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2016年9月の4件の記事

2016年9月25日 (日)

【時習26回3−7の会 0619】〜「09月09日:ひろしま美術館『Collection展/France近代美術』を見て」「松尾芭蕉『更科紀行』その3(最終回)」「09月15~19日:『中&北九州旅行〔前編=初日〕』実施報告」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 前《会報》【0618】号を配信(2016年09月13日)してからあっという間に12日経ちました。

■さて、今日最初の話題は、前《会報》にてお伝えした広島視察会の初日に見たひろしま美術館の『Collection展/France近代美術』の模様である。
 ひろしま美術館が所有するFrance近代絵画の質の高さに正直吃驚した。

[01]ひろしま美術館『Collection展/France近代美術』会場入口
 01collectionfrance

 これは是非皆さんにも知って頂きたいと思い、29点の絵画と1点の彫刻の全30点をご紹介する。
 France絵画界ロマン派Delacroixからビュッフェ迄の傑作を添付写真でご覧下さい。
 ワクワク・ゾクゾクすること間違いなしです。

[02]Delacroix(1798-1863)『墓地のアラブ人』1838年
 02delacroix179818631838

[03]Courbet(1819-77)『雪の中の鹿の戦い』1868年頃
 03courbet1819771868

[04]Corot(1796-1875)『ボロメ島の浴女たち』1872年頃
 04corot179618751872

[05]Pissarro(1830-1903)『水浴する女たち(習作)』1896年
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[06]Cezanne(1839-1906)『坐る農夫』1897年頃
 06cezanne183919061897

[07]Signac(1863-1935)『パリ、ポン=ヌフ(Paris, Le Pont-Neuf)』1931年
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[08]ラプラ―ド(Pierre Laprade)(1875-1932)『静物(Nature Morte)』1930年頃
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[09]Gogh(1853-90)『ドービニーの庭(Le jardin de Daubigny)』1890年
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[10]Gauguin(1848-1903)『ブルターニュの少年の水浴(愛の森の水車小屋の水浴、ポン=タヴェン)』1886年
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[11]Redon(1840-1916)『ペガサス、岩上の馬』1907-10年頃
 11redon18401916190710

[12]ムンク(Munch)(1863-1944)『マイスナ―嬢の肖像』1906-07年
 12munch18631944190607

[13]Bonnard(1867-1947)『白いコルサージュの少女(レイラ・クロード・アネ嬢)』1930年
 13bonnard186719471930

[14]シダネル(Sidaner)(1862-1939)『離れ家』1927年
 14sidaner186219391927

[15]Dufy, Raoul(1877-1953)『エピソム、ダービーの行進』1930年
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[16]Marquet(1875-1947)『ポン=ヌフとサマリテーヌ』1940年
 16marquet187519471940

[17]Vlaminck(1876-1958)『雪景色』制作年不詳
 17vlaminck18761958

[18]Matisse(1869-1954)『La France』1939年
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[19]Picasso(1881-1973)『Cancan』1900年
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[20]Picasso『女の半身像(胸出す女)』1970年
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[21]レジェ(Leger)(1881-1955)『踊り(第1作)』1929年
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[22]Braque(1882-1963)『果物入れと果物』1935年
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[23]Laurencin, Marie(1883-1956)『花束を持つ婦人』1942年頃
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[24]Pascin, Jules(1885-1930)『緑衣の女』1927年
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[25]Soutine, Chaim(1893-1943)『椅子によれる女』1919年頃
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[26]Kisling(1891-1953)『ルーマニアの女』1929年
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[27]Modigliani(1884-1920)『男の肖像』1919年
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[28]Foujita, Leonard(1886-1968)『裸婦と猫』1923年
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[29]Foujita, Leonard『アッシージ(Assisi)』1961年
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[30]ビュッフェ(Buffet, Bernard)(1928-99)『赤い家』1961年
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[31]マイヨール(Maillol, Aristide)(1861-1944)『ヴィーナス(Venus)』1918-28年
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【小生comment】
 上記展示作品は、いずれも甲乙つけがたい傑作揃いである。
 これ等の多くの傑作をひろしま美術館が所蔵していることを本展を見て初めて知った。
 今回の視察旅行の行程外での自由時間を利用した個人的な行動だったが、小生の人生に於いて得た収穫は決して小さくない。

■続いての話題は、俳句の世界についてである。
 「松尾芭蕉『更科紀行』」の今回はその最終回となる「その3」についてである。
 因みに、「その1」「その2」については、本《会報》2016年09月4日付【0616】と09月08日【0617】の両号にてお届けした。
 松尾芭蕉は、《会報》【0616】号の「その1」にてお伝えした様に、1688(貞享05)年08月11日(新暦09月05日)、門人・越智越人を伴い、旅に出た。
 美濃国・岐阜を出発し、「寝覚の床」「木曾の桟」「立峠」「猿が馬場峠」を経て、信州 更科にある「姨捨山」にて名月を見る旅である。
 芭蕉は、岐阜を出立して4日後の08月15日(新暦09月09日)夜、目的地である「姨捨山」で中秋の名月を鑑賞した。
 その後、彼は「善光寺」に立ち寄り、更に「碓氷峠」を超えて、08月下旬(新暦09月20日過ぎ)、江戸 芭蕉庵へと帰った。328年前の出来事である。

《原文》
 
 桟(かけはし)や いのちをからむ 蔦(つた)かづら

 桟や 先(まづ)おもひいづ 馬むかへ

 霧晴れて 桟は目も ふさがれず 越人

 さらしなや 三よさ(=三夜さ)の月見 雲もなし 同

《現代語訳》

【意】木曾の難所「桟(かけはし)」に遣って来た
 見ると、蔦かづらがその桟橋に必死に絡み付いているヨ
【季語】つたかづら:秋

【意】この木曾の桟橋を見ると、つくづく感じることがある
 それは、その昔、都の宮中に木曾馬を献上する「駒迎へ」があった頃は、どんな思いでこの危険な桟橋を渡ったのだろうかと
【季語】駒むかへ:秋八月

【意】霧が掛り見えなかった時と違い、いざ霧が晴れて千尋(せんじん)の谷が真面(まとも)に見える様になったら、この難所の恐ろしさを今更の様に痛感した
【季語】霧:三秋

【意】更科で三夜連続で月見をしたが全て雲もない晴れだった
 月が明るく確り見えたことだヨ
【季語】月見:秋

《原文》

 姨捨山(をばすてやま)にて‥

 俤(おもかげ)や 姥(をば)ひとりなく 月の友

 十六夜(いざよひ)も まだ更科(さらしな)の 郡(こほり)哉(かな)

 ひよろひよろと 尚(なほ)露けしや 女郎花(をみなへし)

《現代語訳》

【意】月下に姨捨山の姿が見える
 言い伝えにある通り、姨捨山に捨てられ嘆き悲しむ老婆の俤が見える様だ
 その俤を月の友とする思いに感無量となる
【季語】月:秋

【意】十五夜(=名月)を見た翌日の十六夜(いざよひ)もまだ私は更科に居る
 有名な此の地でまだ月見をしたからだ
 (注)「まだ『さらし』な」は、「まだ更科(「さらし」な)」と「まだ去らじ(さらし)」を掛けている
【季語】十六夜:秋

【意】女郎花(をみなへし)が、露に濡れその露の重さに堪えられずひょろひょろと咲く姿はその名の通り風情があることだ
【季語】おみなへし:秋

《原文》

 木曾の橡(とち) 浮世の人の みやげ哉(かな)

 身にしみて 大根からし 秋の風

 善光寺

 月影や 四門(しもん)四宗(ししゆう)も 只一(ただひとつ)

 吹(ふき)とばす 石は浅間(あさま)の 野分(のわき)哉(かな)

《現代語訳》

【意】木曾の橡の実を、浮世で待っている人々への土産にしよう
 (注)「とち」:「橡」/食用にした/「橡」は西行の歌にもある様に隠遁者と結び付く
【季語】橡(とち):秋

【意】木曾名物の辛み大根の辛さが、秋風と相俟って身に沁みる思いだ
【季語】秋の風:秋

【意】四つの門、四つの宗派に分かれているが、帰する処は一つ
 月の光がその善光寺をを照らしている
 (注)「四門」は善光寺四門/善光寺・浄土寺・雲上寺・無量寺/「四宗」は浄土宗・天台宗・律宗・倶舎宗の四宗派をはじめ諸説ある
【季語】月影:秋

【意】石を吹き飛ばす程の凄い勢いで浅間山の野分は吹き荒れる
【季語】野分:秋

【小生comment】
 今年2016年の中秋の名月は、今月09月15日(木)の夜だった。
 小生は、九州の別府鉄輪温泉にいた。
 その日は、そそっかしい小生、お酒で酔いが回って仕舞い、名月を見られなかったのが悔やまれる。
 時習26回の榊原君【3-1】や岩瀬S君【3-4】がfacebookに名月をupしていた。
 今年の名月は、三河地方では春で言う朧月の様にうっすらと霞んで見えていた。
 さて、芭蕉についてである。
 1688年8月(=新暦9月)下旬に芭蕉は「更科紀行」終え、江戸に帰った。
 そして半年余り後の1689年3月(=新暦)、門人曽良を伴い、「奥の細道」への旅に出るのである。
 これで「笈の小文」→「更科紀行」→「奥の細道」と、三紀行文が繋がった。
 其処で、本《会報》でmp芭蕉seriesは暫くお休みすることとする。

■今日最後の話題は、今日のmain theme 『中&北九州旅行〔前編=初日〕』についてである。
 因みに、『中&北九州旅行〔後篇〕』(二日目~五日目)は次号《会報》にてお伝えする予定である。

《初日(09月15日)》
 00時15分 拙宅発→〔音羽蒲郡IC〕→東名高速道路→伊勢湾岸自動車道路→東名阪自動車道→新名神高速道路→名神高速道路→京滋バイパス→名神高速道路→中国自動車道→山陽自動車道→広島岩国道路→山陽自動車道→中国自動車道→〔関門橋〕→九州自動車道→東九州自動車道→〔椎田南IC〕→国道10号線→中津豊前線→一般道→09時45分 中津城(奥平家歴史資料館)着〔走行距離812km‥途中休憩1回(山口県のSA)‥〕

【中津城(奥平家歴史資料館)】09時45分着
 1587(天正15年)10月 黒田孝高が島津征伐の功に拠り、12万3千石の大名となる
 1588(天正16)年01月 造営〔→ 1600年 黒田長政は福岡藩52万3千石へ移封〕
 1600(慶長05)年12月 豊前一国及び豊後の速見・国東2郡 30万石で入国
 1602(慶長07)年 小倉城造営成り、忠興は小倉へ移る/嫡子忠利は中津
 1620(元和06)年12月 忠興(=三斎)隠居し、中津城へ、忠利が小倉城へ
           〔→ 1632年10月 肥後一国及び豊後2郡 54万石、熊本へ移封〕
 1632(寛永09)年10月 小笠原長次が中津8万石入封
           〔→ 同時に、長次の叔父 小笠原忠真が小倉15万石入封〕
 1717(享保02)年02月 奥平昌成(まさしげ)が中津10万石入封
           〔→ 以後、奥平氏9代で明治維新を迎える〕

[32]中津城外観
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[33]細川忠興が築いた石垣(左)と黒田官兵衛孝高(よしたか(如水))が築いた石垣(右)
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[34]中津城天守閣前にて
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【福澤諭吉旧居】11時00分着
 福沢諭吉(1835-1901)は、天宝05(1835)年、大坂の中津藩蔵屋敷で、13石2人扶持の下級武士福澤百助の次男として出生。
 1836(天保06)年 父百助死去に伴い、母子6人で中津へ帰郷。
 1855(安政02)年 諭吉19歳の時、蘭学者の大坂の緒方洪庵の適塾へ入門する迄起居した住居が添付写真[35][36]である。
 1856(安政03)年 長兄三之助病死に拠り、中津に戻り福澤家を嗣ぐ
 1867(安政04)年 適塾塾長となる
 1858(安政05)年 藩命に拠り江戸へ出府、藩主奥平家の中屋敷に蘭学熟を開く〔←・慶應義塾の起源〕
 1859(安政06)年 横浜見物を契機に英学に転じ、独学でこれを修得
 1860(万延元)年 咸臨丸で渡米、帰朝後、幕府の外国方に雇われる
 1862(文久02)年 遣欧使節団に随行し、欧州各国(仏英蘭普露葡)を廻る
 1864(元治元)年 幕府翻訳方となる
 1867(慶應03)年 幕府の軍艦受取委員として再渡米
 1868(慶應04)年 熟名を正式に『慶應義塾』とする/09月改元し、明治元年に

 ※ 大阪大学の前身でもある適塾で僅か2年で塾長になる福澤の俊英ぶりは流石である。
  20代から30代前半にかけての福澤諭吉の輝く様な活躍ぶりには驚嘆の一語に尽きる。

[35]福澤諭吉旧居前にて
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[36]福澤諭吉旧居
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 福澤諭吉旧居を見終えて、徒歩数分の所にある赤い壁の寺「合元寺(ごうがんじ)」を訪れようと地図を見ていた。
 そうした処、男性から声をかけられた。
 地元で観光volunteerをしているという。
 彼の道案内で合元寺へいく途中幾つかの寺も案内してくれた。

【赤壁/合元寺】11時50分着
 合元寺は、黒田官兵衛に討たれた宇都宮鎮房(しげふさ(1536-88))の家臣が此処で全員討死。
 その返り血が、いくら塗り替えても浮き出る為、終に赤く塗ったという伝承のある寺。

[37]赤壁 合元寺
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 次に向かったが、福澤諭吉旧居から東南東へ21kmの所にある『宇佐神宮』。

【宇佐神宮】13時35分着
 全国に神社は約11万あり、うち最も多いのは八幡宮で、その数は4万社余りある。
 当神宮は、その八幡様の総本宮。
 皇室も伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟として崇敬されている。
 当神宮は、戦前では小学生でも知っていた『宇佐八幡宮神託事件』〔別名:『(弓削)道鏡事件』〕で著名な神社である。

[38]宇佐神宮大鳥居前にて
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[39]宇佐神宮・上宮(じょうぐう)
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 〔主祭神向かって左より「一之御殿「八幡大神(応神天皇)」/二之御殿「比売大神(ひめのおおかみ):宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)」/三之御殿「神功皇后」〕

 次に向かったが、宇佐神宮から更に東南東へ22kmの所にある『熊野磨崖仏』。

【熊野磨崖仏】15時40分〔磨崖仏には15時50分着〕
 伝説では、718(養老02)年に造られたというが、文献では1228(安貞02)年に「大日石屋」「不動石屋」に存在が確認されている。
 磨崖仏への道は、急峻で僅か10分で到着したが、大汗を掻いた。

[40]熊野磨崖仏へ向かう参道入口にて
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[41]熊野磨崖仏
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 〔左:不動明王像(総高 約8m)/右:大日如来像(同 6.8m)〕

 初日、最後に向かったが、熊野磨崖仏から南へ29kmの所にある『湯けむりの里/東屋(あずまや)』。

【別府鉄輪(かんなわ)温泉/湯けむりの里 東屋】17時05分着
 旅館の窓から見た別府鉄輪温泉の街は、添付写真[43]をご覧の通り、湯けむりがいっぱいだった。
 温泉の湯質は大変良く、当日は平日だったので宿泊客も少なく、ゆっくりと静かで温かなな温泉に浸かることが出来た。

[42]湯けむりの里 東屋 入 
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[43]旅館から別府鉄輪温泉の街眺望
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【後記】当初は、二日目の模様もお伝えしようと思ったが、内容が豊富なので、次号で〔二日目~最終日〕の模様をお伝えする予定である。
 お楽しみに!

【詞書】今回の『中&北九州旅行』は九月の雨と台風16号が心配だったが、三日目の夕方長崎に着いた時「長崎は今日も雨だった‥」と、四日目の午後から夜半にかけてだけで済んだ。
 彼岸前の楽しいひとときはあっと言う間に過ぎ去った‥

  彼岸前 想ひ出深き 九州路 悟空

 ではまた‥。(了)

2016年9月13日 (火)

【時習26回3−7の会 0618】〜「09月09~11日:『広島視察〔旧・日本銀行広島支店→マツダ・ミュージアム→(泊)→広島城→宮島 厳島神社→広島原爆ドーム・平和記念公園→(泊)→呉 海上自衛隊 護衛艦「しもきた」乗船見学→(戦艦)大和ミュージアム→鉄のくじら館〕』実施報告」「09月09日:ひろしま美術館『川端康成 珠玉のcollection』展&広島県立美術館『常設展』を見て」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 今日は先週より更に二日早めの《会報》となる【時習26回3−7の会 0618】号をお送りします。
 明後日未明に自家用車にて、遅い夏休みをとって四泊五日の中&北九州旅行に行って来る関係から、今日配信します。
 実は小生、前号でお伝えした様に、先週09月09日(金)から一昨々日11日(日) 仕事で広島への視察に行って来ましたので、その模様についてのご報告です。
 猶、今回はニ泊三日の視察会と2つの美術館の絵画の写真が全部で45枚と多い為、《会報》mail には全部は up 出来ません。
 是非、本《会報》mail 末尾にある URL を click して blog をご覧下さい。

《初日(09月09日)》
 08時02分 豊橋発→こだま697号→08時51分 名古屋発→のぞみ9号→11時08分 広島着→〔観光バス〕→広島焼きの昼食
【元祖 へんくつ屋】
 視察会初日、昼食は広島市中区新天地にある『元祖 へんくつ屋』で「広島焼き」を食べた。
 広島の「お好み焼き」を食べたのは初めての経験だが、この「広島焼き」は、三河人の感じでは、「お好み焼き風ソース焼きそば」に近い。
 店の人に拠ると、広島県に「広島焼き」の店は 約1,600軒(うち広島市内は約1,000軒)あるという。
 更に店の人曰く、「広島焼き」は、県内の街毎に夫々地域の特徴があるという。
 例えば、ラーメンで有名な尾道市の「広島焼き」は、「砂肝」の入った「尾道焼き」であるし、三次市は唐麺を使った「三次唐麺焼き」である等々。

[01]元祖へんくつ屋 入口にて
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[02]広島焼き
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【旧 日本銀行 広島支店】
 食後、次に訪れたのが「旧 日本銀行 広島支店」。
 此処は、広島に原爆が投下された爆心地から僅か380mの処にある。
 原爆は、爆心地の上空600m爆発して辺りの建物の殆ど一瞬にして消失したが、堅牢な日銀の建物は現在迄残った。
 館内は、地下に被曝した当時から現在迄の復興状況が説明されていた。

[03]旧 日本銀行広島支店 入口
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[04]旧 日本銀行広島支店 1階内部にて
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 施設一巡後、次の訪問地迄の時間が30分弱余ったので、観光バスが迎えに来る迄の待ち時間を利用して、旧 日銀広島支店に隣接している「頼山陽史跡資料館」に立ち寄った。
 頼山陽(1781-1832)は、『日本外史』の著者として、又、幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えた人物。

[05]頼山陽史跡資料館 入口
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 続いて『マツダ・ミュージアム〔マツダ本社工場〕』を訪問。
 Museum兼 本社工場を見学して、マツダが如何に今絶好調であるのか、その理由の一端が解った様な気がした。

[06]マツダ・ミュージアム Cosmo Sport の横にて
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[07]同上 Roadster に乗って
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 初日の視察は以上で終了して宿泊場所の中区銀山町にあるbusiness hotelへ。
 夕食迄2時間半余りあったので、小生、路面電車とTAXIを使って「ひろしま美術館/川端康成collection展」&「広島県立美術館/常設展」を見て来た。
 本会報では、ひろしま美術館 企画展『川端康成 珠玉のcollection』展 & 広島県立美術館『常設展』についてお伝えする。
 猶、ひろしま美術館では『collection展 France近代美術』展も開催されていたが、この展覧会も素晴らしい為次回《会報》にてご紹介したい。

【川端康成(1899-1972) 珠玉のcollection展】
 本展は、作家川端康成が蒐集した美術品の企画展覧会。
 川端康成の蒐集は、多彩な美術品collectorで、浦上玉堂(1745-1820)『凍雲篩雪(しせつ)図』(19世紀初頭)&池大雅(1723-76)&与謝蕪村(1716-83)『十便十宜図(じゅうべんじゅうぎず)』という【国宝】2作品を始め、Renoir、Picassoの絵画の巨匠や、古賀春江や草間彌生(1929-)等、知名度やgenreに囚われていないのが特徴である。
 以下に、本展の中から幾つかを紹介したい。

[08]ひろしま美術館『企画展/川端康成 珠玉のcollection』展会場入口
 08_collection

[09]クレラン(Clairin, Pierre-Eugene(1897-1980))『グ―エーの4月』(水彩)1969年
 09clairin_pierreeugene1897198041969

[10]同『雪の中の詩人』(lithograph)1969年
 10lithograph1969

 ‥・1969年、クレランは川端と邂逅。本作に描かれた人物は川端康成がmodel

[11]古賀春江(1895-1933)『煙火(はなび)』(油彩)1927年
 11189519331927

[12]同『そこに在る』(水彩)1933年
 121933

[13]熊谷守一(1880-1977)『地蔵尊』(墨画)1968年
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[14]牧進(1936-)『紅彩』(膠彩(彩色画))1972年
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 ‥・川端に拠る牧進の個展の推薦文には「細部の微察、色」と「線の感覚」等、悉く自分の意見と一致すると、高い評価を与えている

[15]岩崎勝平(かつひら(1905-64))『島むすめ』(油彩)1940年
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 ‥・岩崎は、岡田三郎助、藤島武二に学んだ。本作品のmodelは川端の養女・政子

[16]草間彌生(1929-)『雑草』(水彩(Gouache・ink))1953年
 161929gouacheink1953

[17]猪熊弦一郎(1902-93)『女(仮題)』(crayon)制作年不詳
 17190293crayon

[18]東山魁夷(1908-99)『車窓(sketch)』(膠彩(彩色画))1969年
 18190899sketch1969

【広島県立美術館『常設展』】
 当館は、09月17日(土)から企画展『東山魁夷 自然と人、そして町』展が開催される直前で、常設展のみ開催されていた。
 従って、当館所蔵の展示物の展覧会だけだったが、初めての訪問でもあり、初めて見る名作を数多く見ることが出来、大変満足出来た。
《当館の沿革》
 当館の開館は、旧館が昭和43年と比較的歴史は浅く、所蔵品の当時は少なかったという。
 開館翌年の昭和44年 児島希望(1898-71)[日本画]が寄贈
 昭和49年迄 小林和作(1888-1974)[洋画/独立美術協会会員]が自らの作品と、小林が収集した作品も合わせて寄贈
 昭和56年 広島県美術品等取得基金条例 制定され(=当初の年間予算:1億円)、名作をを定期的に購入出来る様になった
 昭和58年以降 南薫造(1883-1950)の遺族から油彩画47点・水彩画89点他寄贈
 昭和60年 漸く所蔵品点数が 1,000点を超過
 広島県山県郡千代田町出身の靉光(あいみつ(1907-46)/本名:石村日郎)作品約30点が広島県下巷間の所蔵家等の協力に拠り収蔵された
 広島県又三郡吉舎町(現・三次市)出身の奥田元宋(1912-2003)[日本画/児島希望門下]の寄贈
 広島県豊田郡瀬戸田町出身の平山郁夫(1930-2009)[日本画/院展系]の寄贈

 本展は、上記画家達の作品を中心を始め、国内外の巨匠達の傑作が数多く展示されている。
 以下に、今回展示されていた作品の幾つかを紹介したい。

[19]広島県立美術館正面
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[20]奥田元宋『秋巒(しゅうらん)真如』1977年
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[21]南薫造『坐せる女』1908年
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[22]長谷川利行(1891-1940)『田端変電所』1923年
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[23]靉光(1907-46)『帽子を冠る自画像』1943年
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[24]Feininger, Lyonel(1871-1956)『海辺の夕暮(Evening at the Seashore)』1927年
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[25]Dali, Salvador(1904-89)『ヴィーナスの夢(Dream of Venus)』1939年
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[26]カーノルト(Kanoldt, Alexander(1889-1939))『静物(Still life)』1925年
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[27]Shahn, Ben(1898-1969)『強制収容所』1944年
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《二日目(09月10日)》
【広島城】
 広島の2日目は、09:00 着の 広島城から始まった。
 この城は、芸州浅野氏42万石の居城。
 最初にこの城を建てたのは、毛利輝元〔120万石→ 関ヶ原合戦後、萩 37万石〕。
 毛利輝元が1589年 鍬入れ、1599年 落成。
 関ヶ原戦後、福島正則〔49万8千石(1600-19)〕。
 次いで浅野長政の次男 浅野長晟(ながあきら)以下浅野氏12代〔1619-1871〕が治めた。

[28]広島城天守閣前にて
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[29]中国軍管区司令部原爆慰霊碑
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 ‥・此処の半地下室に司令部通信室があり、昭和20年08月06日午前08時15分原爆が投下された後、此処で学徒動員として働いていた比治山高等女学校の女学生が「広島の壊滅」を通信したのが、原爆を大本営に知らせた第一報だったという。
   此処は中国軍管区司令部通信室という重要軍事施設である為に、学徒動員された当該女学生達は、此処に勤務する将校達の子女だった。
   当該司令部通信室は、爆心地から僅か790mという至近距離だった。
   が、幸いなことに通信室が半地下室の堅牢な建築物であった為、通信を担当した女学生は奇跡的に命が助かったという。

【宮島『厳島神社』】
 次に訪れたのは、10:40 着の安芸の宮島 → ferry の連絡船に乗り「厳島神社」参詣。
 小生は、「広島城」「厳島神社」共に一昨年に続いて2回目の訪問になる。
 因みに前回は干潮で「大鳥居迄歩いて行けた」が、今回は干潮が午前09時だったので、既に「大鳥居迄海水が来ていた」。

[30]大鳥居をbackに
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[31]厳島神社
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 ‥・神殿にはまだ海水が届いていなかった

【中国醸造(株)】
 次の訪問地は、地元の酒蔵「中国醸造(株)」。
 ‥・此処は今年業歴98年になるが、酒造makerとしては新しい方だという
   土産に当店で最も人気の高い芋焼酎「達磨」(720ml ¥1.296)を買った。

[32]中国醸造(株)の入口
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【広島原爆ドーム&平和記念公園・広島平和記念資料館】
 二日目最後の訪問地は、世界遺産「原爆ドーム」と「平和記念公園」
 ‥・此処も2年ぶり2回目の訪問となる。
   原爆の悲惨さは何度見ても辛い。
   小生、来週初09月18日(日)には、長崎市の「長崎原爆資料館」を訪れることにしている。
   今回二週続けて「広島平和記念資料館」と「長崎原爆資料館」を訪問する訳だが、偶然とは言え、何か運命めいたものを感じる

[33]原爆ドーム
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[34]広島平和記念資料館 内に掲示されていた米国オバマ大統領が広島に今年05月に持参された折鶴
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【広島カープ優勝に盛り上がる広島の街】
 この日は、広島v.s.巨人戦が東京・後楽園ドームにて開催された。
 そして、午後9時過ぎ、広島市内繁華街の懇親会二次会会場で広島カープの優勝を聞いた。
 その瞬間、広島の人達の歓喜は想像を絶するハチャメチャな盛り上がりぶりとなった。
 添付写真は、その二次会会場での小生([36])と、二次会会場を出た後、中区胡町・堀川町・流川辺りを練り歩くCarp fan の人達([37][38])。

[35]二次会会場での小生(右端)
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[36]広島カープ優勝に盛り上がるCarp fanの人達1
 36carp_fan1

[37]同上2
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《三日目(最終日(09月11日))》
【海上自衛隊/護衛艦「しもきた」】
 広島視察会の最終日は、10:00に呉市昭和町にある海上自衛隊 護衛艦「しもきた」を見学。
 呉基地には、護衛艦・練習艦・潜水艦が全部で39隻(うち潜水艦7隻)が所属。
 海上自衛隊の保有艦船は、呉基地は、横須賀に次いで全国2番目の規模(但し、潜水艦に限れば呉基地が日本一)だという。

[38]海上自衛隊 護衛艦「しもきた」
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[39]護衛艦「しもきた」の甲板にて
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[40]戦艦大和が建造されたdock
 40dock

【大和ミュージアム&鉄のくじら館】
 視察会最後の訪問地は、同じ呉市内にある戦艦大和の記念艦である「大和ミュージアム」とその直ぐ近くにある「鉄のくじら館〔潜水艦記念艦〕」。

[41]戦艦大和の十分の一model 1
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[42]同上 2
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 ‥・戦艦大和を100m上空から見た大きさに見える。

[43]ゼロ戦
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[44]人間魚雷「回天」
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[45]鉄のくじら館
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 ‥・この「鉄のくじら館」は、本物の潜水艦「あきしお」。
   「あきしお」は、1985年進水→2004年除籍(全長76.2m、幅9.9m、速力20knot(水中)、乗員75名)。

 15:00広島発 のぞみ176号 → 名古屋17:29名古屋発 こだま672号 → 18:02豊橋着

【後記】修学旅行みたいな真面目な視察会だったが、二日目の晩にCarp fanの人達と大いに盛り上がることが出来たのは一生ものの楽しい思い出となった。
 お別れに、この視察会を済ませて拙句を一句‥

 広島の 歴史文化を 学ぶあき(秋=安芸) 悟空

 ではまた‥。(了)

2016年9月 8日 (木)

【時習26回3−7の会 0617】〜「08月27日:杉本美術館『動物のいる風景』展を見て」「松尾芭蕉『更科紀行』その2」「矢野久美子『ハンナ・アーレント ―「戦争の世紀」を生きた政治哲学者 ―』を読んで」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 今日はいつもより早めですが【時習26回3−7の会 0617】号をお送りします。
 実は小生、明日09月09日(金)~11日(日) 仕事で広島への視察がある為、いつもより早目の《会報》up となりました。
 猶、この広島視察の模様は、次回《会報》【0618】号にてお伝えしますのでお楽しみに!

■さて、今日最初の話題は、掲題・副題にある様に、前回&前々回《会報》の2回連続でお伝えした様に、08月27日(土)に私用で名古屋に行った際訪ねた3つの美術館のうちの今回は最後の訪問地、知多郡美浜町にある杉本志美術館『動物のいる風景』展についてである。
 本企画展について、本展leafletから一部引用してご紹介する。

 杉本健吉は、海外での sketch を纏めた画集の中で、「Exoticな景色は勿論ですが、それと猶、ロバや羊、牛、猫、犬なんでも動物が人間の世界に入って、まるで同位置にある様なのがたまらない魅力でありました」と記している。
 正に人間と「同位置」にある動物たちを堪らない魅力だと感じ、様々な姿で描いた。
 この心情は、奈良の遊ぶ鹿、愛犬だったビーグル(beagle)犬「トム」、絵本の挿絵等々の写生に生き生きと描かれている。
 今回は、この様な杉本健の生き物への情愛から生まれた、ほのぼのとした作品を紹介する。

[01]杉本美術館入口
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[02]本展leaflet
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[03]杉本健吉『大和歩き』2000年
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[04]同『西ノ京(薬師寺塔)』1960年
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[05]同『牡丹園のトム』1986年
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[06]同『牡丹とトム』1983年
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[07]同『ひまわり(トム)』1987年
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[08]同『春庭・トム』1988年
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【小生comment】
 本展leafletで紹介している通り、杉本の風景画には、犬や猫等が、或る時は自然に、或る時は意図ある様に登場して、単純な風景画とは一寸違った雰囲気で見る者をその絵画の世界に誘ってくれる。
 添付写真の絵で言うと、[03]『大和歩き』や[04]『西ノ京(薬師寺塔)』に描かれている「猫」がそれである。
 又、愛犬「トム」を見ていると、杉本健吉の愛犬への温かな情愛が確りと伝わって来る。

■続いては、前《会報》から始まった松尾芭蕉『更科紀行』の「その2」についてである。ご覧下さい。

《原文》
 夜は草の枕(注1)を求(もとめ)て、昼のうち思ひまうけ(注2)たるけしき、むすび捨(すて)たる發句(ほっく)など、矢立(やたて)(注3)取出(とりいで)て、燈(ともしび)の下(もと)にめをとぢ頭(かしら)たゝきてうめき伏せば、かの道心(だうしん)の坊、旅懐(りよくわい)の心うくて物おもひするにやと推量し、我を慰(なぐさめ(ん))とす。
 わかき時拝(を)がみめぐり(注4)たる地(ち)、あみだのたふとき、数をつくし、を(=お)のがあやしとおもひし事共(ことども)(注5)、はなしつゞくるぞ、風情のさはりとなりて何を伝(いひ)出(いづ)る事もせず。
 とても(注6)まぎれたる月影の、かべの破れより木(こ)の間(ま)がくれ(注7)にさし入(いれ)て、引板(ひた)(注8)の音(おと)、しかおふ声(こゑ)、所ゝにきこへ(=え)ける。
 誠にかなしき秋の心(注9)、爰(ここ)に盡(つく)せり。

《現代語訳》
 その夜は仮の宿を求めて、昼のうちに心に留めて置いた景色や、作り捨てて置いた発句等を、キチンとした作品にしようと矢立を取り出して灯火の下に目を閉じ頭を叩いて苦吟していると、例の乞食行脚の僧が、私が旅の辛さに沈み込んでいるものとあて推量して、私を慰めようとする。
 若い時巡礼した土地や、阿弥陀如来の尊さ等を数々と話し、自分が体験した興味深い多くの事を話し続けるので、これが風情の邪魔となって全く句が出来きずに終わった。
 どうせ風情は失われて仕舞ったので、今更名月を見ても良い句は出来ないのだが、それでも月の光が壁の破れから木の間を漏れて差し込んで来て、山田の引板がの鹿を追う音が其処此処から聞こえて来たのだった。
 実に哀切なる秋の風情、此処に極まる感がある。

《語句》
(注1)草の枕:仮の宿
(注2)思ひもうける:心にとどめる
(注3)矢立:携帯用の墨壺付き筆入
(注4)をがみめぐる:巡礼する
(注5)をのがあやしとおもひし事共:自分が体験した興味深い奇異雑談の類
(注6)とても:どうせ/といっても
(注7)木の間がくれ:木の間を漏れて/「木の間より洩りくる月のかげ見せば心づくしの秋は来にけり」(古今集)
(注8)引板:ひた/田に来た鳥を追い払うための鳴子/「庵(いほ)に洩(も)る月の影こそさびしけれ山田は引板(ひた)の音ばかりして」
(注9)かなしき秋の心:「月みれば千々に物こそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど」(大江千里)など

《原文》
「いでや(注1)月のあるじ(注2)に酒振(ふる)まはん」といへば、さかづき持(もち)出(いで)たり。
 よのつねに一(ひと)めぐり(注3)もおほきに見えて、ふつゝかなる蒔絵(まきゑ)(注4)をしたり。
 都の人はかゝるものは風情なしとて、手にもふれざりけるに、おもひもかけぬ興に入(いり)て、[王偏に靑]碗(せいわん)(注5)玉巵(ぎよくし)(注6)の心ちせらるも所がらなり。

  あの中に蒔絵書(かき)たし宿の月

《現代語訳》
 「さあ月見のご馳走にお酒をどうぞ!」と言うと、盃を持ち出して来た。
 一般的な盃よりも一回り大きく見えて、無風流な蒔絵が施してある。
 都の人はこんなものは風情が無いと手にも触れないだろうが、私には思いの他趣(おもむき)深く感じられ、「碧碗玉壺」の如く思われるのも、こんな山中迄旅すればこそである。

 【意】盃の中に宿から見えるあの名月に蒔絵を書きたいものだ
 〔季語〕「月」‥秋

《語句》
(注1)いでや:さあ
(注2)月のあるじ:「月の様な「月がこの宿の主人(あるじ)の如く」‥と解することも出来る/「ご馳走」
(注3)一めぐり:一まわり
(注4)蒔絵:漆地に金銀の粉や箔、貝などを置いて描く絵模様
(注5)[王偏に靑]碗:この字はない‥芭蕉の記憶違いか?/「青碗」「碧碗」「清碗」等を指しているものと思料
(注6)玉巵:玉壷とも

【小生comment】
 『更科紀行』は、散文に拠る本文は以上で終わり、あとは俳句が12句記されて終わる。
 矢張り、『奥の細道』は勿論、『笈の小文』と比べても、いま一つの出来栄えである。

■今日最後の話題は、前《会報》にて予告し、この4日間で300頁余りを読に終えた、「ハンナ・アーレント著/大久保和郎・大島かおり訳『全体主義の起源3/全体主義』についてご紹したかったのであるが、本書の中身が高度で濃すぎた為、読解能力に乏しい小生はこの一週間では読破出来なかったのである。
 其処で、急遽、中公新書の「矢野久美子『ハンナ・アーレント ―「戦争の世紀」を生きた政治哲学者 ―』を読み、その概略についてご紹介させて戴くことに変更した。
 ご容赦賜りたい。
 以下に、著者紹介、続いて本書indexを記す。
 猶、index では本書の概要を解り易くする為に、「◆→・」以下に本文の一部を引用し補足した。

 著者 矢野久美子(1964- )氏:東京外国語大学大学院博士後期課程修了/「ハンナ・アーレント、あるいは政治的思考の場所」で博士(学術)
 フェリス女学院大学国際交流学部教授

第1章/哲学と詩への目覚め 1906-33年
 Ⅰ 子供時代 ‥〔P.004〕
   父の死と祖父の支え/ケーニヒスベルクのユダヤ人/反ユダヤ主義的風潮のなかで/
   母の教えとその姿勢/哲学を学ぶことを決意/母の再婚と親友たち
 Ⅱ マールブルク(Marburg)とハイデルベルク(Heidelberg)での学生生活 ‥〔P.022〕
   ハイデガー(Heideggerの)とその弟子たち/
   秘められた恋〔P.26〕
 ◆→・1925年 Arendt は18歳。Heideggerは彼女より17歳年上で妻と二人の息子がいた。〔中略〕
    Marburg(大学)の魔術師、Charisma的教師であったHeideggerの求愛を受け入れた。〔中略〕
    (人口23千人の)小さな街Marburgでの二人の関係はHeideggerの妻エルフリーデの耳に入った。〔中略〕
    Heideggerは『存在と時間』の執筆に集中していく。
    1926年01月、Arendtは次学期からMarburgを去ることをHeideggerに伝えた。
    Marburg大学で学んだのは3学期間、即ち1年半だった。/
   ヤスパース(Jaspers)のもとへ〔P.29〕
 ◆→・1926年夏学期から、Arendt は Heidelberg大学に転学する。
    1929年「Augustinusにおける愛の概念」というthemeで博士論文を発表する迄の彼女の指導を引き受けたのは Karl Jaspers だった。
    彼は、当時 Heideggerの盟友で、精神病理学専門の医学博士で、Heidelberg大学の哲学科に心理学という分野から参入、哲学に転じた。
   博士論文「アウグスティヌス(Augustinusu(354-430))における愛の概念」
  ※ 2015年09月06日付【時習26回3-7の会0564】
  ※ http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/260564150829-ci.html /
   ブルーメンフェルト(Kurt Blumenfeld(1884-1963))との出会い
 Ⅲ Nazi前夜 ‥〔P.36〕
   ギュンター・シュテルンとの結婚/Academismの枠に収まらない問題意識/
   ラーエル・ファルンハーゲンという女性/忍び寄るNaziの影
第2章/亡命の時代 1933-41年
 Ⅰ Paris ‥〔P.047〕
   旅券なしの出国/ユダヤ人としての仕事/Parisの亡命者たち/ブリュッヒャー/
   ベンヤミン(Walter Bendix S. Benjamin(1892-1940))「ブレヒト(Brecht(18989-1956))の詩への註釈」/亡命者と友情
 Ⅱ 収容所体験とベンヤミンとの別れ ‥〔P.065〕
   第二次世界大戦勃発/ギュルス収容所/ベンヤミンとの最後の日々/文書の壁
第3章/New Yorkのユダヤ人難民 1941-51年 ‥〔P.075〕
 Ⅰ 難民として ‥〔P.076〕
   米国到着/生きる為の英語習得/家族夫々の苦労/論争的essayistの誕生/
   『アウフバウ』への寄稿
 Ⅱ 人類に対する犯罪 ‥〔P.088〕
   「アウシュヴィッツ(Auschwitz)』の衝撃/人間に拠る人間の無用化/
   パーリア(pariah(=賤民))としてのユダヤ人/ドイツの敗戦/友人たちの消息/
   雑誌『ヴァンドルング』の創刊
 Ⅲ『全体主義の起源』‥〔P.103〕
   成り立ちと構造/反ユダヤ主義/帝国主義/
   全体主義〔P.112〕
 ◆→・全体的支配は人間の人格の徹底的破壊を実現する。〔中略〕
    全ての行為は無意味になる。
    強制収容所に送られた人間は、家族・友人と引き離され、市民権を奪われた。
    自分が行ったことと見に起こることの間には何の関連性もない。〔中略〕
    行為は一切無意味になる。
    Arendt はこうした事態を法的人格の抹殺と呼んだ。
    法的人格が破壊された後には、道徳的人格が虐殺される。
    Gas室や粛清は忘却のsystem に組み込まれ、死や記憶が無名で無意味なものとなる。〔中略〕
    更には、肉体的かつ精神的あ極限状態に於いて、夫々の人間の特異性が破壊される。
    個々の人間の性格や自発性が破壊され、人間は交換可能な塊になる、とArendt は書いた。
    自発性は予測不可能な人間の能力として「全体支配の『最大の障碍』」となる。
    独裁や専制と違って、全体的支配は全てが可能であると自負し、人間の本性を変え人間そのものへの全体支配を遂行した。
    「不可能なことが可能にされた時、それは罰することも赦すことも出来ない絶対の悪となった」のである。〔P.113〕
    Arendt は全体主義下で遂行された「人類に対する犯罪」を人間の『複数性』に対する犯罪であると看做した。〔中略〕
    Arendt は Nazism や Stalinism の終焉後も生き残り得る「全体主義的な解決法」(複数の抹消)に対して警告を発し続けたのであった。〔P.115〕
第4章/1950年代の日々 ‥〔P.117〕
 Ⅰ Europa再訪 ‥〔P.118〕
   知識人夫々の選択/帰郷/ハイデカーとの再会/
   シュテルンベルガーとの応酬/「IdeologieとTerror」
 Ⅱ 米国での友人たち ‥〔P.130〕
   New Yorkの仲間/沖仲仕の哲学者ホッファー/「砂漠の中のoasis」
 Ⅲ『人間の条件』‥〔P.141〕
   成立の背景/労働・仕事・活動/公的なものと社会的なもの
第5章/世界への義務 ‥〔P.153〕
 Ⅰ 米国社会 ‥〔P.154〕
   世界疎外/リトルロック事件(Little Rock Nine/1957年/Arkansas州)/「教育の危機」
 Ⅱ レッシングをとおして ‥〔P.164〕
   『現代政治思想の疑わしい伝統在庫品』/高まるドイツでの評価/
   レッシング賞受賞/ユダヤ人であること/政治の現代形を認識すること
 Ⅲ アイヒマン(Eichmann)論争 ‥〔P.180〕
   アイヒマン裁判/『JerusalemのEichmann(Karl Adolf(1906-62))』
  ※ 2015年08月23日付【時習26回3-7の会0562】
  ※ http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/26-056208152637.html /
   友人たちのと絶縁
第6章/思考と政治 ‥〔P.191〕
 Ⅰ「論争」以後 ‥〔P.192〕
   避難の嵐のなかで/彼女を支持した人びと/ヤスパースに拠る励まし/
   さらなる理解の為に/「独裁制のもとでの個人の責任」/ラジオ・テレビへの出演
 Ⅱ 暗い時代 ‥〔P.205〕
   ケネディ(Kennedy(John F.(1917-63)))とロンカッリの死/真理と政治/死者との交わり
 Ⅲ「はじまり」を残して ‥〔P.217〕
   精神の生活/満足を与える生き方/思考と活動

[09]矢野久美子『ハンナ・アーレント ―「戦争の世紀」を生きた政治哲学者 ―』
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【小生comment】
 本書は、20世紀を代表する政治哲学者 Hannah Arendt の生涯とその主要著作について、非常に簡潔に解り易く説明してくれている。
 著者 矢野氏が あとがき で次の様に述べている。
 「2012年には、ドイツのマルガレ―テ・フォン・トロック監督に拠る映画『ハンナ・アーレント』が公開され、2013年には日本でも大きな注目を集めた。
  Arendt の著書は殆ど日本語に翻訳されているが、難解なtextが広範な読者を得ているとは言い難い。
  映画公開迄 Arendt の名を知る人はそれ程多くなかっただろう。
  処が、Eichmann 論争と思考する女性に焦点を絞ったこの映画は、多くの人々の共感を得たのである。
  この映画の力に率直に感銘すると共に、研究者の端くれとして、自分は Arendt の言葉と人々との橋渡しが出来ているのだろうか、と責任を感じる。」
 小生も、この映画を見て、Arendt の著作に興味を持ち、初めて読み出した一人である。

 Arendtが、Franceから脱出し、当時中立国だったPortugalの首都Lisbonから米国へ脱出する処など、場所こそ違え、映画『カサブランカ』を彷彿とさせる。
 収容所から偽の証明書で脱出し、visaを取得して無事米国へ脱出出来る処など、彼女の実力と運の強さを実感させられる。
 『全体主義の起源』をはじめとする名著の数々は米国時代に書かれたものが多い。
 これも彼女に定められた運命が齎した所産であると言っていい。
 最後に本書の「まえがき」で矢野氏が Arendt の略歴について紹介しているので、一部を引用してお伝えする。

 著者 Hannah Arendt は20世紀を代表する政治哲学者。
 彼女は1906年ドイツの中流のユダヤ人家庭に生まれ、1975年New Yorkで渉外を終えた。
 少女時代から文学や哲学に親しみ、大学では哲学を専攻。
 師は、一時期恋愛関係にもなったMargin Heidegger(1889-1976)、続いて彼女の博士論文を教授したKarl Theodor Jaspers(1883-1969)の二人。
 1933年Nazi 支配下のドイツからParisへと亡命し、其処でユダヤ人の青少年やドイツ占領地域からの避難民の救出に携わった。
 第二次世界大戦勃発後には数ヶ月間Franceの収容所に送られたが脱出し、米国へ渡る。
 以後、時事問題や政治的・哲学的問題につちえ書き続けた。
 1951年『全体主義の起源』、1958年『人間の条件』、1963年『革命について』・『Jerusalemのアイヒマン』等が代表作。

 彼女の文章は、明晰な頭脳に裏打ちされた論理展開が極めて高度な為、決して平明ではないが、凄く勉強になる。
 次回《会報》で『パーリアとしてのユダヤ人』、次いで『全体主義の起源/第三部 全体主義』、『人間の条件』の順でご紹介したいと思っている。

【後記】08月27日、知多郡美浜町にある杉本美術館の近くに『恋の水神社』という粋な名前の神社がある。
 その名前につられて立ち寄ってみた。
 小さな神社であるが、複数のcoupleが参詣に訪れていた。
 明るい水色の鳥居と赤地に白抜きで『恋の水神社』の幟旗(のぼりばた)‥
 その幟旗が秋風にはためいていた‥恋の訪れを知らせるかの様に

 秋風に 幟はためく 恋の水  悟空

[10]恋の水神社入口
 10

 ではまた‥。(了)


2016年9月 4日 (日)

【時習26回3−7の会 0616】〜「08月27日:岐阜市歴史博物館分館/加藤栄三・東一記念美術館『加藤栄三・東一 鵜飼を描く』展を見て」「松尾芭蕉『更科紀行』その1」「牧野雅彦『精読アレント《全体主義の起源》』を読んで」「千賀君の‥サービス付き高齢者住宅『M&S大高亀原』・『デイケア大高亀原』のご紹介」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 今日も【時習26回3−7の会 0616】号をお送りします。

 時の移ろいはホント早いものである。
 もう2016年も09月となった。
 時節も明明後日09月07日(水)には『白露』となる。
 『白露』というと、この《会報》で既に何度もご紹介している名句二句が頭に浮かぶ。

 金剛の露ひとつぶや石の上  川端茅舎
 ※ 2012年08月26日付【時習26回3-7の会 0408】
   http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/26-040808211001.html

 芋の露連山影を正しうす  飯田蛇笏
 ※ 2009年09月21日付【時習26回3-7の会 0256】
   http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/26-025691826359.html
 ※ 2009年09月28日付【時習26回3-7の会 0257】
   http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/26-0257-2310.html■さて、今日最初の話題は、掲題・副題にある様に、前《会報》でお伝えした様に、08月27日(土)に私用で名古屋に行った際訪ねた3つの美術館のうち、大垣市守屋多々志美術館に続いてお訪れた岐阜公園内にある岐阜市歴史博物館分館/加藤栄三・東一記念美術館『加藤栄三・東一 鵜飼を描く』展についてである。
 本企画展について、本展leafletから一部引用してご紹介する。

 岐阜市美殿町出身の日本画家 加藤栄三・東一兄弟は、故郷への思い入れが強く、度々帰郷し『鵜飼』を motif に多くの作品を描いた。
 『鵜飼』について二人は「芭蕉の句ではないが、豪華絢爛とした後に、火が消えた、あの寂しさと華やかさの二つの dramatic な感じがする。
 華やかなれば華やかな程、ふっとそれが消えた時の、その裏側にある悲しさ、そんなものが描けたらと思う。
 画室に居ても瀬の音が聞こえて来る」と語っている。
 展示作品から、『鵜飼』に対する二人の思いを感じ取って下さい。

[01]岐阜公園入口にある織田信長像
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[02]岐阜公園から岐阜城遠望01
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[03]同上02
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[04]岐阜市歴史博物館分館/加藤栄三・東一記念美術館入口
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[05]本展leaflet
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[06]加藤栄三『篝映』
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[07]同『鵜飼』
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[08]同『鵜』
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[09]加藤東一『総がらみ』
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[10]同『篝火』
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【小生comment】
 本展leafletでこの様に紹介しているが、実際に展示作品を眺めていると、加藤栄三・東一兄弟の思いが伝わって来た様に感じた。
 猶、当館第2展示室では『それぞれの鵜飼』展という企画展も開催され、地元出身の画家達の『鵜飼』をthemeにした作品が幾つか展示されていた。
 添付写真[05]本展leafletの右下の絵〔‥舞妓が横笛を奏でている日本画‥〕長縄士郎『長良川』はなかなか良かった。
 同じく左下の絵は江崎寛友『鵜飼』。

■続いては、松尾芭蕉『更科紀行』についてである。
 2016年05月27日付《会報》でお約束した通り、本《会報》から3回に分けてご紹介する。
 『更科紀行』は、松尾芭蕉(1644-94)45歳の、1688(貞享05)年08月11日(新暦09月05日)、名古屋で呉服商を営む門人・越智越人(1656-1739?)を伴い、美濃国・岐阜を出発し、「寝覚の床」「木曾の桟(かけはし)」「立峠(たちとうげ)」「猿が馬場(ばんば)峠」を経て、08月15日夜、信州 更科にある「姨捨(おばすて)山」で中秋の名月を鑑賞、善光寺参詣をして「碓氷峠」を経て、08月下旬(新暦09月20日過ぎ)、江戸 芭蕉庵へと帰る、半月程の短い紀行俳文集である。
 『更科紀行』の文字数は千字程度と短く、掲載された俳句は全13句(うち越人は2句)。
 杜国との旅〔『笈の小文』〕を終えて京都へ入ったのが1688(貞享05)年04月23日(新暦05月22日)。
 それから2箇月半程で『更科紀行』の旅に出た訳である。
 ※ 2016年05月27日付【時習26回3−7の会0602】〜「松尾芭蕉『笈の小文』第15回【須磨2】」
   http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/260602150507050.html

 因みに、芭蕉はそれから八箇月後の元禄02年03月27日(新暦1689年05月16日)から『奥の細道』の旅が始まった。
 更に因みに、貞享05年08月(新暦1688年09月)から8箇月後が元禄02年03月(同1689年05月)に2年飛んでいるのは09月に改元した為である。
 貞享05年9月30日(新暦1688年10月23日)に貞享05年から元禄元年へ改元
 ※ 2015年05月29日付【時習26回3-7の会0550】~「『奥の細道』第2回‥『旅立』→
   http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/26055020528conc.html

 今日は、その第1回目「その1」をお届けする。
 ご覧下さい。

《原文》
 さらしなの里(注1)、お(=を)ばすて山(注2)の月見事(みむこと)、しきりにすゝむる秋風の、心に吹さは(=わ)ぎて、ともに風雲の情(じやう)(注3)をくるはすもの、又ひとり越人(ゑつじん)(注4)と伝(いふ)。
 木曾路(注5)は山深く道さがしく(注6)、旅寐(たびね)は(=の)力も心もとなしと、荷兮子(かけいし)(注7)が奴僕(ぬぼく)(注8)をしておくらす。
 おのゝ心ざし尽すといへ共(ども)、羇旅(きりょ(驛旅=えきりょ))(注9)の事心得(こころえ)ぬさまにて、共におぼつかなく、もの事のしどろにあとさきなる(注10)も、中ゝにおかしき事のみ多し。

《現代語訳》
 更科の里「姨捨山の月」を見ることをしきりに勧める秋風が心の中に吹き騒いで、(私と)共に風雅心を持つ為に浮かれ立つ者が又一人居て、其名を越人という。
 木曾路は山深く道も険しいけわしいのだから、旅寐を続ける体力も心配だから‥と、名古屋門人の荷兮(かけい)が、下男をお供に付けて送ってくれた。
 (風流人の)色々な人が心尽しの配慮をしてくれるのだが、肝腎の旅行の事には不案内なので、皆頼りなく、物事も覚束なく乱れて順序が前後することも、却って面白く思える事がばかりだ。

《語句》
(注1)さらしなの里:長野県千曲市の旧・更級(さらしな)郡上山田町)~旧・更埴(こうしょく)市八幡付近一帯
(注2)お(=を)ばすて山:「わが心なぐさめかねつ更科や姥捨山にてる月を見て」(古今集/雑歌上/詠人しらず)拠り、更級山を姨捨山とするに至った
   月の名所/標高 1,252m/現在の冠着山(かむりきやま)
(注3)風雲の情:自然の風景を楽しむ人の風流心を持った者/風狂者
(注4)越人:越智越人(1656-1736/39?)/越後出身/名古屋呉服商を営む/『更級紀行』の旅に同行/蕉門十哲の一人
(注5)木曾路:中仙(=中山)道の一部/木曾谷を通る街道/贄川(にえかわ)~馬籠(まごめ)辺りを言う/歌枕
(注6)さがしく→さがし(=険し/嶮し):険しい、険阻(けんそ)である
(注7)荷兮子(かけいし):山本荷兮((かけい) 1648-1716)/通称:武衛門/名:周知/名古屋在住の医師/名古屋芭蕉門
   俳諧七部集のうち「冬の日」「春の日」「曠野(あらの)」を編纂/のち蕉風を離れ、晩年は連歌に転じた
(注8)奴僕:下男
(注9)驛旅((えきりょ)=羇旅(きりょ))の事:旅や宿の段取り
(注10)しどろにあとさき(=後先)なる:乱れて順序が前後する

《原文》
 何ゝ(なになに)といふ処にて、六十(むそぢ)斗(ばかり)の道心の僧(注1)、おもしろげもお(=を)かしげもあらず、たゞむつゝ(注2)としたるが、腰たは(=わ)むまで物おひ、息はせはしく、足はきざむやうにあゆみ来(きた)れるを、ともなひける人のあはれがりて、を(=お)のゝ肩にかけたるもの共(ども)、かの僧のおひねもの(注3)とひとつにからみて馬に付(つけ)て、我を其(その)上(うへ)にのす。

《現代語訳》
 何とかという所で、六十歳程の乞食行脚の僧が、愛想も愛嬌もなく、ただむっつりと無愛想にしているのだが、腰が曲がる程荷物を背負い、息を切らして、足は一寸刻みにやっとのことで歩るいて来たのを、同行の人々が気の毒がって、夫々が肩に掛けた荷物をその僧の荷物と一つ纏めにして馬に積み、私をその馬上に乗せた。

《語句》
(注1)道心の僧:乞食行脚をしている僧/乞食坊主
(注2)むつむつ:むっつりして無愛想な様子
(注3)おひねもの:背負っている荷物/伊賀・伊勢・近江の方言に背負うことを「おいねる」という

《原文》
 高山(かうざん)奇峰(きほう)(注1)、頭の上におほひ重(かさな)りて、左りは大川(=河)(注2)ながれ、岸下(がんか)の千尋(せんじん)のおもひをなし、尺地(せきち)(注3)もたいらかならざれば、鞍(くら)のうへ静(しづ)かならず、只(ただ)あやう(=ふ)き煩(わづらひ)のみやむ時なし。

《現代語訳》
 高い山や見たこともない変わった形の峰が頭の上に覆い重なる様に迫っていて、左には大河が流れ、崖の下は千尋の谷底、少しも平らな地面が無いので、(馬上の私は)心が落ち着かず、ただもう恐ろしい気持ちの止む時が無い。

《語句》
(注1)高山奇峰:高い山や見たこともない変わった形の峰
(注2)大河:木曽川
(注3)尺地(せきち):僅かな地

《原文》
 桟(かけ)はし(注1)、寝覚(ねざめ)(注2)など過(すぎ)て、猿がばゝ(注3)・たち峠(たうげ) (注4)などは四十八曲リ(注5)とかや。
 九(つづら)折(をり)重(かさな)りて(注6)雲路(くもぢ)にたどる心地せらる。
 歩行(かち)より行(ゆく)ものさへ、眼(め)くるめきたましゐ(=ひ)しぼみて、足定まらざりけるに、かのつれたる奴僕いともおそるゝけしき見えず、馬のうへにて只ねぶりにねぶりて、落ぬべき事あまたゝびなりけるを、あとより見あげてあやう(=ふ)き事かぎりなし。
 仏の御(み)心に衆生(しゆじやう)のうき世を見給ふもかゝる事にやと、無常(むじやう)迅束(=速) (注7)のいそがはしさも我身にかへり見られて、あはの鳴門(注8)は波風もなかりけり。

《現代語訳》
 木曾の桟橋(かけはし)・寝覚の床など(の歌枕)を過ぎて、猿が馬場・立峠などは四十八曲りもあるかと思う程に道が曲がりくねっている。
 幾重にも道が折り重なった様に道を登って行くと、いつの間にか雲の中の道を辿っている様な心地がする。
 歩いて行く者でさえ、目も眩み肝魂が縮み上がる程で足許が覚束ないのに、例の供の下男は、怖がる気配もなく、馬上でただ只管眠って、落馬しそうな場面が幾度もあり、後ろから見上げていると、危険なことこの上ない。
 仏の御心の立場から浮世の人間をご覧になられるのもこの様なお気持ちかなのか‥と。そう思うと、人生の無常迅速の慌ただしさが、我が事の様に理解出来て、かの兼好法師が「世の中を渡りくらべて今ぞ知る 阿波の鳴門は波風もなし」と詠んだというのも、宜(むべ)なるかなと思われるのだった。

《語句》
(注1)桟はし:険しい崖の中腹に杭を打ち板を渡して橋としたもの/木曾路の歌枕/固有名詞:木曾路の途中、現在の上松町と木曾福島町の間にある
(注2)寝覚:寝覚の床/歌枕/巨岩平な処を「寝覚ノ床」という/道順としては「桟橋」より手前にある
(注3)猿がばゝ:猿が馬場峠/長野県東筑摩郡麻積(おみ)から更埴市八幡へ通じる道/松本の北方にある
(注4)たち峠:立峠/東筑摩郡四賀村会田から本城村乱橋へ行く途上にある/松本の北/順番としては立峠→猿が馬場となる
(注5)四十八曲リ:曲がりくねっている様/「いろは四十八」は数の多い様をいう
(注6)九折重りて:幾重にも折重なった険しい道の様
(注7)無常迅速:万物が忽ちのうちに生滅流転すること/人生の儚いこと/仏教語/此の頃拠り、芭蕉は此の言葉を頻用する様になる
(注8)あはの鳴門:「世の中を渡りくらべて今ぞ知る阿波の鳴門は波風もなし」(伝・吉田兼好)
   ‥【意】阿波の鳴門を渡ってみて解ったヨ、人生の荒波に比べたら、全く波風が無い様なものだナ

【小生comment】
 『更科紀行』の行程は、中仙道だから当然山道が多く、東海道に比べて嶮しかったことだろう。
 今年は、予定が入っていて無理だが、比較的近未来に姨捨山の名月を一度拝んでみたいものだ。

■今日最後の話題は、最近読んだ、牧野雅彦著『精読 アレント/全体主義の起源』についてである。
 先ず以下に、本書のindexを記す。
 本書の概要を解り易くする為に、「◆→・」以下に本文の一部を引用し補足した。

 序 章/アレント(Arendt, Hannah(1906-75))『全体主義の起源』‥〔P.015〕
 第一章/『全体主義の起源』以前の Arendt‥〔P.025〕
 第二章/ユダヤ人(Jew)と国民国家 ―『全体主義の起源』第一部「反ユダヤ主義」‥〔P.041〕
  第一節/反ユダヤ主義と全体主義‥国民国家を超えて‥〔P.042〕
  第二節/国民国家体制の展開とユダヤ人(Jew)‥〔P.044〕
  第三節/反ユダヤ主義の形成‥〔P.050〕
   〔1 最初の反ユダヤ主義(東欧とプロイセン(Preussen))/2 反ユダヤ主義政党/3 AustriaとFranceの反ユダヤ主義/4「安定の黄金時代」〕
  第四節/ユダヤ人(Jew)と社会‥〔P.059〕
   〔1 同化と「例外ユダヤ人(Jew)」/2 例外ユダヤ人(Jew)としてのディズレイリ(Disraeli, Benjamin(1804-81))
    3一九世紀末Parisの社交界とユダヤ人(Jew) 〕
  第五節/ドレフュス(Dreyfus(1859-1935))事件 反ユダヤ主義の予行演習 ‥〔P.069〕
   〔1 政治的事件としてのDreyfus事件/2 第三共和政の政治と社会/3 軍隊とCatholic協会/
    4 モッブの登場とクレマンソー(Clemenceau)/5 ユダヤ人とDreyfus擁護派/6 Dreyfus事件の結果〕
 第三章/帝国主義と国民国家体制の崩壊 ―『全体主義の起源』第二部「帝国主義」‥〔P.083〕
  第一節/国民国家解体の原動力としての帝国主義‥〔P.084〕
   〔1 国民国家と帝国/2 権力の為の権力/3 モッブ(mob)と資本の同盟〕
  第ニ節/人種思想の起源‥〔P.096〕
   〔1 ブ―ランヴィリエ(1658-1722) ― 支配民族としてのゲルマン人/2 ドイツの於ける人種思想/3 ゴビノ― ― 支配eliteとしての「人種」
    4 英国に於ける人種思想と人間の権利〕
  第三節/「Africa争奪戦」と人種主義の形成‥〔P.108〕
   〔1 「人種」との遭遇/2 モッブ(mob)と支配装置としての「人種主義」/3 英国帝国支配の特質〕
  第四節/大陸帝国主義と種族的nationalism‥〔P.128〕
   〔1 種族的nationalism/2 大陸帝国主義における官僚制/3 政党の解体〕
  第五節/国民国家体制の崩壊と「人間の権利」‥〔P.148〕
   〔1 民族少数者問題と「無国籍者」/2 「人間の権利」と「人間の条件」〕
 第四章/全体主義の成立 ―『全体主義の起源』第三部「全体主義」‥〔P.163〕
  第一節/階級社会の解体‥〔P.164〕
   〔1「mass」という現象/2 mob とeliteの一時的問題〕
  第ニ節/‥〔P.174〕
   〔1 全体主義propaganda/
    2 全体主義の組織構造
    ◆→・全体主義の指導者に必要なのは、大衆的 propaganda に於ける Demagog としての能力でも官僚的組織術でもなく、多層的な運動の中心にあって構成員間の陰謀や逃走を操る才能である〔P.184〕〕
  第三節/体制としての全体主義‥〔P.187〕
   〔1 全体主義と国家権力/
    ◆→・「廃止しないが無視する」。
     憲法に対するこうした態度は、全体主義運動がナチ党や(Russia)共産党の綱領に対してとった態度と軌を一にするものであるが、そのことは、全体主義がその本質に於いて「運動体」であったことを示している。
     彼等は、運動そのものを規制する様な規範を忌避すると同時に、公式の国家とその機構もあくまでも運動の為の手段として利用する。
     そうした態度が典型的に現れるのが、国家機構の所謂(‥表面上の政府と真の政府という様な‥)「二重化(duplication)」である。〔P.189-90〕
    ◆→・全体主義運動の構造は、正常な世界との重層的な緩衝装置を通じて、運動の目標と外部世界との関係を調整する処にその本質があった。
     従って運動そのものが権力を掌握して公然化し、自ら公的体制になった時、却って正常な外部世界との距離を維持する秘密の部分が必要になると(ハンナ・)アレントはいうのである。〔P.190〕〕
    2 秘密警察/3 テロルの帰結としての強制収容所〕
 第五章/ideologyとテロル‥〔P.211〕
  第一節/初版結語‥〔P.212〕
  第ニ節/「ideologyとテロル」‥〔P.215〕
    ◆→・例えばモンテスキューの体制類型論では、君主制、共和制という法に基づく統治と、法に拠らない専制とが対置され、君主制に於いては名誉、共和制に於いては徳、専制に於いては恐怖がそれを支えていた。
     これに対して全体主義を支える行動原理はもはや専制の様な恐怖ではない。
    ◆→・全体主義の下では恐怖は以前の如何なる時代よりも広まるだろう。
     だが恐怖に拠って導かれる行動が人々の恐れる危険を避けるのにもはや役立たない時には、恐怖はその実際的な効用を失っているのである。〔P.215〕
    ◆→・全体主義が破壊するものは政治的な活動領域に於ける自由に留まらない。
     全体主義は人々を「孤立(isolation)」させるだけでなく、「孤独(loneliness)」にする。
    ◆→・全体主義的支配は人間が持つ最も根本的で最も絶望的な経験の一つである孤独の上に、つまり自分がこの世界に全く属していないという経験の上に成り立っているのである。〔P.219〕
 第六章/戦後世界と全体主義‥〔P.221〕
  第一節/Stalin死後のRussia‥〔P.222〕
    ◆→・Stalinの死は〔中略〕ソ連と衛星国に危機を引き起こした。
     その結果〔中略〕一つのことは確かである。
     即ち全体主義的独裁の最も深刻な欠点の一つはこの問題の解決方法を見出すことが出来ないということである。〔P.223〕
  第ニ節/全体主義的帝国主義の問題‥〔P.230〕
  結 語/『全体主義の起源』以降のアレント‥〔P.237〕

[11]牧野雅彦『精読 アレント/全体主義の起源』
 11

【小生comment】
 本書は、我々と同庚の現・広島大学教授 牧野雅彦氏(1955.11.27- )の著作。
 題目の通り、ハンナ・アーレント畢竟の代表作である『全体主義の起源』三部作〔第一部「反ユダヤ主義」・第二部「帝国主義」・第三部「全体主義」〕を精読して、読者に解り易く1冊の本として、アーレントの訳文を引用し乍ら解説してくれている。
 本書を読んだので、是迄読み初めて中断していた『全体主義の起源』第三部「全体主義」に近々 challenge するつもりだ。
 因みに『全体主義の起源』第一部「反ユダヤ主義」・第二部「帝国主義」の2冊は、《会報》2015.09.13付【0565】及び 2015.09.18付【0566】にて紹介済である。
 以下のURLを参照頂きたい。
 第一部「反ユダヤ主義」:http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/260565160830090.html
 第二部「帝国主義」:http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/260566170905col.html
【後記】今日は、【時習26回3-7の会】member 千賀S始君が経営する「サービス付き高齢者住宅『M&S大高亀原』・『デイケア大高亀原』のご紹介」をしてお別れします。

 08月20日開催の【2637の会/クラス会】に参加してくれた千賀君が、クラス会の中の現況報告の中で、在住の名古屋市緑区大高亀原に高齢者賃貸住宅を建築して、入居者を募集中である旨話があったので、彼から頂戴した leaflet と共に以下の通りご紹介する。

 ※ ※ ※ ※ ※

 現在入居者を募集中です。
 千賀君は、現在、名古屋市緑区大高亀原にて、ご夫婦で「千賀内科外科クリニック」の院長&副院長として医療に携われている傍ら、昨年、添付写真にあります様に、クリニックから至近の所にサービス付き高齢者賃貸住宅『M&S大高亀原』を建てられて、昨年(平成27年)11月から入居者を募集中です。
 名古屋市内及び同市近郊にお住まいの皆さんで、医療・介護付きの高齢者住宅をお探しの方がいらっしゃいましたら是非ご一報下さい。
 お問い合わせ先は、添付写真の leaflet 記載の ☎052-613-9755 です。
 我が国日本は、これから高齢者が増加する一方、医療・介護付きの施設不足が心配されます。
 その様な状況の下、医療・介護の専門家として当該事業に果敢に取り組まれた千賀君ご夫妻に心から敬意を評したいと思います。
 千賀君! 頑張ってネ!^-')b♪

[12] サービス付き高齢者住宅『M&S大高亀原』・『デイケア大高亀原』紹介leaflet
 12_leaflet

[13]同上2
 132

[14]同上3
 143

 ではまた‥。(了)

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