この様に、小説が出来上がる背景を知ってから読み直してみるのも面白いものである

【後記】今日は、井伏鱒二の名訳で有名な、于武陵(うぶりょう)の名詩『酒を勧む』で締め括りたい。

   勧酒  于武陵(うぶりょう)(810-?)
 勧君金屈卮
 満酌不須辞
 花発多風雨
 人生足別離

 君に勧む金屈卮(きんくつし)
 満酌(まんしゃく) 辞するを須(もち)いず
 花発(ひら)けば風雨多し
 人生 別離足る

【意】さぁ、この金色に輝く盃を差し上げよう
 なみなみと注がれた酒 遠慮しないでくれ
 花が咲く頃は雨風が多くなるのは世の常だ
 人世というものには別れがつきものだなぁ

【小生comment】
 前《会報》では、「歳月 人を待たず」
 そして、今回は、「人生 別離足る」
 こういう格言が、実感出来る年になった
 「還暦」には、「時の流れ」と「人との別れ」を実感させてくれる厚みがある

 では、また‥。(了)

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コメント

はじめまして。
神奈川県立近代美術館で「原田直次郎展」を観覧しました。
知られているようでほとんど世に紹介されることの無かった原田直次郎と作品の秀逸さを実感してます。
素晴らしい解説なのでリンク張らせていただきました。
とても勉強になりました。
ありがとうございます。

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