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2016年3月の4件の記事

2016年3月27日 (日)

【時習26回3-7の会 0593】~03月20日:埼玉県立近代美術館『原田直次郎』展を見て

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 今日も【時習26回3-7の会 0593】号をお送りします。

■今日の話題は、前《会報》でお伝えした03月20日の埼玉市と東京にある5つの美術館巡りの中から、前《会報》にてお届けした【4】竹橋/東京国立近代美術館に続いて、その日の最初に訪れたさいたま市(旧浦和市)にある 【1】埼玉県立近代美術館『原田直次郎』展の模様をお伝えする。
 会場の埼玉県立近代美術館は、京浜東北線「北浦和」駅から西へ徒歩3分の至近距離にある北浦和公園内にある。
 豊橋駅を07時00分のひかり号で08時40分に東京駅着。
 京浜東北線に乗換えて、北浦和駅に09時40分に到着。
 北浦和公園内にある埼玉県立近代美術館に09時45分に到着。
 公園内を少し散策して、開館を待ち、10時00分の開館と同時に入館した。

[01]埼玉県立近代美術館『原田直次郎(1863-99)』展leaflet
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[02]原田直次郎展図録・新関公子『森鴎外と原田直次郎』・森鴎外『舞姫』『うたかたの記』他三篇
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[03]ドイツ・ミュンヘン留学時代(1884-87)の原田直次郎
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 小生、原田直次郎(1863.10.12-99.12.26)という画家については、是迄恥ずかし乍ら、前《会報》でお伝えした東京国立近代美術館に寄託されている国の【重文】「騎龍観音」(添付写真[20])の作者であること位しか知らなかった。
 しかし、本展覧会を見て、原田直次郎に関する著作物、新関公子『森鴎外と原田直次郎』と『本展図録』を読んで、日本の明治時代に於ける、日本西洋絵画発展に少なからず、いや、大きく貢献した、高橋由一の後継者としての日本人西洋画家であることを教えて貰った。
 原田直次郎自身は、36歳という若さで、正岡子規と同じ病である結核と結核性の脊髄病で早世した。
 が、彼が留学先のドイツ帝国ミュンヘンから1887年07月帰国した(直次郎23歳)以降、当時、岡倉天心(1863-1913)とフェロノサ(1853-1908)に拠る国粋化する日本美術界に敢然と立ち向かったことを我々は理解する必要がある。
 日本人に拠る洋画に多大な貢献をする黒田清輝が留学先のFranceから帰国するのは1893年。
 それ迄の間、日本に於ける西洋絵画興隆に向け心血を注いだ原田直次郎であった。

 直次郎とその一家と生涯の友 森鴎外(1862.02.17-1922.07.09)についての略歴を以下に記す。

[04]直次郎の父 吾一(一道)(1830-1910)
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 1830(文政13)年 原田直次郎の父一道(かずみち)は、備中浅口郡大島村(現・岡山県笠岡市西大島)の医者の家に生まれた
         名は、駒之進、敬策、吾一、維新後は一道と称した
 1853年 一道は江戸に出て、蘭学の伊東玄朴に入門する傍ら、高島龍砲術を習った
 1856(安政03年)年 幕府の蕃薯調所教授手伝に就任し、岡山藩支藩鴨方藩の藩士となる
    同時に講武所に出仕、同僚の村田蔵六(のちの大村益次郎)と西洋兵書の翻訳研究に励む
    福沢諭吉が英語習得に大村益次郎を誘うと断られ小石川にいる原田敬策に声をかけると大賛成したと『福翁自伝』にある

[05]直次郎の長兄 豊吉(1861-94)
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 1861年01月(万延元年11月) 富塚順作の長女あい との間に長男豊吉が生まれる
 1863年10月(文久03年08月) 次男直次郎が、小石川町の富塚家で生まれる
 1863年暮 一道は、文久遣欧使節団に随行
 1866年 帰国する迄一道は、オランダのハーグにある兵学校に留学
 1869(明治02)年 大村益次郎が暗殺された後、一道が明治政府の陸軍所・兵学校教授となる
     豊吉・直次郎兄弟は、父に従い、共に大阪開成学校でFrance語を学び、保田東潜から漢学を学ぶ
 1871(明治04)年 一道は、岩倉具視を全権にした遣外使節団の一員として随行
     一道帰国と共に、豊吉・直次郎兄弟は、東京外国語学校に入学し、France語を学ぶ
 1874(明治07)年 兄 豊吉は13歳でドイツに留学〔Heidelberg大学で地質学・ミュンヘン大学で古生物学を学ぶ〕
         ミュンヘン大学時代に、直次郎の師となるガブリエル・フォン・マックスと親交を結んだ
         ミュンヘン大学で学位を取得し、ウィーン帝国地質調査所で働く
 ※ 砲兵廠に勤め陸軍大佐となった一道は、西南戦争での勲功が認められ陸軍少将に昇進
 1883(明治16)年 豊吉は、足掛け9年の留学を終え帰国
         帰国後、農商務省に入省

[06]原田直次郎『高橋由一像』1893年
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 同年 直次郎は、日本洋画界の最高峰、高橋由一(1828-94)の門下生となる

[07]同『神父』1885年
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[08]同『ドイツの少女』1886年
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[09]同『靴屋の親爺』1886年
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[10]ガブリエル・フォン・マックス『煙を出す壺を抱く女性』制作年不詳
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[11]ユリウス・エクステル『ある日本人の肖像』1884-85年
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[12]原田直次郎『風景』1886年
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 1884(明治17)年04月 直次郎がドイツ・ミュンヘンへ留学(当時)〔留学直前に大久保さだと結婚〕
 同年 長兄 豊吉、日本地質学の父ナウマンの後任として東京帝国大学理科大学教授に就任(23歳)

[13]ミュンヘンにて(左:岩佐新/中:原田直次郎/右:森鴎外)1886年08月27日
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[14]ミュンヘンにて友人らと(後列左から2人目:森鴎外/前列中央:原田直次郎)1886年11月(推定)
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[15]カフェ・ミネルヴァ(正面建物の1階)1895年頃
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 同年10月 森林太郎(のちの鴎外)が陸軍省派遣留学生としてドイツ・ベルリンへ留学(当時22際)
 1886年03月 森鴎外、ミュンヘンへ〔この頃、直次郎と知り合う〕
 同年06月13日 バイエルン国王ルートヴィヒ二世の謎の溺死事件が起きた

 ※ この謎の事件について、東京藝術大学名誉教授の新関公子氏は著書【森鴎外と原田直次郎】の『うたかたの記』成立の経緯で次の様に述べているので、一部引用してご紹介したい

 『うたかたの記』導入部の、原田(直次郎)がモデルとされている日本人画家巨勢(こせ)とその友人エクステルが、美術学校向かいのカフェ・ミネルワに現れて画学生たちの談笑の輪に入っていく場面には、その様な風俗の現場を小説に書く意図を持って執拗に観察していたに違いないと思わせるリアリティがある。
 恐らく鴎外は(1886年)03月から06月の間に、画学生とモデルの恋愛という比較的ありふれた設定の物語を構想し、原田に美術学校事情などを取材していたのではないだろうか。
 処が、06月13日にバイエルン国王ルートヴィヒ二世の謎の溺死事件が起き、journalismが沸いた。
 この美貌でワグナー狂で精神病的気質の王の死は一方ならず鴎外の関心を引き、この事件も構想中の物語の中に取り込もうと、発想が途中で変化したものと思われる。〔P.16〕〔後略〕

『原田とのミュンヘンでの出会い‥‥森林太郎から鷗外への転身』
〔前略〕森林太郎は立身出世courseを此処迄は何の懐疑もなくひた走ったのだったが〔中略〕、家族を離れて漸く自我に目覚め、苦悩しつつ1886年03月、ライプツィヒからドレスデンを経てミュンヘンに修学の地を移した。
 其処で程なく画学生原田直次郎と出会うのである。
 原田の世界は林太郎には驚くばかりだった様だ。
 原田直次郎の父一道は、岡山の出身で蕃薯調所に学び、幕府の遣仏使節団に随行して明治維新の5年も前に欧州の地を踏み、4年の留学後開成所教授となり、明治に入ると岩倉遣欧使節団に随行したり、要職を歴任し、遂には陸軍少将となり、男爵にも叙せられている。
 そんなエリートの子弟ならば官界を目指すのが当然と思われるのに、彼は実用の役に立たない絵を学びに来ていた。
 将来に出世の保証もないというのに、彼は制服を着ていない。
 上司に行動報告の義務もない。
 あまつさえ、ドイツの少女マリイと同棲迄している。
 そして、France語を流暢に話し、高尚な美や芸術を論じている。
 官費留学生の鷗外には望むべくもない自由の雰囲気が原田の周辺には漂っていた。
 家名を上げるには官職以外にないと思い込んでいた林太郎に、突然「芸術家」という人生のあることが知れたのである。
 読む側から書く側へ。
 林太郎から鷗外への転身は早かった。〔中略〕
 日本人画家巨勢とモデルの少女マリイとルートヴィヒ二世の登場擦る『うたかたの記』の一部は、ミュンヘンで書き始められていたかもしれない。
 しかし、鷗外に作家専業という発想は思い浮かばなかった様だ。
 国費を使って此処迄来た鷗外に軍服を脱ぐことは許されなかったし、鷗外自身、出世の階段を上り権力を持つことを嫌ってはいなかった。
 それ故、軍医と作家の二兎を追う生き方は、既に此処で決断されていたのだろう。
 そして、その決断は原田への羨望がきっかけなのである。〔後略〕〔P.130-131〕

[16]原田直次郎『西洋婦人像(山本芳翠の作品模写)』制作年不詳
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 ※ 添付写真[17]の山本芳翠の作品を直次郎が模写したのが本作品

[17]山本芳翠『西洋婦人像』1882年
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[18]原田直次郎『毛利敬親肖像』1890年
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[19]同『三条実美像』1893-98年
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[20]同【重文】『騎龍観音』1890年
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[21]同『貴顕御肖像』1892年
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[22]同『庭』制作年不詳
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 1887(明治20)年 直次郎が帰国/『原田少将(=父 一道)の像』を発表
 同年 東京美術学校の設置が決定される〔但し、洋画科はなし〕
 1888年09月 森鴎外帰国
 同年10月陸軍軍医学校教官に就任
 1889年 東京美術学校開校
 同年 長兄 豊吉、肺結核の為、東京帝国大学教授辞職
 1890年 『舞姫』『うたかたの記』『文つかひ』上梓
 1894年 長兄 豊吉、肺結核で死去(享年33歳)
 1896年 東京美術学校に西洋画科が黒田清輝主導で発足
 1898年 岡倉天心、東京美術学校長(在任1890-98)辞職
 1899年12月26日 原田直次郎没

【小生comment】
 原田直次郎と森林太郎(鴎外)が、ミュンヘンで知り合い生涯の友となったのは1886年
 その時二人は、まだ23歳と24歳の若い青年だった
 又、原田直次郎の長兄、豊吉が東京帝国大学理科大学教授に就任したのが、二人が知り合う2年前の1884年
 この時、豊吉も若干23歳の若さ
 東京美術学校が開校された翌年の1890年、同校々長に就任した岡倉天心も27歳での就任
 又、1896年、東京美術学校が西洋画科が設置された時、教員に採用された黒田清輝(1866-1924)は30歳
 翌々年の1898年、黒田清輝は32歳の時、教授に就任している
 事程左様に、明治時代に、近代日本を背負って立ったのは、20~30代の新進気鋭の俊英達だったのである

 森鴎外が、生涯親友として敬慕した原田直次郎
 途轍も無く優秀な鴎外が、一目置く直次郎とは、矢張りscaleの大きな、魅力ある大人(たいじん)だったのだろう
 今回、原田直次郎と森鴎外のミュンヘン時代のこぼれ話を知ってから、鴎外の『舞姫』『うたかたの記』を読んでみた
 するとどうだろう?
 『舞姫』に出て来る主人公、太田豊太郎が森鴎外をモデルとされていたという単純なものでないことが解った
 部分的には明らかに原田直次郎とマリイとの関係を豊太郎とエリスに置き換えも出来る
 そして、豊太郎の帰国に助言した相沢健吉こそ、直次郎が帰国する際にマリイとの関係清算に尽力した森鴎外だと解釈出来る
 乃ち、部分的に、鴎外は、豊太郎になり、相沢にもなっているのである
 一方、『うたかたの記』は、正に原田直次郎とマリイを、巨勢とマリイに重ね合わせることが出来る
 そして、二人の関係をbaseに、小説としてロマンチックで且つ悲劇的要素を加える為に、ルートヴィヒ二世の事件を関連付けるべく、マリイの素性を宮廷画家の娘としたのだろう
 この様に、小説が出来上がる背景を知ってから読み直してみるのも面白いものである

【後記】今日は、井伏鱒二の名訳で有名な、于武陵(うぶりょう)の名詩『酒を勧む』で締め括りたい。

   勧酒  于武陵(うぶりょう)(810-?)
 勧君金屈卮
 満酌不須辞
 花発多風雨
 人生足別離

 君に勧む金屈卮(きんくつし)
 満酌(まんしゃく) 辞するを須(もち)いず
 花発(ひら)けば風雨多し
 人生 別離足る

【意】さぁ、この金色に輝く盃を差し上げよう
 なみなみと注がれた酒 遠慮しないでくれ
 花が咲く頃は雨風が多くなるのは世の常だ
 人世というものには別れがつきものだなぁ

【小生comment】
 前《会報》では、「歳月 人を待たず」
 そして、今回は、「人生 別離足る」
 こういう格言が、実感出来る年になった
 「還暦」には、「時の流れ」と「人との別れ」を実感させてくれる厚みがある

 では、また‥。(了)

2016年3月21日 (月)

【時習26回3-7の会 0592】~「03月20日:さいたま市と東京の5つの美術館巡って~第1回/東京国立近代美術館『MOMATコレクション《特集》春らんまんの日本画まつり』展を見て」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 今日も【時習26回3-7の会 0592】号をお送りします。

■今日最初の話題は、掲題副題にある様に、昨日03月20日(日)日帰りでの一人旅さいたま市と東京にある5つの美術館巡りをして来ましたのでその模様のsummaryとその第1回/東京国立近代美術館『MOMATコレクション《特集》春らんまん日本画まつり』展をお届けします。

 今日は一日中獨りだったので、一念発起し独身気分になって、さいたま市(旧浦和市)にある 【1】埼玉県立近代美術館『原田直次郎』展、東京都内の4つの美術館 【2】上野/国立西洋美術館『カラヴァッジョ』展、【3】広尾/山種美術館『奥村土牛』寺、【4】竹橋/東京国立近代美術館『所蔵コレクション《特集》春らんまんの日本画まつり』展、【5】東京駅/東京station gallery『ジョルジョ・モランディ』展、と一日で5つの美術館を巡って来た。
 5つの美術館のうち、(4)東京国立近代美術館を除く4つの美術館は企画展である。
 当該企画展は、愛知県への巡回なく見られない企画展であった為、一念発起して上京を決意、見ることにした。
 其処で今日は、5つの美術館の行程をお示しすることとする。
 そして当該5美術館の中から、今日は【4】東京国立近代美術館の展示作品で、スマホのcameraで撮影した幾つかをご紹介したい。
 当美術館は、従前にもご紹介したが、一部の作品を除き、フラッシュなしなら撮影可能という粋な計らいをしてくれる美術館である。

 06時20分 拙宅発
 07時00分 新幹線ひかり号にて東京へ
 08時40分 東京駅着→〔JR京浜東北線〕→
 09時40分 JR北浦和駅着→〔徒歩3分〕→北浦和公園(=園内に美術館がある)へ

[01]北浦和公園内にある埼玉県立近代美術館『原田直次郎』展 案内看板
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[02]北浦和公園案内
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[03]埼玉県立近代美術館 外観
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[04]埼玉県立近代美術館 entrance
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 10時00分 埼玉県立近代美術館
【1】埼玉県立近代美術館『原田直次郎』展

 11時00分 JR北浦和駅発→〔JR京浜東北線〕→
 11時40分 JR上野駅→〔徒歩3分〕→
 11時45分 国立西洋美術館『カラヴァッジョ』展

[05]国立西洋美術館 入口『カラヴァッジョ』展案内看板
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【2】国立西洋美術館『カラヴァッジョ』展

 12時40分 JR上野駅発→〔JR京浜東北線→JR山手線〕→
 13時05分 JR恵比寿駅→〔徒歩8分〕→
 13時15分 山種美術館着

[06]山種美術館 入口『奥村土牛』展 案内看板
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【3】山種美術館『奥村土牛』展

 13時45分 山種美術館発→〔徒歩15分〕→
 14時00分 東京メトロ 表参道駅→〔東京メトロ 半蔵門線(九段下経由)→東西線〕→
[07]地下鉄『表参道』入口
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 14時25分 東京メトロ 竹橋駅着
 14時30分 東京国立近代美術館着

[08]地下鉄『竹橋』を出て東京国立近代美術館へ至る所にある江戸城(皇居)のお堀
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[09]東京国立近代美術館 外観とentrance
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【4】東京国立近代美術館『MOMATコレクション~《特集》春らんまん日本画まつり』展

[10]セザンヌ『大きな花束』1892-95年
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[11]菱田春草【重文】『賢首菩薩』1907年
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[12]和田三造『南風』1907年
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[13]荻原守衛『女』1910年
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[14]小林古径『極楽井』1912年
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[15]萬鉄五郎【重文】『裸体美人』1912年
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[16]藤島武二『匂い』1915年
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[17]中村彝【重文】『エロシェンコ氏の肖像』1920年
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[18]佐伯祐三『ガス灯と広告』1927年 
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[19]海老原喜之助『姉妹眠る』1927年
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[20]海老原喜之助『ゲレンデ』1930年
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[21]安井曾太郎『奥入瀬の渓流』1933年
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[22]安井曾太郎『金蓉』1934年
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[23]梅原龍三郎『桜島(青)』1935年
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[24]小倉遊亀『浴女 その一』1938年
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[25]北蓮蔵(きた れんぞう)『提督の最後』1943年頃
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 15時15分 東京メトロ 竹橋駅発→〔東京メトロ 東西線〕→
 15時20分 東京メトロ 大手町駅着→〔徒歩5分〕→
 15時25分 東京駅丸の内北口構内=東京station gallery

[26]東京station gallery がある東京駅丸の内北口 外観
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[27]東京station gallery 入口の『ジョルジョ・モランディ』展看板
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【5】東京ステーションギャラリー『ジョルジョ・モランディ』展

【小生comment】
 今日訪れた5つの美術館は、特段特筆すべきことはなかったが、最初に訪れた (1)埼玉県立近代美術館の『原田直次郎』展が一番面白かった。
 何となれば、留学先のドイツで知己を得て、生涯の友となった原田直次郎と森鴎外の関係は、直次郎が36歳で亡くなる迄ずっと続いたが、その二人の関係が強く印象づけられたのである。
 小生は恥ずかし乍ら、直次郎と鴎外の交友関係を昨日の展覧会で初めて知った
 【2】国立西洋美術館の『カラヴァッジョ』展、【3】山種美術館『奥村土牛』展の両展は期待していた通りの立派な企画展。
 又、【4】東京国立近代美術館の所蔵展も、作品は何度も見ているが、傑作は何回見ても素晴らしい、と実感出来た。
 【5】東京駅 東京station gallery『ジョルジョ・モランディ』展は、彼の真骨頂である静物画と風景画が、地味だがホント素晴らしかった。

【後記】今日は、六朝・東晋時代の中国の詩人 陶潜(365-427)の詩『雑詩』をお届けしてお別れしたい。

 雑詩 其一

 人生無根蒂
 飄如陌上塵
 分散逐風轉
 此已非常身
 落地爲兄弟
 何必骨肉親
 得歡當作樂
 斗酒聚比鄰
 盛年不重來
 一日難再晨
 及時當勉勵
 歳月不待人

 人生(じんせい)根蒂(こんてい)無し
 飄(ひょう)として陌上(はくじょう)の塵(ちり)の如し
 分散して風を逐(=追(お))いて転ず
 此(こ)れ已(すで)に常の身に非ず
 地に落ちて兄弟(けいてい)と為る
 何ぞ必ずしも骨肉の親のみならん
 歓(よろこび)を得ては当(まさ)に楽(しみ)を作(な)すべし
 斗酒(としゅ) 比隣(ひりん)を聚(あつ)む
 盛年(せいねん) 重ねて来(きた)らず
 一日(いちじつ) 再び晨(あした)なり難(がた)し
 時に及んで当(まさ)に勉励すべし
 歳月 人を待たず

【意】
 人生は確りと繋ぎ留めておく草木の根や果実の蒂(へた)もなく
 まるで風に舞い上がる路上の塵の様なものだ
 風に拠って吹き散らされていく
 これは永遠に変わらない身ではない
 この世に生まれ落ちれば誰もが兄弟の様なものだ
 どうして肉親だけが親しいものだろうか
 (憂き世に生きる我等だからこそ、)歓楽の時を得たら楽しむのは当然のことだ
 一斗の酒で隣近所の人を集め、大いに飲み空かそう
 若く盛んな時は二度とは来ないし
 一日に二回目の晨(=朝)は遣って来ないのだ
 良い時を得たら、確り楽しむべきだ
 歳月流れて行き、人を待ってはくれないのだから

【小生comment】
 「時に及んで当に勉励すべし/歳月人を待たず」のphraseを、従来、「若い時は確り勉強せよ/過ぎた時間は二度と戻って来ないぞ」と誤って解釈されていた。
 しかし実の処は、「楽しむべき時は楽しもうヨ/過ぎた時間は二度と戻って来ないのだから」という意味である。

《語句解説》
「根蒂」:草木の根や果実の蒂(ヘた)/転じて、繋ぎ留めておくもの
「飄」:風に散る様
「陌上」:路上、街路
「常身」:永遠に変わらない身
「落地」:この世に生まれ落ちる/論語「四海皆兄弟」を踏まえる
「斗酒」:「斗」はもと酒をくむ器
「比隣」:近所の人々
「晨」:朝
「及時」:良い時を逃さないで
「勉励」:努め励む

 「歳月人を待たず」‥だからこそ、毎日々々を確りと生きて行きたいものである。
 ではまた‥。(了)

2016年3月13日 (日)

【時習26回3-7の会 0591】~「03月05日:浜松市美術館『美愛真を求めて‥近代日本絵画の心』展を見て」「新東名高速道路‥設楽原SA‥設楽原合戦/織田信長本陣跡を訪ねて」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 今日も【時習26回3-7の会 0591】号をお送りします。

■今日最初の話題は、掲題副題にある様に、03月05日(土)浜松市美術館『美愛真を求めて‥近代日本絵画の心』展を見て来たのでその模様から‥。

 本展は、戦前から「ゆすらの号」で活躍した浜松市の俳人 鈴木八郎(1912-2002)氏が集めた画帖を中心に、鈴木三朝、野島青茲、武者小路実篤、平山郁夫、伊東深水、梅原龍三郎等の浜松市美術館所蔵作品を展示し、鈴木八郎氏との交流の軌跡を辿り、紹介するものである。
 鈴木三郎氏の文人・絵画の泰斗達との交流の広さを具(つぶさ)に見て、こういう生き方って格好いいナァ‥と思った。

[01]浜松市美術館『美愛真を求めて‥近代日本絵画の心』展leaflet
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[02]野島青茲『舞子(夏姿)』1970年
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 美術館を出て、駐車場へ戻るついでに、同じ公園内にある浜松城天守閣の外観を見て来た。

[03]浜松城天守閣
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 そして、浜松西ICから東名高速道路に乗り、三ヶ日JCTから先月13日に開通した新東名高速道路、引佐JCT~豊田東JCTを初めて走った。
 その道すがら、設楽原SAに立ち寄り、SA内に隣接した「設楽原合戦/織田信長本陣跡」を訪ねた。

[04]設楽腹の戦 織田信長 本陣跡
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[05]織田信長戦地本陣跡
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【後記】今日は、三国志の魏の始祖 操が詠んだ名詩「亀雖壽(きすいじゅ)」の一節をお届けしてお別れしたい。

  亀雖壽(きすいじゅ) 曹操

 神亀雖壽
 猶有竟時
 騰蛇乗霧
 終為土灰

 老驥伏櫪
 志在千里
 烈士墓年
 壮心不已
 〔後略〕

 神亀(しんき)寿(いのちなが)しと雖(いえど)も
 猶(お)竟(おわ)る時(とき)有り
 騰蛇(とうだ)霧に乗ずるも
 終(つい)に土灰(どかい)と為(な)る

 老驥(ろうき)櫪(れき)に伏して
 志(こころざし)千里(せんり)に在(あ)り
 烈士(れっし)墓年(ぼねん)
 壮心(そうしん)已(や)まず
 〔後略〕

【意】亀は長寿だというが、死は免れない
 龍は霧に乗り天空を駆け巡るが、やがて土や灰になって仕舞う

 老いた駿馬が厩に甘んじて繋がれているのは
 猶お千里を駆け巡る為であり〔この老驥の如く‥〕
 雄々しい男たるもの晩年になっても
 大志を抱き続け終わることを知らないのだ

 「老驥千里を思う」という名言のもととなった詩
 還暦を過ぎても、この櫪に繋がれた老驥の如く、未来志向で元気に生きて行きたいものである
 先週までの一月間、小生は仕事でかなり苦しんだが、一昨々日の03月10日(金)に懸案事項を解決出来た
 故に、まだまだ頑張れる気概がふつふつと湧いている今、この「老驥千里を思う」という名言が強い共感となって浮かんだ
 ではまた‥。(了)

2016年3月 6日 (日)

【時習26回3−7の会0590】〜「松尾芭蕉『笈の小文』第9回【伊勢】」「02月28日:三河城郭史談会/平成28年度冬季見学会『近江国を往く』に参加して」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 今日も、前回《会報》と同じ感想「歳月は過ぎゆくのが本当に早い」ですネ。(^^;
 2016年も、弥生03月も05日です。
 時節は、今日が二十四節気でいう『啓蟄』。
 日中はとても暖かく、地中のの生き物たちも活動を開始していることだろう。
 さぁ、今日は【時習26回3-7の会 0590】号をお送りします。

■先ず最初は、前《会報》【0589】号に引き続いて、松尾芭蕉『笈の小文』第9回【伊勢】をお届けします。
 芭蕉が伊勢神宮を訪れた日が1688(貞亨五)年二月四日(新暦03月05日)。
 328年前の丁度昨日がその日に当たる。
 ではどうぞ‥。

【伊勢】
《原文》
 伊勢山田(注1)

  何(なに)の木の花とはしらず匂(にほひ)哉(かな)

  裸(注2)にはまだ衣更着(きさらぎ)の嵐(あらし)哉(かな)

 菩提山(ぼだいさん)(注3)

  此山(このやま)のかなしさ告(つげ)よ野老堀(=掘)(ところほり)(注4)

《現代語訳》
 伊勢山田にて‥

 【意】何の木の花の香りか知らないが、伊勢神宮外宮という神聖な場所に相応しく、如何にも厳かに匂いたっていることよ
 【解説】伝西行作「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」を踏まえて詠んだもの
  季語:「花」‥(春)

 【意】かの増賀上人が此処裸で下向した故事を思い出した
    まだこの二月(=如月)では嵐が吹き寒くて裸でいるのは辛い処だ
 【解説】西行(1118-90)に仮託された作者不詳の説話集『選集抄』に登場する、増賀聖が伊勢神宮に参詣した折の話を踏まえたもの
    それは、聖が「名利を捨てよ」との神夢に拠り、衣類ほかの全てを乞食に与え裸で下向したという話
  季語:「衣更着」‥(春)

 菩提山にて‥

 【意】嘗ては栄えていたこの山寺も、今では往時の面影も無く荒廃している
    と見ると、この地で野老(トコロ)堀りをする人々がいる
    この山寺の(衰退した)悲しい歴史を、もし知っていたら私に聞かせておくれ
 【解説】遺跡に立って懐旧の情に浸るのはよくある話だが、「トコロ掘り」で寺院の荒廃ぶりを詠んだのがこの新味
  季語:「野老掘る」‥(春)

《語句/解説》
 (注1) 伊勢山田:伊勢神宮外宮(豊受(とようけ)大神宮)がある一帯をいう
 (注2) 裸:平安中期の天台宗の僧、増賀(ぞうが)上人の故事を踏まえる
    二月の月名の「如月」と増賀上人の故事の「衣更着(=衣を更に着重ねる)」を掛けている処がこの句の妙
 (注3) 菩提山:菩提山神宮寺/伊勢朝熊山麓にある
    天平年間行基による開山と伝えられるが、中世以降荒廃していたという
 (注4) 野老(ところ):山芋に似た蔓(つる)草で根は食用

《原文》
 龍尚舎(りゅうのしょうしゃ)(注1)

  物の名を先(まづ)とふ蘆(あし)のわか葉(ば)哉(かな)

 網代(あじろ)民部(みんぶ)雪堂(せつだう)(注2)に会(あふ)

  梅の木に猶(なほ)やどり木(ぎ)や梅の花

 草庵(さうあんの)会(くわい)(注3)

  いも植(うゑ)て門(かど)は葎(むぐら)のわか葉哉

《現代語訳》
 龍尚舎を訪ねて‥

 【意】「草の名は所によりて変るなり/なにはの蘆は伊勢の浜荻」とある様に、所によって物の名も変わるとの由
    浅学の私には、このわか葉の名前が何というのか解りません
    博学な貴方に一から教えて教えて頂かなくてはなりません
    宜しくお導き下さい
 【解説】「草の名は所によりて変るなり/なにはの蘆は伊勢の浜荻/救済法師」(『菟玖波集』巻十四)の連歌の付合に拠り、博学の龍尚舎への挨拶とした句
    連歌の付合(つけあい):長句(5-7-5)と短句(7-7)を付け合わせること/又はその様にして付け合わされれた2句一組のこと
  季語:「蘆のわか葉」 ‥(春)

 網代民部雪堂に会って‥

 【意】梅の木に更に宿り木した様に梅の木が継がれ見事に花開かせている
    その様に、貴方も父上神風館一世から風雅の気質を受け継ぎ見事に開花させられている、流石だ
 【解説】父・弘氏は談林派の俳人で、談林派の総帥西山宗因は「梅翁」と名乗っていたことも掛けている
  季語:「梅の木」‥(春)

 草庵の会にて‥

 【意】前庭には芋が植えてあり、門には八重葎(=つる草)が這い絡まっている
    そんな侘しい草庵にも新しい季節は訪れ、その八重葎も若葉になっている
 【解説】「芋」と「葎」で庵主の隠者の様を形容/「いも植て」で庵主の人柄が豊かに想像される
  季語:「葎のわか葉」‥(春)

《語句/解説》
 (注1) 龍尚舎:龍野伝右衛門熙近/尚舎は号
    伊勢神宮外宮の神官で碩学の和学者として有名/1693(元禄06)年没(78歳)
 (注2) 網代民部雪堂…外宮の神官/足代民部弘員/通称:助之進/号は「胡来」/「雪堂」は軒号か?
    父弘氏は神風館一世と称する俳人(この時既に故人)/雪堂は神風館二世
 (注3) 草庵の会:伊勢の大江寺(伊勢市船江町)境内にあった「二条軒」と呼ばれた草庵会

《原文》
 神垣(かみがき)のうちに梅一(ひと)木(=本)(き)もなし。
 いかに故(ゆゑ)有事(あること)にやと神司(かんづかさ)(注2)などに尋侍(たづねはべ)れば、只(ただ)何(なに)とはなし、をのづから梅一(ひと)もともなくて、子良(こら)の館(たち)(注3)の後(うしろ)に一(ひと)もと侍るよしをかたりつたふ。

  御子良子(おこらご)の一(ひと)もとゆかし梅の花

  神垣(かみがき)やおもひもかけずねはんぞう(注3)

《現代語訳》
 神宮の境内には梅の木が一本も無い。
 どんな訳があるのかと神官などに尋ねてみたが、何も理由はないという。
 元々梅の木は一本も無いのだ。
 ただ、子良の館の後に一本だけあると教えてくれた。

 【意】潔斎して伊勢神宮に仕える少女に相応しく、神宮境内に一本だけある梅の木は、子良の詰所の畔に咲くという
    如何にも奥ゆかしく心惹かれることだよ
 【解説】「梅稀に一もとゆかし子良の館/『真蹟懐紙』」が初案
  季語:「梅の花」‥(春)

 【意】仏事を只管(ひたすら)を忌むこの神宮境内滞在中に、二月十五日の涅槃会を迎えて仕舞った
    思いもかけないことだなぁ
 【解説】「神垣のあたりと思ふゆふだすき 思ひもかけぬ鐘の声かな/『金葉集』六条右大臣北の方」を踏まえる
  季語:「ねはんぞう」‥(春)

《語句/解説》
 (注1) 神司:神官
 (注2) 子良の館(こらのたち):潔斎して伊勢神宮に奉仕する童女たち
    「子良」は「物忌みの子ら」の略/「御子良子」も同じ
    「館」はその詰所/外宮にも内宮にもあったという
 (注3)「ねはんぞう」=「涅槃像」:釈迦入滅の図、又はその彫刻
    伊勢滞在中に、二月十五日の涅槃会(ねはんえ)の日を迎えて仕舞ったことを「涅槃像」と表現したか(?)

【小生comment】
芭蕉の、『笈の小文』の流れは、以下の通り
貞享五年
 二月四日 伊勢神宮参詣
 二月十八日 亡父与左衛門の三十三回忌法要に出席〔『笈の小文』には不掲載〕
 三月十一日 服部土芳(1657-1730)の蓑虫菴訪問〔同上〕
 三月中旬迄 新大仏寺、探丸邸等を訪問〔同上〕
 三月十九日 杜国と吉野へ行く
 四月八日  奈良に至る/十一日迄に唐招提寺を訪れる
 四月十三日 大阪に至る/久左衛門宅に6日間逗留
 四月十九日 兵庫夜泊
 四月二十日、二十一日頃 須磨、明石を見物
 四月二十三日 京都へ〔『笈の小文』には不掲載〕

 と言う訳で、次回の『笈の小文』第10回は、貞亨五年三月十九日【吉野への旅立ち】、新暦でいうと1688年04月19日になる。
 一月半程先のこととなりますので、どうぞその時を、お楽しみに!(^-')b

■今日最後の話題は、一週間前の02月28日(日)に掲題・副題にある様に、中嶋良行君【3-2】が参加している「お城巡りの会」の日帰り見学会に彼と一緒に参加したので、その模様をお伝えしたい。
 このお城巡りの会の正式名称は「三河城郭史談会」と言い、昭和59年07月から今年開催されている。
 今回で32年目の第105回目の見学会となり、参加者は20人。
 年々、参加者が高齢化していくのが悩みの種だと、主催者の高橋南城氏は話されていた。
 今回の見学会は『近江国を往く』で、貸切中型busに拠る日帰り見学会であった。
 小生は、2回目の参加である。
 行程は以下の通り。

07時00分 豊橋公園発
10時20分 滋賀県竜王町鏡『源義経元服の地』‥鏡神社

[01]鏡神社〔竜王町〕の前にて
 01

[02]謡曲『烏帽子折』と鏡神社の説明板
 02

 謡曲『烏帽子折』について、説明板は次の様に記している。
 謡曲『烏帽子折』は、義経記などの牛若丸(源義経)伝説から創作された
 前段は、鞍馬山を抜け出した牛若が、金売り吉次と欧州へ向かう途中、追手が迫ったので、鏡の里宿で元服して姿を変えた物語
 後段は、この後赤坂宿で盗賊の熊坂長範に襲われ、奮闘して退治した武勇伝
 鏡の里は当地で、鏡神社は牛若が元服の際、源氏再興を祈願した神社とされ、烏帽子を掛けた『烏帽子掛け松(写真[03])』や『元服の池(写真[06])』などがある。〔後略〕

[03]源義経 烏帽子掛けの松
 03

[04]鏡神社 拝殿
 04

[05]鏡神社 本殿【重文】
 05

 鏡神社から徒歩3~4分の所に『源義経元服の池』がある。
 牛若丸は、この池の清水で前髪を落飾し源九郎義経と名乗った。時.に16歳。

10時33分 ‥源義経 元服の池

[06]源義経 元服の池
 06

10時50分 野洲市大篠原にある『平宗盛・清宗終焉の地』へ

 平家が滅亡したのは、壇ノ浦ではなく、野洲市である。
 この篠原宿で、嫡男の清宗共々斬首され、平家は滅亡した。

[07]平宗盛・清宗終焉の地〔野洲市大篠原〕
 07

[08]平家終焉の地説明板
 08

11時10分 野洲市歴史民族博物館着

 次に向かったが、野洲市歴史民族博物館である。
 此処には、1881(明治14)年に野洲市大岩山から出土した日本一大きい銅鐸が展示されていた。
 又、同館直ぐ近くに「弥生の森歴史公園」があり、弥生人たちの竪穴式住居や高床式倉庫が並んでいた。

[09]野洲市歴史民族・銅鐸博物館〔野洲市辻町〕
 09_2

[10]野洲市大岩山から出土した日本最大の銅鐸 複製(134.7cm/45.47kg)
 10_1347cm4547kg

[11]弥生の森歴史公園内の竪穴式住居群
 11

11時43分 御神神社〔野洲市三上〕着

 本神社は、近江富士とも呼ばれる三上山に降臨したと言われる天之御影(あめのみかげ)大神を祭神とする。
 本殿(添付写真[13])は国宝。拝殿・楼門・若宮社は重文。

[12]御神神社入口〔野洲市三上〕
 12

[13]御神神社 本殿【国宝】
 13

13時10分 浄土真宗木部派本山 錦織寺〔野洲市木部〕着

[14]錦織寺にて〔野洲市木部〕
 14

13時38分 永原御殿着〔‥現在は、竹薮となっていた‥〕

 城主の永原氏は、出自は不明確だが、永徳(1381-84)・明徳(1390-94)の合戦で軍功を立てた永原大炊助宗行の時、野洲郡内で18郷の増地受けた。爾来、山崎の合戦で城主永原実治が討死。
 文禄年間(1592-96)には廃城になったが、江戸時代に入り、徳川家康が上洛の際の宿舎として再利用されるに至った。
 近江国内では、柏原御殿・伊庭御殿と共に永原御殿が築かれ、家康が宿泊した1691(慶長6)年~3代将軍家光が1634(寛永11)年迄、計10回利用された。
 しかし、その後は利用されず、1685(貞享2)年には解体された。
 その解体された施設のうち、門は、浄専寺に移築された(添付写真[24])。

[15]永原御殿跡 案内看板〔野洲市永原‥石碑が建っていた‥〕
 15

13時47分 妓王寺着

 【平家物語と妓王(ぎおう)‥妓王寺(ぎおうじ)と祇王井(ぎおうい)】〔野洲市歴史民俗博物館編〕leafletより
「平家物語」は、平家一門の栄華と没落を描いた軍記物で、鎌倉時代に成立したと言われている。
 この巻一に「祇王」の段があり、白拍子[祇王(妓王)]の悲哀の物語を綴っている。
 都で評判の白拍子(舞姫)に祇王・祇女という姉妹がおり、祇王は平清盛の寵愛を受け、豊かに暮らしていた。
 それから三年後、若き白拍子の佛(ほとけ)御前が清盛邸へ参った処、清盛が帰したのを、祇王がとりなして召し返した。
 その舞を見た清盛は、佛御前に心が移り、祇王の退去を命じた。
 その祇王は、

  萌え出づるも枯るるも同じ野辺の花 いずれか秋にあはではつべき

 の歌一首を泣く泣く書き残し、清盛のもとを去る。
 その後、祇王は、妹の祇女、母の刀自(とじ)と共に出家し、嵯峨野に庵を結び仏門に入った。
 やがて、佛御前も後を追って尼となり、四人一緒に仏道に励み、往生を遂げたという話。

 野洲には、この一話と共に祇王井の伝説が伝えられている。
 妓王寺に伝わる1776(安永5)年の「妓王寺略縁起」などに拠ると、妓王は、近江国野洲郡江辺荘(えべのしょう(現在の野洲市永原・中北・北付近))に生まれ、京に上り白拍子となり、平清盛の寵愛を受けた。
 故郷の村人が水不足に苦しんでいるのを思い、妓王が清盛に願い出て開かれた用水が「祇王井」であると言う。
 出家後、祇王は仏門に勤しみ、38歳で生涯を閉じるが、その恩恵を讃えて建立された寺は「妓王寺」と名付けられた。〔後略〕

[16]妓王寺前にて中嶋君【3-2】
 16

[17]妓王寺前にて〔野洲市中北〕
 17

[18]妓王寺内の祇王像(右)と祇女像(左)
 18

14時12分 祇王屋敷後着(‥妓王寺から徒歩7~8分‥)

[19]妓王屋敷跡〔野洲市中北〕
 19

14時42分 永原城址着〔なかなか城址が見つからなかった‥祇王小学校校庭内に石碑が建っていた‥〕

[20](上)永原城址にて〔野洲市上屋〕
 20

15時15分 兵主(ひょうず)大社着

 本社は、718(養老二)年の鎮座と伝えられている。
 中世は、兵主(つわものぬし)と読むことに拠り、中世には武将の信仰が厚く、源頼朝、足利尊氏に拠る社殿の増築をはじめ、数多くの武器・武具等の寄進があり、社宝として伝えられている。
 又、庭園は平安時代の様式であるとみられるが、まだ詳しくは解っていない。

[21]兵主大社 楼門〔野洲市五条〕
 21

[22]兵主大社 国指定 名称庭園1
 22_1

[23]兵主大社 国指定 名称庭園2
 23_2

 前述の永原御殿にあった門を、御殿解体後、当寺に移築したものである。
 訪れた時には、半ば朽ちて、崩れそうな感じであった。

[24]鶴王山 浄専寺=永原御殿の門 移転先〔野洲市北〕
 24

17時10分 帰りの名神高速道路 多賀SAに残る遺構を見学した。

[25]多賀SA内に残る敏満寺の遺構
 25sa

【後記】盛り沢山の歴史史跡見学会であった。
 入った先を整理するだけでも、結構な時間が掛かって仕舞った。
 でも、旧跡を見乍ら昔の日本人の足跡を辿り、その時の模様に思いを馳せるのは浪漫を感じていいものである。

 ではまた‥。(了)

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