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2016年10月の5件の記事

2016年10月28日 (金)

【時習26回3-7の会 0624】~「松尾芭蕉『野ざらし紀行』〔第4回〕予告」「10月16日:稲沢市荻須記念美術館『常設展』&名都美術館『小倉遊亀 ― 明るく、温かく、楽しいもの ―』【前期】展を見て」「10月16日:しらかわホール『ショパンを愛するあなたへ~芥川賞作家・平野啓一郎&北村朋幹(Piano)』を聴いて」「平野啓一郎『マチネを終わりに』を読んでいて‥」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 今日も《会報》【0624】号をお送りします。

■さて今日は、松尾芭蕉(1644-94)の第一作目となる紀行文『野ざらし紀行』〔第4回〕はお休みする。
 実は、下記行程表にある様に、『野ざらし紀行』〔第4回〕の場面は、今から332年前の1684(貞享元)年九月下旬(新暦11月07日~25日頃)の話である。
 従って、332年前のほぼ同じ時期となる次号《会報》【0625】号にてお届けすることとしたい。
 お楽しみに!

※ 1684(貞享元)年 ※
【済】八月中旬(十一~廿日(新暦1684年9月20~29日頃))‥・江戸深川の草庵を門人千里(ちり(=苗村氏))を伴い、東海道を上方を目指して出立。
【済】八月二十日過ぎ(新暦09月30日過ぎ)‥・小夜中山を越える
【済】八月晦日(新暦10月08日(猶、八月は小の月につき晦日は29日) ‥・伊瀬外宮を参詣
【済】九月八日(新暦10月16日)‥・伊賀上野着、兄半左衛門宅に滞在 ‥・千里の故郷、大和国竹内村千里宅を訪問、吉野山に登る
【済】九月下旬(新暦10月28日~11月06日)‥・今須・山中を経て大垣へ‥谷木因亭に泊す
◆【〔第4回〕予告】 十月初旬~中旬(新暦11月07日~25日頃)‥・伊勢の多度権現、桑名本統寺を経て熱田へ
 十月下旬(新暦11月25日頃~12月06日)‥・名古屋へ赴く、その後再び熱田へ
 十二月廿五に(新暦1685年01月29日)‥・伊賀上野に帰り越年

※ 1685(貞享02)年 ※
〔後略〕

■さて、今日事実上最初の話題は、10月16日(日)に名古屋・伏見に在る、しらかわホールにて開催された『ショパンを愛するあなたへ~芥川賞作家・平野啓一郎&北村朋幹(Piano)』を聴きに行ったが、その前に稲沢市荻須記念美術館『常設展』と、長久手市に在る、名都美術館『小倉遊亀』【前期】展を見て来たので、これ等2つの美術館の企画展の模様をお伝えする。

【稲沢市荻須記念美術館『常設展』】
 当初は、企画展『パリに生きる パリを描く』展を見るつもりで訪れた。
 だが、これは小生の早合点で、当該企画展の実際の開催期間は、明日10月29日(土)~12月11日(日)であることが訪れてみて気が付いた。
 いつもいつもそそっかしい小生である。(笑)
 しかし、負け惜しみに聞こえるかもしれないが、拝観者もまばらな閑散とした『常設展』は、ある意味大変有意義なひとときとなった。
 何となれば、以下にお示しした添付写真の絵を始め、荻須高徳(1901-86)の名画の傑作をジックリ堪能出来たからである。

[01]荻須高徳『広告のある家』1931年
 011931

[02]同『麦畑』1950年代
 021950

[03]同『金のかたつむり(ESCARGOT D'OR)』1978年
 03escargot_dor1978

[04]同『大運河(VEVEZIA, CANAL GRANDE)』1980年
 04vevezia_canal_grande1980

[05]同『ミゼリコルディア』1984年
 051984

 続いて訪れたのは、長久手市にある名都美術館である。

【名都美術館『小倉遊亀』【前期】展】
 当美術館では現在『小倉遊亀(1895-2000) ― 明るく、温かく、楽しいもの ―』展が開催されている。
 10月14日(金)から11月13日(土)迄【前期】展が、11月15日(火)~12月11日(日)迄【後期】展が、展示作品の過半数を入れ替え開催される。
 彼女は、1932(昭和07)年に女性初の日本美術院『同人』に推挙され、1990(平成02)年95歳の時、理事長に就任した。
 又、彼女は、1980(昭和55)年、上村松園に次いで我国二人目の女性画家として文化勲章を受章した、日本画界の巨匠である。
 小生は、この小倉遊亀の作品が大好きである。
 拙宅の玄関には、彼女の代表作の一つ『径(こみち)』(添付写真[07])のreplicaを、堀文子の『名もなき草たち』のlithographと向かい合う様に飾ってある。
 本企画展は、滋賀県立近代美術館所蔵の小倉collectionを核に、全国の著名美術館が所蔵する小倉遊亀作品を一挙に展示する。
 本企画展の副題に在る通り、小倉遊亀の高い技量をbaseに「明るさ・温もり・楽しさ」を確りと感じさせる傑作選である。
 以下に展示作品の中から幾つかの作品をご紹介する。

[06]本展leaflet/絵は 小倉遊亀『舞妓』1969年〔京都国立近代美術館所蔵〕‥再興第54回院展‥
 06leaflet_196954

[07]小倉遊亀『径(こみち)』1966年〔東京藝術大学所蔵〕
 071966

[08]同『花屑』1950年〔滋賀県立近代美術館所蔵〕‥再興第35回院展‥
 08195035

[09]同『家族達』1959年〔滋賀県立近代美術館〕‥再興第44回院展‥
 09195944

[10]同『初夏の花』1962年〔名都美術館所蔵〕
 101962

[11]同『盛られた花』1963年〔滋賀県立近代美術館〕‥一哉堂創立50周年記念展‥
 11196350

[12]同『半夏生』1990年〔滋賀県立近代美術館〕‥再興第75回院展‥
 12199075

[13]同『盛花』2000年〔滋賀県立近代美術館〕‥再興第85回院展‥
 13200085

【小生comment】
 小倉遊亀の作品は、人物画を勿論、静物画に至る迄、「明るさ・温もり・楽しさ」を感じさせる技量の確かさと彼女の人柄の良さが滲み出ており、「本当に素晴らしい」の一言である。

■続いては、は10月16日(日)に名古屋を訪れた主目的である、しらかわホールにて開催された『ショパンを愛するあなたへ~芥川賞作家・平野啓一郎&北村朋幹(Piano)』についてである。
 実は小生、本マチネ(matinee)の主役の一人、Pianist 北村朋幹(きたむら ともき)君の父上が、小生の旧行時代、融資部の後輩で、且つ住まいも、1993~2003年名古屋時代の何年間、社宅が一緒だったのである。
 そして、朋幹君の2歳下の弟と、小生の次男が小学校で同級生という親しい関係にあった。
 そんなご縁もあって、幼少の時から、Pianoが凄く上手だった彼の現在の演奏を聴いてみたくなった次第である。
 以下に、平野&北村、両氏の略歴を記す。

【平野啓一郎】
 1975年愛知県蒲郡市生まれ
 北九州市出身/京都大学法学部卒
 1999年在学中に文芸誌「新潮」に登校した『日蝕』に拠り第120回芥川賞を受賞
 著書は、『葬送』をはじめ多数/近著の恋愛小説『マチネの終わりに』が人気

【北村朋幹】
 1991年愛知県名古屋市生まれ
 3歳よりPianoを始め、各種国際コンクールで入賞
 2005年第3回東京音楽コンクールにて第1位、並びに審査員大賞を受賞
 愛知県立明和高校音楽科卒/東京藝術大学入学/現在、Berlin芸術大学留学中

《program》
 第1部:talk stage
 ※ 平野啓一郎が語る~私とショパン~
 第2部:concert stage
 ※ これだけは聴きたいショパン
     ショパン
 ・アンダンテ・スピアナ―ト ト長調 Op.22
 ・舟唄 嬰へ長調 Op.60
 ・ノクターン第8番 変二長調 Op.27-2
 ・バラード第4番 へ短調 Op.52
 第3部:talk & concert
 ※ 作家とpianistのcross talkを交えて
 第4部:present stage
 ※ 北村朋幹がguestに贈る「とっておきの一曲/マズルカ へ短調 Op.68-4」
 ※ 平野啓一郎/誰にも教えたくない「秘蔵の一曲/ワルツ第8番 変イ長調 Op.64-3」
《encore曲》
 ・Tchaikovsky:「四季」より10月「秋の歌」
 ・モンポウ:歌と踊り 第1番
 ・Bartók:3つのチーク県の民謡より
  1. ルバ―ト
  2. リステッソ・テッポ
  3. ポコ・ヴィーボ

   ※ ※ ※

[14]本マチネleaflet(表)‥平野啓一郎(中)&北村朋幹(右)
 14leaflet

[15]同(裏)‥program‥
 15program

[16]マチネ終了後のサイン会にて、平野啓一郎氏(右奥)と握手する小生
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[17]平野啓一郎『マチネの終わりに』
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【小生comment】
 平野敬一郎氏のclassic音楽への造詣の深さには恐れ入った。
 小生もclassic音楽は大好きだが、小生より20歳も若い彼が小生とは比較にならぬ程の蘊蓄のある処を聴かされて驚いた。
 勢いで、彼の最近の人気作『マチネの終わりに』を買い、concert終了後に、書籍購入者向けのsign会でsignして貰った。

【後記】今、平野啓一郎の『マチネの終わりに』を読みかけている。
 因みに、マチネ(matinee)とは、フランス語で「お昼に行うconcert」のこと。
 題名からして「classic音楽」の用語だ。
 本作品のessenceを抽出してみると‥
 出会った時から惹かれ合った天才ギタリストの蒔野とFranceの通信社記者である洋子。
 婚約者のいる洋子と蒔野との関係を芥川賞受賞作家の平野啓一郎が鋭く且つ知的に絶妙なタッチで描いていく‥。
 小生、まだ読了していないが、スッと小説の中に惹き込まれて行く魅力的な作品だと感じた。

 さて、明日と明後日の旅行の話に変わる。
 時習26回生の同期、中嶋良行君【3-2】と谷山健君【3-3】他1名と、年2回実施している『城・城跡&史跡巡り』の旅に行って来る。
 今回の行き先は、以下にお示しした石川県と福井県にある『城・城跡&寺院』全8箇所。
 内訳は、以下にお示しした通り。
 城2箇所、城跡1箇所、松尾芭蕉『奥の細道』所縁の寺院4箇所、苔庭が絶景の寺院(=神社)1箇所である。

 ①多太神社‥石川県小松市【奥の細道】
 ②那谷寺‥石川県小松市【奥の細道】
 ③大聖寺城跡‥石川県加賀市【城跡】
 ④全昌寺‥石川県加賀市【奥の細道】
 ‥あわらグランドホテル‥福井県あわら市
 ⑤丸岡城‥福井県坂井市丸岡町【城〔=現存天守閣=〕】
 ⑥天龍寺‥福井県吉田郡永平寺町松岡【奥の細道】
 ⑦白山平泉寺〔=平泉白山神社〕‥福井県勝山市平泉町【苔庭】
 ⑧越前大野城‥福井県大野市城町【城〔=復興天守閣=〕】

 上記模様は、次号会報にてご報告する予定である。
 お楽しみに!
 ではまた‥。(了)

2016年10月22日 (土)

【時習26回3-7の会 0623】~「松尾芭蕉『野ざらし紀行』〔第3回〕」「10月08日:大垣市スイトピアセンター Art Gallery『姫路市立美術館所蔵/ポール・デルヴォ―版画展〔彷徨える夢を求めて/幻想のVenus達〕』&大垣市守屋多々志美術館『芭蕉―同行二人―』展を見て」「佐藤愛子『人間の煩悩』を読んで」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 今日も《会報》【0623】号をお送りします。

■さて今日は、前回&前々回《会報》に引き続き、松尾芭蕉(1644-94)の第一作目となる紀行文『野ざらし紀行』〔第3回〕をお届けする。
 今日もまず復習を兼ねて『野ざらし紀行』の行程を以下に再掲する。

※ 1684(貞享元)年 ※
【済】八月中旬(十一~廿日(新暦1684年9月20~29日頃))‥・江戸深川の草庵を門人千里(ちり(=苗村氏))を伴い、東海道を上方を目指して出立。
【済】八月二十日過ぎ(新暦09月30日過ぎ)‥・小夜中山を越える
【済】八月晦日(新暦10月08日(猶、八月は小の月につき晦日は29日)‥・伊瀬外宮を参詣
【済】九月八日(新暦10月16日)‥・伊賀上野着、兄半左衛門宅に滞在
 ‥・千里の故郷、大和国竹内村千里宅を訪問、吉野山に登る
◆九月下旬(新暦10月28日~11月06日)‥・今須・山中を経て大垣へ‥谷木因亭に泊す
 十月初旬~中旬(新暦11月07日~25日頃)‥・伊勢の多度権現、桑名本統寺を経て熱田へ
 十月下旬(新暦11月25日頃~12月06日)‥・名古屋へ赴く、その後再び熱田へ
 十二月廿五に(新暦1685年01月29日)‥・伊賀上野に帰り越年

※ 1685(貞享02)年 ※
 二月(初旬から中旬廿日迄(新暦03月05日~03月24日)) 伊賀より奈良へ、二月堂の行事を配す
 因みに、東大寺二月堂の修ニ会(しゅにえ(=おみずとり))は二月一日~十五日(現在は、新暦03月01~14日に行われる)
 二月下旬(廿一日~晦日(新暦03月25日~04月03日)) 京都鳴滝の三井秋風の山荘に遊ぶ
 三月上旬(朔日~十日(新暦04月04日~13日) 伏見西岸寺に任口上人を訪ねる
 三月中旬(十一日~廿日(新暦04月14日~23日)) 水口の駅で服部土芳に逢い数日滞在、のち名古屋へ向かい熱田の桐葉亭へ
 四月四日(新暦05月06日) 鳴海の下郷知足を訪ねる
 四月五日(新暦05月07日) 熱田へ戻る
 四月九日(新暦05月11日) 再び鳴海へ赴く
 四月十日(新暦05月12日) 鳴海を発ち、江戸へ向かう
 四月下旬(廿一日~晦日(新暦05月23日~06月01日)) 木曾・甲斐を経て江戸へ帰着

《原文》
 やまとより山城を経て、近江路に入て美濃に至る。
 います・山中(注1)を過(すぎ)て、いにしへの常盤(注2)の塚有(あり)。
 伊勢の守武(注3)が伝(いひ)ける、「よし朝殿に似たる秋風(注4)」とは、いづれの所か似たりけん。
 我も又、

  義朝の心に似たり秋の風

 不破(注5)

  秋風や藪も畠も不破の関

《現代語訳》
 大和から山城を経て近江路に入って美濃に着いた。
 今須・山中を経て、昔の常盤御前の塚がある。
 室町時代の連歌師 伊勢守武が詠んだ「よし朝殿に似たる秋風」と、どの辺りが似ているのだろうか。
 私も又‥

【意】保元の乱では父為義や弟為朝達と戦い、平治の乱では敗れ、部下に殺された義朝‥
   この秋風は、義朝の無念の死を思えば、一層寂しさを強く感じさせるものだ
【季語】秋の風:秋

 不破

【意】鈴鹿・愛発(あらち)と共に三関の一つである「不破」の関所は今は既にその姿はなく、藪にも畠にも秋風が吹き荒(すさ)んでいるヨ
【季語】秋風
【解説】人住まぬ不破の関屋の板廂(びさし)荒れにし後はただ秋の風
   【意】今は廃止され人住まぬ不破関の小屋の板廂よ
      荒れ果てた扉(=板で葺いた廂の着いた扉)に、むなしく秋風が吹いている
      〔藤原良経(1169-1206)/新古今集/巻17/雑歌中〕を踏まえる

(注1)います・山中:「今須」は中仙道の宿場町で不破の関の西隣にある
   滋賀との境界近くにある/山中はその東にある/今須と山中はいずれも現・岐阜県不破郡関ヶ原町にある
(注2)常盤:源義朝の愛妾常盤御前/絶世の美女の誉れ高かった/源義経の母
(注3)伊勢の守武:荒木田守武(1473~1549)/室町時代の連歌師/伊勢神宮神官荒木田守秀の九男
   山崎宗鑑に連歌を学び、宗鑑と共に俳諧の祖
(注4)よし朝殿に似たる秋風:荒木田守武の『守武千句』に「月見てやときはの里へかかるらん・よしとも殿ににたる秋風」とある
(注5)不破:関ケ原町にある不破の関跡
   伊勢の「鈴鹿の関」、越前の「愛発(あらち)の関」とともに設置された「三関」の一つ
   673年天武天皇によって都(飛鳥浄御原宮)防衛の為、鈴鹿・愛発(→のち逢坂に変わる)と共に設置された

《原文》
 大垣(注1)に泊りける夜は、木因(注2)が家をあるじとす。
 武蔵野を出る時、野ざらしを心におもひて旅立ければ、

  しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮

《現代語訳》
 大垣に泊まった夜は、谷木因の家に世話になった。
 武蔵野を出発した時、野ざらしになっても構わないと「死」を覚悟しての旅立ちだったので、

【意】どうにか死ぬことはなく、生きたまま旅寝を重ねてきた
   お陰様で、此処大垣で確りと宿をとっていられる秋の暮れだ
【季語】秋の暮:秋

《語句》
(注1)大垣:岐阜県大垣市/『おくのほそ道』の結びの地でもある
(注2)木因:谷木因(1646-1725)/大垣の船問屋/通称は九太夫
   木因と芭蕉は、年も2歳違いと近く、共に北村季吟門下として交流があった
   又、芭蕉の他に、井原西鶴や大淀三千風とも交流があった

【小生comment】
 谷木因(1646-1725)との親密な交流もあって、芭蕉の大垣滞在はほぼ一月に及ぶ
 こうした大垣との縁が、後の『奥の細道』の「むすびの地」に繋がったのだろうか‥。

■続いての話題は、10月08日に大垣市スイトピアセンター Art Gallery『ポールデルヴォ―版画』展&大垣市守屋多々志美術館『芭蕉―同行 二人―』展を見て来たのでその模様についてお伝えする。
【ポールデルヴォ―(1897.09.23-1994.07.20)版画展】
 デルヴォーの本格的な版画集は、今回初めて見た。
 以下に展示作品の中から幾つかの作品をご紹介する。

[01]大垣市スイトピアセンター Art Gallery入口と本展案内
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[02]本展leaflet
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[03]Paul Delvaux『夢想するアンヌ』1966年
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[04]同『よそ行きのdress』1967年
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[05]同『窓』1971年
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[06]同『静寂』1972年
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[07]同『ささやき』1981年
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[08]同『庭』1971年
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[09]同『パイオリーブ』1975年
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【小生comment】
 本展は、姫路市立美術館所蔵のポール・デルヴォ―の版画展である。
 彼の絵には、女性への羨望というか、美しさとeroticismが併存していて、見る者〔‥と言っても多分男性が殆どだろうが‥〕を魅惑する魔性が潜んでいる。

 さて、大垣市スイトピアセンター Art Galleryを後にして、大垣市守屋多々志美術館へ向かった。

【大垣市守屋多々志美術館『芭蕉―同行 二人―』展】
 本展は、大垣市に生まれた日本画家、守屋多々志の作品のうち、松尾芭蕉の作品と生涯に焦点を当てた『芭蕉‥同行 二人‥』展と、守屋が描いた故郷、大垣の街『ふるさとの家』展という企画ものを同時に開催した展覧会である。

[10] 大垣市守屋多々志美術館入口
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[11]本展leaflet
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[12]同『加賀の千代女』
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《守屋の生家大垣市船町界隈を描いた『ふるさとの家』》
[13]同『ふるさとの家〔朝餉〕』(左)・『ふるさとの家〔午睡〕』(右)
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[14]同『ふるさとの家〔残照〕』(左)・『ふるさとの家〔宵宮〕』(右)
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【小生comment】
 芭蕉が生きた昔日の心象風景を眼前にしていたら、虚実に関係なく、日本人としての郷愁がふつふつと胸に湧いて感動して居る自分に気付いた。
 守屋多々志の歴史物の作品は、見る者に日本人としてのidentityとnostalgiaを与えてくれる。

■続いては、最近読んだ本、佐藤愛子『人間の煩悩』についてご紹介する。
 佐藤愛子(1923.09.23- )氏のessayは、機知に富んでいて面白い。
 其処で、本書から幾つかをご紹介する。

【第二章/人生とは】から‥順風満帆な人生なんてない〔P.64〕‥
 多くの人は「順風満帆」を何よりの幸せだと思っている。
 躓(つまず)きのない、順調平穏な人生に憧れる。
 しかしこの世にはそんな人生なんてないのだ。
 蹉跌があってこそ生きることに意味があるのだ。
                 『死ぬための生き方』

【第二章/人生とは】‥失敗なくして強さは身につかず〔P.65〕‥
 私は失敗をしては戦い、その戦いに拠って力を培ってきた。
 今は何がきても怖くなくなった。
 覚悟を決めて生きられる様になったのは、数々の失敗のお蔭だと言える。
 用心深い人には負け惜しみに聞こえるだろうが、そう言えば私の人生は痩せ我慢の人生だったと言えよう。
                 『戦いやまず日は西に』

【第三章/男と女とは】‥「十の情事より一つの恋よ」〔P.92〕‥
 「中根さん、苦しい恋の経験はどんなに辛くてもね、経験しないよりはした方がいいのよ、十の情事より一つの恋よ」
                 『風の行方(下)』

【第三章/男と女とは】‥健全な男はみな助平である〔P.93〕‥
 格言―男ってヤツは女がひっつきまわれば、例えどの様なご面相であろうとも、必ずヤル。
 それが健全な男である。
                 『ひとりぼっちの鳩ポッポ』

【第六章/長寿とは】‥生きるのも大変だが、死ぬのも大変〔P.180〕‥
 全く、生きるのも大変だが、死ぬのも大変という事態になって来た。
 これというのも医学の目覚ましい進歩のお蔭である。
 その力で人は長寿になり、長寿は認知症を招き、認知症は病でなく老い衰えた為の脳細胞の欠落に拠る症状であるから治療法というものがなく、死とは関係ない。
 それでも身内は放って置く訳にはいかないから、看護に心身をすり減らす。
 長寿は目出度くなくなったのである。
                 『かくて老兵は消えてゆく』

【第六章/長寿とは】‥人生最後の修行の時〔P.196〕‥
 これからの老人は老いの孤独に耐え、肉体の衰えや病の苦痛に耐え、死にたくても中々死なせてくれない現代医学にも耐え、人に迷惑をかけていることの情けなさ、申し訳なさにも耐え、その総てを恨まず悲しまず受け入れる心構えを作って置かなければならないのである。
 どういう事態になろうとも悪あがきせず死を迎えることが出来る様に、これからが人生最後の修行の時である。
 如何に上手に枯れて、有りの儘に運命を受け入れるか。
 楽しい老後など追求している暇は私にはない。
                 『老い力』

[15]佐藤愛子『人間の煩悩』
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【小生comment】
 本書は、上記に紹介した第二・第三・第六章の他は、「第一章/人間とは」「第四章/子供とは」「第五章/あの世とは」がある。
 何れも面白いので、興味ある方は、是非本書を手に取ってご覧頂きたい。
 きっといい気分転換になると思料する。
 因みに、詩人のサトウハチロー(1903-73)は佐藤愛子氏の異母兄である。

【後記】最近、めっきり夜が長くなった。
 「読書の秋」という言葉が浮かび、久保田万太郎の次の名句が浮かんだ。

  敢えて思ふ 燈火親しむべきの候 久保田万太郎(1889-1963)

 続けて、この名句に触発されて次の様な拙句が浮かんだ‥

  燈火親しみ乍ら君(きみ) 想ひけり 悟空
 
 お粗末さまでした。

 ではまた‥。(了)

2016年10月14日 (金)

【時習26回3-7の会 0622】~「松尾芭蕉『野ざらし紀行』〔第2回〕」「10月01日:静岡市美術館『ランス美術館』展&岡崎市美術博物館『ブリュ―ゲルとバロックの巨匠』展を見て」「平野敦之『できる男の老けない習慣』を読んで」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 今日も《会報》【0622】号をお送りします。

■さて今日は、前《会報》に引き続き、松尾芭蕉(1644-94)の第一作目となる紀行文『野ざらし紀行』〔第2回〕をお届けする。
 まず復習を兼ねて『野ざらし紀行』の行程を以下に再掲する。

※ 1684(貞享元)年 ※
【済】八月中旬(十一~廿日(新暦1684年9月20~29日頃))‥・江戸深川の草庵を門人千里(ちり(=苗村氏))を伴い、東海道を上方を目指して出立。
【済】八月二十日過ぎ(新暦09月30日過ぎ)‥・小夜中山を越える
【済】八月晦日(新暦10月08日(猶、八月は小の月につき晦日は29日)‥・伊瀬外宮を参詣
◆九月八日(新暦10月16日)‥・伊賀上野着、兄半左衛門宅に滞在
 ‥・千里の故郷、大和国竹内村千里宅を訪問、吉野山に登る
 九月下旬(新暦10月28日~11月06日)‥・今須・山中を経て大垣へ‥谷木因亭に泊す
 十月初旬~中旬(新暦11月07日~25日頃)‥・伊勢の多度権現、桑名本統寺を経て熱田へ
 十月下旬(新暦11月25日頃~12月06日)‥・名古屋へ赴く、その後再び熱田へ
 十二月廿五に(新暦1685年01月29日)‥・伊賀上野に帰り越年

※ 1685(貞享02)年 ※
 二月(初旬から中旬廿日迄(新暦03月05日~03月24日)) 伊賀より奈良へ、二月堂の行事を配す
 因みに、東大寺二月堂の修ニ会(しゅにえ(=おみずとり))は二月一日~十五日(現在は、新暦03月01~14日に行われる)
 二月下旬(廿一日~晦日(新暦03月25日~04月03日)) 京都鳴滝の三井秋風の山荘に遊ぶ
 三月上旬(朔日~十日(新暦04月04日~13日) 伏見西岸寺に任口上人を訪ねる
 三月中旬(十一日~廿日(新暦04月14日~23日)) 水口の駅で服部土芳に逢い数日滞在、のち名古屋へ向かい熱田の桐葉亭へ
 四月四日(新暦05月06日) 鳴海の下郷知足を訪ねる
 四月五日(新暦05月07日) 熱田へ戻る
 四月九日(新暦05月11日) 再び鳴海へ赴く
 四月十日(新暦05月12日) 鳴海を発ち、江戸へ向かう
 四月下旬(廿一日~晦日(新暦05月23日~06月01日)) 木曾・甲斐を経て江戸へ帰着

《原文》
 長月の初(はじめ)、古(=故)郷(注1)に帰りて、北堂の萱草(けんさう)(注2)も霜枯(しもがれ)果(はて)て、今は跡だになし。
 何事も昔に替(かは)りて、はらから(注3)の鬢(びん)白く眉(まゆ)皺(=皺(しわ))寄て、只(ただ)「命有(あり)て」とのみ伝(いひ)て言葉はなきに、このかみ(注4)の守袋(まもりぶくろ)をほどきて、
 「母の白髪(しらが)お(=を)がめよ、浦島の子が玉手箱(注5)、汝がまゆもやゝ老(おい)たり」
 と、しばらくなきて、

  手にとらば消(きえ)んなみだぞあつき秋の霜

《現代語訳》
 九月初旬、故郷の伊賀上野に帰ると、母が亡くなって久しく、既にその名残りもない。
 全ての事が昔とは変わって仕舞い、兄姉妹の髪の毛は白く、眉に皺が寄り、ただ「命さえあれば」とだけ言って言葉は無く、兄が守り袋を解(ほど)いて、
 「母の形見の白髪を拝みなさい。(本当に久しぶりの帰省なので) お前(=芭蕉)にとっては浦島太郎が玉手箱を開けるみたいだネ。お前の眉も大分白くなったナァ」
 と、暫く泣いて、

【意】母の遺髪を手に取ると、熱い涙で消えて仕舞いそうだ/秋の霜の様に
【季語】秋の霜:秋

《語句》
(注1)古郷(=故郷):伊賀上野(現・三重県上野町)/芭蕉は1672(寛文12)年(29歳)、故郷伊賀上野を後にした
   1675(延宝03)年(32歳)には江戸に住んでいたので、この3年間のいずれかの間(=諸説あり=)に江戸に移り住んだ
(注2)北堂の萱草(けんそう/くわんそう):古代中国で士大夫の家では、東房の北側半分を母(=主婦)の居室とし、その庭に萱草(わすれぐさ)を植える風習があった
   /転じて、「母」のこと
(注3)はらから:兄弟姉妹/芭蕉には兄半左衛門のほか、姉一人、妹三人がいた
(注4)このかみ:長兄 松尾半左衛門
(注5)浦島の子が玉手箱:芭蕉の久しぶりの帰郷を浦島が玉手箱を開ける昔話にたとえた

《原文》
 大和の国に行脚(あんぎや)して、葛下(かつげ)の郡(こほり)(注1)竹の内(注2)と伝(いふ)処(ところ)に(=は)(注3)彼(かの)ちり(=千里)が旧里なれば、日ごろとどまりて足を休む。

  わた弓や琵琶(びは)になぐさむ竹のおく

《現代語訳》
 大和の国を徒歩で旅して、葛下の郡竹の内という所が、例の(我が門弟である)千里の故郷であるので、数日留まって休息した。

【意】綿弓をまるで楽器の琵琶の様にベベベーンと弾き鳴らす
   その琵琶に似た音色に旅人の心が慰められることだヨ‥此処、竹藪の奥の閑居でジックリ聴いていると‥
【季語】綿弓:秋
【解説】「綿弓」は「綿打ち弓」とも/綿の実から取り出した綿を弦で弾き、不純物を取り去って柔らかくする道具
    形が「弓」に似ているからその名が付いた
    此処では、実際に打つ時に出る音が琵琶の音の様だと詠んでいる

《語句》
(注1)葛下の郡:現・奈良県北葛城郡
(注2)竹の内:当麻町竹内
(注3)伝(いふ)処(ところ)に(=は):底本「處に」と書き、右に傍記して「ハ」と改める

《原文》
 ニ上山(ふたかみやま)(注1)當麻寺(たいまでら)(注2)に詣(まう)でゝ、庭上(ていしやう)(注3)の松をみるに、凡(およそ)千とせもへたるならむ。
 大(おほ)イサ牛をかくす(注4)共(とも)伝(いふ)べけむ。
 かれ非常(=情)(注5)といへども、仏縁(注6)にひかれて、斧斤(ふきん)の罪(注7)をまぬかれたるぞ幸(さいはひ)にしてたつとし。

  僧(そう)朝顔幾(いく)死(しに)かへる法(のり)の松

《現代語訳》
 ニ上山当麻寺に詣でて、庭の松を見ると、およそ千年も経ているかと思われる。
 大イサ牛を隠すと『荘子』に語られているように、まさに牛を隠すほどの大きな松だ。
 松に心は無いといっても、寺に庭に植えられたという仏縁に拠り、斧(=おの)で切り倒されずに済んでいることは、幸いで尊いことであるヨ。

【意】偶々仏縁に恵まれた齢千年となる老松からみれば、この寺の僧侶や朝顔の花等は、幾度となく生死を繰り返していて、その一生は短く儚い
   そして、この老松が長い命脈を保てるのも、本寺が深い信仰に支えられ、伽藍が長い年月保たれ続けて来られたからこそである
【季語】朝顔:秋

《語句》
(注1)ニ上山:奈良県北葛城郡当麻町と大阪府南河内郡との間にある山
       山麓に当麻寺(禅林寺)がある。中将姫の伝説で名高い
(注2)當麻寺:開基=麻呂古王(聖徳太子の異母弟)/山号=二上山
   本尊=創建時:弥勒仏(金堂)→現在・當麻曼荼羅(本堂)
   宗派:高野山真言宗・浄土宗の並立
(注3)庭上(ていしやう):『易林本節用集』『日葡辞書』等に「清音」で読む
(注4)大イサ牛をかくす:「櫟社の樹を見る。その大いさ牛を蔽(かく)す」(『荘子』「人間世篇」)
  「見櫟社樹、其大蔽牛、絜之百囲/櫟社(レキシャ)ノ木ヲ見ル二、其ノ大イサ(=大キサ)牛ヲ蔽(オオ)フ、之ヲ絜(ムス)ブ二百囲(ヒャクイ)」
  【意】櫟社の神木の檪(クヌギ)の大木を見た/その大きさは千頭の牛を隠すほどで/人間百人が両手を開き結んだ程の幹の太さだ
  「(大(オオ))イサ」=「(大(オオ))キサ」/「櫟社(レキシャ)」は櫟(クヌギ)の神木を社(やしろ)としたもの
  「櫟社ノ木」は、ものの用に立たない大木で、それ故材木として使用されず、大木になる迄寿命を全うした『無用の用』の例話として名高い
(注5)非情:心が無い/木や石など心が無いもの
(注6)仏縁:寺の庭に生えているという縁
(注7)斧斤の罪:「斤」=「斧」=「おの」/斧で切り倒される罪
  「不夭斤斧、物無害者/斤斧(きんふ)二夭(よう(=夭逝=早死に)の意)セラレズ、物ノ害スル者無シ」〔『荘子』「逍遥遊篇」〕
  【意】「斤斧」即ち、「おの」に刈り倒されることもなく、何も心配することもない

《原文》
 独(ひとり)よし野ゝ(=の)おくにたどりける(注1)に、まことに山深く、白雲峯に重(かさな)り、烟雨(えんう)(注2)谷を埋(うづ)ンで、山賤(やまがつ)(注3)の家處ゝ(ところどころ)にちい(=ひ)さく、西に木を伐(きる)音東にひゞき、院ゝの鐘の声は心の底にこたふ。
 むかしより、この山に入(いり)て世を忘たる人の、おほくは詩にのがれ哥(=歌)にかくる。
 いでや(注4)、唐土(もろこし)の廬山(ろざん)(注5)といはむも、またむべならずや。

   ある坊(注6)に一夜をかりて

  碪(きぬた)打(うち)て我にきかせよや坊が妻

《現代語訳》
 一人で吉野の奥を辿(たど)って行くと、誠に山が深く、白い雲が峯に重なり、霧雨が谷を埋めて、樵(=木こり)の家が所々に小さく見え、西に木を切る音が東に響き、寺々の鐘の音が心の底に染みる。
 昔から、この山に入って俗世間を忘れた人の、多くは詩に逃れ歌に隠れた。
 いやまったく、唐土(もろこし)の廬山というのも、尤もなことだ。

   ある僧坊に一夜を借りて、

【意】砧を打って私に聞かせてくれ/坊の妻よ
【季語】碪(砧(=きぬた)):冬
【解説】「みよし野の山の秋風さ夜ふけて古里寒く衣うつなり」藤原雅経(1170-1221)〔新古今集 秋下483/【小倉百人一首 94番】〕
   【意】吉野の山の秋風が夜更けて吹き渡り、古い京都であった吉野の里は寒く、衣をを打つ音が聞こえて来る

  子夜呉歌  李白(701-62)
 長安一片月 長安一片の月
 萬戸擣衣聲 万戸衣を打つの声
 秋風吹不盡 秋風吹いて尽きず
 總是玉關情 総て是れ玉関の情
 何日平胡虜 何れの日か胡虜を平らげ
 良人罷遠征 良人遠征を罷めん

【意】長安の街をぽつんとある月が照らしている
   どの家からもトントンという衣を打つ砧(きぬた)の音がしてくる
   秋風は吹き止まない
   これ等総てのことが、玉門関の彼方に出征している夫を思い慕う情を掻き立てる
   いつになったら夫は夷敵を斃して遠征から帰って来るのかしら‥

《語句》
(注1)たどりける:底本に「たどり『て』」を「見せ消(け)ち」にする
(注2)烟雨:霧雨
(注3)山賤:樵(=木こり)
(注4)いでや:いやまさに
(注5)廬山((ろざん)中国語:Lushan):中国江西省北部の九江市南部にある名山
   廬山国家風景名勝区に指定され、廬山自然公園としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている
   古来、多くの文人墨客や僧などが訪れたり隠棲した
   中でも、廬山の北嶺の香炉峰は、白居易がの詩が特に有名
   彼が44歳だった815(元和10)年、江州の司馬に左遷された時に詠んだ七言律詩「香炉峰下新卜山居草堂初成偶題東壁」
   この詩は、清少納言『枕草子』で紹介されている

  香炉峰下新卜山居草堂初成偶題東壁
  /香炉峰下 新たに山居を卜し草堂初めて成り 偶東壁に題す
   /白居易(772-846)

 日高睡足猶慵起 日高く睡(ねむ)り足りて猶お起くるに慵(ものう)し
 小閣重衾不怕寒 小閣に衾(きん)を重ねて寒さを怕(おそ)れず
 遺愛寺鐘欹枕聴 遺愛寺の鐘は枕を欹(そばだ)てて聴き
 香炉峰雪撥簾看 香炉峰の雪は簾を撥(かか)げて看る
 匡廬便是逃名地 匡廬(きょうろ)は便(すなわ)ち是れ名を逃のがるるの地
 司馬仍為送老官 司馬は仍(な)ほ老(ろう)を送るの官たり
 心泰身寧是帰処 心泰く身寧きは是れ帰する処
 故郷可獨在長安 故郷 何ぞ独り長安にのみ在らんや

【意】日は既に高く確り眠った筈なのに、猶、起きるのが億劫だ
   小さな部屋だが衾((ふすま=しとね)=布団)を重ねているので寒さの心配はない
   遺愛寺から響く鐘の音を枕からじっと耳を傾けて聞き
   香炉峰に降る白雪は、簾(すだれ)をちょっと撥ね上げて見てみる
   廬山こそは煩わしい俗世間の名声や名誉から逃避するに相応しい土地で
   司馬という官職は、老後を送るには相応しい官職である
   身も心も安らかでいられる所こそ、自分の落ち着ける場所なのである
   故郷は、長安だけにあるのではない

(注6)坊:僧坊

《原文》
 西上人(さいしやうにん)(注1)の草の庵(いほり)の跡は、奥の院より右の方(かた)ニ町計(ばかり)わけ入(いる)ほど、柴人(しばびと)(注2)のかよふ道のみわづかに有(あり)て、さがしき(注3)谷をへだてたる、
 いとたふとし。
 彼(かの)とくゝゝの清水(しみづ)はむかしにかはらずとみえて、今もとくゝゝと雫(しづく)落(おち)ける。

  露とくゝゝ心みに浮世すゝがばや

《現代語訳》
 西行上人の草の庵の跡は、奥の院より右の方へ二町程分け入っていくと、柴刈りする人が通う道が僅かにあり、険しく切り立った谷を隔てている。
 大変尊い。
 西行の歌にある、あの「とくとくの清水」は、今も昔に変わらずとくとくと雫が落ちている。

【意】とくとくと流れ落ちる雫で、試みに浮世の塵を洗い流してみようか
【季語】露:秋
【解説】「とくとくと落つる岩間の苔清水くみほすほどもなきすまひかな」
   【意】とくとくと流れ落ちる岩間の苔清水は僅かな水の量だが、それでも私の住まいは一人暮らしには十分だ 〔西行〕
      但し、この歌は西行伝とされ、彼の歌集「山家集」「聞書集」「聞書残集」のいずれにも存在しない

《語句》
(注1)西上人:西行上人
(注2)柴人:柴刈りをする人
(注3)さがしい:険しく切り立っている

《原文》
 若(もし)是(これ)、扶桑(ふさう)(注1)に伯夷(注2)あらば、必(かならず)口をすゝがん。
 もし是(これ)、許由(きょゆう)(注3)に告(つげ)ば、耳をあらはむ。
 山を昇り坂を下(くだ)るに、秋の日既に斜(ななめ)になれば、名ある所ゝみ残して、先(まづ)、後醍醐帝(注4)の御廟(ごべう)を拝む。

  御廟年経て忍ぶは何をしのぶ草

《現代語訳》
 もし日本に伯夷がいれば、必ずこの清水で口を濯(すす)ぐだろう。
 もし許由にこの清水のことを告げれば、耳を洗うだろう。
 山を昇り坂を下ると、秋の日は既に傾いて来た為、先ず最初に後醍醐天皇の御廟を拝んだ。

【意】長い歳月を経た後醍醐帝の御陵のその傍らには、程良くしのぶ草が育っているヨ
   後醍醐帝の「忍」ばれた御心が痛い程解る様な気持ちだ
【季語】忍:秋

《語句》
(注1)扶桑:古代中国からみた日本の呼称/もとは巨木の意味/中国の伝説で東の海の果てにある国、即ち「日本」を指す
(注2)伯夷:中国殷の人物/周の武王が殷を討つ不義を弟の叔斉(しゅくせい)と共に諌めたが容れられなかった為、首陽山(中国陝西省の山)に隠棲し、蕨で餓をしのいだが餓死した
(注3)許由:中国「三皇五帝」時代の伝説の隠者
   尭から王位を譲ると言われ、汚らわしいことを聞いたと潁川(えんせん:中国河南省の川)で耳を洗ったという高潔な人物
(注4)後醍醐帝(1288~1339):南北朝時代の天皇/吉野で南朝を開いた/52歳で吉野で崩御/その御陵は如意輪寺の裏山塔の尾にある

【小生comment】
 次回『野ざらし紀行』は、「九月下旬(新暦10月28日~11月06日)‥・今須・山中を経て大垣へ‥谷木因亭に泊す」である。
 芭蕉(1644-94)と谷木因(たに ぼくいん (1646-1725))の銅像は、本《会報》末尾の添付写真[29]をご覧頂きたい。

■続いての話題は、10月01日に静岡市美術館『ランス美術館』展&岡崎市美術博物館『ブリュ―ゲルとバロックの巨匠』展を見て来たのでその模様についてお伝えする。
【静岡市美術館『ランス美術館』展】
 本展は、ランス美術館( Musee des Beaux-Arts de Reims )の大規模改修に合わせ持ち出しが可能となった、ドラクロワ(Delacroix)、コロ―(Corot)、ミレー(Millet)、ピサロ(Pizarro)、シスレー(Sisley)、ゴーギャン(Gauguin)、ドニ(Denis)をはじめとする17世紀から20世紀の巨匠達と、晩年此の地で洗礼を受け、制作も行ったレオナ―ル・フジタ(藤田嗣治)等、特別出展を含む名画約70点を展示する。
 Franceの古都ランス(Reims)は、Parisの東北東約130kmの所に位置する、シャンパーニュ地方の人口18万人余りの街。
 ランスには、世界遺産のランス・ノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Reims)がある。
 5世紀、フランク王国の国王クローヴィス(466-511)が、この大聖堂にてランス司教レミギウスからキリスト教改宗の洗礼を受けた。
 爾来、この大聖堂にて、歴代フランス国王の戴冠式が行われた歴史を持つ。
 以下に展示作品の中から幾つかの作品をご紹介する。

[01]静岡市美術館入口1階elevator
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[02]本展leaflet
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[03]マールテン・ブレーマ・デ・ストンメル『レモンのある静物』17世紀
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[04]作者不明(France)『ルイ15世の娘、アデライ―ド夫人の肖像』18世紀
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[05]ジャック=ルイ・ダヴィッド(及び工房)『マラーの死(La Mort de Marat)』1793年07月13日以降
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[06]シャルル・ランデル『タンジ―ルのユダヤ人の女(La Juive de Tanger)』1866年以降
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[07]カミ―ユ・コロ―『川辺の木陰で読む女』1865-70年
 07186570

[08]カミ―ユ・ピサロ『オペラ座通り、テアトル・フランセ広場(L'Avenne de l'Opera ou Place du Theatre Francais)』1989年
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[09]ジャン=フランソワ・ラファエリ『シャンゼリゼ(Les Champs-Elysees)』1902年
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[10]ポール・ゴーギャン『薔薇と彫像』1889年
 101889

[11]モーリス・ドニ『魅せられた人々(Les Captifs)』1907年
 11les_captifs1907

[12]レオナ―ル・フジタ(藤田嗣治)「平和の聖母礼拝堂のフレスコ画より『父なる神と聖母子』」
 12

 静岡市美術館を見た後、当初予定の静岡県立美術館を目指した。『徳川の平和』展を見る為である。
 しかし、県立美術館駐車場が満杯。
 暫く駐車場が空くのを待ってみたが全く空く気配もない為、拝観を諦め、岡崎市美術博物館へと向かった。

【岡崎市美術博物館『ブリュ―ゲルとバロックの巨匠』】
 本展は、Rembrandt、Velazques、Rubens といったbaroqueを代表する画家、Tiziano を始めとする16世紀のVenezia派、Flanders地方で活躍したピーテル・ブリュ―ゲル(子)兄弟の作品等、チェコ共和国のプラハ国立美術館・Polandのヨハネ・パウロ2世美術館・Franceのシャルトル会修道院美術館の3館が所蔵する名品全44点を展示する企画展。
 因みに、baroqueという言葉は、Portugal語で「歪んだ真珠」を意味する「バロッコ(barroco)」が語源という。
 以下に本展の展示作品の幾つかをご紹介する。
 Baroque絵画の醍醐味を堪能下さい。

[13]岡崎市美術博物館入口
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[14]本展leaflet
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[15]16世紀ボローニャの画家(Tizianoの追随者)『ルルクセレティアの死』1527年
 1516tiziano1527

[16]パオロ・ヴェロネーゼ(本名:パオロ・カリアーリ)『女性の肖像』1565年
 161565

[17]Rembrandt van Rijn『襞襟を付けた女性の肖像』1644年
 17rembrandt_van_rijn1644

[18]ピーテル・ブリューゲル(子)『東方三博士の礼拝』1564-65年
 18

[19]ピーテル・ブリューゲル(子)『フランドルの村』
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[20]ペーテル・パウル・ルーベンス(工房)『自画像』
 20

[21]アンソニー・ヴァン・ダイク『エジプトへの逃避途上の休息』1637年
 211637

[22]バルトロメ・エステバン・ムリーリョ『自画像』
 22

[23]バルトロメ・エステバン・ムリーリョ『聖母子』
 23

[24]ムリーリョ『無原罪の御宿り』1660-65〔プラド美術館〕
 24166065

[25]ディエゴ・ベラスケス『自画像』
 25

※ [17][21][23]の3点は、以下の展覧会で展示され既に見ている
※ [24]は本展の展示作品ではないが、ムリーリョの最高傑作としてupした
※ 2011年06月10日付《会報》【0345】~06月05日:豊橋美術博物館『ポーランド ヨハネ・パウロⅡ世美術館所蔵作品による~canvasに描かれた女性たち』展
※ http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/26-03452637-in-.html ご参照

【小生comment】
 上記2つの美術館の企画展で、16世紀から20世紀初頭にかけての名画を堪能出来た。
 Baroque絵画は黒を基調とした背景に光に拠る陰影が対象物を浮き上がらせる描法なのでクッキリと見えるが絵全体が硬い感じがする。
 その後、新古典派、ロマン派、写実主義〔バルビゾン派〕を経て、鮮やかな色彩の印象派、後期印象派、フォーヴィズムへと変遷していく。
 個人的には、ムリーリョ『無原罪の御宿り』は、とても可愛らしい『聖母マリア像』が大好きだ。
 とっても modern で cute な女性像である。

■続いては、最近読んだ本2冊、平野敦之『できる男の老けない習慣』&谷原誠『「いい習慣」が人を動かす』についてご紹介する。

[26]平野敦之『できる男の老けない習慣』
 26

 この本は、日本抗加齢医学会専門医・評議員で、和歌山県立医科大学泌尿器科学非常勤講師の平野敦之氏が著者。
 氏は、「実際、仕事が出来る男性には、同年代の人と比べてエネルギッシュで若々しい人が多い。その理由は、精巣でつくられる『テストステロン(testosterone)』と、副腎で作られる『DHEA(デ・ヒドロ・エピ・アンドロステロン(Dehydroepiandrosterone))』という「2つの男性ホルモン」で、医学的に説明出来る」という。
 本書から一部ご紹介する。

【男性ホルモンが少ない人はがんや生活習慣病になり易い!】〔P.53-55〕
 本当に「できる男」は、身体が丈夫です。
 体型はslimで、健康診断をしても、脂質異常症や高血圧、糖尿病に引っかかる人は少なく、概して健康体を維持しています。
 その理由は、自己管理が出来ていたり、確り運動していることなども関係がありますが、男性ホルモンの影響も実に大きいのです。
 先ず、男性ホルモンが減ると、血管をしなやかに保つ為に欠かせない一酸化窒素が出にくくなります。
 これが脳卒中や心臓病、高血圧といった心臓血管系の病気や、EDと深い関わりや〔中略〕腎臓の機能低下にも繋がります。
 又、testosteroneの低下に拠って筋肉量が減って来ると、基礎代謝が落ち、糖を消費しきれなくなり〔中略〕肥満に繋がります。〔中略〕
 Testosteroneの低下は、全身の免疫力も低下させ、結果的にがんになり易くなることも解っています。
 実際、40~79歳の男性、1万人以上を対象に、6~10年かけて死亡率を調査した研究結果で、心臓血管病に拠る死亡率、がんに拠る死亡率、それ以外を含めた全体の死亡率、いずれも血中testosterone濃度が高い人程死亡率が低いということが判明しました。〔後略〕

【寝たきりになる人と元気な人は、DHEAに大きな差があった】〔P.68-70〕
〔前略〕50歳を過ぎると、多くの人が何らかの病気に罹ったり、病気予備軍になっているのが現実です。
 しかしそんな中でも、幾つになっても健康体で、生活習慣病等とも無縁の人が存在することも又事実。
 そう言う人と、そうでない人の違い‥に大きな影響を及ぼしているのが実は副腎で作られているDHEAだということが、近年になって解って来ました。〔中略〕
 DHEAには成長ホルモンの分泌を促し、細胞修復を促進する力がある為、美肌効果が期待出来ます。
 是に加えて、肥満を抑える作用もある為、その人の見た目に影響を与えます。
 血中の脂質を低下させたり、動脈硬化や血栓を予防する等、全身の血管を若々しく保つのに役立ちます。
 結果的に血圧を下げる可能性もあります。
 Insulin抵抗性を改善し、糖尿病の発症を抑制する効果もあります。
 つまりDHEAは、資質異常症、高血圧、糖尿病といった生活習慣病の発症を抑制すると考えられるのです。
 その上、免疫機能を上げるので、結果的にがんになりにくくなります。
 このほか、骨粗しょう症の予防や、allergy反応の抑制、腎臓機能の保全、認知症発症の予防や記憶力の改善、抗stress、抑うつ効果等もあると言われています。〔中略〕
 100歳以上で寝たきりになっていない方のDHEAは、一般の人に比べて高いことが判明しているのです。
 ですから、副腎を元気に保ちDHEAを高く保ち続ければ、筋肉質の体系を保て、生活習慣病と無縁の健康体で、毎日明るく前向きに過ごせる可能性が高まります。
 逆に言えば、幾つになっても見た目が若々しく、健康体で仕事が出来る男達は、testosterone値もDHEA値も共に高いことが予想される訳です。〔後略〕
 
※『DHEA』は『副腎』でつくられる ※

【副腎を労(いた)わるには、stress対策が最も大切】〔P.74-76〕
〔前略〕副腎疲労には、stress以外の要因も少なからず関係しています。
 その一つが、偏った食事です。
 副腎ではホルモンを作るには、色々な栄養素が必要です。
 特に、vitamin B群、vitamin C、亜鉛等が不足すると、副腎は段々と働けなくなって仕舞います。〔中略〕
 いずれにせよ、副腎を労わるには、出来るだけstressを排除し、食事をはじめとした生活習慣を見直すことが、最も大切であることは間違いありません。〔後略〕

【筋トレで、男性ホルモンを活性化するにはコツがある】〔P.135-37〕
〔前略〕男性が男性ホルモン値と若さを維持する為には、有酸素運動と筋トレを半分位ずつ行うのが最も効果的ということが、最近の研究で明らかになっています。〔中略〕
 此処で、男性ホルモンの為に、拠り効果的な筋トレのコツ3つをあげます。
【一番目のコツ】全身の筋肉をbalanceよく付ける為に、日頃使わない筋肉を鍛える→・腹筋・背筋等、上半身の筋肉を意識的に鍛える〔理由:下半身は日常使っている為〕
【ニ番目のコツ】遣り過ぎないこと〔理由:筋肉が壊れる(=筋肉痛がある)と男性ホルモンが低下する為〕
【三番目のコツ】筋肉の原料となる蛋白質を確りと摂取する〔補足:蛋白質の代謝に関わるvitamin補給も意識して、肉・魚・卵・納豆等発酵した大豆製品+たっぷりの野菜〕
【更に余力があれば】walking、jogging、swimming を組み合わせる〔理由:これ等は有酸素運動であると共に、全身様々な筋肉を使い筋肉増加に役立つ為〕

【小生comment】
 この本に書いてある「testosterone」と「DHEA」を水準以上確保すべく、「筋トレ(=腹筋2,000回)≒60分間」と「有酸素運動(=2.5kgの木刀素振り60分間)」の計2時間を愚直に毎日実施している‥。
 そうして、元気に明るく、世の中に何か役立つことをし乍ら、長寿を全うしたいと考えている。

【後記】先週10月08日(土)は、前《会報》でお話した様に、現在連載中の『野ざらし紀行』の作者 松尾芭蕉が『奥の細道』むすびの地として最後に訪れた「大垣」に行って来た。
 芭蕉は、今から327年前の1689(元禄02)年八月廿一日~九月五日(=新暦10月04~17日)迄大垣で過ごし、九月六日(=新暦10月06日)に伊勢の二見が浦へ向け船で旅立って行ったのである。
 『奥の細道』の有終の美を次の句で締め括られている

  蛤(はまぐり)のふたみ(=二見(が浦)=二(つの)身)にわかれ行(ゆく)秋ぞ  芭蕉

[27]松尾芭蕉『奥の細道』むすびの地「大垣」船町港跡と住吉燈台(左手奥、桜並木の向こう側の塔)
 27

[28]住吉燈台
 28

[29]松尾芭蕉(肥大)と谷木因(右)
 29

[30]大垣城天守閣と大垣藩初代藩主 戸田氏鉄(うじかね)像
 30

 ではまた‥。(了)

2016年10月10日 (月)

【時習26回3-7の会 0621】~「10月08日:『時習26会ゴルフコンペ2016 at 浜名湖CC』開催報告」「松尾芭蕉『野ざらし紀行』〔第1回〕」「09月22日:豊橋美術博物館『放浪の天才画家 山下清』展を見て」「09月24日:岐阜県立美術館『フランス風景/樹をめぐる物語』展・古川美術館『絵に生きた画家夫婦の軌跡/加藤金一郎と丹羽和子‥絵は人生‥』展・名都美術館『自然讃歌‥時のうつろい‥』展・鞍ヶ池アートサロン『~院展の画家たち~秋澄む日本画~』展を見て」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 今日も《会報》【0621】号をお送りします。

■今日は、まず始めに昨日10月09日、09時10分より『時習26会ゴルフコンペ2016 at 浜名湖CC』が浜名湖CCにて開催された。
 今回は、急遽所用で欠席となった波田野K平君【3-8】を除く以下の14名が集合したので3年次のクラス順にご紹介する。
 そして、今回のNEWSは何と言っても、我が【2637の会】membersの一人石田Y博君が初出場してくれたことだ。
 本会では、その石田君がNetでTopの最小scoreを出したのだが、初参加者はHcpが自主申告の為優勝できず、準優勝になった。
 それにしても凄いことである。
 石田君、おめでとう!

《参加者一覧》
 【3-1】  ―
 【3-2】鈴木Y男、中嶋Y行
 【3-3】市原T弘、鈴木K
 【3-4】  ―
 【3-5】  ―
 【3-6】嘉森M俊
 【3-7】石田Y博、今泉 悟
 【3-8】伊藤H之、野末 K、安井K二、矢野S介
 【3-9】鈴木H彦、福井A輔
 【3-10】高山T彦
 〔以上、クラス別、五十音順、敬称略〕

 その石田君から、今朝、小生宛に時習26回ゴルフコンペ参加の御礼mailを頂戴した。
 恐縮して仕舞うが、嬉しい言葉で綴られていたので以下にご紹介する。

Sent: Monday, October 10, 2016 6:20 AM
To: 今泉 悟
Subject: 昨日は有難うございました

今泉君

 昨日は有難うございました。
 42年ぶりに旧友達と再会でき、とても嬉しかったです。
 私は酒がほとんど飲めないため、こうしたスポーツでの交流が一番の楽しみです。
 今回のコンペ参加も今泉君が7組の会できっかけを与えてくれたお陰です。
 このこのような素晴らしい機会を与えてくださった、今泉君に心から感謝します。
 今後ともよろしくお願い致します。

     石田Y博

[01]時習26会ゴルフコンペ2016 at 浜名湖CC 懇親会全体写真1
 012620161009_at_cc

[02]同上2
 022620161009_at_cc

【小生comment】
 ホント、嬉しい言葉を頂戴しました。
 こちらこそ、参加してくれて有難う!
 そして、初出場での見事な準優勝、おめでとうございます。
 今回、石田君の組には一つ趣向を凝らしました。
 それは、貴兄と、同伴者の市原君、喜男君、高山君と全員バスケット部で同期会を play し乍ら出来たので良かったかナァ‥と。
 来年も是非参加して下さい。

 それから、石田君以外の【2637の会】membersの皆さんも気軽に是非参加して楽しいひとときをお過ごし下さい。
 因みに、懇親会会場での全体写真[01][02]参加者14人と顔との上記の参加者名、全員解りますか?

■さて続いての話題‥。
 今日は、松尾芭蕉(1644-94)の第一作目となる紀行文『野ざらし紀行』〔第1回〕をお届けする。
 実は、前々回《会報》【0619】にて、松尾芭蕉『更科紀行』が終わった際、暫く松尾芭蕉seriesはお休みする旨お伝えした。
 ではあったのだが、松尾芭蕉が紀行文を作り出したのはいつ頃だったのか気になっていた小生、早速調べてみた。
 その結果、貞享元年八月中旬(新暦1684年09月25日頃)~同02年四月下旬(同1685年06月初旬)に掛けて旅した『野ざらし紀行』が最初の作品だと解った。
 旧暦の貞享元年八月中旬と言えば、八月十五日は新暦で言えば1684年09月24日に当たる‥、即ち今から332年前の秋‥、丁度今頃のことである。
 ‥なら《会報》に掲載することにしよう、ということになった次第である。

《野ざらし紀行*解説》
 『野ざらし紀行』は、『甲子吟行』とも呼ばれる。
 『野ざらし(=野晒し)』とは、髑髏(どくろ・しゃれこうべ・されこうべ)のことで、9箇月間に及ぶ旅に対する芭蕉の覚悟の程が窺われる。
 本紀行は、松尾芭蕉41歳の最初の紀行文。
 芭蕉が伊賀上野を発ち生活基盤を江戸に移すべく下向したのは、寛文12~14年、芭蕉29~32歳の頃で諸説ある。
 1644(寛永21)年 芭蕉は本名松尾金作と言い、伊賀上野の準士分待遇の農民の息子として生まれた
 1662(寛文02)年 芭蕉は、縁あって侍大将 藤堂良精(よしきよ)の嫡子良忠(俳号:蟬吟(せんぎん))の近習に召抱えられ、俳号:宗房)を名乗る
 1666(寛文06)年 良忠死去に拠り、芭蕉は藤堂家を辞する〔~29歳迄は雌伏期間〕
 1675(延宝03)年 05月 談林派の祖 西山宗因(=俳号:一幽(1605-82))が江戸に下向した折、芭蕉は執筆(しゅひつ(書記役))として参加
         俳諧は、古風な貞門から新風談林へ移行する時代であった
         この年、芭蕉(32歳)は俳号を桃青(とうせい)に改める
 1680(延宝08)年 芭蕉(37歳)、江戸深川に草庵〔=深川芭蕉庵=〕を結ぶ
         『桃青門弟 独吟廿歌仙』を刊行〔杉風・卜尺・基角・嵐雪らに拠る歌仙に芭蕉が判詞をつけた〕
 1681(天和元)年 芭蕉の弟子の李下が深川のこの庵の庭に芭蕉1株を植え、大きく繁ったことから「芭蕉庵」と呼ばれる様になる
         芭蕉自身も「芭蕉庵桃青」と名乗る
 1683(天和03)年 芭蕉の母が亡くなった
 1684(貞享元)年 『野ざらし紀行』の行程は以下の通り。

※ 1684(貞享元)年 ※
◆八月中旬(十一~廿日(新暦1684年9月20~29日頃))‥・江戸深川の草庵を門人千里(ちり(=苗村氏))を伴い、東海道を上方を目指して出立
◆八月二十日過ぎ(新暦09月30日過ぎ)‥・小夜中山を越える
◆八月晦日(新暦10月08日(猶、八月は小の月につき晦日は29日)‥・伊勢外宮を参詣
 九月八日(新暦10月16日)‥・伊賀上野着、兄半左衛門宅に滞在
 ‥・千里の故郷、大和国竹内村千里宅を訪問、吉野山に登る
 九月下旬(新暦10月28日~11月06日)‥・今須、山中を経て大垣へ‥谷木因亭に泊す
 十月初旬~中旬(新暦11月07日~25日頃)‥・伊勢の多度権現、桑名本統寺を経て熱田へ
 十月下旬(新暦11月25日頃~12月06日)‥・名古屋へ赴く、その後再び熱田へ
 十二月廿五に(新暦1685年01月29日)‥・伊賀上野に帰り越年

※ 1685(貞享02)年 ※
 二月(初旬から中旬廿日迄(新暦03月05日~03月24日)) 伊賀より奈良へ、二月堂の行事「修二会」を拝す
 因みに、東大寺二月堂の修ニ会(しゅにえ(=おみずとり))は二月一日~十五日(現在は、新暦03月01~14日に行われる)
 二月下旬(廿一日~晦日(新暦03月25日~04月03日)) 京都鳴滝の三井秋風の山荘に遊ぶ
 三月上旬(朔日~十日(新暦04月04日~13日) 伏見西岸寺に任口上人を訪ねる
 三月中旬(十一日~廿日(新暦04月14日~23日)) 水口の駅で服部土芳に逢い数日滞在、のち名古屋へ向かい熱田の桐葉亭へ
 四月四日(新暦05月06日) 鳴海の下郷知足を訪ねる
 四月五日(新暦05月07日) 熱田へ戻る
 四月九日(新暦05月11日) 再び鳴海へ赴く
 四月十日(新暦05月12日) 鳴海を発ち、江戸へ向かう
 四月下旬(廿一日~晦日(新暦05月23日~06月01日)) 木曾・甲斐を経て江戸へ帰着

 それでは、【野ざらし紀行】〔第1回〕(‥江戸出立~伊勢外宮参詣‥)をお伝えする。
 芭蕉が江戸深川の芭蕉庵を出立した貞享元年八月中旬(十一~廿日(新暦1684年9月20~29日頃))から伊勢外宮を参詣した貞享元年八月晦日(新暦10月08日)迄の模様である。

《原文》
 千里(注1)に旅立て、路粮(みちかて)をつゝまず(注2)、「三更月下無何に入(注3)」と伝けむ、
 むかしの人(注4)の杖にすがりて、貞享甲子(注5)秋八月、江上の破屋(注6)をいづる程、風の声、そゞろ寒げ也。

  野ざらしを心に風のしむ身哉

  秋十とせ却(かへつ)て江戸を指(さす)古(=故)郷

《現代語訳》
 千里の旅に旅立つに当たり、道中の食糧も用意せず、「真夜中の月の下、何の所作もない自然な境地となった」という、昔の人の杖に縋(すが)り、貞享元年秋八月、深川のあばら家(=芭蕉庵)を出る時、風の音が、心惹かれる様に寒々と感じられた。

【意】旅の途中で道端に髑髏を晒すことになるかもしれぬ
   それ程の覚悟で旅立つ‥風が冷たく身にしみることだ
【季語】しむ身=「身にしむ」:秋

【意】江戸に下向して既に十回目の秋を迎える
   嘗ては、故郷の伊賀上野を発ち新天地江戸に移ったが、異郷だった筈のこの江戸が、却って懐かしく、第二の故郷と思われる
【季語】秋

   この句は、中唐の詩人賈島(かとう(779-843))『度桑乾』を原典とする

  度桑乾         桑乾(そうかん)を度(わた)る
 客舎并州已十霜 并(へい)州に客(かく)舎すること已に十霜
 歸心日夜憶咸陽 帰心(きしん) 日夜 咸陽を憶(おも)う
 無端更度桑乾水 端(はし)無くも更に度る桑乾の水
 卻望并州是故郷 却(かえ)って并州を望めば是れ故郷

【意】并州に旅住まいをするようになってから、既に十年が経つ
 思えばその間、故郷に帰りたいという心は抑えがたく、昼夜、懐かしい咸陽のことを憶(おも)い続けて来た
 今度、思いがけなく、こうして更に桑乾河を渡り、更に遠く北方に行くことになった
 今此処から遥かに并州の方を振り返ってみれば、是迄他郷としか思えなかった并州が、恰も故郷の様に親しく感じられることだ

《語句》
(注1)千里:「百里ニ適(ユ)ク者ハ、糧ヲ舂(うすづ)ク。千里ニ適(ユ)ク者ハ、三月糧ヲ聚(アツ)ム」(荘子『逍遥遊』) 
(注2)路粮:道中の食料
(注3)三更月下無何に入:「三更」:夜を五つの時間帯に分けた「五更」の三番目(午後11時~午前1時)/「無何」:自然の儘で何の所作もしないこと
  「路(ミチ)粮(カテ)ヲ齋(ツツマ)ズ、笑ヒテ復(マタ)歌フ。三更(サンカウ)月下無何(ムカ)二入(イル)」(『江湖風月集』)
   (中国宋の禅僧 偃渓広聞の『語録に褙(←衣偏に背(はい))す』)に拠る
(注4)むかしの人:偃渓広聞
(注5)貞享甲子:1684(貞享元)年
(注6)江上(かうしやう)の破屋(はをく):深川の隅田川沿いの芭蕉庵/1682(天和02)年の大火の後、再建された

《原文》
 関(注1)こゆる日は雨降りて、山皆雲にかくれたり。

  霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き

 何某ちり(注2)と伝けるは、此たびみちのたすけとなりて、万(よろづ)いたはり、心をつくし侍る。
 常に莫逆(ばくげき)(注3)の交(まじはり)ふかく、朋友信有(ある)哉(かな)(注4)、此人(このひと)。

  深川や芭蕉を富士に預行(あづけゆく) ちり

《現代語訳》

 箱根の関を越える日は雨が降り、山は皆雲に隠れた。

【意】霧雨が降って富士は見えないが、この富士が見えない景色も趣きが深く感じられる
【季語】霧しぐれ:秋

 某千里君が、今回旅を同行して助っ人になってくれて、色々と労わってくれ、心を尽くしてくれる。
 常に気心知れた親密な間柄として付き合ってくれる。
 友人に対して誠実であるとは、此の人のことを言うのだ。

【意】深川の庵の前に植えてある芭蕉樹を置いていくのは心残りだ
 でも、庵の前に見える絶景の富士山の景色の中にこの芭蕉樹を預け置いて行けば大丈夫だ
【季語】芭蕉:秋

《語句》
(注1)関:箱根の関/歌枕
(注2)ちり:芭蕉の門人 苗村千里(1648(r45)-1716)/大和国葛下郡竹内村出身、浅草在住/通称:粕屋甚四郎or油屋嘉右衛門
(注3)莫逆:互いに気心知れた親密な間柄
(注4)朋友信有哉:友人に対して誠実であること。
   原典:與朋友交而不信乎/朋友と交りて信ならざるか‥〔友人との付き合いで裏切らなかっただろうか‥〕(『論語』「学而第一=4=」)

《原文》
 冨士川(注1)のほとりを行(ゆく)に、三つ計(ばかり)なる捨子の哀(あはれ)氣に泣(なく)有(あり)。
 この川の早瀬にかけて(注2)、うき世の波をしのぐにたえ(=へ)ず(注3)、露計(ばかり)の命(注4)を待(まつ)まと捨(すて)置(おき)けむ。
 小萩がもとの秋の風(注5)、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂(たもと)より喰物(くひもの)なげてとを(=ほ)るに、

  猿を聞(きく)人(ひと)捨子に秋の風いかに

 いかにぞや、汝、ちゝに憎まれたる歟(か)、母にうとまれたるか。
 ちゝは汝を悪(にくむ)にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。
 唯(ただ)これ天にして、汝が性(さが)のつたなき(を)なけ。

《現代語訳》
 富士川の畔(ほとり)を行く時、三歳位の捨て子が哀(あわ)れげに泣いていた。
 きっと捨て子の親は育てていくことが出来ず、露程の儚い我が子の命が失われる迄の間、捨て置いたのだろう。
 小萩が秋風に揺れる様に、今宵散るか、明日しおれるかと(‥思いつつも‥)袂から食物を投げて与えてやり乍ら‥

【意】子を亡くした母猿の声に涙し、詩に詠んだ嘗ての詩人達が、秋の風がこの捨子に吹き付ける様子を見たら、どの様に詠むだろうか
【季語】秋の風
【解説】芭蕉は、盛唐の詩人杜甫がよく名詩に取り上げる「哀猿の声」と、眼前にいる「秋風に吹かれる捨子」と、何れが哀切かと詠み手に問うている。
 杜甫が「哀猿の声」として具体的に取り上げた七言律詩の名詩をニ首『秋興其ニ』『登高』を続けて紹介する。

  秋興 八首 其二  杜甫(712-70)

 夔府孤城落日斜 夔府(きふ)の孤城 落日斜めなり
 毎依北斗望京華 毎(つね)に北斗に依りて京華を望む
 聽猿實下三聲涙 猿を聴いて実に下す三声の涙
 奉使虚隨八月查 使を奉じて虚しく随ふ八月の査(いかだ)
 畫省香爐違伏枕 画省(=尚書章)の香炉違ひて枕に伏し
 山樓粉堞隱悲笳 山楼の粉堞(ふん「ちょう(=土偏に世の下に木)」)悲笳(ひか)に隠る
 請看石上藤蘿月 請ふ看よ石上(せきじょう)藤蘿(とうら)の月
 已映洲前蘆荻花 已(すで)に映ず洲前(しゅうぜん)蘆荻(ろてき)の花

【意】夔州府(きしゅうふ)の孤城に日が西に傾くたび
   自分はいつも北斗七星を頼りに都の方角を見ていた
   猿の声は実に切なく三回その声を聴くだけで涙が流れ落ちる
   使命を奉じて筏(いかだ)に乗ったが虚しく漂った八箇月だった
   役所勤めで宿直する筈が今は病で枕に伏し
   山間の楼閣の粉堞(丈の低い垣根)で悲し気な芦笛の音を聞くばかりだ
   是非見て欲しいものだ、月影が城壁の藤蘿(=フジカズラ)や
   川の州の芦の穂花に照り渡っている様を‥

   ※ ※ ※ ※ ※

  登高   杜甫 (767年作)

 風急天高猿嘯哀 風急に 天高くして 猿嘯(えんしょう)哀し
 渚淸沙白鳥飛廻 渚(なぎさ)清く 沙(すな)白くして 鳥 飛び廻る
 無邊落木蕭蕭下 無邊の落木 蕭々(しょうしょう)として下り
 不盡長江滾滾來 不尽の長江 滾々(こんこん)として来(きた)る
 萬里悲秋常作客 万里 悲秋 常に客(かく)と作(な)り
 百年多病獨登臺 百年 多病 独り 台に登る
 艱難苦恨繁霜鬢 艱難 苦(はなは)だ恨む 繁霜の鬢(びん)
 潦倒新停濁酒杯 潦倒(ろうとう) 新たに停(とど)む 濁酒の杯

【意】風は激しく吹き寄せ、天は高く澄み、野猿がしきりに哀しげに鳴く
 川辺の水は清く、砂は白く、辺りには鳥が飛び廻る
 果てなく続く落葉の木々は、嘯々として物寂しげに枯葉を散らし
 尽きることなき長江の水は、滾々と湧き返る様に流れて来る
 万里遠く故郷を離れ、この悲しみを誘う秋景色の中で、私は常に旅人の生活を続けて来た
 来る年も来る年も、絶えず病気がちであった我が身は、今只一人高台に登っている
 耐え難い様々な苦しみ、めっきり白くなった鬢の毛が嘆かわしい
 老い衰えたこの頃は、心を楽しませる濁酒さえ、もはやその杯を断つことになってしまった‥

 杜甫の七言律詩の2つの傑作の『秋興 其ニ』の第三句に於ける「聴『猿』實下三聲涙/『猿』を聴いて実に下す三声の涙」、そして『登高』の第一句に於ける「風急天高『猿嘯哀』/風急に天高くして『猿嘯哀し』」と謳われている

 いったいお前はどうしたのか。お前は父に憎まれたのか、母に疎まれたのか。
 いや、父はお前を憎んだのでは無い、母はお前を疎むのではない。
 ただ天がお前に下した運命の非情を泣け。

《語句》
(注1)富士川:山梨県から静岡県を流れ駿河湾に入る/最上川・球磨川と並ぶ日本三急流の一つ/歌枕
(注2)この川の早瀬にかけて:この冨士側の急流に任せて
   鎌倉中期の紀行文(作者不詳)〔天龍川〕に「この川の早き流れも世の中の人の心のたぐひとは見ゆ」とある
(注3)うき世の波をしのぐにたえず:この浮世の荒波を、親が乗り切ることが出来ず/「波・しのぐ」は「川・早瀬」の縁語
(注4)露計(つゆばかり)の命:露のように儚い子供の命
(注5)小萩がもとの秋の風:小萩の様に可愛い秋の風
   「宮城野の霧吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそやれ」(『源氏物語』「桐壺」)を踏まえる
   →・秋風に揺れる小萩に赤子の翻弄される姿(=儚い命)を重ねている

《原文》
 大井川越ゆる日は、終日、雨降ければ、

  秋の日の雨江戸に指おらん大井川 ちり

 馬上吟

  道のべの木槿は馬にくはれけり

《現代語訳》
 大井川を越える日は、終日雨が降っていたので、

【意】秋の雨が降り続いているこの頃、
 江戸で我々を見送った人達は指折り数えて、「芭蕉一行は大井川辺りかな」‥
 などと話し合っているだろうか / 千里
【季語】秋の日

 馬の上で吟じた句。

【意】道端に木槿が咲いている、‥すると見る間に馬がその木槿を食べてしまった
【季語】木槿(ムクゲ):秋

《原文》
 二十日余(あまり)の月(注1)、かすかに見えて、山の根際(ねぎは)(注2)いとくらきに、馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴(けいめい)ならず。
 杜牧が早行の残夢(注3)、小夜(さよ=さや)(注4)の中山に至りて忽(たちまち)驚く。

  馬に寝て残夢月遠し茶の煙(けぶり)

《現代語訳》
 二十日過ぎの有明の月が微(かす)かに見え、山の麓の辺(あた)りはかなり暗く、馬上で鞭を垂れ、数里進んで来たが、未だ一番鶏は鳴かない。
 杜牧が「早行」に詠んだ如く、まだ夢心地の儘、小夜(さよ)の中山に至り、ハッと目が覚めた。

【意】夢心地の儘ウトウトし乍ら馬上に揺られて来たが、ハッと気づき辺りを見渡せば、有明の月が遥か遠くに浮かび、家々からは朝茶を煮る煙が立ち昇っていた
【季語】月:秋

  早行   杜牧(803-52(53?))

 垂鞭信馬行 鞭を垂れ 馬に信(まか)せて行く
 数里未鶏鳴 数里 未だ鶏(けい)鳴らず
 林下帯残夢 林下(りんか) 残夢(ざんむ)を帯び
 葉飛時忽驚 葉飛びて 時に忽(たちま)ち驚く
 霜凝孤鶴迴 霜凝りて 孤鶴(こかく)迥(はる)かに
 月暁遠山横 月 暁にして 遠山(えんざん)横(よこた)はる
 僮僕休辞険 僮僕(どうぼく) 険(けん)を辞するを休(や)めよ
 何時世時平 何れの時か 世路(せいじ) 平(たいら)かならむ

【意】鞭打たず、馬の歩みに任せた儘進んで行く
 数里程の間、未だに一番鶏の声も聞こえて来ない
 林の中を馬の背に揺られて夢見心地に進んで行くと
 落葉がハラハラと舞い散る音に俄かに驚く
 霜が降りた野の彼方に、一羽の鶴の姿が見える
 有明の月輝の下、遙か遠方に山並みが横たわっている
 我が僮僕(しもべ)たちよ これから進む険しい路から逃げようとしてはいけない
 いつの日か世の中はきっと泰平の世になるだろうから‥

 小生、杜牧の「茶煙」いうと『題禅院』を思い出す。

  題禅院    杜牧

 觥船一棹百分空 觥船(こう(=魚偏に光)せん)一棹(いつたう) 百分空(むな)し
 十載青春不負公 十載の青春 公に負(そむ)かず
 今日鬢糸禅榻畔 今日鬢糸 禅榻(ぜんとう)の畔(ほとり)
 茶煙軽颺落花風 茶煙軽(かろ)く颺(あが)る 落花の風

【意】大杯になみなみの酒をぐいっと飲みほしたこともあった
 十年間の我が青春は、諸兄(=高官の人々)の期待に背かない充実した日々だった
 しかし今ではすっかり髪も白くって、禅寺の腰かけに座っている
 (眼前の)茶の煙が、舞い散る花弁(びら)を吹き流す風に揺らいでいる
 (注)觥船(こうせん):船の形をした角製の大杯/禅榻:座禅用の腰掛

《語句》
(注1)二十日余の月:陰暦二十日過ぎの月。有明の月
(注2)山の根際:山麓の辺り
(注3)残夢:まだ夢の名残で夢が続いているような心地
(注4)小夜(さよ(=佐夜=さや))の中山(なかやま):歌枕/静岡県掛川市にある峠/金谷と新坂の間にある、左右の谷が深く東海道の難所
   年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 小夜の中山 〔『新古今集』西行〕の歌で知られる
  【意】こんなに年老いて再び越えるだろうと思ってもみただろうか
     それなのに佐夜の中山を超えることが出来るのは、矢張り命あってのことだなぁ
   1186(文治元)年、69歳で陸奥へ下った時の歌

《原文》
 松葉屋風瀑(注1)が伊勢に有(あり)けるを尋(たづね)音信(おとづれ)て、十日計(ばかり)足をとゞむ。
 腰間(えうかん)に寸鉄(すんてつ)をおびず(注2)、襟(えり)に一嚢(いちのう)(注3)をかけて、手に十八の珠(たま)(注4)を携(たづさ)ふ。
 僧に似て塵(ちり)有(あり)、俗にに(=似)て髪なし。
 我僧にあらずといへども、髪なきものは浮屠(ふと)(注5)の属にたぐへて、神前に入(いる)事をゆるさず、暮(くれ)て外宮(注6)に詣(まうで)侍りけるに、一の華表(とりゐ)(注7)の陰ほのくらく、御燈(みあかし)処ゝ(ところどころ)に見えて、「また上もなき峯の松風(注8)」身にしむ計(ばかり)、ふかき心を起(おこ)して、

  みそか月なし千とせの杉を抱くあらし

《現代語訳》
 松葉屋風瀑が伊勢にあるのを訪問して、十日ほど滞在した。
 腰に刀も差さず、襟に頭陀袋を下げ、手には数珠を携える。
 僧に似ている割には俗世の塵に塗(まみ)れている一方、俗人であるかと思えば剃髪している。
 私は僧ではないのだが髪の無い者は僧の類と看做され、伊勢神宮の神前に入ることを許されない。
 其処で日が暮れてから外宮に参詣した処、一の鳥居の影がほの暗く、燈台が所々に見え「この上なく尊い峯の松風」と西行が詠んだ情緒が身に沁みる程の深い感動を覚えて‥

【意】月の無い晦日(月末)の夜、樹齢千年と垂(なんな)んとする大杉を抱く様に嵐が吹いている
【季語】月:秋
【解説】この句は『西行物語/16.月によせて』(以下、桑原博史著『西行物語』全訳註 から引用))とあるを踏まえている
《原文》神路山(かみぢやま)の嵐おろせば、嶺の紅葉葉(もみぢば)、御裳濯河(みもすそがわ)(注A)の浪に敷き、錦(にしき)を晒すかと疑われ、御垣(みがき)の松を見やれば、千歳(ちとせ)の緑、梢(こずえ)に現はる。
「同じ月なれば、如何に木の葉隠れも」など思ふ。
 殊(こと)に月の光も澄みのぼりければ、
  神路山 月さやかなる 誓ひにて 天の下をば 照らすなりけり
  榊葉(さかきば)に 心をかけむ 木綿四手(ゆふしで)(注B)を 思へば神も 佛なりけり
《現代文》神路山の嵐が吹き降ろして来ると、嶺々の紅葉の葉が御裳濯川の波に散り敷き、錦を晒しているかの様に鮮やか見え、神域の垣となっている松を見やると、千年にも変わらぬ松の緑が木々の梢にくっきりと見える。
 「あの松と同じ山から昇る月だから、木の葉隠れしないで現れてくれ」等と思っている。
 すると、見事に月の光が澄んで昇って北ので‥
  後掲(注8)参照
  榊の葉に心をかけて祈願しよう
  その榊の葉に木綿四手を垂らして祀る伊勢の神様を、よくよく思えば、その神様も仏様の権化なのであった
(注A)御裳濯河:伊勢神宮の内宮の神域内を流れる五十鈴川の別称
   宮であった倭姫命(やまとひめのみこと)(注※)がこの清流で御裳を洗い清めたという故事に拠る命名
   (注※)倭姫命:第11代 垂仁天皇の皇女と云わる/天照大神の詞を大和国笠縫(かさぬい)村から伊勢国五十鈴川に遷す
(注B)木綿四手:木綿(コウゾ)の皮を細かく裂いて榊等につけて神前に飾るもの
(注1)松葉屋風瀑:伊勢度会の人/生没年不詳/芭蕉・素堂等と俳諧上の交流があった
(注2)腰間に寸鉄をおびず:腰に刀さえ差さず
(注3)嚢:頭陀(ずだ)袋
(注4)十八の珠:数珠(じゅず)/珠数は本来は「108の煩悩」に由来し、簡略化され半分の54、3分の1の36、その又半分の18個等様々
(注5)浮屠:ふと/仏陀/僧のこと
(注6)外宮(げくう):衣食住の守神 豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀る豊受大神宮(とようけだいじんぐう)
(注7)華表:鳥居
(注8)「また上もなき峯の松風」:この上もなく尊い峯の松風
   深く入りて神路(かみぢ)の奥(をく)を尋(たづ)ぬればまたうゑ(=へ)もなき峰の松風〔『千載集』圓位法師〕
  【意】深く入って神路山の奥を訪ねてみると、この上のない峰、霊鷲山に吹く松風が此処にも吹いているよ
  猶、「圓位」は、西行と名乗る前の法号

《原文》
 西行谷(注1)の麓に流あり。
 をんなどもの芋あらふを見るに、

  芋洗ふ女西行ならば哥(=歌)よまむ

《現代語訳》
 西行谷の麓に流れがある。女たちが芋を洗うのを見て、

  芋洗ふ女西行ならば哥よまむ
【意】芋を洗う女たちよ。西行法師であれば、江口の遊女の話のように彼女たちに歌を詠みかけるのだろうなあ
【季語】芋:秋
【解説】西行法師と江口の遊女の故事による
    その故事は、以下の歌が新古今集に収められている
    西行法師が難波の江口で宿をもとめて
   「世の中を いとふまでこそ 難(かた)からめ 仮の宿をも 惜しむ君かな」〔『新古今集978』西行〕
   【意】この世を厭い捨てる迄は難しいにせよ、かりそめの一夜の宿を貸すこと位は出来そうなのに、貴女はそれすら惜しまれるのですね
    返(かへ)し
   「世をいとふ 人とし聞けば 仮(かり)の宿に 心とむなと 思ふばかりぞ」〔『同979』遊女(いうぢよ)妙(たへ)〕
   【意】いえ、お坊様はこの世を厭うて出家された方と伺っておりますので、私のかりそめの宿などに心をお留めなさいますな、と思っただけでございます

《語句》
(注1)西行谷:伊勢内宮の南方にある神路山の南にある谷/西行隠棲の地と伝えられる

《原文》
 其日のかへさ(注1)、ある茶店に立寄けるに、てふと伝けるをんな、「あが名に発句せよ」と伝て、白ききぬ出しけるに、書付侍る。

  蘭の香や蝶の翅(つばさ)にたき物す

 閑人(かんじん)の茅舎(ばうしや)(注2)をとひて

  蔦(つた)植(うゑ)て竹四五本のあらし哉

《現代語訳》
 その日の帰り際、ある茶店に立ち寄った処、蝶(ちょう)という名の女が、「私の名前で発句を作って下さい」と言って白い布を差し出したので、その布に書き付けた。

【意】蘭にとまっている蝶の羽はよい香りがして、まるで蘭の香を焚き染めたようだ
【季語】蘭:秋
【解説】この句については、芭蕉の弟子服部土芳『三冊子』に発句した経緯が詳しく述べられている
 ※ この句は、ある茶店の側に道休らひして、佇みありしを、老翁を見知り侍るにや、内に請じて、家女、料紙持ち出でて句を願ふ。
 ‥その頃難波の(西山)宗因(1605-82)、この所に渡り給ふを見かけて句を願ひ請ひたるとなり。‥頻りに望み侍れば、否(こば)み難くて、かの難波の老人の句に、『葛の葉の おつるのうらみ 夜の霜』とか言ふ句を前書きにして、この句遣(うか)わし侍るとの物語なり

 閑居する人の庵を訪ねて、

【意】蔦を植えて、四五本の竹を植えて、それらを風がざわざわと吹きさわがしている、味わい深い庵の景色だよ
【季語】蔦:秋

《語句》
(注1)かへさ:帰り際
(注2)閑人の茅舎:閑居する人の庵/『笈日記』に「蘆牧亭」と前書があるので「閑人」とは異性の蘆牧(生没年、姓名不詳)を指す

【小生comment】
 『野ざらし紀行』第1回は、出立した新暦でいう09月下旬から、伊勢外宮を参詣した一昨日(10月08日)迄を一挙にご紹介した為、volumeが予想以上に嵩んで仕舞った。
 それにつけても、芭蕉は、杜甫&杜牧の漢詩や西行の短歌等、中国・日本の古典に対する見識の深さに感心させられる。
 次回〔第2回〕は、「九月八日(新暦10月16日)‥・伊賀上野着、兄半左衛門宅に滞在‥」だけなので今回に比べずっと少なくなる。
 更に余談‥。
 一昨日の10月08日(土)、松尾芭蕉が奥の細道のむすびの地「大垣」に行って芭蕉の足跡を訪ねてみた。
 芭蕉は、奥の細道の最後を、門人で朋友である谷木因の居る「大垣」に滞在したのが1689(元禄02)年八月廿一日~九月五日(=新暦10月04~17日)で、当に327年前の今、二週間も大垣で過ごしていたのである。
 居心地が余程良かったことと思われる。
 大垣は、何度もお話している様に、豊橋市多米町の領主だった戸田一西(かずあき)の嫡子氏鉄(うじかね)が藩祖(10万石)である。
 だから小生にとってはとても身近な感じがする街である。
 次回『野ざらし紀行』〔第2回〕をお楽しみに!

■続いての話題は、「09月22日:豊橋美術博物館『放浪の天才画家 山下清(1922-71)』展を見て」についてである。
 『放浪の天才画家』と言えば、山下清を連想する。
 彼の作品は、貼絵が印象派の点描と共鳴してとても見ていて気分がいい。
 何故か見る度に日本人としての郷愁を感じせる魅力ある作品が多く、小生は好きな画家の一人である。
 今日は、解説抜きで、彼の作品の良さに浸って下さい。

[03]本展leaflet/山下清『長岡の花火』1950年〔貼絵〕
 03leaflet1950

[04]山下清『金せん花』1949年〔貼絵〕
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[05]同『お蝶夫人屋敷(Glover House)』1956年〔ペン画〕
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[06]同『スイス風景』1963年〔貼絵〕
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[07]同『ロンドンのタワーブリッジ』1965年〔貼絵〕
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[08]同『パリのノートルダム寺院』1961年〔水彩画〕
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[09]同『パリのムーランルージュ』1961年〔水彩画〕
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■続いての話題は、09月24日に私用で名古屋へ出かけた折、岐阜県美術館『フランス風景/樹をめぐる物語』展、古川美術館『絵に生きた画家夫婦の軌跡/加藤金一郎と丹羽和子‥絵は人生‥』展、名都美術館『自然讃歌‥時のうつろい‥』展、鞍ヶ池アートサロン『~院展の画家たち~秋澄む日本画~』展を見て」

【岐阜県立美術館『フランス風景/樹をめぐる物語』展】
 この日最初に訪れたのが、岐阜県美術館。
 本展は、『樹木』をKey Wordに、コローからモネやピサロ、ルドン、マティスまで、France風景画の変遷を辿る。
 展示作品の中から幾つかをご紹介する。

[10]岐阜県美術館『樹をめぐる物語』展入口
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[11]本展leaflet
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[12]ジュール・バスティアン=ルパージュ『ダンヴィエの村』制作年不詳
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[13]シャルル=フランソワ・ドービニー『ヴァルモンドワの下草』1872年
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[14]カミーユ・ピサロ『マトゥランの丘にて、ポントワーズ』1874年
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[15]カミーユ・ピサロ『牛の番をする農婦、モンフコー』1875年〔岐阜県美術館蔵〕
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[16]マクシミリアン・リュース『日没の風景』1888年
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[17]アシール・ロージェ『花咲く樹、春の庭』1897年頃
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[18]ロル・アントワーヌ・パンション『道、雪の効果』1905年
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[19]ロベール・アントワーヌ・パンション『曳船道』1909年頃
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[20]フェリックス・ヴァロットン『オンフルールの眺め、朝』1912年
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[21]エミール・ノルデ(ハンス・エミール・ハンセン)『ブーヘンヴァルトの春Ⅱ』1915年
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[22]クリスチャン・ロールフス『春の樹』1917年
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【古川美術館『絵に生きた画家夫婦の軌跡/加藤金一郎と丹羽和子‥絵は人生‥』展】
 続いては、名古屋市千種区池下にある古川美術館を訪れた。
 現在開催中の企画展は、地元名古屋を中心に活躍した洋画家 加藤金一郎(1921-1997)と丹羽和子(1924-2014)の企画展。
 加藤金一郎氏は、洋画家 猪熊弦一郎に師事、新制作協会を中心に活動。
 1970年代からは日本の各地の祭りや、め欧州・中南米・日本の各地の風景を描いた。
 夫人の丹羽和子氏は、女子美術大学卒業後に加藤と結婚、新制作協会を舞台に活動。
 生涯《女》《人間の内面》を鋭い視線で捉えた作品は、Surで大胆な個性的な作品である。
 〔以上、本展leaflet から引用〕

[23]本展leaflet/写真=上段:加藤金一郎=(左)『夏の山』1979年・『快晴御嶽』1983年(右)
              =丹羽和子=『'99 刻(とき)―黒い太陽―』
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[24]加藤金一郎『北信州(小谷村)』制作年不詳
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[25]加藤金一郎&丹羽和子夫妻
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【名都美術館『自然讃歌‥時のうつろい‥』展】
 本店は、名都美術館所蔵の日本画の中から、四季のある日本の、その移り変わりにspotを当てた企画展。
 著名な日本画家が家がいたその展示作品の名画の幾つかをご紹介する。

[26]入江波光『白梅(梅花小禽図)』制作年不詳
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[27]伊藤小坡『春のよそほい』1930年
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[28]伊東深水『薄紅梅』1946年頃
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[29]鏑木清方『初夏の化粧』1919年頃
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[30]山口華楊『鹿苑』1969年
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[31]東山魁夷『ハルダンゲル高原』制作年不詳
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[32]牧進『夕顔』制作年不詳
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[33]関主税『湖』制作年不詳
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[34]田渕俊夫『越中冬景』1980年
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[35]小山硬『早春』1990年
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【鞍ヶ池アートサロン『~院展の画家たち~秋澄む日本画~』展】
 この日4つめの美術館は、「院展の画家」の傑作展である。
 日本画壇の巨匠達に拠る最高傑作選全20展が展示されている。
 今日は、その中からアンケートで頂戴したpostcard2枚他2点をご紹介する。
 
[36]鞍ヶ池artsalon があるトヨタ鞍ヶ池記念館 入口
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[37]片岡球子『めでたき富士』
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[38]奥村土牛『冨士 精進湖』
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[39]岩崎英遠『夕雲』
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[40]田渕俊夫『大仏殿遠望』
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【小生comment】
 絵画を沢山見ていると、本当に色々なことが勉強になる。
 「美」に対する感性も徐々にではあるが、間違いなく磨かれて来た様に最近感じられる。
 一流の画家について、古今東西共通して次のことが言えると思う。
 即ち、「彼等一流の画家達は、絵画の基本三要素である「dessin」「color」「composition」を技術的に確立しており、その基盤の上で、その画家が新たに自らの感性に従って original な境地を創り上げている」ということである。

【後記】小生、最近、詳細は申し上げられないが、本業の仕事が厳しい局面になり大変忙しく、慌ただしい毎日を過ごしている。
 だから、余暇を活用したこの blog 作成は時間繰りが結構大変である。
 しかしだからこそ、この blog 作成が重要になっているのも事実である。
 何となれば、この blog 作成が小生にとって stress 発散に一番の良薬〔=気分転換=〕になっているからである。
 だから、小生が元気な限りこの blog は続けていくつもりである。
 皆さん、引き続き応援を宜しくネ!
 ではまた‥。(了)

2016年10月 1日 (土)

【時習26回3-7の会 0620】~「09月15~19日:『中&北九州旅行〔後編=二日目~五日目:【鬼山地獄→岡城跡→熊本城(県立美術館)→柳川藩主立花邸 御花〔泊〕→柳川川下り→久留米城跡→佐賀県立美術館(OKADA ROOM)→佐賀城(本丸歴史館)→唐津城→オランダ坂→眼鏡橋→大浦天主堂→グラヴァ―園→長崎〔泊〕→平和公園→長崎原爆資料館→福岡城(福岡市美術館)→福岡市博物館→大宰府天満宮→小倉城→松本清張記念館→小倉〔泊〕→帰途へ】〕』実施報告」「09月30日:時習26回生 ミニ同期会 開催報告」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 今日も《会報》【0620】号をお送りします。

■さて今日は、前《会報》でお伝えした『中&北九州旅行〔前編=初日〕』に続く〔後篇=二日目~五日目(最終日)〕についてである。

《二日目(09月16日(金))》
 宿泊した旅館「東屋」の食事とserviceは満足いくものであった。
 担当してくれた樽水さんは、今年の新入社員で一所懸命宿泊者対応に努めてくれた。
 食事も大変美味かった。
 別府に来た記念に特別注文して生まれて初めて食した「関鯵(あじ)」は身が引き締まって最高だった。
 朝食時に予約席に就くと、昨晩の夕食時に樽水さんが撮影してくれた記念写真が置いてあった。
 心温まる演出である。

[00]別府鉄輪温泉 東屋 09月15日晩餐(左上:関鯵)と16日朝食(右下)
 00_091516_2

 08時10分 湯けむりの里 東屋発→〔一般道 南西へ750m〕→
【鬼山地獄】08時15分着
 此処で1923(大正12)年から温泉を利用したワニ(鰐)の飼育を開始。
 温泉の暖かさを利用して、熱帯に住むcrocodileとalligator二種類のワニが約70匹いる。
 食事時以外は殆ど動かない様に見えるが沢山いるワニの迫力に圧倒された。

[01]鬼山地獄入口
 01

[02]群れるワニ(crocodiles)
 02crocodiles

 08時30分 鬼山地獄発→〔一般道〕→別府IC→〔大分自動車道〕→大分米良IC→〔国道10号線〕→〔一般道〕→〔南へ直線40km、時計回りで74km/1時間30分〕

 鬼山地獄から瀧廉太郎の 荒城の月 の舞台となった岡城跡に向かった。

【岡城跡】10時00分 岡城跡入口着
《岡城の歴史》
 伝 1185(文治元)年 緒方三郎惟栄(これよし)が源義経を迎える為に築城
 伝 1369(應安02)年 志賀貞朝が後醍醐天皇の命を受け、岡城を修理して北朝と戦う
 1586(天正14)年 志賀親次(ちかよし(1566-1660))が豊薩戦争(1586-87)で岡城で薩摩郡の猛攻を阻止
 1593(文禄02)年 文録の役で主筋 大友義統(よしむね(1558-1610))の改易の伴い、志賀親次も領地を失う
 1594(文禄03)年 播磨国三木城から中川秀成(ひでしげ(1570-1612))が7万4千石で入封
 1871(明治04)年 廃藩置県迄、中川秀成から中川久成(ひさなり(1850-97)=明治17年 伯爵)迄13代が岡藩主を務めた
 1874(明治07)年 城の建物は、大分県に拠り全て取り壊された
 1901(明治34)年 地元竹田出身の滝廉太郎は、少年時代、荒廃した岡城に登り遊んだ印象を基に中学校唱歌『荒城の月』を発表

[03]岡城跡入口
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[04]岡城跡本丸にて
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 11時00分 岡城跡発→〔国道57号線〕→〔赤水から県道23号線〕→〔一般道〕→〔西へ85km/2時間40分〕
 国道57号線が、熊本県の赤水から熊本市にかけて熊本地震で寸断されていた為、県道23号線の迂回路を通り熊本城へ

【熊本城】13時45分着
 1587(天正15)年 秀吉の九州征伐(1586-87)に拠り、九州平定の寸前で島津軍は肥後を放棄
         同年 佐々成政が肥後一国主となるも、肥後国人一揆が起きた為、秀吉は、加藤清正と小西行長に鎮圧させた
 1588(天正16)年 佐々成政は責任を取らされて切腹/加藤清正(肥後北部25万石:熊本城主)、小西行長(中南部24万石:宇土城主)に
 1600(慶長05)年 西軍の小西行長は関ヶ原の戦で敗れ斬首/行長の旧領と豊後国・鶴崎等2万石を加増、52万石を領有
 1632(寛永09)年 加藤清正の嫡子忠広(1601-53)は、駿河大納言事件に連座(←他に諸説あり)し改易
         出羽国庄内((一代限りの)出羽国丸岡藩1万石藩主)に配流、忠広死去により断絶
         同年 豊前国小倉藩より 細川忠利(1586-41)が54万石で入封、以後廃藩置県(1871年)迄細川家12代が藩主を務めた

 添付写真をご覧頂ければお解りの様に、熊本地震の爪痕は確り残っていた。
 本丸の天主閣の鯱鉾や屋根瓦、本丸を囲む石垣の一部が崩落していたのを眼前にして胸が詰まった。

[05]熊本城をbackに
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[06]宇土櫓(左)と瓦と鯱鉾が崩落した熊本城天守閣(右)
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 熊本城天守閣のある本丸の西隣がニの丸で、現在、熊本城公園となっている。
 其処に熊本県立美術館はある。

【熊本県立美術館】14時00分着〔‥徒歩にて‥〕
 訪れた時は、企画展『雪舟流と狩野派』展が開催されていたが、時間がなかったので観るのは諦めた。

[07]熊本県立美術館前にて
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※ 熊本県立美術館で購入した同美術館所蔵作品5点のpostcard
 以下の5点の幾つかは、通常なら常設展示場で拝観出来る筈だが、訪れた時は常設展示場は閉館されていてみることが出来ず、大変残念だった。

[08]Renoir(1941-1919)『胸に花を飾る少女』1900年
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[09]Vlaminck(1876-1958)『湖畔』1912年頃
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[10]藤田嗣治(1886-1968)『Violinを持つ子供』1923年
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 ※ これは後日談だが、小生、今日実に奇遇なことに遭遇した!
   何となれば、熊本県立美術館で見ることが出来なかったこのフジタの傑作の絵を今日(10月01日)見ることが出来た。
   静岡市美術館『ランス美術館』展で『Violinを持つ子供』を眼前にした時は、流石に感動のあまり暫く絶句して仕舞った。
   これを正に serendipity と言うのだろう。

[11]Kisling(1891-1953)『ル・べック少年の肖像』1926年
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[12]Pascin(1885-1930)『果物籠を持つジュヌヴィエーヴ』1929年
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 14時45分 熊本城発→〔一般道〕→熊本IC →〔九州自動車道〕→ みやま柳川IC →〔一般道〕→〔北へ66km/1時間20分〕

【柳川藩主立花邸 御花】16時15分着
 二日目の宿泊地「柳川藩主立花邸 御花(おはな)=松濤館=」は、その名の通り、柳川藩12万石の藩主立花家の藩主邸がHotelとなっている場所である。
 泊ったHotelは、邸内に在る「松濤館」。
 明治時代に14代当主立花寛治伯爵に拠って整えられた『松濤園』をはじめ、現在、敷地全体が国指定の名勝に指定され、水郷 柳川 の観光spotになっている。
 因みに、「柳川川下り」の終点がこの「柳川藩主立花邸 御花『松濤館』」の北口である。
 松濤館受付で乗船予約を入れ、送迎busに乗り、松濤館から東北東2㎞程の所にある乗船場迄10分程だった。

[13]国指定名勝『松濤園』〔宿泊地〕
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[14]初代藩主『立花宗茂』甲冑(邸内資料館「殿の倉」に展示されている)
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 立花宗茂(1567-1643)は、戦国時代の豪傑。
 1590(天正18)年小田原征伐の際、豊臣秀吉が諸大名の前で「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と讃えたことで知られる
 1600(慶長05)年 関ヶ原の合戦では、西軍として大津城攻めの最中で本戦に参加していない
 1620(元和06)年 田中吉政(1548-1609)が筑後国主として柳川藩32万石を領有するが、嫡子忠政(1585-1620)に嗣子なく田中家は断絶
         宗茂は、20年ぶりに旧領 柳川藩10万9千石に復した
         同年 筑後国は、有馬豊氏(1569-1642)が久留米藩21万石に入封
         以後、立花氏、有馬氏の両藩共に1871(明治04)年の廃藩置県迄存続した

[15]西洋館(明治43年竣工)
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[16]松濤館〔宿泊Hotel〕
 16hotel

 垂幕は、柳川市出身のリオ五輪競泳男子平泳ぎ200m銀medalist 坂井聖人(まさと)顕彰

 16時30分 松濤館から送迎busで「柳川川下り」乗り場迄5分程で着いた。
 終点は、宿泊地『柳川藩主邸 御花』松濤館前の船着き場である。
 船賃@1,600円は、松濤館の宿泊費に加算され、翌朝のcheck out時精算でOK。

【柳川川下り】17時00分~18時00分
 船は、船頭を含め26人乗り。
 平底船を、船頭が竹棒1本で川底を押(=punt)して下流に向かって進む往路のみの行程、所要時間60分の船旅を満喫した。
 一緒に乗船したのは、若者が大半で、聞くと台湾とSingaporeから観光に来た人達だった。
 川辺には、紅白の萩の花や、百日紅のpink色した花が満開でなかなか風情があった。
 川下りを開始して直ぐに、リオ五輪競泳200m butterfly 銀medalistの坂井聖人選手を顕彰した横断幕が堀に掛っていた。
 又、course後半には、sportsで有名な柳川高校の校舎や、柳川藩初代藩主 田中吉政の銅像、北原白秋の石碑があった。
 終着地は、柳川藩主立花邸 御花 の宿泊Hotel『松濤館』の正面であった。
 その下船した場所にある『松濤館』正面の瓦葺の門の両脇には、当地出身力士の大関琴奨菊優勝の顕彰幟が立っていた。

[17]柳川川下りのscene1
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[18]同上2
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[19]同上3
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[20]松濤館前の川下り船着き場の琴奨菊関の幟
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 大関琴奨菊も柳川市出身。彼の結婚披露宴は此処御花で開催したとか‥。

[21]松濤館 南隣「集景亭」での晩餐の懐石料理1
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[22]同上2〔但し、右下:09月17日朝食〕
 2220917

 旅館は、宿泊室内もRestaurantのいずれも古風で上品な佇まいが良かったし、料理は夕食&朝食も最高の美味しさだった。
 柳川藩主の立花邸だけあって、大満足な宿泊を体験出来た。

《三日目(09月17日(土))》
 08時15分 柳川藩主立花邸発→〔一般道〕→ みやま柳川IC →〔九州自動車道〕→ 久留米IC →〔一般道〕→〔北北東へ37km/60分〕

【久留米城址】09時15分着
 1629(元和06)年 丹波国福知山藩8万石の大名 有馬豊氏(とようじ(1569-1642))が21万石で入封し、明治維新に至る

 現在、本丸には篠山神社と有馬記念館(‥訪れた時は09月末迄閉館中‥)がある。

[23]久留米城跡入口
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[24]久留米城本丸の石碑にて
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 09時40分 久留米城跡発→〔一般道〕→〔西南西へ24km/1時間〕

【佐賀県立美術館(OKAD ROOM:岡田三郎助記念室)】10時20分着
 訪れた時は、常設展が OKADA-ROOMのみの開催であった。
 OKADA-ROOMは、佐賀県出身の日本近代洋画の巨匠 岡田三郎助(1869~1939年)を紹介する常設展示室。
 因みに、入館は無料であった。
 岡田三郎助は、藤島武二(1867-1943)と共に明治から昭和初期にかけて日本近代洋画壇のleaderとして活躍。
 佐賀県立美術館は、1983(昭和58)年の開館以来、同県出身の岡田三郎助作品を収集&展示に努め、顕彰して来た。
 訪れた時は、『矢調べ』や『花野』という素晴らしい傑作が展示されていた。
 当館には、岡田の油彩画・岩絵具作品約30点、dessin&資料を含め約170点が所蔵されている。

[25]佐賀県立美術館正面
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[26]岡田三郎助『中野多津子像』1893年
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[27]同『矢調べ』1893年
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[28]同『自画像』1899年〔個人蔵〕
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[29]同『花野』1917年
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[30]同『富士山(三保にて)』1920年
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【佐賀城 歴史館】10時50分〔東へ徒歩250m/05分〕
 1559(永禄02)年 龍造寺隆信(1529-84)は、少弐冬尚を勢福寺城に攻め滅ぼし、鎌倉時代から続く名族少弐氏は滅亡
         隆信の居城 村中城が佐賀城のroots
 1570(元亀元)年 大友宗麟(1530-87)が村中城を攻めるも、家臣 鍋島直茂が夜襲で撃退
 1584(天正12)年 島津氏と沖田畷の戦いで隆信が敗死後、鍋島直茂(1537-1618)が実権掌握、漸次当主の座を奪取
 1600(慶長05)年 直茂の嫡子勝茂(1580-1657)は、当初西軍に組したが関ヶ原の戦の本戦前に離脱
         更に直茂は、西軍側の久留米城の小早川秀包(ひでかね(1567-1601))、柳川城の立花宗茂を降伏・開城させた
         この功により直茂は、佐賀藩35万7千石は安堵された
 1611(慶長16)年 村中城を拡張、佐賀城が完成(五層天主閣)
         直茂は主君筋の龍造寺氏を憚り、佐賀藩初代藩主は嫡子勝茂とした(=直茂は藩祖=)
 1726(享保11)年 天主閣が火災で焼失、以後天守閣は再建されなかった
         佐賀藩は長崎に近い大藩として、幕府より福岡藩と1年交代での警備を担当
         この為、西洋の学問・知識を入手する機会に恵まれ、幕末には大砲製造等に西洋技術を積極導入した
         これ等の先進兵器が、戊辰戦争時に於ける討幕の大きな推進力となった
 1874(明治07)年 不平士族が江藤新平を中心に佐賀の乱が起き、佐賀城の多くの建物が被害を被った

 明治時代に活躍した人物を列挙すると、江藤新平(1834-74)の他、副島種臣(1828-1905)、大隈重信(1838-1922)等が著名である。

[31]佐賀城 鯱の門
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[32]佐賀城三の丸(美術館側)から本丸遠望
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 石垣の向こうに見える屋根が、佐賀城本丸歴史館の屋根。

[33]佐賀城本丸歴史館西門
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 11時30分 佐賀城(県立美術館)発→〔一般道〕→〔長崎自動車道〕→〔厳木多久有料道路〕→〔唐津街道〕→〔北西へ54km/1時間15分〕

【唐津城】12時45分着
《唐津城の歴史》
 1595(文禄04)年 豊臣秀吉の家臣・寺沢広高(1563-1633)が当地に入封
 1699(慶長05)年 関ヶ原の戦では東軍方に就き、肥後国天草郡4万石を加増、12万3千石(外様大名)
 1602(慶長07)年 築城開始
 1608(慶長13)年 に完成〔廃城 名護屋城の石材を使用/九州各地の諸大名の助力を得て築城〕
         本丸には天守台しかなく、天主閣は建築されなかった
         広高の子の堅高(かたたか(1609-47))は、島原の乱(1637-38年)勃発の責任を取らされ天草領4万石は没収
 1638(寛永15)年 島原藩主の松浦勝家(1597-1638)は、島原の乱の責任に拠り、切腹でなく斬首された
         (‥江戸時代の大名で斬首となったのはこの1例のみ‥)
 1647(正保04)年 寺沢堅高は江戸藩邸で自殺、嗣子がなく寺沢家は断絶〔その後、一時 天領〕
 1649(慶安02)年 播磨国明石城主 大久保忠職(ただもと(1604-70))が8万3千石で入封
         〔忠職は、初代小田原城藩主大久保忠隣(1553-1628)の嫡孫〕
 1678(延宝06)年 大久保忠隣の孫で忠職の養子 忠朝(1632-1712)が下総国佐倉城に転封
         同地より大給松平乗久(のりひさ)が入封
 1691(元禄04)年 乗久の嫡孫(→乗春→)乗邑(のりさと)が志摩国鳥羽城に転封
         同地より土井利益(とします(1650-1713))が入封
 1762(宝暦12)年 土井利益の(→利実→(養子)利延→(利延の弟で養子の))利里が下総国古河城に転封
         三河国岡崎城より水野忠任(ただとう(1734-1812))が入封
 1817(文化14)年 忠任(→(養子)忠鼎→忠光→(忠鼎の嫡孫の))忠邦(1794-1851)遠江国浜松城に転封
         陸奥国棚倉城より小笠原長昌(1796-1823)が入封
 1871(明治04)年 廃藩置県で廃城となる迄、小笠原氏が5代続いた
 1966(昭和41)年 慶長期の様式で建築された模擬天主が建築された

[34]唐津城への正面登り口の石段にて
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[35]唐津城模擬天守閣前にて
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[36]唐津城天主閣最上階より唐津湾遠望
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 写真[34]はほぼ北向きの景色である。
 因みに、目には見えないが、向かって左手前方50㎞で「壱岐」→ 150kmで「対馬」→250km程で韓国「釜山」である。
 唐津の人々にとっては、広島市へ行くより隣国韓国の釜山市の方が距離的に近いのである。
 唐津城登り口脇に陶器の唐津焼きを売っていたので記念に買った。
 因みに、陶磁器のことを、近畿以東の人は「瀬戸物(せともの)」と言う様に、中国・四国・九州の人は「唐津物(からつもの)」と言う、と唐津城内の案内で知った。

 13時30分 唐津城発→〔一般道〕→〔厳木多久有料道路〕→〔長崎自動車道〕→〔一般道〕→〔南へ112㎞/2時間10分〕

【オランダ坂】15時40分着
 以下に、案内看板から一部引用する。
 かつて長崎の人々は、出島に住むオランダ人の影響から開国後も東洋人以外の外国人を「オランダさん」と呼んでいた。
 そして、その「オランダさんが通る坂」という意味で、居留地の石畳の坂を一般に「オランダ坂」と呼んだ。

[37]オランダ坂
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[38]オランダ坂の案内看板
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 15時50分 オランダ坂発 →〔一般道〕→〔北東へ2.2㎞/7分〕

【眼鏡橋】=【重文】=15時55分着
 長崎市の中島川に架かる石造二連アーチ橋を眼鏡橋(めがねばし)という。
 1634(寛永11)年 僧侶 黙子如定(もくすにょじょう)が架橋。
 〔全長22m/幅3.65m/川面迄の高さ5.46m〕

[39]眼鏡橋
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 16時05分 眼鏡橋発→〔一般道〕→〔南西へ2km/7分〕→〔グラバー園・大浦天主堂下駐車場〕

【大浦天主堂】16時20分着
 1862(文久02)年 France Catholic 神父で、日本布教総責任者ジラ―ル神父(1821-67)が横浜天主堂を建設
 1865(慶応元)年 ジラ―ル神父の命を受けたヒューレ神父は途中で死去、その後を継いだプティジャン神父が大浦天主堂を建設

[40]【国宝】大浦天主堂
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[41]大浦天主堂をbackに
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 16時30分 大浦天主堂発 →〔徒歩 70m/2分〕

【グラバー園】16時30分着
 グラバー園は、1859(安政06)年 長崎開港後に長崎に来住した英国商人Thomas Blake Glover(1838-1911)の屋敷に、Frederick Ringer(1838-1907)、William John Alt(生没年不詳)二つの旧邸を加えた(‥3邸はいずれも【重文】に指定‥)敷地に、長崎市内に残っていた歴史的建造物を移築展示した文化施設群となっている。

※ Thomas Blake Glover 略歴 ※
 1838年 Gloverは、英国Scotlandに生まれる
 1859年 上海へ渡り「ジャーディン・マセソン商会」入社/09月 開港後間もない長崎に来住
 1861年 05月 「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店『グラバー商会』を設立
     討幕派・佐幕派を問わず、武器・弾薬を販売
     坂本龍馬の亀山社中とも取引を行ない、薩摩・長州藩の藩士の海外留学・渡航の手引きも行なった
 1868年 肥前(佐賀)藩との合弁で、高島炭鉱開発に着手
 1870年 Glover商会は破産するが、Glover自身は高島炭鉱(官営)の実質的経営者として日本に残留した
 1881年 三菱の岩崎弥太郎(1835-85)が高島炭鉱を買収後Gloverは所長として経営に携わった
 1908年 勲二等旭日重光章受章
 1911年 死去〔長崎市坂本国際墓地に埋葬〕

[42]【世界文化遺産/重文】旧グラバー邸
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[43]「三浦環像」前広場の(Beer) Garden Café
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 この日はこのBeer Garden Caféにて『GLOVER'S NIGHT』の事前予約していたのだが、写真をご覧の通りの雨天となり中止となった。

[44]【重文】旧リンガ―住宅のterraceから長崎港をbackに
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 17時45分 グラバー園発→〔一般道〕→〔北へ2.3㎞/15分〕
 内山田洋とクールファイブの1969年のヒット曲『長崎は今日も雨だった』の通り、長崎は雨に見舞われた。
 グラバー園の旧リンガ―住宅のterraceから眺めた雨に煙る長崎港も中々風情があって良かった。
 旧グラバー邸は建物の中に入らなかったが、旧リンガ―住宅、旧オルト住宅、旧三菱第2ドックハウスは建物内部を見学した。
 最後に、長崎伝統芸能館を見学して、グラバー園を後にして、三日目の宿泊地のJR九州ホテル長崎へ向かった。

 17時20分 グラバー園・大浦天主堂下駐車場発→〔一般道〕→〔北へ2.5km/混雑渋滞につき30分〕

【JR九州ホテル長崎】18時00分着〔宿泊地〕
 夕食なしでHotelを予約してあったので、Hotelのfrontで推薦された店へ雨の中を駅前の pedestrian deck を歩いて行った。
 処が「本日臨時休業」となっていたので、仕方なく、Hotelに戻り、5FのRestaurant街の中華料理店で「長崎ちゃんぽん」を食べた。
 なかなか美味であった。

[45]夕食で食した「長崎ちゃんぽん」
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《四日目(09月18日(日))》
 08時15分 JR九州ホテル長崎発 →〔一般道〕→〔北へ3.3km/10分〕→

【長崎市平和公園】08時25分着
 平和記念像は、我々が生まれた年の昭和30年08月08日に除幕式が執り行われた。
 高さ9.7m、重量30t、青銅製
 昭和20年08月09日午前11時02分、code name「Fat Man」が投下された。
 長崎市の人口(当時)24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡し、建物は約36%が全焼又は全半壊した。

[46]平和公園 平和記念像の前にて
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 08時35分 平和公園発 →〔一般道〕→〔南へ500m/05分〕→

【長崎市原爆資料館】08時40分着
 09月10日の広島原爆ドーム&平和記念公園と今回(09月18日)の長崎原爆資料館の見学‥。
 僅か8日間で、日本、いや世界に2つしかない原爆の悲惨さを記録した資料館を視察出来たことは運命めいたものを感じた。
 そして、見学を終えて感じたことは、「戦争や核兵器使用は絶対に行なってはならない」と言うことだ。

[47]長崎原爆資料館正面
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 09時10分 長崎原爆資料館発→〔一般道〕→〔北東へ700m/05分〕

【浦上天主堂】09時15分着
 時間がなかったので実際の入館は諦め、車中から天主堂の正面を撮影。

 1879(明治12)年 浦上に小聖堂を建設
 1895(明治28)年 02月 大聖堂起工式を挙行(完成迄に19年を要した)
 1914(大正03)年 03月17日 浦上天主堂が完成、献堂式を挙行
 1945(昭和20)年 08月09日 長崎へ原爆投下/爆心地から至近距離に在り原形を留めぬ迄に破壊
 1952(昭和27)年 水原秋櫻子(1892-1981)が浦上天主堂を訪れ、その惨状を見て以下の2句(昭和27年作『殘鐘』所収)を詠んだ
 「水原秋櫻子自選自解句集」から「麥秋の‥」の句について秋櫻子自身が心境を語った解説文を以下に記す。

 ※ ※ ※

  麥秋の 中なるが悲し 聖廢墟(せいはいきょ)
   季語:「麦秋」‥夏

 午後、浦上天主堂の跡に行く。
 原爆の爆心地でもあるし、当日の様子を〔中略〕聞いていたので、行き着かぬうちから身が引き締まる感じであった。
 〔中略〕
 不思議なことに、「聖廢墟」という言葉が、その(‥何かの展覧会で見た浦上天主堂の残壁の‥)写真を見つつ心に浮かんだ。
 廃墟は麦秋の畑に取り囲まれていた。
 長崎には丘が多く、此処も直ぐ後ろが丘になっていたが、その丘も又麦秋の畑であった。
 麦は意外な程に伸びて色付いている。
 その代赭(注)に近い色と、大きく裂け残った煉瓦壁の色とが照応して、凄惨な感じで心に迫って来た。
 もし周囲が麦秋の畑でなかったなら、これ程の凄惨さはなかったかもしれぬ。
 私はこの麦秋の色を頭に刻み付けておき、暫く後になってから、句を纏め上げた。
 ※(注)代赭(たいしゃ):赤鉄鉱の塊で、褐色を帯びたくすんだ黄赤色を「代赭色」という

 秋櫻子は、次の句についても以下の様に述べている。

  鐘樓落ち 麥秋に鐘を 殘しける

 〔前略〕前句と共に、これは長崎で読んだもののうち、長く残して置きたい部に入るのだが、作者としては、すらすら出来ただけに、この方が無難の様に思われる。
 句集の名の『残鐘』もこの句からとったのである。

 ※ ※ ※

 1959(昭和34)年 11月01日 浦上教会が再建され、現在に至る

[48]浦上天主堂
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 09時17分 浦上天主堂発→〔一般道〕→ 長崎多良見IC〔長崎自動車道 109km〕→ 鳥栖JCT →〔九州自動車道 16km〕→ 大宰府IC →〔福岡高速2号大宰府線 5km〕→ 月隈JCT →〔福岡高速環状線 11km〕→ 天神北 →〔一般道〕→〔北東へ157km/2時間15分〕

【福岡市美術館】11時45分着
 美術館駐車場から美術館に至る外壁に「福岡市美術館は2016年9月から2019年3月まで休館いたします」と書かれてあった。

[49]福岡市美術館 外観〔休館中〕
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 11時45分 福岡市美術館(駐車場)発 →〔東へ徒歩 100m/2分〕→

【福岡城跡/天守台】12時00分着
 福岡市美術館駐車場から東を見ると、福岡城の石垣が見える。
 福岡城は、黒田家が幕府に遠慮して、天守閣を最初から造らなかったが、天守台はあるので、是非見てみたかった。
 駐車場から歩いて10分弱程で天守台に着いた。

《福岡藩の歴史》
 福岡藩は、筑前国のほぼ全域を領有した大藩で、筑前藩とも呼ばれる。
 1600(慶長05)年 関ヶ原の戦の功により、小早川秀秋(1582-1602)に代わり、豊前国中津藩主の黒田長政(1568-1623)が、筑前一国52万3千余石の領主になり、明治維新迄、黒田家が12代続いた。
 1623(元和09)年 2代藩主 忠之(1602-54)は、父 長政の遺言により弟(長政の三男)長興に筑前秋月藩5万石、(同じく四男)高政に筑前直方藩4万石を分知され、主家の福岡藩は、43万3千余石となった。
 1720(享保05)年 直方藩は嗣子なく廃藩となり、所領は福岡藩に還付された。

[50]福岡城天守台
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 12時35分 福岡城(=福岡市美術館駐車場)発→〔一般道〕→〔西北西へ3.3㎞/15分〕

【福岡市博物館】12時55分着
 当館への訪問目的は、『漢倭奴国王』の金印を実際に見てみたかったからだ。
 現物を見て創造していた通りの大きさと輝きだった。

[51]福岡市博物館 正面
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[52]「漢委奴国王」金印01
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[53]「漢委奴国王」金印02
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 13時30分 福岡市博物館発→〔一般道〕→〔福岡高速環状線13km〕→ 月隈JCT →〔福岡高速2号大宰府線 5.5km〕→〔国道3号線 5km〕→〔一般道〕→〔南東へ25km/50分〕

【太宰府天満宮】14時30分着
 当神社は、所在は福岡県太宰府市。
 旧社格は官幣中社〔現在:神社本庁の別表神社〕。
 菅原道真(845-903)の廟所に、彼を祭神として祀る天満宮の一つ。
 京都 北野天満宮と共に全国天満宮の総本社。

 今回の中&北九州旅行で、初日に訪れた宇佐神宮と共に、是非参詣したかった神社であった。
 実現出来てとても嬉しい。
 訪れた時は、生憎の雨天だったが、本殿前では新式の結婚式が執り行われていた。
 新郎新婦も雨の中でさぞ大変だったことだろう。

[54]太宰府天満宮 本殿前にて
 54

 14時50分 太宰府天満宮発→〔一般道〕→〔国道3号線 3.5km〕→ 大宰府IC →〔九州自動車道 62km〕→ 大谷JCT→〔北九州高速4号線 6.5km〕→ 柴川JCT →〔北九州高速1号線 2km〕→ 大手町 →〔一般道〕→〔北東へ78km/1時間30分〕

【小倉城】16時30分着
 1587(天正15)年 豊臣秀吉の家臣 森勝信(?-1611)が豊前国小倉6万石で小倉城に入城
         秀吉は、以後、毛利氏の姓を名乗た〔毛利勝信・勝永父子は関ヶ原の戦で西軍に付き改易に〕
 1600(慶長05)年 関ヶ原の戦の功に拠り細川忠興が、初め豊前国中津城に入城
 1602(慶長07)年 小倉城を7年かけ改築、居城とした
 1632(寛永09)年 細川忠興の嫡子忠常が肥後国に転封後、播磨国から譜代・小笠原忠真(1596-1667)が15万石で小倉城に入城
         以後、明治維新迄10代、小笠原氏が小倉藩藩主となる
 1837(天保08)年 本丸御殿・天守を焼失、以後天守は再建されず
 1866(慶応02)年 第二次長州征伐で小倉藩と長州藩が戦い、長州藩に敗れる
 1867(慶応03)年 長州藩と小倉藩で和平が成立

[55]小倉城天守閣前にて
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 小倉城内に「北九州市立 松本清張記念館」があるので立ち寄った。

【松本清張記念館】17時10分着
 松本清張は、1909年、此処 福岡県企救郡板櫃村(現 北九州市小倉北区)に生まれ、1992年東京にて死去。
 彼については、彼の作品についても併せて、また日を改めて論じてみたいと思っているので、今回はこれ以上触れない。

[56]松本清張記念館 正面
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[57]館内に再現された松本清張宅の書斎
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 17時50分 松本清張記念館発→〔一般道〕→〔北東へ1.4km/10分〕

【JR九州ホテル小倉】18時00分着
 18時55分 Hotel発→〔taxi 5分〕→

【もつ鍋 食事処/こらぁ源(げん) 総本店】19時00分着

 名物「もつ鍋」を生まれて初めて食した。
 なかなか美味であった。

[58]店自慢の「もつ鍋」
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《五日目(=最終日(09月18日(日)))》
 07時50分 JR九州ホテル小倉発 →〔東へ772km/8時間40分(途中、東広島市「小谷SA」にて40分の休憩)〕→ 16時30分 帰宅

 四泊五日の中北九州旅行も無事終了した。
 総走行距離は、2,402kmに達した。

【後記】昨日09月30日(金) 午後6時半から、豊橋市内のロシア料理「バイカル」にて時習26回生のミニ同期会を開催した。
 中嶋良行君【3-2】の提唱で、宮下公一君【3-4】、林恭子さん【3-4】と小生の4人組の集いである。
 今回は、09月24日に61歳の誕生日を迎えた小生と、10月16日に同じく誕生日を迎える宮下君の誕生祝いを中嶋君と林さんが祝ってくれた。
 同期の気の置けない仲間達との楽しい集いは、ホント、いいものですネ!

[59]露西亜料理「バイカル」にて
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 ではまた‥。(了)

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