« 2016年4月 | トップページ | 2016年6月 »

2016年5月の5件の記事

2016年5月27日 (金)

【時習26回3−7の会0602】〜「松尾芭蕉『笈の小文』第15回【須磨2】」「05月07日:名都美術館『日本美術と高島屋〔=後期〕』展を見て」「05月09日:中部ガス名豊gallery『星野眞吾と高畑郁子』展を見て」「05月14日:愛知県美術館『黄金伝説』展を見て」「05月19日:愛知県芸術劇場concert hall/『音楽監督就任記念 日本tour 2016/佐渡裕指揮/トーンキュンストラー管弦楽団(その1)』演奏会を聴いて」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 今日も【時習26回3-7の会 0602】号をお送りします。

■今日で愈々松尾芭蕉(1644-94年11月28日)『笈の小文』も最終回。
 最終回(第16回)【須磨2】をお届けする。
 :貞享05年04月19日(新暦1688年05月18日)に尼崎を出航、兵庫に夜泊
 →・翌04月20日(新暦05月19日)に、【須磨・明石】を廻り、須磨に一泊
 →・芭蕉と杜国の二人旅も、その後須磨を発って貞享05年04月23日(新暦1688年05月22日)、京都に到着で終了した

《原文》
   須磨2
 かかる所の穐(あき)なりけり(注1)とかや。
 此浦(このうら)の実(まこと)(注2)は秋をむねとするなるべし。
 かなしさ、さびしさ、いはむかたなく、秋なりせばいさゝか心のはしをもいひ出(いづ)べき物をと思ふぞ、我(わが)心匠(しんしやう)(注3)の拙なきをしらぬに似たり。

 淡路嶋(あはぢしま)手にとるやうに見えて、すま・あかしの海右左(みぎひだり)にわかる。
 呉楚東南の詠(ながめ)(注4)もかゝる所にや。
 物しれる人の見侍(みはべ)らば、さまゞの境(さかひ)にもおもひなぞらふるべし。
 又後(うしろ)の方(かた)に山を隔て田井(たゐ)の畑(はた)(注5)といふ所、松風(まつかぜ)・村雨(むらさめ)(注6)ふるさとゝいへり。
 尾上(をのへ)(注7)つゞき丹波路(たんばぢ)へかよふ道あり。
 鉢伏(はちぶせ)のぞき(注8)・逆落(さかおとし)(注9)などおそろしき名のみ残(のこり)て、鐘懸(かねかけ)松(注10)より見下(みおろす)に、一の谷(注11)内裏(だいり)(注12)やしきめの下に見ゆ。

 其代(そのよ)のみだれ、其時(そのとき)のさは(=わ)ぎ、さながら心にうかび俤(おもかげ)につどひて、二位のあま君(ぎみ)(注13)、皇子(みこ)(注14)を抱(いだき)奉(たてまつ)り、女院(にょうゐん)(注15)の御裳(おんも(すそ))に御足(おんあし)もたれ(注16)、船やかた(注17)にまろび入(い)(注18)らせ給ふ御有(おんあり)さま、内侍(ないし)(注19)・局(つぼね)(注20)・女嬬(にようじゆ)(注21)・曹子(=曹司(ざうし))(注22)のたぐひ、さまゞゝの御調度(おんてうど)(注23)もてあつかひ(注24)、琵琶(びは)・琴なんど、しとね・ふとんにくるみて船中(せんちゆう)に投入(なげいれ)、供御(くご)(注25)はこぼれてうろくづ(注26)の餌(え)となり、櫛笥(くしげ)(注27)はみだれてあまの捨草(すてぐさ)(注28)となりつゝ、千歳(せんざい)のかなしび此浦にとゞまり、素波(しらなみ)の音(おと)にさへ愁(うれへ)多(おほ)く侍るぞや。

《現代語訳》
 「かかる所の秋なりけり」と『源氏物語/須磨』にも書かれているが、須磨浦の趣深さは、何と言っても矢張り秋が一番である。
 哀愁・寂寥感は言い様もない、この「秋」なら私でも心の一端を句に表してみようと思うのは、自らの表現力の拙さを理解していないからこその様だ

 淡路島が手に取る様に間近に見え、須磨・明石の海が右左に展開する。
 (中国の詩聖)杜甫が「呉楚東南に裂け‥」と詠んだのも、この様であったろうか。
 知識人が見たら、様々の名勝に擬(なぞら)えることだろう。
 又鉄拐が峯の後方には、山を隔てて「田井の畑」という所があり、此処は在原行平に愛された海女の姉妹「松風と村雨」の故郷と伝わっている。
 尾根伝いに丹波路へ通じる道がある。
 「鉢伏(はちぶせ)のぞき」「逆落(さかおとし)」等恐ろしい地名だけが残って、鐘懸(かねかけ)松から見下ろすと、一の谷や安徳天皇御座所が眼下に見える。

 源平合戦という其の時代の騒乱の様が、今、ありありと思い浮かんで来る。
 二位の尼君が安徳天皇を抱き奉る様、
 建礼門院が御裳に御足をもつれさせ乍ら船屋形へ転ぶ様に入って行かれる御有様、
 内侍・局・女嬬・曹子という女官達が、様々なお道具を運びかねている様、
 琵琶・琴等を敷物や布団に包(くる)んで荒々しく船中に投げ入れる様、
 帝(=安徳天皇)の召し上がり物が、船から毀(こぼ)れて魚類の餌食となり、
 化粧箱も海に乱れ散って漁師も見向きもしない藻草同然になり果てたのであった‥
 (この様に熟ゝ(つらつら)思いを巡らせていると‥)
 千年来の悲嘆がこの須磨浦に留まっていて、白波の音にさえ多くの悲愁が籠っている様に感じられることだ。

《語句/解説》
 (注1)かかる所の穐なりけり:『源氏物語/須磨』や謡曲『松風』を踏まえたもの
 因みに、『源氏物語/須磨』の以下の箇所に『かかる所の秋ありけり』がある
 「須磨にはいとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の、「関吹き越ゆる」と言ひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは、【かかる所の秋なりけり】」
 〔【意】須磨では、益々物思いを誘う様な秋風が吹いて、海は(光源氏の住まいからは)少し遠くにあるが、在原行平中納言が「関吹き越ゆる‥※」と(嘗て)詠んだという須磨浦の波音が、夜毎にすぐ近くに聞こえて、又となく哀しく感じるのは、【この様な所の秋なのであった】〕
 ※ 更に、『源氏物語/須磨』文中の〔行平の中納言の、「関吹き越ゆる」〕の原典は、勅撰和歌集『続古今和歌集』にある以下の歌‥

 『続古今集/羈旅(きりょ=旅/旅に関する感想を詠じたもの)』
【詞書】津の国の須磨といふ所に侍りける時よみ侍りける
  旅人は袂(たもと)涼しくなりにけり【関吹き越ゆる】須磨の浦風 中納言行平(818-893)

【意】摂津国 須磨という所に居た時詠んだ歌‥
  旅人は袂も涼しさを感じられる様になった/関所の上を越えて吹いて来る須磨浦の風によって

 (注2)実(まこと):歌枕としての本意・本情
 (注3)心匠:心中の工夫/此処では「自分の気持ちを文字にて表現する力」といった意味
 (注4)呉楚東南の詠:「呉楚東南にさけ/乾坤日夜浮ぶ」(杜甫「登岳陽樓」)による/晩年の杜甫が洞庭湖の景色を詠んだ五言律詩の傑作

   登岳陽樓  岳陽樓に登る 杜甫(712-770)

  昔聞洞庭水  昔聞く洞庭の水
  今上岳陽樓  今上る岳陽楼
  呉楚東南裂  呉楚 東南に裂(さ)け
  乾坤日夜浮  乾坤(けんこん) 日夜(にちや)浮ぶ
  親朋無一字  親朋(しんぽう) 一字無く
  老病有孤舟  老病 孤舟有り
  戎馬關山北  戎馬 関山(かんざん)の北
  憑軒涕泗流  軒(けん)に憑(よ)りて涕泗(ていし)流る

 本作品は、768年 杜甫57歳の作
【意】昔より(風光明美な所として)その名を聞いていた洞庭湖
 今、私はこうして湖畔の岳陽楼に佇んでいる
 呉楚の地は、湖の東と南に引き裂かれた様に広がっている
 広大な湖面は、天地間の万物(=乾坤)が、日夜夫々の姿を映し出している
 今私には、親しい人々からの便りも全くなく
 年老いた病身には、一艘の子舟があるだけだ
 関山を隔てる北方の地域では、戦乱が続いている
 こうして欄干に寄り掛かっていると、様々な感慨から涙が止め処もなく流れるのである

【語句/解説】岳陽楼:現在の中国湖南省岳陽県の、県城の西にある楼閣/洞庭湖東岸の名勝
 洞庭水:洞庭湖/長江中流域にある中国第2位の広さを持つ湖
 呉楚東南裂:呉(長江東南一帯)と楚(洞庭湖南一帯)の地域が、この洞庭湖に拠り東と南にひき裂さかれて
 乾坤:陰と陽、天と地、日と月等、此処では天地間の万物をいう
 親朋:親戚と友人達
 無一字:一字の便りもない、手紙が全く来ない
 戎馬:軍馬/「戎」は軍事を指す/戦乱状態にあることを表している
 関山:関所のある山々
 軒:楼閣の周りの手摺(勾欄)、欄干
 涕泗:「涙」は眼から出る「なみだ」、「泗」は鼻から出る「鼻みず」

 (注5)田井(たゐ)の畑(はた):現・神戸市須磨区多井畑/鉄拐が峯の北側にある部落
 (注6)松風・村雨:謡曲『松風』による/在原行平が須磨に謫居の折、彼が愛した海女の姉妹
 (注7)尾上:尾根
 (注8)鉢伏(はちぶせ)のぞき:鉄拐が峯に連なる崖の上/鉢伏山を眼下に望める場所
 (注9)逆落(さかおとし):一の谷の北側上の急峻な坂
 (注10)鐘懸(かねかけ)松:鉄拐が峯の中腹/義経が陣鐘を掛けた松の木
 (注11)一の谷:鐘懸松の西方にある
 (注12)内裏やしき:安徳天皇の御座所
 (注13)二位の尼:平清盛の北の方平時子(1126-1185)/建礼門院や宗盛らの母
 (注14)皇子:安徳天皇(1178-1185)/天皇だが幼少だったので皇子といった
 (注15)女院:建礼門院徳子(1155-1214)/高倉天皇の中宮で安徳天皇の母/清盛の娘/壇ノ浦の合戦で生き残り、尼になって大原・寂光院に隠棲
 (注16)もたれ:「もつれ」の誤記か?
 (注17)船やかた(=船屋形):船上に造った屋舎
 (注18)まろび入(い)る:転ぶように入る
 (注19)内侍:内侍司(ないしのつかさ)の女官/内侍司は律令官制下の後宮十二司の一つ/天皇に近侍して奏請・伝宣、宮中の礼式を司った
 (注20)局(つぼね):局(=自室)を持つ女官
 (注21)女嬬(にょうじゅ):掃除・点燈などの雑役に従事した女官
 (注22)曹子(=曹司(ざうし)):宮中の女官らの宿所・部屋、転じて其処に起居する人(=女官)
 (注23)御調度(おんてうど):貴人の道具類
 (注24)もてあつかい…もてあまして/扱いかねて
 (注25)供御(くご):天皇が召し上がる食物
 (注26)うろくづ:魚類
 (注27)櫛笥(くしげ):櫛などの化粧道具を入れる箱
 (注28)あまの捨草:漁師もかえりみない藻草

【小生comment】
 《会報》【0600】号・第14回【大和路】/『衣更』(注2)にてご紹介した『貞享05年04月25日付の「惣七(猿雖)(注)宛の芭蕉書簡』再度ご紹介する。
 此処に、芭蕉と万菊丸(=杜国)の二人が『須磨』に立ち寄ったあとの模様が記されているので、其処の原文をご紹介してみたい。
  (注)惣七:服部土芳に次ぐ伊賀上野の門人窪田惣七郎(1640-1704)(俳号:猿雖(えんすい)/法名:意専/通称:惣七)

 〔前略〕あかし(=明石)より須磨に帰りてとまる。
 廿一日布引(ぬのびき)の滝にのぼる。
 山崎道にかゝりて、能因の塚・金竜寺の入相の鐘を見る。
 花ぞちりけるといひし桜も若葉に見えて又おかしく、山崎宗鑑やしき、近衛どのゝ宗鑑が姿みれバ餓鬼つばたと遊びしけるをおもひ出て
   有がたき姿おがまんかきつばた
 と心の内に云(いひ)て、卯月廿三日京へ入る。

 三月十九日伊賀上野を出て三十四日。
 道のほど百三十里。
 此内船十三里、駕籠四十里、歩行路(かちぢ)七十七里、雨にあふ事十四日。〔後略〕

 ※ ※ ※ ※ ※

 嵐山光三郎著『芭蕉紀行/笈の小文は禁断の書である』には、更にその後のことを以下の様に記している。

 芭蕉と万菊丸(=杜国)の二人だけの旅は、じつに百日近くに及ぶのである。
 五月四日、芭蕉は万菊丸と歌舞伎で吉岡求馬(もとめ)を見るのだが、その翌日に求馬が急死した。
 芭蕉は「花あやめ一夜に枯れし求馬哉(かな)」と追悼した。
 すかさず万菊丸も、「だきつきて共に死ぬべし蟬のから」と追悼句を作った。
 これは求馬に託して、自分の心を詠んでいる。
 万菊丸は、芭蕉に蟬のからのように抱きついて、ともに死にたいと絶唱したのであった。
 この句を最後に、万菊丸は芭蕉と別れて伊良湖(保美)へ帰り、二年経たぬうちに死んでしまう。〔後略〕

 以上で、松尾芭蕉『笈の小文』を終了します。
 これからは、今秋9月を目処に、『笈の小文』に続く松尾芭蕉の紀行文『更科紀行』を予定しています。
 お楽しみに!

■今日続いての話題は、05月07日豊田市美術館『デトロイト美術館』展を見た後訪れた名都美術館『日本美術と高島屋〔=後期〕』展についてである。
 本展は、04月15日付《会報》【0596】号にてお届けした04月09日/名都美術館『日本美術と高島屋』展が、展示作品が大幅に入れ替わるので再度訪問した次第である。
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/260596100403col.html←ここをclickして下さい

 因みに、本展leafletに掲載されていた竹内栖鳳『アレ夕立に』は、後期展でのみの展示である。

[01]竹内栖鳳『アレ夕立に』1909年
 011909

[02]銅『国瑞』1937年
 021937

[03]小倉遊亀『椿花』1969年
 031969

【小生comment】
 添付写真にある様に、竹内栖鳳や小倉遊亀の作品もあって後期展もなかなか良かった。

■続いては、05月09日(月)の仕事の昼休みに見て来た中部ガス名豊galleryにて現在開催中の『星野眞吾と高畑郁子』展についてである。
 本展開催の趣旨を、本展図録より一部引用してご紹介する。

 豊橋を拠点に活躍し”鴛鴦日本画家”と謳われた星野眞吾と高畑郁子にspotを当て、企画展『星野眞吾と高畑郁子』展を開催します

※ 星野眞吾 略歴
 1923年 豊橋市魚町の母方の実家に生まれ、豊川市牛久保に育つ
 1942年 京都市立絵画専門学校図案科に入学
 1948年 同校日本画科卒業/教職に就く/パンリアル協会を発足
 1950年 教職を辞し帰郷/中村正義・平川敏夫・大森運夫・高畑郁子等と『中日美術教室』を開室
 1964年 高畑郁子と結婚(入籍は1970年)
 1971年 東京造形大学講師(~1973年)を務める
 1994年 豊橋文化賞受賞
 1997年 肺がんによる心不全の為死去(享年74歳)

※ 高橋郁子 略歴
 1929年 千葉県印旛郡に生まれる/生後10カ月で父を亡くし父母の教理の豊橋に移住
 1943年 豊橋市立高等女学校に入学/石川新一に水彩画を学ぶ
 1974年 第1回創画展に入選/以後'76年 '78年 '80年も受賞
 1991年 文化庁に作品買上げとなる
 2009年 豊橋文化賞受賞
 2015年 第67回愛知県表象受賞

[04]本企画展案内postcard/絵は[左]星野眞吾『赤い生贄』1974年&[右]高畑郁子『遺跡の人Ⅱ』1978年
 04postcard19741978

[05]星野眞吾と高畑郁子
 05

[06]星野眞吾『生きものの部屋』1979年
 061979

[07]同『露草』1982年
 071982

[08]同『掌相(視)』1997年
 081997

[09]高畑郁子『花と実』1961年
 091961

[10]同『遺跡の人Ⅱ』1978年
 101978

[11]同『化幻地蔵(日)』1995年
 111995

【小生comment】
 星野眞吾氏は、亡父や中村正義より1年年長。
 小生、亡父が画家を目指していた戦後間もなくの頃、同じ展覧会に作品を出したことがあると言っていたことを覚えている。
 又、高畑郁子氏は、亡母が豊橋高女の同期で、生前、よく高畑氏の展覧会を見に行っていたと聞いている。
 小生は、一度もお二人には会ったことはないが、両親はお二人と縁があったと思うと、何とも不思議な気持ちがする。

■続いての話題は、05月14日(土)に名古屋に行く用事があって、ついでに愛知県美術館にて開催中の『黄金伝説』展を見て来たのでその模様を簡単にお伝えする。

 【黄金が語る、神話と歴史をつなぐ6000年の物語】
 約40年前、黒海沿岸のBulgariaの街ヴァルナで約300基の墓が発見され、大きな反響を呼びました。
 副葬品に大量の金製品が発掘され、Egypt最古のpyramidより遙か以前の、今から6000年以上前の銅石器時代に加工された世界最古の金であることが明らかになったのです。〔後略〕(←本展leafletより引用)

 本展には、黄金に纏わる名画が幾つか展示されていた。
 其処で、Renoir『パリスの審判』(添付写真)とBassetti『ダナエ』をご紹介する。
 これ等の絵が本展のtheme『黄金』とどう関わるかというと‥

 【パリスの審判】
 テティスとペレウス(←アキレスの両親)の結婚の宴に唯一招かれなかった「不和の女神『エリス』」は怒って宴に乗り込み「最も美しい女神に与える」と言って名が入れたのが『【黄金】の林檎』。
 「神々の女王『ヘラ』」「知恵の女神『アテナ』」「愛と美の女神『アプロディ―テ(アフロディーテ/ローマ神話ではミネルヴァ)』」の天界における三女神が『【黄金】の林檎』を巡り争った。
 ゼウスは仲裁の為、イリオス(トロイア)王プリアモスの息子パリス(アレクサンドロス)に判定させることとした〔←【パリスの審判】〕。
 パリスは、三美神から買収されたが、「最も美しい女を与える」という条件を出したアプロディ―テを勝利者とした。
 「最も美しい女」とは、スパルタ王メネラオスの妻ヘレネー。
 これがトロイア戦争発端となった。

 【ダナエ】
 ギリシア神話に登場するペロポネソス地方の都市国家アルゴスの王女で、『【黄金】の雨』に変身したゼウスに愛され、半神の英雄ペルセウスを生んだ。
 アルゴス王アクリシオスは美しい娘ダナエを得たが、世継を望み神託を求めた処、「男の孫が生まれるが、その孫に殺される」というものだった。
 王は驚き、娘を青銅の地下室に閉じ込めたが、ゼウスがダナエの美貌に目をつけ、『【黄金】の雨』に変身して関係を持ち、生まれたのがペルセウス。
 王は、ダナエとペルセウス(Perseus)を殺すに忍びないと思い、箱に閉じ込め海へ流した。
 運良く箱はセリ―ポス島に漂着、漁師ディクテュスに救われ平穏な日々を過ごした。
 処が、島の領主でディクテュスの兄、ポリュデクテスがダナエに横恋慕して、邪魔なペルセウスを怪物メドゥ―サ退治に赴かせる。
 ダナエはディクテュスと共に領主ポリュデクテスから逃れ神殿に避難するが、ポリュデクテスはその神殿を包囲。
 その時、メドゥ―サを退治したペルセウス戻って来て、ポリュデクテスを石に変え、2人を救出。
 その後、ダナエは息子Perseusと彼の妻アンドロメダ(Andromeda)と共に故郷アルゴスに帰国した‥という話。

 因みに、Renaissanceに於けるダナエの絵の定型を確立したのはティツィアーノ(Tiziano (1488/90-1576))であると言われる。
 彼は、ダナエを複数(1544年 国立カポディモンテ美術館(Naples))/1553-54年 プラド美術館(Madrid(添付写真[15]))/1553-54年 エルミタージュ美術館(サンクトペテルブルク)/1564年 美術史美術館(Wien))制作している。
 ゼウスが変身した『【黄金】の雨』が年が経つにつれて『雨の滴』から『【黄金】の貨幣』そのものへと変化しているのは現世的で興味深い。
 一方、『ダナエ』で最も有名な作品は、Rembrandt(1606-69)が1636年に制作した作品である。
 Rembrandtは、『【黄金】の雨』ではなく、黄金色に輝いた光線だけで表現している(添付写真[16])。

[12]本展leaflet/左上の写真は『ヴァルナ銅石器時代墓地第43号墓出土石棺と埋葬者及び金の副葬品』紀元前5千年紀
 12leaflet435

[13]Renoir(1841-1919)『パリスの審判(The Judgement of Paris)』1908年(東京:三菱一号館美術館寄託)
 13renoir18411919the_judgement_of_pa

[14]マルカントニオ・バセッティ(Marcantonio Bassetti(1588-1630))『ダナエ(Danae)』1620-30年頃(東京:国立西洋美術館蔵)
 14marcantonio_bassetti15881630danae

[15]【参考】ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio(1488/90-1576))『Danae』1553-54年(マドリード:プラド美術館蔵)
 15tiziano_vecellio1488901576danae15

[16]【参考】レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt van Eijn(1606-69))『Danae』1636年(サンクトペテルブルク:エルミタージュ美術館蔵)
 16rembrandt_van_eijn160669danae1636

【小生comment】
 古代Egypt文明が始まったが、紀元前3000年というから、今から5千年前である。
 Bulgariaのヴァルナの遺跡は、それより遙か1000年も昔である。
 我々は世界の四大文明と習ったが、これからは従前「先史時代」とされていた時代が、「歴史時代」になって、古代文明の始まりがずっと遡るかもしれない。

 絵画鑑賞が趣味である小生、実物の黄金の輝きよりも、名画の方に興味を覚えた。
 展示されていた名画は、いずれも【黄金】に関わる作品である。
 先述した『パリスの審判』や『ダナエ』が何故本展『【黄金】伝説』と関係あるのだろう? と最初は思ったが、改めて主催者の見識の高さに感心した。

■今日最後の話題は、05月19日(木)18時45分から名古屋の愛知県芸術劇場 concert hall にて開催された 佐渡裕(1961.05.13- )指揮トーンキュンストラー管弦楽団(Tonkuenstler Orchestra)演奏会についてである。

《演奏曲目》
1. Franz Joseph Haydn(1732-1809) / Symphony No.6 in D Major "Morning〔朝〕"
2. Ludwig van Beethoven(1770-1827) / Piano Concerto No.1 in C Major Op.14
  Piano; Alice Sara Ott
   (-) Schumann / Romance in F Sharp-Major Op.28-2
3. Johannes Brahms(1833-1897) / Symphony No.4 in F Sharp-Major Op.98
   <1> J. Strauss Ⅱ / Pizzicato Polka
       <2> 同 / 雷鳴と電光

[17]Alice Sara Ott〔アリス=紗良・オット〕
 17alice_sara_ott

【小生comment】
 今日は、前《会報》でお伝えした通り、丁度一週間前の05月19日(木)に続き2週連続同じ佐渡裕指揮トーンキュンストラー管弦楽団の演奏会であった。
 ドイツ人の父と日本人の母を持つアリス=紗良・オット。
 彼女の演奏は、Beethoven30歳の時の作品であるピアノ協奏曲第1番を心底楽しそうに弾いていて聴いている側をいい気分にさせてくれた。
 又、Haydnの交響曲第6番は、交響曲というよりも、divertimentoに近い感じだが、サッパリしてなかなかいい演奏だった。
 締め括りに演奏された J. Brahms の交響曲第4番は、彼が53歳になる年に作曲された作品で、4つの交響曲の中では一番深遠な曲であると思う。
 佐渡裕は、この曲を骨太で且つ切れ味鋭く振り、orchestraも佐渡の指揮と確り互角に渡り合い、聴衆を魅了してくれた。
 小生、Brahmsの交響曲第4番は、recordやCDは何十回も聴いているが、生演奏は実は初めてである。
 矢張り交響曲は生演奏が一番である、と改めて感じた次第。

【後記】さて今日は、昨日の朝日新聞の朝刊に名古屋ボストン美術館が、2019年03月を目処に閉館すると報道されていた。
 実は小生、この名古屋ボストン美術館と同じ建物にある、ホテルにこの美術館が開館した翌年から2年間出向していたことがある。
 だから、思い出ある場所である。
 2年10ヶ月先のことだが、世界一流の大きな「文化の火」が一つ金山の地から消える。
 東京や京都に比べ、文化levelが高いと言えない名古屋‥だから、非常に寂しく残念でならない。

  名(めい)ボ美(び)の 閉館を知る 皐月かな  悟空

[18]名古屋ボストン美術館2019年03月の閉館を伝える新聞記事20160526
 1820190320160526

 ではまた‥。(了)

2016年5月20日 (金)

【時習26回3−7の会0601】〜「松尾芭蕉『笈の小文』第15回【須磨・明石夜泊】」「05月07日:豊田市美術館『Detroit美術館』展を見て」「05月19日:愛知県芸術劇場concert hall/『音楽監督就任記念 日本tour 2016/佐渡裕指揮/トーンキュンストラー管弦楽団(その1)』演奏会を聴いて」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 今日も【時習26回3-7の会 0601】号をお送りします。

■今日最初の話題も、前《会報》に引き続き、松尾芭蕉(1644-94年11月28日)『笈の小文』。
 今回はその第15回【須磨・明石夜泊】をお届けする。
 今回が終わると『笈の小文』も残す処あと1回となった。

《第16回(最終回)》【須磨2】‥《会報》【0602】号
 :貞享05年04月19日(新暦1688年05月18日)に尼崎を出航、兵庫に夜泊
 →・翌04月20日(新暦05月19日)に、【須磨・明石】を廻り、須磨に一泊
 →・芭蕉と杜国は、その後須磨を発って貞享05年04月23日(新暦1688年05月22日)、京都に到着

 それでは、『笈の小文』第15回【須磨・明石夜泊】をお届けする。
《原文》
   須磨(すま)(注1)

  月はあれど 留主(=留守)のやう也(なり) 須磨の夏

  月見ても 物たらはずや 須磨の夏

 卯月中比(なかごろ)の空も朧(おぼろ)に残りて(注2)、はかなきみじか夜(よ)(注3)の月もいとゞ艶(えん)なるに、山はわか葉にくろみかゝりて、ほとゝぎす鳴(なき)出(い)づべきしのゝめ(注4)も、海のかたよりしらみそめたるに、上野(うへの)(注5)とおぼしき所は、麦の穂浪(ほなみ)あからみあひて、漁人(あま)の軒(のき)ちかき芥子(けし)の花のたえゞゝに見渡さる。

  海士(あま)の顔(かほ) 先(まづ)見らるゝや けしの花

《現代語訳》
   須磨

 【意】須磨浦は秋の季節が一番情緒があって良いと「歌枕」にもなっている
    処が、今は初夏、だから‥
    月は出ているけれど、夏の須磨は訪ねた人が留守である様な甲斐のないもどかしい心境だ
 【解説】『真蹟懐紙』では、「月」と「夏」を入れ替えた「夏はあれど 留守のやう也 須磨の夏」とある
    夏に訪れたというむなしさを「留主のやう也」と表したもの
  季語:「夏」‥(夏)

 【意】今は夏‥
    だからだろう、空には月が出ているが、もう一つ物足りない感じがするヨ
    やはり「歌枕」で歌われている通り「須磨は秋が一番」ということだろう
 【解説】この句は、前の句の別案として、あとで一つに絞ろうとした、所謂草稿の儘最終稿になったとも伝わる
    又、この句は、万菊丸(=杜国)が唱和したものを、「万菊」の名前を記載失念したものという説もある
    『笈の小文』には、既出の「布引の滝」「箕面の滝」や「紀三井寺」等、「前書」だけあって、本文or俳句が記載されていない箇所が幾つかある
    『笈の小文』は、芭蕉死後15年後の宝永6(1709)年、大津の門人河井乙州が出版したもので、当然乍ら芭蕉は完成作品を知らない
    だから、作品の完成度としては『奥の細道』に比べると劣る
  季語:「夏」‥(夏)

 卯月(陰暦四月)中頃の空は、春の名残の朧に霞み、儚いい短夜(みじかよ)の夜の月が一入(ひとしお)艶やかに美しく、山の若葉は明方の景色の中に黒ずんで見え、杜鵑(ホトトギス)が鳴き始めそうな夜明けも、海の方角から白み始めて来る頃、須磨寺一帯の上野周辺では、麦の穂波が赤らんで、漁師の軒先近くに咲く芥子の花が途切れ/\に見える。

 【意】早朝の薄明の頃、漁師の家の軒先近くに芥子の花が咲いているのが途切れ/\に見える‥
    すると、その芥子の花の近くに、家から出て来た漁師の顔が見えた
    これも早朝の須磨浦の趣ある一情景であることヨ
 【解説】「漁人(あま)の軒(のき)ちかき芥子(けし)の花のたえだえに見渡さる」を含む本文全体が【前書】の様になってこの句にかかる
  季語:「けし」‥(夏)

《語句/解説》
 (注1)須磨:現・神戸市須磨区/歌枕/04月19日 尼崎より船にて兵庫港に着き一泊、付近の旧関を訪ね20日 須磨に到着
    在原行平(818-893)が文徳天皇(827-858(在位850-58))の御代に「須磨」に配流となり詠んだ歌が‥
   「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に 藻塩たれつつわぶと答へよ
   〔【意】もし偶々私の様子を問う人があれば、須磨の浦で藻塩の水が垂れる様に泣き乍ら侘しく暮らしていると答えておいてくれ〕
    その在原行平を慕った須磨の海人の姉妹「松風と村雨」の話が謡曲『松風』
   『源氏物語』(第12帖)では、光源氏が右大臣の娘・朧月夜との仲が発覚した為「須磨」へ蟄居
    古来、「須磨」は寂しい場所の代名詞とされる
    又、季節では「須磨」と言えば「秋」の寂しさが有名
 (注2)朧に残りて:「春の名残りの朧夜で」という意味
 (注3)みじか夜(よ):夏の夜の短さを表している
 (注4)しののめ:東雲/夜明けの薄明かり→転じて「夜明け」そのものを指す
 (注5)上野:須磨寺付近一帯の高台/歌枕

《原文》
 東須磨・西須磨・浜(はま)須磨と三所(みところ)にわかれて、あながちに何(なに)わざするともみえず。
 「藻塩(もしほ)たれつゝ(注1)」など、歌にもきこえ侍るも、いまはかゝるわざ(注2)するなども見えず。
 きすご(注3)といふうを(=魚)を網(あみ)して(注4)真砂(まさご)の上(うへ)にほしちらしけるを、からすの飛来(とびきた)りてつかみ去(さ)ル。
 是(これ)をにくみて弓をもてを(=お)どすぞ、海士(あま)のわざとも見えず。
 若(もし)、古戦場(こせんぢやう)(注5)の名残(なごり)をとゞめて、かゝる事をなすにやといとゞ罪ふかく、猶(なほ)むかしの戀(=恋)しきまゝに、てつかひ(=い)が峯(注6)にのぼらんとする。
 導きする子のくるしがりて、とかくいひまぎらはすをさまゞゝにすかして、「麓(ふもと)の茶店(ちやみせ)にて物くらはすべき」など云(いひ)て、わりなき躰(てい)(注7)に見えたり。
 かれは十六と云(いひ)けん里の童子(どうじ)(注8)よりは四つばかりもをと/\(=おとうと)(注9)なるべきを、数百(すひやく)丈の先達(せんだつ)(注10)として羊腸(やうちやう)(注11)険阻(けんそ)(注12)の岩根(いわね)(注13)をはひのぼれば、すべり落(おち)ぬべき事あまたゝびなりけるを、つゝじ・根ざゝ(注14)にとりつき、息をきらし、汗をひたして漸(やうやう)雲門(うんもん)(注15)に入(いる)こそ、心もとなき導師(だうし)(注16)のちからなりけらし(注17)。

  須磨のあまの 矢先に鳴(なく)か 郭公(ほととぎす)

  ほとゝぎす 消行(きえゆく)方(かた)や 嶋(しま)一(ひと)つ

  須磨寺(すまでら)(注18)や ふかぬ笛きく 木下(こした)やみ

   明石(あかし)夜泊(やはく)(注20)

  蛸壺(たこつぼ)や はかなき夢を 夏の月

《現代語訳》
 (須磨の地は、)東須磨・西須磨・浜須磨と三箇所に分かれているが、別段何か生業を営んでいる様にも見えない。
 「藻塩たれつつ‥」など昔の歌に詠まれているが、今は塩の製造をしている様みの見えない。
 キスという魚を網で捕って砂の上に広げて干しているのを、烏が飛んで来て奪い去っていく。
 これを憎んで弓で脅すのは漁師のすることとも思えない。
 もしかしたらここは源平の古戦場なので、その名残でこんなことをするのかと、大層罪深く思われる。
 それにしても、昔が恋しく偲ばれるもので、鉄拐が峯に登ることにした。
 道案内の少年が山道が(きついと)嫌がってあれこれ言い訳するのを様々言い宥めて、「麓に降りたら茶店で旨いものを食わせるヨ」などと言うと、其処迄言われると少年も満更でもない様子に見えた。
 源義経の道案内をしたという当時16歳だったという熊王という童子よりは、この少年は四つほど年少の筈だが、数百丈の山道の道案内として、羊の腸の様に曲がりくねった険しい岩の道を這い登って行ったので、滑べり落ちそうな事が何度もあったが、躑躅・根笹に取り付き、息を切らし、汗びっしょりになって、漸くにして頂上に辿り着いたのだが、これもあの心もとない小さなお導師様(=道案内の少年)のお蔭だったのだ。

 【意】魚泥棒の烏を脅すのに須磨の漁師は弓を使う
    その弓につがえた矢の先で聞こえた鳴き声は、哀切極まりない杜鵑(ホトトギス)だろうか
    その杜鵑の哀しみ声を聞くと、昔日の源平戦で果た武士(もののふ)が偲ばれることであるヨ
 【解説】本句は、本文中に出て来る、海辺の砂浜で天日に干たキスを奪い去っていく烏に向かって漁師が弓を射る光景が念頭にある
  季語:「郭公(ホトトギス)」‥(夏)

 【意】杜鵑の声がしてその方を見たが、既にその姿は見えない
    その消え去った方角を見ると、島が一つぽつんと浮かんでいる
 【解説】本句は、「ほととぎす鳴きつる方(かた)をながむれば ただ有明の月ぞ残れる/後徳大寺左大臣(藤原実定(1139-91))/千載集(夏 161)/百人一首81」を踏まえるか?
  季語:「ほとゝぎす」‥(夏)

 【意】平敦盛の故事の伝わる須磨寺‥
    青葉茂る木の下闇に立つと、一ノ谷合戦で最期を遂げた平敦盛が偲ばれる
    敦盛愛用の笛は「青葉の笛」という
    誰も吹いている筈もないのに何処からか笛の音が聞こえて来る様に思われる
 【解説】「木下(こした)やみ」とは、緑濃く茂り仄暗い樹下の様子を表した語
  季語:「木下やみ」‥(夏)

   明石に夜泊まって

 【意】天空では、夏の短夜の月が淡い光を放っている
    一方、海底には蛸壺が沈めてあり、その中で蛸は明朝迄の命とも知らず眠りを貪っている
    それもこれも、淡く儚い夢の様な夏の夜の出来事である
 【解説】蛸壺:昼に海に沈め、夜間寝床と間違えて入ったタコを翌朝引き上げる漁法に使用/蛸(タコ)は播磨の名産
  季語:「夏の月」‥(夏)

《語句/解説》
 (注1)藻塩たれつゝ:前掲「須磨」(注1)参照 
 (注2)かゝるわざ:塩を製造すること/海藻に塩水をかけて燃やし、できた灰を蒸留して塩を生成した
    「来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ」(藤原定家)
 (注3)きすご:鱚(キス)
 (注4)網して:網で捕って
 (注5)古戦場:源平合戦「一ノ谷の古戦場」
 (注6)てつかひが峯:鉄拐が峯←「一ノ谷」の北方にある山
 (注7)わりなき躰(てい):其処迄言われて断りづらい様子
 (注8)十六と云(いひ)けん里の童子(どうじ):
 (注9)をと/\(おとうと):
 (注10)先達(せんだつ):
 (注11)羊腸(やうちやう):「羊腸」は曲がりくねっていること
 (注12)険阻:険しい
 (注13)岩根…岩道
 (注14)根ざゝ(ねざさ):根笹/山野に自生する丈の低い笹
 (注15)雲門:雲が出入りする門→転じて「高い山」
 (注16)導士:本来、正道を説き衆生を導く仏・菩薩/「先達」同様、道案内の少年のことを誇張して表現したもの
 (注17)けらし:「けり」に同じく「詠嘆」の意に用いる/「侍る」同様、芭蕉が好んで使った語
 (注18)須磨寺:真言宗上野山福祥寺〔神戸市須磨区須磨寺町〕の通称/「敦盛の笛〔青葉の笛〕」はこの寺の什宝/謡曲『敦盛』
 (注20)明石夜泊:この前書きは張継「楓橋夜泊(ふうきょうやはく)」等の類型に擬したもの

   楓橋夜泊  張継(?-?/天寶12(753)年の進士)
 月落烏啼霜満天 月落ち烏(カラス)啼いて 霜 天に満つ
 江楓漁火対愁眠 江楓(こうふう)漁火(ぎょか) 愁眠(しゅうみん)に対す
 姑蘇城外寒山寺 姑蘇城外の寒山寺
 夜半鐘声到客船 夜半の鐘声(しょうせい)客船(かくせん)に到る

【意】月が沈み、烏が啼き、霜の気が天に満ちわたる
   河岸の楓と漁火(いさりび)が、旅愁の為に眠られない私の目に入って来る
   すると、蘇州郊外の寒山寺なのだろう
   夜半を告げる寺の鐘が、私が乗っている舟迄聞こえて来た

【小生comment】
 張継「楓橋夜泊」の時節は、「霜満天」にある様に、晩秋から初冬にかけてだから、『笈の小文』の晩春から初夏にかけてに季節とは趣がかなり異なる
 が、「旅愁の儚さ」という観点から、芭蕉は「明石夜泊」という言葉を用いたのであろう

■今日続いての話題は、豊田市美術館『デトロイト美術館~大西洋を渡ったヨーロッパの名画たち~』展についてである。
 もう半月前になるが、05月07日に私用で車で名古屋へ行った際、豊田市美術館と名都美術館の企画展を見て来た。
 名都美術館『日本美術と高島屋〔=後期〕』展については、次号《会報》にてご紹介する予定である。

 デトロイト美術館(Detroit Institute of Arts Exhibition)は1885年の創立。
 爾来、古代Egyptから現代美術迄、約65,000点のcollectionsがある。
 2013年デトロイト市は財政破綻を機に、当美術館も存続の危機に瀕したが、国内外の資金援助等で乗り切った。
 当美術館は、米国で初めてGoghやMatisseの作品を購入した美術館として知られている全米屈指の美術館。
 本展は、「印象派」「Post印象派」「20世紀ドイツ絵画」「20世紀France絵画」の四章に分け、31人の著名画家の作品を52点紹介している。
 其処で、今回はその中から選りすぐりの15人の画家に拠る傑作17点(本展leafletの「Gogh『自画像』1887年」を含む)をご覧に入れる。
 デトロイト市と言えば、日本でいう豊田市と同じ様に自動車都市。
 今回の日本開催も、デトロイト市と豊田市が姉妹都市を提携している関係から、豊田市美術館が先ず最初の開催となる。
 この後、大阪市立美術館→上野の森美術館で巡回開催が予定されている。
 では、ジックリとご覧下さい。

[01]豊田市美術館外観〔正面〕
 01

[02]本展leaflet[表]/絵はVincent Willem van Gogh『自画像』1887年
 02leafletvincent_willem_van_gogh188

 本作は米国の公的な美術館に収められた最初のGogh作品

[03]同上[裏]
 03

[04]Edgar Degas(1834-1917)『女性の肖像』1877年
 04edgar_degas183419171877

[05]Pierre Auguste Renoir(1841-1919)『肘掛椅子の女性』1874年
 05pierre_auguste_renoir184119191874

[06]Paul Cézanne(1839-1906)『画家の夫人』1886年
 06paul_czanne183919061886

 Cézanneは、1869年にmodelのマリー・オルタンス・フィケと出会い、1872年息子のポールが生まれる
 が、正式に結婚したのは1886年で、本作が丁度その時のものと推定されている

[07]Vincent Willem van Gogh(1853-90)『オワ―ズ川の岸辺、オーヴェールにて』1890年
 07vincent_willem_van_gogh1853901890

 Cézanneが第1回印象派展に出品した『首吊りの家』(1873年)も此の地風景を描いたもの
 オーヴェール=シュル=オワーズは、Parisの北西約30kmにあり、Paris市民がよく休日に訪れた
 印象派の画家たちも、Cézanne、Pissarro、Renoir、Sisley、Morisot等がよく訪れた
 Goghも、アルルでのGauguinとの共同生活が破綻し耳切り事件を起こした後、1890年05月21日 此の地に遣って来た
 そして、本作を作成した後の同年07月29日、同地にて死去(享年37歳)

[08]Maurice Denis(1870-1943)『トゥールーズ速報』1892年
 08maurice_denis187019431892

[09]Wassily Kandinsky(1866-1944)『白いフォルムのある習作』1913年
 09wassily_kandinsky186619441913

 「抽象絵画の創始者」と称されるKandinskyが、1910年から4年間、Bayernの小村ムルナウで「composition」seriesをはじめとする抽象画を研究
 本作は、丁度その頃の作品

[10]Emil Nolde(1866-1956)『ヒマワリ』1932年
 10emil_nolde186619561932

 本名はエミール・ハンセン(Emil Hansen)
 古参のナチ党員で、同党のゲッペルス宣伝相のお気に入りの画家であったが、ヒトラーから作風が頽廃的と非難され、画業も禁止された

[11]Ernst Ludwig Kirchner(1880-1938)『月下の冬景色』1919年
 11ernst_ludwig_kirchner188019381919

 Kirchnerは、1937年 Nazis主催の『頽廃芸術』展が開催された際、彼の作品32点が展示されたことにshockを受け、翌1938年06月15日 pistol自殺した

[12]Max Beckmann(1884-1950)『倒れた蠟燭のある静物』1929年
 12max_beckmann188419501929

 1903年からWeimarの美術Academyで学びBerlinへ「Berlin分離派」を代表する画家となる
 ドイツ表現主義、新即物主義の画家
 Nazisから頽廃芸術家と看做され弾圧され、Frankfurt美術研究所教授の職も奪われる
 第二次世界大戦後は、渡米し1950年New Yorkで死去

[13]Oskar Kokoschka(1886-1980)『エルベ川、ドレスデン近郊』1921年頃
 13oskar_kokoschka188619801921

 Wienでグスタフ・クリムト(Gustav Klimt(1862-1918))やエゴン・シ―レ(Egon Schiele(1890-1918))などWien分離派の影響を受けるが、次第に表現主義描写に傾倒
 代表作『風の花嫁』(1914年)(添付写真[13c])が、1937年『頽廃芸術』展に出品されたことに怒り、逆に対抗して『ある「頽廃芸術家」の肖像』を発表
 第二次世界大戦中はLondonに亡命し、戦後はSwissに定住、1980年同国モントル―にて死去

[13a]Oskar Kokoschka(1886-1980)
 13aoskar_kokoschka18861980_2

[13b]Alma Mahler-Werfel(1879-1964)
 13balma_mahlerwerfel18791964_2

[13c]Oskar Kokoschka『風の花嫁』1914年(Basel市立美術館(=Basler Kunstmuseum))
 13coskar_kokoschka1914baselbasler_k

[13d]Gustav Mahler(1860-1911)
 13dgustav_mahler18601911

[14]Henri Matisse(1869-1954)『窓』1916年
 14henri_matisse186919541916

 本作は、1922年Detroit美術館が購入
 米国の公共美術館のcollectionに入った最初のMatisseの絵画

[15]同『ケシの花』1919年頃
 151919

 『ケシの花―花火』という題名でも呼ばれた、色彩豊かな華やいだ感じの絵
 日本の洋画家 梅原龍三郎(1888-1986)や中川一政(1893-1991)の『薔薇』を想起させる

[16]Pablo Picasso(1881-1973)『肘掛椅子の女性』1923年
 16pablo_picasso188119731923_2

 Picassoは1918年にRussia出身でBallet・リュスのdancerだったオルガ・コクローヴァと結婚
 1921年には初めての息子ポールが生まれ、安定した生活環境を得たPicassoは、作風も古代・renaissanceに近い「古典主義」様式の時代となった
 本作のmodelは、米国人画家ジェラルド・マーフィーの妻、セ―ラ・マーフィー(1883-1975)

[17]同『読書する女性』1938年【本邦初公開】
 171938

 Modelは、当時Picassoの恋人で、知的で自立したsurrealistの写真家・画家のドラ・マール(1907-1997)
 本作は【日本初公開】

[18]ファン・グリス(Juan Gris(1887-1927))『静物』1916年
 18juan_gris188719271916

 CubismeでPicassoとGeorges Braque(1882-1963)に続く第3目の画家と言われる
 PicassoやBraqueの作品より色彩も鮮やかで構図もスッキリしている、言わば「smartなcubist」である

[19]Amedeo Modigliani(1884-1920)『男の肖像』1916年
 19amedeo_modigliani188419201916

 Modiglianiは、1906年に画家を目指してParisに出て来たが、1909~14年はコンスタンティン・ブランクーシ(1876-1957)のもとで彫刻家を目指す
 そして再び絵画制作に戻り、1915年から亡くなる1920年の足掛け6年間に、我々が知る作品の殆どが描かれている

[20]Chaim Soutine(1894-1943)『赤いgladiolus』1919年頃
 20chaim_soutine18941943gladiolus191

 シャイム・スーティン(Chaim Soutine)は、Russia(現・Belarus(ベラルーシ))のミンスク近郊のスミロヴィチの貧しいユダヤ人の家に生まれた
 1910~13年 リトアニア(Lithuania)のヴィリニュス(Vilnius)にある美術学校で学ぶ
 1913年にParisに出て来て、集合atelier兼借家「ラ・リュッシュ(蜂の巣)」で、シャガール(Marc Chagall(1887-1985))やフェルナン・レジェ(Fernand Leger(1881-1955))等と集団生活する
 なかでもModiglianiは絵が売れず苦しんでいたSoutineの絵を画商に紹介し買わせる等よく面倒みたという
 本作品は、激しい筆遣いで赤いgladiolusが観る者に強く訴え掛けて来る

【小生comment】
 流石に往年の自動車王国の街Detroitの美術館である。
 Collectionのlevelが極めて高く、見る者を捉えて離さない。
 印象派の絵画もいいが、今回は、Nolde、Kirchner、Kokoschka、Soutine等の絵に圧倒された。

■今日最後の話題は、05月19日(木)18時45分から名古屋の愛知県芸術劇場 concert hall にて開催された 佐渡裕(1961.05.13- )指揮トーンキュンストラー管弦楽団(Tonkuenstler Orchestra)演奏会についてである。

[21]本演奏会leaflet[表]
 21leaflet

[22]同上[裏]
 22

[23]Ray Chen
 23ray_chen

《演奏曲目》
1. Beethoven(1770-1827) / Violin Concerto in D Major Op.61
Violin solo Ray Chen(レイ・チェン)
   J. S. Bach(1685-1750) / Partitas for unaccompanied violin No.2 in d minor BWV1004 ~ 3.Sarabande
2. Richard Strauss(1864-1949) / Symphonic Poem hero of a lifetime "Ein Heldenleben(英雄の生涯)" Op.40
   <1> J. StraussⅡ(1825-99) / Pizzicato Polka (ピチカート・ポルカ)
       <2> Richard Strauss / Rosenkavalier(薔薇の騎士) ~ Waltz
 Violinistの Ray Chen(1989.03.06- ) は、1989年台湾に生まれ、豪州にて育つ
 15歳でカーティス音楽院に入学
 2008年メニューイン・ヴァイオリン・コンクール優勝
 2009年エリザベート王妃国際コンクールに史上最年少優勝
 現在、将来を期待される世界的violinistの俊英である
 
 又、トーンキュンストラー管弦楽団(Tonkuenstler Orchestra)は、ウィーン(Wien)及びニーダーエースターライヒ(Niederösterreich)州の州都ザンクト・ペルテンを活動拠点とするOrchestra
 2015年以来、佐渡裕が首席指揮者を務める

【小生comment】
 感動的な演奏会だった。
 台湾出身のviolinistであるRay Chenは現在27歳(添付写真[23]参照)。
 凛々しくdandyな好青年である。
 BeethovenのViolin Concertoは、勿論著名な曲だが、MendelssohnやBrahms、Tchaikovskyの同曲と比べればずっと地味な感じがする。
 Chenの演奏を聞いて感心したのだが、音色が透き通る様に綺麗であって決して線も細くない。
 途中に出て来た、カデンツァ(cadenza=演奏者による即興演奏)を聞いて、J. S. Bachの無伴奏Violin Sonata や Partita を連想した。
 Beethoven 自身はcadenzaを作曲していないので、後年の名violinistが作曲したものだろうが、誰が作曲したcadenzaか今も解らず仕舞いでいる。
 ニ曲目の Richard Straussの"Ein Heldenleben(英雄の生涯)"は、小生Richard Straussの全作品の中で最も好きな曲である。
 この曲は以下の様に6つ部分に別れるが、切れ目なく演奏される。
 佐渡裕の指揮は大変迫力があって、Orchestraも high levelの演奏だった為、演奏時間47分間があっと言う間に過ぎた。
 
  1.英雄(The Hero)
  2.英雄の敵(The Hero's Adversaries)
  3.英雄の伴侶(The Hero's Companion)
  4.英雄の戦場(The Hero at Battle)
  5.英雄の業績(The Hero's Works of Peace)
  6.英雄の隠遁と完成(The Hero's Retirement from the World and Consummation)

 佐渡裕& Tonkuenstler Orchestra 日本公演は、05月13日~29日にProgramA 8回+ProgramB 6回=計14回、全国の13会場で演奏される。
 即ち、唯一愛知県芸術劇場concert hallは、二週間連続でProgramAとProgramBが演奏されるのである(‥因みに今回はProgramB‥)。
 一週間後の05月26日(木)も同じ場所・同じ時間に、今度はProgramAが演奏されるので、今から楽しみだ。

【後記】さて今日は、こぼれ話を2つお伝えしてお別れします。
 先ず一つ目は、一昨日の朝日新聞に「UNESCO(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産に、東京・上野の国立西洋美術館など、「近代建築の父」といわれるFranceの建築家 ル・コルビュジエ((1887-1965)本名:シャルル・エドゥアール・ジャンヌレ)の世界各国にある建築作品が、登録される見通しとなった/事前審査する諮問機関が「登録」を勧告した為で、07月10日からトルコで開かれる世界遺産委員会で最終的に決まるが、登録はほぼ確実とみられる」と報道されていた。
 国立西洋美術館は、ル・コルビュジエが来日して設計した国内唯一の建物。
 明治政府元勲松方正義(1834-1924)の三男で実業家(川崎造船所社長)の松方幸次郎(1866-1950)が、第一次世界大戦中から蒐集した絵画のうちFrance国内に保管され、第二次世界大戦後France政府に接収されていたcollection 400点余りの中の370点が、San Francisco講和会議で「美術館を建設して展示する」条件付で返還が決まり、ル・コルビュジエの設計により国立西洋美術館として1959年竣工。
 2016.10.05付《会報》【0467】http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/26-046709222009.html

[24]UNESCOの世界遺産になる見通しとなった「国立西洋美術館」の記事
 24unesco

 こぼれ話の二つ目は、05月07日 豊田市美術館を訪れた時、駐車場から美術館へ至る途中にある七州(しちしゅう)城・復興隅櫓についてである。
 七州城は、江戸時代 天明元(1782)年に挙母(ころも)藩主 内藤政苗(まさみつ(1741-1802))が築城。
 因みに、「三河」「尾張」「美濃」「信濃」「遠江」「伊勢」「近江」の七カ国が見える高台にあることから「七州城」と言った。
 写真の復興隅櫓は昭和53年建設。
 挙母藩の歴史について簡単に記すと、1604年 三宅康貞が1万石で入封。
 その後、幕府領、本多家時代を経て内藤政苗以降、内藤家が幕末迄挙母藩2万石の藩主を務めた。
 因みに、三宅家は、1664年以降、三河田原藩1万2千石の藩主として幕末に至る。

[25]七州城・復興隅櫓
 25

 ではまた‥。(了)

2016年5月13日 (金)

【時習26回3−7の会0600】〜「松尾芭蕉『笈の小文』第14回【大和路】」「05月01日:平野美術館『野島青茲』展を見て」「05月10日:愛知県芸術劇場concert hall/『Garrick Ohlsson Piano Recital』を聴いて」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 今日も【時習26回3-7の会 0600】号をお送りします。

■今日最初の話題も、前《会報》に引き続き、松尾芭蕉(1644-94年11月28日)『笈の小文』。
 今日はその第14回【大和路】をお届けする。
 以下お届けする予定を記すが、時が経つのは早いもので『笈の小文』も残す処あと2回となった。
 『笈の小文』の旅を終わってからの、即ち《第16回(最終回)》【須磨2】以降の芭蕉の足跡を一寸紹介してみよう‥

[00]「笈の小文」足跡図
 00

《第15回》【須磨・明石夜泊】‥《会報》【0601】号
 :貞享05(=元禄元)年04月13日(新暦1688年05月12日)
 【大和路】の最後の段で、大坂に到着後のことが記され、大坂の八軒屋久左衛門宅に滞在、とある
《第16回(最終回)》【須磨2】‥《会報》【0602】号
 :貞享05年04月19日(新暦1688年05月18日)に尼崎を出航、兵庫に夜泊
 →・翌04月20日(新暦05月19日)に、【須磨・明石】を廻り、須磨に一泊
 →・芭蕉と杜国は、その後須磨を発って貞享05年04月23日(新暦1688年05月22日)、京都に到着

 ※『笈の小文』以降‥
 →・05月上旬:此の頃迄京都に滞在
 →・06月05日:大津の奇香亭での歌仙興行に出席
 →・06月06日:大津発
 →・06月08日:岐阜着/己百亭に滞在〔滞在中に長良川に鵜飼を見物〕
 →・07月上旬:名古屋着
 →・07月07日:鳴海の知立亭着〔07月13日迄滞在〕
 →・07月14日~08月上旬:名古屋滞在〔滞在中に、熱田・桐葉亭に〕
【更科紀行】〔貞享05(1688)年08月〕
 →・08月11日:越人を供に美濃発〔更科の月見に赴く〕
 →・08月15日:更科着〔姨捨(をばすて)山の名月を眺める〕
 →・08月16日:坂城泊〔善光寺に参拝→浅間山麓を経て江戸へ〕
 →・08月下旬:江戸帰着
【奥の細道】〔元禄02(1689)年3月27日~09月06日〕
 以後、【猿蓑】【嵯峨日記】も刊行されるが、元禄07(1694)年10月12日(11月28日)大坂にて逝去
 遺骸は、淀川を遡り14日、近江国膳所にある義仲寺に埋葬された

 それでは、『笈の小文』第14回【大和路】をお届けする。
《原文》
   衣更(ころもがへ)

  一(ひと)つぬひ(=い)で後(うしろ)に負(おひ)ぬ衣(ころも)がへ

  吉野出(いで)て布子(ぬのこ)(注2)賣(=売)りたし衣がへ 万菊

   灌仏(くわんぶつ)(注3)の日は奈良にて爰(ここ)かしこ詣(まうで)侍るに、鹿(しか)の子を産(うむ)を見て、此(この)日におゐ(=い)てお(=を)かしければ、

  灌仏の日に生(うま)れあふ鹿(か)の子(こ)哉(かな)

《現代語訳》
   衣更の日に‥

 【意】「衣更(ころもがへ)」と言っても、旅先なので「一枚脱いで背負うだけ」だヨ
 【解説】陰暦四月一日が「衣更」の日
    この日は、冬着の綿入れを脱ぎ「袷(あわせ)(注)」に着替えるのが当時の「衣更」の風習だった
    しかし旅先である為あらためるべき衣もなく「綿入れを一つ脱ひでそれを背負う」だけの「衣更」だという趣を詠んだ句
    「一つ脱てせなに負(おひ)けり衣がへ〔芭蕉庵小文庫〕」が初案とも‥
    (注)袷:表裏を合わせて作った衣服/裏地付の着物/近世には陰暦04月01日~05月04日迄、09月01日~08日迄着る習慣があった
  季語:「衣更」‥(夏)

 【意】花の吉野山から下山すると、麓はすっかり初夏の陽気である
    「衣更」だから、冬着の布子(ぬのこ)を脱いで売り払って仕舞いたいヨ 〔万菊丸〕
 【解説】本句は、杜国が唱和した『乾坤無住、同行二人』『初瀬』『高野』に続く4番目の句
    芭蕉の杜国への細やかな心遣いがうかがわれる
  季語:「衣更」‥(夏)

   灌仏の日は、奈良に居て、彼方此方の寺院を参詣した処、偶々鹿が子を産むのを見て、今日の釈迦生誕日に子を産むとは面白いことだったので、

 【意】釈迦生誕の灌仏の日に生まれるとは、(古都奈良に相応しい)実に目出度い鹿の子であることだ
  季語:「鹿の子」‥(夏)

《語句/解説》
 (注1)衣更:陰暦4月1日
 (注2)布子:木綿の綿入れ/杜国は布子を実際に売り払ったことが、貞享05年04月25日付の「惣七(猿雖)(注)宛の芭蕉書簡に記されている
    (注)惣七:服部土芳に次ぐ伊賀上野の門人窪田惣七郎(1640-1704)(俳号:猿雖(えんすい)/法名:意専/通称:惣七)
 (注3)灌仏:陰暦四月八日釈迦の誕生日

《原文》
 招提寺(せうだいじ)(注1)鑑真和尚(がんじんわじやう)(注2)来朝(らいてう)の時、船中(せんちゆう)七十余度の難(なん)をしのぎたまひ、御目(おんめ)のうち塩風(しほかぜ)吹入(ふきいり)て、終(つひ)に御目(おんめ)盲(しひ)させ給ふ尊像(そんざう)を拝して、

  若葉して御(おん)めの雫(しづく)ぬぐはゞや

《現代語訳》
 唐招提寺を開山された鑑真和尚は日本へ渡来される際、船旅で七十余回の難儀を凌がれ、目に潮風が吹き入り、終には失明された、その尊像を拝し、

 【意】今若葉が萌えたつ美しい季節である
    この清々しい若葉で、鑑真和尚(=尊像)の御目の涙の雫をお拭(ぬぐ)い差し上げたい
 【解説】「若葉して」は、「若葉で以て」と「周辺は萌えたつ若葉の樹々で」の両方の意味を兼ねている
    又、『笈日記』では、上五を「青葉して」とある
  季語:「若葉」‥(春)

《語句/解説》
 (注1)招提寺:奈良市西の京にある「唐招提寺」/律宗の総本山
    鑑真が開山/開山堂に尊像(=【国宝】鑑真和上像)が安置される
    天平宝字03(759)年 天武天皇第10皇子 新田部(にいたべ)親王(?-735)の旧邸宅跡を与えられ創建
 (注2)鑑真和尚(688-763):唐 楊州紅陽県出身/日本人留学僧、栄叡・普照の招聘に応え来朝
    難破等の度重なる艱難辛苦の末11年後の天平勝宝05(753)年12月屋久島に上陸→同月 大宰府に立ち寄る
    同06(754)年02月 平城京到着/同年04月 東大寺大仏殿に戒壇を築き菩薩戒〔=日本初の登壇受戒〕を授けた

《原文》
   旧友(注1)に奈良にてわかる。

  鹿の角(つの)先(まづ)一節(ひとふし)のわかれかな

   大坂にてある人(注2)のもとにて、

  杜若(かきつばた)(注3)語るも旅のひとつ哉(かな)

《現代語訳》
   旧友に奈良で別れる。

 【意】毎年鹿の角は晩春の頃生え替る
    そして新しい角は節目毎に枝別れするが、その様に貴方とも此処でお別れだ
 【解説】鹿の角は毎年生え変わる/春に落ちた後、角座から新しい角が生える
     この角は皮膚に包まれた柔らかい角/形が袋に似ていることからこの名がついた
  季語:「鹿の角=鹿の袋角(ふくろづの)」‥(夏)

   大坂にてある人のもとにて、

 【意】美しい杜若の花を前に、こうして『伊勢物語/東下り・三河』の段の話をしたりすることこそ、旅の醍醐味だ
  季語:「杜若」‥(夏)

《語句/解説》
 (注1)旧友:元禄元年四月廿五日付「猿雖宛」と同日付「卓袋宛」の芭蕉書簡に「猿雖・卓袋・梅軒」等と奈良で再会していることが記されている
 (注2)大坂にてある人:04月13日~19日迄大坂に滞在
    服部土芳『芭蕉句集』に「此句は、万菊を供して難波の一笑が本に旅ねの時也。一笑はいがにて紙や弥右衛門と云る旧友也」とある
    一笑は、伊賀上野の俳人保川一笑のことか?
 (注3)杜若:『伊勢物語』「東下り・三河」の‥
   「から衣 きつゝなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ」を踏まえた句

【伊勢物語】『東下り・三河』
《原文》
 昔、男ありけり。
 その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。
 もとより友とする人、ひとりふたりして、いきけり。
 道知れる人もなくて惑ひ行きけり。
 三河の国、八橋といふ所にいたりぬ。
 そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋といひける。
 その沢のほとりの木の陰に下り居て、餉(かれいひ)食ひけり。
 その沢に、かきつばたいとおもしろく咲きたり。
 それを見て、ある人のいはく、
 「【か】【き】【つ】【ば】【た】といふ五文字を、句の上に据ゑて、旅の心をよめ」
 といひければよめる。

  【か】ら衣(ごろも)(注4)
 着(【き】)つつなれにし(注5)
   【つ】ましあれば
    【は】るばるきぬる
旅(【た】び)をしぞ思ふ

 とよめりければ、みな人、餉の上に涙落として、ほとびにけり。

《現代語訳》
 昔、男がいた。
 その男は、自分を(京では)必要のない者と思い込み、もう京にはおるまい、東の方で住むべき国を探そうと思い出かけて行った。
 以前から友達の一人二人と一緒に行った。
 (彼等は東国への)道を知っている者はいないので、迷い乍ら(の旅)であった。
 (程なく)三河国の八橋という所に着いた。
 其処が「八橋」と言うのは、流れる川の水が蜘蛛の足の様に分かれ、川に8つの橋を渡している処から「八橋」と言ったのである。
 (彼等は)その沢の畔の木の陰に(馬から)降りて座り、乾飯(=乾した米飯)を食べた。
 その沢に杜若(カキツバタ)が綺麗に咲いていた。
 それを見た彼等の中の一人が、
 「かきつばたという5文字を和歌の(5・7・5・7・7の)各句の頭文字に使って旅の気持ちを詠んでみよ」
 と言ったので、歌を詠んだ。

  唐衣(注)に慣れ親しんだ妻を(京に残した儘)遥々来て仕舞った旅の侘しさを沁み/\と感じることだ

 と詠んだので、皆乾飯に涙を溢して、(乾飯が)ふやけて仕舞ったのだった。

 (注4)唐衣:十二単の一番上に着る丈の短い衣
 (注5)「なれにし」:①衣:「着馴れた」/②妻:「慣れ親しんだ」の両方にかかる

【小生comment】
 松尾芭蕉は、正に『漂泊の俳人』だ。
 【奥の細道】に「片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」といみじくも述べているが、この【笈の小文】も大旅行である。
 旅行の期間は、貞享04(1688)年10月25日に江戸を発ち、貞享05(=元禄元)年04月23日迄の半年に亘る。
 更に、杜国との二人旅になるのは、03月19日~04月23日の一ヶ月強である。
 その行程は以下の通りであり、江戸から京都迄、半年間で楽に一千キロは超える。
 「鳴海/知立/名古屋/鳴海」→「渥美半島の保美」→「熱田/名古屋」→「伊賀上野」→「伊勢神宮」→「伊賀上野」→〔以後、杜国と二人旅〕‥「初瀬〔長谷寺〕」→「三輪・多武峯・龍門・西河」→「吉野山・苔清水」→「高野(山)」→「和歌(浦)・紀三井寺」→「奈良・唐招提寺」→「大坂」→「尼崎」→「兵庫」→「須磨」→「明石」→【笈の小文】は此処迄/→「須磨」→「箕面」→「能因塚」→「京都」
 現代の様に交通機関が発達していなかった江戸時代に、これだけの大旅行を続ける松尾芭蕉という人物は矢張り凄い人である。(笑)

■今日続いての話題は、05月01日に訪れた2つの美術館の2つ目企画展、平野美術館『浜松が生んだ日本画の巨匠/生誕100周年/野島青茲』展についてである。

【平野美術館『浜松が生んだ日本画の巨匠/生誕100周年/野島青茲』展】
 本展が催されたのは、企画展の副題にある通りである。
 野島青茲の略歴を以下に記す。

《略歴》
 1915(大正04)年 静岡県引佐郡気賀町(現・浜松市帰宅細江町気賀)に生まれる/本名清一/生家は旅館業を営む
 1928(昭和03)年 気賀町立尋常小学校卒業後上京、東京府立第四中学校(現・都立戸山高等学校)入学
 1930(昭和05)年 休暇帰省の折、日本画家、高瀬五畝(1890-1961)に会う/以後、東京でも毎週高瀬宅に通う/その後美校教授 松岡映丘に入門
 1933(昭和08)年 04月 東京美術学校日本画科入学/引続き、松岡映丘に師事〔当時、美校の日本画科教授は、川合玉堂、結城素明、平福百穂と松岡映丘〕
 1936(昭和11)年 10月 文展に「田の草取り」初入選
 1938(昭和13)年 03月 師の松岡映丘逝去(享年56歳)/同月 東京美術学校日本画科卒業
 1940(昭和15)年 髙山辰雄(1912-2007)らと一采社を結成
 1942(昭和17)年 中村岳陵(1890-1969)に師事
 1944(昭和19)年~49(24)年 法隆寺金堂壁画模写事業(中村岳陵班)に従事
 1965(昭和40)年 11月 第08回新日展にて「母子像」が文部大臣賞受賞
 1967(昭和42)~68(43) 同再現事業(橋本明治班)に従事
 1971(昭和46)年 01月27日 東京中野区の自宅にて逝去(享年55歳)
 
[01]平野美術館入口
 01

[02]同美術館入口付近の本展案内看板/写真の絵は『舞』1970年‥modelは「武原はん」
 021970model

[03]野島青茲『炎』1970年
 031970

[04]同『夏草』制作年不詳
 04

[05]同『夏蜜柑』制作年不詳
 05

[06]同『寓話(イソップ物語)』1955年
 061955

[07]同『網』1963年
 071963

[08]同『農村風景』1941年
 081941

[09]同『初夏』1970年
 091970

【小生comment】
 野島と共に東京美術学校で松岡映丘門下生で、一緒に一采社を結成した仲間でありニ級先輩に当たる髙山辰雄は、「野島青茲君の思い出」で次の様に語っている。

 美術学校では私よりニ級下であったが、絵も人間も優秀であった事を思う
 その動きも仕事も何か美しいものを感じられるのであった〔中略〕美校時代から目立った存在であった
 後に松岡先生の研究会で親しくなったのである
 山本丘人、杉山寧、浦田正夫、岡田昇、阿部貞夫の諸先輩によって、研究会、又、展覧会で会う機会は多くなった
 又その後、一采社を結成して二十年間共に過ごしたのである〔中略〕
 野島君はただ絵だけでなく、古典にもくわしかった 演劇等にも通じていた ともかく知的でもあった〔中略〕
 表現力のあった野島君は次々と作品発表をつづけていった〔中略〕
 作品をあげればきりがない いつも会場で一きわ目を魅いたものだった
 視野は広く、現代、古典、傳統があった
 迫力ある表現で「麗衣」「群舞」「長鼓」等々、又「武原はん」は印象に強いものであった
 あげればきりもない作品を残してくれたのであった〔後略〕

 ※ ※ ※ ※ ※

 今日ご紹介した絵に留まらず、過去に山種美術館で見た『麗衣』1962年や、先日の浜松美術館で見た『舞子(夏姿)』1970年(下欄参照)などを見ている。
 上記髙山辰雄の「野島青茲君の思い出」に出て来る「麗衣」が、山種美術館所蔵『麗衣』(添付写真[10])である。
 ご覧の様に野島青茲の絵は実に素晴らしい。
 大変色遣いが美しく気品があって良い。
 技量もかなり高いものを持っていると直観した。

[10]野島青茲『麗衣』1962年《会報》【0327】2011年01月28日:山種美術館http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/26-032701280114.html
 101962

[11]同『舞子(夏姿)』1970年《会報》【0591】2016年03月05日:浜松市美術館http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/26-05910305sa-0.html
 111970

■今日最後の話題は、05月11日(火)に仕事を終え18時45分から名古屋の愛知県芸術劇場 concert hall にて開催された ギャリック・オールソン(Garrick Ohlsson) Piano Recital についてである。

[12]本演奏会leaflet
 12leaflet

《演奏曲目》
1. Beethoven / Piano Sonata No.31 in A flat-Major Op.110 2. Chopin / Scherzo No.4 in E Major Op.54
       Etudes Op.25 / No.5 in e minor & No.6 in G sharp-minor
       Nocturne in c minor Op.48-1
       Ballade No.1 in g minor Op.23
3. Mussorgsky / Pictures at an Exhibition 全曲

1. Chopin / Waltz No.7 in c-sharp minor Op. 64-2
2. Chopin / Etude Op.10-12『革命のエチュード』

【小生comment】
 古典派の大家 Beethoven のPiano Sonata No.31 は全32曲の最後から二番目の曲で、古典派の次のロマン派の時代の息吹を感じさせてくれる。
 又、Chopin の小品曲集では、最後に演奏された Ballade No.1 が高い技量と迫力があって素晴らしかった。
 更に又、最後の Mussorgsky の展覧会の絵も圧巻で、骨太の演奏で迫力満点であった。
 因みに、Garrick Ohlsson の Piano Recital は2012年05月15日以来、丁度4年振りだった。
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/26-039405130515.html ←此処をclickして下さい

【後記】去る05月05日、作曲家でsynthesizer奏者の冨田勲(とみた いさお(1932.04.22-2016.05.05)が亡くなった。享年84歳。
 氏は、東京生まれだが、小中学校時代は父親の実家である岡崎市本宿町に住み、高校は岡崎高校に進学、途中、慶應高校→慶應義塾大学文学部へと進んだ。
 大学では文学部美学美術史専攻。
 一方、『鯉のぼり』『浜千鳥』『叱られて』の作曲で知られる弘田龍太郎(1892-1952)に師事、音楽理論を学ぶ。
 大学2年次在学中に、朝日新聞社主催の全日本合唱連盟コンクール課題曲に応募し合唱曲『風車(ふうしゃ)』1位。
 爾来、作曲家への道を進み、NHKの番組のtheme音楽を数多く手掛けた。
 『新日本紀行』『きょうの料理』は特に有名。
 『新日本紀行』https://www.youtube.com/watch?v=YoMRp3P8d_g ←此処をclickした下さい
 『きょうの料理』https://www.youtube.com/watch?v=iJXiuT2d45M ←此処をclickした下さい
 大河dramaも『花の生涯』を始め5作のtheme音楽を作曲。
 手塚治虫の『ジャングル大帝』『リボンの騎士』のtheme音楽も彼の作品である。
 又、Synthesizerを使ったclassic音楽でも一世を風靡した。
 冨田勲『月の光』https://www.youtube.com/watch?v=8ajSyyzIC_8 ←此処をclickした下さい
 「歳月 人を待たず」である。
 氏の冥福をお祈りする。

 ではまた‥。(了)

2016年5月 6日 (金)

【時習26回3−7の会0599】〜「松尾芭蕉『笈の小文』第13回【吉野山・高野山・和歌浦】【旅賦】」「05月01日:静岡県立美術館『東西の風景』展を見て」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 今日も【時習26回3-7の会 0599】号をお送りします。

■今日最初の話題も、前《会報》に引き続き、松尾芭蕉『笈の小文』。今日はその第13回【吉野山・高野山・和歌浦】&【旅賦】をお届けする。
 以下、お届けする予定を記して置きたい。

《第14回》【大和路】‥《会報》【0600】号
 :貞享05年04月01日(新暦1688年04月30日)
 文中に『唐招提寺』にて鑑真和上像を見て感動している場面がある
 →・記録では、貞享05月08日(新暦1688年05月07日)頃、奈良に居て此の頃鑑真和上像を拝している、とある
《第15回》【須磨・明石夜泊】‥《会報》【0601】号
 :貞享05年04月13日(新暦1688年05月12日)
 【大和路(=衣更)】の最後の段で、大坂に到着後のことが記され、大阪の八軒屋久左衛門宅に滞在、とある
《第16回(最終回)》【須磨2】‥《会報》【0602】号
 :貞享05年04月19日(新暦1688年05月18日)に尼崎を出航、兵庫に夜泊
 →・翌04月20日(新暦05月19日)に、【須磨・明石】を廻り、須磨に一泊
 →・芭蕉と杜国は、その後須磨を発って貞享05年04月23日(新暦1688年05月22日)、京都に到着

 それでは、【吉野山・高野山・和歌浦】&【旅賦】をお届けする。

【吉野山・高野山・和歌浦】
《原文》
   桜

  桜がり(注1)きどくや日々に五里六里

  日は花に暮(くれ)てさびしやあすならふ(注2)

  扇(あふぎ)にて酒くむかげやちる桜

   苔清水(こけしみづ)(注3)

  春雨(はるさめ)のこした(注4)につたふ清水(しみづ)哉(かな)

《現代語訳》
   桜

 【意】毎日毎日、我乍ら奇特(きどく/きとく)なことだ
    桜を見るために五里六里と歩き回るんだから‥
    
 【解説】幕末の俳人池永大蟲(だいちゅう(?-1871))編「芭蕉翁真蹟拾遺」に「六里七里ごとに替る花見哉」の句形も伝わる
  季語:「桜がり」‥(春)

 【意】花見して過ごした一日が暮れていく
    桜木の脇にあるあすなろの木が寂しげに見える
    明日には(檜(ヒノキ)に)になろうと願いつつもなれない、その哀れさが寂しさを誘う
    
 【解説】『笈日記』伊勢部に「讃ニ幅」として「蘭の香や}と並記して、
    あすは檜の木とかや、谷の老木のいへる事あり
    きのふは夢と過て、あすはいまだ来らず
    たゞ生前一樽のたのしみの外に、あすは/\といひくらして、終に賢者のそしりをうけぬ
      さびしさや華のあたりのあすならふ ばせを

    因みに『笈日記』は、各務支考(1665~1731)(=蕉門/東華坊・西華坊・獅子庵等/美濃出身で美濃派の祖)編
    芭蕉逝去の翌年1695年刊行/「笈の小文」の遺志をつぐ意に由来する書名/松尾芭蕉の遺吟・遺文を収める
  季語:「花」‥(春)

 【意】舞い散る桜の花弁(びら)を「扇を差し出して受け止めん」とした
    その所作は正に能狂言での酒を汲む仕草(しぐさ)だ
    こんな姿をする自分は矢張り粋狂であることヨ
  季語:「桜」‥(春)

   苔清水

 【意】苔むした岩間に流れ落ちる清水が見える
    この清水は、春雨が降って木の下に滴り落ちた水が流れ出したものだ
  季語:「春雨」‥(春)

《語句/解説》
 (注1)桜がり:桜を追い求めて逍遥すること
 (注2)あすならう:ヒノキ科アスナロ属の常緑針葉樹/高さ10~30m
 (注3)苔清水:吉野山西行庵のそばにある「とくとくの清水」
    とくとくと落つる岩間の苔清水汲みほすほどもなき住居かな〔伝 西行作〕
 (注4)こした:木の下

《原文》
 よしのゝ花に三日とゞまりて、曙、黄昏(たそがれ)のけしきにむかひ、有明の月の哀(あはれ)なるさまなど、心にせまり胸にみちて、あるは摂章(=政)公(注1)のながめにうばゝれ、西行の枝折(しをり)(注2)にまよひ、かの貞室(ていしつ)(注3)が「是(これ)は/\」と打(うち)なぐり(注4)たるに、われいはん言葉もなくていたづらに口をとぢたる(注5)いと口をし。
 おもひ立(たち)たる風流いかめしく(注6)侍れども、爰(ここ)に至りて無興(ぶきょう)の事なり。

《現代語訳》
 花の盛りの吉野に三日滞在して、曙、黄昏の景色に向かい、有明の月のものの哀れなる様等、心に迫り胸に満ちて、ある時は摂政(=藤原義経)公が「昔たれかかる桜の種を植ゑて吉野を花の山となしけむ〔‥昔、誰が桜の種を植えて吉野を桜の名所にしたのだろう?‥〕」と詠んだ絶景の眺めに心奪われ、またある時は、西行法師が「去年(こぞ)の枝折の道かへてまだ見ぬ方の花をたづねむ」と詠んだ様に、あちこち歩いて廻り、又かの安原貞室が「これはこれはとばかりに花の吉野山」と磊落な(=大らかに詠み放った)句を思い出したりしていると、もう私には言葉も失って仕舞い、一句も出来ないのが残念でたまらない。
 吉野で名句を一句を詠もうと物々しく意気込んだ来たが、肝腎な時に一句も詠めないのは興ざめである。

《語句/解説》
 (注1)摂政公:後京極摂政藤原良経(1169-1206)/平安時代末期~鎌倉時代初期の公卿・歌人
    「昔たれかかる桜の種うゑて吉野を花の山となしけむ」(新勅撰・春上)による
    ほかに後京極摂政の歌では百人一首「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む」が有名
 (注2)西行の枝折:「吉野山こぞの枝折の道かへてまだ見ぬ方の花をたづねむ〔‥吉野山/去年枝を折って目印をつけて置いた道とは別の道に変えて、まだ見ていない方面の花を尋ねてみることにしよう‥〕」(新古今・春上)
 (注3)貞室:松永貞徳(ていとく)(1571-1654)門下で、松江重頼(しげより(1602-80))と双璧/『貞門(ていもん)派』
    安原貞室(やすはらていしつ)(1610-73)/「これはこれはとばかりに花の吉野山〔曠野(あらの)〕」
 (注4)打なぐる:磊落(おおらかに)に詠み放つ
 (注5)口をとぢたる:実際には「吉野 ‥ 花ざかり山は日ごろの朝ぼらけ/芭蕉〔芭蕉庵小文庫〕」の作品が伝わる
 (注6)いかめしく:物々しく

《原文》
   高野(かうや)(注1)

  ちゝはゝのしきりにこひし雉(きじ)の声(こゑ)

  ちる花にたぶさ(注2)はづかし奥の院(ゐん) 万菊

   和歌(注3)

  行春(ゆくはる)にわかの浦にて追付(おひつき)たり

  きみ井寺(注4)

《現代語訳》
   高野

 【意】高野山で雉の声を聞く
    すると無性に父母がしきりに恋しく感じられることだ
 【解説】「山鳥のほろほろ鳴く声きけば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ〔『玉葉集』行基〕」を踏まえた句
    行基が高野山で詠んだと伝わる歌
    「焼野の雉」は子を思うことの深いものの比喩
  季語:「雉」‥(春)

 【意】此処「高野山」も今や落花の季節だ
    この神聖な「奥の院」にいると「髻(もとどり)」を結った俗人姿の自分が場違いの様で恥ずかしく感じられる
  季語:「ちる花」‥(春)

   和歌の浦にて

 【意】吉野・高野と春の情緒を追いかけて来たが、漸くこの和歌の浦で行く春(=晩春)追いついた様だ
    ジックリ情緒を味わうとしよう
 【解説】「行春」と「追付たり」の対称が俳諧の妙味
  季語:「行春」‥(春)

  きみ井寺(本文不備)

《語句/解説》
 (注1)高野:和歌山県伊都郡高野町にある古義真言宗総本山金剛峯寺
 (注2)たぶさ:「もとどり」=「髻」
 (注3)和歌:和歌の浦/和歌山市南方の海岸/歌枕
 (注4)きみ井寺:紀三井寺/和歌浦の東岸金剛宝寺護国院/西国三十三観音霊場第ニ番札所
    本稿は、Titleだけあって本文がない
    本文記載と失念して仕舞ったのかもしれない
    何故ならは、芭蕉は紀三井寺で俳句を残しているからだ
    その句とは‥
    「みあぐれば さくらしもうて 紀三井寺 ばせを」

【旅賦(たびのふ)】
《原文》
 跪(=踵)(注1)はやぶれて西行(さいぎやう)にひとしく、天龍(てんりゆう)(注2)の渡しをおもひ、馬をかる(注3)時はいきまきし聖(ひじり)(注4)の事(こと)心にうかぶ。
 山野(さんや)海濱(かいひん)の美景に造化(ざうくわ)の功(こう)(注5)を見(み)、あるは無依(むえ)の道者(だうしや)(注6)の跡をしたひ、風情の人の実(まこと)をうかがふ。
 猶(なほ)、栖(すみか)をさりて器物(きぶつ)のねがひなし。空手(くうしゆ)なれば途中の愁(ふれへ)もなし。
 寛歩(かんぼ)(注7)駕(が)にかへ、晩食(ばんしよく)(注8)肉よりも甘し。
 とまるべき道にかぎりなく、立(たつ)べき朝(あした)に時なし。
 只一日のねがひ二つのみ。
 こよひ能(よき)宿からん、草鞋(わらぢ)のわが足によろしきを求めんと計はいさゝのおもひなり。
 時々(じじ)気を転じ、日々に情(じやう)をあらたむ。
 もしわづかに風雅ある人に出合(であひ)たる、悦(よろこび)かぎりなし。
 日比(ひごろ)は古めかし、かたくなゝりと悪(にく)み捨(すて)たる程の人も、辺土(注9)の道づれにかたりあひ、はにふ(注10)・むぐらのうちにて見出(みいだ)したるなど、瓦石(ぐわせき)のうちに玉(たま)を拾ひ、泥中(でいちゆう)に金(こがね)を得たる心地して、物にも書付(かきつけ)、人にもかたらんとおもうぞ、又是(これ)旅のひとつなりかし。

《現代語訳》
 (歩き続けるから)踵(かかと)は傷つくので「西行法師と同じ」と思えば慰められる。
 西行と言えば、彼が天龍川で船に乗ろうとした時、満員だと頭を打たれて下船させられた。
 その時西行は「これも修行だ」と怒らなかった。
 あの時の話を思い、又、馬を借りる時は、(‥高野の証空上人が馬に乗って都へ向かう途中、擦れ違い様に馬と一緒に落とされたことに‥)証空上人は息巻いたが、冷静を失って仕舞った自分を恥じて逃げ帰ったという逸話も心に浮かぶ。
 山野や海浜の美しい景色を見ると天地創造の神の業を実感し、或は執着を超脱した修行者の足跡を実感し、風雅の人の心の真実の意味を感得する。
 又、住居を捨て去って身であるから物欲も無い。
 何も持たない旅なので途中賊に襲われて物を取られる心配もない。
 籠に乗らない歩きの旅なのでゆっくりと歩く。
 腹がすかせてからの晩飯だから肉よりも美味しいものだ。
 泊まる場所も自由、朝いつ出発時間も自由だ。
 そんな一日の中にも願い事が二つだけある。
 今晩良い宿であることと、足にあった草鞋が欲しいこと、こればかりはささやかな願いだ。
 時々刻々と気分を変えて、日に/\新しい思いになる。
 もし少しでも風雅を解する人に出会えたら、この上ない悦びだ。
 日頃は古めかしく頑固な人だと憎らしく思う程の人でも、片田舎での旅の道連れとして語り合い、粗末な埴生の宿や弦草の茂った茅屋に泊まり語らううちに、意外と風流な人だと解ったりする。
 これなどは、瓦礫の中の宝石を拾い、泥の中に金銀を得たような心地がして、文章に書いたり、座談の種にもしようと思う。
 これも又旅の一つのあり方だ。

《語句・解説》
 (注1) 跪:「きびす」「踵」の誤記/かかと
 (注2)天龍:天龍川は長野から静岡、太平洋へ注ぐ大河
    西行が天龍川で乗船した処、「満員だから降りろ」と下船させられたが、「これも仏道修行だ」と言い怒らなかったという逸話を踏まえる(『西行物語』)
 (注3)馬をかる:馬を借りる
 (注4)いきまきし聖:高野の証空上人が京へ向かう途中、狭道で、女の乗った馬と摺れ違った際、その馬方が上人の乗った馬を上人と一緒に堀に落とした
    その事に怒った上人だが、途中で冷静を失っていた自分の愚かさに気付き逃げ帰ったという(『徒然草』106段)
 (注5)造化の功:天地創造の神の業(わざ)
 (注6)無依の道者:一切の執着を脱した修行者
 (注7)寛歩:ゆっくり歩くこと
    「無事当貴、早寐当富、安歩当車、晩食当肉」(『書言字考? ̄€用集』に「居窮四昧」として)
 (注8)晩食:空腹になってから晩く食べる食事(すると、肉よりもおいしく感じられる)
 (注9)辺土:片田舎
 (注10)はにふ:埴生の小屋/土間に筵(むしろ)を敷いて寝る様な粗末な家
 
■今日最後の話題は、05月01日に車で2つの美術館の企画展を見て来た。
 静岡県立美術館の『開館30周年記念展/東西の絶景』と、浜松市にある平野美術館『浜松が生んだ日本画の巨匠/生誕100周年/野島青茲』展である。
 そのうち今日は、最初に訪れた静岡県立美術館『開館30周年記念/東西の絶景』の模様をお伝えする。

【静岡県立美術館の『開館30周年記念展/東西の絶景』】
 本展は、静岡県立美術館が所蔵する内外の風景画特集である。
 今回は特にcommentはしませんん。
 理屈抜きに名画の醍醐味を堪能して下さい。

[01]静岡県立美術館入口付近の本展案内
 01

[02]同美術館入口01
 0201

[03]同上02
 0302

[04]下村寒山・横山大観『日・月蓬莱山図』1900年頃
 041900

[05]秋野不矩『廻廊』1984年
 051984

[06]佐伯祐三『ラ・クロッシュ』1927年
 061927

[07]児島善三郎『箱根』1937年頃
 071937

[08]小絲源太郎『春雪』1953年
 081953

[09]香月泰男『冬畠』1965年
 091965

[10]曾宮一念『スペインの野』1968年
 101968

[11]東山魁夷『富士』1955年
 111955

[12]ジャン=バティスト=カミ―ユ・コロ―『メリ街道、ラ・フェルテ=ス=ジュアール付近』1862年
 121862

[13]カミ―ユ・ピサロ『ライ麦畑、グラット=コックの丘、ポントワ―ズ』1877年
 131877

[14]ポール・ゴーギャン『家畜番の少女』1889年
 141889

[15]ポール・シニャック『サン=トロペ、グリモ―の古城』1899年
 151899

[16]モーリス・ヴラマンク『小麦畑と赤い屋根の家』1905年
 161905

[17]ジョアン・ミロ『シウラナの教会』1917年
 171917

【後記】前《会報》でお話した様、05月05日は二十四節気でいう『立夏』。
 朝晩は、まだ涼しさを感じるが、日中陽射しの強い太陽が照り渡ると流石に暑さを感じる様になった。
 その様な陽気の中で一陣の風が吹く情景を詠んだいい句を見つけた。

 青空の中に風吹く薄暑かな
松瀬青々(まつせ せいせい(1869-1937))

  季語「薄暑」‥〔夏〕‥

 季語が「春」であるが、一寸前迄開花の季節であった白い「梨の花」。
 以前にも紹介したことがあるが、写実的で平易、そして清々しい感じがする名句がある‥

 青天や白き五弁の梨の花
原石鼎(せきてい(1886-1951))

※ 松瀬青々、原石鼎は共にホトトギス派俳人
  因みに原石鼎は高浜虚子(1874-1959)の愛弟子で虚子時代のホトトギス同人
  一方の松瀬青々は、高浜虚子より5歳年長で、正岡子規や月刊俳誌『ほとゝぎす』創刊者 柳原極堂より2歳年少のホトトギス派最初期の俳人

 そうそう、前々回の《会報》で杜甫(712-770)の『絶句』ニ首 其ニをお示しすることをお約束していて失念しました
 今回ご紹介します
 ご覧下さい
 これも絵画的で色彩豊かな名詩でしょ?
 !(^-')b♪

 江碧鳥逾白
 山青花欲然
 今春看又過
 何日是帰年

 江(こう)碧(みどり)にして 鳥 逾(いよい)よ白く
 山青くして 花 燃(も)えんと欲す
 今春看(みすみ)す又(また)過ぐ
 何れの日にか 是れ帰年ならん

【意】江(かわ)の水は深緑色をして、水面を飛ぶ鳥は白さが一層際立って見える
 山の草木の青さに映え、其処に咲く花は燃える様に真紅で目に沁みる
 あぁ、今年の春もこうしてあっという間に過ぎていく
 故郷に戻れる日はいつ遣って来るのだろう‥

※ ※ ※ ※ ※

 梨花というと、北宋の蘇軾(蘇東坡(1036-1101))が詠んだ以下の優れた漢詩がある。

 和孔密州五絶 東欄梨花  蘇軾

 梨花淡白柳深青
 柳絮飛時花滿城
 惆悵東欄一株雪
 人生看得幾清明

 孔密州(こうみっしゅう)の五絶に和す 東欄の梨花

 梨花は淡白 柳は深青
 柳絮(りゅうじょ)飛ぶ時 花 城に満つ
 惆悵(ちうちゃう)す 東欄 一株(いっしゅ)の雪
 人生 看得(う)るは 幾清明

【意】梨花は淡い白色、柳は深い緑色(‥をして実に美しい‥)
 柳絮(注)が飛ぶ季節となり、又、(梨の)花が街中一杯に咲いている
 庭に面した東側の欄干の傍らに咲いていた一本の雪の様に白い梨花を思い浮かべ物思いに耽る‥
 儚い一生、あと何回『清明』節にこの美しい梨花を観ることが出来るだろうか
 (注)柳絮:柳の花が咲いた後、風に舞う綿毛のある種子
 惆悵:嘆き恨むこと(「惆」「悵」いずれも「うらむ」の意)

【解説】本詩の作者である蘇軾(東坡)が、知事として徐州に着任して間もない頃の話。
 蘇東坡が是迄務めた密州の後任知事の孔宗翰(こうそうかん←孔子の子孫)から五首の七言絶句が送られて来た。
 本詩は、その返事の詩として詠んだもの『東欄』は、密州の官舎の東の欄干のことで、其処には2株の梨の木があった。
 毎年春の『清明』節の頃には白い花が咲いていた。
 蘇東坡は、「人生 看得るは 幾清明」と、『人生の無常』を詠んでいる。

 松瀬青々、原石鼎、杜甫、蘇東坡‥何れも絵画的・叙景的な俳句&漢詩。
 4作品に詠み込まれている情景はいずれも「青」「青・白」「碧(深緑)・白・青(緑)・然(紅)」「淡白・深青(緑)」と色彩もとても鮮やか。
 詠む者の感性を絵画的に刺激してくれて愉快な気分にさせてくれる。

 ではまた‥。(了)

2016年5月 1日 (日)

【時習26回3−7の会0598】〜「松尾芭蕉『笈の小文』第12回【道中〔その2〕】」「04月16~17日:城跡&史跡巡り〔二日目〕『堺市役所展望室lobby』『堺市博物館』『仁徳天皇陵』『履中天皇陵』『さかい利晶の杜』『千利休生誕地』『下之太子(大聖勝軍寺)』『中之太子(野中寺)』を巡って」「04月23日:松坂屋美術館『春の院展』&ヤマザキマザック美術館『ヤマザキマザックコレクション・アイズピリ』展を見て」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 今日も【時習26回3-7の会 0598】号をお送りします。

■今日最初の話題は、前《会報》に引き続き、松尾芭蕉『笈の小文』第12回【道中〔その2〕】をお届けする。
 前回では、貞亨五年三月十九日(新暦1688年04月19日)【吉野への旅立ち】の模様をお伝えした。
 今回は、04月19日以降、そう日が経っていない時の話である。
 因みに、伊賀上野の芭蕉生家から初瀬である長谷寺迄は41㎞、更に、長谷寺から葛城山迄は30km程の距離にある。
 では、ご覧下さい。

《原文》
   初瀬(注1)

  春の夜(よ)や籠(こも)り人(ど)ゆかし堂(だう)の隅

  足駄(あしだ)はく僧も見えたり花の雨 万菊

   葛城山(注2)

  猶みたし花に明行(あけゆく)神の顔(かほ)

《現代語訳》
   初瀬

 【意】春の夜に、長谷寺の御堂の片隅にひっそりと籠って祈っている人の気配がある
    同寺は昔より恋愛成就の願掛けをする寺として有名だから、そのひとはその様なことを祈っているのだろうか
    何とはなしに心惹かれる(=ゆかし)ことだ
 【解説】「恋愛」が成就することで有名な長谷寺は、『更級日記』の著者菅原孝標女、『蜻蛉日記』著者藤原道綱母も参籠している
  季語:「春の夜」‥(春)

 【意】雨が降りしきり中、そして桜花繚乱の中に、高下駄を履いた僧が厳かに歩むのが見える
    味わい深いことであるヨ
 【解説】『枕草子〔第3巻115段〕』に「【原文】清水(‥『能因本』「はつせ」とあり‥)など詣でて、局するほど、呉階(くれはし)のもとに車引き寄せて立てたるに、帯ばかりうちしたる若き法師ばらの、足駄(あしだ)といふ物をはきて‥(後略)〔【現代語訳】清水(‥『能因本』「初瀬」‥)などにお参りして、局が出来る迄の間、お堂に上る長廊下端の階段の所に車を引き寄せて立てかけていると、腰衣に帯だけ締めた若い法師達が、高下駄を履いて‥(後略)〕」とあるのに拠る
  猶、「木履く僧も有りけり雨の花(『昿野』)」が最初の句形
  季語:「花の雨」‥(春)

   葛城山

 【意】春の曙時の薄ら明りに桜花が仄かに浮かび上がって来る葛城山の景色は喩え様がない程美しい
    その昔、役の行者の命で葛城山と金峰山(きんぷせん)に岩橋をかけたという一言主(ひとことぬし)の神
    この神は、自らの醜さを恥じ夜だけ働いたそうだが、今素晴らしい桜花を眺めていると、逆にに拝顔したくなることだヨ

《語句/解説》
 (注1) 初瀬:奈良県桜井市初瀬/長谷寺の本尊十一面観音で有名
     光源氏が参詣し20年ぶりに乳母右近に巡り合った話(『源氏物語/玉鬘(かずら)』)、西行が出家前の妻とめぐりあった話(『撰集抄(せんじゅうしょう)』)で知られる
 (注2)葛城山:大阪府と奈良県の境にある山/歌枕/修験者の霊場/桜の名所

《原文》
   三輪(注1) 多武峯(たふのみね)(注2)

   臍峠(ほそたうげ)(注3) 多武峰ヨリ龍門へ越道也

  雲雀(ひばり)より空にやすらふ峠哉(たうげかな)

   龍門(りゅうもん)(注4)

  龍門の花や上戸(じやうご)の土産(つと)にせん

  酒のみに語らんかゝる滝の花

《現代語訳》
   三輪 多武峰

  細峠は多武峰より吉野へ越える峠である

 【意】峠に登り休んでいたら、雲雀の囀りが下の方から聞こえて来た
    空の上にいる様で何だか気分が安らぐことだ
 【解説】「雲雀より上にやすろふ峠かな」(『昿野』)の句形も伝わる
  季語:「雲雀」‥(春)

   龍門の滝で

 【意】その名も中国の名勝の地と同名の「龍門の滝」だ
    酒と滝を愛した彼の李白に因んで、この滝の畔に咲く花を酒飲み(=上戸)への土産としよう
  季語:「花」‥(春)

 【意】酒飲みに酒を酌み交わし乍ら話してやろう
    この滝の畔に咲く花と景色の美しさを
 【解説】「かゝる」は「(滝が)掛る」と「斯かる(=この様な)滝の花」の掛詞になっている
  季語:「花」‥(春)

《語句/解説》
 (注1)三輪:奈良県桜井市三輪町東方の山/大和国一宮『大神神社(おおみわ(=三輪(みわ)神社))』がある
 (注2)多武峯:桜井市の南にある山/多武峰(とうのみね)
    山上には『乙巳(いっし)の変(645年)』に向け中大兄皇子と中臣鎌足が密談したことで有名な『談山(だんざん)神社』が祀られている
 (注3)臍峠:細峠/「大和の国中より吉野へ越すに、四の坂あり/多武の峰より越すを細嶺と言ふ/高くけはし/嶺より吉野山見ゆる」(和州巡覧記)
 (注4)龍門:原典は「瀧門」と記されているが「龍門」が正しい/吉野の龍門岳の麓にある滝

《原文》
   西河(にじかう)(注1)

  ほろゝゝと山吹ちるか滝の音

   蜻『虫偏に鳥』(せいめい)が滝(注3)

   布留(ふる)の瀧(注4)は布留の宮(注5)より二十五丁 山の奥也(なり) 大和(やまと)

津国 布引(ぬのびき)の瀧(注5) 幾(=生)田(いくた)の川上に有(あり)。

   箕面(みのお)の瀧(注6) 勝尾寺(かちをでら)(注7)へ越(こゆ)る道に有(あり)。

《現代語訳》
   虹河

 【意】激しく流れ落ちる滝の傍らで、盛りを過ぎたのだろう、山吹の花がほろほろと散っている
 【解説】古来吉野川の岸辺の山吹を詠むのは詩歌の伝統という/「か」は疑問ではなく詠嘆
  季語:「山吹」‥(春)

   蜻【虫偏に鳥】が滝

   布留の滝は布留(ふる)の宮(石神神宮)より二十五丁(ちやう)山の奥である
   布引の滝は津国幾田の川上にある
   大和の箕面の滝は勝尾寺へ越る道にある
   箕面の滝は勝尾寺へ越る道にある

《語句/解説》
 (注1)西河:にじこう/吉野郡川上村を流れる急流/吉野大滝とも言う
    普通の滝のように高いところから流れ落ちるのではない/虹河、虹川とも/吉野郡川上村
 (注2) 蜻【虫偏に鳥】が滝:西河に程近い少し山間に入った所にある滝
    此処では俳句がつくられず題だけの記載になっている
 (注3)布留の滝:現・奈良県天理市布留町
 (注4)布の宮:石上(いそのかみ)神宮
 (注5)布引の滝:現・神戸市/生田川上流/歌枕
 (注6)箕面の滝:現・大阪府箕面市の滝/歌枕/「大和」は誤り
 (注7)勝尾寺:現・箕面市にあった

【小生comment】
 『笈の小文』の旅行記の配列が、必ずしも時系列になっていない。
 本稿でも、「初瀬」→「葛城山」→「三輪」となっているが、行程から不合理である。
 旅行記の順序が、芭蕉自身に拠る変更なのか、乙州の意図的な編集に拠るのか判然としない。
 とは言え、『笈の小文』が芭蕉の円熟期の作品が多く掲載されている芸術的価値ある傑作であることに間違いないことは確かである。

※ 河合(川合)乙州(おとくに/生没年不詳(1657?-1720?)) ※
 俳人/近江蕉門/俳人 河合智月(智月尼)の弟で智月の養子)
 姉の智月尼と同じ山城国生まれと推定/元禄02(1689)年『奥の細道』旅中の松尾芭蕉と加賀金沢で会っている
 同年12月 芭蕉を大津の自邸に招待/以後も芭蕉を度々招聘/義仲寺「無名庵」や石山「幻住庵」滞在中の芭蕉を世話をした
 乙州は芭蕉晩期の俳風『軽み』理解者と伝わる
 蕉門の中での芭蕉からの信頼は厚く、その為『笈の小文』の草稿も贈られた様である
 元禄07(1689)年10(11)月12(28)日の芭蕉逝去の際は、看取り~葬儀万端の準備を執り行ったという
 この『笈の小文』も、芭蕉死後、芭蕉の意向に従い、宝永06(1709)年に刊行

■続いての話題は、前《会報》に続き、「城跡&史跡巡り〔二日目〕『堺市役所展望室』『堺市歴史博物館』『仁徳天皇陵』『履中天皇陵』『さかい利晶の杜』『千利休生誕地』『下之太子(大聖勝軍寺)』『中之太子(野中寺)』を巡って」である。

〔二日目〕【04月17日(日)】
具体的な行程は、以下の通りであった。
08時00分 八尾グランドホテル発→
08時45分 堺市役所着〔堺市堺区南瓦町3-1〕
09時00分 21階展望lobby〔仁徳&履中&反正天皇陵〕→09時30分 同所発→
[01]堺市役所
 01

[02]仁徳天皇陵古墳(大仙(山)古墳)〔中央やや左の緑丘陵〕
 02

[03]履中天皇陵古墳〔右端の緑丘陵〕
 03

[04]反正天皇陵古墳〔中央の緑の森〕
 04

[05]堺市役所21階展望lobby 仁徳天皇陵古墳をbackに
 0521lobby_back

09時40分 堺市博物館着→10時50分 同所発
[06]堺市博物館前にて
 06

[07]堺博物館前の千利休像前にて
 07

10時55分 仁徳天皇陵古墳着→11時10分同所発
[08]仁徳天皇陵古墳前にて01
 0801

[09]同上02
 0902

10時20分 履中古墳着→10時25分同所発
[10]履中天皇陵古墳01
 1001

[11]同上02
 1102

[12]航空写真/百舌鳥(モズ)古墳群と仁徳&履中&反正天皇陵&二サンザイ古墳他
 12

[13]航空写真/応神&仲哀&允恭天皇陵&仲姫(なかつひめ)皇后陵他
 13

11時50分 さかい利晶の杜着→12時30分同所発
12時32分 千利休宅跡着→12時40分同所発
[14]さかい利晶の杜 外観01
 1401

[15]同上02
 1502

[16]同上03
 1603

[17]与謝野鉄幹&晶子夫妻(昭和初期頃)
 17

[18]与謝野晶子をめぐる人々
 18

[19]千利休宅跡(生地)入口にて
 19

[20]千利休宅跡(生地)井戸の前にて
 20

14時30分 下之太子(大聖勝軍寺)着→14時45分同所発
[21]大聖勝軍寺山門前にて
 21

[22]神妙椋樹苑〔聖徳太子救命の椋〕
 22

15時10分 中之太子(野中寺)着〔大阪府羽曳野市野々上9-24〕→15時25分同所発→帰途へ
[23]中之太子(野中寺)山門
 23

[24]同上 本堂
 24

【小生comment】
 今回の城跡巡りの旅は、日本三大古墳(+堺市役所21階展望lobby)と聖徳太子縁(ゆかり)の史跡巡り、楠木正成の3つの山城跡、西行入寂地、千利休と与謝野晶子生誕地、富田林の寺内町巡りと盛り沢山であったが、凄く楽しかった。
 小生にとっては、全て初めて見る史跡ばかりで、満足の二日間であった。
 聖徳太子(彼の母と妻も含む)、彼の父 用明天皇、彼を皇太子に指名した推古天皇の陵を一挙に見られたことは大きな収穫だった。

■続いて今日最後の話題は、04月23日、刈谷市美術館『和田英作』展の後訪れた、松坂屋美術館『春の院展』&ヤマザキマザック美術館『アイズピリ』展の模様を続けてお伝えして締め括りたい。

【松坂屋美術館『第71回 春の院展』2016年】

[25]『春の院展』leaflet/絵は同人 川瀬麿士『梅樹』2016年
 25leaflet_2016

[26]同人 郷倉和子『宙(そら)のかがやき』2016年
 26_2016

[27]同人 後藤純男『新緑浄韻』2016年
 27_2016

[28]同人 那波多目功一『月明かり』2016年
 28_2016

[29]同人 手塚雄二『残雪』2016年
 29_2016

[30]同人 梅原幸雄『線香花火』2016年
 30_2016

[31]同人 清水達三『渚』2016年
 31_2016

[32]同人 倉島重友『エリカ』2016年
 32_2016

[33]同人 小田野尚之『冬の駅』2016年
 33_2016

【小生comment】
 同人の作品は、みな流石に品格があって素晴らしい。
 いつも感心して鑑賞させて頂いている。
 因みに今回は、ご存命の同人34人のうち33人に拠る出品があった。
 ただ大変残念なのは、同人の最年長、郷倉和子さんが04月12日に逝去された(享年101歳)。
 今回の出展作品[26]『宙(そら)のかがやき』が遺作となったのであろうか?
 謹んでご冥福をお祈りしたい。

【ヤマザキマザック美術館『アイズピリ』展】
 ポール・アイズピリの略歴は以下の通り。
 1919年05月14日Parisに生まれる
 1933年 彫刻家の父の奨めにより国立工芸学校(エコール・ブール)に入学する
 1936年 Paris国立美術学校に入り直した
 1945年 サロン・ドートンヌの会員となる
 1946年 青年絵画展で三等賞受賞
 1951年 ナショナル大賞受賞
 2016年01月22日 Parisにて逝去(享年96歳)

 アイズピリの作風は、明るい色彩と重厚なマチエールが特徴で、不思議な魅力に溢れている。
 ヤマザキマザック美術館は、彼の最初期の1950年代から1980年代にかけて50点以上保有している。
 先ずはその幾つかをご覧下さい。

[34]ヤマザキマザック美術館入口
 34

[35]ポール・アイズピリ
 35

[36]ヤマザキマザック美術館『アイズピリ』展leaflet/絵は『絵を描くアルルカン』1989年
 36leaflet1989

[37]アイズピリ『がポット』1950年
 371950

[38]同『リュートと裸婦』1951年
 381951

[39]同『ミュージシャン(Les musiciens)』1958年
 39les_musiciens1958

[40]同『ドフィーヌ広場と橋』1961年
 401961

[41]同『果物のある静物』1981年
 411981

[42]同『ハートのカードを持つ婦人』1985年
 421985

【小生comment】
 本展で、そのアイズピリの半生の作品をジックリ堪能出来た。
 皆さんは、彼の作品を見てどの様に感じられましたか?

【後記】今年は端午の節句の05月05日が二十四節気でいう『立夏』である。
 従って、今日はまだ春である。
 晩春というと、松尾芭蕉のこの俳句が直ぐ浮かぶ。

  行春(ゆくはる)を近江の人とおしみける 芭蕉

 この句について、俳人山口誓子が、新版 日本秀句1「芭蕉秀句」で解説している一部を引用しよう。

 元禄三年の作。
 春行くころに、芭蕉は近江に来ていて近江の行春を惜しんだのである。
 芭蕉ひとりではなく、近江に住む人と一緒に惜しんだのである。
 何かの集いのときの作だと思われる。
 この句の場所はただ「近江」とあるのみであるが、「近江」によって直ちに琵琶湖を想像しなくてはなるまい。
 近江の国は殆どが琵琶湖である。
 湖国と言われる所以だ。
 この句の場合も行春は湖国近江の行春でなければならぬ。
 すると、芭蕉は湖畔のいずこからか湖の風景を見て、行かんとする春を惜しんでいるのである。
 湖国に住む人と一緒に惜しめば旅の心はいや増すのである。〔後略〕

【小生comment】
 近江の芭蕉というと、幻住庵や義仲寺を思い出す。
 芭蕉を臨終と看取りから義仲寺への埋葬迄の一切を仕切ったのが、本《会報》の冒頭でお示しした、『笈の小文』の編者 河合(川合)乙州(おとくに(1657?-1720?))であった。

 ではまた‥。(了)

« 2016年4月 | トップページ | 2016年6月 »

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
フォト

最近の記事

05【時習26回3-7の会】【2008年8月16日】《クラス会》於:ブラウンズ&トライ・アゲイン

  • Dsc_0217
    ■2008年8月16日【時習26回3-7の会】《クラス会》を豊橋市内にある『ブラウンズ(一次会)』と『トライアゲイン(二次会)』にて開催しました。T三先生をはじめ全国から15名が集い大変楽しい5時間を過ごしました。 ■名残惜しいなか、23時すぎ、来年の再会を誓って散会しました。

101【2007年6月2~3日】■「千手院」でお会いした皆さんへ←clickでalbumへ

  • Cimg1428
    ■朝護孫子寺にて撮影した写真のほとんとを追加しました。ご高覧下さい。 ■2007年6月2~3日、「賢人会」のmember谷山・中嶋両氏と大和七福神・八宝廻りをしました。 ■七福神の一つ毘沙門天を祭る「信貴山朝護孫子寺」の宿坊【千手院】で一泊。 ■そこで、ご一緒した皆さんとの楽しかったひとときをアルバムにしました・・。      * * * ■瀬尾君、浅田さんとそのお供達の皆さんへ、「感想をお聞かせ」頂ければ幸甚です。 ▼『【時習26回3-7の会】のブログ画面』の【左上欄外】の「メール送信」を左clickして頂くと、今泉宛のmail address ~ < si886@nifty.com > ~ が開きます。 どうぞ、ご気軽に感想をmailにてお知らせください。 ▲【2637の会】のURL・・・  → URL: http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog

最近のコメント

無料ブログはココログ