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2016年10月 1日 (土)

【時習26回3-7の会 0620】~「09月15~19日:『中&北九州旅行〔後編=二日目~五日目:【鬼山地獄→岡城跡→熊本城(県立美術館)→柳川藩主立花邸 御花〔泊〕→柳川川下り→久留米城跡→佐賀県立美術館(OKADA ROOM)→佐賀城(本丸歴史館)→唐津城→オランダ坂→眼鏡橋→大浦天主堂→グラヴァ―園→長崎〔泊〕→平和公園→長崎原爆資料館→福岡城(福岡市美術館)→福岡市博物館→大宰府天満宮→小倉城→松本清張記念館→小倉〔泊〕→帰途へ】〕』実施報告」「09月30日:時習26回生 ミニ同期会 開催報告」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 今日も《会報》【0620】号をお送りします。

■さて今日は、前《会報》でお伝えした『中&北九州旅行〔前編=初日〕』に続く〔後篇=二日目~五日目(最終日)〕についてである。

《二日目(09月16日(金))》
 宿泊した旅館「東屋」の食事とserviceは満足いくものであった。
 担当してくれた樽水さんは、今年の新入社員で一所懸命宿泊者対応に努めてくれた。
 食事も大変美味かった。
 別府に来た記念に特別注文して生まれて初めて食した「関鯵(あじ)」は身が引き締まって最高だった。
 朝食時に予約席に就くと、昨晩の夕食時に樽水さんが撮影してくれた記念写真が置いてあった。
 心温まる演出である。

[00]別府鉄輪温泉 東屋 09月15日晩餐(左上:関鯵)と16日朝食(右下)
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 08時10分 湯けむりの里 東屋発→〔一般道 南西へ750m〕→
【鬼山地獄】08時15分着
 此処で1923(大正12)年から温泉を利用したワニ(鰐)の飼育を開始。
 温泉の暖かさを利用して、熱帯に住むcrocodileとalligator二種類のワニが約70匹いる。
 食事時以外は殆ど動かない様に見えるが沢山いるワニの迫力に圧倒された。

[01]鬼山地獄入口
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[02]群れるワニ(crocodiles)
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 08時30分 鬼山地獄発→〔一般道〕→別府IC→〔大分自動車道〕→大分米良IC→〔国道10号線〕→〔一般道〕→〔南へ直線40km、時計回りで74km/1時間30分〕

 鬼山地獄から瀧廉太郎の 荒城の月 の舞台となった岡城跡に向かった。

【岡城跡】10時00分 岡城跡入口着
《岡城の歴史》
 伝 1185(文治元)年 緒方三郎惟栄(これよし)が源義経を迎える為に築城
 伝 1369(應安02)年 志賀貞朝が後醍醐天皇の命を受け、岡城を修理して北朝と戦う
 1586(天正14)年 志賀親次(ちかよし(1566-1660))が豊薩戦争(1586-87)で岡城で薩摩郡の猛攻を阻止
 1593(文禄02)年 文録の役で主筋 大友義統(よしむね(1558-1610))の改易の伴い、志賀親次も領地を失う
 1594(文禄03)年 播磨国三木城から中川秀成(ひでしげ(1570-1612))が7万4千石で入封
 1871(明治04)年 廃藩置県迄、中川秀成から中川久成(ひさなり(1850-97)=明治17年 伯爵)迄13代が岡藩主を務めた
 1874(明治07)年 城の建物は、大分県に拠り全て取り壊された
 1901(明治34)年 地元竹田出身の滝廉太郎は、少年時代、荒廃した岡城に登り遊んだ印象を基に中学校唱歌『荒城の月』を発表

[03]岡城跡入口
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[04]岡城跡本丸にて
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 11時00分 岡城跡発→〔国道57号線〕→〔赤水から県道23号線〕→〔一般道〕→〔西へ85km/2時間40分〕
 国道57号線が、熊本県の赤水から熊本市にかけて熊本地震で寸断されていた為、県道23号線の迂回路を通り熊本城へ

【熊本城】13時45分着
 1587(天正15)年 秀吉の九州征伐(1586-87)に拠り、九州平定の寸前で島津軍は肥後を放棄
         同年 佐々成政が肥後一国主となるも、肥後国人一揆が起きた為、秀吉は、加藤清正と小西行長に鎮圧させた
 1588(天正16)年 佐々成政は責任を取らされて切腹/加藤清正(肥後北部25万石:熊本城主)、小西行長(中南部24万石:宇土城主)に
 1600(慶長05)年 西軍の小西行長は関ヶ原の戦で敗れ斬首/行長の旧領と豊後国・鶴崎等2万石を加増、52万石を領有
 1632(寛永09)年 加藤清正の嫡子忠広(1601-53)は、駿河大納言事件に連座(←他に諸説あり)し改易
         出羽国庄内((一代限りの)出羽国丸岡藩1万石藩主)に配流、忠広死去により断絶
         同年 豊前国小倉藩より 細川忠利(1586-41)が54万石で入封、以後廃藩置県(1871年)迄細川家12代が藩主を務めた

 添付写真をご覧頂ければお解りの様に、熊本地震の爪痕は確り残っていた。
 本丸の天主閣の鯱鉾や屋根瓦、本丸を囲む石垣の一部が崩落していたのを眼前にして胸が詰まった。

[05]熊本城をbackに
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[06]宇土櫓(左)と瓦と鯱鉾が崩落した熊本城天守閣(右)
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 熊本城天守閣のある本丸の西隣がニの丸で、現在、熊本城公園となっている。
 其処に熊本県立美術館はある。

【熊本県立美術館】14時00分着〔‥徒歩にて‥〕
 訪れた時は、企画展『雪舟流と狩野派』展が開催されていたが、時間がなかったので観るのは諦めた。

[07]熊本県立美術館前にて
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※ 熊本県立美術館で購入した同美術館所蔵作品5点のpostcard
 以下の5点の幾つかは、通常なら常設展示場で拝観出来る筈だが、訪れた時は常設展示場は閉館されていてみることが出来ず、大変残念だった。

[08]Renoir(1941-1919)『胸に花を飾る少女』1900年
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[09]Vlaminck(1876-1958)『湖畔』1912年頃
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[10]藤田嗣治(1886-1968)『Violinを持つ子供』1923年
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 ※ これは後日談だが、小生、今日実に奇遇なことに遭遇した!
   何となれば、熊本県立美術館で見ることが出来なかったこのフジタの傑作の絵を今日(10月01日)見ることが出来た。
   静岡市美術館『ランス美術館』展で『Violinを持つ子供』を眼前にした時は、流石に感動のあまり暫く絶句して仕舞った。
   これを正に serendipity と言うのだろう。

[11]Kisling(1891-1953)『ル・べック少年の肖像』1926年
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[12]Pascin(1885-1930)『果物籠を持つジュヌヴィエーヴ』1929年
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 14時45分 熊本城発→〔一般道〕→熊本IC →〔九州自動車道〕→ みやま柳川IC →〔一般道〕→〔北へ66km/1時間20分〕

【柳川藩主立花邸 御花】16時15分着
 二日目の宿泊地「柳川藩主立花邸 御花(おはな)=松濤館=」は、その名の通り、柳川藩12万石の藩主立花家の藩主邸がHotelとなっている場所である。
 泊ったHotelは、邸内に在る「松濤館」。
 明治時代に14代当主立花寛治伯爵に拠って整えられた『松濤園』をはじめ、現在、敷地全体が国指定の名勝に指定され、水郷 柳川 の観光spotになっている。
 因みに、「柳川川下り」の終点がこの「柳川藩主立花邸 御花『松濤館』」の北口である。
 松濤館受付で乗船予約を入れ、送迎busに乗り、松濤館から東北東2㎞程の所にある乗船場迄10分程だった。

[13]国指定名勝『松濤園』〔宿泊地〕
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[14]初代藩主『立花宗茂』甲冑(邸内資料館「殿の倉」に展示されている)
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 立花宗茂(1567-1643)は、戦国時代の豪傑。
 1590(天正18)年小田原征伐の際、豊臣秀吉が諸大名の前で「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と讃えたことで知られる
 1600(慶長05)年 関ヶ原の合戦では、西軍として大津城攻めの最中で本戦に参加していない
 1620(元和06)年 田中吉政(1548-1609)が筑後国主として柳川藩32万石を領有するが、嫡子忠政(1585-1620)に嗣子なく田中家は断絶
         宗茂は、20年ぶりに旧領 柳川藩10万9千石に復した
         同年 筑後国は、有馬豊氏(1569-1642)が久留米藩21万石に入封
         以後、立花氏、有馬氏の両藩共に1871(明治04)年の廃藩置県迄存続した

[15]西洋館(明治43年竣工)
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[16]松濤館〔宿泊Hotel〕
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 垂幕は、柳川市出身のリオ五輪競泳男子平泳ぎ200m銀medalist 坂井聖人(まさと)顕彰

 16時30分 松濤館から送迎busで「柳川川下り」乗り場迄5分程で着いた。
 終点は、宿泊地『柳川藩主邸 御花』松濤館前の船着き場である。
 船賃@1,600円は、松濤館の宿泊費に加算され、翌朝のcheck out時精算でOK。

【柳川川下り】17時00分~18時00分
 船は、船頭を含め26人乗り。
 平底船を、船頭が竹棒1本で川底を押(=punt)して下流に向かって進む往路のみの行程、所要時間60分の船旅を満喫した。
 一緒に乗船したのは、若者が大半で、聞くと台湾とSingaporeから観光に来た人達だった。
 川辺には、紅白の萩の花や、百日紅のpink色した花が満開でなかなか風情があった。
 川下りを開始して直ぐに、リオ五輪競泳200m butterfly 銀medalistの坂井聖人選手を顕彰した横断幕が堀に掛っていた。
 又、course後半には、sportsで有名な柳川高校の校舎や、柳川藩初代藩主 田中吉政の銅像、北原白秋の石碑があった。
 終着地は、柳川藩主立花邸 御花 の宿泊Hotel『松濤館』の正面であった。
 その下船した場所にある『松濤館』正面の瓦葺の門の両脇には、当地出身力士の大関琴奨菊優勝の顕彰幟が立っていた。

[17]柳川川下りのscene1
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[18]同上2
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[19]同上3
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[20]松濤館前の川下り船着き場の琴奨菊関の幟
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 大関琴奨菊も柳川市出身。彼の結婚披露宴は此処御花で開催したとか‥。

[21]松濤館 南隣「集景亭」での晩餐の懐石料理1
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[22]同上2〔但し、右下:09月17日朝食〕
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 旅館は、宿泊室内もRestaurantのいずれも古風で上品な佇まいが良かったし、料理は夕食&朝食も最高の美味しさだった。
 柳川藩主の立花邸だけあって、大満足な宿泊を体験出来た。

《三日目(09月17日(土))》
 08時15分 柳川藩主立花邸発→〔一般道〕→ みやま柳川IC →〔九州自動車道〕→ 久留米IC →〔一般道〕→〔北北東へ37km/60分〕

【久留米城址】09時15分着
 1629(元和06)年 丹波国福知山藩8万石の大名 有馬豊氏(とようじ(1569-1642))が21万石で入封し、明治維新に至る

 現在、本丸には篠山神社と有馬記念館(‥訪れた時は09月末迄閉館中‥)がある。

[23]久留米城跡入口
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[24]久留米城本丸の石碑にて
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 09時40分 久留米城跡発→〔一般道〕→〔西南西へ24km/1時間〕

【佐賀県立美術館(OKAD ROOM:岡田三郎助記念室)】10時20分着
 訪れた時は、常設展が OKADA-ROOMのみの開催であった。
 OKADA-ROOMは、佐賀県出身の日本近代洋画の巨匠 岡田三郎助(1869~1939年)を紹介する常設展示室。
 因みに、入館は無料であった。
 岡田三郎助は、藤島武二(1867-1943)と共に明治から昭和初期にかけて日本近代洋画壇のleaderとして活躍。
 佐賀県立美術館は、1983(昭和58)年の開館以来、同県出身の岡田三郎助作品を収集&展示に努め、顕彰して来た。
 訪れた時は、『矢調べ』や『花野』という素晴らしい傑作が展示されていた。
 当館には、岡田の油彩画・岩絵具作品約30点、dessin&資料を含め約170点が所蔵されている。

[25]佐賀県立美術館正面
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[26]岡田三郎助『中野多津子像』1893年
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[27]同『矢調べ』1893年
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[28]同『自画像』1899年〔個人蔵〕
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[29]同『花野』1917年
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[30]同『富士山(三保にて)』1920年
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【佐賀城 歴史館】10時50分〔東へ徒歩250m/05分〕
 1559(永禄02)年 龍造寺隆信(1529-84)は、少弐冬尚を勢福寺城に攻め滅ぼし、鎌倉時代から続く名族少弐氏は滅亡
         隆信の居城 村中城が佐賀城のroots
 1570(元亀元)年 大友宗麟(1530-87)が村中城を攻めるも、家臣 鍋島直茂が夜襲で撃退
 1584(天正12)年 島津氏と沖田畷の戦いで隆信が敗死後、鍋島直茂(1537-1618)が実権掌握、漸次当主の座を奪取
 1600(慶長05)年 直茂の嫡子勝茂(1580-1657)は、当初西軍に組したが関ヶ原の戦の本戦前に離脱
         更に直茂は、西軍側の久留米城の小早川秀包(ひでかね(1567-1601))、柳川城の立花宗茂を降伏・開城させた
         この功により直茂は、佐賀藩35万7千石は安堵された
 1611(慶長16)年 村中城を拡張、佐賀城が完成(五層天主閣)
         直茂は主君筋の龍造寺氏を憚り、佐賀藩初代藩主は嫡子勝茂とした(=直茂は藩祖=)
 1726(享保11)年 天主閣が火災で焼失、以後天守閣は再建されなかった
         佐賀藩は長崎に近い大藩として、幕府より福岡藩と1年交代での警備を担当
         この為、西洋の学問・知識を入手する機会に恵まれ、幕末には大砲製造等に西洋技術を積極導入した
         これ等の先進兵器が、戊辰戦争時に於ける討幕の大きな推進力となった
 1874(明治07)年 不平士族が江藤新平を中心に佐賀の乱が起き、佐賀城の多くの建物が被害を被った

 明治時代に活躍した人物を列挙すると、江藤新平(1834-74)の他、副島種臣(1828-1905)、大隈重信(1838-1922)等が著名である。

[31]佐賀城 鯱の門
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[32]佐賀城三の丸(美術館側)から本丸遠望
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 石垣の向こうに見える屋根が、佐賀城本丸歴史館の屋根。

[33]佐賀城本丸歴史館西門
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 11時30分 佐賀城(県立美術館)発→〔一般道〕→〔長崎自動車道〕→〔厳木多久有料道路〕→〔唐津街道〕→〔北西へ54km/1時間15分〕

【唐津城】12時45分着
《唐津城の歴史》
 1595(文禄04)年 豊臣秀吉の家臣・寺沢広高(1563-1633)が当地に入封
 1699(慶長05)年 関ヶ原の戦では東軍方に就き、肥後国天草郡4万石を加増、12万3千石(外様大名)
 1602(慶長07)年 築城開始
 1608(慶長13)年 に完成〔廃城 名護屋城の石材を使用/九州各地の諸大名の助力を得て築城〕
         本丸には天守台しかなく、天主閣は建築されなかった
         広高の子の堅高(かたたか(1609-47))は、島原の乱(1637-38年)勃発の責任を取らされ天草領4万石は没収
 1638(寛永15)年 島原藩主の松浦勝家(1597-1638)は、島原の乱の責任に拠り、切腹でなく斬首された
         (‥江戸時代の大名で斬首となったのはこの1例のみ‥)
 1647(正保04)年 寺沢堅高は江戸藩邸で自殺、嗣子がなく寺沢家は断絶〔その後、一時 天領〕
 1649(慶安02)年 播磨国明石城主 大久保忠職(ただもと(1604-70))が8万3千石で入封
         〔忠職は、初代小田原城藩主大久保忠隣(1553-1628)の嫡孫〕
 1678(延宝06)年 大久保忠隣の孫で忠職の養子 忠朝(1632-1712)が下総国佐倉城に転封
         同地より大給松平乗久(のりひさ)が入封
 1691(元禄04)年 乗久の嫡孫(→乗春→)乗邑(のりさと)が志摩国鳥羽城に転封
         同地より土井利益(とします(1650-1713))が入封
 1762(宝暦12)年 土井利益の(→利実→(養子)利延→(利延の弟で養子の))利里が下総国古河城に転封
         三河国岡崎城より水野忠任(ただとう(1734-1812))が入封
 1817(文化14)年 忠任(→(養子)忠鼎→忠光→(忠鼎の嫡孫の))忠邦(1794-1851)遠江国浜松城に転封
         陸奥国棚倉城より小笠原長昌(1796-1823)が入封
 1871(明治04)年 廃藩置県で廃城となる迄、小笠原氏が5代続いた
 1966(昭和41)年 慶長期の様式で建築された模擬天主が建築された

[34]唐津城への正面登り口の石段にて
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[35]唐津城模擬天守閣前にて
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[36]唐津城天主閣最上階より唐津湾遠望
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 写真[34]はほぼ北向きの景色である。
 因みに、目には見えないが、向かって左手前方50㎞で「壱岐」→ 150kmで「対馬」→250km程で韓国「釜山」である。
 唐津の人々にとっては、広島市へ行くより隣国韓国の釜山市の方が距離的に近いのである。
 唐津城登り口脇に陶器の唐津焼きを売っていたので記念に買った。
 因みに、陶磁器のことを、近畿以東の人は「瀬戸物(せともの)」と言う様に、中国・四国・九州の人は「唐津物(からつもの)」と言う、と唐津城内の案内で知った。

 13時30分 唐津城発→〔一般道〕→〔厳木多久有料道路〕→〔長崎自動車道〕→〔一般道〕→〔南へ112㎞/2時間10分〕

【オランダ坂】15時40分着
 以下に、案内看板から一部引用する。
 かつて長崎の人々は、出島に住むオランダ人の影響から開国後も東洋人以外の外国人を「オランダさん」と呼んでいた。
 そして、その「オランダさんが通る坂」という意味で、居留地の石畳の坂を一般に「オランダ坂」と呼んだ。

[37]オランダ坂
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[38]オランダ坂の案内看板
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 15時50分 オランダ坂発 →〔一般道〕→〔北東へ2.2㎞/7分〕

【眼鏡橋】=【重文】=15時55分着
 長崎市の中島川に架かる石造二連アーチ橋を眼鏡橋(めがねばし)という。
 1634(寛永11)年 僧侶 黙子如定(もくすにょじょう)が架橋。
 〔全長22m/幅3.65m/川面迄の高さ5.46m〕

[39]眼鏡橋
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 16時05分 眼鏡橋発→〔一般道〕→〔南西へ2km/7分〕→〔グラバー園・大浦天主堂下駐車場〕

【大浦天主堂】16時20分着
 1862(文久02)年 France Catholic 神父で、日本布教総責任者ジラ―ル神父(1821-67)が横浜天主堂を建設
 1865(慶応元)年 ジラ―ル神父の命を受けたヒューレ神父は途中で死去、その後を継いだプティジャン神父が大浦天主堂を建設

[40]【国宝】大浦天主堂
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[41]大浦天主堂をbackに
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 16時30分 大浦天主堂発 →〔徒歩 70m/2分〕

【グラバー園】16時30分着
 グラバー園は、1859(安政06)年 長崎開港後に長崎に来住した英国商人Thomas Blake Glover(1838-1911)の屋敷に、Frederick Ringer(1838-1907)、William John Alt(生没年不詳)二つの旧邸を加えた(‥3邸はいずれも【重文】に指定‥)敷地に、長崎市内に残っていた歴史的建造物を移築展示した文化施設群となっている。

※ Thomas Blake Glover 略歴 ※
 1838年 Gloverは、英国Scotlandに生まれる
 1859年 上海へ渡り「ジャーディン・マセソン商会」入社/09月 開港後間もない長崎に来住
 1861年 05月 「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店『グラバー商会』を設立
     討幕派・佐幕派を問わず、武器・弾薬を販売
     坂本龍馬の亀山社中とも取引を行ない、薩摩・長州藩の藩士の海外留学・渡航の手引きも行なった
 1868年 肥前(佐賀)藩との合弁で、高島炭鉱開発に着手
 1870年 Glover商会は破産するが、Glover自身は高島炭鉱(官営)の実質的経営者として日本に残留した
 1881年 三菱の岩崎弥太郎(1835-85)が高島炭鉱を買収後Gloverは所長として経営に携わった
 1908年 勲二等旭日重光章受章
 1911年 死去〔長崎市坂本国際墓地に埋葬〕

[42]【世界文化遺産/重文】旧グラバー邸
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[43]「三浦環像」前広場の(Beer) Garden Café
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 この日はこのBeer Garden Caféにて『GLOVER'S NIGHT』の事前予約していたのだが、写真をご覧の通りの雨天となり中止となった。

[44]【重文】旧リンガ―住宅のterraceから長崎港をbackに
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 17時45分 グラバー園発→〔一般道〕→〔北へ2.3㎞/15分〕
 内山田洋とクールファイブの1969年のヒット曲『長崎は今日も雨だった』の通り、長崎は雨に見舞われた。
 グラバー園の旧リンガ―住宅のterraceから眺めた雨に煙る長崎港も中々風情があって良かった。
 旧グラバー邸は建物の中に入らなかったが、旧リンガ―住宅、旧オルト住宅、旧三菱第2ドックハウスは建物内部を見学した。
 最後に、長崎伝統芸能館を見学して、グラバー園を後にして、三日目の宿泊地のJR九州ホテル長崎へ向かった。

 17時20分 グラバー園・大浦天主堂下駐車場発→〔一般道〕→〔北へ2.5km/混雑渋滞につき30分〕

【JR九州ホテル長崎】18時00分着〔宿泊地〕
 夕食なしでHotelを予約してあったので、Hotelのfrontで推薦された店へ雨の中を駅前の pedestrian deck を歩いて行った。
 処が「本日臨時休業」となっていたので、仕方なく、Hotelに戻り、5FのRestaurant街の中華料理店で「長崎ちゃんぽん」を食べた。
 なかなか美味であった。

[45]夕食で食した「長崎ちゃんぽん」
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《四日目(09月18日(日))》
 08時15分 JR九州ホテル長崎発 →〔一般道〕→〔北へ3.3km/10分〕→

【長崎市平和公園】08時25分着
 平和記念像は、我々が生まれた年の昭和30年08月08日に除幕式が執り行われた。
 高さ9.7m、重量30t、青銅製
 昭和20年08月09日午前11時02分、code name「Fat Man」が投下された。
 長崎市の人口(当時)24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡し、建物は約36%が全焼又は全半壊した。

[46]平和公園 平和記念像の前にて
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 08時35分 平和公園発 →〔一般道〕→〔南へ500m/05分〕→

【長崎市原爆資料館】08時40分着
 09月10日の広島原爆ドーム&平和記念公園と今回(09月18日)の長崎原爆資料館の見学‥。
 僅か8日間で、日本、いや世界に2つしかない原爆の悲惨さを記録した資料館を視察出来たことは運命めいたものを感じた。
 そして、見学を終えて感じたことは、「戦争や核兵器使用は絶対に行なってはならない」と言うことだ。

[47]長崎原爆資料館正面
 47

 09時10分 長崎原爆資料館発→〔一般道〕→〔北東へ700m/05分〕

【浦上天主堂】09時15分着
 時間がなかったので実際の入館は諦め、車中から天主堂の正面を撮影。

 1879(明治12)年 浦上に小聖堂を建設
 1895(明治28)年 02月 大聖堂起工式を挙行(完成迄に19年を要した)
 1914(大正03)年 03月17日 浦上天主堂が完成、献堂式を挙行
 1945(昭和20)年 08月09日 長崎へ原爆投下/爆心地から至近距離に在り原形を留めぬ迄に破壊
 1952(昭和27)年 水原秋櫻子(1892-1981)が浦上天主堂を訪れ、その惨状を見て以下の2句(昭和27年作『殘鐘』所収)を詠んだ
 「水原秋櫻子自選自解句集」から「麥秋の‥」の句について秋櫻子自身が心境を語った解説文を以下に記す。

 ※ ※ ※

  麥秋の 中なるが悲し 聖廢墟(せいはいきょ)
   季語:「麦秋」‥夏

 午後、浦上天主堂の跡に行く。
 原爆の爆心地でもあるし、当日の様子を〔中略〕聞いていたので、行き着かぬうちから身が引き締まる感じであった。
 〔中略〕
 不思議なことに、「聖廢墟」という言葉が、その(‥何かの展覧会で見た浦上天主堂の残壁の‥)写真を見つつ心に浮かんだ。
 廃墟は麦秋の畑に取り囲まれていた。
 長崎には丘が多く、此処も直ぐ後ろが丘になっていたが、その丘も又麦秋の畑であった。
 麦は意外な程に伸びて色付いている。
 その代赭(注)に近い色と、大きく裂け残った煉瓦壁の色とが照応して、凄惨な感じで心に迫って来た。
 もし周囲が麦秋の畑でなかったなら、これ程の凄惨さはなかったかもしれぬ。
 私はこの麦秋の色を頭に刻み付けておき、暫く後になってから、句を纏め上げた。
 ※(注)代赭(たいしゃ):赤鉄鉱の塊で、褐色を帯びたくすんだ黄赤色を「代赭色」という

 秋櫻子は、次の句についても以下の様に述べている。

  鐘樓落ち 麥秋に鐘を 殘しける

 〔前略〕前句と共に、これは長崎で読んだもののうち、長く残して置きたい部に入るのだが、作者としては、すらすら出来ただけに、この方が無難の様に思われる。
 句集の名の『残鐘』もこの句からとったのである。

 ※ ※ ※

 1959(昭和34)年 11月01日 浦上教会が再建され、現在に至る

[48]浦上天主堂
 48

 09時17分 浦上天主堂発→〔一般道〕→ 長崎多良見IC〔長崎自動車道 109km〕→ 鳥栖JCT →〔九州自動車道 16km〕→ 大宰府IC →〔福岡高速2号大宰府線 5km〕→ 月隈JCT →〔福岡高速環状線 11km〕→ 天神北 →〔一般道〕→〔北東へ157km/2時間15分〕

【福岡市美術館】11時45分着
 美術館駐車場から美術館に至る外壁に「福岡市美術館は2016年9月から2019年3月まで休館いたします」と書かれてあった。

[49]福岡市美術館 外観〔休館中〕
 49

 11時45分 福岡市美術館(駐車場)発 →〔東へ徒歩 100m/2分〕→

【福岡城跡/天守台】12時00分着
 福岡市美術館駐車場から東を見ると、福岡城の石垣が見える。
 福岡城は、黒田家が幕府に遠慮して、天守閣を最初から造らなかったが、天守台はあるので、是非見てみたかった。
 駐車場から歩いて10分弱程で天守台に着いた。

《福岡藩の歴史》
 福岡藩は、筑前国のほぼ全域を領有した大藩で、筑前藩とも呼ばれる。
 1600(慶長05)年 関ヶ原の戦の功により、小早川秀秋(1582-1602)に代わり、豊前国中津藩主の黒田長政(1568-1623)が、筑前一国52万3千余石の領主になり、明治維新迄、黒田家が12代続いた。
 1623(元和09)年 2代藩主 忠之(1602-54)は、父 長政の遺言により弟(長政の三男)長興に筑前秋月藩5万石、(同じく四男)高政に筑前直方藩4万石を分知され、主家の福岡藩は、43万3千余石となった。
 1720(享保05)年 直方藩は嗣子なく廃藩となり、所領は福岡藩に還付された。

[50]福岡城天守台
 50

 12時35分 福岡城(=福岡市美術館駐車場)発→〔一般道〕→〔西北西へ3.3㎞/15分〕

【福岡市博物館】12時55分着
 当館への訪問目的は、『漢倭奴国王』の金印を実際に見てみたかったからだ。
 現物を見て創造していた通りの大きさと輝きだった。

[51]福岡市博物館 正面
 51

[52]「漢委奴国王」金印01
 5201

[53]「漢委奴国王」金印02
 5302

 13時30分 福岡市博物館発→〔一般道〕→〔福岡高速環状線13km〕→ 月隈JCT →〔福岡高速2号大宰府線 5.5km〕→〔国道3号線 5km〕→〔一般道〕→〔南東へ25km/50分〕

【太宰府天満宮】14時30分着
 当神社は、所在は福岡県太宰府市。
 旧社格は官幣中社〔現在:神社本庁の別表神社〕。
 菅原道真(845-903)の廟所に、彼を祭神として祀る天満宮の一つ。
 京都 北野天満宮と共に全国天満宮の総本社。

 今回の中&北九州旅行で、初日に訪れた宇佐神宮と共に、是非参詣したかった神社であった。
 実現出来てとても嬉しい。
 訪れた時は、生憎の雨天だったが、本殿前では新式の結婚式が執り行われていた。
 新郎新婦も雨の中でさぞ大変だったことだろう。

[54]太宰府天満宮 本殿前にて
 54

 14時50分 太宰府天満宮発→〔一般道〕→〔国道3号線 3.5km〕→ 大宰府IC →〔九州自動車道 62km〕→ 大谷JCT→〔北九州高速4号線 6.5km〕→ 柴川JCT →〔北九州高速1号線 2km〕→ 大手町 →〔一般道〕→〔北東へ78km/1時間30分〕

【小倉城】16時30分着
 1587(天正15)年 豊臣秀吉の家臣 森勝信(?-1611)が豊前国小倉6万石で小倉城に入城
         秀吉は、以後、毛利氏の姓を名乗た〔毛利勝信・勝永父子は関ヶ原の戦で西軍に付き改易に〕
 1600(慶長05)年 関ヶ原の戦の功に拠り細川忠興が、初め豊前国中津城に入城
 1602(慶長07)年 小倉城を7年かけ改築、居城とした
 1632(寛永09)年 細川忠興の嫡子忠常が肥後国に転封後、播磨国から譜代・小笠原忠真(1596-1667)が15万石で小倉城に入城
         以後、明治維新迄10代、小笠原氏が小倉藩藩主となる
 1837(天保08)年 本丸御殿・天守を焼失、以後天守は再建されず
 1866(慶応02)年 第二次長州征伐で小倉藩と長州藩が戦い、長州藩に敗れる
 1867(慶応03)年 長州藩と小倉藩で和平が成立

[55]小倉城天守閣前にて
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 小倉城内に「北九州市立 松本清張記念館」があるので立ち寄った。

【松本清張記念館】17時10分着
 松本清張は、1909年、此処 福岡県企救郡板櫃村(現 北九州市小倉北区)に生まれ、1992年東京にて死去。
 彼については、彼の作品についても併せて、また日を改めて論じてみたいと思っているので、今回はこれ以上触れない。

[56]松本清張記念館 正面
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[57]館内に再現された松本清張宅の書斎
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 17時50分 松本清張記念館発→〔一般道〕→〔北東へ1.4km/10分〕

【JR九州ホテル小倉】18時00分着
 18時55分 Hotel発→〔taxi 5分〕→

【もつ鍋 食事処/こらぁ源(げん) 総本店】19時00分着

 名物「もつ鍋」を生まれて初めて食した。
 なかなか美味であった。

[58]店自慢の「もつ鍋」
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《五日目(=最終日(09月18日(日)))》
 07時50分 JR九州ホテル小倉発 →〔東へ772km/8時間40分(途中、東広島市「小谷SA」にて40分の休憩)〕→ 16時30分 帰宅

 四泊五日の中北九州旅行も無事終了した。
 総走行距離は、2,402kmに達した。

【後記】昨日09月30日(金) 午後6時半から、豊橋市内のロシア料理「バイカル」にて時習26回生のミニ同期会を開催した。
 中嶋良行君【3-2】の提唱で、宮下公一君【3-4】、林恭子さん【3-4】と小生の4人組の集いである。
 今回は、09月24日に61歳の誕生日を迎えた小生と、10月16日に同じく誕生日を迎える宮下君の誕生祝いを中嶋君と林さんが祝ってくれた。
 同期の気の置けない仲間達との楽しい集いは、ホント、いいものですネ!

[59]露西亜料理「バイカル」にて
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 ではまた‥。(了)

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