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2016年4月の4件の記事

2016年4月24日 (日)

【時習26回3−7の会0597】〜「松尾芭蕉『笈の小文』第11回【道中〔その1〕】」「04月16~17日:城跡&史跡巡り〔初日〕『千早・上&下赤坂城跡』『弘川寺』『旧・杉山家』『上之太子(叡福寺)』『用明&推古&応神天皇陵』を巡って」「04月23日:刈谷市美術館『和田英作』展を見て」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 今日も【時習26回3-7の会 0597】号をお送りします。

■今日最初の話題は、前《会報》でお伝えした通り、松尾芭蕉『笈の小文』第11回【道中〔その1〕】をお届けしたい。
 前回では、貞亨五年三月十九日(新暦1688年04月19日)【吉野への旅立ち】の模様をお伝えした。
 今回は、日日(ひにち)は特定出来ないが、04月19日以降、そう日が経っていない時の話である。
 では、ご覧下さい。

《原文》
 旅の具多きは道さはりなりと物皆払捨たれども、夜の料(注1)にとかみこ(注2)壱つ、合羽やうの物、硯・筆・かみ・薬等、昼笥(ひるげ)なんど物に包て後に背負たれば、いとゞすねよはく力なき身の、後ざまにひかふるやうにて道猶すゝまず。
 たゞ物うき事のみ多し。

  草臥(くたびれ)て 宿かる比(ころ)や 藤(ふぢ)の花

《現代語訳》
 《現代語訳》
 旅の荷物が多いのは道々邪魔になるから皆うち捨っちゃっただが、寝具の代わりにと紙衣一(ひと)重ね、合羽(カッパ)の類、硯・筆・紙・薬等、昼の弁当など包みに包んで後に背負った処、とても脛(すね)が弱く力無い身なので、後ろに引っ張られる感じで、道が少しも進まないのだ。
 ただただ憂鬱なことばかりが多い。

 【意】一日中歩き通しで疲れ切って漸く宿に到着した黄昏時
    そんな時、藤の花がふと目に止まった
    美しい藤の花ではあるが、風に吹かれて揺れている様が今の疲れた私の様に思われる

 【解説】
  季語:「藤の花」‥(春)

《語句/解説》
 (注1) 夜の料(れう=りょう):夜具/寝具
 (注2) かみこ:紙衣。紙でつくった衣/それを布団の代用にした
 (注3)昼笥:昼餉/昼の弁当

【小生comment】
 芭蕉は、万菊丸と名を変えた杜国を連れ立って、吉野&明石へ旅立った
 芭蕉の人生のうちで、最も楽しかった2箇月余りだったことだろう
 次回は、「初瀬」以降をお届けする
 お楽しみに!

■続いての話題は、これも前《会報》にて予告した、時習26回の同期、中嶋良行君【3-2】と谷山健君【3-3】、そして、城跡巡りでいつもご一緒させて戴いている青木喜久夫さんと春と秋の年2回行っている四人旅の模様をお伝えする。
 今回は、04月16(土)&17(日)の一泊二日の日程で、以下の城跡&史跡を巡った。

〔初日〕【04月16日(土)】
01『千早城跡』→02『下赤坂城跡』→03『上赤坂城跡』→
04『弘川寺』→05『旧・杉山家』→
06『上之太子(叡福寺)』→07『用明天皇陵』→08『推古天皇陵』→09『応神天皇陵』→
『八尾グランドホテル』〔泊〕
〔二日目〕【04月17日(日)】
10『堺市役所21階展望台』→11『堺市歴史博物館』→12『仁徳天皇陵』→13『履中天皇陵』→
14『さかい利晶の杜』→15『利休生誕地』→
16『下之太子〔大聖勝軍寺〕』→17『中之太子〔野中寺〕』

 今日は、上記のうち〔初日〕の模様をお伝えする。
 具体的な行程は、以下の通りであった。

【04月16日(土)〔初日〕】
05時00分 中嶋宅発→ 青木宅発→ 今泉宅発→ 谷山宅発→ 東名音羽蒲郡IC→
09時50分 千早城跡着〔南河内郡千早赤阪村千早〕10時30分 同所発→
[01]千早城跡 石碑前にて
 01

10時45分 下赤坂城址着〔南河内郡千早赤阪村〕
山麓の「棚田」が美しい〕12時15分 同所発→11時15分 同所発→
[02]下赤塚城跡 石碑前にて
 02

[03]下赤坂城跡 周辺の棚田をbackに
 03_back

11時45分 上赤坂城址着〔南河内郡千早赤阪村
[04]上赤坂城跡(楠木城跡)
 04

 千早城も上赤坂城も急峻な山城で、登っていくのも結構キツイ

12時45分 弘川寺着〔【西行法師入寂地】/南河内郡河南町弘川43〕13時25分 同所発→
[05]弘川寺 本堂前にて
 05

[06]西行墳前にて
 06_2

[07]西行 辞世歌碑の前にて
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 死ぬまでに一度は訪れたかった西行法師の入寂地
 西行法師の墳前に立った時は感無量であった‥

 西行の辞世の歌
  願わくは 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月の頃  西行

[08]弘川寺から見た青空に映える桜花
 08_2

13時50分 和食麺処サガミ 富田林店着〔富田林市若松町5-1418-3〕14時40分 同所発→
14時45分 【重文】旧杉山家住宅着〔富田林市富田林町14-31〕15時20分 同所発→
[09]富田林市寺内町 旧・杉山家前にて
 09

[10]旧・杉山家 屋敷内部01
 10_01

[11]同上02
 11_02

[12]旧・杉山家についての解説書
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[13]旧・杉山家〔きり絵/近藤好幸〕
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 富田林市寺内町の佇まいを見ていたら、心が落ち着いた静かな気持ちになった
 国の【重文】旧家・旧杉山家の屋敷内に入ったら、何故か心が更に落ち着いた
 そして、日本人に生まれたことの幸せを触感で感じた

15時40分 【上之太子】叡福寺(えいふくじ)〔南河内郡太子町太子2146〕着 16時10分 同所発→
[14]叡福寺(上之太子) 南大門前にて
 14

[15]聖徳太子御廟 正面
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 聖徳太子の御廟(=叡福寺北古墳(磯長墓))には、聖徳太子と共に、太子の母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)=用明天皇の異母妹で同天皇の皇后、太子の妃・膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)が埋葬されているとされ、この為「三骨一廟」と呼ばれる

16時25分 用明天皇陵〔聖徳太子の父〕着→ 16時30分 同所発→
[16]用明天皇陵
 16

16時35分 推古天皇陵〔聖徳太子を皇太子に任命/聖徳太子の叔母〕着 16時40分 同所発→
[17]推古天皇陵01
 1701

[18]推古天皇陵02
 1802

17時10分 応神天皇陵着→ 17時20分発→
【日本第2位:巨大古墳(5世紀初頭)】第15代天皇
      =(惠我藻伏崗御陵(えがのもふしのおかのみささぎ)=誉田御廟山(ごんだごびょうやま)古墳)〔羽曳野市誉田6丁目〕
[19]応神天皇陵01
 1901

[20]応神天皇陵02
 2002

[21]応神天皇陵の前にて
 21

17時55分 八尾グランドホテル着
18時30分 夕食〔泊〕

【小生comment】
 前々から一度は行ってみたかった史跡ばかりの訪問であったので、小生は大満足の旅行となった
 楠木正成が奮戦した「千早城跡」、尊敬する歌人 西行法師の入寂地「弘川寺」
 奈良県橿原市今井町に匹敵する寺内町の美しい街並は、日本人の琴線に触れる郷愁美があり、本当に素晴らしかった
 「上之太子(叡福寺)の『聖徳太子御廟』」→「用明天皇陵」→「推古天皇陵」と見て、みんなお墓なんだけど何故だか感動した
 そう言えば、小生は聖徳太子関連の史跡って大阪の四天王寺以外まだ見ていなかったんだナァ‥
 初日最後の訪問地は「応神天皇陵」‥此処も初めて訪れ、そして感動した
 明日は、「仁徳天皇陵」も見られるんだ‥と思ったら、ワクワク・ゾクゾクして来た

■今日最後の話題は、昨日04月23日に私用で名古屋へ行くついでに立ち寄った3つの美術館のうち、最初に訪れた刈谷市美術館『和田英作』展の模様をお伝えする。
 猶、2つ目の松坂屋美術館『春の院展』と3つ目のヤマザキマザック美術館『アイズピリ』展は、次回《会報》にてお伝えする。

 和田英作が洋画を学びだした経緯について、図録に掲載された東京藝術大学美術館准教授古田亮氏「和田英作〈感情の絵画〉を求めて」にて簡潔に紹介してくれているので、「1.旧派から新派へ」の一部を引用してご紹介する。

 鹿児島県垂水市に生まれた和田は、1878(明治11)年、3歳の時に両親と共に上京し麻生に住まう。〔中略〕
 1890(明治23)年、上野公園で第3回内国勧業博覧会が開催された。
 この時出品された原田直次郎の《騎龍観音》や曽山幸彦の《武者試鵠》、本多錦吉郎《羽衣天女》等を見た和田は、大きな刺激を受けて洋画家になることを決意。
 翌年1月、明治学院を退学して同学院の図画教師上杉熊松から洋画の個人教授を受け、4月から曽山幸彦の画塾に学び始める。〔中略〕
 同塾には、和田のほかに藤島武二、岡田三郎助、中澤宏光、矢崎千代二、三宅克己等がいた。
 18~22歳(1892~95年)の修行時代は、次々と指導者が代わる点に於いて和田にとって実に目まぐるしい数年となったが、同時に、近代日本洋画史にとっても、正に変革の時代であった。
 和田の経歴から見てみると、入塾後僅か1年、1892(明治25)年に曽山が急逝した為原田直次郎の画塾錘美館に移っている。〔中略〕
 1894(明治27)年、原田が脊髄炎を煩い塾の運営が難しくなった為に、和田は帰朝したばかりの黒田清輝と久米桂一郎が開いた天真道場に入門する。
 初めてこの塾を見学した時のことを和田は、「黒田先生の絵を描いている処を見て、すっかり参って仕舞ったのでした」と語っている。
 これ以降、和田の画風は黒田風つまり明るい外光派表現に転じた。
 1896(明治29)年には、黒田のつくった白馬会に参加し、又東京美術学校西洋画科に助教授として就任することになったのである。
 このことは、近代日本洋画史に照らせば、正に旧派から新派への転向ということになる。
 黒田がFranceで学んだラファエル・コランの画風は、旧来の重々しい写実主義ではなく、明るい戸外の陽光を取り入れた情感豊かなものだった。〔中略〕
 その為、黒田の画風は新派と呼ばれ、曽山や原田等の画風は旧派と呼ばれる様になるが、和田が修行時代にこの両派を経験した成長して行ったことは、後年彼が自己の様式を確立して行くに当っての基層となったに違いない。(了)

[22]刈谷市美術館前『和田英作』展看板前にて
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[23]刈谷市美術館entrance
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[24]本展leaflet
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[25]同『藁を編む少女』1896年
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[26]和田英作『新聞を読む』1897年
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[27]同『渡頭の夕暮』1897年
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[28]1898(明治31)年 24歳頃の和田英作
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[29]和田英作『マダム・シッテル像』1903年
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[30]1908(明治41)年 妻・滋(シゲ)と
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[31]和田英作『赤い燐寸(マッチ)』1914(大正03)年
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 Modelは渋沢栄一子息・渋沢秀雄(1892-1984)〕伊豆・土肥の海

[32]同『薔薇』1925(大正14)年
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[33]正装を身につけた和田英作
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[34]同『富士(河口湖)』1926(大正15/昭和元)年
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[35]同『逢妻(あづま)風景』1946(昭和21)年
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[36]同『古驛(ふるさわ)近く(知立東口)』1947(昭和22)年
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[37]同『杉浦元司(げんし)肖像』1947(昭和22)年
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[38]同『静物(Still Life)』1948(昭和23)年
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[39]1948年09月08時 現・愛知県知立市にて『家路へ』(1949年)を射精中の和田英作(73歳)
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[40]同『雲雀啼く頃(When Skylark Chirping)』1948(昭和23)年
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[41]同『静物(玉葱と夾竹桃/Onions & Oleanders)』1948(昭和23)年
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[42]同『野村鉄司肖像』1949(昭和24)年
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【小生comment】
 以下は昨日の3つの美術館巡り(04月23日)の余談である。

 世の中、狭いものである
 今日は、好きな美術館3つ見ようと、9時半に刈谷市美術館に『和田英作』展に入ろうとしたその時、「ようっ、今泉! 久しぶり!」と声をかけられた
 見たら、旧行時代の梶原君だ
 彼は、趣味のマラソンを、最近は名鉄のハイキングコースを走っていると言う
 今日は、K君曰く「今泉、このハイキングコースのパンフをあげるヨ、これを見せたらこの美術館の入場料200円引きになるヨ、じゃあまたナッ」とパンフをくれた
 梶原君と別れ、和田英作の名画を堪能して、名古屋矢場町にある松坂屋美術館『春の院展』へ
 「今日は何かいいことありそうだな」と思っていた矢先、松坂屋美術館チケット売場に並んだら、すぐ後ろから「院展の招待券が一枚余っているから、貴方良かったらどうぞ!」と見ず知らずの方がticketを下さった
 「ホント、今日はいいことが続いて起きたナ」と喜んで、3つ目のヤマザキマザック美術館『アイズピリ・コレクション』展へ
 流石に、3箇所続けてグッドラックは起きなかったが、愉快な一日となった

【後記】春を詠んだ漢詩で誰もが知っている名詩をもう一つあげるとすれば「江(こう)碧(みどり)にして鳥逾(いよい)よ白く‥」で始まる、杜甫の『絶句』二首 其二ですネ。
 この漢詩は、次回《会報》にてご紹介するとして、今日は、同じ杜甫(712-770)の『絶句』ニ首 其一をご紹介したい。
 これは、其一・其二と続く連作の第一作。

  絶句 ニ首 其一 杜甫
 遅日江山麗
 春風花草香
 泥融飛燕子
 沙暖睡鴛鴦

 遅日(ちじつ) 江山(こうざん)麗(うるわ)し
 春風(しゅんぷう) 花草(かそう)香(かん)ばし
 泥(どろ)融(と)けて 燕子(えんし)飛び
 沙(すな)暖かにして 鴛鴦(えんおう)睡(ねむ)る

【意味】日が暮れるのが遅くなった春の日 川も山も美しく照り映え
 春風が吹き渡り 草花の芳しい香りが漂う
 (柔らかく)溶けた泥を (巣作りの為に)燕が啄(ついば)み飛んでいく
 (陽溜まりで)暖か砂地の川原では 鴛鴦(オシドリ)が(番(つがい)で)眠っている

【小生comment】
 杜甫が細やかな観察眼で、暖かな春の日の一情景を優しく詠んでいる
 極めて絵画的な美しく明るい五言絶句である
 杜甫が一生のうちで一番幸福だった成都時代(759-765/杜甫47~53歳)に詠んだ詩である
 この詩に続いて、本項冒頭でご紹介した、同じく五言絶句の其二が続く‥
 これは、次号《会報》をお楽しみに!

 ではまた‥。(了)

2016年4月15日 (金)

【時習26回3−7の会0596】〜「松尾芭蕉『笈の小文』第10回【吉野への旅立ち】」「04月03日:名古屋市美術館『東京藝術大学collection~麗しきおもかげ~日本近代美術の女性像』展を見て」「04月09日:鞍ヶ池Art Salon『ヨーロッパ近代絵画のあゆみ』展&名都美術館『日本美術と高島屋』展&古川美術館『愛知県立芸術大学模写展』展&メナード美術館『どうぶつ図鑑』展を見て」「04月03日:ザ・コンサートホール『アリーナ・イブラギモヴァ/無伴奏Violin Recital』を聴いて」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 今日も【時習26回3-7の会 0596】号をお送りします。

■今日最初の話題は、松尾芭蕉『笈の小文』第10回【吉野への旅立ち〔万菊丸〕】をお届けしたい。
 03月06日付《会報》【0590】号にて第9回【伊勢】をお届けして以来約一箇月ぶりのご案内となる。
 その時、「次回の『笈の小文』第10回は、貞亨五年三月十九日【吉野への旅立ち】、新暦でいうと1688年04月19日になる」とご紹介した。
 因みに、来週04月19日(火)で今から丁度328年前の話となる。
 では、ご覧下さい。

《原文》
 弥生(やよひ)半(なかば)過(すぐ)る程(注1)、そゞろにうき立(たつ)心の花の、我(われ)を道引(みちびく)枝折(しをり)(注2)となりて、よしのゝ花におもひ立(たた)んとするに、かのいらご崎(ざき)にてちぎり置(おき)し人(注3)のい勢(せ)にて出むかひ、ともに旅寐(たびね)のあはれをも見(み)、且(かつ)は我為(わがため)に童子(どうじ)(注4)となりて道の便りにもならんと、自(みずから)万菊丸(まんぎくまる)と名をいふ。
 まことにわらべらしき名のさまいと興(きょう)有(あり)。
 いでや(注5)門出のたはぶれ事せんと笠のうちに落書(らくがき)(ス)。

 乾坤無住(けんこんむじゅう)、同行(どうぎやう)二人(ににん)(注6)

  よし野にて桜見せふ(=う)ぞ檜(ひ)の木笠

  よし野にて我も見せふ(=う)ぞ檜(ひ)の木笠 万菊丸

《現代語訳》
 春、弥生(=三月)も半ばを過ぎる頃となり、気も漫(そぞ)ろ(=何となく心がすすむ様)に落ち着かず心が浮き立って、そんな心持ちが私を導く道標(しるべ)となり、吉野(山)の桜を見ようと思い立って旅立とうとしていた処に、例の伊良崎で約束していた人(=杜国)が、伊勢で出迎えてくれ、一緒に旅寝の興趣を味わい、併せて私の為に身の回りの世話をする童子役となり道案内になるべく、自ら万菊丸と名乗った。
 本当に童子らしい名でとても面白い。
 それじゃあ出発に際して戯れ事をしようと笠の裏側に落書きした。

 天地の間、一所に止まる処なく、私は常に御仏ならぬお前と二人あるだけだ。

 【意】檜の木笠よ、吉野で桜を見せてあげよう
    
 【解説】次の万菊丸の句と唱和した即興と滑稽さがこの句の妙
  季語:「桜」‥(春)

 【意】檜の木笠よ、吉野で私も見せてあげよう / 万菊丸
    
 【解説】万菊丸(=杜国)が、芭蕉の前句を真似て「以下同文」という意味で即興・滑稽を狙ったもの
  季語:なし

《語句/解説》
 (注1) 弥生半過る程:一度伊勢から伊賀上野へ戻り、ふたたび吉野を目指して出発した
 (注2) 枝折(しをり):道案内
 (注3) いらご崎にてちぎり置し人…杜国
     伊良湖崎から船で伊勢に来ていたが、保美・伊良古いずれにも杜国は記述されてない
 (注4) 童子:中国で隠者の日常の世話をする童/能「菊滋童」から連想して「万菊丸」とした模様
   ※ 菊児童:中国の魏の文帝(=曹丕(曹操の嫡子))の勅命により、麗縣(れっけん)山麓の不思議な湧水の水源を求めて勅使が菊の花の咲き乱れる仙境に入った。
     其処で周の穆王の時代より700年間生き続けている童子に出会った
     童子は穆王から下賜された枕に記された法華経の二句の妙文を菊の葉に書き付けた
     すると、菊に宿った露が、不老不死の霊水となり流れ出た
     童子は経文を讃え、楽しげに舞い乍ら、菊を掻き分けて、庵の中に姿を消した、という物語
 (注5) いでや:それじゃあ
 (注6) 乾坤無住同行二人:巡礼や行脚僧等が笠の裏に各文言/「乾坤」は天地
    天地の間に、一所に安住する場所は何処にもく、仏と共に二人で修行を続ける、の意
    此処では「二人」とは芭蕉と万菊丸(=杜国)に転用している

【小生comment】
 万菊丸(=杜国)は、恐らく伊良湖岬から船で伊勢へ渡り、芭蕉を出迎えたものとみられる。
 芭蕉と万菊丸は、貞享五年三月十九日(西暦1688年04月19日)に伊賀上野を出発。
 二人は、長谷寺→吉野を経て、同年四月二十日(西暦1688年05月19日)に明石に到着。
 次回は、『笈の小文』第11回【旅路の憂さ】【初瀬〔長谷寺参籠〕】をお届けする予定である。

■続いての話題は、先々週のことになる。
 04月03日(土)に、今日最後にお届けする『アリーナ・イブラギモヴァ/無伴奏Violin Recital』を名古屋・伏見にあるザ・コンサートホールに聴きに行った際、Recital開演前の時間を利用して、同じ伏見の白川公園の一廓にある名古屋市美術館で現在開催中の『東京藝術大学collection~麗しきおもかげ~日本近代美術の女性像』展を見て来た模様からお伝えする。

[01]名古屋市美術館入口の本展案内看板
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[02]本展leaflet
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 本展は、「女性像」をthemeに以下の2部構成で紹介する/展示総数:全101点
 ※ 第1部 日本の近代美術における女性像の変遷〔東京芸大所蔵50点&名古屋市美術館所蔵11点=全61点〕
 ※ 第2部 東京美術学校日本画科の卒業制作で描かれた女性像作品〔40点〕

 今回は、全101点の中から23点をご紹介する

【第1部】
[03]山本芳翠(1850-1906)『西洋婦人像』1882年
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 芳翠は、美濃国恵那郡明智村(現・岐阜県恵那市)生まれ
 1868年 京都にて文人画を、1876年 工部美術学校にてA. フォンタネ―ジに1年間学ぶ
 1878年 パリ万博の際渡仏
 1887年 帰国、翌年生巧館画塾を開き、藤島武二等を指導
 本作品は、2016.03.27付《会報》【0593】にてご紹介した原田直次郎が模写した作品の原画である
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/26-05930320-6d1.html

[04]狩野芳崖(1828-1888)【重文】『悲母観音』1888年
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 芳崖は長府藩御用絵師狩野晴皐の長男として出生
 1850年 狩野勝川院画塾塾頭となり、同門の橋本雅邦(1835-1908)と共に高い評価を受けた
 1882年 第1回内国絵画共進会に出品した際、フェノロサの知遇を受ける/本作は彼の絶筆

[05]浅井忠(1856-1907)【重文】『収穫』1890年
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[06]矢崎千代二(1872-1947)『教鵡』1900年
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[07]藤島武二(1867-1943)『造花』1901年
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[08]原撫松(1866-1912)『裸婦』1906年
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[09]小林萬吾(1870-1947)『物思い』1907年
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[10]荻原守衛(1879-1910)『女』1910年
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[11]石井柏亭(1882-1958)『チョチャラ』1911年
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[12]児島虎次郎(1881-1929)『西洋婦人像』1912年頃
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[13]佐分眞(1898-1936)『食後』1931年
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[14]小磯良平(1903-1988)『裁縫女』1932年
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[15]鬼頭鍋三郎(1899-1982)『手をかざす女』1934年
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[16]中村大三郎(1898-1947)『読書』1936年
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[17]上村松園(1875-1949)『草紙洗小町』1937年
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[18]鏑木清方(1878-1972)『一葉』1940年
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[19]中沢弘光(1874-1964)『静思』1941年
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[20]伊東深水(1898-1972)『銀河祭り』1946年
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【第2部】
[21]水谷道彦(1902-1939)『春』1926年
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[22]杉山寧(1909-1993)『野』1933年
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[23]髙山辰雄(1912-2007)『砂丘』1936年
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[24]金子孝信(1915-1942)『季節の客』1940年
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[25]稗田一穂(1920- )『午後』1943年
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【小生comment】
 23人の日本の洋画家&日本画家が描いた女性像の名画の数々如何でしたか?
 何でも旺盛な好奇心で行動していると嬉しい偶然に遭遇する。
 山本芳翠『西洋婦人像』1882年と、それを模写した原田直次郎『西洋婦人像』を03月20日と04月03日に見ること出来たことがそうだ。
 これをsynchronicityと言うのだろうか?
 原典も原田直次郎の模写も、いずれも大変levelの高い作品である。
 本展で山本芳翠の『西洋婦人像』を見つけた時は、昔の恋人と邂逅した様な不思議な驚きと感動を得た。
 又、鏑木清方の樋口一葉を描いた『一葉』は、是迄見た数多くの清方の女性像作品の中で一番素晴らしいと思った。

■続いては、04月09日(土)にこれも私用で名古屋へ車で出かけた折、立ち寄った4つの美術館の企画展の模様をお伝えする。
※ 先ず最初に訪れたのは、トヨタ鞍ヶ池記念館/鞍ヶ池Art Salonにて開催中の『ヨーロッパ近代絵画のあゆみ』展である。
 本展について、leafletは「欧州の画家達の手許を離れ長旅の末日本に遣って来た作品の数々。
 その一部として私どもが所蔵する中から、印象派から凡そ1世紀に亘る欧州絵画の歩みを辿って頂きます」と紹介していた。
 展時総数は洋画家の巨匠22人に拠る全24点。

【鞍ヶ池Art Salon『ヨーロッパ近代絵画のあゆみ』展】
[26]本展leaflet
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【01】アドルフ=ジョゼフ=トマ・モンティセリ(仏生 1824-1886)『王女の宴』1860年代作

[27]【02】ウジェーヌ・ブ―ダン(仏生 1824-1898)『ド―ヴィルの水辺』1895年作
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【03】カミ―ユ・ピサロ(現・米国領ヴァージン諸島セント・ト―マス生 1830-1903)『エラニ―の眺め』1884年作
【04】ピエール=オ―ギュスト・ルノワール(仏生 1841-1919)『読書』1900年作

[28]【05】同『ルイ・プラ婦人の肖像』1913年
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【06】アルフレッド・シスレー(仏生 1839-1899)『春の朝・ロワンの運河』1897年作
【07】ピエール・ボナール(仏生 1867-1947)『馬のいる牧場』1919年作
【08】ポール・セザンヌ(仏生 1839-1906)『女性水浴図』1883-87年作
【09】ギュスターヴ・ロワゾー(仏生 1865-1935)『村の教会の塔』1900年代作
【10】フィンセント・ファン・ゴッホ(蘭生 1853-1890)『ガシェ博士の肖像』1890年作
【11】エミール・ベルナール(仏生 1868-1941)『陽射しの中の花』1922年作
【12】アンリ=ジャン=ギョ―ム・マルタン(仏生 1860-1943)『古城』1930年代頃作
【13】ピエール=アルベール・マルケ(仏生 1875-1947)『アガ港の煙』1941年or1944-45年作
【14】マリ―・ローランサン(仏生 1883-1956)『王妃と王女』1935年作
【15】アンドレ・ドラン(仏生 1880-1954)『プロヴァンスの風景』1930年作
【16】ジョルジュ・ブラック(仏生 1882-1963)『グラスと果実』1928年作
【17】パブロ・ピカソ(西生 1881-1973)『ラ・カリフォルニーの鳥』1960年作
【18】アメディオ・モディリアー二(伊生 1884-1920)『青い背景の娘』1918年作
【19】モーリス・ヴラマンク(仏生 1876-1958)『風景』1920-22年作
【20】同『花瓶の花』1930年代作
【21】ラウル・デュフィ(仏生 1877-1953)『パドック』1931年作
【22】モーリス・ブリアンション(仏生 1899-1979)『トマトのある静物』1960年代作
【23】ジャン・デュフィ(仏生 1888-1964)『花束』1926年作
【24】ジョルジュ・ルオー(仏生 1871-1958)『自惚れ女』1938年作

【小生comment】
 本展は、トヨタ自動車が所有する世界の名画の数々の中から、順次紹介してくれる企画展。
 小生は此処が大好きで、企画展が開催される都度必ず見に訪れている。
 今回もだが、名画を確り堪能させて貰い、大変満足している。

※ 2つ目は、長久手市にある名都美術館『日本美術と高島屋』展についてである。
 本展について、leafletから一部引用してご紹介する。
 1831(天保12)年、京都で産声をあげた高島屋〔中略〕。
 70点に及ぶ優品が高島屋に収まったepisodeも交え、近代美術と百貨店、高島屋と日本画家達の交流をご紹介する。
 添付写真の絵のうち、竹内栖鳳と上田萬秋(ばんしゅう)は共に高島屋に勤務していた。
 [30]竹内栖鳳『富士』は、高島屋からの注文で欧州向け刺繍壁掛けの下絵として制作されたもの。
 上田萬秋は、京都府画学校卒業後、今尾景年に師事。
 景年も高島屋で下絵を描いていたことから、上田も高島屋との縁が出来た。
 上田の作品は、国内はもとより、米国セントルイスやベルギーで開催された万博でも好評を博した。
 横山大観と高島屋との交流は一際(ひときわ)多くのepisodeが残されている。
 中でも1949(昭和24)年、大観に拠って制作された[32]『蓬莱山』は高島屋にとって大きな意味を持つ。
 第二次世界大戦後から間もない1947(昭和22)年、当時の社長飯田直次郎と大観が意気投合したことから、高島屋に於ける戦後初の院展「創立50周年第32回再興院展」が大阪店地下食堂跡で開催されたことに由来する。
 疲弊した時代に美術の再興を目指して奔走した大観達にとって、高島屋の協力は心に響くものがあり、その恩義に報いようと大観自らが手がけ高島屋に贈ったのが『蓬莱山』であった。〔後略〕(本展図録(P.52)より引用)

【名都美術館『日本美術と高島屋』展〔前期〕】
[29]本展leaflet/絵(右)は 竹内栖鳳『アレ夕立に』1909年
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[30]竹内栖鳳(1864-1942)『富士』1893年
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[31]上田萬秋(1869-1952)『孔雀』制作年不詳
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[32]横山大観(1868-1958)『蓬莱山』1949年
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[33]東山魁夷(1908-1999)『深山湧雲』1989年
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[34]小野竹喬(1889-1979)『茜』1979年
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【小生comment】
 高島屋が所有する日本画の傑作選。
 ご覧の様に実に素晴らしい作品ばかりだった。
 本展は、04月01日~05月01日が前期展、05月03日~29日が後期展と別れ、しかも40点内外の展示作品が入れ替わる。
 本展leafletに載っている竹内栖鳳『アレ夕立に』は後期に出展されるので、前期展である今回では下絵しか見られなかった。
 後期展も前期展に劣らず傑作が数多く展示される予定である為、是非足を運びたいと思っている。

※ この日3つ目は、古川美術館『愛知県立芸術大学/模写』展である。
 本展の副題は、「~片岡球子が遺した古典模写事業とその後継者たち~」とある。
 愛知県立芸術大学が、開学以来、古典技法の修得を目的に進めて来た古典模写事業。
 その中心となったのが、同大学日本画科の主任教授片岡球子(1966年就任→1993年退官)。
 本展は、同大学の古典模写事業で描かれた平安時代~鎌倉時代の仏画作品と、当該事業から巣だった優れた画家達の作品約50点が展示されていた。

【古川美術館『愛知県立芸術大学/模写』展】
[35]古川美術館入口 本展案内
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[36]本展leaflet
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[37]片岡球子(1905-2008)『富士』&松村公嗣(1948-)『追憶』
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※ この日最後4つ目に訪れたのが、小牧市にあるメナード美術館。
 企画展名は『どうぶつ図鑑』展。
 本展は、メナード美術館所蔵作品の中から、動物をthemeに描かれた作品68点が中心の企画展。
 以下に、本展の中から気に入った作品を幾つか紹介する。

【メナード美術館『どうぶつ図鑑』展】
[38]本展leaflet
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[39]今井龍満(1976- )『Lion』2014年
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[40]熊谷守一(1880 -1977)『群鶏』1959年
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[41]同『斑猫(ぶちねこ)』1962年
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[42]小林古径(1883-1957)『栗蟷螂(かまきり)』1941年
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[43]加山又造(1927-2004)『音』1972年
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【小生comment】
 小生、何年前か忘れて仕舞ったが、当美術館で[41]熊谷守一の『斑猫』にお目にかかって以来大好きになった絵である。
 軽妙洒脱で、且つ人を喰った様な猫顔がとっても可愛い。
 大変気に入っているので、この熊谷守一『斑猫』は、是又大好きな、小倉遊亀『小径』と共にずっと小生のスマホの待受け画面にしている。
 こんな愉快な絵を見ていると実に楽しい。
 心臓を出た血液が、指先や爪先等、身体の抹消の毛細血管迄ジワーッと行き渡るのを実感出来る様な快感を覚える。

■さて、今日最後の話題は、アリーナ・イブラギモヴァ 無伴奏Violin Recital の模様をお伝えする。
 このRecitalは、先週の日曜日 04月03日14時00分より名古屋・伏見にある電気文化会館 ザ・コンサートホールにて開催された。
 アリーナ・イブラギモヴァ(1985- )は、Russia生まれ。
 モスクワのグネ―シン音楽学校で学んだ後、渡英し、ユーディ・メニューイン音楽学校とLondonのRoyal college of musicで学んだ。
 因みに、彼女が演奏するViolinは、アンセルモ・ベッロシオ(1775年製作)。

《演奏曲目》
1. ハインリッヒ・ビーバー(1644-1704):パッサカリア(1676年作曲)
2. J.S.バッハ(1685-1750):無伴奏ヴァイオリン・パルティータ 第2番 ニ短調 BWV1004 「シャコンヌ」
3. ウジェーヌ・イザイ(1858-1931):無伴奏ヴァイオリン・ソナタ 第3番 ニ短調 「バラード」
4. バルトーク・ベラ(1881-1945):無伴奏ヴァイオリン・ソナタ Bb.124/Sz.117(1944年作曲)

<アンコール曲>
※ J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンソナタ 第2番より イ短調 BWV1003より 第3楽章 アンダンテ

[44]本演奏会leaflet & CD『アリーナ・イブラギモヴァ 無伴奏Violin演奏:イザイ作曲/無伴奏ヴァイオリン・ソナタ 第1~6番』
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【小生comment】
 彼女の演奏は、確かな技量に裏打ちされたシャープで美しい音色を奏でていた。
 一曲目に演奏されたビーバーのPassacagliaは、J. S. Bachが大成した無伴奏Violin Sonata & パルティ―タが発表される以前、唯一最高の無伴奏Violin曲として夙(つと)に有名な曲。
 二曲目の、Bachの無伴奏Violin partita No.2 シャコンヌは、J. S. Bachの無伴奏Violinの夫々3曲ずつあるSonataとPartitaの中で最も著名な傑作で、単独で演奏される回数も多い素晴らしい名曲中の名曲。
 三曲目の、イザイの無伴奏Violin Sonata No.3 バラード は、単一楽章形式。
 イザイには全6曲の無伴奏Violin Sonataがある。
 Bach以後の無伴奏Violin Sonataでは、20世紀初頭に作曲されたイザイの全6曲が金字塔と言っても過言ではないだろうか。
 四曲目の、バルトークの死の前年に作曲された無伴奏Violin Sonataも傑作の誉れ高い名曲である。
 今回の演奏は、encore曲のJ. S. Bachの無伴奏Violin Sonata No.2 も含めて、選曲も素晴らしく、全曲素晴らしい演奏であった。
 久し振りにときめきさえ感じた極上の演奏会だと思った。

【後記】春を詠んだ漢詩で誰もが知っている名詩と言えば孟浩然の『春曉』ですネ。

  春曉   孟浩然(689-740)
 春眠不覺曉
 處處聞啼鳥
 夜來風雨聲
 花落知多少

 春眠 暁を覚えず
 処処 啼鳥(ていちょう)を聴く
 夜来(やらい) 風雨の声
 花落つること 多少

【意】春の夜の眠りは深いく、明け方の到来に気が付かない
 そんな夢現(うつつ)の耳に聞こえてくるのはあちらこちらで鳴いている小鳥の囀り
 昨夜は風雨が音が喧(やかま)しかったが、
 春の花々はどれくり散ったことだろう?

 ※「多少」:疑問詞で、「どれ程」「どれくらい」という意味

 明日&明後日は、時習26回生中嶋良行君【3-2】と谷山健君【3-3】達と、春季の城跡&史跡巡りをして来ます。
 今回は、「千早城」「上赤坂&下赤坂城址」「弘川寺」「応神&仁徳&履中天皇御陵」「上之太子(叡福寺)・中之太子(野中寺)・下之太子(大聖勝軍寺)の3つの太子堂」他を巡る旅です。
 これ等の模様は、次回と次々回の《会報》にてお届けする予定です。お楽しみに!
 ではまた‥。(了)

2016年4月 8日 (金)

【時習26回3−7の会0595】〜「03月24日:名古屋ボストン美術館『Renoirの時代~近代ヨーロッパの光と影』展を見て」「04月02日:大垣市守屋多々志美術館『花を愛でる 春を愛す』展を見て」「大垣城&松尾芭蕉『奥の細道~むすびの地』住吉燈台周辺の桜を見て」「石川善樹『疲れない脳をつくる生活習慣』を読んで」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 今日も【時習26回3-7の会 0595】号をお送りします。

■先ず最初は、少し前のことになりますが、先月03月24日(木)に名古屋へ仕事で出かけた際、ついでに立ち寄った名古屋ボストン美術館で現在開催中の『Renoirの時代~近代ヨーロッパの光と影(CITY LIFE/COUNTRY LIFE ~ Light and Shadow in the Age of Renoir)』展を見て来た模様からお伝えします。
 本展開催の趣旨を、ボストン美術館(Museum of Fine Arts, Boston)館長 マシュー・テテルバウム氏が解り易く説明してくれているので引用してご紹介する。

 産業革命は欧州の都市を急速に発展させ、19世紀末には、Paris、London、Berlinといった街を大都市と呼ぶに相応しい場所へと変貌させた。
 産業活動の拠点と田園地方との隔たりが広がるに従って、都市と田舎の生活の格差は更に明らかになった。〔中略〕

 本展では、バルビゾンのレアリストからLautrec(1864-1901)迄の幅広い作品を通して、19世紀半ばから第一次世界大戦勃発迄に欧州で起きた社会・政治の急速な変化の下、都市と田舎の生活がどの様に描かれて来たのかを探る。〔後略〕
 以下に、本展作品を図録の説明文を一部引用してご紹介する

[01]本展leafletより
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[02]ジョゼフ・バイ(1862-1921)『水汲み場にて』1880年代
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 バイ(France)の田園生活の描写は理想化され、郷愁の色が濃い。
 本作品も、実際の生活より古風に描かれている。

[03]フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-90)『機を織る人』1884年
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 ゴッホの作風の中では、この種のものは1884年1月~7月のごく短い期間しか描かれていない。

[04]ジョン・シンガー・サージェント(1856-1925)『牡蠣漁、カンカルにて』1878年
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 サージェント(米国)は、RomeやFirenzeでAcademy風の絵画を学び、1874年にParisで著名な肖像画家カロリュス=デュラン(France,1837-1917)に師事。
 1878年、彼が21歳の時にFrance北部Bretagneの漁村で描いた本作品が、米国でのdebut作品となった。

[05]アーネスト・リー・メジャー『休息―モンティニュー=シュル=ロワン』1888年
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 メジャー(米国)は、フレデリック・ポーター・ヴィントン(米国、1846-1911)と共に作品の主題を探す為にロワン川の畔のフォンテンブローの森に出向いている。
 二人の作品は、レアリスムの画家として人気を博したが、レアリスムと印象派の両方の要素が取り入れられている。

[06]エドガー・ドガ(1834-1917)『田舎の競馬』1869年
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 「都会の人間」だと自認していたドガが描いた本作品は、上流の中産階級が余暇を楽しんでいる姿を描いたもので、近代社会独特の主題。
 Franceでは、競馬は1830~40年代に英国から持ち込まれたものだという。

[07]クロード・モネ(1840-1926)『アルジャントゥイユの雪』1874年頃
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 アルジャントゥイユ(Argenteuil)は、Parisの北西10kmのセーヌ川沿いの所にある街で、モネは1872~78年迄この街に住んだ、その時の作品。

[08]ピエール=オ―ギュスト・ルノワール(1841-1919)『ブ―ジヴァルのダンス』1883年
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 ブ―ジヴァル(Bougival)は、Argenteuilからセーヌ川沿いに南西に10㎞〔Parisからは西へ15㎞〕程の所にある街。
 当時この街は、カフェ・デュ・マドリとキャフェ・デュ・ピニョンというダンスホールを兼ねたカフェがあり賑わっていた。
 印象派の画家、ベルト・モリゾ(1841-95)がこの街に自家を持っていた。
 又、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレーもこの街や近隣のル―ヴシエンヌやマルリーに長期滞在していた。

[09]同『ガンジー島の海辺の子供達』1883年頃
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[10]同『マッソ―二夫人』制作年不詳
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[11]エドワード・ダーリー・ボイト(1840-1915)『凱旋門、パリ』1883年
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 ボイト(米国)は、Boston生まれ。当初Harvard大学で法律を学ぶが、画家を目指して渡欧。
 Parisでフランソワ=ルイ・フランセに師事、同地に居を構え活躍。

[12]ジャン=フランソワ・ラファエリ(1850-1924)『ノートルダム大聖堂前の広場、パリ』1890年代
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 ラファエリ(France)は、Italy人を父に持ち、ドガの影響を受け、又彼の勧めで1880年、81年の印象派展に参加。

[13]エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー(1880-1938)『クラヴァ―デルからの山の眺め』1925-26年
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 キルヒナー(独)は、1905年ドレスデンで結成された芸術家集団「ブリュッケ」の創立メンバーの一人。
 彼は、第一次世界大戦に召集され神経衰弱を発症、スイスのダヴォスにあるサナトリウムに送られた。

【小生comment】
 本展は、米国の画家の作品を発掘出来るのがいい。
 サージェントやボイト、添付写真にはないが、ヴィントンの作品はなかなか素晴らしい。
 企画展は、何かしら新しい発見があり、ワクワク感やときめきを実感出来るので大好きである。
 次回《会報》では、04月03日に名古屋市美術館にて現在開催中の『東京藝術大学と名古屋市美術館所蔵の101人の作家による101の慕情‥麗しきおもかげ‥日本近代美術の女性像』展をご紹介する。
 こちらも、ホント良かったですヨ。
 次回《会報》をお楽しみに!(^-')b♪

■今日続いての話題は、04月02日(土)に大垣市にある、大垣市守屋多々志美術館で現在開催中の『花を愛でる 春を愛す』展と、大垣城&松尾芭蕉『奥の細道~むすびの地』住吉燈台周辺の満開の桜の模様をお伝えする。
 住吉燈台周辺の満開の桜の写真は、前回の《会報》にて予告したものである。

 その日は、07時10分に拙宅を車で出発
 08時50分 大垣市郭町2丁目にある守屋多々志美術館近くのparking着
 09時00分 大垣市守屋多々志美術館 入館

[14]大垣市守屋多々志美術館入口の本企画展案内看板
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[15]本展leaflet
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[16]守屋多々志『楊四娘』1969年
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[17]同『無明』1984年
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[18]同『願くば〔西行法師〕』1998年
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[19]同『桃ひらく』
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[20]同『おぼろ』
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[21]同『大垣城』
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 09時50分 同美術館発→〔徒歩5分〕→
 09時55分 大垣城 入場

[22]大垣城天守閣01
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[23]同上02
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[24]戦災消失前の大垣城天守閣〔写真〕
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[25]大垣藩初代藩主 戸田氏鉄(うじかね)像と天主閣
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[26]大垣城天守閣をbackに
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 10時15分 大垣城発
 10時30分 松尾芭蕉『奥の細道/むすびの地』記念館駐車場着

【船町/住吉燈台周辺の情景】

[27]史跡 船町港跡 石碑
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[28]水の都おおがき舟下り
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[29]船町港跡の情景01
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[30]船町港跡の情景02
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[31]住吉燈台01
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[32]住吉燈台02
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 11時00分 松尾芭蕉『奥の細道/むすびの地』記念館駐車場発
 12時50分 帰宅

【小生comment】
 大垣藩の初代藩主戸田氏鉄(うじかね(1576-1655))の父戸田一西(かずあき(1543-1604))は、現在の豊橋市多米町の領主で、徳川家康配下の武将として活躍。
 関ヶ原合戦の際は、秀忠軍に従い、上田城攻めで唯一上田城攻略に反対、関ヶ原へ急ぐべきと進言。
 合戦後、家康からそれを評価され、山城国膳所城築城を命じられ、膳所藩3万石の藩祖となる。
 その膳所藩2代藩主を一西の嫡子の氏鉄が継いだ。
 氏鉄は、大坂夏の陣では、居城膳所城の守備に徹し、戦後の1616(元和02)年に摂津尼崎5万石へ移封、更に1635(寛永12)年美濃大垣10万石へ転封された。
 島原の乱(1637年12月~38年04月)では、氏鉄は、吉田藩7万石の藩祖で知恵伊豆と称された松平信綱(1596-1662)の副将として活躍。
 氏鉄の曾孫(初代:氏鉄→2代:氏信(1600-81)→3代:氏西(うじあき1627-84)→)は4代:氏定(1657-1733))。
 氏定の母方の従弟に播磨赤穂藩5万石の3代藩主 浅野長矩(ながのり(1667-1701))がいる。
 美濃大垣藩最後の藩主 11代:氏共(うじたか(1854-1936))は、大垣藩知事、Austria=Hungary帝国全権公使、侍従等を歴任、従一位勲一等伯爵。
 氏共の正室極子(きわこ(1858-1936))は、岩倉具視公爵の三女。
 氏共が駐奥公使時代、極子がclassic音楽の作曲家J. Brahmsの面前にて琴を演奏したepisodeがあり、その演奏場面が守屋多々志の作品にもなっている。
 因みに、極子は、陸奥宗光の継室 陸奥亮子(1856-1900)と共にその美貌から『鹿鳴館の華』と呼ばれた。
 戸田極子の写真は、2013年04月06日付《会報》【0440】号をご参照
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/26-04400330-aa7.html
[33]戸田極子(1858-1936)
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[34]陸奥亮子(1856-1901)
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 事程左様に、歴史って本当に楽しい!
 以上、余談まで‥。
 o(^_-)-☆

■今日最後の話題は、最近読んだ本から、石川善樹著『疲れない 脳をつくる 生活習慣』についてである。
 本書は、今脚光を浴びている『マインドフルネス』についての考え方&実践を勧めている。
 『マインドフルネス』とは、自分の身体や気持ち(気分)の状態に気づく力を育む「心のexercise」のこと。
 欧米では、既に当該効果につき、実証的研究報告が多く出されていて、stress対処法の1つとして医療・教育・businessの現場で実践されているそうだ。

 本書の題名にもなっている『疲れない脳をつくる』為に‥
 第一章/『瞑想』の継続が大事
 第二章/瞑想を続ける為に、十分な『睡眠』をとる
 第三章/『姿勢を良く』して体幹を鍛える
 第四章/『血糖値のcontrol』に拠り脳の機能低下となる血糖値急激に下がることを防ぐ
 と述べている。

 著者の石川氏は予防医学研究者。医学博士。1981年生まれ。
 東大医学部→Harvard大学公衆衛生大学院修了。
 氏が勧める【マインドフルに生きる為の一日の過ごし方】について骨子だけご紹介しよう。

 第五章/疲れない脳をつくるための1日の過ごし方
【1. 朝の習慣】(P.146)
 ※ 毎日、決まった時間に起床する
 ※ 蛋白質と炭水化物をmixした朝食を食べる
 ※ 身体を動かし乍ら、太陽の光を浴びる
【2. 午前中の習慣】(P.148)
 ※ draw in walking(=腹を引っ込めて歩く)で出社する
 ※ 深い呼吸をして、背筋を伸ばす
【3. 昼食の習慣】(P.150)
 ※ 低GI(注)食のmenuを選ぶ
   (注)GI:Glycemic Index(グリセミック・インデックス)の略で、食品の血糖値の上がり易さを示す指標
     ブドウ糖の様な単糖類→炭水化物→蛋白質→脂肪の順に低くなる
     イライラや午後の眠気、空腹感、夕方の集中力低下等が頻繁にある人は、「血糖値の急降下」を疑ってみる必要がある
     恐らくそういう人は、昼食時や仕事中の空腹時に、高GIな食品を食べて仕舞っているのである
 ※ サラダ→蛋白質→炭水化物の順に食べる
 ※「ながらlunch」はしない
【4. 午後の習慣】(P.152)
 ※ 3~5分間の瞑想trainingをする
 ※ 水を飲む(座り過ぎない‥連続30分以上座らない、それ以上になる場合は2分間のwalkingを挟む)
 ※ (昼食後の)仮眠を活用する
 ※ 間食で食べるものは、原材料や成分表示を見て選ぶ
 ※ 肩のstretchをする
【5. 夜の習慣】(P.156)
 ※ なるべく自分で料理する
 ※ ゆっくりと食べる
 ※ 夕食は就寝2~4時間前に済ませる
 ※ 刺激の強い光を浴びない
 ※ 就寝1時間前に軽いstretchをする
 ※ お風呂の音頭は少しぬるめにする
 ※ 寝る時間と起きる時間を予め決めておく

 石川氏は、締め括りとして、次の様に助言してくれている。

 是迄の自己啓発が「変わる」ことを目標にして来たのに対して、マインドフルネスは「いまこの瞬間を最大限に味わうこと」に重きを置いている。
 その為には、生きる上で最も基本的な事柄である呼吸や姿勢、睡眠、食事を疎かにすることは出来ない。
 というのは、日々の生活が不安定であれば、遣るべきことを効率的にこなすことも、腰を据えて取り組むことも出来ない。
 脳の力を高めるのに、困難な訓練やquiz、puzzleの類は必要ない。
 是迄の生活を見つめ、ほんの少し改善し、規則正しく「変わらない」生活をする。
 そして、時々瞑想をして、脳を整える。
 そう遣って足元の生活を見直すことから初めて下さい。〔後略〕(P.159-60)

【小生comment】
 瞑想を遣ってみるといいかもしれない。
 好奇心旺盛な小生、暫く『瞑想』を遣り続けてみたい。
 そして、その結果は後日ご報告します。
 乞う、ご期待!

[35] 石川善樹著『疲れない 脳をつくる 生活習慣
 35

【後記】前回《会報》の冒頭にて、杜牧の『清明』をご紹介した。
 今日のお別れは、いまの「春」を詠んだ、その杜牧の傑作の一つ、その名も『江南春』をお届けする。
 高校の漢文の時間でも習った皆さんも良くご存知の名詩。

 千里鶯啼緑映紅
 水村山郭酒旗風
 南朝四百八十寺
 多少楼台煙雨中

 千里鶯啼いて 緑 紅(くれない)に映ず
 水村山郭 酒旗の風
 南朝 四百八十寺(しひゃくはっしんじ)
 多少の楼台 煙雨の中(うち)

【意】見遙かす千里の彼方、鶯は鳴き、草木の新緑が紅の花に映える
 水辺の村や山辺の村には、酒屋の幟(のぼり)が春風にはためく
 昔日、此処に栄えた南朝の世では、四百八十とも言われる多くの寺院がその隆盛を競い合っていた
 数知れない多くの堂塔伽藍が、今も猶、煙る様に春雨の中に霞んで見える

 絵画的で緑と紅の色のコントラスト
 前半の明るく晴れ渡った明るい江南の春の模様と後半の春雨に煙る墨絵の様な見事な明暗の対比が素晴らしい
 この絵画的表現も、決して平面でなく三次元的な奥行を感じさせている
 ホント、素晴らしい七言絶句である

 最後の満開の桜の写真は、拙宅の直ぐ北にある公園のソメイヨシノである。
 先週末04月02日(土)、大垣から帰宅した日の夕方に撮影した。
 なかなか綺麗ですしょっ!(^-')b♪

[36]北春日公園のソメイヨシノ01
 3601

[37]同上02
 3702

 ではまた‥。(了)

2016年4月 2日 (土)

【時習26回3−7の会0594】〜「03月20日:国立西洋美術館『カラヴァッジョ』展&山種美術館『奥村土牛』展&東京station gallery『ジョルジョ・モランディー』展を見て」「Paul Krugman & 浜田宏一著『2020年/世界経済の勝者と敗者』を読んで」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 「歳月 人を待たず」で、もう卯月(=四月)。
 2016年も既に4分の1が過ぎ去りました。
 時節は、明後日4月4日から『清明』。
 『清明』というと、小生決まって思い出すのが晩唐の詩人 杜牧の同名の詩『清明』。

   淸明   杜牧
 淸明時節雨紛紛
 路上行人欲斷魂
 借問酒家何處有
 牧童遙指杏花村

 清明の時節 雨 紛々
 路上の行人 魂を断たんと欲す
 借問す 酒家は何処に有る
 牧童 遥かに指す 杏花村

【意】時は「清明」節/粉糠雨が降り仕切っている
 旅人である私はそんな雨の中を歩いていると、侘びしさの為に心が折れそうになる
 私は尋ねた「酒屋は何処にあるのかな?」
 (尋ねられた)牛飼いの少年は指差した/すると、遥か向こうに淡紅色に煙る杏の花咲く村が見えるではないか‥

■先ず最初は、先月20日に訪れたさいたま市&東京の5つ美術館から、まだご紹介していない残り3つの美術館の企画展についてご紹介したい。

【国立西洋美術館『カラヴァッジョ(Caravaggio(1571-1610))』展】
 今この《会報》を作成している時点で、改めて本展を見て良かったと実感している。
 というのは、小生、Caravaggioの画家としての偉業さをこの《会報》を作成する迄認識していなかったからである。
 Caravaggioは、彼の死後長らく忘れ去られていたが、20世紀に入ってから再評価され、西洋絵画史に確固たる地位を与えられた。
 とくに、1920年代にItalyの美術史家ロベルト・ロンギ((Roberto Longhi)がCaravaggioを再評価したことが大きい。
 ロンギはこう述べている。
 「ホセ・デ・リベーラ(José de Ribera(1591-1652)、Vermeer(1632-75)、ラ・トゥール(Georges de La Tour(1593-1652))、レンブラント(Rembrandt Harmenszoon van Rijin(1606-69))は、もしCaravaggioがいなければ存在しえない画家だっただろう。
 又、ドラクロワ(E. Delacroix(1798-1863))、クールベ(G. Courbet(1819-77))、マネ(E. Manet(1832-1883))らの芸術も全く異なったものになっていたに違いない」
 Caravaggioは、「陰(=オスク―ロ:oscuro)を明=暗(キアロスクーロ:chiaroscuro)へと昇華した」と評価される。
 キアロスクーロは、Caravaggio以前から存在した絵画手法であった。
 彼は、光を一方向から眩(まばゆ)く当てて、対象物を段階的な陰影をつけ浮かび上がらせる表現法として確立したのである。
 是迄小生は、キアロスクーロはRembrandtが確立したものだと思っていたが、Caravaggioだったことを今回初めて知った。
 対象物を理想化せず、極めて写実的に描いているのが、Caravaggioの特徴と言っていい。
 だから、添付写真の絵画をご覧頂ければ解る様に、所謂美しい絵はCaravattioの作品にはない。
 では、Caravaggioの作品の醍醐味を堪能してみて下さい。

[01]本展leaflet
 01leaflet

[02]ミケランジェロ・メリージ・カラヴァッジョ『女占い師』1597年
 021597

[03]同『ナルキッソス』1599年頃
 031599

[04]同『果物籠を持つ少年』1593-94年
 04159394

[05]同『バッカス(Bacchus)』1597-98年頃
 05bacchus159798

[06]同『マッフェオ・バルベリーニの肖像』1596年頃
 061596

[07]作者不詳『カラヴァッジョの肖像』1617年頃
 071617

[08]ミケランジェロ・メリージ・カラヴァッジョ『エマオの晩餐』1606年
 081606

[09]同『洗礼者 聖ヨハネ』1602年
 09_1602

[10]同『仔羊の世話をする洗礼者 聖ヨハネ』制作年不詳
 10

[11]同『法悦のマグダラのマリア』1606年
 111606

[12]同『エッケ・ホモ』1610年
 121610

【山種美術館『奥村土牛(1889-1990)』展】
 奥村土牛の作品の中では、小生、従前より『鳴門』と『醍醐』の2作品が大好きである。
 両作品の「構図」や「デッサン力」は言うに及ばず、『鳴門』の抹茶色、『醍醐』の淡紅色という「色」が凄く気に入っていて、好印象を与えてくれるからである。
 『茶室』『大和路』『吉野』も、「懐古」や「郷愁」といった日本人の琴線に触れる感情を呼び起こしてくれる名画である。
 又、『海』は、奥村土牛最晩年の作で、斬新さと若々しさが伝わって来る傑作である。
 奥村土牛の作品は、正統派日本画として、且つ現代の日本人に受け容れ易い、新しさも内容されていて小生は大好きである。
 ジックリご覧下さい。

[13]本展leaflet
 13leaflet

[14]奥村土牛 1976年頃
 14_1976

[15]奥村土牛『鳴門』1959年
 151959

[16]同『茶室』1963年
 161963

[17]同『大和路』1970年
 171970

[18]同『醍醐』1972年
 181972

[19]同『吉野』1977年
 191977

[20]同『海』1981年
 201981

【東京station gallery『ジョルジョ・モランディ(Giorgio Morandi(1890-1964))~終わりなき変奏』展】
 本展については、主催者《ごあいさつ》が端的に開催の骨子を述べているので一部引用してご紹介したい。

 20世紀Italyを代表する画家ジョルジョ・モランディ(Giorgio Morandi(1890-1964))。
 彼は、生まれ故郷のボローニャ(Bologna)を終生離れず、74年の生涯を其処で静かに過ごした。
 静物と風景という限られた主題の繰り返しの中で、色彩と形とが繊細に響き合う作品は、時が止まったかの様な静寂さを感じさせ、見る人を瞑想的な世界へと誘う。
 本展は、Morandiの静物画を中心として、彼の生涯に亘る「芸術的探求」を紹介する。〔後略〕

[21]自宅でのモランディ 1961年
 21_1961

[22]ジョルジョ・モランディ『静物』1919年
 221919

[23]同『静物』1936年
 231936

[24]同『静物』1947年
 241947

[25]同『静物』1951年
 251951

[26]同『静物』1951年
 261951

[27]同『フォンダッツァ通りの中庭』1954年
 271954

[28]同『花』1952年
 281952

【小生comment】
 本展は、日本では1989-90年『モランディ』展、1998-99年『モランディ~花と風景』展以来の3度目の個展。
 Giorgio Morandiが絵画の世界に目を開いたのは、P. Picasso(1881-1973)とG. Braque(1882-1963)が前世紀の価値観と決別したAvant-garde(前衛的)な運動を開始した時と重なる。
 Morandiが同じ画題とした『静物』でも、最初期1919年(添付写真[20])の作品と1936年(添付写真[21])以降の作品とでは構図や色彩に明らかな違いが見て取れる。
 
■今日続いての話題は、最近読んだ本から、ノーベル経済学賞受賞者のPaul Krugman と イェ―ル大学名誉教授 浜田宏一共著『2020年/世界経済の勝者と敗者』についてである。
 本書の構成は、次の4章からなっている。

 第一章/米国の出口戦略
 第二章/日本のアベノミクス
 第三章/欧州の解体
 第四章/中国バブルの深度

 今日は、以上の中から「第二章/日本のアベノミクス」の末尾の5つの項目の一部を引用してご紹介したい。

【円安の効果には時間がかかる‥クルーグマン】
 アベノミクスによる大きな成果の一つは、大幅な円安です。
 アベノミクス以前、日本のメーカーは、円高即ち円の過大評価に苦しめられてきました。
 しかし円安になったことで、かなり競争力が付いたのではないでしょうか。
 〔中略〕
 アベノミクスによる円安でまず出たのは、賃金が上がる前に物価が上がるという円安のマイナス面。
 物価だけが上がるのは、好ましい状況とは言えません。
 賃金が年に3~4%上がって、物価が2%かそれ以上、上がっていくというのが好ましい状況です。
 〔中略〕
 実は、1985年のプラザ合意によってかなりのドル安になった際にも、専門達は二年程「何故米国経済は良くならないのか」と言っていました。
 つまり、通貨安の効果が出るのには時間がかかるということです。
 実際、プラザ合意から二年程経つと、米国の貿易赤字は激減しました。
 日本でも、円安の影響が出て来るには、もう少し時間がかかるということでしょう。

【日本は世界のロール・モデルに‥クルーグマン】
 日本は嘗て、経済の「反面教師」でした。
 しかし西洋が大失態したことに拠って、今では「ロール・モデル」、つまり良きお手本になりました。
 アベノミクスが成功すれば、世界中の国がそれを認めることになるでしょう。
 消費税を上げたこと除けば、今迄日本政府と(黒田)日銀が遣って来たことは、全て歓迎です。
 〔中略〕
 消費税を上げることには財政上の理由があることも解りますが、まず遣るべきは飛行機を離陸させる、即ちデフレから完全に脱却すること。
 増税は、安定した飛行、巡航速度での経済成長が出来る様になってかれでいいのです。〔後略〕

【いま日本で財政支出を重視すべきなのか‥浜田】
 ポール(・クルーグマン)はアベノミクスの方向性については、勿論賛成の様ですね。
 ただ、黒田日銀の金融緩和は不十分で、2%のインフレを実現するには、インフレ・ターゲットは4%位に設定しなければならない、という立場です。
 又、日本が経験した長いデフレ不況の後では、金融政策だけでは景気の浮揚や低所得者の保護が出来ないので、財政支出の拡大も行うべきだと考えていますね。
 ケインズ経済学に於ける財政主体の処方箋が現在でも有用だと考えている様です。
 〔中略〕
 私(=浜田)はこの点については、ポールの様な考え方をとっていません。
 〔中略〕
 一般的には、財政を重視し過ぎると、結果的に政府部門が肥大化します。
 すると、「お役所仕事」という言葉に代表される役人一般の非効率性が顕著になり、或いは役人の権益を守る為の行動に力を入れることとなります。
 このことを忘れてはいけません。

【日本経済は正しい方向に向かっている‥浜田】
 しかし、大きな流れを見ると、アベノミクスはポールの見解と同じ方向に、確りと前進しています。
 アベノミクスは、デフレ脱却に向けた正しい道筋を示しました。
 金融緩和に拠って様々なルートから資金が人々の財布に入り、それが使われる。
 円安になって企業の業績は改善し、設備投資も拡大。
 こうした校歌は、正に経済学の教科書に書いてある通りと言えます。
 〔中略〕
 (現在の)方向性を変えるべきではありません。
 アベノミクスが日本経済を正しい方向に導くのは間違いないのですから、この儘進むべきなのです。

【アベノミクスという政策実験‥クルーグマン】
 日本が目指すべきは、まず完全にデフレから脱却することです。
 その初期段階と言える物価は、円安の影響もあって上昇しました。
 しかし、先述した様に、それに賃金の上昇が伴わなければ、デフレ・マインドに逆戻りして仕舞う危険性があります。
 そう言う時期だからこそ、再び消費税を上げる様なことをしてはなりません。
 又賃金の上昇は、中小企業も含めた社会全体で起きなければ、格差が益々広がって仕舞います。
 飛行機で例えて言えば、離陸した飛行機が安定飛行になるには、賃金の上昇と国民のインフレ・マインドが欠かせません。
 その為に必要なのが、出来るだけ早く賃金上昇が物価上昇を上回る状態になることです。
 これに時間がかかって仕舞うと、アベノミクスに対する信用がなくなって仕舞うからです。
 〔中略〕
 アベノミクスは、どの国も試して来なかった政策実験。
 それが成功すれば、同じ様な状況になった他の国にとっても、うってつけの処方箋になることでしょう。
 過去には「日本から学ぶものなど何もない」と思い込んでいた欧米の学者達も、いまやアベノミクスの行方に注目し、かたずを飲んで見守っています。
 その成功を、私(=クルーグマン)は心から願っています。

[29] Paul Krugman & 浜田宏一著『2020年/世界経済の勝者と敗者』
 29_paul_krugman_2020

【小生comment】
 クルーグマン博士は、アベノミクスを高く評価している。
 又、中小企業を含めた社会全体の企業が賃金上昇を実現し、国民がもう「デフレはなく、インフレが恒常化する」と確信する迄は、消費税の再引き上げはすべきでない、とも言っている。
 全く同感である。
 健全な形での、インフレ・マインドが国民に定着すれば、購買(=消費)意欲が増加して、世の中が上手く回り出す。
 一日も早く、健全なインフレ・マインドが国民に定着して欲しいものである。

【後記】此処で、余談を一つ‥。
 実は、今年に入ってからというもの、01月02日に豊城中学校還暦祝同窓会の記念DVDの制作に手間取った。
 その為、好きな本をなかなかジックリ読む時間をつくれなかったのである。
 幸いにして漸くであるが、当該記念DVDも、2回に亘る大きな trouble に遭遇したが、それも克服。
 制作時間は250時間という多大な時間を要したものの、3月下旬に無事完成。
 先週末の04月01日(土)、【2637の会】クラス会の会場によく利用している とらいアゲインに幹事会member11人中9人が集合。
 最後の集いとなった今回幹事会members向けに試写会を開催し乍ら互いに慰労した。
 同日、同窓会参加者向けに記念DVDも配信し終えた。
 大きな役目を終えたので、充実感と安堵感に疲労感が加わっている。
 そして、昨日、同窓会参加者向けに同窓会記念DVDを発送した。
 DVDを見たみんなが喜んでくれたらいいと思っている。

 話は変わる。
 本《会報》冒頭にて、杜牧の『清明』をご紹介した。
 お別れは、この時期の俳句として何回もご紹介している、1919年「京大三高俳句会」の前身「神陵俳句会」を創設した日野草城の作品をお届けする。

 春暁や人こそ知らね木々の雨 日野草城

 大変趣のある名句だと思う。
 皆さんはどう感じますか?

【次回《会報》予告】
 今日午前中、大垣の大垣市守屋多々志美術館と大垣城、そして松尾芭蕉『奥の細道』むすびの地~住吉燈台周辺の満開の桜を見て来ました。
 その模様を次号会報にてお伝えします。
 お楽しみに!(^-')b♪

[30]大垣市 松尾芭蕉『奥の細道』むすびの地~住吉燈台周辺の満開の桜
 30

 ではまた‥。(了)

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